デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
2節 女子教育
3款 其他 1. 明治女学校
■綱文

第26巻 p.919-922(DK260172k) ページ画像

明治18年9月(1885年)

是月明治女学校創立ニ際シ、栄一其ノ趣旨ニ賛シ、出資シテ之ヲ援ク。


■資料

青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第六二五頁 明治三三年二月刊(DK260172k-0001)
第26巻 p.919 ページ画像

青淵先生六十年史 竜門社編  第二巻・第六二五頁 明治三三年二月刊
 ○第五十八章 公益及公共事業
    第十節 女子教育奨励会
○上略
青淵先生女子教育ノ為メ尽ス所少ナカラス、明治十八年明治女学校 ○中略 創立ノ際ニハ資ヲ出シテ補助ス ○下略



〔参考〕東京日日新聞 第四一三八号 明治一八年九月一一日 ○明治女学校(DK260172k-0002)
第26巻 p.919 ページ画像

東京日日新聞  第四一三八号 明治一八年九月一一日
○明治女学校 麹町区飯田町一丁目七番地に設くる同校は津田うめ・植村きの・富井くら・人見ぎん・木村くら・木村熊二・植村正久等の人々が発起して設けたるものにして、英語を主とし之に和漢文を交へたる高等普通科を教授する由にて、此程中より生徒を募集に着手したるが、志願人の申込は来る十五日を限らるゝ由、又教員の諸氏は何れも学校基礎鞏固なるまでは、実費仕払にて授業に従事すると云ふ



〔参考〕東京日日新聞 第四六二六号 明治二〇年四月一四日 ○明治女学校(DK260172k-0003)
第26巻 p.919 ページ画像

東京日日新聞  第四六二六号 明治二〇年四月一四日
○明治女学校 木村熊二氏が校長となり、島田三郎・田口卯吉の両氏が議員となりて、専ら淑雅の女子を養成せらるゝ九段坂下の明治女学校は、近来益々隆盛に赴けり、因て従来洋婦人二名・本邦女教師五名にて教授したるを、此度更にハルリス氏を語学教師に増聘し、尚ほ同女学雑誌社の巌本善治氏に教頭の任を托し、且つ上村すゑの・伊藤まさ・香坂とらの三女教師をも加へ、教科書籍をも多少改正ありしに付き、此度定期試験後の入校生を広く募集せらるゝ趣なり、又大隈重信君にも自今毎年百円づゝを同校へ寄附せらるゝやに聞けり



〔参考〕郵便報知新聞 第四四三〇号 明治二〇年一一月六日 ○明治女学校の献堂式(DK260172k-0004)
第26巻 p.919-920 ページ画像

郵便報知新聞  第四四三〇号 明治二〇年一一月六日
○明治女学校の献堂式 同校にては今度新築落成せしを以て、昨日午後二時より内外の淑女紳士百数十名を招待して献堂式(新築の学校を天帝に献ずるの意)を執行せり、其の次第は、唱歌(つばめの曲)・祈祷(小崎弘道)・演辞(校長木村熊二)・献堂祈祷(教頭岩本善治)・演説(本校議員田口卯吉)・祝辞(植村正久・教授ハルリス)・和琴(生徒豊島忠子・喜多島てい子)・祝文(生徒太田きん子)・唱歌(鳥居忱氏作本校の歌)・祝文(豊島忠子)・奏楽(和琴バイヲリン合奏)(語
 - 第26巻 p.920 -ページ画像 
学教師青木まさ子・音楽教師甲田のふ子)・英文朗唱(生徒伴よし子同久野しげ子)・和琴(生徒南摩まき子)・祝寿(教授ハルリス)にて其の間間には奏楽唱歌の催ふしあり、式全く畢りしは四時三十分にて、夫より来賓に茶菓の饗応ありし、又同校建築の模様は木造西洋風の二階建にして、楼下に教場・食堂・接客所・教員室(何れも椅子腰掛を用る西洋風なり)及ひ浴場・洗梳所を設け、楼上には生徒の寝室(日本風にて畳を敷けり)十五室(一室に六人を容る)・教員室・取締室・及ひ準備室各々一間つゝと、外に共楽室とて生徒の打ち集ひて談話する室の設けあり、高燥の地にして眺望頗る宜く、殊に衛生上の事に注意して空気の流通をよくする等、注意到らさる所なし、生徒の現数は百七十余名なるか、校舎の整ふ上は益々盛大に至るへし



〔参考〕報知新聞 第一一四一七号 明治四二年一月一一日 ○明治女学校を葬る(女子教育界の不祥事)(DK260172k-0005)
第26巻 p.920 ページ画像

報知新聞  第一一四一七号 明治四二年一月一一日
    ○明治女学校を葬る
        (女子教育界の不祥事)
府下巣鴨庚申塚なる明治女学校は、明治十八年中故木村鐙子等によりて創設され、其後女史の遠逝に次ぎて巌本善治氏専ら経営の衝に膺り多年基督教主義の下に幾多の才媛淑女を養成したるが、去卅九年一月中巌本氏の手を離れ、呉医学博士・令嬢久美子を首め、小此木忠七郎福迫亀太郎・青柳猛(有美氏)・湯谷磋一郎の六氏によりて専ら維持の労を執り、更に元良博士・三宅博士・小此木ドクトル・坪井(正五郎)呉・元良の三博士、外呉文聡・小波山人氏等の助力にて命脈を保ち居たるが、巌本氏の声価と共に既に不治の難病に罹れる同校は、最早奈何ともする能はず、漸次衰頽に赴き、竟に旧臘廿五日に至り廃校するの止なきに至れり、如上の履歴を有する同校は、前後廿五年間に幾多の才媛を出せる中に、三島博士夫人千代槌(三十七)・福来博士夫人たつ子(二十八)・大塚文学博士夫人楠緒子(三十五)・木下医学博士夫人やす子(三十四)等の諸夫人を首め、閨秀文学者野上八重子・佐々木雪子(信綱氏夫人)・岸本りう子・羽仁もと子・煙山文学士夫人八重子等と相前後して同校にありしものなるが、兎に角同校今回の訃音は都下女学界の為め洵に傷ましき事なり



〔参考〕婦人界三十五年 福島四郎著 第二六三―二六五頁 昭和一〇年五月刊(DK260172k-0006)
第26巻 p.920-922 ページ画像

婦人界三十五年 福島四郎著  第二六三―二六五頁 昭和一〇年五月刊
 ○第三編 女子教育及青年指導
    一、女学校及女教員
      明治女学校を弔ふ
 巌本善治氏の経営せし明治女学校廃校せんとす。或は巌本氏以外の人の手によりて、校名を継続するに至らんも知るべからざれど、其の暁は、全く性質の一変したる女学校に化し去ること明らかなれば、彼の、特殊の色彩を放ちたりし明治女学校は、巌本氏一派の人々の手を離るゝと同時に、事実に於て滅亡するものといはざるべからず。吾等は之を聞いて、感慨無量、さながら維新の一元勲が他界せりとの報に接したる心持して、撫然たらずんばあらざるなり。
 幾多新進の士が輩出して、各方面に活動せる今日、維新の元勲が存
 - 第26巻 p.921 -ページ画像 
在すると否とは、わが国家にとりて何等の影響なかるべし。而も、風雲を叱陀して、雷霆を驚かし、維新改革の天運を呼び起したる彼が壮年時代の勲功を思へば、吾等は、その最後に際して、敬悼の誠意を表せざるべからず。明治女学校の存在すると否とは、今日のわが女子教育界にとりて、事実上何等の影響なしと雖も、二十年前の彼が勲功を追思せば、社会は決して、此の校の廃滅を見ること、然く冷淡なるべからざる筈なり。
 顧みれば明治十八年、九段坂下の門長屋に明治女学校の看板の掲げられし際、わが女子教育界は、たゞ一個の官立竹橋女学校(今の東京女子高等師範の前身)を除く外、悉く外国宣教師の手に支配せられ、会堂に於ける宗教的形式は、すべて各女学校に強行せられ、女子教育をして効果あらしめんが為め基督教を用ふるに非ずして、基督教を弘布せんが為め女子教育を施すものなりき。この、教育上より見たる主客の顛倒を慨して明治女学校は設立せられたるなり。故に巌本氏其他同校の設立者は、悉く基督教の信者なれども、礼拝其他の宗教的儀式は、全く学校に於て行はざりき。其の目的とする所は、基督教的精神を以て、日本固有の女徳を磨かんとするにありき。日本の女子教育を本位とし、基督教を方便として用ふるにありき。これ実に、当時にありては驚くべき卓見にして、わが女子教育界の自覚を促す警鐘なりき
 明治初年以来、わが民間の女子教育は、外国宣教師の専売特許たる観ありて、教育を受けたる日本婦人は悉く西洋化し、基督教化し去らんとする際、武士道精神を鼓吹し、和魂洋才主義により、一方には女学雑誌を以て盛に社会の覚醒を促し、一方には番町の新校舎に於て、親しく訓育の業に当る。当時の明治女学校は、実に天下を風靡するの勢力を有し、当時の巌本善治氏は、実に革命軍の雄将たる慨ありき。吾等は、明治四十二年の今日、わが女子教育界が、枝葉に渉る幾多の小不満あるにもせよ、根本に於ては殆ど遺憾なきまで、日本的精神を発揮せるを見て、一部の功を巌本氏に帰するの、決して不当にあらざるを信ず。此の光輝ある歴史を有する明治女学校が、廃校の運命に遭遇するに至りし理由は如何。一は社会の変遷なり、二は明治廿八年の火災なり、三は巌本氏夫人の永眠なり。社会の変遷といふは、万事が経済的となりたることなり。いかに善美なる目的を有し、いかに熱心に経営するも、経済的基礎を固むるに非ずんば、いかなる事業も成立せざるに至れり。無論往時に於ても、事業経営の上に経済が主要の要素たりしには相違なしと云へども、封建時代の遺風によりて、教育事業の如きは、全く精神のみによりて尚存続し得る余地ありしに、今や金貸業者が教師を雇うて学問を売るに至り、真の教育を施さんとするものは、之と競争せざるべからざる位置に立ち、而して、教育家にしてこの経済的手腕を兼ぬるもの少き為め、屡々圧倒せらるゝに至りしなり。巌本氏は勿論経済の人にあらず、世が経済的となるに反比例して、明治女学校が衰微を来すは、免るべからざる勢なり。而も、巌本氏と雖も、豈経済上の常識なからんや。第二の理由たる火災の大難なからしめば、恐らくは東京の中心たる番町の校舎は、今尚当年の異彩を失はざりしならん。明治廿八年二月四日の火は、単に明治女学校の
 - 第26巻 p.922 -ページ画像 
校舎を焼失せしめたるのみならず、其の存続に致命傷を与へたりといふべきなり。然れども、校舎は再築の望なきにあらず、悲むべき第三の理由なくば、巣鴨庚申塚の現位置に於て、明治女学校は尚斯界の一雄鎮たるべかりしならんを。火災後僅か一週日にして、賢夫人嘉志子女史(別号若松賤子)の永眠したる事は、巌本氏にとりて真に絶大の打撃なりき。氏は一週日間に、十年経営の学校と、百年を契れる夫人とを共に失ひぬ。三百の生徒は、学ぶに所なくして外に叫び、三人の遺児は、抱かるゝ母を失うて内に泣く。此時の心情を想察する毎に、吾等は同情の涙禁めんとして、禁むる能はず、今も尚此の原稿紙を湿しぬ。而も、此の絶大なる内外の打撃をすらも、尚神の試みなりと信じて、氏は元気を沮喪する事なく、東奔西走、一年余にして巣鴨の現校舎を建設し、新なる方面に於て女子教育に貢献せんとしたれども社会は既に変遷せり。内助者はなくして却つて幼児を顧みざるべからざる煩あり。明治女学校は徒らに形骸を復帰したるに止まりて、精神的に復活すること能はざりき、哀しい哉。
 最近両三年、巌本氏は少からず世の非難を受く。其の間には、氏の過失もあり、他の誤伝もあり、中傷の毒説も混ぜるが如し。而して其のこゝに至りたる主因が、明治女学校の経済的維持に苦めらるゝ為めなる事情を知了する吾等は、私に同情を禁ずる能はざるなり。
 あはれ、昨は女子教育界の別天地之観じたりし庚申塚の櫟林、風空しく吹き、寒鴉頻に飛びて、光輝ある歴史を有する女学校の末路を弔ふに似たり。(明治四二・一・二二)
○下略