デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

8章 其他ノ公共事業
1節 記念事業
9款 記念事業関係諸資料 2. 横山富三郎墓誌
■綱文

第28巻 p.550-555(DK280097k) ページ画像

明治38年1月3日(1905年)

是ヨリ先、明治三十七年七月二十四日陸軍大尉横山富三郎清国大石橋付近ニ於テ戦死ス。是日栄一、同人ノタメ墓誌ノ揮毫ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三八年(DK280097k-0001)
第28巻 p.550 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三八年     (渋沢子爵家所蔵)
一月三日 曇 軽暖
○上略 午前九時ヨリ横山富三郎墓誌ノ揮毫ヲ為ス、午後ニ至リテ畢ル
○下略
 - 第28巻 p.551 -ページ画像 


征露忠死横山大尉 横山徳次郎編 第四一七―四二〇頁 明治三八年七月刊(DK280097k-0002)
第28巻 p.551-552 ページ画像

征露忠死横山大尉 横山徳次郎編  第四一七―四二〇頁 明治三八年七月刊
 ○九 墳墓
    一 墓地の由来
大尉の墓地は之を何れの地に定むべきやにつき大に苦心したる結果、終に自村の墓地に隣接せる西南隅の高地に卜するを以て最も可なりと信ずるに至れり、然るに奈何せん、同所は同村内の杉江文治氏の有に属するを以て、之を譲受くるか又は他の地と交換するか、此二途の一に出づるの外なし、されば、其の希望を以て杉江文治氏に交渉を為したるに、同氏は固より仁菫黴€の士なり、況や財産・名望両つながら兼ね備はる有力家にして、我が家とは平素より極めて親密に交際をなし居る間柄なれば、更に何等の支障あるなく、直に我が家の希望を甘受せられ、他の地と交換せられんことを快諾せられたれば、幸にして大尉の墓地を所望の処に奠むることを得たり、寔に感謝すべきことなりとす、依て聊か墓標の基石に其の由来の大要を刻して子々孫々に其因て来る所以を知らしめたり、望むらくは子孫たるもの其の事歴を知りて永く杉江家の厚情を忘れざらんことを。
    二 墓標
墓標は方一尺有二寸、竪五尺余にして、墓石三階総て花崗石を以て之を造る、三河国岡崎町嶺田久七氏の作るところなり、明治三十八年一月工を起し、月を経ること約五ケ月にして成る、即ち之を鉄路に托して郷里に致し直に建設に着手し、六月廿七日を以て工事全く竣りを告ぐるに至れり、而して墓標作成の前より、墓地四周の石垣を築かんとして大石を木曾川に求め工事約二ケ月にして辛ふじて落成したり、此事たる殆ど次弟助次郎の苦心経営したるものにして、決して容易の業にあらざりしを知れり、今左に其実影を掲げて以て墓標の形態を示めさん。
    三 墓誌
墓誌は本年一月渋沢男爵に懇請して之が撰文並に揮毫を賜はることを得たり、即ち彫刻に附し漸く成を告げたり、今この墓標全体の体裁をいへば、正面には大尉の官職・位階・勲功・氏名等にして、墓誌の全文は右側面よりはじまり背面に廻り、左側面に至りて終れり、今次に之を掲げ謹で男爵の厚情を鳴謝し、且つ子孫をして大尉の生涯を追想せしむ、即ち左の如し。

図表を画像で表示--

 (正面) 陸軍歩兵大尉正七位 勲五等 功五級 横山富三郎之墓 



 横山大尉墓誌 正四位勲三等男爵 渋沢栄一撰並書
 大尉姓ハ横山、名ハ富三郎、明治八年十二月十一日岐阜県濃州羽島郡上羽栗村字若宮地ニ生ル、父名ハ藤九郎、母ハ永縄氏、大尉ハ其三男ナリ、性豪放不覊、夙ニ軍籍ニ入リ、一身ヲ邦家ニ捧ケムト欲シ廿五年九月陸軍幼年学校ニ入リ、優等ヲ以テ半官費生トナリ、廿九年十一月陸軍士官学校ノ業ヲ卒ヘ、名古屋第三師団歩兵第六聯隊
 - 第28巻 p.552 -ページ画像 
附トナリ、卅二年七月台湾守備ノ任ニ就キ、駐剳一年後東京ニ於テ仏蘭西語ヲ専攻シ、帰隊ノ後清国ニ差遣セラレ、北清駐屯ノ列国軍隊ヲ視察シ、大ニ得ル所アリ、卅七年二月征露ノ役起ルニ当リ、三月廿四日歩兵第六聯隊第十一中隊長トシテ第二軍ニ属シ、意気衝天満州ノ野ヲ睥睨シ、南山ニ、得利寺ニ、蓋平ニ、砲火弾雨ノ間ニ転戦シ、驍名尤モ揚ル、七月廿四日大石橋附近ノ激戦ニ於テ大夜襲ノ先登ヲ為シ、勢怒濤ノ如ク辺汗溝高地ヲ突撃シ、我強彼勁殺傷相当ル、忽チ一丸大尉ノ左腿ヲ貫ク、大尉屈セス、励声叱咜、猛獅ノ咆哮スルカ如ク拳銃ヲ執テ奮進ス、丸又左腕ヲ砕ク、大尉猶屈セス、流血淋漓、縦横悍闘シテ遂ニ敵塁ヲ抜ク、此時我将卒或ハ傷キ或ハ殪レ、全隊殆ムト尽ク、一卒アリ、大尉ヲ扶ケテ陣地ニ還ラムトス丸三タヒ来ツテ大尉ノ左胸ニ中リ遂ニ起タス、享年三十、嗚呼悲哉其勇敢壮烈鬼神ヲシテ泣カシメムトス、事辱ケナク
 叡聞ニ達シ、殊勲ヲ以テ特ニ功五級ヲ賜ヒ、勲五等ニ叙セラル、九月四日軍葬ヲ郷邑ノ東廓ニ行フ、法号ヲ惟喜院釈秀華居士ト曰フ、遠近来ツテ柩ヲ輓クモノ無慮一万余人、洵ニ盛哉、配稲村氏大尉ノ歿後一男ヲ挙ク、武富ト名ツク、大尉後アリト謂フヘシ、余曾テ大尉ヲ弔スル詩アリ、録シテ以テ追悼ノ意ヲ表スト曰フ
  勇士不忘喪其元 果看壮烈報皇恩 無情大石橋辺月 空照精忠未死魂
   明治三十八年七月二十四日     男武富建之
   ○横山富三郎ハ渋沢家ノ家庭教師横山徳次郎ノ弟ナリ。



〔参考〕征露忠死横山大尉 横山徳次郎編 第三二四―三二九頁 明治三八年七月刊(DK280097k-0003)
第28巻 p.552-555 ページ画像

征露忠死横山大尉 横山徳次郎編  第三二四―三二九頁 明治三八年七月刊
 ○五弔慰
    二 慰問状
○上略
拝呈、過日は男爵渋沢閣下より御贈与被下候書籍御回送に相成、正に拝受仕候、足下の御厚意を奉謝候、直に拝読仕候処、巻中不肖の事まで記載に相成、大に恥入恐縮仕候、退いて回顧すれば大石橋にて大尉殿の最後なり、征露未だ中途にして黄泉の露と消えたまふ事、遺憾措くべからず、其時の俤退かず涙未だ去らず、小生永く香華を手向け以て霊魂を慰めんと欲す、何卒貴下宜敷大尉殿の為め御廻向《(回)》あらん事を希ふ、略儀ながら書面を以て御厚意を謝す 早々頓首
  明治三十八年二月廿四日
                   大石橋負傷者
                     垣見善左衛門 拝
                       (後送入院中)
    横山徳次郎殿
      ○
炎暑の候益御清適御座可被成欣賀の至に候、然者本月末大石橋の激戦に於て、御舎弟富三郎君には終に御戦死被成候由承及何共申上様無之次第に御座候、御両親様御始御渾家の御心事如何被為在候哉と、深く御察申上候、当地にても家内一同御追哀申上候、実者過日賢台東京御出立前電話にて御申越被下候際には、或は謬伝にても候哉と、聊相恃
 - 第28巻 p.553 -ページ画像 
み罷在候処、其後新聞紙にも歴々御名前掲載せられ、一覧の都度別而傷心致候儀に御座候、蓋し軍人の戦地に在る死は其期する処とも可申義にて、平生忠勇義烈なる富三郎君の御気象としては、素より御覚悟の事とは存候得共、親戚故旧の愛情よりは只々無事の御凱旋を一日千秋と翹望致候義にて、最後の御報導によりて当方に於て驚愕哀惜致候に付ても、其方御全家の御心情真に遥察致し、只血涙の外無之義に御座候、乍去戦陣に於て名誉の戦死を遂ぐるは所謂勇士の本望にして、此千載一遇の国難に殉し、芳名を竹帛に垂られ候は、寧ろ欽羨の事と相考候に付、御両親始其他の方々にも、御悲傷の余御病気等の事共不相生様、賢台より呉々御慰安有之度候、右不取敢一書申上度、如此に御座候 匆々不宣
  七月三十一日              渋沢栄一
    横山徳次郎様侍史
尚々家内よりも呉々宜敷申上候様申候、老生の宿痾も爾来追々快方、当節は執筆も書見も出来候様相成候、併三四月筆を取不申候間、何分手顫つて書状不体裁に御座候、御海容被下度候
      ○
拝啓益々御清適奉賀候、陳ば明日は愈々故御令弟の御葬儀御営み可被遊、何角御取込の御義と奉拝察候、就ては愚弟武之助事、予ての御申聞も有之候へ共、其後是非参上御葬礼の御供仕り度申出、此程両親にも相談の上、右許諾を得候由に御座候て、折角右思入居候事故、御言葉に相背き候様にて恐入候へ共、右差許し本日午後三時半の汽車にて出立為致候間、此段不悪御承引被下度候、然し飛んだ御厄介に可相成恐縮罷在候へ者、何卒御構ひ被下まじき様願上候
尚此品粗末には候へ共、両親及小生より御霊前へ奉供仕度、右宜敷御願申上候、先は此段御承引相願度、同人出立に臨みこの状相認め持参為致申候、何卒御老人様始め御一同へ宜敷御申上被下度候
尚々以上取急ぎ相認め、乱筆御推読被下度候 拝具
  九月三日午後              渋沢篤二
                      (渋沢男爵令息)
    横山先生机下
      ○
拝啓、私共は本月の四日に無事旅行先きより帰宅致しましたが、五日の午後より正雄が病気になりまして、三日も床に就きました為め、先生へ差上ぐべき筈の書面も出さず、終に今日になりました、何卒御許しを願ひます、此度は富様客月二十四・五両日の大石橋激戦にて御戦死遊ばされ、誠に残念至極の事で御座ります、深く先生の御胸中御推察申上げます、去りながら六月半ばの常陸丸の遭難者と異り、花々しき勇戦奮闘の上、立派に勇ましく御戦死なされしこと、実に軍人の本分として御名誉この上も無き事で御座りますれば、何卒先生も申す迄も御座りませんが、御落胆なく、父上様・母上様を御慰め下されまし若し先生が御嘆きの余り御病気にでも御成り遊ばされたなら、父上様母上様は尚々心細く御感じになるで御座りませう、そしてそれが為め御老人のことで御座りますから、重きお煩らひでも出ましたなら、それこそ実に大変で御座りますから、此際何卒一層の御注意を願上げま
 - 第28巻 p.554 -ページ画像 
する、末筆ながら御一同様へ宜敷願ひます 敬具
  八月八日                渋沢武之助
                      (渋沢男爵令息)
    横山先生
      ○
拝啓、旅行中は幾度も御手紙下され候へども、私よりは一度も御返事差上げず、又帰京後は直ちに病気に罹り、今日迄も書面を認めざりし段、合せて御詑び申上候、此度は御不幸にも御令弟富三郎様大石橋に於て名誉の御戦死を遂げられ候由、誠に御気の毒千万のことに候へども、之れも国家のため已むを得ざること故、何卒御心配の余り御身体を御悪くなされざるやう願上候 敬具
  八月八日                渋沢正雄
                      (渋沢男爵令息)
    横山先生
末筆ながら、御両親様始め皆々様へ宜しく御伝へ被下度候
      ○
昨日とくらし今日と迎へて、早や暑中とは相成候処、皆々様には御かはりもなくいらせられ候事、御うれしく存じ候、当地にても皆々恙なく暮しをり候間、何卒御安心下され度候、さて此度は富三郎様には大石橋の戦ひにて、つひに御戦死を御遂げ遊ばされ候由、誠に御気の毒に存じ上候、しかれどもかゝる御名誉の御戦死なれば、其御名は広く世にひゞき渡りて末代までも朽つる事なく、又其の御功は末長く世人の胸に止る事と思へば、悲しき中にも亦喜ばしき事に候、なほ此後先生御身体御大切に遊ばされ度候、未だ御目もじは候はねども、御母上様にもさぞかし御なげきの御事と御察し申上候、何卒よろしく御伝へ下され度候、其他御一同様にもよろしく願上候、父母はじめ皆々よりもよろしく申上候 かしこ
   七月三十一日             渋沢愛子
                      (渋沢男爵令嬢)
    横山藤九郎様
    同徳次郎様
          御手もと
      ○
拝啓、御二方様には此頃の暑さにても別に御変りはあらせられませんか、当地にては一同健康で、父上は殆ど全快しましたる故御安心下さい、付きまして
富三郎様は大石橋の戦にて名誉の御戦死遊ばされし事にて、誠に御気の毒なと存上げます、又御目には掛りませんが、御母上様には嘸かし御嘆きの事と御察し申上ます、然し富三郎様には御戦死遊ばされても御名は永く後世に御伝へ遊ばるゝことゝ考へて居りますから、御あきらめ下さい、尚ほ御二方様には御身体御大切に遊ばさるゝ様願上げます
  七月三十一日              渋沢秀雄
                      (渋沢男爵令息)
    横山藤九郎様
    同徳次郎様
      ○
ヨコヤマ大イガ、メーヨノ、センシヲ、アソバシタ、ソーデ、ボクラ
 - 第28巻 p.555 -ページ画像 
ワ、マコトニ、ザンネンニ、オモヒ、マス。
                        ケイ三
                        トモヲ
                        ノブヲ
  七月三十日             (渋沢男爵令孫、敬三君・信雄君・智雄君)
    ヨコヤマセンセイ