デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

3部 身辺

1章 家庭生活
1節 同族・親族
2款 親族
■綱文

第29巻 p.85-90(DK290025k) ページ画像

明治34年1月2日(1901年)

是ヨリ先、三十三年一月頃ヨリ尾高惇忠病ヲ得、深川区福住町九番地ノ渋沢邸別屋ニテ療養ニ努ム。栄一屡々病床ヲ見舞フモ是日逝ク。行年七十二。次イデ明治三十六年一月ニ至リ墓表ヲ建ツ。栄一墓誌銘ヲ撰シ、揮毫ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三二年(DK290025k-0001)
第29巻 p.85 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年     (渋沢子爵家所蔵)
二月廿四日 雨
○上略 夜九時深川ニ帰宿ス、此夜尾高老人ト共ニ山登ノ琴ヲ弾スルヲ聴ク
   ○山登ハ検校山登万和。


渋沢栄一 日記 明治三三年(DK290025k-0002)
第29巻 p.85-87 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三三年     (渋沢子爵家所蔵)
一月二十三日 曇
朝九番地尾高老人ノ病ヲ訪フ、十一時兜町宅ヘ帰ル ○下略
   ○中略。
一月三十日 曇
○上略 午後四時深川宅ニ抵リ、尾高老人ヲ訪ヒ ○下略
   ○中略。
二月五日 曇
○上略 尾高幸五郎来リ惇忠ノ病状ヲ話ス、韓国釜山ヘ電報ヲ発シテ次郎ノ出京ヲ促ス
   ○中略。
二月八日 晴
○上略 釜山ヨリ尾高次郎来ル、蓋シ五日ニ発セシ電報アルニ依ルナリ ○下略
   ○中略。
二月十六日 晴
午前尾高惇忠ノ病ヲ訪フ、後二三人ノ来人ニ接ス ○下略
   ○中略。
二月廿二日 晴
○上略 夕方深川宅ニ帰宿シ尾高惇忠ノ病ヲ訪フ
   ○中略。
二月二十七日 晴
午前来人ニ接ス、尾高老人ノ病ヲ訪フ ○下略
   ○中略。
三月十三日 晴
○上略 尾高老人ノ病ヲ訪ヒ、次郎ト韓国支店其他ニ関スル要務ヲ談話ス
 - 第29巻 p.86 -ページ画像 
○下略
   ○中略。
四月九日 曇
○上略 夜尾高老人ノ病ヲ訪フ
   ○中略。
四月廿七日 曇
午前尾高老人ノ病ヲ訪フ ○下略
   ○中略。
五月三日 曇
○上略 午後六時深川宅ニ帰宿ス、夜清水泰吉来ル、尾高老人ノ病ヲ訪フ
   ○中略。
五月十七日 曇
朝尾高老人ノ病ヲ訪フ ○下略
   ○中略。
六月九日 晴
○上略 四時頃深川宅ニ立寄リテ ○中略 且尾高老人ノ病ヲ訪ヒ ○下略
   ○中略。
六月十六日 曇
○上略 午後四時過深川宅ニ帰宿ス、直ニ尾高老人ノ病ヲ訪フ、此日ハ穂積・阪谷夫妻及児童多ク深川宅ニ来会ス
   ○中略。
七月十三日 曇
午前九番地老人ノ病ヲ訪フ ○下略
   ○中略。
七月三十一日 曇
午前尾高老人ノ病ヲ訪フ ○下略
   ○中略。
八月十日 晴
○上略 午後六時深川宅ニ帰宿ス、此夜尾高老人ノ病ヲ訪フ
   ○中略。
九月十二日 曇
風邪気稍愈ルヲ以テ褥ヲ離レ、尾高老人ノ病ヲ訪ヒ、午餐後兜町邸ニ帰ル ○下略
   ○中略。
十月十九日 曇
午前二三ノ来人ニ接シ、尾高老人ノ病ヲ訪ヒ ○下略
   ○中略。
十月廿七日 晴
午前尾高老人ノ病ヲ訪フ ○下略
   ○中略。
十二月十五日 晴
午前九時尾高老人ノ病ヲ訪フ ○下略
   ○中略。
十二月廿二日 晴
朝尾高老人ノ病ヲ訪ヒ ○下略
 - 第29巻 p.87 -ページ画像 
   ○中略。
十二月廿四日 曇
○上略 此夜深川尾高老人ノ病篤キトノ電話ニヨリテ、深川宅ニ帰宿ス
十二月廿五日 曇
朝尾高老人ノ病ヲ訪ヒ ○下略
   ○中略。
十二月三十日 晴
夜九時深川宅ニ帰宿シ、尾高老人ノ病ヲ訪フ
十二月三十一日 晴
午前老人ノ病床ヲ訪ヒ ○下略


(八十島親徳) 日録 明治三三年(DK290025k-0003)
第29巻 p.87 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三三年   (八十島親義氏所蔵)
二月十八日 雨 日よう
○上略
予ハ午後二時ヨリ出テ深川尾高惇忠氏方ヘ病気見舞ニ至ル、先生一月廿日頃ヨリ病気、引続キ快方ナラズ、初メインフルエンザノ如クニシテ、本月初頃青山国平ノ診察ニテハ結核症肋膜炎ノ疑アリ、此頃ハ肺壊疸ト診定、専手当中ナレトモ七分ハ六ケ敷見込トノ事、昨夜ヨリハ咳甚シク、今日ナド頗疲労ノ由、次郎氏モ本月五六日頃上京(釜山ヨリ)看病中也、本日次郎氏及幸五郎氏ニモ面会、第一銀行ノ営業方針及渋沢家ノ将来等ニ付、次郎氏ト対談、辞シテ深川邸ニ至リ、令夫人ニ面会シ御無沙汰見舞ヲナス
○下略
   ○中略。
十二月十三日 晴
午后尾高惇忠氏ヲ其宅ノ病床ニ訪フ、病勢加フルヲ見ル ○下略
   ○中略。
十二月廿四日 晴
○上略 尾高惇忠老人今日ハ大ニ衰弱増シ、危篤ニ近シトノ事
○下略


渋沢栄一 日記 明治三四年(DK290025k-0004)
第29巻 p.87-88 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年     (渋沢子爵家所蔵)
一月二日 晴
○上略 九時過東京ヨリ電報アリテ、尾高老人病気危篤ノ事ヲ通シ来ル、依テ午後三時過ノ汽車ニテ大磯ヲ発シ、五時過東京着、直ニ深川宅ニ抵リ、老人ノ病ヲ訪フモ既ニ死去ノ後ナリシ、家人・親戚等ト共ニ葬儀ニ関スル手続ヲ談シテ夜一時帰宅ス
一月三日 晴
○上略 尾高藍香ノ釈氏改名ヲ、藍香院惇徳格物居士トスヘキ事ヲ、幸五郎ヲ経テ申送ラシム、夜深川宅ニ抵リ、尾高藍香遺屍ノ棺ノ事ヲ指揮ス、一時過帰宅ス
   ○中略。
一月五日 雨
○上略 此日ハ藍香ノ遺屍送葬ノ事アレトモ、病ノ為メ、出張スルヲ得サ
 - 第29巻 p.88 -ページ画像 
リキ
   ○中略。
一月廿八日 曇
○上略 夜九時過帰宿、此夜尾高藍香翁ノ履歴ヲ調査スル為メ家人来会ス
一月廿九日 曇
○上略 午後五時銀行集会所ニ於テ尾高藍香ノ追悼会ヲ開ク、翁ノ経歴・性行・学業ニ関スル演説ヲ為ス、夜十時兜町ニ帰宿ス
   ○中略。
三月三十日 雨
○上略 尾高定四郎来ル、藍香先生碑文ノ事ヲ依頼セラル ○下略
   ○中略。
八月一日 晴
○上略 此夜尾高未亡人ヲ招テ、将来ノ事ヲ懇諭ス


(八十島親徳) 日録 明治三四年(DK290025k-0005)
第29巻 p.88 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三四年   (八十島親義氏所蔵)
一月二日 晴
○上略 予ハ尾高惇忠氏危篤ト聞キ見舞ニ至ル、穂積・阪谷・大川・田中其他親戚諸氏集リ居レリ ○中略 尾高惇忠老人遂ニ今夜六時十七分永眠ノ報ニ接セシニ付、帰路又尾高宅ニ立寄リ悔申述 ○下略
一月三日 晴
一昨日来連日晴天且暖気也、午後二時迄在宅 ○中略 然ル後、兜町ヘ出掛(青淵翁一昨日大磯行ノ処、尾高氏不幸ノ為昨夜帰京)然ル後尾高氏方ニ至リ、格別手伝フ程ノ事モナキニ付六時帰ル ○下略
   ○中略。
一月五日 雨 中々寒シ
○上略 十二時四十分ノ汽車ニテ、故尾高惇忠氏ノ遺骸ヲ手計ニ送ラルヽニ付、上野迄見送リ ○下略
   ○中略。
一月八日 曇
尾高惇忠氏葬儀ニ会スル為メ、午前七時十五分上野発ノ汽車ニテ手計ヘ行ク、深谷駅ヨリ手計迄中仙道ヲ人力車ニテ行、凡ソ四五十分ヲ要ス、東京ヨリノ会葬者同列車ニ乗リシモノモ頗多カリキ、午後一時庭前ノ広場天幕内ニテ葬儀執行、読経終リテ篤二氏ハ男爵ヨリ手向ノ詩二首ヲ吟セラレ、次ニ予ハ阪谷芳郎・穂積琴子二氏手向《(穂積歌子)》ノ歌ヲ誦読シ且仙台加藤彦七郎トカ云フ人ノ送致セル弔文ヲ代ツテ朗読セリ、次ニ親戚始会葬者順次焼香(焼香順ニヨリ、呼出方ハ依頼ニヨリ予之ニ当ル)終リテ初メテ行装ヲ整エ、五六町隔リタル墓所ヘ持行キ埋葬ス、稍終ラントスル頃、予等東京人ハ辞シテ乗車、四時十六分発ノ汽車ニテ七時上野着 ○下略


渋沢栄一 日記 明治三五年(DK290025k-0006)
第29巻 p.88 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年     (渋沢子爵家所蔵)
四月十日 曇
○上略 十時番町三島中洲ヲ訪ヒ、藍香居士墓碑文ノ事ヲ依托ス ○下略

 - 第29巻 p.89 -ページ画像 

渋沢栄一 日記 明治三六年(DK290025k-0007)
第29巻 p.89 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三六年     (渋沢子爵家所蔵)
一月三日 晴
○上略 尾高惇忠ノ墓碑揮毫ノ為メ定四郎来請ス、終日其事ニ従事ス


藍香翁 塚原蓼洲著 第二六七―二七〇頁 明治四二年三月刊(DK290025k-0008)
第29巻 p.89-90 ページ画像

藍香翁 塚原蓼洲著  第二六七―二七〇頁 明治四二年三月刊
    (三十五) 永眠
翁は恁くして其の余年を随意なる研究の中に送られしが、三十三年の一月より肺壊疸なる病痾を得られ、療養其方を尽されたれども遂に癒えず。翌三十四年一月二日其の深川区福住町九番地なる寓所渋沢男爵別邸。の病牀に、噫、長逝せられぬ。時に年七十二。遺骸は郷里手計村に送りて、先塋の次に葬り、三十六年一月に至りて墓表を建つ。男爵渋沢君其の誌銘を撰せられ、且つ揮毫せらる。其文左の如し。
 居士諱惇忠、幼名新五郎、号藍香又藍叟。武蔵大里郡八基村尾高勝五郎君長子。母渋沢氏、即余姑也。家世々業農、兼搾油製藍。居士自少独学研鑚、頗通経史、業暇教授隣里子弟。余亦幼就学。時幕政日非。居士喜水藩尊攘之説、常慷慨論議。余熟聞之、既長亡命、奔走国事。蓋因居士薫陶也。居士雖家居、窃交四方志士。慶応中蒙嫌疑下獄。無幾出。明治之初、遂亡命、有故入彰義隊、又起振武軍、屡々踏危機。亦幸免。及余出仕大蔵省、居士亦出仕民部省、自監督権少佑進勧業大属、兼富岡製糸場長。十年辞之。為東京府養育院書記、又為蚕種組合会局長。嘗遊信州、始知秋蚕之利、行之遠邇。及余創起第一銀行、居士亦来為盛岡支店長、兼商業会議所長、傍勧製藍、励染工。既而歴転秋田仙台支店長。栽杉檜三椏結会社。又創製藍靛受特許状。居士従事本行凡十五年。以老帰養。実二十五年也。猶勧励坐繰連合製糸。三十四年一月二日、病歿於東京深川福住街之寓。距生天保元年七月二十五日、得春秋七十有二。帰葬郷里先兆之次、釈謚曰藍香院惇徳格知居士。居士為人惇良而澹雅、不与物忤。雖小人児女亦皆款待、和而不同、有長者之風。至性孝友、少時不幸母与舅弗協而帰。居士蒸蒸克諧、終復旧。又有局量、処艱難能耐忍従容自得、無幾微見言面。為郷党謀忠慈。歳嘗歉、民有菜色、出儲穀廉売之。備前渠租税紛議之起也、民心恟恟。居士救解事止。平居好著作、有藍作指要、藍製用方、蚕桑長策、治水新策等。皆益世之書。記性尤強、書史一触目終身弗忘。晩年専推究字源、多所発明。著。泰東格物学、自謂名教之本全在此矣。配根岸氏先亡。有二男五女。長男殤。次次郎出嗣他氏。四女皆嫁。季女聘婿、曰定四郎、承祀。継配長野氏無子。嗚呼余之於居士、元有中表兄弟之親。又為妻兄。幼受教、長共出処。毎事就余謀、終始莫逆。知余者莫若居士、而知居士者亦莫若余。是以不顧不文作墓銘。曰、
   憂国起身。 幸遭昭代。
   維惇維誠。 出処益世。
   有学有行。 噫君子器。
   吾復頼誰。 何捨吾逝。
  明治三十六年一月
             正四位勲三等 男爵 渋沢栄一撰並書
 - 第29巻 p.90 -ページ画像 
                    嗣子 尾高定四郎建石
                         吉川黄雲刻
○下略