デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.14

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

6章 政治・自治行政
1節 政治
1款 自治制研究会
■綱文

第27巻 p.550-558(DK270144k) ページ画像

明治21年10月5日(1888年)

是ヨリ先、井上馨、自治制ヲ基礎トシテ新タニ政党ヲ組織セントシ、先ヅ自治制研究会ヲ起ス。栄一発起人ノ一人トシテ、是日ノ発会式ニ於テ当会設立ノ趣旨ヲ演説ス。当会ハ其後数回ニ亘リ会合ヲ催シ、内閣顧問独逸人モッセ(Mosse)、東京帝国大学講師カール・ラートゲン(Karl Rathgen)等ヲ聘シテ自治制ノ研究ヲ行ヒシガ、翌二十二年十分ナル発達ヲ遂ゲズシテ終ル。


■資料

雨夜譚会談話筆記 上・第三五四―三五五頁 大正一五年一〇月―昭和二年一一月(DK270144k-0001)
第27巻 p.550 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  上・第三五四―三五五頁 大正一五年一〇月―昭和二年一一月
                     (渋沢子爵家所蔵)
  第十三回 昭和二年九月十三日 於渋沢事務所
○上略
先生「 ○中略―是より先二十二年と思ふ、地方自治制度が成つた。即ち東京市制が布かれました。此制度は学者であるモツセーと、もう一人地方自治に精通した人に頼り、其教を受けて其学説を根拠にして市制原案が出来たのです。其時小松原英太郎だつたと思ふが地方自治の事を調べ、井上さんを首脳として自治党を組織しやうとしました。之には野村靖も食指を動かし、私を唆かしました。井上さんは此勧には色気がある様子でありました。然るに其後伊藤さんから井上さんに話があつて「此際そんな特殊の政党を組織する事は面白くない」と云ふ事になり、井上さんから私に「其考は伊藤と相談して見たが、今日は駄目だ。事業の事は君と打合せをするが、政治には伊藤と相談する」と云はれました。当時は丁度大隈さんが改進党を組織した時代でありましたが、それで井上さんは政党組織どころか形も造らずにやめてしまひました。之が明治二十三・四年の事だつたでせう。 ○下略
   ○此回ノ出席者ハ栄一・渋沢敬三・増田明六・渡辺得男・白石喜太郎・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。


世外井上公伝 井上馨侯伝記編纂会編 第四巻・第五二―六二頁 昭和九年五月刊(DK270144k-0002)
第27巻 p.550-555 ページ画像

世外井上公伝 井上馨侯伝記編纂会編  第四巻・第五二―六二頁 昭和九年五月刊
 ○第八編 第一章 黒田内閣
    第四節 自治制研究会
 「町村自治之制ヲ実ナラシムル為メ、行政権ノ及ブ限域ヲ立ル事」とは公が農商務大臣就任に際し、黒田首相に賛同を促した廉書の一条
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項である。憲政準備のため自治制を確立し、これが健全なる発達を期することは公の政策の重要なるものの一つであつた。地方自治制は、二十一年四月二十五日、即ち公が農相就任より約三箇月前に市制・町村制の発布によつて確立したもので、当時の勅諭にも、「地方共同ノ利益ヲ発達セシメ、衆庶臣民ノ幸福ヲ増進スルコトヲ欲シ、隣保団結ノ旧慣ヲ尊重シテ、益々之ヲ拡張シ、更ニ法律ヲ以テ市制及町村制ヲ裁可シテ、云々。」と仰せられてゐる。これより市・町・村は自治公共の団体としてその機能を発揮することが出来るやうになつたのである。この地方自治制度は、山県内相が欧洲各国に於ける地方制度の学理と実際とを研究して施行するに至つたものであるが、この事については公はこれより数年前既にこれに留意し、来る二十三年に於ける国会議員選出を自治制の上に求めようとしたのである。当時公は外務卿の職にあり、敢へて政党を作つてその総理にならうとしたものではなかつたが、十五・六年に全国に各派の政党が勃興して、過激な言論をなし政府に対抗し民心を煽動するが如き傾があつたので、将来憲政を施行する為には、自治の精神を国民の間に扶植し、健全な政治思想を養ひ官民協力して国政を議するやうに仕向けて行かねばならぬとして、斎藤修一郎等と謀つて同志を集めようとした。併しこれは伊藤博文の反対意見によつて遂に実現を見るに至らなかつた。とかくする程に政党各派も次第に解党して、事情も稍々異つて来たので、地方自治の宣伝はその儘となつてゐたが、自治制を基礎として国会開設の準備となすことは公の念頭を離れなかつた。それで公は外相を辞して閑地に就くに及んで、自治制の確立を企図し、着々その研究を進めてゐた。恰も好し、前述の市制・町村制の発布があつたので、公は愈々これによつて議会政治を円満に運行しようとした。公が農相就任に際し黒田首相に賛同を求めた廉書にも、「中等以上財産家ヲ結合シテ、地方自治ノ基本ヲ鞏固ニシ、遂ニ保守的団結準備ノ用トナス事。」の一条を挙げ「中等以上財産家ヲ結合シテ、町村ニ在テハ町村自治ノ制ヲ承当セシメ、以テ独立自治ノ基礎ヲ固クセシメ、中央ニ集テハ一体ノ保守党トナリ以テ将来政治上ノ狂瀾ヲ支フルノ砥柱トナラシムルコトヲ要ス。」と説き、「今日ノ改進党ノ如キモ、漸ヲ以テ之ヲ一変シテ、保守的団結ヲ一体ニ融合セシムルコトヲ要ス。」とも述べてゐる。公の所謂保守党とは、過激な党派に対する温和党、反政府党に対する政府党を指すものである。右によつても公は自治団体を基礎とする一政党の出現を画策してゐたことが窺はれ、かくして議会に於ける政府と人民との抗争を防ぎ、円満に議会政治を遂行しようとした事が判る。
 右の意見にも見える如く、公は将来中等以上の財産家が政治上の一大勢力となるべきを看破して、各地の旅行に於て大農論を説くと共に地方自治の切要を鼓吹し、その同志を有力な実業家の間に求めた。そしてなほ自治制を確立する為には、その研究を必要とし、公と深い関係にある野村靖・青木周蔵・渋沢栄一・益田孝・小松原英太郎等と自治制研究会《(註)》を起した。同会はその主意書に、「泰西ノ学士ヲ聘シ、自治ノ主義、自治ノ制度ヲ講究シ、並ニ今後此ニ因テ発出ス可キ事物ノ変ニ応ズルノ方法ヲ経画シ、政治的ニ経済的ニ各個的ニ共同的ニ実際之
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ヲ担任スルノ準備ヲ為サント欲ス。」評伝井上馨と見え、その趣旨は明かである。同会は二十一年十月五日に鹿鳴館に於て発会し、渋沢がその設立の主義を演説した後、内閣顧問独逸人モッセ(Mosse)の自治に関する講義があつた。聴衆には公を始め多くの会員が列席した。この会は単に自治の研究の会合であるが、主意書にも、「政治的ニ経済的ニ各個的ニ共同的ニ実際之ヲ担任スルノ準備云云。」とあるが如く政治的の意義が多分に含まれ、これを本拠として公が政界の訓練に任じようとしたことが察せられる。それで九月十九日に青木より駐米公使陸奥宗光に送つた書翰中にも「特に先達而より別ニ所存アリテ自治党とでも名称スベキ一箇之政党ヲ組織スル事ニ決セリ。此条ハ殊ニ秘スベシ。依而野村も弟も応分ニ骨折、昨今ハ各県ニ有志者ヲ求居申候。望月ハ紀州ヲ代表スルトテ今在府下。此目的被為相達候得ば、内外より漸次ニ石垣之石一箇づゝニ而も抜取る手段相叶可申候。」陸奥伯爵家文書と見え、又野村が山県内相にその所存を陳述した所によると、「目下世間の有様、開進党《(改)》ナラザレバ自由党ノ肩書ヲ有セザル人ナク、此儘ニ放擲シ去ラバ、則他日ニ在ツテハ国会上勢ヒ議院政事ノ体ニ立到ルより外無之、其結果タル著々仏国ノ悪風ヲ模スルモノト云ベク、又現今ニ在ツテハ自治制上自ラ其主義ヲ異ニシ併せて其施行上不穏当之挙動ヲ見ルニ到ルも不可測。此故ヲ以テ我々ニ於テハ第一自治ノ本主義ニ基キ、而シテ近クハ現今自治制施行ニ対シテ著実ノ運動ヲ為サシメ、遠クハ国会上良風ヲ追ハシメンガ為め、自治研究会ヲ興シ、並ニ各地方資産家ヲ誘導、而シテ主として国家ノ秩序ヲ維持シ、並ニ進化ヲ高ムルノ手段ヲナシ、苟モ開進党如《(改)》きものと互角ノ競争ヲ為ス如キ卑劣の考ニアラズ。蓋シ今日内閣又ハ各省大臣ニ在ツテハ分権の主義ヲ本とし、随て各事各物其システムヲ改正又ハ制定シ、併せテヲーペンレー(O openly)に公衆ニ演説シ、又ハ誘導シテ、現今或は将来ノ好導ヲ開き、且導カザル可ラズ。此方略ヲ執ラズシテ前日の如ク内閣ニ籠城シ、落日孤城ノ体ヲ以テ公衆ニ対スル政略ト決セバ、又何ヲカ云ン。反之シテ目下並ニ将来ニ対シ公衆ヲ纏め、国家ヲ安全ニセントセバ、実ニ今日井上伯ノ執レル手段ヲ以テ総理大臣始メ各大臣ノ手段トセザル可ラズ。」井上侯爵家文書とあつて、その主義とし方針とする所は明瞭であらう。右の青木の書翰中に自治党とあるのは、青木が仮に称したものであつて、未だ公等が公称した党名でもなく、又この名称の下に政党が組織されてゐたのでもない。併し世人は何時しか自治党なる名を以て公の主義に賛同する一団を称するに至つた。
 かく公の自治に関する研究と宣伝とは、一般の視聴を集め、「井上伯は自治党を組織する。」といふ風説が頻りに伝へられた。即ち、「井上伯主唱となり、自治党と称する所の一政党を組織せんとし、逓信次官野村靖・外務次官青木周蔵も亦之に同意し、古沢滋をして其倶楽部の事務に当らしめんと相談一決せり。」明治政史とか、或は、「自治党なる者は此等人士中斎藤修一郎等が青木周蔵と与に、井上氏の不平に乗じて計画せる所にして、井上氏も当時意稍動き、運動費支出には其門下の寵商を以て之に任じ、新聞事業には関直彦・徳富猪一郎如き俗才子を用ゐ、大に新保守党の気焔を挫かんと欲せし也。」評傅井上馨など伝へられて
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ゐる如く、当時多くは政党の組織が成つたかの如く揣摩の言を流布した。公の自治主義はかく一世の耳目を喚起し、自治制研究会員ならずとも公の主義に賛同して、「井上伯は弥よ自治主義を本尊とせるが如し曾て天下に呼号せし所の自治主義を標準として、何事も決行せんとするの気込なるが如し。言行一致、政治家は斯くありてこそ始めて男らしといふべけれ。」日本之時事と讚嘆の辞を耳にするに至つた。
 かく公の主義が一世を聳動するに及んで、杞憂の念を抱いたのは山県内相である。当時廟堂にある大隈を援助してゐるのは改進党一味の者であるが、今亦公の主義の下に自治党が成立すれば、両派が互に抗争をするのは必然であるとて、その処置について頗る苦慮する所があつた。公が改進党に対する処置は、漸次その勢力を殺ぎ之を解消して政府党とするにあつたので、敢へて改進党と互角の競争をなさうなどとは考へてゐなかつた。即ち現在並びに将来に於て国家を安穏ならしめる方策は、自治主義を以て朝野協力して進まねばならぬといふのが公の意見であつた。それで自治党成立後の政界を懸念した山県内相の考とは全く相違してゐたことは、前に掲げた野村靖の意見によつても察知せられる。当時閣員に於ては、黒田首相は自治に介意せず、その他の閣僚も自治の真価に思を致す者がなかつたので、公の政策を以て政策とせざるのみか、公を補助してその達成を望む者も少かつた。若し黒田首相にして公の入閣当時の誓約を重んずるならば、閣僚間に於ても自治の方策について冷眼視する訳はなかつたのであるが、何分黒田首相は無策であり『不動如山』の冷評を得てゐる程であつたから、公の意見が行はれなかつた理由も察せられる。これが公が農相辞任を早からしめた一因ともなるのである。とにかく、所謂自治党は未だ政党として組織立てられたものではなかつたので、その主義・綱領なども作成されなかつたが、これが関係者は非常な熱意を以て主義の達成を謀り、有松英義は自治新誌を刊行し、関直彦は東京日日新聞に之を記載したので、民間に於ては盛んに喧伝された。二十二年一月二日に公が洋行中の都筑馨六に送つた書翰に「生も再び入閣も不面目存込居候得共、従来之情義被牽、不得止次第御座候。併新聞紙上御承知通り各地方アリストクラシーに面会候而、自治を以先国之基礎を鞏固ナラシメ、君主之権力を憲法に因テ民権之不可越制限を厳然ナラシムル之主意とピースフル・プログレスを説キ候処、世間目シテ吾輩を自治党と呼ビ候次第に立到り、所謂異名を被付候故、随分於内閣も百事に成シ苦敷事多ク困却を極め申候。」都筑馨六傅とあるのは、以上に関する一面の消息を伝へたものである。
 公の自治主義宣伝の相手は、地方アリストクラシー、即ち全国の中産階級以上の者であつたので、その方面の共鳴者は漸く多きを加へ、県知事以下の地方官なども、つてを求めて入会を望んで来る者もあつた。その会員には新知識者、新進の官僚、実業界の有力者等を多く網羅し、将来に於て政界の一大勢力となるべく予想された。併し事実は之に反し、予想は全く裏切られ、二十二年に於ては目覚しい発展もなく、未だ政党的活動もなくして、何時しか立消となつて了つた。所謂自治党が政党として実現せず、公の官民協力の議会政治もならずに了
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つた理由は、地方自治といふ狭範囲に立脚し之に終始したのに起因する。尤も之を拡張すれば、国政に於ける議会政治も国民の自治といひ得ようが、一般には自治といへば地方自治を指し、広義に之を解する者がない。由来政党は国政に関する主義政策を以て成るので、自治では政党となり得なかつた。少しくその範囲を拡めて一般国政に関する新政策を立てねばならなかつたのである。それで第一回の総選挙に際し、自治党として選出された議員を見るに至らなかつた。井上侯爵家文書・陸奥伯爵家文書・都筑馨六傅・大日本憲政史・竜門雑誌・関直彦談
〔註〕関直彦氏談。
 その当時の政治の状態を見ますと、一方には自由党といふものが段段勢力を得て参りましたし、それから一方には、大隈伯の改進党が勢力を得て来た。既に自治制が布かれて、県会や市町村の議員も民間から選ばれることになつた。それには政党の分子も多数に加はるといふ。殊に二十三年からは議会が開かれることになると、議会の分野といふものは、先づこの二大政党に左右されるといふことになる。それで当時の官僚の眼から見ますと、自由党は過激な政党であり、改進党も矢張り急進政党である。余り政治が急進に傾き過ぎると国家の為に面白くない。それには一つ自治の政治を鞏固にして、穏健・著実な分子を集めて、一つの政党を拵へたいと、段々相談がありました。その相談に与つた主な者は、青木周蔵・野村靖・小松原英太郎・有松英義。さういふ人達で、自治研究会といふものを拵へた。つまり政党にする積りであつたのでせう。その幹事が小松原英太郎であつた。それでそれを段々推拡めて行つて、政党の組織にしようといふことであつて、その集会を品川の益田孝の応挙館といひますか、大きな座敷があります。応挙の画ばかりあるので名付けて応挙館といひました。そこに会合を催したことがあつた。その時に集りましたのは、井上伯爵・青木周蔵・野村靖・小松原英太郎、それから民間の人としては、渋沢栄一・原六郎、益田孝は勿論主人で、藤田伝三郎・高梨哲四郎・有松英義、私も末席に列つて、自治会を自治党といふものに改称して拡張し、各地に遊説をして各地の主なる人を説いて組織させようと、色々相談が進んだ。その時にそれには機関新聞が必要だといふ問題が起つた。それには新に新聞を起すよりも、こゝに来て居る関君の東京日日新聞を、自治新聞と改称して機関新聞にしたら宜からうといふ発議があつた。誰がいつたか忘れましたが、丁度私が福地の後を継いで、漸く一年位になつて大部世間の評判が良くなり、読者も殖えて来たのですから、それを機関新聞にしたが宜からうといふことで、殆どまあ一座が「それが宜からう宜からう、関承知しないか。」といふことになつた。私は困つた井上さんには洵に個人としては御厄介になつて居るから、成るべく井上さんのいふことは聞きたいけれども、私の事と公の事とは違ふ話で、私が日日新聞を相続した時に世間に発表して、如何なる政党にも偏しない。不偏不党であるといふ旗幟を立てて来たのですからこゝで以て之を自治新聞と改称して、自治党の機関にするといふことは、私としては洵に、社会に対して約に背くことになる。それ故
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私の居る間はどうも困難であるといふことをいうた。それでまあ、一座白けた訳なんです。さうすると、私の前に藤田伝三郎がやつて来て、「君そんなことをいはないで、自治新聞にしたら宜らう。」とかういふのです。あなたは株主だけれども、さういふことを強要される権利もないといふので、私は応じなかつた。その時に唯一人渋沢栄一さんが、「関のいふことは尤もです。それは私も約束があります。日日新聞を引受けさせる時に、私は株主総代として関にやれといふことをいうた時に、不偏不党でありますから、一切掣肘を受けぬこと、又他の機関とならぬこと、それを御承知ならやります。損失額も三年間は、我慢して呉れといふことをいひまして、宜しいからやれと私はいつたのです。こゝで以て看板を塗替へろといふことは、ちつと御無理でせう。」と渋沢さんがいはれたのです。そこで日日新聞が自治新聞となつて、自治党の機関となる問題が消滅したのです。そんなら仕様がないから、有松君の主幹して居る自治に関する雑誌があつた、それを一つ機関雑誌にしようぢやないか。それは勿論初から自治の機関であるから、それが宜からうといふことになつて、機関新聞の問題は解決した。私は大変皆様に怒られたのです。けれども社会に向つて約束があるものですから、私が罷めれば構はぬが、罷めない以上は、その約束を反故にする訳になる。井上さんの意志にも反いたらうと思ふのですけれども、これは洵に節義の上から已むを得ない訳であつたのです。御気毒だと今以て思つて居ります。さういふやうな計画で、それから盛んに集会をしたり相談をしたりしました。その主義に於ては、私は日日新聞といふものを除いては、主義に於ては賛成でしたから常に他の集会にも臨んだのであります。


大日本憲政史 大津淳一郎著 第三巻・第一〇二―一〇四頁 昭和二年八月刊(DK270144k-0003)
第27巻 p.555-556 ページ画像

大日本憲政史 大津淳一郎著  第三巻・第一〇二―一〇四頁 昭和二年八月刊
 ○第八篇 第三章 大同団結、自治党及保守党中正派
    三 自治研究会と井上馨
 井上馨の外務大臣として欧化主義を鼓吹するや、谷干城の一派首として之を攻撃し、国論勃興して、国権拡張・国風維持の必要を唱へしより、彼が全力を傾注して談判に従事したる条約改正も、亦其功を奏すること能はず、終に其職を辞するの已むべからざるに至りたりき。彼は閑地に在ること数月にして、農商務大臣に任ぜしが、二十一年七月廿五日民党の勢力日に膨脹し、加ふるに後藤象二郎の唱道したる大同団結、自由・改進・保守の三派を合して天下を風靡せんとするの概あるを目撃し、是に於て乎、彼は欧化主義の官僚派を統一し、長閥の城塁を保守するの必要を認めたりけん、野村靖逓信次官青木周蔵外務次官古沢滋、及斎藤修一郎農商務大臣秘書官と相謀り、自治党なるものを組織せんとせり。
 是より先に、野村靖・小松原英太郎・渋沢栄一等は、井上の意を承け、「自治政研究会」を組織し、其の旨趣書を発表せり。其要に曰く、
 泰西の学士を聘し、自治の主義、自治の制度を講究し、並に今後此に因て発出すべき事物の変に応ずるの方法を経画し、政治的に、経済的に、各個的に、共同的に、実際之を担任するの準備を為さんと
 - 第27巻 p.556 -ページ画像 
欲す。
 二十一年十月五日、第一回の自治政研究会を鹿鳴館に開き、渋沢、先づ同会設立の旨趣を演説し、次てモツセの講話ありしが、其の聴衆には井上・野村・青木・小松原等を始めとし、在野の人士には益田克徳・高梨哲四郎等の徒ありしと云ふ。
 井上の計画は、首として当世的の官僚、当世的の新知識、当世的の寵商、実業家を網羅し、其の運動費は、渋沢栄一・藤田伝三郎等をして之に任じ、新聞事業は、関直彦東京日日新聞主筆をして之に任じ、政党の事務は古沢滋をして之に任ぜしめ、以て来るべき二十三年帝国議会の準備に応ぜんとするに在りしが如し。然るに、井上恩顧の実業家は、概ね政治に冷淡にして、却て井上の為に此の計画を危み、辞を設けて運動費支出に躊躇せしかば、「自治政研究会」は未だ政党的効用を見るに及ばずして、已みたりき。


東京経済雑誌 第一八巻第四四〇号・第四八八頁 明治二一年一〇月一三日 ○自治政研究会(DK270144k-0004)
第27巻 p.556 ページ画像

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東京日々新聞 第五〇八〇号 明治二一年一〇月七日 鹿鳴館の講義(DK270144k-0005)
第27巻 p.556 ページ画像

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〔参考〕東京日日新聞 第五〇八一号 明治二一年一〇月九日 ○自治政研究会(DK270144k-0006)
第27巻 p.556-558 ページ画像

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