公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第29巻 p.5-8(DK290001k) ページ画像
明治6年8月13日(1873年)
是日栄一、芝崎確次郎ニ命ジテ越生村ニ、養子平九郎ノ首級ヲ求メシメ、更ニ七年十二月黒山村ニ遺骸ヲ尋ネ之ヲ収メテ帰リ、上野寛永寺ニ於テ仏事ヲ営ミ、谷中ノ墓地ニ改葬ス。
青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第一〇六五―一〇六八頁 明治三三年二月刊(DK290001k-0001)
第29巻 p.5 ページ画像
青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第一〇六五―一〇六八頁 明治三三年二月刊
○第六十章 家庭
第六節 渋沢平九郎伝
○上略 平九郎ノ討死シタルハ明治元年五月二十三日午後四時頃ニシテ、時ニ年二十二、後明治六年八月青淵先生家人芝崎確次郎ニ命シ、越生村ニ到リ首級ヲ求メシメ、翌年十二月黒山村ニ到リ遺骸ヲ尋ネシメ、之ヲ収メテ帰リ、上野寛永寺ニ於テ仏事ヲ営ミ、谷中ノ墓地ニ改葬ス ○下略
渋沢家文書(DK290001k-0002)
第29巻 p.5 ページ画像
渋沢家文書 (渋沢子爵家所蔵)
明治六年八月十三日、亡平九郎首級法忍寺ヨリ引取改葬候事
飯乱遺聞 【△華雑巻十六ノ十四】(DK290001k-0003)
第29巻 p.5-6 ページ画像
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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。
渋沢平九郎墓誌(DK290001k-0004)
第29巻 p.6 ページ画像
渋沢平九郎墓誌
(表面)
渋沢平九郎之墓
(裏面)
渋沢栄一義子実武蔵国下手計村尾高勝五郎第三子明治元年戊辰五月二十三日没享年二十才九月
○右ハ東京谷中渋沢家墓地ナル墓石ノ誌文ナリ。
渋沢平九郎墓誌(DK290001k-0005)
第29巻 p.6-7 ページ画像
渋沢平九郎墓誌
(表面)
渋沢平九郎墓
(右側面)
明治元歳五月廿三日為所事戦不克屠腹死時年弐拾弐
(裏面)
発□人《(不明)》 東京府
大村昇
熊谷義一
芝崎義行
金子一郎
黒岩
横田佐平
大久保村
岡野治三郎
戸長
浅見四郎
(左側面)
有志建之
○右ハ埼玉県入間郡梅園村黒山、全洞院境内ナル墓石ノ誌文ナリ。
墓石損耗シテ明瞭ヲ欠ク。後掲資料ヲ参照スルニ横田佐平肩書ニハ「黒岩村」戸長ノ上部ニハ一世話人」トアリシモノカ。(昭和三十四年刊行ニ際シ追補ス)
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○「渋沢家所蔵文書」中ニ在黒山渋沢平九郎墓誌ニツキ記セルモノアリ。
表面及ビ側面ノ文字ハ前掲ノ墓誌ト等シケレド、裏面ノ記文ナリトシテ記セルモノ二種アリテ且ツ相違アリ。参考ノタメ左ニ掲グ。
(一)
東京
明治七年八月 河野通義
熊谷義一
発起人 大村昇
芝崎確次郎
金子一郎
武州入間郡大久保
世話人 岡野治三郎
同州黒山村
同戸長
浅岡四郎
(二)
東京府下
熊谷義一
発起人 大村昇
芝崎義行
金子市郎
森谷清三郎
和田升吉
武州入間郡黒岩村
世話人 横田佐平
同大久保村
同 岡野治三郎
同黒山村
戸長 浅見四郎
(一)ニヨレバ発起人中ニ前掲資料裏面ノ人名ノ他ニ河野通義ヲ加ヘ、世話人ニ横田佐平ヲ欠キ、明治七年八月ト記ス。コノ年次ハ建立ノ年次ナルカト思ハルルモ他ニ資料ヲ欠ク為メ明確ナラズ。
(二)ハ発起人中ニ森谷清三郎・和田升吉ヲ加フ、年次ヲ示ス記文ハ無シ。黒山村全洞院ノ墓石ニハコレラノ人名ヲ刻セズ、思フニ建立後発起ニ加ハリタル氏名ナランカ。
青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第一〇九九―一一〇一頁 明治三二年六月再版刊(DK290001k-0006)
第29巻 p.7-8 ページ画像
青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第一〇九九―一一〇一頁 明治三二年六月再版刊
○第六十章 家庭
第六節 渋沢平九郎伝
○上略
渋沢平九郎君碑
青淵渋沢君。当元治慶応之際。騁文成曲逆之智。能輔翼明主。既而海内治平。人競智術。君乃奮陶朱猗頓之才。大経営事業。亦偉人也。而其義子。曰平九郎諱昌忠。死節於武州入間郡黒山村。実明治元年五月廿三日也。後三十一年。青淵長子篤二。介尾高惇忠。求銘其墓。惇忠者昌忠胞兄。曾与昌忠及渋沢成一。結彰義隊。可謂一門多奇士矣。按昌忠君。本姓尾高氏。武州榛沢郡下手計村長。保孝第五子。母渋沢氏外舅青淵君。仕徳川幕府。蒙命遊学仏蘭西。例当立嗣。乃養君為嗣。明治戊辰。王師東征。指徳川氏為賊。而臣僚鳴寃不已。結義挙兵。君
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為彰義隊伍長。三月赴上毛。糾合義徒。既而隊兵大敗。閏四月。成一惇忠等起兵武蔵。号振武軍。君為中隊長。屯飯能駅。五月廿二日。官兵三千余人来攻。時吾兵僅三百五十人。惇忠曰。以寡伐衆非夜襲不可乃分兵為三。襲敵営。未至而天明矣。敵兵来逼。君従成一。逆戦激闘二時。敵益加我無後援遂敗。廿三日。君変装潜行。至入間郡黒山村。適芸州兵巡邏誰何之。君知不免。抜刀傷其三人。踞石自刃。時年二十二。君容貌明秀。音吐清朗、宛乎美少年也。幼時聞浄瑠璃曲。戯倣之自協音節人奇之。然性好武。学無念流刀法。与人角技無或及者。嗣渋沢氏折節読書略通大義。当是時。大将軍徳川公主開国。衆論喧然。君亦疑之。一日詣兄惇忠。論時事。惇忠諭以公忠誠無他。其摸倣外国所以図強兵也。君大其服言。君死後廿六年。静岡人須永信夫。訪惇忠曰僕頃与芸州人川合鱗三語。及戊辰事。鱗三為官軍隊長。其部兵与徳川氏遺臣。戦入間郡。失其腕。敵亦屠腹死。今蔵其所用小刀。不知其為何人。実壮士也。無乃令弟乎。惇忠驚喜。使信夫通其意。鱗三贈以刀且道其時事。撿之果遺刀也。惇忠示之青淵。青淵曰。是足以証児之死節矣。嗚呼。青淵成一郎惇忠。並以事業学問。為当世名士。然若使其死三十年前。豈得成名如今日乎。君若不死其所成就未可測也。惜夫。遂為之銘曰。
君将去江戸。大書其壁曰。楽人之楽者。憂人之憂。食人之食者。死人之事。嗚呼一死矣。不欺其志。
明治三十一年六月
東京 依田百川撰
(芝崎確次郎) 日記簿 明治一三年(DK290001k-0007)
第29巻 p.8 ページ画像
(芝崎確次郎) 日記簿 明治一三年 (芝崎猪根吉氏所蔵)
五月廿三日 晴
休日
午前十時ヨリ谷中天王寺ヘ罷出
平九郎先生十三年忌執事左之目録ノ入用相掛リ自弁候事
○中略
奥方様御墓参、回向料金三円寺ヘ被遣候事、外ニ小僧ヘ五十銭被遣候事、回向終テ御墓参之上直ニ御帰館
○本資料第一巻所収「幕府仕官時代」明治元年五月二十三日ノ条参照。