デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

5章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
4款 専修学校理財学会
■綱文

第27巻 p.348-354(DK270103k) ページ画像

明治31年3月20日(1898年)

是日栄一、当学会大会ニ臨ミ「経済社会ノ将来」ト題シ、一場ノ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第一一九号・第一―八頁 明治三一年四月 経済社会の将来(青淵先生)(DK270103k-0001)
第27巻 p.348-354 ページ画像

竜門雑誌  第一一九号・第一―八頁 明治三一年四月
    経済社会の将来 (青淵先生)
  本篇は青淵先生が理財学会に於て(演説)せられたる意見の要旨にして、言を維新以後経済界発達の沿革に起し、惹て刻下の大問題なる財政及経済上に於ける積極・消極両論者の主張を評論し、経済界の将来を卜したるものにして、時務に適切なるを以て本欄に採録することとなしたり  編者識
 諸君、今日此席に於て私は我経済界の将来に就て一言を申上げ様と考へまする、経済界と申しまするのは、一般の経済のみならず、国家の財政をも包含した意味と御聞取を願ひたうございます、而して
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斯る計数的の事を貴重なる此理財学会に於て申上ますには、夫れ夫れの調査をいたして罷出ねば相済まぬやうに考へますけれども、御承知の通りに、私は至て雑事に多忙で御座いまして、学術とか若くば演説を主とする者で御座いませぬから、左様な調査なども不行届で、申述べます事も杜撰若くは粗脱もございませうから、其辺は分けて御容赦を願ひます
偖玆に経済界の将来を申上げ様とすると、勢ひ経済界の既往を簡単に申述べねばならぬ様になりますが、日本の経済界の既往と申すものは其昔はいざ知らず、維新以後明治初年の事を回顧すると、至つて微弱なものから俄に進歩して参つたと申しても宜いやうに考へる、而して其進み行きまする有様を見ると、自から五年若くは七年と云ふやうに段楷を為して変化を惹起し、其変化が鎮静に帰すると共に又一歩を進め、其次の時期も亦同様の姿を以て進歩して居ます、其形状は恰も此席に列する少年の諸君が、毎日同じ様に成長するものではない、時に依つてはズツト成長する、さうかと思ふと、又背は伸びぬが肉が付くとか、骨が太くなるとかいふ順序を追ふて行きます、又或る場合には食傷をすることもある、之も少年の成長に免れぬと同じく、国家にも尚免れぬものと見へるです、其経歴を玆に略叙しますと、此経済社会と云ふものは始めは極く微々としたもので、銀行の成立ちもございませねば、商工業と云ふものも、見るべき程の形づくりは先づないと云つて宜い、予ても私が申て居る通り、維新前の日本の商売は殆と小売商売で、又工業は手職業に止つたと云ふ事は、今日も矢張り左様申上げねばならぬ、併し明治四年頃に新政府の大蔵省が、財政を商売人に取扱はせることにして、即ち今申す中央金庫、其時分には大蔵省の御為替御用と唱へ、又県庁の出納を取扱はすことから自然に銀行類似の業が発達しました、続いて明治五年に国立銀行之制度が出来、六年には斯く申す渋沢が、第一銀行の業務を管理するやうに相成りましたが丁度七年の冬に至りて日本の重立つた商売人の小野組が倒産して、夫までに稍や経済社会が進歩の勢を生じたのも、此小野組と云ふ取りも直さず一大銀行の破綻が経済社会に大なる頓挫を与へたけれども、其後国立銀行の制度を明治八年まで二・三年の間行つて見ましたが、金貨交換法では到底継続しがたきゆへ、明治九年に士族の禄制を改正して公債証書を発行するにより、此公債に依つて金融の便利を謀るやうにしたいと云ふことから、遂に国立銀行の紙幣交換法を政府紙幣に引直した、此制度の善悪は暫く措いて、此方法改正の為に銀行の成立が大に進んで参つた、故に八年・九年・十年と此三年の間に、明治七年に頓挫した経済社会が大に回復して、再び発達する有様になりました所が明治十年の戦争から致して政府は其費用を支弁するに窮して、前にも申した国立銀行の中、唯今も繁昌して居ります十五銀行の紙幣を発行せしめて、其紙幣を政府が借上げて、之で一時の費途に供した為めに、大に不換紙幣の高を増加して、遂に亦経済社会に大なる影響を与へた、即ち明治十二年・十三年と掛けて銀紙の差が烈しくなつて金融も商売も頗る危険の姿を生じました、折角明治八年から十年・十一年頃までに幾らか経済社会が進歩した、其進歩致すに就て、十一年頃
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の輸出入の増加若くは商売の取引なども、少しく見るべき有様になつたにも拘らず、十三年の春・夏の際には一円の銀が一円八十銭に成ると云ふ勢で、此姿では不換紙幣は遂に保ち得られまい、政府の信用は殆ど地に落ると云ふが如き体裁になりました、是に於て政府は明治十四年に不換紙幣を償却して、所謂硬貨制度に引直すと云ふ主義を定めて夫からしてどう云ふ方法を採つたかと云ふと、増発した不換紙幣は国費を減じて、務めて之を収縮する事を計られた、今の松方伯爵が大蔵大臣に任じて其事に従事されたのは、其時でありました、そこで其時の経済社会は亦大に頓挫して、十三年頃迄に紙幣の増発と共に諸事業が追々に進んで来たものが、却て収縮すると云ふ有様から勢ひ諸品の相場が下る、工賃も低くなる、百事皆沈滞の一方に傾いて参つて、十五・十六・十七・十八、此四年の間は経済社会は極く沈み居つたと云ふ時期でありました、併し此沈んで居る間に、自から夫迄に仕掛けた仕事が整理するものもありましたし、又十三年頃諸品が高直になつたに就て、一般に驕奢の風の生じたのを、此二・三年の通貨収縮・商業沈滞からして、倹約の心を強めたと云ふ一の働きで、実力は其中に増したものと見へて紙幣の価が全く回復して、とうとう明治十九年に銀紙対等と云ふまでになりました、故に十四年から四・五・六・七・八・九、と六年計りの間は、一休み休んだと云ふて宜しいが、明治十九年に紙幣を引換へると云ふことを布告しました、之は実に其時分の大蔵大臣の功績と云つて宜しいと考へて、吾々銀行者は徳を頌する書面を作りて、松方伯に上げたことがあります、そこで明治二十年頃に又商工業の発達を惹起す機会を生じた、即ち今申す四・五・六・七・八・九と云ふ五・六年仕事を休んで居つたのみならず、銀紙が対等になつた所から自から仕舞つて置いた銀が出て、世間に流通することになつて来たものと見へて、通貨の数を増し物の相場も自から高くなるのみならず、鉄道会社即ち今の日本鉄道なども、夫迄は払込みに充たぬ価格でありましたが大に其価を増し、亦其頃成立つた紡績会社が追追利益を示すやうになつて、続々会社が成立した、そこで鉄道も宜い紡績事業も宜いと云ふから、重に鉄道と紡績業を起し、其他にも種々の工業が二十年・二十一年の両年には余程烈しく成立つて参つて、所が進むと云ふと又直きと頓挫を生ずるは前に申す理由で、二十二年になると金利も引上げて来る、成立した諸事業も目的の如く利益もないのに却て其払込に制されると云ふので、追々経済社会は憂苦の有様を惹起した、二十三年に至つてとうとう大坂は殆んど恐慌といふような有様になつて、其頃日本銀行の総裁は川田小一郎氏でありましたが、大坂に於て松方大蔵大臣と共に、同地の恐慌を救はなければならぬといふて、種々の評議の末、東京から相談相手に来いといふて、私と安田善次郎氏と両人が、大坂に呼出されて参つた、其時担保品の種類を増して、日本銀行から金融を与へて貰ふといふ方法を設けました、又一方には鉄道は迚も人民の力では持ち兼るゆへ、総べて政府に買上げて貰はねば完成は出来ぬ、出来掛つた鉄道も、皆切れ々々になつて居る、国家の交通の機関は人民の力では成功し兼ねるといふが如き声が東京にも聞へたが、大坂は最も強かつた、其二十三年から二十四年に
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掛けての騒動は、此席上の御若い方々は御記憶は御座いますまいが、中々エライ事であつた、処が誠に人気はおかしなもので、其翌年の二十五年になると、翻つて何だか昨日は頭が痛かつたが今日はピンピン駆けて歩るくといふ風情、昨日はがらがら下痢をして、此様子では親類に沙汰をしやうと思つたものが、明日は何処か遊びに往つたといふ有様で、二十六年になつては金の遣り場がない、金利は下る、事業は成るべく起さなければならぬといふので、遂に政府の鉄道を民間に払下げると云て、其当時私共も払下請願書を出したことがある、去年は皆政府に買つて呉れと云つて居つて、今年はひつくり返つて皆買はうといふ、世の中のことは実に妙なものであります、偖左様に二十四年まで困難な経済社会が、二十五年・六年は、大に金融が緩るんで参つた、乍併事業には少し懲りたから、成るべく新設することは見合はしたから益々金利が下つて来た、中に突飛な連中は、斯申す渋沢も突飛仲間で、種々の事業計画の際に二十七年の戦争が始つた、二十六年・七年に亘り大に金融が緩漫で、各事業の計画がある所へどつこい待て此戦争が済む迄は何事も出来ぬといふので、皆謹んで戦争の済むことを待ち、早く勝てかし、早く都合の好くなれかしと思ふて居つた、所が誠に都合好く戦争には大勝ち、償金は取れた、遼東半島も取れた、台湾も取れたと云ふので、牡丹餅で叩かれた様な心持になつた、所が遼東半島還付の事が起つて議論家は騒く、新聞屋は書き立てる、何しろワツと云ふ騒ぎになり、恰も開かんとせし花が昨日の如く一寸気候が替りて寒くなつたと云ふ有様、然るに明治廿八年の秋頃から百事大抵平和に帰して、先づ心配がないと云ふことになりましたから、是に於て此事業熱が勃興して来たのは、ナント諸君、此時一般の人気が間違つたと云つて消極の経済論をする人もあるなれども、斯く宜い工合に身体も達者になり、運動も十分した、そこへ善ひ御馳走が来たから少々食ひ過る位は拠ろないではありませぬか、又民間の事業の俄に膨張をしたと同時に、政費は如何であるかと云ふと、此方も亦甚だ増加した、即ち二十九年の歳出入が一億九十万円、又其翌年は二億四千万円とまで進んで参りました、而して此民間の事業は殆ど竹を破るの勢を以て何事も皆進んで往つたから、玆に三十年・三十一年頃に一の頓挫を惹起すのは誠に当然の事で、此位明な道理はない、一寸私が諸会社資本計算の概略を取調べて見ましたが、此調は東京商業会議所にて出来たものでありますが、二十九年から三十年の銀行・諸会社・鉄道と云ふものゝ総体の資本が、呼高で成立したものが七億六千万円となる、大蔵省で調べたのでは九億万以上となつて居つて、其中には官設鉄道も這入つて居る、何か調べ方の違ひがあると思ひます、而して実際の払込が四億二千万円となつて居る、廿五年頃と比較すると殆ど十に対する七八の進みを以て居る、乍併之は会社成立のものから調べたので、一般に出願した高は何でも二十九年から三十年に掛けまして十四億余りに相成ると云ふ、或人の調査を承つたことがあります、之は蓋しまだ成立せぬものまでを皆加へたのと見へます、例へば今日成立はせぬけれども、台湾鉄道と云ふものは其株金高千五百万円と云つて居る、夫等の類を皆加へると十四億に進むと云ふ計数のやうに見へま
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す、何に致せ明治廿五六年の頃は総計三億八千万のものが、廿九年から卅年の調べは七億六千万円にまで進んで居りますから、殆ど倍近くに相成つたと云ふことは事実争ふべからざることである、夫れは僅に一・二年の間に進んだと云ふことも事実であるから、甚だ急激であると云はなければならぬ、此外に今申す不成立のものまで計算すると殆ど三層倍であるから、膨張と云ふことは云はれても一言もない、併し之に反して政府の方、即ち財政に属するものを見ますと、之も亦格別の膨張です、明治廿五年度の決算が歳出に於て七千六百万であつた所が、三十年度の歳出予算は二億四千三百万円、殆ど一の物が三半斗りになつた割合です、之は三十年の計算であるが、廿九年からして此政費も大に進んで参つたから、財政も経済も共に過度の進歩を為したに相違ない、故に昨年頃からして、此儘ては往けぬと云ふやうな姿を惹起したものと見へるでございます、既往の経済社会の歴史は今申述べました通りで、大略過たぬ積りでありますが、将来をどうやつて往ふと云ふのが今日の大問題で、之は独り私が大きな声をして云はぬでも如何なる人にも大問題で、如何に処置して宜いかと云ふことは、決して此席に於て一言に断案する訳には参らぬ、余程深思熟慮をいたして独り吾々経済界に居るもの、又諸君の如く学問に従事の方々のみならず、政府の人も、軍人も、それこそ坊主も、御医者も、ありとあらゆる人が、皆共に注意しなければならぬと申して宜い事柄であります、そこで此未来の措置に就いて玆に二ツの考をしなければならぬ、即ち之を積極に処して往くか、又消極に処するが宜いかといふのであります、先づ積極の論を云ふならば、元来日本の今日までの進歩と云ふものは、随分急激に進んで来て居るけれども、左様に進む丈の実力もあり、日本人の腕前と云ひ気性と云ひ、決して他国の人に恥ぢはしない斯る姿に進んで来た国柄であるから、其機会に乗じて尚進んで欧羅巴に負けぬ丈にやりつけねばならぬでないか、果して左様に考へるならば膨脹大に可なり、其膨脹を成るべく助けて事業の進め得られる丈進め、又此軍備の如きもどうぞ外国に対して恥かしくない丈の設備はしなければならぬ、経済上の困難と云ふ場合は借金しても構はぬ、外国の金を入れても敢て恥かしくない、国の実力はそれ丈発達する、国債起すべし、事業企画すべし、軍備拡張すべし、といふのである、是も決して無理な議論とは思はぬ、是非共それ丈の気性は持たなければならぬ、唯玆に一の重要なる問題がある、折角明治十四年から苦んで十九年に兌換紙幣に引直し、続いて日本銀行の制度に依つて、恰も英吉利に模倣して、貨幣制度を整理して居る場合であるが、前に述たる如く、積極に処するならば諸事業の膨脹と政費の増加とに伴つて、愈々益々諸物価が高くなつて来る、此諸物価の高くなると同時に、貿易の輸出入が不権衡になつて、既に一昨年も五千万以上の不足をした、昨年も亦其通り、斯様な姿で往くならば甚だ恐る貨幣制度の整理は出来ぬやうになりはせぬか、兌換紙幣に打歩が付くと云ふことになつたら殆ど国家の信用に係はる、此点に就いて大に恐れなければならぬ、又其際には無暗に公債を募つて外国の金を入れて宜いかと云ふと、偖外国の金を入れることを務めれば務める程物価が高くなつて、恰も逃け
 - 第27巻 p.353 -ページ画像 
る者を追掛けると云ふ風になつて、遂に逃きれぬといふ恐がある、そこで此積極論者には両手を挙げて賛成することは出来ぬ、若しも此懸念がなく往けるならば、国の力は進められる程進めて往きたい、私も其点に就いて不同意でないか、奈何せん其終局に安心をすることが出来ぬ、然らば之に反対する消極論者は如何にするかと云ふと、総ての事業を止めよ、軍備は務めて縮少せよ、政費二億五千万は以ての外の事である、速に之を節減して一億五千万位にするか宜い、諸事業は一切止めよ、航海奨励法も廃止せよと、一切銭の出ることは皆止めると云ふ処置をして往くかといふに、之は今申述た通貨法即ち兌換紙幣の処置に就ては安全に相違ないが、奈何せん是迄進み来つた日本の事業と云ふものに対しては、甚しき影響を蒙り、総て萎靡頽廃すると云ふことを予想しなければならぬ、而して日本が若し東洋に於て支那・朝鮮と三ツ並ひ唱へられて居ることを甘んずるならば、三十年来我々が是程苦心して此日本の政治に、事業に、力を入れぬでもよかつたけれども、日本の人気は決してさうでない、此処にござる諸君も其思召であろう、少くも東洋に於て商売上の中心に立ちたいと云ふ意見を持つてござるだろう、それには相応の支度がなければならぬ、即ち其支度は今日まで仕掛けて居る航海奨励法も紡績事業の発達も、銀行制度の改良も、皆其支度と云わなければならぬ、鉄道の敷設も其通りと云ふならば、是等のことが皆消極の処置に依つて廃滅する、吾々は何分拱手して見て居ることは出来ぬ、斯く考へると此消極論にも御同意申上げることとはならぬ、然らは貴様、積極は反対だ消極は不同意だと云ふて、如何なる方法があるかと云ふ御問ひか、生ずるでございませうが、凡そ事物は一方にのみ偏して考へることは出来得ないと思ふ、今申す全然積極の主義を採ることも出来ぬ、又純乎たる消極の説に依る訳にも往かない、或る部分に於ては消極を望まんならんし、又或る部分に於ては単に消極を云ふ訳に往かぬと思ふ、先づ私の希望を玆に簡単に申述べるならば、此政費と云ふものに対しては大に節減を加へて貰いたい、如何となれば此政費を二億四千万円、若くば三億万円までに増した所が、今俄に海外の強大国に対して直に優等の位地を占ると云ふことを、断定する訳には行かぬであらう、然る上はどうか不生産的の費用は成るべく節減して貰ひたい、況んや此陸軍などに於ては、さまでに増さないでも国を防衛するには足るであろうと、素人ながら考へられるのです、而して此事業に就ても、空漠な膨脹は務めて節減せざるを得まいと思ふ、前にも申す通り真実に成立の見込なき鉄道の如き、先づ玆で権利を得て置くと云ふ様なる者は、経済上に大なる困難を惹起す丈であるから、務めて節減を加へなければならぬけれども今此処に成立ち掛けて居る事業の、実際利益あるも尽く中廃すると云ふことは、私は見るに忍びぬ、又向後の新設事業に就ても、試に一例を云ならば、水力電気などは是から先最も拡張されなければならぬ事と思ふ、若し是等に就て適当なる見込があつたならば、相当の会社を起して其事業を進めるやうにすると云ふことも宜い、新規の仕事は一切止めると云ふは宜くないと、私は申さねばならぬ、又現に法律になつて居る航海奨励などは、海外に向つて航路を拡張する必要の事柄ゆ
 - 第27巻 p.354 -ページ画像 
へに、持続して行く様に致したいものである、斯の如くに処置するには、或は一部分は外国の資本を入れると云ふことに就て務めねばならぬこともあろうと思ふ、如何となれば、二十七・八年の軍事の為には相当なる資本を民間から取上げた、此部分は自から民間の事業に注ぐものが政費の為に費消されて居るから、それらに就て補いを為すは、積極方針で財政の処分を誤ると云ふことにならぬと思ふ、又急激を望むのではないが、一方に此事業を拡張させるに於て、対人信用の働きから外国の資本を入ると云ふことも、相当に務めて見たいと思ひます詰り経済社会の将来に就て、此趨勢如何と考へますと、積極に烈しく往きましたならは甚だ恐るべき点があるから、其恐るべき点は謹んで之を改革整理をせねばならぬ、扨又此改革整理の為に、折角進み来つた気勢を大に挫くと云ふことも、亦深く顧みなければならぬことである、故に私は折衷して前に陳述した所の方法に依つて、此経済社会を料理して往きたいと云ふ意見であります、私が今此席に於て申述へましたことは、問題は頗る大にして、議論は甚だ卑近でございますが、昨年来憂慮して居りますことを披陳して、諸君の御高評を乞ひ、併せて御参考に供します。
   ○右演説ハ「青淵先生六十年史」第五十九章第四節ニ全文収録サレアリ。