デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

8章 其他ノ公共事業
1節 記念事業
8款 尾高惇忠頌徳碑
■綱文

第28巻 p.543-548(DK280095k) ページ画像

明治42年4月18日(1909年)

是日栄一、埼玉県大里郡八基村下手計鹿島神社境内ニテ行ハレタル尾高惇忠ノ頌徳碑除幕式ニ参列シ、刊行成リシ「藍香翁」ヲ発起人及ビ知友ニ配布シ、且ツ一場ノ演説ヲナス。次イデ同年五月八日王子飛鳥山邸ニ於テ、右建碑及ビ伝記編纂関係者ノ慰労会ヲ催ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK280095k-0001)
第28巻 p.543 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年     (渋沢子爵家所蔵)
七月二十一日 晴 冷            起床六時三十分 就蓐十二時
○上略 午餐後三島中洲翁ヲ訪ヒ、尾高藍香碑文ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
八月一日 晴 暑              起床七時 就蓐十一時三十分
○上略
尾高次郎来リ、藍香翁碑銘ノ事ヲ談話ス
○下略
   ○中略。
八月三日
○上略 夜尾高次郎来リ、藍香翁碑銘ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
八月十三日 曇 暑             起床六時 就蓐十一時三十分
○上略 尾高次郎ニ電話ヲ以テ藍香翁碑銘ノ事ヲ談ス、諸方ニ電話ヲ送リシモ不在ニテ回答ヲ得ス、午前十時小石川ニ徳川公爵ヲ訪ヒ、藍香翁碑銘ノ題額ノ事ヲ請フ ○下略


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK280095k-0002)
第28巻 p.543 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
五月十八日 晴 暖
○上略 午後三時兜町ニ抵リ、尾高藍香翁建碑ノ為メ、渋沢喜作・尾高父子・塚原靖氏等ト会合シ往事ヲ談シ、藍香翁ノ伝記編纂ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
九月十五日 曇 涼
○上略 又尾高次郎氏ノ来訪ニ接シ、藍香翁建碑ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
九月二十七日 晴 涼
○上略 午前八時三十七分王子発ノ汽車ニ搭シテ旧郷里ニ抵ル ○中略 先人ノ墳墓ヲ拝シテ後、手計ニ抵リ、藍香翁建碑ノ地ヲ鹿島神社ノ附近ニ一覧ス ○下略

 - 第28巻 p.544 -ページ画像 

渋沢栄一 日記 明治四二年(DK280095k-0003)
第28巻 p.544 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四二年     (渋沢子爵家所蔵)
三月十六日 晴 寒
○上略 渋沢市郎・岡部五郎・尾高幸五郎・増田明六諸氏来訪ス、藍香翁建碑除幕式ノ時日及手続ヲ談ス ○下略


竜門雑誌 第二五二号・第六二―六三頁 明治四二年五月 故尾高藍香翁頌徳碑除幕式(DK280095k-0004)
第28巻 p.544 ページ画像

竜門雑誌  第二五二号・第六二―六三頁 明治四二年五月
    故尾高藍香翁頌徳碑除幕式
明治四十年五月渋沢市郎・川上鎮石・高橋波太郎等の諸氏十数名に依りて発起せられたる故尾高藍香翁頌徳碑建設の企画は、本社に於ても甚大の恩誼を荷ふ同翁に関する事とて直に其挙を賛し、幹事会の決議を以て建碑費の内へ曩に金百円を寄付し、且寄付金の取扱を為したりしが、右頌徳碑は先頃竣成を告げ、本年四月十八日を以て、翁の郷里埼玉県大里郡八基村大字下手計なる村社鹿島神社の境内に於て盛大なる除幕式を挙行せられたり
当日の来会者は青淵先生を始め、同令夫人・同令嬢・渋沢本社々長・穂積博士・同令夫人・阪谷男爵・同令夫人・島田埼玉県知事・島崎大里郡長及翁の遺族其他捐資者二百数十人にして、午前十一時一同着席先づ発起人の挨拶、事業及会計の報告、小学校生徒の唱歌ありて、茲に覆碑の白布は一同の拍手と共に撤せられたり、夫より神官の祭詞ありて、次に渋沢本社長は本社を代表して式詞を朗読せられ、夫れより来賓の式辞・祭文等ありて後、穂積博士・阪谷男爵・青淵先生等の演説、並に遺族総代尾高次郎氏の謝辞朗読ありて、式を終りたるは午後三時半なりし、夫れより食堂を開始して午餐の饗ありたり、尚当日は余興として楽隊・煙火・撃剣仕合・囃子等ありて、近郷近村より此盛況を見んと集ひ来れる老若男女は、さしもに広き境内に溢るゝ許りなりき
○下略


(八十島親徳) 日録 明治四二年(DK280095k-0005)
第28巻 p.544 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四二年   (八十島親義氏所蔵)
四月十八日 晴 日曜
今日ハ埼玉県手計鹿島神社境内ニ於テ、尾高藍香翁頌徳碑ノ除幕式執行セラル、予等モ寄付者ノ一人トシテ列席ス、即午前八時廿分上野発車十一時半先方着、折柄近傍ニ出火アリシタメ多少延刻、一時開式、夫々式典アリ、知事島田剛太郎氏・穂積博士・阪谷男及青淵先生等ノ式辞、若クハ演説アリ、碑ハ高サ一丈五尺巾六尺、稀有ノ見事ナルモノニシテ而カモ徳川慶喜公ノ篆額、三島中洲翁ノ選文、日下部鳴鶴氏ノ揮毫ニ成ル、尾高翁死後ノ名誉トイウベシ、殊ニ男爵ガ別ニ心配シテ編纂セラレタル塚原渋柿執筆藍香翁伝記モ本日一同ヘ配布セラル、来会者ハ数百人、東京ヨリモ数十人来リ集ル、式後弁当出テ四時半ノ汽車ニテ帰宅ス


竜門雑誌 第二五五号・第八―一二頁 明治四二年八月 藍香翁の除幕式に於て(DK280095k-0006)
第28巻 p.544-547 ページ画像

竜門雑誌  第二五五号・第八―一二頁 明治四二年八月
    藍香翁の除幕式に於て
 本篇は本年四月十八日故尾高藍香翁頌徳碑除幕式執行席上に於ける
 - 第28巻 p.545 -ページ画像 
青淵先生の演説なり
藍香翁の建碑 閣下・淑女・紳士諸君、今日の藍香翁の除幕式に参列致して、茲に諸君に御目に掛りますのは、私の最も歓喜に堪えぬ次第でございます、丁度卜した日柄も藍香翁其人の如く、最も静かに麗かに、頗る好天美日を得ましたのは、発企人諸君の御手柄と、之れを賞讚したいのでございます、私は藍香翁の極く近親でございますから、茲に一言を申上げまするに就ても、一面には発起諸君及び満場の諸君に対して、先づ第一に此建碑に対する御厚情を謝さねばならぬのでございます、去りながら一場の演説を為しまするのは、藍香翁其人の行実を表はすが、斯る席に於て殊に必要と考へまするから、其点に於ては近親たるの故を以てせずして、我信ずる所を申述べねばならぬやうに考へまするのでございます。
さて此除幕に際して一言申述べるに当つて、私は無限の喜びと、又無限の悲みとを感ぜざるを得ませぬのです、所謂喜悲二つの情が、我胸中に交々錯綜して来ることを覚えるのでございます、何を以て喜ぶか藍香翁は洵に我欲する所を尽して、所謂仁を求めて仁を得て、安んじて世を去られた人である、而して今や十年に近い歳月を経て、朋友故旧相集つて是非其徳を頌したいといふので、斯様な立派な建碑も為し得られるやうに相成つた、而して其式日は独り手計村のみならず、近隣相集つて、親戚に故旧に一般の来衆に、斯る盛大なる祝宴を開かれまするのは、其近親たる而かも縁故の深い渋沢としては、真に喜ばざるを得ませぬのでございます、去りながら翻つて感情を申述べますると、私は五つ六つの時から藍香翁に随身したものである、殊に厚い親戚である、又師父である、或る場合には死生を共にして国事に奔走した人である、其後に至つては私の関係して居る事業を翼賛した人である、老後に於て或は著述に或は事業に其力を尽されるときに於ても、尚且つ百事私と相談を致して遂に世を終られた人である、仮令十年経つても二十年経つても、此厚い情愛といふものは決して脳裡から忘れることの出来るものではない、喜ぶべき席ではある、併ながら其人を茲に追想致しますると、無限の感が生じて、知らず知らず涙の溢れるといふことは、是は人情として免れぬものであります、故に此碑前に於て聊か翁の行実を申述べるのは、喜びと悲みと二つの情を以て申述べるといふことを、先づ諸君に陳情致して置くのでございます。
先般此建碑に際して、発起人諸君からの御企を伺ひました時の私の申上げ方は、近頃建碑の事が甚だ流行る、俗に申すと猫も杓子も建碑建碑といふ、私は余り建碑を好みませぬ、殊に漢文に書く建碑には、支那人風の讚辞がある、殆ど誰も彼れも皆君子である、誰も彼も皆功労ある人である、悪く申すと其文章は百人にも二百人にも適用し得られるやうな有様がある、斯ることは世の中に余り讚むべきことではない遂に斯く建碑が流行つて行つたならば、日本中建碑のために余地を存せぬやうになるとまで極言せねばならぬやうに思はれる、故に建碑はそれに相当する効果あるに於て宜しい、斯る意味を以て発企人諸君に此建碑の挙を慎重になさいませと申上げたのでございます、併し発企人諸君は、藍香翁の建碑に対する一般の人気は決してお前の云ふやう
 - 第28巻 p.546 -ページ画像 
なものではない、世上一般の流行を追ふ如きものではない、而して唯単に此建碑を郷里たる手計村の鹿島神社の祠畔に存するのみならず更に其行実を叙述して、翁を知つて居る人知らぬ人にまで配りたいといふ希望であつた、斯ういふことでございましたから、然らば宜しいどうぞ其事柄を如何にも事実に違はぬやうにして欲しい、最も精しく翁の性行・経営・履歴、総ての事を熟知して居るのは、憚りながら私の外にはないと思ふ、私は誓つて浮誇の言葉を為しませぬ、誇大の事を申して藍香翁をして唯世に衒ふやうなことは好みませぬ、努めて其事実を明かにして後世に裨補することがあるやうになるならば、之を碑文と共に相伝へるやうに致すが宜からうと、茲に於て此建碑の手続及び伝記の編纂に取掛りました訳でございます、其伝記に於ては今日多分お集りの諸君に、発起人から差上げてあらうと思ひまする、其文章の巧拙は第二に置きまして、多く事実を申述べましたのは、斯く申す私と、及今日は参席致しませぬけれども同姓の喜作とが、実況に遭遇した有様を叮嚀に叙述致したのでございまするで、どうぞ御持帰り下さいまして御一覧を賜はりますれば、私共も満足致しまするが、藍香翁の霊も定めし喜ぶことであらうと存ずるのでございます。
藍香翁の人と成り 藍香翁の人となりを申しますると、現に碑文にも書いてございまする又其の伝記にも掲げてございます、もう再び茲に喋々する必要はございませぬけれども、所謂知情意の完備して発達した御人ではあるが、殊に情に長じた御人といふて宜いやうに考へます而して世を終るまで自己なしに、国家のみであつたと申して宜からうと考へます、是れが藍香翁に取つて賞讚すべき点、又建碑の価値ある点かと私は考へるのであります、一身一家の為め、若くは子孫の為め拮据経営して宏大なる働きを為す人は世に少しと致しませぬ、殊に此節柄、事業も進歩して参りましたし、殖利の方法も巧妙になつて来た富み栄えるといふことは其様に六ケ敷いことではございませぬ、相当な智恵のある人ならば誰でも出来るが、藍香翁は決してさういふことを好まなかつた、我が一身は殆ど知らざるかの如くであつた、さらば唯世の中に空理を説き形式を談ずる御人であつたかといふと、決して左様ではない、真正なる実学である、又知つたことは必ず行ふといふ殆ど陽明学派の如き知行合一の人である、且つ此道徳と殖利とをして背馳させぬといふことに最も努めたのは、蓋し藍香翁を始祖と申しても宜しいのです、不肖ながら私も、今日此実業を経営して居りまするが、仁義道徳と利用厚生とを、努めて背馳させぬやうに致したいと努めて居ります、而して其源は尾高翁より伝来致したと申さねばならぬのでございます、左様に自己に疎くして国家に厚い、徳を専らにして公利を論じましたけれども、其身に処しては甚だ冷淡であつた、翁の身後の有様を御覧なさいますると誠に明かである、遺財として何が残つて居るか、私の為に何の成したことがあるぞ、一般に対し、世間に向つては、今堀口君の仰しやる通、例へば製糸業に於ける甘楽社・碓氷社は、其源を藍香翁に発したといふて宜しい、秋蚕事業の今日斯く盛大になつたのも、其功績は藍香翁に帰せざるを得ぬといふたならば国家に対する公利は頗る大であるが、然らば其事に就て藍香翁一身の
 - 第28巻 p.547 -ページ画像 
利益は如何であつたか、殆ど田畑一段・家屋一戸の価も後へ遺さぬ、是が藍香翁の藍香翁たる所以である、此点が即ち此建碑として大なる価のある所であると論ずるのでございます。(拍手)
西武有君子人 自ら居ること淡泊に、人に対して甚だ厚く、終身之れを以て務めとして倦まず、且つ其間に或は社会に対し或は己れと説を異にする者に向つても少しも之を怨みとせず、所謂仰而不怨天、俯而不尤人、唯己の好む所を行はれた人である、之を君子人と謂はずして何ぞや、宜なり三島博士が第一に西武有君子人と書かれたのは、私は大に其冒頭に適当なる文字を置かれたと喜ぶのでございます。(拍手)藍香翁の行状に対して若し私の記憶して居る所を悉く申述んとするならば、なかなか一日を費しても、一夜を明かしても申尽すことは出来ませぬ、又余り喋々申述べるを要しませぬ、此碑文にも明かでありまするし、伝記にも審かにございまするからして、最早多言は費しませぬが、私は常に藍香翁の御蔭で漢籍を好んで読で居ります、論語に徳不孤、必有隣、是は孔子の言葉であります、私は今日特に此文字の我を欺かぬことを感ずるのでございます、藍香翁の徳が即ち斯の如く、四隣押並べて、遂に此大盛会を開き得るに至つたのは何と必ず隣ありではございませぬか、(拍手)又中庸に至誠無已則神是感格、藍香翁は終始誠を以て一身を修めた人である、誠を以て事業を為し遂せた人である、中庸に誠者天之道也、誠者人之道也、即ち人の道を尽されたのは藍香翁である、此の誠が已むなくして神是感格、鹿島神社の祠畔に斯る立派な碑が建てられて、以て神徳を補翼し、或は又神社の保護を受けて永久に継続し得られるとして見たならば、即ち至誠無已則神是感格といふ語は、誠に適切に吾々に指し示すと申して宜からうと考へるのでございます、(拍手)どうぞ満場の諸君、唯今申述べました通藍香翁の建碑に就ては、唯世上一般の流行を追ふの挙でないといふことを能く御記憶下さるやうに願ひたい、同時に伝記にも決して虚飾のことは掲げてはございませぬ、事実に違ふことは記載してはないといふことを能く御了承下されて、幸に是等の行実・履歴に於て青年の御方に聊か裨補することがあつたならば、発起人諸君の喜びは勿論のこと、斯く申上げる私の深く感謝致す次第でございます、茲に一場の蕪辞を呈して諸君の清聴を煩はした次第でございます。(拍手)


渋沢栄一 日記 明治四二年(DK280095k-0007)
第28巻 p.547 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四二年     (渋沢子爵家所蔵)
五月八日 曇 暖
○上略 四時王子ニ帰宿シ来客ニ接ス、三島中洲・塚原靖其他諸氏来会ス藍香翁建碑及伝記編纂ニ付テ尽力セシ人々ニ対スル慰労会ヲ開キタルナリ、来客ト共ニ庭園ヲ散歩シ、六時ヨリ饗宴ヲ催フシ、数番ノ余興アリ、各歓ヲ尽シ十時過散会ス


(八十島親徳) 日録 明治四二年(DK280095k-0008)
第28巻 p.547-548 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四二年   (八十島親義氏所蔵)
五月八日 曇
例刻兜町ヘ出勤、午後王子ニ於テ藍香翁建碑及伝記ニ関スル慰労ノ宴会ヲ招サレ、予モ陪席ス、三島中洲先生・塚原渋柿園・渋沢喜作氏・
 - 第28巻 p.548 -ページ画像 
尾高幸五郎・次郎・高橋波太郎・増田明六等也、日下部鳴鶴先生ハ不参 ○下略


藍香尾高翁頌徳碑 (埼玉県鹿島神社境内)(DK280095k-0009)
第28巻 p.548 ページ画像

藍香尾高翁頌徳碑          (埼玉県鹿島神社境内)
 藍香尾高翁頌徳碑《(篆額)》

藍香尾高翁頌徳碑   従一位公爵徳川慶喜篆額
西武有君子人、曰尾高翁、翁少時遭人倫之変、慈母与祖父不相協、去而不帰者数年、翁泣涕往来其間、或哀請、或幾諫、蒸蒸克諧以復旧、親戚郷党、莫不感称焉、嗚呼孝百行之本、自此以往、翁之進退出処、皆有功徳、物故已七年、人人追慕不已、況其門人故旧乎、乃胥謀欲樹碑於村社側以頌之、謁余文、按状翁諱惇忠、称新五郎、号藍香、尾高氏、武蔵榛沢郡下手計村人、祖曰磯五郎、父曰勝五郎、並為里正、家業農商、母渋沢氏、今男爵青淵君姑也、天保元年七月十五日生翁、翁少聡敏強記、独学通経史、業暇教授鄰里子弟、青淵君亦就学焉、嘉永中辺警荐臻、海内騒然、翁喜水藩尊攘之説、窃与四方志士交、有所謀議、文久元年襲里正、而心不在焉、慶応中以嫌疑下岡部藩獄、無幾免既而翁悔悟攘夷未可遽行、専務殖産興業、而徳川慶喜公夙聞其名、行将用之、時公奉還大政、退大阪、誠意未上達、将陥危難、翁聞之慨然蹶起、欲有所救、到信州、則官軍既在木曾、乃還、明治元年二月入彰義隊、又起振武軍、屯飯能、与官軍戦敗、匿于家、乱已平、為静岡藩勧業属吏、亡何辞帰、家居三年、民部省辟為監督権少佑、転勧業大属兼富岡製糸場長、十年辞之、為東京府養育院幹事、兼蚕種組合会議長翁曾得秋蚕之製於信州、伝之遠邇、皆獲大利、先是青淵君創立第一銀行、翁応嘱為盛岡支店長、土人又推為商業会議長、傍勧製藍、励染工後歴転秋田仙台支店長、興植林会社、二十三年刱製靛之方、得専売権翌年以老辞職、翁助青淵君掌銀行業已十五年、功労不少、且所在為斯民授業興利、不可枚挙、遂寓東京福住街、専販藍靛、暇則矻矻著述、而泰東格物学其所㝡注心、毎曰、名教之本、全在此、三十四年一月二日病終、享年七十有二、帰葬郷塋、青淵君以妹婿作墓銘、可謂交有終始矣、元室根岸氏、生二男五女、先亡、長男勝五郎夭、次次郎出為支族幸五郎嗣、季女配養子定四郎奉祀、余皆適人、翁天資惇誠温良、与物歓洽、有器局、処艱難能耐忍、為郷党謀尤忠実、歳歉則廉価糶貯穀有紛議則懇諭和解、其他善行不可勝記、而莫不一本於至性、豈可不謂君子人乎哉、銘曰
 維孝為本 学術正惇 事君則阯氏@育英則循 述作垂後 名教維因
 造次顛沛 志在経済 殖産刱業 大起民利 誰言理財 不由徳義
  明治四十年七月
       東宮侍講正四位勲三等文学博士 三島毅 撰
                  正五位 日下部東作 書
   ○本資料第二十六巻所収「竜門社」明治三十四年一月二十九日並ニ第二十七巻所収「尾高惇忠伝」同四十二年四月十八日ノ条参照。