デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

6章 政治・自治行政
1節 政治
6款 大蔵大臣就任辞退
■綱文

第27巻 p.589-595(DK270150k) ページ画像

明治34年5月22日(1901年)

是月十六日伯爵井上馨内閣組織ノ大命ヲ拝シ、栄一ニ大蔵大臣ノ就任ヲ交渉ス。栄一、主義トシテ入閣ヲ好マズ、且ツ佐々木勇之助等第一銀行関係者及ビ近親者モ反対ナルヲ以テ、是日之ヲ謝絶ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三四年(DK270150k-0001)
第27巻 p.589-590 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年     (渋沢子爵家所蔵)
五月十六日 雨
午前麻布井上伯ヲ訪ヒ、内閣組織ノ事ニ関シ種々ノ談話アリ ○下略
   ○中略。
五月十八日 雨
午前八時麻布井上伯ヲ訪フ、再ヒ内閣組織ノ内話アリ、去テ第一銀行ニ抵リ佐々木・日下両氏ト談話スル処アリ ○下略
五月十九日 晴
午前八時佐々木勇之助来リ、昨夜井上伯邸ニ於テ予ノ入閣ニ関スル事ニ付種々差支ノ事情ヲ述ヘタル旨ヲ申聞ラル、十時王子発ノ汽車ニテ上野ニ抵リテ兜町宅ニ出勤ス、園田孝吉・日下義雄二氏来リテ井上伯ヨリノ談話ヲ伝フ、午後一時麻布井上伯ヲ訪ヒ、芳川子爵来会シテ共ニ予ノ入閣ヲ懇話ス、依テ更ニ再考ヲ約シテ去リ、日本橋倶楽部ニ抵リ竜門社ノ春季総会ニ出席ス、畢テ兜町邸ニ帰リ穂積・阪谷及篤二等ヲ会シテ入閣ノ事ヲ内話ス、一同其不可ヲ切言スルヲ以テ、明朝迄ニ決定スルモノトシテ散会ス、之ヨリ先佐々木氏ニ内話セシモ同シク入閣ノ不可ヲ論シ、且銀行ノ困却ヲ述ヘラル、夜十時王子別荘ニ帰宿ス
五月廿日 曇
午前書状ヲ作リ入閣謝絶ノ事ヲ芳川子爵ニ通知ス ○下略
五月廿一日 曇
午前九時目白椿山荘ニ山県侯ヲ訪ヒ、西郷侯来会シテ予ノ入閣ヲ勧諭セラル、十一時日本銀行ニ抵リ山本総裁ニ面会ス、同シク入閣談アリテ頻ニ勧誘セラル、十二時芝山内ニ伊藤侯ヲ訪フ、同シク入閣ノ事ヲ懇諭セラル、是ニ於テ予ハ心ニ以為ク、モシ第一銀行ニシテ同意スルアラハ諸公ノ勧誘ニ応セント、依テ伊藤侯ヲ辞シテ第一銀行ニ抵リテ重役会ヲ臨時ニ開ク事ヲ談シ、一方ニハ兜町宅ニ於テ篤二及穂積・阪谷等ヲ会同セシメテ協議スル処アラントス ○中略 畢テ銀行ニ抵リ予ノ身上ニ関スル協議会ヲ開ク、一同入閣ノ不可ヲ切言シテ、元老諸公ニ謝絶セン事ヲ望ム、更ニ兜町ニ抵リ再ヒ親族ノ意見ヲ訪フ、同シク其不可ヲ論シテ止マス、依テ断然入閣ヲ謝絶スル事ト定メ、明日山県・伊藤両侯ヘハ西園寺・日下二氏ヲ以テ通告スル事ト定ム ○下略
五月廿二日 晴
午前山県・伊藤・井上三氏ヘ書状ヲ以テ入閣謝絶ノ事ヲ通ス ○下略
   ○中略。
 - 第27巻 p.590 -ページ画像 
五月廿四日 雨
○上略 楠本男爵来ル、蔵相任務ノ事ニ付切ニ勧誘セラル、然レトモ既ニ決意セシ趣ヲ以テ反覆之ヲ謝絶ス ○下略
   ○中略。
五月廿六日 晴
○上略 楠本男爵来ル、蔵相云々ノ事ヲ勧誘セラル ○下略


渋沢栄一書翰 芳川顕正宛 明治三四年五月二〇日(DK270150k-0002)
第27巻 p.590 ページ画像

渋沢栄一書翰  芳川顕正宛 明治三四年五月二〇日    (井上侯爵家所蔵)
奉啓、昨日ハ種々御心配被下忝奉存候、拝別後直ニ第一銀行専務之者と相会し、再三協議を尽し候得共、何分小生安心して同行を退身致候場合ニ立至兼候ニ付、此上ハ只々恐縮陳情之外無之義ニ御座候、実ニ怯懦とも可申、無情とも可申、事物之軽重ニ較量之知識なき行為とも可相成、余り固執之意見と御叱責も可有之候得共、右等者都而世評ニ任セ、偏ニ心事御憐察相願候外無之候
世外伯より頃日来数回之御懇諭、殊ニ商工業之位地相進候為、小生之一身ニ御嘱望被下候との一事ハ、今ニ始めぬ義ニ者候得共、小生ニ於てハ真田幸村之故事之如く、百万石拝領せしよりも尚更愉快を感し、真ニ落涙致候、且同伯よりハ老台ニも御承知被下候如く、三十年余別段之知遇を蒙り、老後之今日ニ於て共ニ情死と覚悟せよとの御一言ハ苟も熱血ある者誰か感激せさらむや、故ニ小生も不知不識厚情ニ覊され、老朽をも顧ミす、又先年退官之際ニ期念せし自個之覚悟も打忘れ可申と迄ニハ相考候得共、生涯之心得ニて残躯を一任せし第一銀行ニ不安心之情あるを知りなから退身する之一事ハ、如何ニも小生之忍ひさる次第ニ付、終ニ前陳之通り頑固之申上方ニ相成候義ニ御座候、就而ハ此辺之衷情何卒老台より世外伯ヘ可然御執成被下、せめてハ幾分之御憤怒相減し候様御高配被下度候、右者拝趨申上候筈之処、面陳候も却而恐縮ニ付、乍欠敬書中奉得芳意候 匆々頓首
  五月二十日               渋沢栄一
    越山老台
         侍史
 尚々小生之為を以て、世外伯之内閣組織遅延致候様相成候ハ、如何もニ痛心之次第ニ有之、去迚本文申上候義者他ニ思考も不相生、真ニ進退維谷と申場合こて、昨夜も臥床中自問自答、終ニ安眠も仕兼今朝此一書相認候も自然延引致候義ニ御坐候間、是又御諒恕被下老台ニ於て何とか他之方法御案出之上、世外伯をして速ニ御勇決相成候様、御高配之程懇望之至ニ御坐候 不宣


渋沢栄一書翰 井上馨宛 明治三四年五月二二日(DK270150k-0003)
第27巻 p.590-591 ページ画像

渋沢栄一書翰  井上馨宛 明治三四年五月二二日     (井上侯爵家所蔵)
爾来益御清穆御坐可被成奉抃賀候、然者頃日来懇々之御説諭ニ付而ハ一昨日芳川子爵まて拙書を以て委細之事情開陳致置候処、昨朝山県侯爵より電話ニて目白邸ヘ参上致し色々と御垂示有之、午後ニハ伊藤侯に拝眉し、同しく御懇諭を受候ニ付、老朽之身を以て斯くまて諸公を奉煩候も、如何ニも恐縮之義と相考ヘ、且ハ平生閣下之御知遇ニ感奮致居候旁勇気を鼓舞して貴命ニ従ヘ可申と、直ニ銀行ニ立帰り重立候
 - 第27巻 p.591 -ページ画像 
者五・六相会し、再三協議を尽し候得共、何分小生之退身ニハ同意致兼候旨一同申居、如何とも致方無之候、此上ハ只々恐惶陳謝仕候のミニ付、何卒御宥免被下度候、右者昇堂可申上之処、此際拝眉之面目も無之、乍欠敬書中奉得芳意候、呉々も微衷御諒恕被下候様懇祈之至ニ候 匆々拝具
  五月廿二日               渋沢栄一
    世外伯閣下
         侍史


渋沢栄一書翰 伊藤博文宛 明治三四年五月二二日(DK270150k-0004)
第27巻 p.591 ページ画像

渋沢栄一書翰  伊藤博文宛 明治三四年五月二二日     (伊藤公爵家所蔵)
粛啓愈御清暢御坐可被成奉抃賀候、陳者昨日懇々御示諭之一条ニ付而ハ、小生も大ニ感奮致候処有之候ニ付、強而勇気を鼓舞して貴命ニ応し候心得ニて拝別致、直ニ銀行ニ於て重立候者五・六相会し種々相談を尽し候得共、何分小生之退身ニ同意無之候間、此上ハ不得已恐惶陳謝之外無之候、実ニ無面目之至ニて、拝趨も仕兼候次第ニ御坐候、委細ハ日下義雄参上之筈ニ付、何卒事情御聴納可被下候、右一書奉得芳意候 恐々謹言
  五月廿二日               渋沢栄一
    春畝老侯閣下
          侍史


新聞集成明治編年史 同史編纂会編 第一一巻・第二五五―二五六頁 昭和一一年三月刊(DK270150k-0005)
第27巻 p.591-592 ページ画像

新聞集成明治編年史 同史編纂会編  第一一巻・第二五五―二五六頁 昭和一一年三月刊
    渋沢栄一入閣を拒絶
      内閣組織の一難件
〔五・二三 ○明治三四年時事〕 去る十六日、井上伯参内して御内命を蒙りたるより形勢大に進み、政局は井上伯を中心として発展し来らんとする折柄、昨今に至りて又も行悩みの姿を呈しつゝある其の原因は種々ある可しと雖も、就中至大なる事情と目す可きは、井上伯が仮りに総理を受任するとするも、大蔵大臣を兼任することは御免を蒙りたし、若し強いて大蔵大臣たる可しとのことならば、総理の方は余人にて引受けられたし、何れにしても老余の一身に、二個の重職を荷ふ事は、断じて堪ふる能はざる所なりと主張したるに在るものゝ如く、井上伯は一時殆ど一切の相談を投出して、後継内閣組織の重任をも辞退せんとしたるより、山県侯・伊藤侯等も大に心配し、然らば何は兎もあれ、先づ大蔵大臣の候補者を定めて井上伯の決心を固めんと欲し、予てより、同伯意中の候補者たる渋沢栄一氏を起たしめんものと、此一両日来伊藤侯と山県伯《(候)》とは、各別々に渋沢氏を招き寄せて切に井上内閣の大蔵大臣たらんことを勧誘したるも、氏は其以前既に井上伯自身より勧誘を受けて、之を固辞したる程なれば、一昨日午前と午後に、伊藤侯と山県伯より説き勧められし時も、断然受任し難き旨を答へ置き、尚昨日を以て氏は、一身の事情何分にも承引し難き旨の最後の決答を為したるよし。故に渋沢氏の大蔵大臣たることは、其望み全く絶え、玆に井上内閣成立の要素を欠ぐに至りたれば、今後の内閣組織談は果して如何なる方向を取つて進む可きか、或は井上伯は更に最初の態度
 - 第27巻 p.592 -ページ画像 
に立戻りて、総理たる事を辞するに至る可きか、或は又渋沢氏の辞退により、元老は更に他の候補者を選定して、井上伯に押付くるに至る可きか、是、井上内閣の成否に関する第一の関門にして、大蔵大臣の選定難に依り、井上伯いよいよ総理を固辞するに至れば、時局は更に逆転して、其収拾の程も測り難きが故に、此処伊藤・山県及び其他の元老に於いて最も苦心の存する所なる可く、昨日目白の椿山荘に於ける、元老の会合も、専ら此辺の方案に就いて熟議を凝らしたるものならんと云ふ。


伊藤博文秘録 平塚篤編 第一〇頁 昭和四年三月刊 【二 政友会組織の下相談 子爵 渋沢栄一氏談】(DK270150k-0006)
第27巻 p.592 ページ画像

伊藤博文秘録 平塚篤編  第一〇頁 昭和四年三月刊
    二 政友会組織の下相談
○上略
 所が其後、たしか山県内閣《(伊藤)》の後だつたと思ふが、後継内閣の組織を井上侯に引受させようとした事があつた。専ら周旋したのは伊藤・山県の両公で、古い友人の井上にも、一度首相を務めさせたいとでも思つたのであらう、極力侯を推薦した。侯も万更で無い様子だつたが、それには私が大蔵大臣を引受けるならと云ふ条件があつたらしかつたこれには私はほんたうに困つた。何とも御辞退の仕様がない。と云つて四十年の決心を破る事は出来ぬ。遂に意を決して、私は第一銀行を創めた時、私一個の事情で、此の銀行をやめる事はせぬと誓つた事があるから、銀行の方で宜いと云ふなら就任しようと云ふ返辞をした。そして私は銀行の人達に対して赤裸々に私の立場を述べて相談した。所が銀行では何うしても辞任しては困ると云ふのである。かうなると私も男として、公然誓つた事を、私情の為めに曲げる事は出来ない、私も沈思考慮をめぐらした結果、遂に断乎として辞退した。それで私は就任せずに済んだ。私としては何としても斯うする外はなかつたのであるが、それが為め井上内閣もお流れになつて了つたのは、親しい友人間のことでもあり、実に身を切られるやうな辛さだつた。
                ――子爵 渋沢栄一氏談


世外井上公伝 井上馨侯伝記編纂会編 第四巻・第七八一―七九二頁 昭和九年五月刊(DK270150k-0007)
第27巻 p.592-594 ページ画像

世外井上公伝 井上馨侯伝記編纂会編
                 第四巻・第七八一―七九二頁 昭和九年五月刊
 ○第十編 第四章 第四次伊藤内閣援助
    第三節 内閣組織の大命拝辞
 第一次政友会内閣の総辞職に伴ふ善後策の協議は、公及び山県・松方・西郷等の四元老が勅命を拝して、三十四年五月五日及び八日・九日の三回開かれた。而してその間に於て公等は伊藤に留任を慫慂したことも一再でなかつたが、伊藤は頑として動かず、ために同月十日に至つて、伊藤の職を免じて西園寺首相代理が臨時首相となつた、そして更に公等は西園寺臨時首相に新内閣組織を交渉したが、西園寺は宿痾の故を以て固辞して受けず、又他に適任の後継者も見出せなかつた併し国家は一日も政務の等閑は許されぬ、特に時局多端の当時に於ては尚更であつた。故に公等は国家の元老として、一日も早くこの事を解決して聖慮を安んじ奉るのは自らの任務でもあり義務でもあるとは
 - 第27巻 p.593 -ページ画像 
思ひながらも情態が前述の如くであつて容易に決しさうもなかつた。それで結局は止むなく四元老の中、誰か一人が出でて速かに後継の内閣を組織し、以て上聖慮に応へ奉り、下国民に報いねばならぬ場合に立到つた。併し山県・松方の両人は、容易に立たうとはせず頻りに公及び西郷を推した。西郷は前に山県内閣には列したが、その本領は無味無臭であつて山県・松方程の困難はなく、己の意志によつて如何にでもなるのであつたが、矢張り自ら内閣を組織する事は之を避け、右両人同様公を勧説することに勉めた。
 公は徳大寺侍従長・山県・松方等の訪問を受けて、同月十五日に組閣問題に関して談合した後、伊藤を大磯に訪問しようとしてゐた所へ伊藤より、今日敗局を収拾する者は敗局者以外に於て始めてなし得べきであつて、予は善後策に参与する資格はない。偏へに元老諸氏の配慮を煩はしたい旨の書翰が着したので、大磯行を中止して、この日に開かれることになつてゐた第四回目の元老会議に出席した。席上、公は、財政方面のことは自ら奮つてその任に膺つても宜いから、誰か首相の任に膺つて欲しいとの旨を述べ、更めて山県或は松方を推挙したが、孰も前山県内閣当時の行掛り云々を固持して頻りに辞退し、局外よりは及ぶだけの援助は惜しまぬから、是非この際は出廬して欲しいと述べて公を推した。併し公は自ら首相として立つの非を十分に承知し、政敵の多いことも能く認知してゐたので、この上は如何にしても西郷を推して首班とし、その円満な技倆を自由に発揮せしめ、自らは財政の局を引受けてそれを援助するのが上策であるとして、更に西郷を挙げたが、西郷は之に応じようともしなかつた。
 三元老の意嚮は公に組閣を慫慂する点に於て一致した。衆望亦公の一身に帰するやうになつた。こゝに於て公の一片の侠骨はそれを無視することが出来なかつた。そこで十六日に公は召命に応じて参内したところ、明治天皇から親しく優旨を賜ひ、内閣組織の大命を拝した。公は意衷を披瀝し一旦は御辞退申上げたが、遂に固辞するに詞なく暫しの御猶予を請うて退出した。その退出の際に西園寺を訪ね、種々意見を交換した。その時公の述べた大要は、「予は内閣を組織するに成算のないことは無いから、意中の閣僚を得ることが出来たならば、首相の印綬を帯びても差支ない。」とのことであつた。かくて混沌極まりなかつた当時の政局も、公の侠心によつて漸く曙光を見出した。伊藤もこの事を大いに喜び、都筑に託してその蹶起を切望した。伊藤は予て公が一度も今迄に台閣に首班となつた事のなかつたのを頗る遺憾とし、嘗て渋沢にも「古い友人の井上にも、一度は首相を務めさせたい。」と述べたことがあり、公のこの事のある日を多年渇望してゐたので、この時の喜びは格別なものがあつた。それで十九日に山県と共に公を訪ねて、直接公の奮起を促し、更に山県同様能ふ限りの援助は惜しまぬといふことをも述べた。
 公は大命拝受の翌十七日に桂太郎に来邸を求めて、陸軍大臣としての入閣を慫慂した。そして大蔵大臣には多年親交の間柄にある渋沢栄一に交渉した。併し桂は今は出廬の時期でないとて拒絶し渋沢は主義として入閣を好まなかつた。渋沢は明治六年に大蔵三等出仕退官の砌
 - 第27巻 p.594 -ページ画像 
再び官途に就かぬといふ一大決心を以て、身を実業界に投じ、当時は第一銀行を双肩に担つてゐたので、同銀行を去り難い事情にあつた。それで徐ろにその旨を述べて公に諒解を得ようと努めたが、多年の情誼から公の懇篤な推薦をその座で無下に断ることも出来ず、再考の上回答する旨を約した。そこで公は芳川顕正・楠本正隆・園田孝吉等を通じて頻りに慫慂して見たが、渋沢は容易に承諾しなかつた。依て伊藤・山県の老友は公の為に交々手を尽し、遂には人情づくで承諾せしめようとし、切りに渋沢の勧誘に努めた。この交渉には、流石の渋沢も辞退するの詞が尽き、「情誼から言へばお受けしなければならぬかも知れぬが、私の信念からはお断りしなければならない。然し折角の御示しで御座いますから、銀行の人々に相談をして見ませう。其で皆が同意でありますれば、お受け致しませう。」竜門雑誌と申出るに至つた。依て渋沢は事の顛末を詳しく銀行の重役佐佐木勇之助・日下義雄・西園寺亀次郎等に謀つたが、此等の者は異口同音に、今銀行を離れられては困ると言出して、遂に日下が代表として、伊藤・山県の処へ断りに行つた。渋沢も二十日に自ら書翰を以て芳川に断り、越えて二十二日に公に一書を裁して入閣し得ぬ事情を述べた。即ち、「頃日来懇々之御説諭に付而ハ、一昨日芳川子爵まで拙書を以て委細之事情開陳致置候処、昨朝山県侯爵より電話ニて目白邸ヘ参上致し、色々と御垂示有之、爾後ニハ伊藤侯ニ拝眉し、同じく御懇諭を受候ニ付、老朽之身を以て斯くまで諸公を奉煩候も、如何ニも恐縮之義と相考候。且ハ平生閣下之御知愚《(遇)》ニ感奮致居候旁、勇気を鼓舞して貴命ニ従ヘ可申と直ニ銀行ニ立帰リ重立候者五六相会し、再三協議を尽し候得共、何分小生之退身ニハ同意致兼候旨一同申居、如何とも致方無之候、此上ハ只々恐惶陳謝仕候のミニ付、何卒御宥免被下度候。右者昇堂可申上之処、此際拝眉之面目も無之、乍欠敬書中奉得芳意候。呉々も微衷御諒恕被下候様懇祈之至ニ候。」井上侯爵家文書といふことであつた。
 かくの如く公は意中の閣僚二人まで得ることが出来なかつた。公は上記二人の外に芳川顕正を加へた三人を以て新内閣に鼎足たらしめ、対議会上からは貴族院を山県に、衆議院を伊藤に押へて貰ふ積りで、十分の決意を以て組閣に著手したのであつたが、こゝに至つて詮方なく内閣組織を断念し、同月二十三日、この旨を西園寺臨時首相に報じて上奏方を依頼し、更に元老にも通じた。 ○中略
又後に公は渋沢に向つて当時の事を、「若し失敗して退くやうだと末路に名を傷ける。君が引受けて呉れなかつたのが幸で、私も内閣を引受けなくてよかつた。」と語り、組閣を中止した御祝をしようといふことで、渋沢もその宴に招かれた。こんな御祝は類のないことであつたといふことを、後日渋沢が人に談したことがあつた。 ○下略


日下義雄伝 日下義雄伝記編纂所編 序 昭和三年三月刊(DK270150k-0008)
第27巻 p.594-595 ページ画像

日下義雄伝 日下義雄伝記編纂所編  序 昭和三年三月刊
○上略
回顧すれば明治三十四年の秋の事なり、伊藤・山県両公は井上侯に内閣組織を慫慂せられしかば、侯之に応じ、若し余にして其内閣の大蔵大臣たることを承諾せば奮つて其任に当るべしと言はれ、為に芳川顕
 - 第27巻 p.595 -ページ画像 
正・楠本正隆等の諸氏は数々来訪して、余に入閣を勧説せられたり、余は夙に意を政治に絶ちたりしも、両公の切なる勧誘と、侯に対する情誼とによりて、遂に之を固辞すること能はず、然らば第一銀行に諮りて、幸に行務に妨げなしとせば敢て命を奉ずべしと答へ、直に君及び他の重役諸氏と協議せしに皆一斉に之に反対せられしが、中にも君は余が第一銀行創立当時の事情より将来の利害得失を詳に論究し、至誠面に現れて其不可なる所以を断言せられしかば、此に余の辞意は確定したり、君乃ち他の重役諸氏と共に伊藤・山県両公を訪ねて諒解を求め、円満に局を結ぶことを得たり、而して井上内閣は之が為に遂に成立せざりしが、侯は後日に至り当時を回想して、却て組閣の成らざりしを幸とせられたりき、此一事君の公正にして思慮周密なりしを知るべきなり
○下略
  昭和三年三月
                  渋沢栄一識時年八十又九
                          


竜門雑誌 第四四七号・第一九―二〇頁 大正一四年一二月 進退を共にした井上馨侯(青淵先生)(DK270150k-0009)
第27巻 p.595 ページ画像

竜門雑誌  第四四七号・第一九―二〇頁 大正一四年一二月
    進退を共にした井上馨侯 (青淵先生)
○上略
 三十四年伊藤さんが台閣を下り、松方さんや伊藤さんの胆入りで、井上さんに後継内閣をやらせやうとしたことがある。而して内務に芳川顕正、大蔵に私をと云ふ訳で、私は其の勧誘を数回受けた。使として芳川君が来たり、楠本正隆君又は園田孝吉君などが来て頻りに勧めたが、私が頑として応じないものだから、遂には山県さん・伊藤さんから懇切に説かれ、或は脅迫に近い強い言葉で勧められたので「情誼から言へばお受けしなければならぬかも知れぬが、私の信念からはお断りしなければならない。然し折角の御示しで御座いますから、銀行の人々に相談をしてみませう。其で皆が同意でありますれば御受け致しませう」と答へ、銀行の重役であつた西園寺・日下・佐々木などの諸君に相談した処「大蔵大臣はやるべきでない。今銀行を退かれては困る」と云ふことであつたので、銀行から断つてもらひ、井上さんには「斯う云ふ訳である。相済まぬが悪しからず」と云ふて断つた。その為めでもあるまいが、井上内閣は遂に流産に終り、桂内閣が成立した。後に井上さんは「若し失敗して退くやうだと末路に名を傷ける。君が引受けて呉れなかつたのが幸で、私も内閣を引受けなくてよかつた」と云つて居たが、その後内閣組織を中止したお祝をしやうと云ふことで御馳走になつたこともあつた。こんなお祝は類のないものである。
○下略