デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

6章 政治・自治行政
1節 政治
5款 政友会
■綱文

第27巻 p.578-587(DK270148k) ページ画像

明治33年9月12日(1900年)

是ヨリ先、伊藤博文、新政党ヲ興サントスルヤ、栄一、入党セサルモ博文ノ新政策ニ賛襄ヲ惜マザルヲ約ス。既ニシテ立憲政友会組織サレ、全国ノ実業家ニ参加ヲ勧誘ス。因リテ是日栄一、井上馨ト共ニ在京実業家ヲ三井集会所ニ会シテ協議シ、実業界ニ於テハ新政党ノ樹立ハ賛成スルモ、自ラ政党ニ加盟セザルニ意見一致ス。


■資料

伊藤博文秘録 平塚篤編 第七―一〇頁 昭和四年三月刊(DK270148k-0001)
第27巻 p.578-580 ページ画像

伊藤博文秘録 平塚篤編  第七―一〇頁 昭和四年三月刊
    二 政友会組織の下相談
方今国家多難ノ際ニ当リ、済時ノ方策一ニシテ足ラズ(方策中ニハ経済財上及外交等ノ事ヲ凡テ含蓄スルモノナリ)然レドモ到底其是非ヲ甲乙ノ間ニ左右シテ決セザルニ於テハ竟ニ其時機ヲ失シ、救正スベカラザルニ陥ラン事ヲ恐ル、故ニ今日ノ急務ハ、目前已ニ現出スル所ノ国家維持ノ方策ヲ主唱スル者ノ各種ニ就テ、其ノ一ヲ選定スルノ必要ヲ感ジ、左ノ決論ニ帰著セリ、乃チ
 渋沢ト伊藤ハ所見ヲ闘シタル結果
 渋沢ハ伊藤所執ノ政策ヲ以テ是ナリトス、然レ共自己ノ境遇、自ラ主動トナリ、或ハ之ガ為ニ 身ヲ犠牲ニ供スル事ヲ得ズ、唯之ヲ是認スル以上ハ、内外ニ対シ之ヲ公言スル事ヲ憚ラザルノミナラズ、他人ニ向ツテ之ヲ賛セヨト言フ事ヲ躊躇セズ
  明治三十一年六月十八日        渋沢栄一 手記
      ×
 古い事だから判然記憶して居らぬが、私が公の知遇を得たのは、随分年久しかつたもので、最初は明治二年の事であつた。当時静岡県から大蔵省に呼出されて、租税司と云ふ役に就いた。その時は伊達さんが大蔵卿、大隈さんが大蔵大輔で、伊藤公が少輔であつた。此の人達が幹部だつたが、伊達さんは元来がその身分柄から職に就かれた看板みたいなもので、実際の職務は、総て大隈・伊藤の二人が、切つて廻して居られた。
      ×
 何しろ血気旺んな人々が、色々研究したり、見聞したりした結果を寄合つて互に論判するのだから、時には喧嘩と間違へられる程の劇しい討論もやつた。みんな気心を知り合つた人達ばかりだから、遠慮会釈のない書生交際で、思ひ切つた討論をしては初めて方針が定るのだから、実に愉快であつた。
      ×
 その後、私の身上も色々に変遷したが、公の境遇も変られた。けれ
 - 第27巻 p.579 -ページ画像 
ども、此通りの古い親しい間柄であつたから、折々は会つて色々の話を交換した。私は元来政治家でないから、政治上の事はわからぬけれども、つくづく世相を観察した結果、憲法政治の要諦はどうしても二大政党の対立で、その運用を円滑にするのが、最も宜しいと考へて居た。それで精しい意見では無い、極めて大ざつぱの、議論ではあつたが、かうした意見を屡々公に進言して、公にも是非立派な政党を組織して、大隈さんの進歩党に対立して、公が一大政党を率ゐられたら、きつと立派な憲法政治が行はれるに相違ない。私はかう考へた。無論表面からの素人観察で、学問ではないが、公もその都度賛成して居られた。今日の立憲政友会は、かうした動機から、公の胸底に芽をふきだしたもので、固より不肖私如きの献策で此の一大事を決行された訳ではないであらうが、少くとも私は其の芽に灌水する位の役目を勤めたのは事実であつた。
      ×
 すると此の書面の三十一年六月十八日の事だつた。霊南坂の邸に来てくれとの話だつたので、出かけたのは何でも午後だつたと記憶して居る。初めは誰か相客があつたが、夜に入ると私と公と二人切りで、公は頗る熱心に政党組織に就いての抱負や決意を述べられた。予々私もお勧めした位だから、私は一々公の議論に賛成した。すると話をしながら筆を執つて、すらすらと書かれたのが此の覚書だつた。どうだこれで宜しからうと申されたので、私も無論賛成した。それなら署名しろと云はれるので末尾に署名した。帰つたのは夜も更けて、十一時か十二時頃にもなつて居たであらう。
      ×
 所がそれから間も無く面倒が起つた。と云ふのは、愈よ公が表面に乗出して、立憲政友会を組織される事になつた。それで私にも党員になれと云ふ内示があつたから、イヤそれは困ります、私は前年大蔵省から出る時に、大隈さん、井上さん、公爵にも無論お話した筈だ、私は将来とも決して政治には干与しない、及ばずながら民間に下つて、商工業の発達の為めに全力を傾注する、かう云ふ決心で罷めたのであるから、今日公々然と政党の党員になる事は甚だ困る。かう云ふと公爵は非常に立腹されて、君は幾度となく我輩に政党組織を勧告したでは無いか、それに先達てもあゝした覚書まで書いて署名して置きながら、今更党員に成れぬとは怪しからん、不親切極まる、まるで我輩を売るやうなものだと云つて心から怒られた。そこで私は懇々と私の意のある所を述べて、賛成するのと政治家になるのとは自ら違ふ、私は舞台に立つ役者には成らぬが、喝采する見物人には成ると云ふ意味のつもりだ、かう云ふと重ねて公から、唯単なる党員となるには差支あるまいとの話があつた。そこで私は甚だ不肖な者ではあるが、成る以上は馬の脚には成りたくない。さすれば何かの職に就かねばならぬ。従つて私の覚悟を破る事になるから、これだけは御免を蒙りたいと云ふと、卅年の永い間親交を続けて来たのに、君のやうな不親切な男は無いと云つて、それは実に大変な立腹であつた。
 私もこれには弱り切つて、直ぐ帰りがけに井上侯をお訪ねして、具
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に私の胸中をお話した。侯は私が大蔵省を出た時の事情から、民間に下つての私の周囲の事を、よく知つて居てくれたから、よし私が話をしてやらうと云つて、其後何かの機会にお話されたものであらう、公の怒りも釈然として、矢張り昔通りの親密な交際を続けて居た。
○中略
               ――子爵 渋沢栄一氏談


世外井上公伝 井上馨侯伝記編纂会編 第四巻・第六〇七―六〇九頁 昭和九年五月刊(DK270148k-0002)
第27巻 p.580-581 ページ画像

世外井上公伝 井上馨侯伝記編纂会編
                 第四巻・第六〇七―六〇九頁 昭和九年五月刊
 ○第十編 第一章 第三次伊藤内閣
    第四節 第十二議会及び内閣総辞職
○上略
 議会解散の後も伊藤は猶かく考へてゐた。増税案の否決は真正に国民の意志を代表したものではないからこの儘内閣を継続し、改めて総選挙を行ひ、再び増税案の通過を図らうと、十四日 ○明治三一年六月の午後に至り、地価修正の委員十五名を代表して、本村誓太郎・和田彦次郎の両人が伊藤を訪ひ、前議会に於て否決された地価修正案を今度は政府案として提出せられるや、大蔵大臣列席の上確答して貰ひたいとのことであつた。それで伊藤は政府の意嚮は前の議会で十分御諒解の筈と思ふが、この次の議会に果してそれを提出するか否かに就いては、大蔵大臣と協議の上御返答するから、明日の午後にでも来邸して呉れと答へた。同日伊藤は之を公に報じ、更に「明日午後、尊邸ニ而も、小生方ニ而も、御都合次第及確答度候。彼等ハ総選挙ニ付都合有之事ト被察候。」井上侯爵家文書と希望した。その頃伊藤は議会解散の原因及びその後の自由・進歩両党の景況より見て、此等民党に対応するために新興与党を組織し、この与党の力によつて増税案を通過せしめようといふ策案を抱いてゐた。伊藤は政党の必要なことは組閣当時既に洩らしてゐたのであるが、それがこゝに至つて一層具体化した訳である、事実自由・進歩の二党の結束は最近に於て格別進展し、遠からずして合同の雰囲気が漂つてゐた。それでこの際之に対応するためにも是非政党を組織したいとの希望から之を公に謀つた。公は、今まで伊藤は官吏生活ばかりして居り、政党については素人であるから、暫く組党を見合はして、それの研究をした方が宜い旨を述べて、「それにしても陛下には如何御考か。」と尋ねたところ、伊藤が、「もう申上げてある。御内諾済みだ。」とのことであつた。既に御内諾まで得てゐるといふのを聞いた公は、「そんなにまでなつてゐるのなら、今更何にもいふ必要はない。やれ。自分も及ぶ限りの事は尽さう。」と賛成して、実業界方面との折衝を引受けた。嘗ては政党を忌避し、自由党の入閣に反対した公であつたが、大勢の趨く所を察して翻然悟る所があり、遂に自ら進んで尽力することになつたのである。それで渋沢栄一・益田孝大倉喜八郎・馬越恭平等の実業家を説き、組党事務所を自分の官邸に設ける等、率先その準備に取掛つた。而して伊藤は六月十九日に閣議に於て正式に政党組織の報告をなした。ところが桂等が之に反対し、又翌日の組党関係の人々との会見の場合にも、議論区々に分れて容易
 - 第27巻 p.581 -ページ画像 
に纏らなかつたので、遂に組党は一頓坐を来した。
○下略


雨夜譚会談話筆記 下・第五一一―五一三頁 昭和二年一一月―昭和五年七月(DK270148k-0003)
第27巻 p.581 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第五一一―五一三頁 昭和二年一一月―昭和五年七月
                     (渋沢子爵家所蔵)
  第十八回 昭和二年十二月二十日 於丸ノ内事務所
○上略
先生「 ○中略 政友会の出来たのは明治三十二年《(マヽ)》で、伊藤さんはそれ迄政党組織に就て種々心を悩まして居つたので、私が其事を薦めて『政党を創つて大隈さんと相対したらいゝでせう。英国にはヂスレリーに対するグラツドストンがあり、保守党と改進党が争つて居るではありませんか、貴方も一つ大隈さんをヂスレリーとして向ふに廻し相争ふ積りで政党をお創りなさい』と云つた、すると伊藤さんが例の書いた物を出して私に見せて『渋沢、君も之れに同意するだらう同意するなら之れに署名しろ』と私に名前を書かせた。それから私を政友会員に引入れ様としたので、私は政党組織をお薦めはするけれども、自分で党員になる事は御免を蒙ると云つたら、伊藤さんが怒つて『そんな馬鹿な事はない。自分で善いと云つて頻りに薦め乍ら、自分で党員たる事は厭だなんてそれは勝手だ』と不平を云つたから、私は『役者と見物人はおのづから違ふ。私は見物人だから立役者にも成らなければ、馬の脚も御免だ』と云つた。伊藤さんは大変此事に不満だつたけれども、井上さんが仲に入つて宥めて呉れてから、伊藤さんも納つた。斯んな関係があるのだから直接憲法制定に与らなかつたとは云へ、後の政党の事も私が導いたとも云へば云へやう。併し其後伊藤さんはよく私に『自己なしに働いて呉れるのは君ばかりだ』と云つて喜んで居た」
○下略
   ○第十八回ノ出席者ハ、栄一・渋沢篤二・同敬三・増田明六・渡辺得男・小畑久五郎・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。


雨夜譚会談話筆記 下・第五七三―五七五頁 昭和二年一一月―昭和五年七月(DK270148k-0004)
第27巻 p.581-582 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第五七三―五七五頁 昭和二年一一月―昭和五年七月
                     (渋沢子爵家所蔵)
  第二十回 昭和三年一月廿四日 於丸ノ内事務所
○上略
高田「伊藤公手記の政党組織に就ての覚書は、何処で署名なされましたか」
先生「覚書に署名させられたのは伊藤さんの家でだつた。当時伊藤さんは葵坂を上つた所に屋敷を持つて居た。後に此家は宮内大臣の官邸になつた。事の起りは私が政党の必要を説いて『今の様では折角議会制度があつても役に立たぬ。英国のグラツドストンとヂスレリーの例があるから之れに倣つたがよい』と云つた。(井上さんとは政党に就ての話はしなかつた)伊藤さんは政党の必要は感じて居たけれども、実際問題になると非常に小胆で、老人連がやかましいと云つて居たので、私が『貴方がやらなくてもどうせ将来は政党組織ま
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で行かなければ止まない。貴方は内閣を組織し、憲法の制定もやつた人だ。老人連が何と云つたところが、其処迄行かなければおさまらないなら、貴方がやつて構はないではありませんか』と云つたら伊藤さんが『では君の云つた事は斯う云ふ事になる。君も之れに賛成だらう。異議がないなら之れに署名して呉れ』と云はれて私が署名した。其時私は政友会と云ふ名前は云はなかつたけれども、伊藤さんは其時政友会の組織を思ひ立つたのである。それから私に政友会員になれと云つたので『私は御免蒙る』と断つたら、君は人を売る様な事をすると大変腹を立てた。それで私が『貴方は誤解してゐる。井上さんに聞いて呉れ、私の考がよく判るだらう』と云つた。それから井上さんが仲に這入つて納めて呉れた。 ○下略
   ○第二十回ノ出席者ハ、栄一・野口弘毅・増田明六・渡辺得男・白石喜太郎小畑久五郎・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。


渋沢栄一 日記 明治三三年(DK270148k-0005)
第27巻 p.582-583 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三三年     (渋沢子爵家所蔵)
九月一日 晴
○上略 畢テ井上伯ヲ麻布内田山ニ訪フ、藤田伝三郎・日下義雄等ニ面会ス、井上伯ヨリ新政党ニ関スル意見ト経歴トヲ縷陳セラル、余モ其期念ヲ開陳ス ○下略
   ○中略。
九月七日 晴
午前政友会ニ関スル件ニ付、諸友人ニ発スル案内状ヲ起草シテ益田氏ニ照会ス ○下略
九月八日 雨
午前政友会ニ関スル件ニ付諸方ニ発スル書状ヲ草ス ○下略
九月九日
○上略 朝井上伯・都筑馨六氏・益田孝氏等ニ政友会ニ係ル集会ノ事ヲ書通ス ○下略
   ○中略。
九月十二日 曇
○上略 午後四時三井集会所ニ於テ、曾テ書ヲ以テ市内実業家四拾有余人ニ政友会ニ関スル協議会ヲ開ク事ヲ通シ置キタルヲ以テ之ニ会ス、来会者三十二名、井上伯モ参席セラル、依テ冒頭ニ此会ヲ催シタル趣旨ヲ述ヘ、且一同ノ意見陳述ヲ乞フ、原六郎氏口ヲ開テ井上伯身上ノ都合ヲ問ハル、是ニ於テ井上伯ハ爾来政友会特ニ伊藤侯トノ情誼ヨリ従来ノ関係ヲ縷述セラレ、政友会ニ付テ述ヘラレタル企望ヲ詳話ス、雨宮敬次郎氏ハ一同袖ヲ連ネテ入会スルヲ得策トスルト論シ、末延道成加藤正義・高橋是清・益田孝等ハ、政友会モシクハ伊藤侯ノ政略ニ同意ヲ表スルハ無論ナルモ、党籍ニ入名スルハ自己管理ノ事務ニ害アルノ恐アルヲ以テ、入会ハ同意セストノ主旨ヲ述フ、其他各員種々ノ談話討議アリテ、井上伯ハ強テ之ヲ勧誘セス、又此政友会ノ成立ヲ熟視スレハ経済界トノ関係頗ル必要ノ点アルヲ示シテ一同ノ考慮ヲ注意セラル、依テ最終ノ決案ハ、来会者一同ハ政友会即伊藤ノ政略ニ於テハ全然之ニ同意賛成シ勉テ其関係ノ密着ヲ謀ルヘシ、去リ乍ラ銀行・会
 - 第27巻 p.583 -ページ画像 
社従事ノ者ハ、従来ノ党派ノ弊習ニ鑑ミ、自身入籍スルヲ以テ其管理ノ業務ニ害アリト顧念スルニ於テ、強テ其入会ヲ要求セス、只可成同会賛襄ノ趣旨貫徹ヲ務ムヘキ事トシテ、一同夜十時過散会セリ、此夜兜町ニ帰宿ス


渋沢栄一書翰 井上馨宛 明治三三年九月九日(DK270148k-0006)
第27巻 p.583 ページ画像

渋沢栄一書翰  井上馨宛 明治三三年九月九日     (井上侯爵家所蔵)
奉啓、益御清適御坐可被成恭賀仕候、然者過日御打合之一条ニ付而ハ其後都築氏《(都筑氏)》へ之御伝言も有之候旁、早速益田・今村とも相談仕候得共会合之案内ハ小生丈ニて通知候方可然との衆議ニ付、終ニ文案も小生之手ニて取調、別紙之通発送仕候、依而ハ来ル十二日ニハ閣下ニも是非御繰合被下候様奉願候、益田・今村抔より別懇之向ヘハ可成来会候様心配致呉候手筈も打合置候得共、中ニハ断もなく不参候哉と存候ものも可有之と相考申候
通知状も色々と熟考致候得共、余り簡単ニても意味相通し兼候恐有之誰も懸念之要点ハ一寸認入候方と存し、益田とは相談之上別紙之通取極候次第ニ御座候、是又御許容可被下候、尚外ニ御心附之人も有之候ハヽ更ニ追加も可仕候得共、昨日まて発送せし人々ハ別紙之通ニ御坐候、御一覧可被下候
右至急一書申上度 匆々不一
  九月九日                渋沢栄一
    井上伯閣下
         侍史
   ○右書翰中ノ「別紙」ハ次掲ノ書翰ヲサスモノト思ハル。


渋沢栄一書翰 大橋新太郎宛 明治三三年九月八日(DK270148k-0007)
第27巻 p.583-584 ページ画像

渋沢栄一書翰  大橋新太郎宛 明治三三年九月八日    (大橋新太郎氏所蔵)
(栄一筆印刷)
残炎未退候得共、益御清適御坐可被成奉賀候、然者今般伊藤侯爵ニ於て新政党組織被致候ニ付而ハ、貴方へも既ニ通牒有之、夫々御熟案中と察上候、元来政治と商工業との関係ハ尤以て密着を要する義にて、今日之時態真正鞏固之政党確立致候ハ、御同様経済界ニ従事いたし候者之切ニ歓迎すへき事にハ候得共、従来党派之弊習ニ鑑ミ候ハヽ、亦以て多少考慮すへきもの有之候歟と存候、就而ハ御同様可成其歩調を一ニ致候様仕度と奉存候ニ付、玆ニ一会相催し、篤と御協議申上度候間、御繰合相叶候ハヽ、来ル十二日午後四時有楽町三井集会所へ御来臨被下度候、尤も本件ニ付而ハ、頃日井上伯と御話合致候処、伯ニも種々御意見有之、当日必す参席可致との事ニ付、是又御承引可被下候
右一書可得芳意 匆々不宣
  九月八日
                      渋沢栄一
    大橋新太郎様
         侍史
  尚々御来会之有無ハ十一日まてニ御回示被下候様、併而御願申上候也

 - 第27巻 p.584 -ページ画像 

渋沢栄一書翰 都筑馨六宛 明治三三年九月九日(DK270148k-0008)
第27巻 p.584 ページ画像

渋沢栄一書翰  都筑馨六宛 明治三三年九月九日     (井上侯爵家所蔵)
益御清適抃賀候、然者過日尊来御内示被下候ニ件ニ付而ハ、其翌日益田君 ○孝とも色々協議之上、連名ニて発状候都合ニ話合候得共、尚同君及今村 ○清之助抔之意見も有之候ニ付、終ニ小生一人ニて案内候都合ニ相成、即別紙之通り通知いたし、来ル十二日午後四時三井集会所ニ相集候筈ニ御座候、就而ハ井上伯ヘハ小生も委細申上、当日是非御出席被下様相願候得共、貴方よりも其段御書通被下度候
案内状文案ニ付而も色々と思慮致し、又益田君とも相談之上余り簡単ニても意味相通し兼候嫌有之、詰り誰も懸念致居候点ハ認入候方と存し右様取極候次第ニ御座候、是又御承引可被下候、案内せし人名ハ凡五十人許ニて、岩崎両氏も、三井ニても一両名ハ通知仕候義ニ御座候
右之段不取敢書中申上候 匆々不一
  九月九日                渋沢栄一
    都筑馨六様
 尚々只今電話ニて相伺候処ニてハ、伯 ○井上ハ必す今日帰京と申事ハ分明せさる由、就而ハ貴台より一書箱根ヘ向御発し被下候様、御取計願上候也


世外井上公伝 井上馨侯伝記編纂会編 第四巻・第七三二―七三六頁 昭和九年五月刊(DK270148k-0009)
第27巻 p.584-586 ページ画像

世外井上公伝 井上馨侯伝記編纂会編
                 第四巻・第七三二―七三六頁 昭和九年五月刊
 ○第十編 第四章 第四次伊藤内閣援助
    第一節 政友会組織
○上略
 次に公と渋沢とのこの時の関係は次の如くであつた。初め伊藤が政友会を組織するに際して、実業家をも糾合しようとし、事務所から加入勧誘状を全国に配布し、渋沢にも入会を慫慂した。併し渋沢は明治初年に大蔵省辞任の時、将来は決して官界に入らず、民間に在つて商工業の発達のために全力を傾注しようといふ決意を以て下野したのであつた。それで伊藤にその事由を述べて、「今日公々然として政党員になると、勢ひ自分の覚悟を破る事になるから、これだけは御断りしたい。」といつた所、伊藤は大いに立腹して「君は幾度となく、我が輩に政党組織を勧告したではないか。それに先達てもあゝした覚書まで書いて署名して置きながら、今更党員に成れぬとは怪しからん。三十年の永い間親交を続けて来たのに、君のやうな不親切な男はない。これではまるで我が輩を売るやうなものだ。」といつて心から怒つた。これには渋沢も大いに困却し、帰途公を訪ねてこの事を話した。公は渋沢の退官当時の事情から下野後の環境を十分に知つてゐた。故に公は渋沢の意を汲み、「よし、それでは私が伊藤に話してやらう。」といつたので、渋沢も安心してその日は帰つた。それで後日機会を得てこの事を話したものと見え、伊藤の怒も釈然として解けたと、渋沢が自ら語つてゐる。渋沢が署名したといふ覚書は、三十一年六月に伊藤を訪ねて政党組織に就いて所見を闘はした結果、渋沢は伊藤の執る所の政策を以て是と認めるが、自己の境遇より自ら主動となり、或はこれがために身を犠牲に供することは出来ない。併し之を是認する以上は内外
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に対して之を公言することを憚らないのみでなく、他人に向つて之を賛成せよといふことを躊躇しないといふ意味を、伊藤がその場で書いて渋沢に署名させたものである。
 政友会組織に際しては、全国の実業家をも網羅しようとして入会勧誘状を配布したことは前述の如くであるが、従来東京の実業家間に於ては、公を中心として何事によらず歩調を一にして来たので、この際も一致して入会するか否かを決しようといふことになり、渋沢栄一・益田孝等は之を公に謀つた。その結果、発会式に先立ち、九月十二日 ○明治三三年に有楽町の三井集会所に於て、これについて協議会を開きたい旨の案内状を、同月八日に凡そ五十人に発した。
 十二日の三井集会所に於ける実業家の協議会に臨んだ公は、渋沢の挨拶の後を受けて、大要左の如く演説した。
  来会諸氏のために参考として新政党に就いて予の知れる所を述べんに、抑々立憲政治の完美は純真鞏固なる大政党の出現に俟たざるべからず。然るに従来の政党は其の組織不完全なるため種々の弊害を伴ひ、到底所期の目的を達するを得ず。故に此の際完全なる政党を組織せざるべからずとの主張に基けるなり。予全く其の感を同じうす。蓋し政党を要する所以は、之に依つて国家の経営を図らざるべからざればなり、而して国家なるものは云ふ迄もなく農工商を以つて基礎とす。其の発達を図るは即ち国家の発達を図る所以なるべく、政治と実業とは断じて離るゝ事能はず。言ひ換ふれば政治の善悪は直ちに実業界に利害得失を及ぼし、実業の盛衰は即ち国政の休戚となりて現る。其の関係や此の如く密接なり。然るに既往に鑑みれば、政治と実業とは兎角懸隔して別物の如き観をなせり。これ其の当を得ざるの甚だしきものにして、伊藤侯の所謂政党改造なるもの亦実に玆に因由す。而して既に政友会を起し、其の宣言・綱領皆之に則る。実業家の政治に意を注ぐの好機会なりと云はざるべからず。然りと雖も予は必ずしも諸氏に対して同会に加入せよと勧むる者にはあらず、人の去就は其の人の自由意志に依るべきものにして他より勧誘すべきものにはあらざればなり。唯々予は実業と政治の離るべからざるを論じ、善良なる政党の起るに於ては、之を援けて以つて憲政の完成を期するの至当なるべきを唱ふるに過ぎず。願はくは予の微意の存する所を誤解せられざらんことを。日本政党史
 かくて一部の実業家は、既に伊藤の発表した宣言・綱領がその当を得たものと認め、且つ実業と政治とが離るべからざる所以を諒解した以上は、一同躊躇なく入党すべきであると説いたが、その多数の者は伊藤の宣言・綱領と公の説明とは最も我が意を得たものであつて、我我は満腔の敬意を表し、全力を挙げて援助に努むべきも、入会といふが如きは各自事情のため不可能なことでもあるし、又政争の累を私交営業上に及ぼされるやうな事があつては面白くないといふのに傾き、結局入会は各自の自由と云ふことになつて散会した。それで事実上に於ては敬遠的態度を執つたが、公の縁故によつて総括的に離反するやうなことはなかつた。なほ京都・大阪方面の実業家に於ては予て伊藤との間に感情の疏通を欠いてゐたので、この際は殆ど全部が寰外に逸
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脱した。併し政界方面に於ては憲政党の面々は論ずるまでもなく、帝国党・議員同志倶楽部・日吉クラブ・無所属等よりの入会者が踵を接し、間もなく政界の大半を政友会が獲得したのは、伊藤の声望にも依ると雖も、亦一面は公の尽力の結果といはなければならぬ。
○下略


新聞集成明治編年史 同史編纂会編 第一一巻・第一二三―一二四頁 昭和一一年三月刊(DK270148k-0010)
第27巻 p.586 ページ画像

新聞集成明治編年史 同史編纂会編  第一一巻・第一二三―一二四頁 昭和一一年三月刊
  実業家も政治に冷淡なる可らずと
    政党に対する態度決定を協議
      雨敬は挙つて政友会に入党せよと提案
〔九・一四 ○明治三三年国民〕 渋沢栄一氏は、此際市内実業家の立憲政友会に対する態度を定むるため、一昨夕有楽会員及び其他の実業家を、三井倶楽部に招待し協議する所ありしが、来会者は井上伯を初め三井高保・安田善次郎・加藤正義・高橋是清・雨宮敬次郎・今村清之助・田中平八・渋沢喜作・中上川彦次郎・波多野承五郎・益田孝・朝吹英二末延道成・原六郎・長尾三十郎・早川千吉郎・中沢彦吉・鈴木藤三郎三野村利助・高橋義雄・佐々田懋・柿沼谷蔵・大橋新太郎・田中銀之助・岩永省一・上田安三郎・浅田正太郎の諸氏三十一人にして、渋沢氏は来会の労を謝すると共に、従来政党と実業家との間は大に疎遠にして、又自ら疎遠なるべき事情も存したれども、元来政治の良否に付き、最も直接に利害を感ずるものは実業家に相違なければ、実業家たるものは向後政治上の事に注目するの必要あると共に政党とも近接して大に政治上一個の動力となるの覚悟なかるべからず、伊藤侯の首唱せられつゝある立憲政友会は今や成立しつゝありて、吾々実業家は之れに対する態度を協議しおくの必要あり、是れ諸君の会合を仰ぎたる所以なりと述べ、次で井上伯は、余は敢て諸君に向つて入会を勧誘せんと欲するにあらざるも、実業家は従来の如く決して政治に冷淡なるべからずとて、政治と実業との関係に付き述ぶる所あり、雨宮氏は此際挙げて政友会に入会することゝなすべしとの議を提出せしも、新政党の主意には賛成なるも実業家には業務の関係上実際政党に加入すべからざるものあれば、来会者挙つて政友会に入会することゝなすべしと云ふが如き極端の説には同意する能はずとの反対論もあり、雨宮氏は更らに一同挙つて入会すること難しとせば、一同入会を見合はせ、別に一個の倶楽部を設け、会員をして毎月百円宛を醵出せしめ、各種専門家の智識を玆に集めて、以て自ら輿論の提唱者たる位置に立つことゝなすべしと論出せしも、倶楽部説には賛成なるも毎月百円の醵出には首を傾くるもの多く、結局一の要領を得る所なく其儘散会することゝなりしが、来会者多数の意嚮は、伊藤侯が貴族院議員若しくは実際政党に名を列する能はざるものを網羅するため、政友会の他に組織せんとする倶楽部に挙つて入会することとなすか、若しくは別に倶楽部を設けて政友会と気脈を通じ、事に臨んで運動することゝなさんと謂ふに在るものゝ如しと。



〔参考〕東京日日新聞 第八〇〇三号 明治三一年六月一八日 ○朝党と実業家(DK270148k-0011)
第27巻 p.586-587 ページ画像

東京日日新聞  第八〇〇三号 明治三一年六月一八日
 - 第27巻 p.587 -ページ画像 
    ○朝党と実業家
○上略 朝党組織に関して世人の目指せる渋沢栄一氏の社員に語れる処に依れば、氏は朝党の組織には熱心なる賛成者の一人なり、第十二議会の未だ解散せられざるに先つて氏は旧交親しき伊侯・井伯等に対し朝党組織の急要を説き、若し組織せらるゝに於ては応分の尽力は敢て辞せざる所なりとまで申入れたり、然れども氏は明治六年官を退いて以来、身を商業界に委して全力を玆に尽し、又他を顧みずして今日に至りしなれば、今に於て俄かに自から管理し来れる銀行其の他一切の業務を打捨てゝ政界の人と変じ、進んで政党組織の発起人となる等は、氏の敢てせさる所なるも、夫れが為めに親交ある伊侯・井伯等の組織せる政党に何等の関係を有せずといふにはあらざるなり、更に之を卑近の比喩に取らば伊侯・井伯も隈・板両伯も総て是れ政治劇の俳優にして、氏は之れが観客として伊侯・井伯の技に十二分の贔負を表するものなり、氏は斯る覚悟を以て朝党組織の事に対せるが故に、是れまで大岡育造氏等より受けたる再三の交渉にも、余り深入りせず終始其の意を以て回答し居れりといふ