デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

5章 学術及ビ其他ノ文化事業
3節 編纂事業
1款 徳川慶喜公伝編纂
■綱文

第27巻 p.478-480(DK270131k) ページ画像

明治42年5月6日(1909年)

是日、第三回昔夢会王子飛鳥山邸ニ開カレ、栄一出席ス。


■資料

昔夢会筆記 渋沢栄一編 上巻・第四一―四五頁 大正四年四月刊(DK270131k-0001)
第27巻 p.478-480 ページ画像

昔夢会筆記 渋沢栄一編  上巻・第四一―四五頁 大正四年四月刊
  第三
      明治四十二年五月六日飛鳥山邸に於て

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  興山公    男 爵    渋沢栄一   豊崎信君         渋沢篤二   猪飼正為君 法学博士   穂積陳重         法学博士男爵 阪谷芳郎         文学博士   三上参次         文学博士   萩野由之                江間政発                小林庄次郎 



    烈公御直諫の事
 安政五年正月二日、堀田備中守の懇願によりて烈公を御直諫あらせ
 - 第27巻 p.479 -ページ画像 
られ、事果てて後、備中守へ鞍、土岐丹波守頼旨。・川路左衛門尉・永井玄蕃頭尚志、後に主水正と称す。・岩瀬肥後守・井上信濃守清直。へ唐織を賜はりしこと、昨夢紀事に相見え候、果して紀事の如くに候や。
小石川邸に赴きて烈公を諫め申したる始末は、大意本書の記す所の如くなれども、此時備中守が予に依頼せし所以は、旧冬烈公が川路・永井等に向ひて御暴言ありし廉去年十二月二十九日、烈公が「備中守に腹切らせ、ハルリスの首を刎ぬべし」など仰せられしは事実なり。もさることながら、主眼は寧ろ他にありしなり。そは烈公は姻戚の間柄なる鷹司家に対し、年来国事につきての御文通ありしが、其御議論、幕議と合はざるのみならず、在京の有志等之を伝聞して過激の言動をなす者多く、老中等も制馭に苦しみ当惑したれば、何とぞして烈公が京都への御文通を止め申さまほしく思へる折から、御暴言の事ありしかば、遂に予に請ひて右の一条を諫め申さんとしたるなり。さて予は烈公が、「数百万人を引率して亜米利加に渡航せん、百万金を得て大坂城を借らん」など仰せ立てられし御暴論の廉々、並に過ぎし甲辰の年 ○弘化元年。の御寃罪の所由などを論ひて、「今後は京都への文通は一切思ひ止まり給ふべしとの一筆を、備中守へ遣はされたし」と申し上げたれど、烈公更に聴き入れ給はず「国家の大事について意見を申し進むるに、何の疚しきことかあらん」と争がひ給ふ。予は「そを公辺へ言上あるは固より至当の事ながら、之を差置きて直に京都へ仰せ進められんこと決して然るべからず」と、顔を犯して諫め申せしが折ふし御同席なりし貞芳院様 ○公の御母、名は吉子、登美宮と称す、有栖川宮織仁親王の女、文明夫人と諡す。も傍より詞を添へて、「刑部の申す所、理にこそ候へ、御過を謝し給はんこと然るべからん」と仰せられしかば、烈公も遂に頷かせ給へり。されば備中守へ賜はりし御書には、御暴論の廉は軽く書き流して、此後は京都へ御文通の事あるまじき由をば、むねと記させ給へり。此時烈公怒を発して御座を起たせられ、予御裾を押へてなど伝ふるは、修飾に過ぎたり。さて予は川路等を一橋の邸に召し、御書をば備中守に伝達せよとて渡せしに、川路は何とか思ひけん、つくづくと予が顔を見守り居るにぞ、「疑はしくば小石川に赴きて伺ひ申せ」といひたれば、川路は始めて平伏したりき。後に平岡円四郎に聞くに、川路は此事を語り出でゝ、「己は決して公を疑ひまつりしにはあらねど、公より疑はしくばと仰せられしには、誠に以て恐れ入りたり」といひしとぞ。
唐織は一日川路・永井・岩瀬の三人、外国の事情を申さんとて一橋の邸に来りし時、此三人にのみ与へしにて、烈公御暴論一条の時には、川路・永井のみ来邸せしと覚え居れり。且唐織を烈公の御身の上によそへて三人を暁諭したりとあるは、全く記者の潤飾なり。又鞍を備中守に遣はしたることは確に記憶せざれども、一橋家の馬の事にあづかる村田円左衛門なる者へ二口の鞍を見せて、他へ贈物とするには孰かよからんと尋ねたることを記憶すれば、其一つを備中守に遣はしたるかと思ふなり。
 按ずるに、正月四日川路・永井・岩瀬の三人一橋邸に伺候せること一橋家日記・及痴雲随筆に見えたり、唐織を賜ひしは恐らくは此日の事なるべく、昨夢紀事に三日の事とせるは誤ならん。川路・永井の二人のみと仰せられたるは、公が御記憶の誤なるべし。
 - 第27巻 p.480 -ページ画像 
    一橋邸にて御謹慎の事
 安政六年の御謹慎中の御模様を伺ひたく候。
慎隠居を命ぜられし後は、昼も尚居間の雨戸を閉ぢて、唯二寸ばかりに切りたる竹を処々に挿み、細目に開きて光を取れり。されば縁側に出でねば、暗くして書見もなし難かりき。朝は寝所を離るゝより麻上下を著用して、夏の暑きにも沐浴せず、勿論月代をも剃ることなし。幕府より見廻りあるにもあらねば、寛ぎ得られざるにはあらざれども身に覚なくして、罪蒙りたるなれば、一つには血気盛りの意地よりして、斯く厳重に法の如く謹慎したりしなり。さればにや思ひしよりも早く、慎み方よろしとの廉にて御免となれり。最初慎を申渡さるゝ時は、唯書附を家老に渡されしのみ。抑三卿は幕府の部屋住なれば、当主ならざる部屋住の者に隠居を命ぜらるゝは、其意を得ざることなりと、当時専ら批判したり。
    国の為民の為とての歌の事
 「国の為民の為とて暫し世を、忍が岡に墨染の袖」といふ歌は、公が上野に御謹慎中の御歌なりと専ら世に伝へ申候、さやうに候や。
此歌は予が詠めるにあらず、幕府の坊主大竹三悦が詠めるなり。


渋沢栄一 日記 明治四二年(DK270131k-0002)
第27巻 p.480 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四二年     (渋沢子爵家所蔵)
五月六日 曇午後大雨 暖
○上略 午後二時頃ヨリ茶席ニ於テ御伝記ニ関スル談話会ヲ開キ、公爵以下関係者悉ク来会ス、畢テ四時過キヨリ宴会ニ移リ種々ノ余興アリ、夜十時過散宴ス
   ○中略。
六月二日 曇 暑
○上略 大六天《(第六)》ニ抵リ ○午前徳川公爵ヲ訪ヒ・御伝記ノ事ニ関シ種々ノ談話ヲ為ス ○下略