公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第29巻 p.64-67(DK290012k) ページ画像
明治26年12月(1893年)
平九郎ガ討死ノ時帯ビタル小刀ハ広島藩神機隊隊長川合鱗三ノ所有ニ帰ス、是月鱗三右ノ小刀ニ一書ヲ添ヘテ栄一ニ贈ル。翌年六月、栄一感謝ノ一文ヲ草シ、菊地容斎画一幅ヲ添ヘテソノ厚意ニ報ズ。
青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第一〇九四―一〇九八頁 明治三三年六月再版刊(DK290012k-0001)
第29巻 p.64-66 ページ画像
青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第一〇九四―一〇九八頁 明治三三年六月再版刊
○第六十章 家庭
第六節 渋沢平九郎伝
○上略
- 第29巻 p.65 -ページ画像
平九郎カ顔振峠ノ媼ニ托セシ大刀ハ、後チ伝ハリテ青淵先生ノ手ニ帰ス、又討死ノ時帯フル所ノ名刀ハ広島藩神機隊々長川合鱗三ノ所有ニ帰セシカ、後鱗三此ノ刀ノ持主ハ先生ノ義子ナリシヲ聞キ、頗ル奇遇ヲ感シ、明治二十六年十二月刀ニ一書ヲ添ヘテ先生ニ送ル、先生其厚意ヲ謝シ、一夕川合鱗三・藤田高之ヲ宅ニ招キテ之ヲ饗ス、二人当時ノ戦状ヲ語リ、平九郎戦死ノ壮ナルヲ嘆賞シ、且曰ク、死後其携フル所ノ小包ヲ開クニ、刀ノ替ヘ目釘アリ、当時其何人タルヲ知ラサルモ必ス由緒アル士ニシテ武道ニ達シタルモノナルコトヲ知レリト、酒間主客詩アリ
川合鱗三
世事回頭幾変遷 高堂話旧也因縁
一剣猶有当日慨 昂然意気欲衝天
藤田高之
知君生日諳兵韜 奮戦当年肝胆豪
欲賦小詩代蘋藻 英魂留在此霊刀
渋沢栄一
力尽虞淵徒倒戈 雄思果見忽蹉跎
無情最是黒山月 長使乃翁嘆逝波
同
逝波流水令人蹉 往事算来歳月賖
愁殺当年風雨悪 一宵吹落未開花
同
烏兎何時能雪寃 九原無復慰幽魂
遺刀今夜挑灯見 猶剰当年旧血痕
川合鱗三、平九郎ノ遺刀ニ添ヘテ先生ニ送ル所ノ書、及先生ノ之ニ答フルノ書ヲ左ニ掲ク
昌忠君遺刀略記
明治戊辰之役、余為我藩兵神機隊長、在江戸、同隊監察、藤田高之為大総督府軍監、率一小隊、入武州忍城、是歳五月十五日、官軍、討旧幕兵拠上野山内者、敗之、余衆四散、欲其在外而相応者、亦皆潰、是月廿三日、高之所率斥候、高島芳助、及某等数兵、与旧幕敗兵昌忠者、闘於武州入間郡黒山村、芳助為昌忠所断左腕、一兵某進斫昌忠右肩、昌忠乃走、一兵放銃射昌忠股、昌忠不得走、踞路傍巨石、屠腹而死、斥候兵某、収昌忠刀而還、是時、敗兵有潜伏、謀後挙者、焉昌忠亦其人乎、其被創也、自就死、蓋愧為生擒也、高之還江戸、詳語芳助等戦闘之事、余聞其状、見其所収之刀、製作最用意焉、以為非尋常兵士也、然無由知其為何人、余特請其刀、蔵之久矣頃日由於須永信夫所言、始知昌忠者、為渋沢栄一義子、尾高惇忠弟渋沢平九郎矣、然而信夫惇忠二子、就余、見所嘗収之刀、乃曰、是亡平九郎所嘗帯也、因欲為栄一、蔵諸其家、永慰平九郎之魂、請之而不已、余察其情之可憫、応其需而遺之、往事悠々、距今二十有六年矣、然而二子得当日平九郎所帯之刀而悦、余亦得詳昌忠為人且与其父兄相見、豈無感於余心哉、蓋人生因縁令之然乎、抑亦聖世之余光哉矣、因記当時概況、副此刀云爾、
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明治二十六年十二月
旧芸州藩士 川合鱗三
川合鱗三君足下、頃日義子平九郎ノ遺刀ヲ贈還セラレ、副フルニ其誌一篇ヲ以テセラル、誌中ニ謂フ斯刀戊辰ノ戦、義子武州飯能駅ノ敗後黒山村ニ於テ旧芸州藩斥候兵ニ逼ラレ、其一兵ヲ斫リ、身亦創ヲ被ムリ遂ニ屠腹自ラ斃レタルノ時、其碧血ヲ濺キタル者ナリト、君ノ高懐盛情感謝ニ堪ヘサルナリ、生今其刀ヲ視テ其誌ヲ読ミ、曾テ戚族ヨリ聞知セシモノニ照スニ、恰モ符節ヲ合スルカ如シ、義子ノ死ヲ去ル廿七年ノ今日ニ於テ、宛然其人ニ会ヒ、其境ヲ踏ムノ感アラシム、悲喜交々至リ、懐旧ノ情禁スル能ハス、回顧スレハ当年生ハ仏国ニ旅寓シ遠ク邦家ノ政変ヲ聞キ、事情詳悉スル能ハスシテ、常ニ憂苦ニ堪ヘサリシ、而シテ義子及戚族数名慷慨節ヲ重ンシ、志士ヲ糾合シテ以テ回復ヲ図ルモ、時利アラス、兵整ハスシテ、一戦敗績シ、遂ニ自尽スル者ハ、君ノ所謂蓋シ愧為生擒也、且義子ノ平生ヲ以テ之ヲ見レハ、再図ノ功期スヘカラサルヲ知リ、復タ江東ノ子弟ヲ見ルヲ欲セス、一死自ラ潔クスルモノニアラサランヤ、然リ而シテ其敵ナル者ハ君カ率フル所ノ兵士ニシテ、其屠腹ノ刀君カ手ニ存シ、多年重愛ヲ辱フシ、雲晴レ風収マルノ今日ニ至リテ初メテ生ニ帰ス、真ニ奇遇トイフヘシ、且夫レ釈氏ノ法二十七年ヲ以テ弔祭ノ期トナス、想フニ義子ノ霊斯ノ尺余ノ秋水ニ憑依シ、君ノ高情ニ藉リテ以テ今日ヲ俟ツ者ニアラサリシナランヤ、是レ皆君ノ高賚ナレハ、生ハ永ク之ヲ存録シテ悠久忘ルヘカラサルナリ、嗚呼戊辰ノ変、一朝誤テ干戈ニ及フ、実ニ勢已ムヘカラサルモノアリ、然リト雖モ大義早ク定マリ、名分随テ判シ、其争フ者久シカラスシテ共ニ一視同仁ノ雨露ニ潤フ、真ニ感泣ニ堪ヘサルナリ、此ニ於テ一旦敵視セシ者モ相携ヒテ治ヲ賛シ、徳ヲ頌ス、縦令死者再ヒ生キストイフトモ、天恩ノ枯骨ニ及フヲ視ル、亦恨ミナシトイフヘシ、玆ニ謝意ヲ表スルニ臨ミ、万感交々生シテ言ハント欲スル所ヲ尽ス能ハス、君請フ之ヲ諒恕セヨ
明治二十七年六月一日
渋沢栄一 粛復
副申高情ニ報スル為、所蔵ノ菊地容斎画一幅ヲ進呈ス、御叱留ヲ得ハ幸甚不過之候
栄一 再引
〔参考〕青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・写真版 明治三三年二月刊(DK290012k-0002)
第29巻 p.66-67 ページ画像
青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・写真版 明治三三年二月刊
○第六十章 家庭
第六節 渋沢平九郎伝
印
渋沢平九郎昌忠戦闘図之記
明治元年戊辰五月廿三日、武蔵国比企郡安戸村医師宮崎通泰と云ふ人官軍之召ニ応じ入間郡黒山村ニ至り、軍士三人之創傷を治す、而して其負傷の由を問へしに、徳川脱走士一人装を変し来り、黒山村途上ニ官軍斥候士三人に逢ふ、糺問せられ脱すへからさるを知り、佩る処の
- 第29巻 p.67 -ページ画像
小刀を抜て甲の一人を斫り、振返して乙の一人に傷け、又転して丙の一人を撃ち、甲は斃れ、乙・丙は逃れ走れり、脱走士は路傍の磐石に踞し、屠腹して死せり、其勇武歎賞すへしと云ふ、乃ち其状を図し又其懐中せし歌及八字を写し、帰途男衾郡畠山人丸橋一之君に逢ふ、君之を乞へ得て家に蔵し人に示し話して歎賞す、十有余年の後榛沢郡中瀬村人斎藤喜平君に示す、君これを聞き嘆して曰、噫於其脱走士ハ郷人尾高平九郎なりと、以て惇忠に告く、惇忠今玆六月丸橋君ニ邂逅し当時の情況を聞き此図を熟覩し感慨ニ勝す、之を記して返す、平九郎実に惇忠の次弟にして、渋沢栄一養て弟《(マヽ)》とせしなり、徳川幕府に仕へ一年にして戊辰の変に遭遇し、彰義隊に入り、閏四月廿八日江戸を去るに臨ミ、紙障に楽人之楽者憂人之憂食人之食者死人之事と書して出づ、終に兆となりしなり
明治廿三年七月武蔵榛沢郡八基村大字下手計人藍香主人尾高惇忠識于仙怡寓居
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○図略ス。