デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

5章 学術及ビ其他ノ文化事業
2節 演芸及ビ美術
1款 演劇改良会
■綱文

第27巻 p.378-394(DK270110k) ページ画像

明治19年8月(1886年)

是月末松謙澄ノ主唱ニヨリ、内閣総理大臣伊藤博文・外務大臣井上馨外朝野名士及ビ実業家多数援助ノ下ニ演劇改良会成立ス。栄一、井上馨・森有礼・福地源一郎・大倉喜八郎・外山正一・穂積陳重等ト共ニソノ発起人トナル。更ニ同改良会ノ趣旨ニ基キ福地源一郎・安田善次郎・益田孝・大倉喜八郎・岩崎弥之助・千葉勝五郎等ト共ニ改良劇場設立ノタメ資本金二十五万円ヲ以テ演劇改良会社創立ヲ企画シ、栄一之ヲ援助ス。翌二十年九月六日会社ノ設立ハ許可サレシモ、ソノ後改良会ノ不振ニヨリ同会社ノ設立ハ挫折ス。


■資料

青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第八八〇―八八四頁 明治三三年六月再版刊(DK270110k-0001)
第27巻 p.378-380 ページ画像

青淵先生六十年史 竜門社編  第二巻・第八八〇―八八四頁 明治三三年六月再版刊
 ○第五十九章 雑事
    第十二節 演劇改良
明治十九年末松謙澄英国ヨリ帰朝シ、頻リニ我邦演劇改良ノ必要ヲ唱フ、此ニ於テ演劇改良会起リ、東京演劇会社ノ発起ヲ見ルニ至レリ、而シテ青淵先生ハ頗ル尽力スル所アリ
    演劇改良会趣意書
 下名者等深ク世態人情ニ感スル所アリテ、今般演劇改良会ヲ設立ス本会ノ目的トスル所左ノ如シ
  第一 従来演劇ノ陋習ヲ改良シ、好演劇ヲ実際ニ出サシムルコト
  第二 演劇脚本ノ著作ヲシテ栄誉アル業タラシムルコト
  第三 構造完全ニシテ演劇其他音楽会・歌唱会等ノ用ニ供スヘキ一演技場ヲ構造スルコト
 此ノ三目的ハ素ヨリ聯続シテ相離レサルモノタルカ故ニ、一ヲ欠ケハ則不可ナリ、故ニ本会ハ三目的共合セテ同時ニ之ヲ挙ケントスルモノナリ、今ヤ我邦ノ演劇ハ猥褻野鄙ニアラサレハ観者ノ耳目ヲ楽シマシムルニ足ラスト妄想シ、世ト共ニ変遷スルヲ知ラサルニ因レリ、宜シク之ヲシテ高尚ナルモ人情ニ遠カラス、閑雅ナルモ世態ニ背カス、優美ト快活トヲ兼備ヘ、楽ンテ淫セス、和シテ流レス、上等社会ノ観ニ供シテ恥ル所ナキノ域ニ達セシムヘシ、是レ本会ノ目的トスル所ナリ、然リ而シテ実際演劇ノ醜美ハ脚本ノ巧拙ニ関スルヲ多トス、然ルニ本邦近来ノ脚本作者ヲ見ルニ、其人ハ一モ学術文章ノ士ナク、徒ニ陳腐ノ思想ヲ左右瀰縫シ、以テ下等人民ノ歓ヒヲ得ルヲ力メサル無シ、蓋シ本邦ニ於テ脚本作者ト俳優ト共ニ士君子ノ為メニ歯セラレス、心ヲ尽シテ妙案ヲ構造スルモ絶テ栄誉ヲ一身
 - 第27巻 p.379 -ページ画像 
ニ来サス、而シテ其利益ノ如何ヲ問ヘハ、則チ版権及ヒ興行権ノ法備ラサルカ故ヲ以テ、学術文章ノ士ノ労ヲ償フニ足ラサルニ因レリ宜シク旧習ヲ一洗シ、脚本著作ノ学術文章ノ士ノ自ラ任スヘキ所タルノ実ヲ明カニシ、以テ栄誉ヲ其業ニ帰セシムヘシ、然リト雖モ劇場建築ノ其宜キヲ得サレハ、好脚本アリト雖モ、以テ之ヲ演シテ好劇ノ実ヲ得ルニ由ナシ、独リ演劇ノミナラス、今日ニ於テハ偶々歌唱会・音楽会ヲ催サントスルモ適当ノ場所アル事ナシ、且ツヤ前ノ二目的ヲ果サントシテ、之ヲ已ニ世間ニ現在セル諸劇場ニ求ムルモ到底遽ニ其効ヲ見ル可ラス、初メヨリ全ク一新場ヲ設ルニ若カス、故ニ宜シク適当ノ方法ヲ求メ、一ノ演技場ヲ建築シ、改良ノ演劇ハ勿論、時アリテハ来航ノ西洋俳優モ其技ヲ演スルヲ得セシメ、時アリテハ歌唱会若クハ音楽会等ヲモ催スル事ヲ得セシム、将又本邦演劇粧飾ノ粗悪ナル、時間ノ冗長ナル、劇場出入ノ混雑ナル等、演劇改良ニ付属シテ改良ヲ要スル者一ニシテ足ラス、是亦本会ノ之ヲ改良セント欲スル所ナリ、以上ノ主旨ニ基キ、略々実際決行ノ手段ヲモ定メ、朝野ヲ分タス之ヲ当今ノ諸名士ニ計リシニ、嘗テ之ヲ非拒スルモノナク、其名ヲ賛成員中ニ加フル者亦已ニ多シ、要スルニ此等風俗改良ニ関スル件ハ、猶広ク衆人ノ賛成ヲ得ルニ非サレハ、其勢力ヲ強カラシムルニ足ラス、願クハ諸君此ノ趣意書ヲ読ミ、本会ヲ賛成スル所アレ
  明治十九年八月          井上馨 外十九名
東京演劇会社ハ株式組織ニシテ其資本金弐拾五万円ナリ、其設立ノ趣意左ノ如シ
    東京演劇会社設立ノ趣意
 演劇ノ改良ヲ計ルコト我国今日ノ一要務タルハ世既ニ定論アリ、今ヤ演劇改良会正ニ興リテ其改良ノ手段ヲ講究スルニ当リ、一方ニ於テハ著作ノ業ヲ奨励シテ高妙ノ脚本ヲ作ル事ヲ勉メ、一方ニ於テハ新ニ宏麗ナル演劇ノ改良ヲ実際ニ挙行シテ、以テ従来ノ陋習ヲ排除シ、以テ美術ノ英華ヲ煥発スルコト能ハサルヲ知ルナリ、彼ノ著作ノ改良ハ文学隆興ノ今日ニ際シテ世其人ニ乏シカラスト雖モ、之レヲ興行スルニ適スルノ演劇場ナクハ、安クニ就テ其高妙ノ著作ヲ社会ニ発揚シテ、改良ノ目的ヲ暢達スルヲ得ンヤ、是レ某等カ玆ニ若干ノ資金ヲ醵出シテ、東京演劇会社ヲ建築スルノ発起人ト成リ、同志ノ諸君ニ向テ其翼賛ヲ望ム所以ナリ、諸君幸ニ演劇改良ニ志アラハ、某等ト其事ヲ倶ニシ、速ニ此ノ建築ヲ落成シ、輪奐ノ美ヲ観ンコトヲ計レ、抑モ某等カ此ノ発起ヲ為ス者ハ、聊時事ニ感シテ社会ノ為メニスルヲ専一ノ目的ナリトシ、敢テ殖利ノ為ニスルニ非スト雖モ、徒ニ資金ヲ抛テ改良ノ実ヲ演劇ニ与ルコトヲ得サルハ、亦以テ取ラサル所ナリ、依テ其経営ヲ参画シ、定款並創立及営業ノ見込ヲ定メ、其処務ヲ明ニシ、其出納ヲ厳ニシ、進テハ演劇ノ改良ヲ実際ニ見ルコトヲ得、退テハ営業ニ相当ノ利益ヲ得テ、之ヲ永遠ニ保伝セント欲ス、冀クハ同志ノ諸君、此ノ意ヲ体シテ某等ニ協力シ、演劇場新築ノ功ヲ奏シ、演劇改良ノ拠地タルヲ得セシメヨ、敢請
然シナカラ我邦演劇場裏ニハ一種固着ノ習慣アリ、容易ニ動カスヘカ
 - 第27巻 p.380 -ページ画像 
ラス、改良ノ目的ハ終ニ達スルコト能ハス、改良会モ会社モ共ニ中止セリ


渋沢栄一書翰 井上馨宛 (明治一九年)一〇月一九日(DK270110k-0002)
第27巻 p.380 ページ画像

渋沢栄一書翰  井上馨宛 (明治一九年)一〇月一九日  (井上侯爵家所蔵)
拝読、陳者頃日来斎藤氏より御内示相成候一条ニ付、尚御面晤被下度依而今夕四時よ里尊邸へ参上候様御垂示拝承仕候、然処今日ハ例之演劇改良会之義ニ付末松氏ニ相約し、小生主人にて一会相催し最早時刻無之ニ付何共恐入候得共、今日之処ハ御免被下度候、尤も明夕ハ多分拝謁之都合を得候事と存候ニ付、其節相伺申度候、呉々も失敬之至ニ候得共、時間無之次第、偏ニ御海恕可被下候、右奉復如此御坐候
                         匆々不宣
  十月十九日
                      渋沢栄一
    外務大臣閣下


歌舞伎新報 第六八七号 明治一九年八月六日 演劇改良会(DK270110k-0003)
第27巻 p.380 ページ画像

歌舞伎新報  第六八七号 明治一九年八月六日
○演劇改良会 此頃専ぱら噂さの高き劇場改良の説も弥行ハれんとて今度末松謙澄君が演劇改良会といふを設立され、第三条の目的を建られたり、趣意書は左の如し
    演劇改良会趣意書 ○本文略ス
 附言 本件に付ての通信は築地二丁目五番地末松謙澄(留守中代理福島宜三)に送られんことを乞ふ
 井上馨○穂積陳重○外山正一○和田垣謙三○依田百川○高木兼寛○矢田部良吉○矢野文雄○中上川彦次郎○福地源一郎○藤田茂吉○桜井錠二○菊地大麓○箕作佳吉○箕作麟祥○森有礼○斎藤脩一郎○渋沢栄一○重野安繹○末松謙澄○渡辺洪基○三島通庸○高崎五六
    賛成員
 伊藤博文○岩倉具定○原六郎○徳川昭武○徳川篤敬○田口卯吉○岡部長職○大倉喜八郎○大隈重信○都筑馨六○長与専斎○石黒忠悳○末広重恭○西園寺公望○益田孝○三井養之助○陸奥宗光○富田鉄之助○山崎直胤○久保田譲○鍋島直大○長崎省吾○丸山作楽○松平忠礼○芳川顕正○沖守固○黒岡帯刀○戸田氏共○前田利同○北畠治房○千葉勝五郎(以下追加)


東京経済雑誌 第一四巻第三二九号・第二一六頁 明治一九年八月一四日 ○演劇改良会(DK270110k-0004)
第27巻 p.380 ページ画像

東京経済雑誌  第一四巻第三二九号・第二一六頁 明治一九年八月一四日
    ○演劇改良会
日本の芝居は封建時代の遺物にして、今日文明の世態・人情に適せずとは、社会改良論者の疾くより注目する所なるが、今度同感の人々結合して演劇改良会なる者を設立したり、其発起人は井上馨・森有礼・渋沢栄一・福地源一郎氏等朝野の紳士数十名にして、其目的は第一従来演劇の陋習を改良し、好演劇を実際に出さしむる事、第二演劇脚本の著作をして栄誉ある業たらしむる事、第三構造完全にして演劇其他音楽会・歌唱会等の用に供すべき一演戯場を構造する事にして、伊藤博文・大隈重信等の諸君を初め既に数十名の賛成員ありといふ
 - 第27巻 p.381 -ページ画像 


歌舞伎新報 第七一二号 明治一九年一〇月二〇日 改良芝居の本読(DK270110k-0005)
第27巻 p.381 ページ画像

歌舞伎新報  第七一二号 明治一九年一〇月二〇日
○改良芝居の本読 去十六日築地の大樁楼に於て依田百川先生の新作「吉野拾遺名歌誉」といふ改良狂言の本読があり、会主末松謙澄先生を始め会員諸氏、市川団十郎も席に列なり ○中略 伊藤伯爵は会員諸氏に対ハれ、演劇改良も過たるハ猶及バざるが如くならざらん事を企望すと語られしとか、又昨十九日も会員諸氏が浜町の常盤屋に集会して改良演劇一切の事を協議せられしが、劇場新築は木挽町辺の鉄道に接近せし場所に粗定まりし由


中外物価新報 第一三六三号 明治一九年一〇月二一日 ○演劇改良相談会(DK270110k-0006)
第27巻 p.381 ページ画像

中外物価新報  第一三六三号 明治一九年一〇月二一日
    ○演劇改良相談会
一昨日銀行集会所に於て銀行家が定式会を開くやう記載せしが、右は全く誤聞にて、同日は末松・河田・大倉・渋沢・福地・伊集院・穂積安田等の諸氏が参集して、演劇改良に関する相談会を開かれしとの事なり


歌舞伎新報 第七一三号 明治一九年一〇月二三日 演劇改良会(DK270110k-0007)
第27巻 p.381 ページ画像

歌舞伎新報  第七一三号 明治一九年一〇月二三日
○演劇改良会 去十九日坂本町銀行集会所(前号に浜町常盤屋とせしハ誤り)に於て演劇改良資本金募集の相談会を開かれ、当日出会されしハ渋沢栄一・福地源一郎・安田善次郎・西村虎四郎・川田小一郎・大倉喜八郎・千葉勝五郎・伊集院兼常・穂積陳重・末松謙澄の諸氏にて、原六郎・益田孝・陸奥宗光の三氏は不参、出席の数氏にハ何れも改良ハ賛成せられしが、資本金の事に就て何某の言るゝにハ従前の芝居金主同様利を得る事を主意にしてハ出金為難し、各々道楽にする決心なれバ出金すべしと演られしに、何れも賛成にて資本金高二十五万円と定め、此内拾万円ハ即座に出金者が極り、五万円ハ或筋の出金、残り十万円ハ一株千円の積りを以て広く有志者を募る見込の由、此議に依れバ結構な劇場《しばゐ》を存外廉く視らるゝ事に成ませう


歌舞伎新報 第七一四号 明治一九年一〇月二六日 改良劇場の絵図(DK270110k-0008)
第27巻 p.381 ページ画像

歌舞伎新報  第七一四号 明治一九年一〇月二六日
○改良劇場の絵図 前号に記せし如く改良会資本金募集の相談も速かに定まりしに付、劇場建築の製図を英人コンドル氏に委托し、是も最早平絵図丈ハ調製したるが、其大略ハ間口百八フート(凡十六間半)・奥行二百五十フート(凡四十二間)の三階家煉瓦造りにして、西洋各国の劇場を摸したるものゝ由、尤も図面出来次第製図委員公評によりて定める筈、建築の場所は確と極らねど、多分新橋近辺ならんと云ふ


東京経済雑誌 第一五巻第三五一号・第八一頁 明治二〇年一月二二日 ○演劇改良会最後の決議(DK270110k-0009)
第27巻 p.381-382 ページ画像

東京経済雑誌  第一五巻第三五一号・第八一頁 明治二〇年一月二二日
    ○演劇改良会最後の決議
演劇改良会の発起者岩崎弥之助・渋沢栄一・末松謙澄・大倉喜八郎・福地源一郎・穂積陳重・原六郎・川田小次郎等の諸氏は、去る十七日日本橋区坂本町銀行集会所に参集して同会の組織等に付き種々協議せられたり、今其の決議の要領を聞くに、同会資本金の総額は廿五万円
 - 第27巻 p.382 -ページ画像 
にして、内十二万五千円を発起者にて持ち、其の余の金額は向ふ十八ケ月間を期して募集する事と為せり、但し其内五万円は其の筋より加入せらるゝ筈」又た演劇場建築は見込の地二三カ所ありて未だ決定せずと雖も、其の建築費をは二十万円に決定せり」又た同会の組織は委員五名を選挙し、其の内にて更に委員長一名を選び、又委員の下には支配人・書記・会計等を置きて一切の事務を統理すへき方法にて、同委員は最初の三年は据え置にて、四年目より二名づゝ改選することとなし、委員会は毎月二回づゝ開くことに決したりと云ふ


歌舞伎新報 第八一六号 明治二〇年八月三〇日 演劇会社(DK270110k-0010)
第27巻 p.382 ページ画像

歌舞伎新報  第八一六号 明治二〇年八月三〇日
○演劇会社 同会社ハ弥々設立の運びに成、近日図面等を取揃へ、其筋へ出願する手続に成しと云


中外物価新報 第一六三三号 明治二〇年九月九日 ○東京演劇会社(DK270110k-0011)
第27巻 p.382 ページ画像

中外物価新報  第一六三三号 明治二〇年九月九日
    ○東京演劇会社
岩崎弥之助・渋沢栄一・益田孝の諸氏を始め京浜の紳商都合十四名より過日東京演劇会社創立の儀を出願したる処、去る六日を以て東京府知事より左の通り指令ありし由
 書面会社設立の義、追て一般の会社条例定相成候迄人民の相対に任せ候条、此旨可相心得事、但し劇場設立に係る義は、更に警視庁の許可を受くべし
又同会社の定款及創立・営業の見込□《(書カ)》を見るに、会社の責任は有限にして、其資本金は廿五万円と定め、一株千円と為し総計二百五十株の内にて、其半額十二万五千円は発起人にて之を出金し、其五万円は其筋の御出金を願ひ、残額七万五千円を同志者より約十八ケ月以内に募集す、此の資本金の内にて凡そ二十万円を以て地所買入金並建築費とし、其残額を以て興行資本とす、会社の劇場に使用する俳優は男女の両性とす、興行は夜間に於てし午後七時に始まり十二時に終るを定則とし、当分の内夜興行を不便とする場合あらば午後三・四時より八・九時頃に至るの間に伸縮す、劇場の建坪は凡そ六百坪にて、見物人凡そ二千人を容るゝ程の建築たるべし、其割合は上等八百人・中等七百人・下等五百人都合二千人を容るべきものにして、一日分の収入は千二百三十五円と定め、興行の度数は一年六回とし、一回の興行日数三十五日内、三十日を以て真の収入興行日とす、配当金は年九分四厘余の予算なりとす


東京経済雑誌 第一六巻第三八四号・第三五〇頁 明治二〇年九月一〇日 ○改良演劇会社許可せらる(DK270110k-0012)
第27巻 p.382-383 ページ画像

東京経済雑誌  第一六巻第三八四号・第三五〇頁 明治二〇年九月一〇日
    ○改良演劇会社許可せらる
一時噂の高かりし演劇会社も、其後は寂として声なく、如何に成り行く事にやと世人は之を怪み居たる程なるが、右は決して立ち消へしなどにはあらずして、予ねて渋沢栄一・小室信夫・福地源一郎・益田孝安田善次郎・小崎十右衛門・河村伝衛・河田小一郎・大倉喜八郎・千葉勝五郎・西村虎四郎・原六郎・伊集院兼常・岩崎弥之助等の諸氏より其の筋に出願し置きしに、去る六日東京府知事より弥々其許可の指
 - 第27巻 p.383 -ページ画像 
令を下したりと、而して其定款及ひ創立・営業の見込書に拠るに、同会社の責任は有限にして、其資本金を二十五万円となし、一株千円総計二百五十株の内にて、其半額十二万五千円は発起人にて之を引受け五万円は其筋の出金を請ひ、残額七万五千円を同志者より約そ十八ケ月以内に募集する都合なり、此資本中二十万円を以て地所買入金及建築費とし、其残額を以て興行資本と為し、会社の劇場に使用する俳優は男女の両性とし、興行は夜間とし午後七時に始め十二時に終るを定則とすと雖も、当分夜興行を不便とするの場合あらば、午後三・四時より八・九時に至るまでとし、劇場の建坪は凡六百坪にて、見物人凡そ二千人を容るゝ程となし、其割合は上等八百人・中等七百人・下等五百人と定むる筈なりと云ふ


中外物価新報 第一九一〇号 明治二一年八月一〇日 演芸改良会(DK270110k-0013)
第27巻 p.383 ページ画像

中外物価新報  第一九一〇号 明治二一年八月一〇日
    演芸改良会
同会の事務も略ぼ纏まりたるにより、不日株主総会を開き、事務の順序及び家屋建築の次第等を決議する由にて、同日ハ渋沢栄一氏にも出席して演説をなす筈なりと


中外物価新報 第一九二五号 明治二一年八月二八日 改良演芸会役員(DK270110k-0014)
第27巻 p.383 ページ画像

中外物価新報  第一九二五号 明治二一年八月二八日
    改良演芸会役員
東京改良演芸会にて今度役員を選挙したるに、理事長に小島信民、理事に高橋幸義、相談役に渋沢栄一・大倉喜八郎・川村伝衛・矢島作郎中川又三郎・島郁太郎・中島行孝の諸氏が当選上任したり


竜門雑誌 第三九五号・第三〇―三四頁 大正一〇年四月 ○巨人青淵先生(久木水府楼)(DK270110k-0015)
第27巻 p.383-384 ページ画像

竜門雑誌  第三九五号・第三〇―三四頁 大正一〇年四月
    ○巨人青淵先生 (久木水府楼)
 本篇は雑誌「現代」第一巻第二号評伝欄に掲載せるものにして、青淵先生の俤一斑を偲ぶに足るものあるを以て、本誌に転載することとせり。(編者識)
○彼の閲歴には、成功談多く、失敗談少きが、失敗せるものゝ中面白くして、無邪気なるもの一つあり、そは明治十九年、末松謙澄が英国より帰朝し、頻に演劇の改良を唱へ廻はり、英国の演劇の高尚にして芸術的なるを説いて止まず、渋沢之を聞きて頗る賛成し、伊藤・井上等をも説きて「演劇改良会」なるものを組織す、その趣意書に曰く、
 一、従来演劇の陋習を改良し、好演劇を実際に出さしむること
 二、演劇脚本の著作をして栄誉ある業たらしむること
 三、構造完全にして、演劇其他音楽・歌唱会等の用に供すべき演技場を新設すること
○更に「東京演劇会社」なるもの(資本金二十五万円)を組織し、従来の演劇を改良せむとしたるも、如何せん日本の芝居道には、一種固着の習慣ありて容易に改むべくもあらず、折角の好挙も、空しく中止の止なきに及べり、趣意書の文句は、恰も五ケ条の御誓文でも読むが如く陋習を改良しなどと如何にも堂々たる処に、人をして微笑せしむるの面白味あり、計画は敗れたるも、今日の帝国劇場の先駆となりた
 - 第27巻 p.384 -ページ画像 
りとせば、渋沢たるもの、莞爾として「乃公は矢張り成功者なり。」と云ふやも知れず。


東都明治演劇史 秋庭太郎著 第一七〇―一七九頁 昭和一二年四月刊(DK270110k-0016)
第27巻 p.384-386 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕明治演劇史 伊原敏郎著 第三八六―四〇一頁 昭和八年一一月刊(DK270110k-0017)
第27巻 p.386-394 ページ画像

明治演劇史 伊原敏郎著  第三八六―四〇一頁 昭和八年一一月刊
    演劇改良会と天覧劇
 - 第27巻 p.387 -ページ画像 
   改良会の目的―末松謙澄―改良劇場の建築―天覧劇―演芸矯風会―日本演劇協会
 顕官や学者が歌舞伎の欠点を指摘して、その改良を説いたのは、既に明治十一年の松田邸に於ける伊藤公の御談義当時からはじまつて居る。さうして団十郎や勘弥はその趣意にもとづいて新らしい芝居をしたのであるが、それは個人的に俳優や興行者に忠告を与へただけである。彼等はそれだけで止まないで、終に国劇改良を標榜する団体をつくつて、其の実行を叫ぶやうになつた。明治十九年八月に出来た演劇改良会がそれである。改良会の目的と称するものは、左の三項であつた。
 第一、従来演劇の陋習を改良し、好演劇を実際に出さしむること。
 第二、演劇脚本の著作をして、栄誉ある業たらしむること。
 第三、構造完全にして、演劇、其他音楽会・歌唱会等の用に供すべき一演技場を構造すること。
 これだけでは甚だ漠然として居るが、更に説明が加へてあつた。つまり、日本の演劇は猥褻野鄙で、紳士淑女の見るべからざるものが多い、これを改めて「高尚なるも人情に遠からず、閑雅なるも世態に背かず、優美と快活とを兼備へ、楽んで淫せず、和して流れず、上等社会の観に供して恥る所なき」ものにしようといふのが第一項である。ところで演劇に肝腎な狂言作者は無学で低級であるが、その社会的地位は俳優と共に卑いし、折角名作を考へ出しても名誉も利益も得られない。さういふ旧習を一洗して、学術文章の士が作者になるやうにしようといふのが第二項である。しかし如何に好脚本が出ても、劇場の建築がよくなくてはムダになる、現在の劇場ではダメであるから新たに理想的の建築を拵へ、たまには外国の俳優を出演せしめたり、また音楽会も其処でしようといふのが第三項である。このほかに劇場装飾の粗悪なこと、時間の冗長なこと、出入の混雑すること、そういふ欠点も改めようといふのである。で、この会員の顔ぶれは
 井上馨・穂積陳重・外山正一・和田垣謙三・依田百川(学海)・高木兼寛・矢田部良吉・矢野文雄・中上川彦次郎・福地源一郎(桜痴)・藤田茂吉・桜井錠二・菊地大麓・箕作佳吉・箕作麟祥・森有礼・斎藤修一郎・渋沢栄一・重野安繹・末松謙澄・渡辺洪基・三島通庸・高崎五六
また賛成者としては
 伊藤博文・岩倉具定・原六郎・徳川昭武・徳川篤敬・田口卯吉・岡部長職・大倉喜八郎・大隈重信・都築馨六・長与専斎・石黒忠悳・末広重恭・西園寺公望・益田孝・三井養之助・陸奥宗光・富田鉄之助・山崎直胤・久保田譲・鍋島直大・長崎省吾・丸山作楽・松平忠礼・芳川顕正・沖守固・黒岡帯刀・戸田氏共・前田利同・北畠治房千葉勝五郎
 此等のうちには、熱心家・野心家・雷同家、またホンの義理づくに盲判を捺した人たち、色々あつたであらうが、殆ど当代の名族・富豪顕官・学者・政治家・実業家が網羅されて居る。しかも其の中心は外遊から帰つて来た末松謙澄であつた。十月三日に彼れは一つ橋の大学
 - 第27巻 p.388 -ページ画像 
講堂《(マヽ)》で演説改良の意見について独り演説をしたが、俳優で団十郎一人だけがこれを傍聴に行つた、そうして此演説筆記は「演劇改良意見」といふ単行本として出版せられて居るが、それによると、彼れの意見は
 株式会社を起して理想的の劇場を建築する。―その建築費は十五万円内外で三階建ての煉瓦づくりにする。―見物席は椅子にする。―茶屋を廃する。―花道を成るべくつかはぬ。―興行は夜間の短時間にする。―在来の狂言作者は只助手として、文士学者の作を歓迎する。―尤も在来の脚本でも佳作は生かしてつかふ。―チヨボを廃する。―形や動きに囚はれた俳優の芸を精神的にする。―女優を養成して、女の役はこれに勤めさせる。
 大要は右の通りである。洋風建築・椅子席・夜間興行・女優養成、いづれも外国模倣である、ことにチヨボの全廃について、これまでも歌舞伎が愁嘆の場で、チヨボに連れて踊るのを不自然だと非難して居る。さうして俳優の芸を精神的にするといふのは、既に述べた団十郎の腹芸に共鳴したのであらう。また花道廃止について「成るべく」といふ条件を附したり、旧作を全く棄てないのは、同じく改良を唱へる人たちのうちでも彼れが穏健派であつた事が伺はれる。なほ彼れは次ぎのやうな事をいつて居る。
 「……高尚の演劇は必ず御殿のミヅカラ言葉でなうては成らぬといふのではない。田舎者を演じても高尚といふ事はその中に存するものでござります。又、言葉の上に必ずむづかしい言葉を使つたら、それで高尚だといふ道理はありません、但し今の日本の演劇は何れも其脚本陳套にして、或ひは宝物紛失とか、もしくは拐児とかを種子として演ずるのが多いが、是等は先づやめねば成りません。又日本の演劇は勧善懲悪々々々々といひますが、さういふ事はつとめて廃して、美術といへる二字を眼目として願ひたい。……」
難解な語や、勧懲主義を排斥したのは、暗に漢学者流の改良説を諷したのであらう。
 殆ど同時に改良会員の一人たる外山正一も「演劇改良論私考」を著はして、其の意見を発表して居る。末松の説と大同小異であるが、彼れよりも一層保守的な所がある。即ち廻り舞台の廃すべからざる事をいひ
 「花道を廻り舞台ほど大切のものにあらねども、其のあるが為めに往々面白き趣向も出来ることあり。廃すべきや否やを断言する能はず。」
といつて居る。また俳優の弊を難じて、その小説と演劇と混同すること、本筋に不必要なる瑣末の事を詳くすること、例へば舞台の上にて茶をたて、花をいけ、着物を脱いだり着替へたり、無意味の酒もりをしながら、くだらなき話をして聞かすこと、本務以外の芸に少し長ずる事あれば舞台にてこれを見せること、例へば、尺八自慢の俳優は尺八を吹き、梯子乗自慢の俳優は加賀鳶の真似をし、また舞台にて書画会然たる事をすること、俳優の品行の正からぬこと等を挙げ、脚本に対しては
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 「不満を感ぜしは新作の世話物にして、時代物に至りては甚だ稀なり。」
と暗に河竹の作と菊五郎の芸を貶し
 「近時の作よりは徳川時代の作の方が遥かに優れる如し。これを排斥なさんよりは、むしろ大いに演ずべきものなり。近来芝居の失敗は名作なる時代物を演ずることを為さずして、野鄙拙劣なる新狂言を演ずるに因ること尠しとせず。さりながら如何なる名作といへども、時代が違へば幾らか不都合の廉の出来るものなれば、其の辺は取捨して演ずべきなり――。」
といひ「遊女、遊女屋の事を排斥すべし、芸妓も亦排斥すべし、血まぶれ騒ぎも仰山なるは改むべし」といひ、「近年演ぜし狂言中にて、完全なるものと思ひしは宗十郎の重の井新左衛門と団十郎の仲光」なりといひ、なほ「チヨボのほかに黒ン坊(後見)を廃すべし」と説いて居る。
 同じく改良会の人でも、これらの細目については、それぞれ意見を異にして居たのであらうが、「早稲田文学」記者がこれを概括して二面より成り立つて居るといつたは当つて居る。即ち
 「一面は、旧劇の猥褻・残忍・卑陋・刻薄たる点を疵とし、此れらを除去して高尚優雅のものとせんとするにあり。故に或る意味にては一種の理想派なり、……されどこの派の弊や、往々此の一面のみの改良を唯一無上の大事のやうに心得、剰へ、ともすれば極端に馳せて、実際界の醜悪と美界の醜悪とを混同し、すこしの濡事、すこしの殺闘をも全然排斥せんとせり。
 「さてまた他の一面は、今も尚残れる技葉上の写実派、もしくは、いはゆる活歴派にして、衣裳・鬘・せりふ等より舞台全局の結構に至るまでも、勉めて事実に模すべしと唱へしもの、全然チヨボ・相方・ツケ等を廃絶すべしといふ説の如きも同じ意に原づけるなり。甚だしきに至りては、脚色事件の架空をも許さずといふものさへありき。」(「早稲田文学」)
 さうして、同じ学者でも早稲田派の高田半峰(早苗)や坪内逍遥は此等の意見に同意しなかつた。
 半峰は化物めきた理想的人物を排し、逍遥は人情の真に写すを先きにして、末枝葉の写実を後にすべしと唱へた。また福沢諭吉のごときは全く改良会そのものに反対であつたらしい。彼れは「芝居論」と題して次ぎのやうに説いて居る。
 「唯人文の進むに従ひ、見物人の品格の高尚に赴くと共に、芝居も亦これに誘はれて、徐々に地位を進むるほか手段なき事ならん。如何となれば今の芝居は正に人心に適し、是れより少しく高尚にすれば少しく見物人を失ひ、大に高尚にすれば大に入りを減ずべければなり。」
即ち改良にあせつて居る人たちを一喝したのである。また古実の穿鑿を罵つては
 「芝居は事実に非ずと蔑視するものあれど、芝居の性質を知らざる人の偏見たるに過ぎず。」
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といひ、勧善懲悪説を笑つては
 「勧善の功と共に、勧悪の力もあるべきか。故に善悪相半して相償ひ、遂に無に帰すると云ふも可ならん。」(廿年十一月三日「時事新報」)
といつて居る。改良論のやかましい時に、 一方ではかういふ高踏的な意見を吐いた人もあつたのである。とにかく改良会は、その実行の第一歩として、十九年十月十七日、伊藤公をはじめ発起人たちが、築地の大椿楼に集まつて、同会の主義を説明し、また依田学海と河尻宝岑と合作の脚本「吉野拾遺名家誉」の朗読を聴いた。朗読者は宝岑であつた。さうして劇場の関係者では団十郎と勘弥が其の席へ招かれた。それは彼等によつて実演させようと思つたからである。この脚本は、小楠公の史実を脚色した忠臣烈婦の劇で、花道や廻り舞台やチヨボをつかはず、且つセリフに多くの雅語と漢語とをつかひ、正行の如きは七五調を放れて漢文直訳体に口を利くやうに出来て居た。けれども脚色の仕方は在来の歌舞伎劇とタイした違ひがなかつたので、改良会員のうちでも外山の如きは辛竦な批評を加へたが、正行に扮すべき団十郎が老年すぎて扮するに適しないと言つたを口実に、終に上場されなかつた。
 同時に、渋沢・安田・西村・川田・大倉・伊集院・穂積・福地・千葉などが銀行集会所へ集まつて、改良劇場の建築について協議した。その案は資本金を廿五万円とし、十万円は列席の人たちが出金し、五万円は或る筋から下附を仰ぎ、残りの十万円を一株千円づつで一般より募集し、建築の設計は英人コントルに嘱し、間口百八フイート、奥行二百五十フイート、三階建の煉瓦づくりとし、場所は成るべく停車場附近を目標として選定するといふのであつた。
 しかし改良熱や欧化熱に懲りた守田勘弥は、これを冷評して、「祭礼に名主の子が芝居をするようなものだ」といひ、「仕入の金を出してくれて、揚り高を残らずくれねば、あんな芝居は出来ない、それでもまだ損になるかも知れぬ」といひ、「品川から千住までに西洋造りが何戸あるか、あんな気違ひじみた改良が行はれるか」と一笑に附した。そうして朗読を聴かされた「吉野拾遺」くらゐの作は誰でも出来ると、この時に始めて自分が作者となり、河竹の門に入りて古河新水と号し十九年十二月、その処女作「文珠九助」(伏見義民伝)を、新富座で団十郎に演じさせた。これは小室信夫の「東洋義民伝」から脚色したのである。この時の中幕は、団十郎の「伊勢三郎」であつたが、それは河竹の新作であるのを、団十郎が改良会の意見によつて添削したのである。上州の山中に山賊をして居る伊勢三郎(団十郎)の住家へ、義経(福助)が奥州下向の途中で泊る。三郎は源氏の家臣である事を告げ、妻(源之助)に別れて義経の供をして出立する。改良会が提供した「吉野拾遺」の脚本は勘弥によつて握り潰されたけれど、その助言だけは団十郎によつて採用されたのである。
 改良会の起る前後から、暫く絶えて居る劇場と上流との接触がまた復活した。十九年五月二十六日には、新富座の「渡辺華山」を仏国のナポレオン親王の見物があり、同伴は伊国公使館のカザテー、墺国の
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シイボルト、其の他の随員で、席は東桟敷で、幕間に団十郎の部屋へ臨み、夕方に退場せられた。同年十一月十二日には、早稲田の大隈邸へ団十郎・菊五郎・左団次・福助等が招かれ、来賓たる鍋島・前田諸公の面前で「勧進帳」と「喜撰」を演じた。こういふ事が改良会の出来る動機であり、もしくは改良会の出来た影響であつたのであらう。そうして、改良会の出来た翌年の廿年一月は、外務大臣井上伯の官邸で外人劇があつて、団十郎も接伴の見物をし、三月は同伯が滞京中の独逸皇族を伴ひて新富座の見物があつた。それのみならず、同年三月は天覧劇といふ破天荒の盛事が実現せられた。
 この天覧劇は、井上の鳥居坂の自邸で、八窓亭といふ茶屋の落成した祝ひに、両陛下および皇太后の行幸を仰ぎ、その余興として、四月廿六・七・八・九日の四日に亘つて、団十郎たちの演技を御覧に入れたのであるが、歌舞伎はじまつて以来、かような光栄に浴したのは此れが最初である。これより先き相撲の天覧があつたのを羨み、芝居の方でも勘弥がさまざま運動したに拘はらず、そのまゝになつて居たのであるが、今度の催しで専ら末松が参与し、脚本の修正までを自分がした事実を見ても、その裏面にはやはり改良会が動いて居たのであらう。はじめ末松自身はこれによつて演劇改良の実を挙げようと思ひ、なるたけ団十郎一門だけの出演を主張したけれど、勘弥がそれに同意しなかつたので、大勢の一座になつたのだといふ。その内情については、主として此の事にあづかつた団十郎の直話を左に抄録する。
 「四月二日でした、私が新富座に出て居ると、武田屋(座附茶屋)のお虎が部屋へ来て、井上伯の奥様が御出でに成つてるから、芝居が刎ねたら来いといふから、打出してから武田屋へ行つて見ると、井上伯の奥様を始め、杉(孫七郎)さんに、末松さんのお三人でした。その時に奥様が、これは極秘密だが、来る廿六日に天皇陛下の御行幸を鳥居坂の屋敷へ仰ぎ奉る筈だが、その節に演劇を天覧に供へようと思ふ。その御話を聞いた時には嬉くもあり、恐くもありでした。
 「そこで役者は汝をはじめ、誰々にするとの御尋ねであつたから、来づ菊五郎に左団次と申上げたら、役者は成るたけ少い方がよからう、狂言は一番目に勧進帳と極つた、それで万事は汝ひとりで負担してやつてくれ、世間へパツとしては行けないからとの御仰せだから、その翌日、自分で鳥居坂の御屋敷へ出て、舞台の位置・広さ等の御相談に与つた。
 「この時の建築係が末松さんの兄さんでしたが、舞台を五間にしようと言はれたから、それでは勧進帳で役者が列びきれません、とやかましく申上げて、やつと七間にしたのです、それへもつて来て花道を斜につけた。これが僅か三間足らずだから、勧進帳で花道の六方で一つ飛んだら揚幕へ入つてしまつたくらゐです。
 「狂言が勧進帳・高時の天狗舞・操り三番・元禄踊と斯う極めて、それから毎日芝居が打出すと鳥居坂へ通つたが、何しろ百般の用向きをトテも一人でやりきれないから、途中で守田(勘弥)を推挙して手伝はせた。すると此の事が、世間へパツとしたので非常に困つ
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た。」
 かように団十郎自身で一座をまとめたから、振附から囃子方までの給金附を自分の所へ出さしたが、自分の給金にくらべると非常に尠い金額なので、一々眼を通しては「たつた此れきりか、廉いものだ」と言ひつゞけたといふ、そうして興行中の新富座はこのために急に十二日に閉場し、市村座も廿四日に打上げた。
 「いよいよ明日は天覧となつた、その前の日からモウ飯も咽喉へは通らない、夜も寝られない。ひよつと斯んな面白くないものを、と御仰せがあつて、中途で御立ちになるやうな事があつては大変だ、と心配でならなかつた。さて当日となつて鳥居坂の御屋敷へ出る。やがて主上には御臨幸と相成つて、君が代の奏楽に連れて、設けの御座へ着かせられた。奏楽の止まるのを合図に緞帳を巻上げる、面はりに出るのが高橋(左団次)の富樫だ。斯様に候者は富樫の左衛門にて候、といつて居るのを後で聴いて居ると、いつもの高島屋とまるでセリフの調子が違つて居るから、揚幕から覗いて見ると俯向いてブルブル顫へて居た。
 「それから福助の義経、その時分は病中であつたから尚更がたがた顫へて居た。何しろ主上の御座と舞台との間が三間ばかりしか離れてゐないのだから、舞台へ出ると自然に頭が下る。こわいものだ。けれども私は恐れ多い訳だがと観念して、自分では頭を挙げて居たつもりであつた。後に問答になつてからは其うでもなかつたが、勧進帳を読む間は実に苦しかつた。
 「その次ぎ、高時の天狗舞、この二幕だけ済んで楽屋へ入つて来ると、何か二幕ばかり御好みが出たといふを聞いて、ヤレ嬉しやと思つた。」
 舞台は庭の中に杉の葉で葺いた仮屋で、土間を隔てた正面を玉座にし、青竹の手摺を境界とし、左右は陸海軍の楽隊と役者や囃子方の控所になつて居た。各宮殿下のほか、伊藤総理大臣をはじめ、松方・山田・大山・榎本の各大臣、その他の高等官陪従し、時間は午後二時から五時までゞ、第三の「操三番」(菊五郎)、第四の「漁師の月見」(団十郎)、第五の「元禄踊」まで済ますと、陛下は広間へ御成りになつて夜食を召され、右の通り御好みとあつて、「曾我の十番斬」(菊五郎と左団次)と「山姥」(団十郎)を在合はせの衣裳鬘で演じた。染五郎は予定の番組で無役だつたのが、急に怪童丸で登場する事となつたので「貴様は仕合せな奴だ」と団十郎がいつたといふ。そうして此れはカラ脛で出る役なので、御前へ失礼になるのを恐れて、団十郎が末松に念をを押したが、構はないとの事で常の通りで出た。この二つが終つて、陛下は再び大広間で御休憩の後、十一時に御還幸となつたが、団十郎をはじめ一同は、立食の料理を賜つて十二時に退出した。
 第二日は皇后陛下、先着は各宮の御息所、各大臣の夫人で、「伊勢三郎」(団十郎)、「寺子屋」(左団次の松王、菊五郎の源蔵、団十郎の千代)、「土蜘蛛」(菊五郎)、「徳政の花見」、御好みによつて、「静忠信」(団十郎・福助)、次ぎに「元禄踊」を演じたが、「寺子屋」で源蔵が千代に斬りつけ、経帷子の現れる所で、陛下は御落涙あらせられた。
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他の方たちも同様だつたので、舞台の後から末松が「そのように御泣かせ申上げては恐入る、注意せい」と幾度も声をかけたといふ。第三日は各国公使、内外の貴顕、いづれも夫人同伴で「寺小屋」、「伊勢三郎」と「花見の賑ひ」、「高時」、「元禄踊」を演じた。第四日は皇太后の行啓で、「勧進帳」の次ぎに「靱猿」(芝翫)、「忠臣蔵」三段目と四段目(団十郎の師直と大星、菊五郎の塩谷、左団次の桃井と九太夫)、「吉野落」(左団次の忠信)、「六歌仙」(団十郎の康秀、菊五郎の喜撰芝翫の遍照)を演じた。
 もし演劇改良会に功績があるとすれば、その第一は歌舞伎劇と其の俳優たちに天覧の栄誉を与へた事であらう。しかも同会は廿一年に変身して、田辺太一を会長に戴いた「演芸矯風会」となり、団十郎や菊五郎も賛成者に加はつて、七月八日に鹿鳴館で発会式があつた。
 来賓は皇族方をはじめ、要路の貴顕方なるが、妃殿下は勿論、令夫人同伴なりしかば総員一千余に達し、午後一時三十分より、番組の通り花柳師弟の四季を演じ、終つて暫時休憩、それより立食の饗応あり、余興として、三升(団十郎)の娘、実、伕貴の両人、税所篤子の唄を乞ひ、これを正次郎夫妻が節をつけ、団洲振付したるものにて、これが済むと又々休憩し、のち高崎正風氏作のかざしの菊を団十郎、物集高見氏作の水の江を菊五郎、長唄にて演じ、午後八時全く終りたり。(「続々歌舞伎年代記」)
 今は消極的となつた勘弥は此の会に関係しなかつたが、柳光亭で催された慰労会へ招待されて、席上で其の組織のわるい事を指摘したのを、委員の渡辺洪基に「欠点があるなら自分も入会して矯正するがよい」と言はれたので、同年十二月廿三日、第二回の矯風会公演を千蔵座で催した時には、勘弥が斡旋して、団菊のほかに左団次をも加へ、「先代萩」と「鞘当」とを出し、其の前、竹琴、河東節、三曲合奏、清元「北州」の踊を演じた。更に廿二年六月、中村座の興行を、初日前の廿一・二日の両日、同会の名義で「文覚勧進帳」と新作の浄瑠璃とを演じたが、九月に至つて日本演芸協会と改名し、土方宮内大臣を会長に、香川皇后太夫を副会長に戴き、事務委員に岡倉覚三・岡野碩・大田原則孝・高田早苗・下村善右衛門・森田文蔵(思軒)・関直彦が任じたほかに、文芸委員は
 岡倉覚三・依田百川・高田早苗・坪内雄蔵・黒川真頼・山田武太郎(美妙斎)・古河黙阿弥・小中村清矩・饗庭与三郎・森田文蔵・森林太郎(鷗外)・関直彦・関根正直・鳥居忱・尾崎徳太郎(紅葉)・川尻宝岑・順藤光暉(南翠)、また技芸委員に市川団十郎・市川左団次・花柳勝次郎・豊沢団平・放牛舎桃林・常磐津小文字太夫・尾上菊五郎・河東秀次郎・談州楼燕枝・高野茂・宝山左衛門・鶴沢豊造・中の島松声・山瀬松韻・松島庄五郎・松永鉄五郎・松永和楓・藤間勘右衛門・荒木古童・杵屋正次郎・清元延寿太夫・清元お葉・岸沢式佐・都一中・桃川如燕・竹本綾瀬太夫・三遊亭円朝、演習委員に間瀬秀俊・守田勘弥・田村成義。
 そういふ顔触れであつた。矯風会が既に其うであつたが、演劇改良会よりも事業の範囲を広めて、演劇のほか、舞踊・俗曲・講談、音楽
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は三曲をはじめ、落語までを改良しようといふので、その作者には国学者や小説家までが網羅せられた。
 九月十四日に委員たちの集会があり、十月十二日新富座で試演があつた。美妙斎作の落語「素人洋食」を円遊、高田早苗の「西洋黒猫」を如燕、篁村の「江戸気性」を燕枝、「泰平船尽し」を一中、「寺小屋」を綾瀬太夫、河竹の「九十賀」を延寿太夫、田辺花圃の「横笛」を庄五郎と正次郎、河竹の「戻橋」を小文字太夫と式佐、其水の「調布の玉川」を和楓と鉄五郎、彦作の「百鬼夜行」を雷蔵そのほか子役連、なほ松声と古童も三曲を演じた。更に翌十三日、鹿鳴館で公演し、以上のほかに「夢路の狂乱」を菊五郎をはじめ其の一門で、「紅葉狩」を団十郎・左団次・芝翫等、「調布の玉川」を小団次その他で踊り、美妙斎の「素人洋食」を円遊、関根の「再会一対武者振」を如燕、篁村の「江戸気性」を燕枝、「寺小屋」を綾瀬太夫と豊造、「九十賀」をお葉と梅吉で演じた。
 演芸協会の旗揚げはかやうに堂々たるものであつたが、廿三年十二月廿四・五両日、新富座で団十郎の「太田道灌」(篁村作)、菊五郎の「赤垣源蔵」、左団次の「服部一郎」、芝翫の「熊谷」を演ずる筈なのが、故障があつて中止となり、更に廿四年十月廿七・八日、中村座で団十郎の「泉三郎」(宮崎三昧作)、菊五郎の「忠信」と「権太」を演じ、これを最終として立消えとなつてしまつた。そうして此の間に福地桜痴が千葉勝五郎と協力して、木挽町へ歌舞伎座といふ新劇場を建てる計画をした。つまり改良会の企てた事業を個人で実行したのである。その前から勘弥は経済的に失脚して、随て新富座の覇業は地に墜ちた。そこへ歌舞伎座が起つて中央劇壇の王者となつた。これから以後を明治の後期、即ち歌舞伎座時代と名づける。
   ○条約改正ノ承認ヲナサシムベク、明治十年代ノ後半、伊藤博文・井上馨等主唱シテ欧化主義ヲ唱ヘ、所謂鹿鳴館時代ヲ現出ス。演劇改良会亦コノ気運ニ依リテ創設サル。「明治文化全集」第十二巻所収末松謙澄「演劇改良意見」及ビ河竹繁俊・柳田泉共著「坪内逍遥」第二四二―三五二頁「演劇改良の諸会」参照。