デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
3節 其他ノ教育
16款 其他 13. 韓国各地居留民教育施設
■綱文

第27巻 p.227-231(DK270085k) ページ画像

明治39年2月15日(1906年)

是ヨリ先明治三十四年二月、栄一、木浦日本居留民教育費トシテ金一百円ヲ寄附シ、其賞トシテ是日内閣ヨリ木杯一組ヲ下賜セラル。


■資料

青淵先生公私履歴台帳(DK270085k-0001)
第27巻 p.227-228 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳         (渋沢子爵家所蔵)
 - 第27巻 p.228 -ページ画像 
    賞典
同 ○明治卅九年二月十五日 明治三十四年二月、韓国木浦日本居留民教育費金百円寄附候段奇特ニ付為其賞木杯壱組下賜候事              同 ○賞勲局総裁
   ○明治三十三年栄一渡韓ノ途次、十一月廿七日木浦ニ寄港上陸シタルモ、小学校見学ノ事実無カリシコトハ八十島親徳稿『韓国旅行日誌』同日ノ条ニ「此地ニハ本願寺出張所及小学校ノ設ケモアリト」トノミ記セルニ拠ルモ之ヲ推知シ得。



〔参考〕韓国総覧 徳永勲美著 第三一二―三一三頁 明治四〇年八月刊(DK270085k-0002)
第27巻 p.228 ページ画像

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〔参考〕木浦誌 同編纂会編 第一九―一九八頁 大正三年二月刊(DK270085k-0003)
第27巻 p.228-231 ページ画像

木浦誌 同編纂会編  第一九―一九八頁 大正三年二月刊
 ○第五編 教育宗教及新聞紙
    第一章 初等教育
 東本願寺の小学校経営 開港草創居留民は未だ教育事業に顧慮を払ふの余力なき時に当り、明治三十一年四月京都東本願寺は西山覚流師を派して支院を開き、帝国領事館用地の一部、即ち今の三原模範場技師官舎の処を借りて仮寺院を建て、西山氏自ら子弟を集めて教授せしが、釜山・仁川・京城・元山等旧開港地に於ける同寺支院の先例に準じ、日本居留民会と協議を経て、同年十一月十二日帝国領事より木浦尋常高等小学校設立の認可を受け、同月十六日より開校せり、これ木浦に於ける内地人小学教育の起源にして、教室には同支院本堂、即ち仏間の二室及び庫裡玄関口の一室を以て之に充て、西山師自ら校主として訓導一名・代用教員一名を置き、児童四十二名を二学級に編制し更に明治三十二年十月、学齢未満の児童をも幼稚科と称して幼稚園的に収容したるが、幼稚科は後ち之を廃止したり。
 帝国領事は該学校設立を認可するの条件として、日本居留民会及び帝国領事館の監督を受くべきことを命じたる結果、居留民会長(領事久水三郎氏)は、民会議員中の白井朴・谷垣嘉市・荒井徳一の三氏を
 - 第27巻 p.229 -ページ画像 
学務委員に指名し、学校万般のことは該委員に於て監督乃至斡旋の衝
に当りたり。
 小学校に於ては其後児童保護者総代を推選して、平岡寅治郎、谷垣嘉市・河村織太郎・小林伝次郎の諸氏之に当りたるが(其後総代に異動あり)総代は未だ女児の為に裁縫科の設置なきを遺憾とし、裁縫科設置費及教員俸給一ケ年度分の概算額を、女生徒を出せる保護者の寄附に仰ぎ、之を同校に寄贈して、明治三十三年二月裁縫科代用教員一名を採用し、本科十六名・専科四名に教授を始めたり。
 東本願寺支院に於ては、居留民の増加に伴ひ自然教室の狭隘を感ずるに至りたるのみならず、寺院内にて児童を教育するは、其本意に非ざるより、校主西山師は本山との交渉を纏め、本山の費用を以て校舎の建築を計画し、明治三十二年に壱棟三十二坪余を、三十四年に二棟六拾坪余を、現今小学校敷地内B第三一号地、即ち大正二年に竣成したる新築校舎の位置に建築せり。
 学校設立当初に於ける学務委員の意見は、居留民は自ら未だ学校を経営するの余力なきを以て、東本願寺の好意に至りては衷心より深く之を感謝する所なかるべからず、然れども同寺本山の財政は、毎年度の予算を幹部に於て議決するの制度なれば、今より予め其経営年数の保障を得ること能はざるの事情あり、又其保障を得たりとて何時までも同寺の好意に甘んずるは居留民の面目に非ず、且つ当時本願寺の財政は甚だ多端にして、切りに其整理を行はれつゝあるの場合にもあり恁くて若し一朝都合により木浦教育費を否決せらるゝが如きことあらん乎、其際居留民は突然之を継承するの準備なき為め、一時廃校して児童を休学せしむるの止むを得ざるなきを保せず、此の如きは啻に木浦在留民の為に採らざる所なるのみならず、亦た木浦在留民の不面目なり、須らく本願寺が居留民に便宜を与へつゝある其間に於て、居留民は一日も早く之を継承するの準備なかるべからずといふに在りて、居留民会は即ち此意見を大体に於て採用せり。
 左れば居留民会は其経費の許す限り、第一教員を民会にて聘用し、第二民会に於て器具・器械を取揃へ、第三民会に於て本願寺の建築したる校舎を譲受くるの順序を以て漸次其方針を進め、殊に明治三十二年、本願寺が校舎を新築するに当り、既に其敷地(今の小学校敷地の内B第三一号)を本願寺の経費を以て購入せるに拘らず、民会に於て特に之を譲受け、民会所有の敷地上に本願寺をして、校舎の建築を為さしめたるが如き、以て民会が予め用意の存したる所を知るに足るべし、而して此敷地こそ今の学校の位置が此方面に確定したる基礎なりし也、且つ本願寺は既に校舎を新築したりと雖も、器具・器械に至りては当時本願寺に予算なき為め、民会も亦た経費多端なりしが故に、三十三年十月森川領事・高根民会理事・西川商業会議所会頭の三氏発起と為り、児童保護者総代の応援を得て有志者より寄附金四百余円を募り、掛図・博物標本・体操器械其他校具購入費として之を本願寺に寄贈したる等、種々なる方法に依りて、学校設立以来校舎全部落成の三十二年まで三ケ年間に民会が学校に対して醵出したる金額は壱千六百四拾六円に達したり。
 - 第27巻 p.230 -ページ画像 
 居留民の学校経営 斯くて明治三十四年には、居留民の数九百四十名内外、学校児童数六十七名に達し、之を三学級に編制したるが、此年十一月二十七日、居留民会は臨時会を開きて三十五年一月一日以降小学校を民会の事業として経営すべく可決し、此次第を交渉したるに東本願寺本山に於ても亦た直に之を快諾せしのみならず、校舎其他一切の設備を無償にて民会に寄贈せり、依て居留民は、本願寺多年の好意に報ゆる意味を以て、木浦支院の為に木浦崇教協会と称し、殆ど居留民を網羅したる宗教団体を組織し、毎月会費を出して同支院の維持費を助成し、今尚ほ該会は存続せり。
 学校内部の改善進歩 於玆、民会は釜山小学校訓導戸川真管氏を校長として聘用し、三十五年一月二十二日就任と同時に西山前校主は引退し、代用教員男一名・女一名(裁縫教師)は勤続し、翌二月一日を以て領事森川季四郎氏立会の上、民会と本願寺との間に学校授受の式を挙げたり。
○中略
 明治三十四年頃の小学校 左は日本居留民会に於て、東本願寺経営時代の明治三十四年一月に調査したる木浦小学校の情況一斑の抜抄なり、掲げて以て当時を知るの便に供す。
 一 学令児童数六十八名(三十三年十二月末現在)、内就学児童五十五名(男三四女二一)・不就学児童十三名(男六・女七)、
 一 尋常・高等の二科を置き、尋常科四個学年、高等科三個学年、計七箇学年を男女混合の三学級に編制す。
 一 教員三名、内月俸二十五円助教員一名・二十円正教員一名・十七円助教員一名とす、而して本校は現時尚ほ大谷派本願寺の所管に属し、日本居留民会に於て監督法を設け、其経費の幾分を補助し、教員の任免は本願寺に於て之を行ひ、賞罰・待遇等に就ては何等の定めなく、従来便宜増俸を行ひ、或は日本居留民会に於て年末賞与を支給する等のことあれども特に年功加俸の規定なし。
 一 教育費に就ては明治三十一年度支出額九拾参円五拾銭、経常費本願寺負担▲三十二年度支出額三千百三十九円九十二銭の内、千三百五十八円校舎建築費本願寺負担、八百四拾五円校地買収費日本居留民会負担、六百四拾円経常費本願寺負担、二百九十六円九十二銭経常費居留民会負担▲三十三年度支出額二千二百九十五円二十九銭の内、五百七十円経常費予算居留民会負担、千七円二十九銭経常費本願寺負担、三百円 法聖影奉安室建築費日本居留民寄附、四百十八円図書・器械購入費日本居留民寄附なりとす。
 一 校地千五百二十坪・校舎三十一坪五合あり、校地の内比較的平地を校舎敷地として土工を施し、切下げたる部分三百余坪、他は総て勾配急なる山腹に属し、土工を施こさずんば使用に堪へず、而して校地は日本居留民会の所有に属し、校舎は東本願寺の所有なること、前項教育費内訳の如し。
 一 授業料は毎月生徒一人に付、高等科四拾五銭・尋常科三十銭にして、三十一年度総額六十四円八拾五銭、三十二年度百六拾円九拾五銭、三十三年度百五拾円にして、別に免除すべき場合の規定
 - 第27巻 p.231 -ページ画像 
あり。
○下略