デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

5章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 新聞・雑誌・出版
3款 東京日日新聞
■綱文

第27巻 p.520-530(DK270139k) ページ画像

明治15年(1892年)

是ヨリ先明治五年、条野伝平・落合芳幾・西田伝助等東京ニ於ケル最初ノ日刊新聞ヲ創刊シ「東京日々新聞」ト称ス。明治七年以後福地源一郎社長タリ。是年、当新聞ノ発行所タル日報社ソノ組織ヲ更ムルニ際シ、栄一出資ヲナシ、同二十二年ニ至リ関直彦社長タリシモ、栄一引続キ援助ヲ与フ。後ニ至リ同社トノ関係ヲ断ツ。


■資料

青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第七〇〇頁 明治三三年六月再版刊(DK270139k-0001)
第27巻 p.520 ページ画像

青淵先生六十年史 竜門社編  第二巻・第七〇〇頁 明治三三年六月再版刊
 ○第五十八章 公益及公共事業
    第二十一節 新聞及雑誌
青淵先生ノ多少関係ノ新聞紙ハ数多アリ、其中ニテ最モ関係ノ深カリシハ東京日々新聞ト中外商業新報是ナリ
東京日々新聞ハ我邦ニ於テ最モ古ルキ新聞紙ナリ、慶応四年東京日々新聞ト称スル雑誌様ノ刊行アリ、其日々ノ刊行トナリタルハ明治五年二月ナリ、福地源一郎同新聞ノ主筆トナリテ以来声価高ク我邦ニ於ル政治新聞ノ模範トナレリ、先生ハ明治十四年以来同新聞社資本主ノ一人トナリ、後チ関直彦ノ福地ニ代リ主筆タリシトキ、先生ハ業務ニ就テモ指図ヲ与ヘタルコトアリシカ、今ハ組合ヲ脱セリ
○下略


懐往事談附新聞紙実歴 福地源一郎著 第二〇三―二〇七頁 明治二七年四月刊(DK270139k-0002)
第27巻 p.520-522 ページ画像

懐往事談附新聞紙実歴 福地源一郎著  第二〇三―二〇七頁 明治二七年四月刊
 ○新聞紙実歴
    ○再び新聞記者たるの念を起したる事
其後余は、渋沢栄一氏の紹介にて初めて伊藤伯の知を辱くして、褐を政府に釈き、米国に随行し尋て岩倉公の一行に欧米巡回に随伴し、廟堂の上に於て諸公に知られたるが、中にも此伊藤伯と木戸侯・井上伯山県伯の四公に負ふ所の知遇は、廿余年来、常に余が心肝に感銘して忘るゝこと能はざる所なり。此知遇を得たる上に、其議論とても、時に或は相合はざるもの往々にして無きに非ざりしと雖ども、立憲君主制漸進の方向を執らざる可からずと云へる大本大主義に至りては、固より其見を同くしたるを以て、親密も亦自から一層の深を加へ、此諸公の後に従つて、以て我才を試んと欲したるは、余が当時よりしての素願なりき。而して此素願は、期せずして東京日々新聞に於て顕はれたりき
東京日々新聞は余が欧米巡回中(明治五年二月)東京に創立せられたり。余は明治六年の夏に使節に先ちて帰朝し、井上伯に属して財務一
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部の局に当らんと窃に期したりしに(是は前年米国に於て公債紙幣処分に付き視察調査したる関係よりの事なりき)其時井上伯は財政の目的に付き大に大隈伯と所見を異にし、渋沢氏と連署して意見書を政府に捧け其冠を挂られたり、且や廟堂は征韓論の気焔太た熾にして、幾と軍隊政府の如き状況を為したれは、余が予期は先づ画餅に属したり尋て使節帰朝の後は征韓論可否の分裂となりて内閣の更迭を来たし、西郷・板垣・副島・後藤の諸公は政府を去りて、政府は岩倉・大久保大隈・伊藤の諸公を以て内閣を組織せられ、木戸侯は却て客位に備はられたりき。此時余は心窃に感ずる所ありしかば、知遇の諸公及び信友等の諫を拒絶して遂に明治七年の秋に至りて辞職したり。扠かく辞職の上は、何を以て是より我身を立べき乎と世上を観望したるに、余に取りては新聞紙の右に出る地位は無し、新聞紙を機関として筆に任せて書立つるものならば、遂には余が意見を世に行ふ事を得べしと考へたり、朋友は皆これを聞て辞職したるだに足下が為には太だ得策ならざるに、剰さへ新聞記者と成らんとは何事ぞや、宜く思止るべしと交々余に向つて諫諍したり、蓋し彼俗士の眼中にては、当時新聞に重を属せずして半遊戯物の如くに思ひたれば、新聞記者を見るも亦戯作者一般なりと認めたりしが故なり、斯く思認したるも敢て一理なきに非ず、新聞紙の勢力も未だ幼穉にして記者にも亦有名の人才を多く見ざりしに付き、彼輩は其潜伏の勢力は将来如何に重大なるべき乎、其記者の意見は他日如何に輿論を影響すべき乎を察知すること能はざりしなり。余は彼輩に対して盛んに新聞紙の利益勢力を説き、古人が良相たらずんば良医たれと云へるか如く、今日の時勢にては内閣に列せざれば寧ろ新聞の主筆たれと云ふべき者なり、余にして筆を新聞に執らば一般の新聞は必らず其勢力を得ん、余にして記者たらば新聞記者は必らず其地位を高めん、公等刮目して其時の来るを待てと、抱負頗大にして益々新聞記者たらんと欲するの念を固くしたりき
    ○東京日々新聞の主筆と成たる事
是時に当りてや(明治七年の冬)東京にて発兌したる新聞紙は、曰く東京日々新聞、曰く郵便報知新聞、曰く公文通誌(後に朝野新聞)、曰く日新真事誌、この四種の外に雑誌には新聞雑誌あり(後に東京曙新聞と改まり再び東洋新報と改題して廃刊となれり)横浜には横浜毎日新聞(即ち今の毎日新聞)あるに過ぎざりき。何れも明治五年より七年までの間に起り、其齢は年長も満三年に至らず、年弱は僅に一年を出たる程なれば、記事も探訪も倶に疎略にて議論の見るべきものも無く、其紙面は漸く西の内紙ぐらゐの大さにて、或は和紙或は洋紙を用ひて、其幼穉なるは今日より顧れば殆ど前世紀の遺物の如くに思はるるなり。然れども其紙上に前年(明治六年)には井上・渋沢連署の財政意見書を載せ、今年(明治七年)には副島・板垣・後藤、其外連署の民選議院建白書を載せたるより、大に世上の注目を惹起したり、而して東京日々新聞の創立者は条野・西田・藤岡の諸人にて、即ち七年前に余と倶に江湖新聞に従事したる輩なりければ、往日の縁故あるを以て此諸人が切に勧告せるに従ひ、此新聞社に入り執筆する事を約して社長となり、遂に明治七年十二月一日を以て紙面を拡張し体裁を改
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良し、社説の一欄を設けて、余が意見を世上に発表する事とは成りたりき
余が日々新聞に署名して公然筆を新聞紙に執りたる挙動は果して世間を驚したり、少なくも学識文才あるの名士をして新聞紙に筆を採る事を愧ざらしめたりき、是に於てか明治八年の央までに名士は陸続として新聞紙に集まれり、即ち報知新聞には栗本鋤雲・藤田茂吉あり、朝野新聞には成島柳北・末広重恭あり、而して日々新聞には岸田吟香・末松謙澄・甫喜山景雄あり、此諸氏は或は年長を以て世故の経歴に富み、或は少年を以て学問文才に秀て、皆筆を採ては一方に覇たるの人才なり、且つ陽はに其名を掲けざれども、古沢滋・大井憲太郎の諸氏の如き皆公然たる秘密を以て意見の草稿を新聞誌に寄せて輿論を喚起さんと試みたり、蓋し新聞紙が言論の自由を占めて且つ活溌なる議論を公にしたるは、此時より盛なるは莫きが如し。試に当時諸新聞紙の載せたる所を一読せよ、其意見は互に相異なる所ありしと雖ども、直論讜議を旨として敢て憚る所なき、若し其を今日に於てせば忽に発行停止となり罰金禁獄となるべき文章も、更に問はるゝ所あらざりしを以て是れを証するに足るべきなり


懐往事談附新聞紙実歴 福地源一郎著 第二三〇―二三四頁 明治二七年四月刊(DK270139k-0003)
第27巻 p.522-523 ページ画像

懐往事談附新聞紙実歴 福地源一郎著  第二三〇―二三四頁 明治二七年四月刊
 ○新聞紙実歴
    ○日報社の組織を変更したる事
既にして十四年の十月の初に至り、余は伊藤伯および井上伯に伺候して其談論を聴き、諸公に於ても果して大に謀らるゝ所あるを推知し、更に一綫の望を繋ぎたりしに、果せる哉其月の十四日に至りて国会開設の大詔を煥発あらせ玉ひて、余が年来の冀望は先づ此時にて之を達するを得たり。其後この大詔の趣意に付き余は伊藤伯に見えて其説明を請ひたるに、伯は平素の好意を以て余が為に十分なる説明を与へたる後に、余に向て足下は此大詔に満足したるや否を、偶然に問はせたり、余は謹で対て、明治廿三年は遅きに過るに似たり。僕は大隈君の如く十六年を期して開設あれよと望む程の急激論者には候はねども、明治廿年には其準備必らず行届くべしと信じ候ふなり。但し我国未曾有の国会をば愈々開設すべしと御英断あらせ玉ふ上は、廿三年が廿五年にても其遅速は敢て問ふ所に候はず。況や廿三年の期は恐多くも、御聖断に出させ玉へりと承はつて候へば、謹で悦び畏り奉つて候ふなり。次に憲法に付ては僕は原来憲法会議を設けられて国定憲法たらん事を望める者で候ふなるが、是とても欽定憲法の叡念にて御座します以上は、畏し兎角申し奉るべきに非ず、臣子の本分謹で其欽定を待ち奉り、是に服従するに、寸毫の異議は有べくも候はずと申したりければ、伊藤伯は足下真に其心底にてあらば全く我等と同論なりと宣ひたり。此事は独り伊藤伯のみならず、其後井上伯・山県伯の諸公へも余の意を陳述し、事正に此に及び玉ふ以上は、更に諸公に従つて同じ進路に就べしとは望みたりしなり
此時に当りてや世上を視れば、自由党は板垣君を首領に仰ぎて漸く政党の旗幟を掲げ、大隈伯は一方に立て、将に改進党を組織せられんと
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す、両党いづれも政府の方針に満足せざるの色ありて、隠然内閣を敵視するの勢を徴したり。而して東京の諸新聞紙を遍く視れば、大抵みな急進論と民主説とを主張して云く、憲法は国定憲法たるべし、民約憲法たるべし、云く廿三年の開期は遅緩なり、宜く之を急にすべし、云く国会を開設すれば主権は国会と君主の間にあり、云く国会は万能力を有して制限なき大権の根源なれば、君主の権も此根源より分流するものなりと云々して、其所説は民主制の上に帝冕の飾を戴くを以て真正なる立憲君主制の本色なりと云ふに帰着するに至れり
余は原来忠孝主義の教育を幼少より受て成業したる学人なり、歴史上の観察に養はれて急激の革新を是とせざる論者なり、成童の頃よりして少く洋書を読み早く海外に遊びたるにて、大に自由改進の説を喜ひ盛に論議を上下したりと雖とも、暴進と保守とは孰れか。急進と漸進とは孰れか。民主制と君主制とは孰れかと比較して問ひ来れは、余は寧ろ保守漸進君主制を執るの政論者なりとは、自らよく之を知る者なり。然るに世上の議論を聞き殊に諸新聞の皆概ね暴進急進を事として民主々義にのみ傾向するに会ひ、悚然として懼れ思へらく、斯の如くして其進行するに放任し是を矯直するもの無くば、世論は非常に激烈なる民主々義に化せられて、遂に明治廿三年に至らば立憲君主制の本色と枘鑿相容れざるの衝突を見るに及ばんは必定なり、今に当りて之を矯直するの任は余不敏なりと雖とも是に当らんと、我力をも測らずして大胆にも此重任を負荷せんと決心したり、扠これを実行するには恃む所は東京日々新聞なれば其紙上を余が思ふ存分にする事の自由を得が第一手段なるに、奈何せん当時日々新聞刊行の日報社は合資組織にて、其株主は十余人より成立ち、或は専ら営利的の趣意にて出金したるもあり、若し其営業の盛衰にも拘らずして余が思ふ儘に編輯せば忽に株主中に議論を起し、余が社長を奪ふに至らんは有得べき事柄なり、然らば則ち先づ日報社合資の組織を変更して基礎を固むること肝腎なりと考へたりければ、余は一方に於ては余が知己の豪富にして世に志ある諸人を説き、七万円の株金を集め、一方に於ては従来の株主を説きて其株を一応尽く余の手許に買入れ、新集の七万円を以て更に新株主に更変したりき(此株主更変に付き集めたるを見て、其内情を知らざる者は余が政府より拾万円の贈与を密に得たりと思ひ誤り、余を誣ふるに拾万円を内閣より奪ひ取たりと議して、諸新聞紙にても其事を喋々したり、或日、日報社の店頭に来り是を福地に渡し呉れよと云ひ置て、一個の小さき紙包を托し去りたる者あり、余は受て之を披き見たれば一の笹折の上に金拾万円と大書し、其折の内には焼芋と牡丹餅を入れてありき。是は薩摩芋とお萩と云へる謎と思はれたり、以て当時世上が如何に余を目したるかを知るに足れり)
斯て余は日報社の組織を一変し、凡そ日々新聞は実著なる漸進主義を確持し、世論の風潮を顧みずして往進すべし、其利益の増減多少は株主が決して問ふ所に非ずと株主総体の決議を成し、其議論の操縦は挙て之を余に任せたりき


東京日日新聞 第三〇〇八号 明治一四年一二月二〇日 日報社ノ組織ヲ明ニス(DK270139k-0004)
第27巻 p.523-525 ページ画像

東京日日新聞  第三〇〇八号 明治一四年一二月二〇日
 - 第27巻 p.524 -ページ画像 
    日報社ノ組織ヲ明ニス
現時我ガ日報社ノ組織改正ニ関リテ種々ノ世評トモ盛ニ興リ、兎ヤ角ト云ヒフラシ、或ハ諸新聞ニモ彼レ是レト書テゲレバ、今ハ殆ド世人ヲ謬ラシメ、遂ニハ我読者諸君ヲモ惑ハセ参ランスル勢ニ見受ラルヽヲ以テ、一家一社ノ私事ナガラモ、吾曹止ムヲ得ズ之ヲ弁明セザル可ラズ
我ガ同業ノ諸新聞ハ、頻ニ世評ヲ信ジテ世ニ報道シテ、日報社ハ拾万円ノ代価ヲ以テ陰ニ其新聞ヲ政府ニ売渡シタリ、云ク日日新聞ハ以来政府新聞トナリ、其社長福地源一郎ハ再ビ官吏トナリテ陰ニ日日新聞ヲ掌ルベシ、云ク日日新聞ハ貴顕ノ尽力ニ由リ諸豪商ニ売渡シ、以来ハ長州新聞タルベシ、云ク日々新聞ハ陰ニ政府ノ賄賂ヲ取リテ、以来ハ官権新聞タルベシト、百説百出シテ一ナラズト雖トモ、皆説者ノ妄想ニ出デタル虚説ニシテ、真実ノ事ニ非ズ、孰モ頃日我日報社ノ組織ヲ改正セシ事ヲ伝聞シ、夫ヨリ附会ノ臆測ヲ下シタルモノナリ、夫ノ諸新聞社ハ是レミナ吾曹ト交通スルノ諸社ナレバ、若シ初ニ一応ノ問合セモアラバ、吾曹固ヨリ陰密手段ヲ好マザルナレバ、明ラサマニ云云ノ次第ナリト告テンモノヲ、然ルニ其玆ニ出ズシテ徒ニ妄説ヲ信ジテ書立テ、世上ヲ謬ラシムルノミナラズ、自己ノ同業ニテシカモ眼ト鼻トノ間ナル日報社ノ事サヘ斯ク探訪ノ往届カザルヲ世上ニ証セラルルハ、実ニ惜ムベキ事ニゾアル、況ヤ我社ニ接近セル某々両新聞社ノ社長両名ハ、連署ノ回章ヲ以テ、日日新聞ノ官権左袒ト相成ル上ハ、合縦シテ之ヲ攻撃センハ如何ニト諸新聞社ニ謀ラレタリナド聞及ベリ洵ニ然ランニハ余リ粗忽ノ振舞ニテ、片腹痛キ事トモナリ、夫レハ偖テ置キ、第一ニ我社長福地源一郎ガ今日マデ未ダ官吏ニ拝命セザル事第二ニ我日日新聞ガ今日マデ曾テ政府新聞若クハ官権新聞ノ実ヲ紙上ニ示サヾル事、最モ世評ノ妄ヲ徴スニ足ルノ確証ナリト云フベシ
然レトモ我日報社ノ組織ヲ改正セシ事ハ事実ナリ、此ノ事実ハ事ノ序モアラバ、吾曹コレヲ世ニ告ケント思フナレバ玆ニ開陳スベシ、抑モ我日報社ハ明治五年二月ヲ以テ創立シ、初テ東京日日新聞ヲ浅草ニ発兌セシガ、其頃ハ実ニ微々タル小新聞ニテアリキ、幸ニ読者ノ数ヲ増シ発兌モ稍々其数ヲ増シケレバ、漸ク営業ノ途ニ就キテ明治七年ヲ以テ社ヲ銀座ニ移シ、福地源一郎ヲ社長ニ挙テ社務ヲ執ラシメ、其年ノ十二月ヨリ俄ニ紙幅ヲ広ゲ、初メテ政治上ノ事ヲ論シ、其時ヲ以テ初テ漸進主義ヲ以テ日日新聞ノ政論主義トハ定メタリキ、爾来満七年ノ星霜ヲ閲スレトモ、日々ノ政治海中ニ於テ社会ノ漸進ヲ望ムニ従事スル、恰モ一日ノ如クニ夫レ然レリ、将タ日報社ガ明治七年ニ於テ太政官記事印行御用ヲ命ゼラレタルヲ以テ、世上ニハ当時誤リテ直ニ政府ノ公用新聞ナリト思ヒタル人々モ鮮ナカラザリシガ、是ハ妄想ナリケレバ幾モ無クシテ其妄想モ消滅シ、日日新聞ハ純乎タル独立ノ漸進主義ノ政論ヲ執ルモノト云フ事ヲ信ジラレタリ、而シテ我日報社ハ本年ヲ以テ此ノ印行御用ヲモ辞シ申シニキ、是レ読者諸君ノ明知セラルヽ所ナリ」夫ノ政治世界ハ日々ニ改進ニ赴キ、世論ノ風潮モ時勢ニ随ヒテ移リ往クノ習ナレハ、事々物々ニ就キテノ議論ハ固ヨリ常往スベキ筈ニアラザレトモ、主義ニ至リテハ確乎不抜タランコソ日々新聞ノ為
 - 第27巻 p.525 -ページ画像 
ニ主要ナル義ナリ、殊ニ本年十月十二日ノ 聖勅ニテ明治廿三年ヲ期シテ国会ヲ開設アルベシト詔ラセ給ヒヌル上ハ、主義ヲ定メテ政論ヲ張ル事尚更ニ緊切トナレリ、然ルニ吾曹退テ我日報社ノ組織ヲ顧ミレバ、其株主タリシ諸氏ハ最初ヨリ我日日新聞ヲ発兌シ、其発兌ノ為ニ利ヲ占メン事ヲ目的トシテ入社セシ人々ナレバ、政論ノ主義ハ其問フ所ニ非ザリキ、斯ル組織ニテ新聞紙ノ業ヲ営ミ、内ニ向テハ営業上ニテ株主ヲ多ク利セント謀リ、外ニ向テハ主義ヲ紙上ニ貫カント謀ル事至難中ノ至難ナリ、苟モ株主ノ為ニ利ヲ謀レバ、時論ノ好尚ト共ニ走リテ新聞紙ノ発兌ヲ多カラシムルニ汲々スル乎、否ラザレバ陰密ノ保庇ニ倚頼シテ入金ノ額ヲ補助セシメ、其為ニ我主義ヲ枉ゲザル可カラズ、又苟モ我主義ヲ貫カンニハ時論ノ好尚モ問ハズ、発兌ノ増減ヲモ顧ルベカラザレバ、実ニ株主ノ利ヲ謀ルニ遑アラザルナリ、此ノ二者ソノ孰ヲ取ルベキ乎ハ切迫ノ問題トハナリヌ、是ニ於テカ我社長福地源一郎ハ本月十五日ヲ以テ株主タリシ諸人ヲ招キテ此理ヲ説キ、福地ノ一手ニ東京日日新聞日報社ヲ買取リ、即チ福地所有ノ日報社トハナシヌ」斯クテ日報社ハ福地一人ノ所有ニ帰シタリケレバ、日報社ハ更ニ改メテ主義ヲ同ジクスル人々ヲ求メテ、其株主タラシメント議リシニ、幸ニシテ既ニ今日マデニ数名ノ加入ヲ得タリ、此数名ハ皆東京ニテ世ニ知ラレタル紳士諸君ナレバ、初ヨリ主義ヲ以テ合シ更ニ利ヲ以テ合スルニ非ス、左レバ吾曹ハ今日ヨリシテ復内顧謀利ノ憂ナク、一向ニ政論ノ主義ヲ貫クニ勇進スルヲ得ルモノナリ
吾曹ガ玆ニ我日日新聞ヲ以テ、政府ニモ倚頼セズ時論ニモ媚ヒスシテ愈々独立セント欲スルモノハ、此ノ新聞ヲシテ漸進立憲党ノ新聞タラシメント冀フガ故ナリ、此漸進立憲党ハ今ヤ将ニ組織セラレントスルノ際ニ在リテ、現ニ我社ノ新株主諸氏ハ其身官途ニ就カズト雖トモ、皆此政党ニ入リテ国家ノ為ニ安寧ヲ保タント謀リ、国民ノ為ニ自由ヲ進メント謀ルノ人々ナレバ、漸々各地方ニ於テ広ク此政党ニ入ルベキ諸人ハ、同ジク我社ノ株主トモ成リ玉ハン事ゾ冀ハシケレ、此ノ漸進立憲党ノ大主眼ハ、則チ吾曹ガ本年十一月ノ紙上ニ連載セル皇極論・民極論ニ在ルヲ以テ、読者諸君ハ此ノ両論ハ漸進立憲党ノ主義ナリ、而シテ我日日新聞ハ此ノ政党ノ意ヲ表スベキノ新聞紙ナリト信セラレンコトヲ切望スルナリ、将タ此ノ政党ノ目的ノ如キ、其党ノ領袖タルベキ諸氏ノ姓名ノ如キハ、其組織全ク周備セバ吾曹コレヲ世ニ公ニスルヲ憚ラザルベシ、只ニ現時ニ於テハ我日々新聞ハ政府新聞ニモ非ズ長州新聞ニモ非ズ、純乎タル独立新聞社ニシテ、其政論ハ従前ノ漸進主義ヲ確守シテ、政府ニモ諂ハズ時論ニモ媚ビザルノ新聞紙ナリト云フヲ以テ、世評ノ妄測臆説ヲ解クニ足レリトスベシ、読者諸君幸ニ世評ニ謬ラルヽ事勿レ、敢請


竜門雑誌 第四七号[四四七号]・第一九頁 大正一四年一二月 進退を共にした井上馨侯(青淵先生)(DK270139k-0005)
第27巻 p.525-526 ページ画像

竜門雑誌  第四七号[四四七号]・第一九頁 大正一四年一二月
    進退を共にした井上馨侯 (青淵先生)
      五
○上略
 明治十四年頃と思ふ、政党の事に関しそれを起すと云ふではなかつ
 - 第27巻 p.526 -ページ画像 
たが、同志を相寄らしめ政治的教育をすると云ふことで、其時分に福地源一郎君のやつて居た東京日々新聞に資金を提供してやることになり、銀行業者側も其発展に力添へしたことがある。私も一万円程出し新聞の発展を望んだ一人である。そして福地君は頻りに政治思想の普及を図るべく、色々の事を書きたてたが、私自身は六年以後政治の実際には当らぬと固く決心し、その信念で進んで居たから、日々新聞に援助はしても、私が政治界に勢力を張らうなどゝは少しも考へて居なかつた。併し井上さんの方は政治観念が強かつたので、この時分にも屡々私は「政治の事に就て渋沢は貴方の相談相手にはならぬ」と云ひ云ひして居た。
○下略


(芝崎確次郎) 公事提要 抄写(DK270139k-0006)
第27巻 p.526 ページ画像

(芝崎確次郎) 公事提要 抄写     (芝崎猪根吉氏所蔵)
明治十五年第十二月
主人方資産調取扱候ニ付写置候事
  資産    貸方
○中略
金一万円              日報社
○中略
合計金三拾三万四千八百六拾九円九拾五銭九厘
  負債    借方
○下略


日報社定款(DK270139k-0007)
第27巻 p.526-528 ページ画像

日報社定款                (伊東伯爵家所蔵)
 此草案ハ小生ヨリ関氏ヘ相談シテ起リ□□□□《(不明)》株主一同ノ議決ヲ経ザルモノナリ
    日報社定款
      第一章 総則
第一条 本社ヲ日報社ト称ス
第二条 本社ハ合資会社ナリ
第三条 本社ノ目的ハ東京日日新聞ト称スル日刊ノ政治新聞ヲ発行スルヲ以テ営業トスルニアリ
第四条 本社ハ本店ヲ東京ニ置ク
第五条 本社ハ有限責任ニシテ、社員ノ責任ハ各其□□《(不明)》セシ出資額ニ止ル
第六条 本社ノ社員ノ出資額ハ左ノ如シ
  金壱万五千円            西村虎四□《(西村虎四郎)》
  金壱万円              蜂須賀茂韶
  金壱万円              渋沢栄一
  金壱万円              福知源一郎《(福地源一郎)》
  金五千円              毛利元徳
  金五千円              柏村信
  金五千円              益田孝
  金五千円              達野郷造《(建野郷造)》
 - 第27巻 p.527 -ページ画像 
  金四千円              原善三郎
  金弐千五百円            条野伝平
  金弐千五百円            西田伝助
  金壱千五百円            関直彦
  金壱千円              根本茂樹
  金壱千円              桶口登久次郎《(樋口登久次郎)》
      第二章 役員
第七条 本社ノ役員ハ左ノ如シ
  一社長    一名
  一取締役   一名
第八条 社長ハ総社員四分ノ三以上ノ決議ニヨリ選出スルモノニシテ本社ノ業務ヲ担当ス
第九条 取締役ハ総社員四分ノ三以上ノ決議ニヨリ選出セルモノニシテ本社ノ業務ヲ監督ス
第十条 本社役員ノ任期ハ三年トス
      第三章
第十一条 本社ノ通常総会ハ毎年七月・一月ノ両度ノ会計ヲ監督ス
第十二条 本社ノ臨時総会ハ、役員ノ必要ト認ムルコトニヨリ総社員四分ノ一以上ノ申立ニヨリ招集セラル
第十三条  総会ノ通知ハ会日ヨリ七日前ニスベシ、此ノ通知書□□《(不明)》会議ノ目的及ヒ議案ヲ添フベシ
第十四条 総会ハ社員半数以上ノ出席アルニアラサレバ成立セズ
第十五条 通常総会ノ議決ハ出席社員ノ多数決□□□《(不明)》
第十六条  臨時総会議決ハ総社員ノ過半数ニ依ツテ□□《(不明)》
第十七条 左ノ場合ニ於テハ総社員四分ノ三以上ノ多数ヲ以テスルニアラサレバ議決ノ効ナシ
  一 此ノ定款ノ変更
  二 本社ノ営業ニ異ナル業務及ヒ事項ヲ行ハントスルトキ
  三 社員其ノ出資ヲ減スルトキ
  四 社員第三者ヲシテ己レノ地位ニ代ラシメントスルトキ
  五 第三者ヲ入社セシムルトキ
  六 社員ノ相続人又ハ承継人業務担当者タラントスルトキ
第十八条 総会若シ出席社員ノ定数ニ充タザル為メ成立セサルトキハ商法第五十二条ノ仮決議ヲナスコトヲ得、此決議ハ第二ノ総会ニ於テ出席社員ノ多数決ニヨリ有効タルヘシ
第十九条 総会ノ議長ハ指名又ハ投票ヲ以テ選定ス
第二十条 社員病気其他ノ事故ヲ以テ出席スルコト能ハサルトキハ、他ノ社員ニ委任状ヲ交附スルコトニ依リ代理権成立スヘシ
      第四章
第二十一条 社長ハ本社ノ業務ヲ担当シ、編輯長、会計主任、一切ノ雇人ヲ任免ス
第二十二条 取締役ハ社長ヲ助ケ、本社ノ業務及ヒ会計ヲ監督ス
第二十三条 社長及ヒ取締役ハ此ノ定款ニ従ヒ業務ヲ行フニ就キ他ノ社員ノ干渉ヲ免ルヽノ権アルモノトス
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第二十四条 社長及取締役ハ総会ノ決議ヲ経サル以上ハ社名ヲ以テ負債ヲ起スコトヲ得ス
   ○右ハ是ノ年代ノモノニ非ズシテ、明治二十四年経営ガ伊東巳代治ニ移ル頃ノモノカ。第十八条ニ「商法第五十二条云々」トアルニヨレバ、二十三年四月商法発布以後ナルコト明カナリ。


東日七十年史 相馬基編 第五七―五九頁 昭和一六年五月刊(DK270139k-0008)
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〔参考〕伯爵大隈重信撰 開国五十年史 副島八十六編 下巻・第三五二―三五三頁 明治四一年二月刊 【○政論界に於ける新聞紙(福地源一郎)】(DK270139k-0009)
第27巻 p.528-529 ページ画像

伯爵大隈重信撰
開国五十年史 副島八十六編  下巻・第三五二―三五三頁 明治四一年二月刊
 ○政論界に於ける新聞紙(福地源一郎)
    維新後の新聞紙
      第一期(明治元年―同七年)
○上略
 斯る幼穉の新聞紙が数年間に依然成長して、上下朝野の耳目を聳動するに至りしは、豈徒爾ならんや、蓋し亦其動機ありて然りしなり。明治六年大蔵大輔井上馨・大蔵省三等出仕渋沢栄一は、財政に関して内閣と衝突し、其財政意見書を提出して辞職したり。此の意見書は秘密官文書たるに係はらず、之を日新真事誌に載せて世に公にしてより大に時論を喚起して、一時朝野を囂々たらしめたり。同七年征韓論に関して内閣は両派に分れ、西郷隆盛・副島種臣・後藤象次郎・板垣退助・江藤新平は其議行はれざるを以て、同志の僚属を率ゐて台閣を辞
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したりけるが、幾も無くして民選議院の建白は副島・後藤・板垣・江藤諸氏の連署を以て、政府に提出せられ、同時に諸新聞紙に登載せられ、以て天下の耳目を驚異せしめたり。当時の政府は上記の諸老已に去り、三条実美は病に臥し、木戸孝允も亦不満を懐きて江湖に帰りければ、内閣の実権は専ら岩倉具視・大久保利通・大隈重信・伊藤博文の掌握せる所たり。此の諸氏は独裁専制政治を固執するの素念を有するにあらざれども、其民選議院の建白を直に採用すと答へざりしが為に、世上一部の人士よりは、此諸氏こそ即ち藩閥政府の命脈を保持し専制を以て輿望を抑圧するの政治家なれと見做されたり。是に於てか当時所謂慷慨悲憤の志士は、民権自由の説を以て藩閥政府を覆し、革新の実を挙げんと望み、専ら此説を攷究して世上に鼓吹せり。諸新聞紙上争でか之を黙視すべき。交々其紙上に於て此説に同情を表して、所見を演べたりければ、民権自由論はこゝに澎湃として全国に弥漫し始めて新聞紙に重きを置くに至れり。而して是等の諸事は相倚りて、著々其勢力を発展するの動機とは為りぬ。 ○下略



〔参考〕伯爵大隈重信撰開国五十年史 副島八十六編 下巻・第三七六頁 明治四一年二月刊 【○新聞紙雑誌及び出版事業(鳥谷部銑太郎)】(DK270139k-0010)
第27巻 p.529 ページ画像

伯爵大隈重信撰
開国五十年史 副島八十六編  下巻・第三七六頁 明治四一年二月刊
 ○新聞紙雑誌及び出版事業(鳥谷部銑太郎)
    第二 日刊新聞紙の勃興
○上略
 是より先き横浜毎日新聞より少しく後れて発行したる日新真事誌は始めて其紙上に論説欄を設け、屡々大井憲太郎・古沢滋(後に郵便報知新聞の記者たり)等の政治論文を掲載して時人の注意を惹き、尋いで明治六年大蔵大輔井上馨・大蔵三等出仕渋沢栄一の連名を以て政府に提出したる財政意見書を公表して、閣議衝突の真相を暴露し、以て頗る国論を喚起したりしかば、新聞紙の勢力は俄に朝野に認識せらるるに至れり。 ○下略



〔参考〕日々新聞出板願(DK270139k-0011)
第27巻 p.529-530 ページ画像

日々新聞出板願           (東京日々新聞社所蔵)
    覚
一日々新聞 毎日出板  壱枚摺
右は上 御布告を始、御各省之御転任・御館御移住等之事、日々米穀及物価之相場・開店・売薬等之報告、商事之新報・農事之評論・外国新聞之訳挙・新技之発明・不意之凶変、其余珍説奇話流行之俗謡ニ到候迄、全国ニ関係致衆庶之目的ニ相成候義は、普書載都而切実要文を旨ト致、虚談浮説ニ渉候事は決而認申間敷候、此他一切御条例ニ背候ケ条更ニ無之候間、私共蔵板ニ仕出板仕度、此段奉願候、若発兌之上御尋之儀は私共引受可申奉存候 以上
  壬申正月之八日
            第五大区小一区
              浅草茅町壱丁目廿四借店
        編輯人並出板願人     条野伝平(印)
            第一大区小五区
 - 第27巻 p.530 -ページ画像 
              堀江町三丁目七番借地
        出板願人         西田伝助(印)
            第一大区小十四区
              浪花町附属地住居
                     落合幾次郎(印)
前書新聞新規彫刻売弘メ仕度段申出仕間、奥印仕奉伺候 以上
                 新聞行事 和泉屋壮造
   ○落合幾次郎ハ芳幾、又ハ歌川ト称ス。画家。大蘇芳年ト共ニ国芳門下ノ逸材ナリ。明治初年東京日日新聞ノ創刊ニ関与シ又東京絵入新聞ヲ創刊ス。新聞紙上ニ絵画ヲ挿入セル最初ナリ。明治三十七年歿(平凡社版「新撰大人名辞典」ニヨル)



〔参考〕証券【東京日々新聞】(DK270139k-0012)
第27巻 p.530 ページ画像

証券                   (西田青披氏所蔵)
                      西田伝助
右東京日々新聞紙社中相違無之条、会社之利益平等之配分限月相渡申候、右会社は労心勉強ニ依て盛大ニ至るへき儀ニ付、尚進歩いたし候様相心得、正実ニ相更可申、右株永久一の為所持証として此券書相渡候也
  明治五壬申年十月
 名前相替候歟又は焼失之節は、本人より証書所置書改可申ニ付、其節は此証書可為不用事