デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

5章 学術及ビ其他ノ文化事業
3節 編纂事業
1款 徳川慶喜公伝編纂
■綱文

第27巻 p.460-473(DK270129k) ページ画像

明治40年7月23日(1907年)

伝記編纂ニ就キソノ資料トセンガタメ慶喜自身ヨリソノ閲歴及ビ幕末ノ事情等ニ関スル談話ヲ聴取セントシ、是日兜町渋沢事務所ニ於テ慶喜ヲ中心
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トセル第一回談話会ヲ開催、慶喜コレヲ「昔夢会」ト名ツク。栄一出席ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK270129k-0001)
第27巻 p.461 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年     (渋沢子爵家所蔵)
七月二十三日 晴 暑            起床七時 就蓐十一時三十分
○上略 午前十時事務所ニ抵リ ○中略
午後三時ヨリ徳川公爵来臨アリ、伝記編纂ノ事ニ関シ種々ノ談話アリ三上・萩野二博士、小林学士、穂積・阪谷・篤二等モ来会シ、公爵ヨリ往事談アリテ頗ル興味ヲ添フ、夜十一時散会 ○下略


昔夢会筆記 渋沢栄一編 上巻例言・第一―二頁 大正四年四月刊(DK270129k-0002)
第27巻 p.461 ページ画像

昔夢会筆記 渋沢栄一編  上巻例言・第一―二頁 大正四年四月刊
    例言
一昔夢会筆記は、徳川慶喜公か予等の問に対へて、其御閲歴を語り給へる御談話の筆記なり。
一予が公の御伝記を編纂するに当りて、公を自邸に屈請して、編纂員と共に親しく旧事を問ひ奉れることは、明治四十年七月二十三日を始とす。此会を昔夢会と名けしは、公の選び給へるなり。公の此会に臨ませ給へるは凡十七回、又稿本成る毎に、毎章呈覧して批正を仰ぎ、編纂員公の邸に就きて親しく教を承りしことも八回なりき。其度毎に公の親話を筆記し置きたるもの、積みて冊を成せり。今や公薨じ給ひて、再び音容を拝することを得ず、片言隻語も益貴重の史料たり。此に於て其筆記を校正印刷して謄写に代ふ。公は固より其御閲歴を語るをだにも喜ばせ給はず、況や広く世に公にすることをや。故に部数も僅に二十五を限りて、御伝記の起稿に関係せる者のみに頒つ。
一第一より第四までは編纂員の筆記なれば、総て文章体に記せり。其後速記を用ゐることを許されたれば、公の御談話の趣、今尚親しく教を承るの想あり。然るに速記者ありては話しにくしと仰せられて第十四よりは又筆記となれり。前後異同あるは是が為めなり。今聊も之を改めずして旧面目を保存す。第十八以下は稿本に就きての垂教なれば、編纂員の公の邸に就きて承るものなり。第二十六は昔夢会以前、江間政発の単独に公に就きて承れる筆記なり。孰も御伝記に関するものなれば末に附く。
一御談話のありし年月・場所、又は共に拝聴せる人々をば、一々に記載して、其事実を証し、且其光栄を記念す。
  大正四年四月           男爵 渋沢栄一


昔夢会筆記 渋沢栄一編 上巻・第一―二六頁 大正四年四月刊(DK270129k-0003)
第27巻 p.461-472 ページ画像

昔夢会筆記 渋沢栄一編  上巻・第一―二六頁 大正四年四月刊
  第一
      明治四十年七月二十三日兜町事務所に於て

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  興山公     男爵   渋沢栄一   新村猛男君       渋沢篤二          法学博士 穂積陣重          法学博士 阪谷芳郎  以下p.462 ページ画像           文学博士 三上参次          文学博士 萩野由之               小林庄次郎 



    半弓と弓術との事
予、幼時水戸にありて疱瘡を病めり、顔に二つ三つそれと覚しきもの出でしのみにて、極めて軽き症なりけり。されど是が為に日々にいそしむべき弘道館の受業も休みにて、烈公○公の御父水戸斉昭卿《(以下原註)》。始より御見舞の品などくさぐさ下されしかば、予は幼心に、疱瘡は世に嬉しきものゝ一つなりと思ひとりぬ。此時の事なり、予は居間の鴨居の上に幾つとなく達磨を並べ置きて、蒲団の上より半弓もて射立つるに、一つとして中らざるはなければ、弓こそいと易き技なれと思ひしが、長じて後、実際に弓術を学ぶに及びては、なかなかに中りよからず、さては弓はむつかしきものよと、始めて思ひ知りたり。
    井上甚三郎鯁直の事
一橋家を相続せし後も、水戸より従ひ来りし井上甚三郎といふ者、侍臣を督して教育の任に当りしが、甚三郎は極めて鯁直の者にて、予一日侍臣と歩打毬を試み、彼方此方と打ち回す中、左手にて窃に毬をすくひて何気なき体を装ひしに、今まで傍に見物し居たる甚三郎遽に声をかけて、「こたびは某御相手仕らん」とて出で立てり。何をするかと見る中に、数十の毬を笊に入れて、一時に毬門へ投げ込み「公若し卑怯にも手もて窃に毬をすくひ給はゞ、某は此の如く仕るべし」と、顔色を正して、諫めしかば予はいたく慚ぢ入りて、答ふる所を知らざりき。
    烈公の御教訓の事
烈公尊王の志厚く、毎年正月元旦には、登城に先ち庭上に下り立ちて遥に京都の方を拝し給ひしは、今尚知る人多かるべし。予が二十歳ばかりの時なりけん、烈公一日予を招きて、「おほやけに言ひ出づべきことにはあらねども、御身ももはや二十歳なれば、心得の為に内々申し聞かするなり。我等は三家・三卿の一として、幕府を輔翼すべきは今更いふにも及ばざることながら、若し一朝事起りて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるゝが如きことあらんか、我等はたとひ幕府には反くとも、朝廷に向ひて弓引くことあるべからず。是は義公 ○水戸光圀卿。以来の家訓なりゆめゆめ忘るゝことなかれ」と宣へり。
    烈公の攘夷論の事
烈公の攘夷論は、必ずしも本志にあらず。烈公未だ部屋住たりし時より、屡戸田銀次郎 ○忠敞、蓬軒と号し、後に忠太夫と称す。藤田虎之助 ○彪、東湖と号し、後に誠之進と称す。等を引見して、水戸藩政の改革せざるべからざることゞも論議し給ひ、哀公 ○水戸斉脩卿。の後を承けて水戸家を相続し給ひてよりは、愈日頃思ふ所を実際に施さんとて鋭意し給ひしが、非常の改革を行ふには、何等かの名目なかるべからざるをもて、一時の権宜として、改革は武備充実の為なり、武備の充実は、近頃頻々近海に出没する異船を打攘はんが為なりと称せられたるなり。即ち攘夷の主張は全く藩政改革の口実たるに過ぎざりしが、後に至りては名目が目的となり行きて、形の如き攘夷論者となり給ひぬ。されば烈公は、異船来ると見ば有無をいは
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せず直に打攘はんといふが如き、無謀の攘夷論者にはあらず。固より我が砲術の拙きを知り給へば、新に西洋の砲術を学びて神発流と名け胡服は一切用ゐ給はざりしも、夙に藩士をして、甲冑を廃して筒袖・陣羽織に古風の烏帽子を戴かしめ、自ら師範者となりて藩士を訓練せられたり。後には福地政次郎(広延)師範代となれり。
    井伊直弼御詰責のこと
井伊掃部頭 ○直弼。が勅許を待たずして条約に調印せしめし時、予は掃部頭に会ひて其不都合を詰りしが、「既に調印の済みたる上は、もはや取回し難し。さりながら、かほどの大事を独断せし事情は、具に京都へ聞え上げざるべからず。其為には一日も早く貴所等の中何人か上京して、闕下に伏奏すべし」と論じたるなり。予が見る所にては、掃部頭は才略には乏しけれども、決断には富める人なりき。
    三条実美・姉小路公知両卿東下の時の事
三条中納言 ○実美。姉小路少将 ○公知。の両卿、攘夷の勅を奉じて東下せられし時、予は勿論斯かることの行はるべからざるを知れば、老中等に向ひて、「出来ぬものは出来ぬと明に奏上するが覇府の任なり。自ら行はれざるを知りつゝ勅を拝することあるべからず」と切論せしも、老中等「今は謹みて勅諚を拝受し置き、後日人を遣はして京都に周旋せしむるに如かず」といへり。予「そは独り極めの策にして、成功の期すべからざること、一人して囲める棊の如し」と論ぜしも、言行はれざるをもて、遂に後見職辞退の意を決して登営せざりしに、兄なる因州松平(池田)相摸守慶徳。などは予に迫りて、「今更攘夷は行はれずといひては、烈公の先霊に対しても済むまじ、斯くては兄弟とも思はじ」などいひたれば、已むことを得ず再び登営することゝなりしが、此時老中等密に予に向ひて、「今は如何にしても、勅使に向ひて攘夷は出来申さずとはいひ出でられぬ事情あり」といふ。「そは何故ぞ」と問ふに、「是には深き子細のあることなり、初安藤対馬守 ○信睦、後に信行、また信正と改む。等が、井伊掃部頭の遺策にて和宮 ○親子内親王、後に静寛院宮と称す。の降嫁を奏請し、公武合体を計りし時、宮は既に有栖川宮 ○熾仁親王。へ御婚約済にもあり、御自らも関東へ下るをいたく厭はせ給ひしかば、主上 ○孝明天皇。も本人の厭へるものを強ひても下し難しと思召されし由にて、一旦は許されざりしも、幕府にてはさて已むべきにあらず、苦しさの余り、主上の攘夷を望ませらるゝに乗じて、幕府は七・八年乃至十箇年の中に外夷を拒絶すべし、されども之を行ふには、公武合体して国内を整へざるべからず、公武合体の為には、是非とも宮の御降嫁を仰がざるべからずと奏請せしかば、主上も国家の為とあらば余儀なしとて、遂に宮の御東下を許させられしなり。されば今に至り、忽ち前言を食みて攘夷の命を拝せずば宮を取り戻すべしとの勅あること必定にて、其時御返し申すとは如何にしても申し難し。斯かる内情あれば、是非に一たび攘夷の勅を拝して、別に京都に周旋するの外なし」と語り出でたり。此に至りては予も如何ともなし難く、結局勅諚遵奉に賛同する外なかりしなり。此時別に勅使の礼遇改正の一条もありしが、こは朝廷の仰せらるゝ所至当にして、従来将軍上段に坐して勅使を下段に坐せしめしなどは、礼を失するの甚しきものなれば予は此議に賛成して、此時より将軍家勅使
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を玄関まで送迎せらるゝことゝなりしなど、大改革ありたりき。
    攘夷の勅を奉じて帰府し給ひし事
昭徳公 ○家茂公。始めて御上洛ありて攘夷の勅を拝せられたる時、若し将軍家之を奉じて帰府し給はゞ、是非とも攘夷を決行せざるを得ざれども、攘夷は固より行はるべきにあらざれば、幕府は遂に一策を案じて表面攘夷の勅諚奉行は一切予に委任せしこととなし、予をば将軍家に先ちて帰府せしめ、将軍家は尚暫く滞京ありて、朝廷との調節に力むることゝなしたるなり。いはゞ予は将軍家の身代りに帰府せしなれば攘夷の行はれざるはいふまでもなき所なり。予は形勢むつかしくなり行かば、力に及ばすとて責を引きて辞職するまでなりと決心したれば心中にはさしたる苦悶もなかりしなり。
    老中等昭徳公の参内を恐れたる事
昭徳公御上洛の後、度々召に応じて参内し給ふは、主上との御間柄も親しくなりて喜ばしきことなれども、老中等は却ていたく此事を恐れたり。其故は、将軍家扈従の輩とても、天前までも随従するを得るものにあらざれば、国事掛等強ひて将軍家に面謁を求め、若年の将軍家一人のみを相手として彼是申し出づる時、将軍家若し諾ふべからざることに応と宣ふ如きことあらば、取り回しのつかぬ次第となるべければなり。当時幕府にては斯かる心配あれば、成るべく将軍家の参内を避け、已むなく参内し給ふ時には、予は将軍家御扣所麝香の間。前の廊下扣へ居り、将軍家主上に御拝謁の際などには、小御所前又は御学問所前の廊下に扣へ居ることゝなりたり。
    鷹司関白と御談話の事
予上京の後、鷹司関白 ○輔煕。に謁して、詳に外国の形勢を説き、其兵艦の強大なること、銃砲の鋭利なること、さては運転の自在なることなどを語りたるに、関白一々聞取りて、「さもあらん」と云はるゝによりさては幾分、耳目を洞開せられしかと、心密に喜び居たるに、最後に「併し日本人には大和魂あれば」といひ、又「貴所も烈公の御子なれば、必ず攘夷はなされやうな」と奇問を発せられしかば、予はほとほと其度し難きに困じ果てたりき。
    生麦償金支払の事
生麦償金の議起りし時、朝廷は表面には償金は決して支払ふべからずとの論なりしも、鷹司関白・近衛前関白 ○忠煕。・青蓮院宮 ○尊融親王、後に朝彦親王と改む。粟田宮・獅子王院宮・中川宮・尹宮・賀陽宮・久邇宮などと称す。などは、償金を出さんとするには、事情已み難きものあるを諒し居られたり。予は密に其消息に通じ居たれば、何等か機宜の処置を為さんとの考にて、中根長十郎 ○正言。・平岡円四郎 ○方中。の二人を、神奈川なる小笠原図書頭 ○長行、肥前唐津藩世子、後に壱岐守と称す。の許に遣はして諭す旨あり、遂に図書頭は独断にて償金を支払ひ、自ら責を引きて罪を待つことゝなりしなり。斯かる苦策を行ひし所以は、唯京都に俳徊する雑輩の物議を沸騰せしむるを避けんが為のみなれば、図書頭が独断にて償金を支払ひしは寧ろ機宜を得たるものといふべく其後若し単身上京して罪を闕下に待たば、別に御咎を蒙ることもなかるべきに、其失策ともいふべきは、兵を率ゐて上京せしことなり。其目的京都を掃清するにありとせば、かばかりの兵力にては仕果すべく
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もあらず、自己の護衛としては多きに過ぎたり、かたがた其趣意のある所を知らずといふにて、遂に罪せられしなり。
    蛤門の変の事
元治元年、長藩は入京歎願と称して大兵を上せたり。会桑両藩士の中には、此時直に之を討たんの論熾なりしも、予は歎願と称して上京せるものを妄に討つは不可なりと論じて、固く之を制止せり、其後日を経るまゝに形勢益切迫して、遂に暴発するに至りしが、其前夜 ○七月十八日御所より火急に予の参内を促されしかば、今の九時頃にもやありけん予は衣冠・騎馬にて馳せ出でたるに、随ふ者纔に三人ばかりなりき。途中物の具したる兵士に逢ふこと屡なれば、予はもはや事発せしかと疑ひつゝ御所に詣りしに、関白以下予を迎へて長藩の密䟽を示さる。文長ければ子細に読み下す暇なかりしも、末尾に会藩に天誅を加ふとの句ありければ、此一句を見れば足れりとて、直に座を起ち、会桑以下の諸藩に命を伝へて兵を出さしめたり。程なく遥に伏見の方に当りて砲声聞えたり。これ長兵と大垣兵とが戦を開けるにて、十九日午前四時頃の事なり。因りて予も菊亭家に入りて、衣冠を小具足に改め、馬上にて御所の周囲を巡検し、下立売御門の辺に至りしに、鉄砲にて狙撃する者ありしかば、已むことを得ず御台所口より御所内へ引き入りしに、公卿等衣冠の上に襷を掛けて東西に奔走し、甲冑・著込に抜身の鎗・刀などを携へたる警護の兵士等、右に左に俳徊するなど、禁中の騒動大方ならざれば、予は斯く乱りがはしくてはとて、一旦兵士等を逐ひ出し、新に部署を定めて配置したり。時に主上は早くも予が狙撃せられし由を聞召して、軫念あせられ、有難き勅諚を賜はりければ、予は叡覧の如く恙なき由を申して退けり。斯くて予は御所の塀外に陣を構へて指揮し居たるに、急ぎ参るべき由御沙汰ありしかば、取りあへず参内したるに、鷹司家に潜伏せる長兵が塀越しに打ち出す銃丸、戞々として屡玉座の軒端に中り、玉体の危険いふべからず。此時長州荷担の堂上等、裏松前中納言(恭光)其首魁たり。頻に長州と和睦すべしと主張し、万一玉体に御異変あらば、禁裏御守衛総督たる職掌立つまじなどいへり。予は断然其議を斥けしも、時移らば、或は朝廷より直接に長州の入京御免の御沙汰出でんも知るべからず、さては一大事なり、一刻も猶予し難しと考へければ、此に必死の覚悟を極めて、玉体の御安全は確に御請合申し上ぐべしと、申しもあへず御前を退き、直に会桑並に大砲方に命じて、鷹司家に火を放たしめたれば、此処に潜める長兵或は死し或は遁れて、漸く玉体の危険を除くことを得たり。これ正午過の頃なり。其後予は承明門を陣所と定めて御所を警衛せしに、二十日の午後三時頃なりけん、禁裏附糟谷筑後守 ○義明。より密報ありて、十津川郷士今夜鳳輦を奪ひ奉らんの企あり、支配向探索方の者、かの一味の輩の密話を聞けりといへり。同時に又何れよりなりしか、郷士等既に禁中に入れりと告ぐる者ありしかば、予は大に驚き、先づ筑後守をして、会桑両藩に内報して、密に其兵を常御殿の塀外に繰り込ましめ又自ら伝奏によりて関白にも申し上げしめ置き、やがて参内したるに主上常御殿にましまして、御縁側には一つの板輿を舁き居ゑ、麻上下を著けたる者数十人其傍に跪けり、因りて予は急ぎ奏して主上を紫宸
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殿に移し奉り、又会桑の兵を御庭内に繰り込ましめければ、郷士等も所詮事成らずとや思ひけん、板輿を擁して出で去りたり。誠に危機一髪の処なりき。後に聞けば御所の裏門の錠捩ぢ切りありて、彼等は此より入りしと覚しく、又宮中にも手引せる者ありしと思はれたり。
予の生涯に必死の覚悟を定めしこと凡三度なりしが、此度は実に其一度なりき。他の二度は、条約勅許奏請の時と、官軍江戸討入の時となり。
    条約勅許御奏請の事
慶応元年、英・仏・米・蘭四国の軍艦兵庫に来りて、兵庫の開港を迫れることあり、風聞には、全く薩州の計策にて、当時薩州は既に長州と合体したれば、長州を助けて幕府を苦しめん為、英国と牒し合はせて、英国より他の三国を勧め、将軍家の大坂に居らるゝを幸ひ、共に兵庫に入り来りしなりといへり。此時昭徳公遽に予を大坂に召されしかば、夜半に京都を発して、翌朝未明、星影の尚閃く頃大坂に著きたるが、それより直に登城するも詮なければ、先づ阿部豊後守 ○正外。の旅館に至りて対談したり。是より先、豊後守は松平周防守康直、後に松井康英と称す。松前伊豆守 ○崇広。等と謀り、外人の逼迫すること急にして、纔に猶予せしめたる一日の期間には、到底勅許を奏請すること能はず、よし奏請すとも容易に勅許せらるまじければ、寧ろ独断にて開港を許すに如かずと考へ、周防守は其旨を伝へん為、既に今暁兵庫に向ひたる由なりければ、予は大に驚き、「そは以ての外なり、斯かる重事は、将軍家自ら御上洛ありて、是非に勅許を仰がれざるべからず、さなくてはゆゝしき大事に及ぶべし、既に戊午 ○安政五年。の先蹤もあることなり、此上は微力ながら某も京都へ引き返し、死力を振ひて勅許を下さるゝやうに周旋すべし」とて豊後守を説伏し、急ぎ周防守を呼び戻さしめたり。恰もよし、此時大坂町奉行井上主水正 ○義斐。は、外人より一週日の決答猶予を得て、兵庫より帰り来れり。初主水正は、事の容易ならざるを見て兵庫に赴き、外人に決答の猶予を求めしが、外人等幕府の因循にして、猶予の期間に事を処する能はざるべきを疑ひて、輙く応ずべくもあらざれば、主水正はさらばとて、刀を抜き、自ら指を切りて信を示さんとせしに、是より先、主水正は屡指を切りて外人を説得すべしといひ居りしが、後遂に実行したりと聞く。さしも強硬に逼迫せる外人も、其赤心に動かされけん、漸く一週日の猶予を諾せしかば、主水正は急ぎ大坂に引き返す途中にて、周防守に行き逢へるなりとぞ。斯くて予も少しく心を安んずることを得たれば、「さらば将軍家速に御上洛ありて、勅許を仰ぎ給ふべし、某は先づ帰京して先容をなし申さん」とて、直に京都へ引返せり。時に朝廷にては、既に老中が専断にて開港を許すに決したりと聞きて、公卿等の激昂一方ならず、遂に朝命を以て阿部豊後守・松前伊豆守の老中を免ぜらる。斯く朝廷より直に幕吏を免黜せらるゝは、曾て前例なきことなれば、老中等は不満に堪へず、殊に今は老中とては、松平周防守一人のみ在職することゝて、如何ともせんすべなければ、窘窮の余り、将軍家に勧め病と称して将軍職を予に譲らしめ、己等は昭徳公を擁して東帰せんと企てたり。斯くて其由直に大坂にて布告しければ、其書は翌朝予が許に達したり。予は余りなる突然の事に驚きしも、是には深き子細あるべし、ともかくも下坂して事情を質さんとて、布告の旨を会桑にも
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通達し、共々下坂して尽力せんことを求め置き、一人先づ京都を出発したるに、伏見にて尾張玄同 ○大納言徳川茂栄、後に一橋家を継ぐ。の上京するに行き逢へり。予は「何御用にて上京せらるゝや」と尋ねたるに、「御使なり」といふ。「何事の御使ぞ」と問ふに、「今は申されず」といふ。「こは怪しからぬ御申状かな、不肖ながら御守衛総督の任にある某に向つて、御使の筋を明かされぬことやある、是非に承らん」と詰り問へども、玄同は尚も明かし難しと拒みしかば、予は懐中よりかの布告を取り出して、「貴所の明かされずといはるゝは此事なるべし」とて示せしに、玄同大に驚き、「さては己は欺かれたり、如何にも己は御譲職の事奏聞の仰を蒙りて上京するなり、事果つるまでは堅く秘め置かるべき筈なるに、早くも布告せられしは、己を誑られしなり、斯くては御使も勤め難し」とて、憤ること甚しければ、予は之を宥めて、「今更立腹せらるるも詮なし、某は是より下坂して事情を質すべければ、貴所はともかくも上京して関白殿下 ○二条斉敬。へ申し上げ置き、某が報告を待たるべしさすれば貴所の使命も全かるべし」とて、先づ原市之進 ○忠成。をして、玄同より言上の事ありとも、決して御許容あらせられざるやう、内々関白へ申し上げしめ置き、其儘大坂に向ひしに、八幡を過ぐる頃、将軍家の行列に行き逢へり。因りて伏見に引き返し、御著駕を待ちて拝謁を願ひしに、若年寄出で迎へて、予が佩刀を執らんとせり、これ将軍に対する礼なれば、予は「さる戯したりとて何にかはせん」とて、之を止めて将軍家に謁したるに、打ち見たる所少しも御病気とは思はれねば、「拝する所御病体とは見受けまつらず、如何なる御病気にかましますらん」と伺ひしに、将軍家「何処にも病なけれど、年寄どもの斯く申せといへるなり」と実を語らせらる。因りて予は「畏り候」とて出でゝ老中等を見、「何故に斯かる処置に出でしぞ」と詰りしに、「何分微力にて兵庫開港の勅許を得ること能はず、さりとて外人の逼迫も亦甚だ急なれば、将軍職を貴卿に御譲りあらんやう勧め奉りしなり」といふ。「さては某ならば事仕果すべしと見込みての企にや」と問ふに「強に然か思ひ定めしにはあらねども、貴卿ならば何とか計らひ給はんすべもあるべしと思ひてなり」といふ。予も此に於て如何にか結末をつけざるべからざる勢となりしかば、此上は身命を賭して今一たび朝廷に奏請せんと決心し、老中にも其意を告げて、将軍家には御上洛の上二条城に入らせらるゝやう申し上げ置き、直に京都へ引き返し、主上に拝謁して、条約勅許・兵庫開港の、已むを得ざる理由を奏聞して、御聴許あらんことを請ひ奉り、尚委しくは国事掛に申し上ぐべしとて、国事掛総員の出席を求めて、懇々国家の利害を説き、或は詳に外国艦砲の威力を語り、「今にして条約を勅許せられずば、国難立ろに生ぜん」と、嚇しつ賺しつ論弁を尽したれども、関白以下頑として肯ぜず、果ては其儘退散せられんず気色なりければ、予は色を作して、「某不肖ながら多少の人数を有せり、斯かる国家の大事を余処に見て退散せらるゝが如きことあらば、其儘には済ませ申すまじ」と述べたるに、関白も已むを得ずして席に復せられたり。時に小笠原壱岐守も席に列せしが、「公等若し飽くまで固執せられなば、今に皆ちやんちやん坊主とならせらるべし」と放言せしかば、予は其の失言を制しつゝ、
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尚も関白以下に向ひて、「斯くまで申し上ぐるも御許容なきに於ては、某は責を引きて屠腹すべし。某が一命は固より惜むに足らざれども、某若し命を捨てなば、家臣等各方に向ひて如何なることを仕出さんも知るべからず。其御覚悟ある上は御存分に計らはせらるべし」といひ捨て座を起ちしに、さすがに恐ろしかりけん、暫くとて関白始め退座ありて、何か評議の体なりしが、やがて伝奏両人出座して、条約勅許の御沙汰書を渡されたり。関白等は再び出座せられず。又御沙汰書の文面は予て予等が内議して申し請へるまゝなりき。されど兵庫の開港は、如何にしても許され難しとの事なれば、予は此上兵庫の開港までとありては中々困難にて、首尾よく仕遂ぐべしとも思はれねば、御沙汰書に、「条約の儀御許容あらせられ候間、至当の処置致すべき事」とあるを幸ひ、兵庫開港御差止の廉は暫く曖昧に附し置き、外人若し御沙汰書の文意を詰らば、「条約勅許せられ、至当の処置致すべしとある上は、兵庫の開港は勿論なり、開港を諾せずば至当の処置とはいふべからず、然るに一方に兵庫の開港御差止とあるは、未だ期限の来らざるが故なり」と弁解して、一先づ此局を結ばんことに定めたり。是亦予が生涯に三度死を決したる中の一度なりき。
    将軍職を襲ぎ給ひし事
昭徳公薨じ給ひし時、板倉伊賀守 ○勝静、後に松叟と称す。永井主水正 ○尚志、後に介堂と称す。は御遺命と称し、予に相続を勧めて已まず、予は「先年御養君の一件ありて、予に野心ありしが如く世に伝へられしことあれば、今若し足下等の言に従はゞ、愈世評を実にするものなれば、受け難し」とて拒みしに、両人は「仰せ誠に御道理にはあれども、今国歩艱難の際、貴卿ならでは局に当り給はん人なし、とかくの御議論なくして受けさせ給ふべし」といふ。されど予は、尚辞して聴かず、「たとひ朝廷より御沙汰ありとも御受はすまじ」といへるに、両人は「決して朝廷の御沙汰を請ふやうの事は仕らず、唯誠意を以て、貴卿の御許諾を待つのみなり」とて、それより後は日毎に来りて、「今日は如何に、今日は如何に」と迫るのみなりき。されば予も此間に思ひ運らす節ありて、密に原市之進を召して衷情を語り、「板倉・永井の両人には、先年の御養君一件を以て辞とせしも、実を云はゞ、斯かることは何れにてもよし、唯熟考ふるに、今後の処置は極めて困難にして、如何に成り行くらん思ひ計られず。何れにしても、徳川の家を是までの如く持ち伝へんことは覚束なければ、此際断然王政の御世に復して、ひたすら忠義を尽さんと思ふが、汝の所存は如何に」と問へるに、市之進は「御尤の御存寄なれども、若し一著を誤らば非常の紛乱を招くべし。第一斯かる大事を決行するに堪ふる人の候や、今の老中等にては、失礼なから仕果せらるべしとも思はれず、又人材なきにあらざれども、今の御制度にては、俄に軽輩を登庸して大事の局に当らしめ難し。されば寧ろ力の及ばん限り、御祖先以来の規範を御持続ある方宜しからん」といへり。斯かる次第なれば、予も未だ政権奉還を此際に決行するを得ずして、遂に板倉・永井を召し、「徳川家を相続するのみにて、将軍職は受けずとも済むことならば、足下等の請に従はん」といひしに、それにても宜しとの事なりしかば、遂に宗家を相続することゝなれり。されども一旦相続するや、老中等は又将軍職をも受けらるべしと強請せる
 - 第27巻 p.469 -ページ画像 
のみならず、外国との関係などもありて、結局之をも諾せざるを得ざるに至れり。斯かる次第にて、予が政権奉還の志を有せしは実に此頃よりの事にて、東照公 ○家康公。は日本国の為に幕府を開きて将軍職に就かれたるが、予は日本国の為に幕府を葬るの任に当るべしと覚悟を定めたるなり。
    政権御奉還の事
土州の後藤象二郎 ○元燁。・福岡藤次 ○孝弟。等が松平容堂 ○山内豊信。の書を持ち来りて政権奉還を勧めし時、予はこれ予ての志を遂ぐべき好機会なりと考へければ、板倉・永井等を召して其旨を告げしに、二人も「今は余儀なき次第なり、然か思召さるゝ上は決行せらるゝ方宜しからん」
と申す。予又、「本来いへば、祖宗三百年に近き政権を奉還することなれば、譜代大名以下旗本をも召して衆議を尽すべきなれども、さありては徒に紛擾を招くのみにて、議の一決せんことを望むべからざれば寧ろ先づ事を決して、然る後知らしむるに如かざるべし」といひしに三人亦之に同じたれば、後藤・福岡は勿論、薩州の小松帯刀 ○清廉。を始め、諸藩の重役を召して此由申し聞けたるに、後藤・小松等は「未曾有の御英断、真に感服に堪へず」といへり。小松は又板倉に向ひて、「既に斯く決せられたる上は、是より直に参内奏聞し給ふべし」といひしかど、さる運びにもなり難しとて、翌日に至りて上表したり。
さて斯く政権を奉還したるものゝ、朝廷には更に人物なく、人材登庸も亦容易に行はるべきにあらず、さればとて直に外国の制度に傚はんことは、尚更容易ならざれば、折角国家の為にと思ひし政権奉還が、却て日本の大害となることもやと、案じ煩ふこと一方ならざりしが、やがて朝廷よりは、「奏聞の趣尤に思召され、政権奉還の儀聞召さる、但国家の大事と外国の事とは、衆議を尽したる上にて決定せらるべければ、其他の小事は暫く従前の通りたるべし」との御沙汰あり、尋で王政復古を仰せ出されたり。
此時老中以下は、一旦余儀なく政権奉還に賛同せしものゝ、内心には「朝廷とても、よもや一応の押し返しもなく、直に聴許せらるゝ如きことなかるべし、必ずや尤の次第ながら、先づ従前の通りたるべしとの御沙汰あらん」と期待せしに、案に相違して直に聴許せられしかば失望はやがて不満となりて、在京の面々は勿論、江戸より馳せ上れる人々等、入代り立代り日毎に予に見えて、「何故に政権を奉還し給ひしぞ、今に至りて徳川家を潰しては、東照宮に対しても、御申訳あるまじ」など、口々にいひ罵りたれど、予は予て覚悟の事なれば、皆自ら一々に説破したるに、尚も「仰せ誠に御尤にはあれど、如何にも残念なり」といふもあり、又「何処までも御祖先に済まず」といふもありたり。板倉・永井の如きは能く事情に通じたれども、関東の者は総じて時勢に疎く、頗る説破に困じたり。
薩長両藩に下されたる討幕の密勅は、是より先既に内定ありしが、政権奉還の後にては妙ならされば、其以前に発すべしとて、予の上表と殆ど同時に発せられたりといふ。蓋し小松は此間の消息に通ぜるを以て、唯今直に奉還を奏聞せよと勧めたるものなるべし。
    二条城を出でゝ下坂し給ひし事
 - 第27巻 p.470 -ページ画像 
王政復古を仰せ出されし日、尾張大納言 ○徳川慶勝。等二条城に来りて、「朝廷にては王政復古を仰せ出されしも、経費なくして何の施設もなし難ければ、徳川家高の中二百万石を献上し又内大臣をも辞せらるべし」との勅諚を伝へたり。予は「御尤の仰せながら、幕府の高四百万石とはいへども、実際は二百万石に多くは過ぎじ、故に二百万石とありては差支も少からざれば、一応老中以下にも申し聞けたる上にて、御請も申し上ぐべし」と答へたり。予は朝廷の御入用は、諸大名一般に、高に応じ割賦して献上せしむる方可ならんと考へたりしなり。
右等の事情も漏れしにや、城中の兵士等大に激動し、老中等も亦、「朝廷も余りといへば御無体なり、これ全く薩人等の勅旨を矯むるなり」とて、愈兵力に訴へんの議あり。予は力を極めて之を制し、板倉・永井等も、予が旨を体して鎮撫に力めしも、兵士の激動は容易に鎮静せず。されば予は闕下に騒乱を発せんことを恐れ、別に深謀遠慮ありしにあらざれども、唯刻下の形勢を緩和せんと欲するばかりに、一先づ大坂に下らんと決心し、状を具して朝廷に届け出で、「勅許を待ちて発すべきなれども、危機旦夕に迫れば、余儀なく之を待たずして下坂仕る」と奏聞し、城をば大場一真斎 ○景淑、主膳正と称す。に預け、城中の兵を挙り会桑の兵をも引き纏めて西下したり。
此頃松平豊前守 ○正質、後に大河内氏を称す。は外国公使に向ひて、徳川家は朝廷の御委任により依然外交の事を掌る旨通告し、御委任状をも作りて示したりといふ。蓋し当時仏国公使より「徳川家政権を有せらるゝ間は仏国は飽くまで御味方すべきも、政権を奉還せられし上はさもなり難し」と申し出でしかば、豊前守は「今外国の助を失ひては一大事なり」とて、予に勧めて御委任状を示さんと企てたれども、予は固く執りて許さゞりしかば、豊前守は已むを得ずして、上に述ぶるが如く、密に御委任状を作りて外人に示したるものなるべし。
    鳥羽伏見の変の事
予既に大坂城に入り、物情の鎮静に力めしも、上下の激昂は日々に甚しき折から、江戸にて市中警衛の任を負へる庄内の兵と、薩藩の兵と争端を開きしかば、大坂城中上下の憤激は一層甚しきに至れり。後日江戸に帰りし時、在京の薩藩士吉井幸輔 ○友実。より、在府の同藩士益満休之助に贈れる書状を見たるに、「慶喜は大坂にありて案外謹慎なり此分にては或は議定に任ぜられんも計られざれば、今暫く鎮まり居るべし」との文意なりき。是によりて見るに、江戸の薩邸に集まれる浪人が、庄内兵の屯所に発砲するなど、殊更幕威を凌犯するに力めしは全く薩藩の使嗾に出でたるを知るべし。されば江戸にても此上幕威を保つには、是非とも薩邸を討たざるを得ざる勢となりて、遂に干戈を交ふるに至りしが如し。
 因にいふ、休之助は江戸の薩邸にありて東西画策の任に当りしが、かの薩邸焼討の際、機密書類押収の結果、嫌疑を免るゝこと能はずして、幕府に拘禁せられたり。然るに其後山岡鉄太郎○高歩、鉄舟と号す。が謝罪謹慎を総督府に歎願するに当りて、途中の危険を慮り、休之助の拘禁を宥して之に案内せしめたりき。
さて大坂城中にては、上下暴発の勢殆ど制し難く、松平豊前守の如き
 - 第27巻 p.471 -ページ画像 
は、「令を出して、大坂を俳徊せる薩人一人を斬る毎に十五金を与へん」などゝ、無謀の議を出すに至りしも、予は此の如きは血気の小勇なりとて制止せり。時に京都より、越前の中根雪江 ○師質。尾州の某等四五人下坂して、予の入京を勧めたれば、予もさらば軽装を以て入京せんと考へたりしかど、会桑両藩以下旗本の者等之を聴かず、「好機会なれば十分兵力を有して入京し、君側を清むべし」と主張し、老中以下大小目付に至るまで、殆ど半狂乱の有様にて、若し予にして討薩を肯ぜずば、如何なることを仕出さんも知るべからず、何さま堅く決心の臍を固め居る気色なりき。
 新村氏曰く、当時の大小目付部屋の光景は驚くべきものにして、孰も胡坐し、口角泡を飛ばして論議し居れる有様、殆ど手を下さんやうもなかりき。
此時予は風邪にて、寝衣のまゝ蓐中にありしに、板倉伊賀守来りて、将士の激昂大方ならず、此儘にては済むまじければ、所詮帯兵上京の事なくては叶ふまじき由を、反復して説けり。予乃ち読みさしたる孫子を示して、「知彼知己百戦不殆」といふことあり、試に問はん、今幕府に西郷吉之助 ○隆永、後に隆盛と改む。に匹敵すべき人物ありやといへるに、伊賀守暫く考へて、「無し」と答ふ。「さらば大久保一蔵 ○利通。ほどの者ありや」と問ふに、伊賀守又「無し」といへり。予更に吉井幸輔以下同藩の名ある者数人を挙げて、「此人々に拮抗し得る者ありや」と次々に尋ぬるに、伊賀守亦有りといふこと能はざりき。因りて予は、「此の如き有様にては、戦ふとも必勝期し難きのみならず、遂には徒に朝敵の汙名を蒙るのみなれば、決して我より戦を挑むことなかれ」と制止したり。されども、板倉・永井等は頻に将士激動の状を説きて「公若し飽くまでも其請を許し給はずば、畏けれども公を刺し奉りても脱走しかねまじき勢なり」といふ。予は「よもや己を殺しはすまじきなれども、脱走せんは勿論なるべし、さては愈国乱の基なり」とひたすら制馭の力の及ばざるを嘆ぜしが、江戸にて薩邸を討ちし後は、尚更城中将士の激動制すべからず、遂に彼等は君側の姦を払ふ由を外国公使にも通告して入京の途に就き、かの鳥羽・伏見の戦を開きたり。予は始終大坂城中を出でず、戎衣をも著せず、唯嘆息し居るのみなりき。此際の処置は、予も固より宜を得たりとは思はざりしも、今にていへばこそあれ、当時の有様にては実にせんすべも尽き果てゝ、形の如き結果に立ち至りしなり。
    東帰御恭順の事
予開陽丸に搭じて江戸に帰る時、船中にて、此上はひたすら恭順の外なき旨、始めて板倉以下に申し聞けたり。勿論此決心は既に大坂を発する前に定まり居たれども、当時は聊も之をば漏らさゞりき。されば帰府の後勝安房守 ○義邦、海舟と号し守後に安芳と称す。予に勧めて、「公若し飽くまで戦ひ給はんとならば、宜しく先づ軍艦を清水港に集めて東下の敵兵を扼し、又一方には薩州の桜島を襲ひて、敵の本拠を衝くの策に出づべし」といひたれども、予は「既に一意恭順に決したり」とて耳をも傾けざるより、勝も「然らばそれなりに尽力仕るべし」とて、遂に西郷吉之助と会見して、江戸討入を止むるに至りしなり。勝の此時の態度は、
 - 第27巻 p.472 -ページ画像 
世に伝ふる所とは聊異なるものあり。総べて勝の談話とて世に伝ふるものには、多少の誇張あるを免れず。


渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK270129k-0004)
第27巻 p.472 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年       (渋沢子爵家所蔵)
九月八日 晴 風強シ 暑         起床六時 就蓐十一時三十分
○上略 夜飧後御伝記草案ヲ一読セシム
   ○中略。
十月二十八日 曇 冷           起床七時 就蓐十二時
○上略 午前十時兜町事務所ニ抵リ ○中略 慶喜公伝記編纂事務所ニ於テ萩野小林・江間ノ諸氏ト会談シ ○下略
   ○中略。
十一月十日 晴 冷            起床七時三十分 就蓐十一時三十分
○上略 午後二時半王子ニ帰宅ス、三時徳川両公爵・三上・萩野・小林・江間ノ諸氏来リ会シ、公爵伝記ノ事ニ関シ協議ス、夜飧後更ニ雑話ニ更ヲ重ネ、夜九時散会ス


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK270129k-0005)
第27巻 p.472 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十一日 晴 軽寒
○上略 夕方江間政発来リ、紀料編纂事務及楽翁公ニ関スル談話アリ ○下略
   ○中略。
二月二十五日 晴 寒
○上略 小石川徳川公爵邸ニ抵リ、豊崎家令ニ面会シテ公爵御伝記ニ関スル要務ヲ談ス ○下略
   ○中略。
三月一日 雨 寒
○上略 九時過朝飧ヲ食ス、食後徳川公爵御伝記ノ初稿ヲ読ミ意見ノ書入ヲ為ス、畢テ紀料ヲ通覧ス
○下略
三月二日 曇 軽寒
○上略 午前十時兜町事務所ニ抵リ ○中略 午後一時過ヨリ徳川公爵及三上・萩野・小林其他御伝記編纂関係ノ人々来会セラル、依テ爾後編輯ノ手続ヲ調査シ将来ノ順序ヲ協議ス、畢テ公爵ニハ囲碁会ヲ開キ碁伯ヲ招キテ余興トス、午後七時一同晩飧ヲ為シ ○中略 夜十時散会 ○下略
   ○中略。
三月二十四日 晴 暖
○上略 午前九時林外務大臣ヲ官舎ニ訪ヒ、徳川公爵御伝記ノ事ニ関シ沿革ヲ詳叙シ、紀料其他ノ書類ヲ示シテ一考ヲ乞フ ○下略
   ○中略。
五月八日 晴 暖
○上略 食後 ○午後林外務大臣ヲ官舎ニ訪ヒ、徳川公爵伝記ノ事ヲ談ス ○下略


渋沢栄一 日記 明治四二年(DK270129k-0006)
第27巻 p.472-473 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四二年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十日 雪 寒甚シ
○上略 老公爵伝記草案ヲ調査ス ○下略
 - 第27巻 p.473 -ページ画像 
一月十一日 晴 寒
○上略 朝飧後老公爵ノ伝記草案ヲ調査シ ○下略
   ○中略。
一月十八日 雨 寒
○上略 九時朝飧ヲ食シ、後老侯ノ伝記草案ヲ読ム、午前後ニテ二冊ヲ読過シ、且処々字句ノ修正ヲ為ス ○下略