デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

3部 身辺

6章 旅行
■綱文

第29巻 p.469-493(DK290163k) ページ画像

明治34年4月25日(1901年)

是日栄一、東京ヲ発シ長野・長岡・新潟・郡山等ヲ視察シ、五月四日帰京ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三四年(DK290163k-0001)
第29巻 p.469-472 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年     (渋沢子爵家所蔵)
四月廿五日 晴
午前六時発ノ上野発汽車ヲ以テ啓行ス、九時高崎ニ抵リ、信越線ニ乗替ヘ、十一時碓氷アプト式線路ヲ経テ、十二時軽井沢ニ於テ午餐ス、三時長野市ニ抵リ対旭館ニ投宿ス、着後善光寺ヲ参拝シ各寺院ヲ巡覧シ、城山館ニ抵リテ市中ヲ一望ス、頗ル佳絶ナリ、午後六時地方銀行者ノ招宴ニ応シテ青雲亭ニ抵ル、会スル者四・五十人、席上一場ノ演説ヲ為ス、十時頃散会、旅宿ニ帰ル
此日渡辺嘉一氏・清水泰吉氏同行ス
四月廿六日 曇 大風
午前六時二十分長野ヲ発シ、信越各地ヲ経過シテ十一時柏崎ニ抵ル、浅野石油精練所ヲ一覧シテ後、日本石油会社ノ案内ニテ一割烹店ニテ午餐ス、食事後日本石油会社製油所ヲ一覧シ、一時柏崎発ノ汽車ニ搭シ、三時長岡着、停車場ニハ地方各銀行諸会社ノ人数多来リ迎フ、松井吉太郎・岸宇吉其他数十人ノ案内ニテ若松亭ニ投宿ス、入浴後常盤
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楼ニ抵リ、地方銀行及諸会社員催ス処ノ招宴ニ出席シ、経済ニ関スル一場ノ演説ヲ為シ、九時頃散会帰寓ス、此日韓国林公使、尾高次郎ニ一書ヲ認メ、本店佐々木氏ヘ宛発送ス、留守宅尾高幸五郎ヘ一書ヲ送付ス
四月廿七日 雨
午前数多ノ来人アリ、本店佐々木氏廿五日附ノ書状ニ接ス、韓国借款ニ関スル事件来報セラレタルヲ以テ、直ニ電報ヲ以テ当方ノ意見ヲ回答ス、午前十時長岡出張所 ○第一銀行ニ抵ル、事務ヲ視テ計算ヲ点検ス、畢テ佐田始詰合員ニ勤務ニ関スル心得方ヲ説示ス、十二時六十九銀行ヲ訪問シテ、若松亭ニ帰寓ス、塚山村長谷川某来リ、赤穂四十七士ノ書翰遺墨ヲ示サル、蓋シ此墨跡ハ中沢雪城ノ集ムル所ナリト云、午餐後北越鉄道会社ニ抵リ、社員一同ヲ会シテ社務整理ニ関スル一場ノ訓誡演説ヲ為シ、畢テ各課長ヲ会同シテ、渡辺・久住・前島諸氏ト共ニ向後処務ニ関スル意見ヲ述フ、四時帰寓、再ヒ常盤楼ニ抵リ、北越鉄道会社々債募集ニ付、此日越後地方各銀行者其他関係ノ諸氏ヲ招宴スルニ付、其席上ニ出席シテ同鉄道会社今日ニ至ル迄ノ経歴ヲ述ヘ、且此社債募集ノ必要ヲ説キ、来会者ノ賛同ヲ求メタリシカ、一同其意ヲ領シ勉メテ之レニ応スル事ヲ答フ、依テ饗宴ヲ開テ賓主歓ヲ尽シ、夜十時散会、帰寓ス
四月廿八日 晴
午前数多ノ来訪人アリ、岸宇吉・渋谷某・小畔亀太郎、新潟ヨリ来会セル白瀬・鍵富ノ諸氏来ル、朝来揮毫ノ依頼アリテ十数枚ヲ書ス、畢テ十一時過北越鉄道会社ニ抵リ、各課長ヲ会シテ渡辺社長・前島・久住諸氏ト共ニ再ヒ将来社務整理ニ関スル意見ヲ述ヘ、各員ニ詳細ナル注意ヲ与フ、十二時三十分長岡発車、三条ニ抵リテ笠原文次郎其他地方ノ商業者数名ノ来リ迎フルアリシカ、之ヲ謝シテ午後三時沼垂停車場ニ抵ル、鍵富三作・浜政弘、其他地方重立タル商業家数十名来リ迎フ、依テ一同ニ謝詞ヲ述ヘテ、直ニ腕車ニテ万代橋ヲ経テ新潟市ニ抵リ、篠田喜四郎ノ家ニ寓ス、着後地方人士来リテ安着ヲ祝ス、着後本店佐々木氏ノ書状ヲ一覧ス、依テ昨日来着セシモノト共ニ回答書ヲ発ス、外ニ八十島ヘ一書ヲ発ス
此夜新潟人士ノ招宴アリテ、行成屋ニ抵リ経済ニ関スル時事問題ニ付一場ノ演説ヲ為シ、畢テ多人数ヨリ饗宴ヲ享ク、夜十時帰寓ス
四月二十九日 晴
午前数多来訪ノ人アリ、九時渡辺嘉一氏及浜政弘・鍵富三作其他ノ諸氏ト共ニ万代橋辺ノ停車場位地ヲ一覧ス、堤上ヲ歩シテ終ニ沼垂停車場ニ到ル、帰途浜氏ノ別業ニ於テ小憩ス、十一時旅宿ニ帰ル、午後鈴木長蔵・山崎利七・白瀬春三・清水貞三郎諸氏来ル、二時第一銀行支店ニ抵リ、事務ヲ視ル、畢テ松井吉太郎氏ト共ニ海岸ヲ散歩シテ日和山ニ抵ル、四時過帰寓、午後五時浜・鍵富二氏ノ招宴ニ応シテ浜氏ノ家ニ抵ル、県官及市長其他ノ諸氏来会ス、饗宴畢テ夜十時帰寓ス
四月三十日 晴
午前鑿井技師ハース・藤井・中谷等来ル、午前九時頃ヨリ浜・鍵富二氏ノ家ヲ訪フテ、昨夜餐宴ノ事ヲ謝ス、白山神社ニ詣シ、市中ヲ散歩
 - 第29巻 p.471 -ページ画像 
シテ十一時会津屋ニ抵リ午餐ス、渡辺嘉一・松井吉太郎・清水泰吉・藤井某等来会ス、食後新潟商業学校ニ抵ル、生徒ニ対シテ修学上ノ心得ニ関スル一場ノ演説ヲ為ス、午後四時帰寓、更ニ鍋茶屋ニ抵リ、此日地方人士ヲ招宴ス、来会スル者約三十人許リナリ、岩越鉄道会社前田青莎氏来会ス、宴畢テ午後十時帰寓ス
五月一日 曇
午前七時新潟ヲ発シテ新発田ニ抵ル、新潟人ノ行ヲ送ル者五・六名及一行五人ヲ合シテ腕車絡繹タリ、行程七里、十時新発田ニ達シテ午餐ス、途中阿賀川ノ末流ヲ渡リ松ケ崎ヲ遠見ス、食事後新潟人ニ告別シ新発田ヲ発シテ水原ニ抵リ小憩ス、夫レヨリ道路山間ニ入リ阿賀川ニ添ヘ《(ヒ)》、午後六時津川町ニ抵ル、此日ノ行程ハ都テ腕車ニシテ、終日休時ナキニヨリ大ニ疲労ヲ覚フ、津川ニ近キ処ニテ草倉鉱山主任蒲生氏来リ迎フテ、平田治三郎ノ家ニ一泊ス、夜主人ノ依頼ニヨリテ揮毫ス此日若松市ヨリ歓迎会ヲ開クトテ、総代大須賀・星野ノ二氏来リ迎フ
四月二日《(五月)》 晴
午前六時津川ヲ発シ、腕車ヲ僦フテ山間ヲ上下ス、或ハ川ニ添ヘ又ハ嶺ニ攀チ、行路頗ル険ナリ、十二時野沢ニ抵リテ午餐ス、四時過ニ至リテ土地稍平坦ナリ、畳川ヲ越ヘ、更ニ大川ヲ渡リ、坂下町ニ抵ル、郡役所ニ於テ町中有志者ノ歓迎ヲ受ケ、一場ノ謝詞ヲ述ヘ、更ニ車ヲ馳テ若松市ニ達ス、市ノ街頭ニハ有志者数十名来リ迎フ、腕車市ニ達スル時煙火ヲ発シテ祝砲ニ代フ、午後六時東山ニ抵リ浴室新滝ニ宿ス此夜市中有志二十名許来話ス、喜多方有志者四名来訪ス、郡山町永戸直之介・門多顕敏二氏来リ迎フ
四月三日《(五月)》 晴
午前七時旅寓ヲ発シ、東山ニ抵リ白虎隊ノ墳墓ニ詣ス、更ニ路ヲ転シテ旧城趾ヲ一覧ス、市中有志者十数人案内ス、十時市中歓迎場ニ抵ル時ニ煙火ノ打揚アリ、来会スル者約二百名許リ、依テ一場ノ演説ヲ為シテ謝辞ニ代ヘ、畢テ一同ト共ニ饗宴ヲ受ク、宴畢テ一時過キ岩越鉄道会社ニ抵リ、社員ニ面会シテ勤務上ノ注意ヲ示諭ス、且事務ヲ巡視シテ後、二時三十分発臨時汽車ニテ磐梯山麓ヲ越ヘ猪苗代湖畔ニ出テ墜道ヲ越ヘテ、沼上ナル水力電気工場ヲ一覧ス、午後六時郡山ニ達ス此日若松市ノ有志者数十名同車シテ行ヲ送ル、郡山停車場ニ抵ル時郡山有志者数十名来リ迎フ、永戸直之介ノ家ニ宿ス、浴後郡山倶楽部ニ抵リ郡山有志者ノ歓迎ヲ受ケ、一場ノ演説ヲ為ス、畢テ十時過帰宿ス
四月四日《(五月)》 曇
午前七時永戸氏ヲ辞シ、正製・真正両会社ノ製糸場ヲ一覧シ更ニ郡山絹糸紡績工場ヲ一覧ス、畢テ開成山ニ抵リ小憩ス、此地ハ明治八・九年ヨリ地方有志者ノ発企ニテ荒蕪ヲ開墾セシ処ナリ、後官ヨリ猪苗代湖ノ疏水工事ヲ施シテ水利ヲ得タルニヨリ、土地四千町余ノ開拓ヲ得タリト、而シテ開成山ハ其事業ノ成功ヲ表彰スルノ地タリ、池アリ堤アリテ、堤上桜樹数百株アリ、頗ル眺望ニ佳ナリ、地方有志者ト共ニ暫時池辺ニ休憩シテ、十一時郡山ニ帰リ一小亭ニ於テ午餐ス、午後一時過郡山発ノ汽車ニ搭シ、順路東京ニ達ス、時ニ午後八時半ナリ、八十島・松平ノ二氏赤羽駅ニ来リ迎ス、上野停車場ニ抵レハ家人及銀行
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会社員等十数人来会ス、九時過兜町家ニ安着ス
   ○本資料第九巻所収「北越鉄道株式会社」明治三十四年四月二十七日ノ条、同巻所収「岩越鉄道株式会社」明治三十八年一月三十一日ノ条、第十巻所収「郡山絹糸紡績株式会社」明治三十年十二月ノ条参照。


竜門雑誌 第一五六号・第三九―四二頁 明治三四年五月 越岩地方旅行日誌(DK290163k-0002)
第29巻 p.472-475 ページ画像

竜門雑誌  第一五六号・第三九―四二頁 明治三四年五月
    越岩地方旅行日誌
 本編は、去月廿五日当地出発の青淵先生に随行して北越岩越地方に旅行せられたる第一銀行の清水泰吉君より寄贈せられたるものなるが、今左に掲載せん
四月廿五日 午前六時青淵先生には余の外従者八木安五郎を随へ、上野停車場を発車せられたるが、赤羽よりは北越鉄道会社々長渡辺嘉一氏同乗せられ、午後三時長野にて下車し、藤屋に投宿の上善光寺に参詣し、城山館等を一覧せられ、同夜青雲亭に於ける同地有志者の招請に応じ、左の意味にて演述せられたり
 私か当地に参りましたことは二・三度御座いますが、いつも唯通ります計りで、一度泊つたことがある位なことであります。今度も当地へ参つた訳ではなく、越後の方にある私の管理して居る銀行を撿べる為め、北越鉄道はもと私等の発起したるものであるにも拘はらず未だ一度も見たことがありませぬところから、さう冷淡では困る是非一度来て呉れといふので、其を見る為とに参りました訳で、唯一泊の為当地に下りましたところが、夫を御聞込になつて、私の為めに斯様な盛宴を御張り下さいましたのは実に感謝に堪えませぬ、どうか御断り申たいとは思ひましたが、既に皆様にも御通知が御座いまして、其れ其れ御準備が出来ましたさうで御座いますので、御辞義いたしまするは却て失礼と存じまして、随行員など多数のものまでが罷出ましたわけて御座います。ソコデ何か経済界の紊乱に対する救済策をとの御求めて御座いますが、残念ながら私には是と申して立派な救済策はないと申上るより致方が御座いませぬ。シカシ私の考へまするには、当時の経済界が斯く紊乱して参りましたといふものは、敢て浅間の山が噴火して非常に灰を降らしたといふやうな天災があつた訳ではなく、全く二十七・八年役の後の意気込が、政治家に於ても商工業家に於ても強よ過ぎた為めに適度の調節といふことが出来ないで、遣り過ぎた為めの反動に外ならぬことゝ思ひます。シカシ此遣り過ぎるといふことは誠に人情として免かれない弱点でありまして、政府では列国対等の地位を有つて行くには是非軍備を拡張せねばならぬといふ考を持たれる、商工業家ではもう一と奮発してといふ風に、つひつひ手が暢びるやうになりますが、其を御止めなさいとは私等も実にいひ兼るので御座います、此頃いひ噺されます事業繰延べなども、遣り過ぎた結果で已を得ないことでありますから、今になつて其をどうのかうのと批難致したところで仕方のないことで御座いますから、仕なければならぬことはすることにして、早く整理を付けた方が得策で御座いませうと思ひますが其繰延べを生産的のもの計りに止めて置くのは如何なもので御座い
 - 第29巻 p.473 -ページ画像 
ませうか、私は不生産的のものを合せて繰延た方が大層よいだらうと考へます。
 又銀行家の方は如何かと申しまするに、此処に御いでの御方は大抵銀行に関係のある方々と思ひまするが、左様な場合には是非にと迫られますもので御座いますから、矢張貸し過る傾があるので御座います。尤もこちらから無理推付に貸し付るわけでは御座いませぬが後にいつて具合が悪くなつて参りますと、丸で銀行家の罪でゞもある様に恨まれますのが通例で御座います。当地はいかゞであるか存しませぬが、東京がさうであるとすれば、長野にも大抵同じ風が吹くことゝ私は考へますので御座います。シカシ斯く恨まれますのも穴勝無理と計りも申されますまい、なぜと申すに、一方は起業心に逸り切つて、一厘でも余計に資本を投じたいと思ふ心が先に立つて沈着に利害得失を考へるほどの余裕が少ないので御座いますから、其をなだめて程よく調節して行くが、銀行家の見識と申しても宜しいかと存じますので御座います、当地の蚕糸なども矢張同じことで御座いまして、先年の様に値がよいとすれは、其方の人は勢ひ手を拡げたくなりますものですから、銀行家の方でも資本の融通を請はれます、其時オイソレと考へもなく出して居りますれば、今年の様な年には反動を受けて大層困らなければなりませぬ、此頃の経済界の紊乱は全国一般のことで御座いますが、御当地などは殊に御困りのことで御座いませう。シカシ其殊に御困りなさるといふことの裏には、殊によいことがあつた、若くはあるといふことを考へなければならないので御座います。利のあるところ害必らず之に伴なふて利害得失は常に離れぬもので御座います。馬は疾く駆る代りに逸するといふ憂がある、船は極く便利なものである代りに覆へるといふ恐がある、汽車は極めて重宝なものである代りに衝突するといふ危険があるので御座います。と申して馬は必らず逸するもの、船は必らず覆へるもの、汽車は必らず衝突するものと限つたわけのものでも御座いませぬので、斯様なことの御座いますのはツマリ深く考へない過ちと申なけれはならないので御座いますから、此過ちを経験と致しまして又其過ちを再びしませぬやう、御互ひに企図経営したいもので御座います。
 ツマラヌことを長々と申上まして、誠に慚愧の至りに堪えませぬ。尚此後実業界のことに就ましては、何かと御相談に与かりたいと存じます。
同廿六日 午前六時卅四分長野を発車、直江津に到着せられ、(第一銀行新潟支店支配人松井吉太郎氏を始め、北越鉄道会社々員・六十九銀行員等来迎せられたり)直に北越鉄道の汽車に転乗の上、午前十時五十二分柏崎に着せられて同所に下車、浅野製油所・日本石油会社の工場を一覧せられたる後、再ひ汽車にて午後三時十三分長岡に着し、若松に投宿せらる、同夜常磐楼に於て、同地六十九銀行・長岡銀行の発起に係る有志者の招待に応せられ、左記の如き意味にて一場の演説を為されたり、同日本店佐々木支配人に宛出状せられたり
 顧みれば十五年前なり、余は銀行の用向きを帯びて当地に来り、六
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十九銀行の岸宇吉氏等とは随分御懇意を結び、彼是れ打合せを為したる事あり、其節吾々銀行業に従事するものゝ平常採る可き方針覚悟等に就てもいろいろ議論をし又高教を受けたる事もありき、而して今日玆に御集合相成りたる諸君の中には、旧知の方も二・三之れあるやに思はるれど、大体は新進の方々にて、頭脳も吾々とは大に異る処あるべければ、何卒精々御尽力あつて国威の発揚といふ事に心掛ありたきものなり
 余の最初一般を見たる十五年前の長岡と、今日の長岡とは実に天地霄壊の差ありと申しても差支なき次第にて、近々金融の供給と云ふ一点に就て見るも、先きには只六十九銀行あるのみにて、兎に角凌き来りたるもの、今日の処にては長岡銀行あり、又第一銀行の出張店あり、而かも六十九銀行は是等と挿む所なく、携手して、商工業者の需要に応ずるといふ盛況あり、又石油事業の如きも十五年前には未だ殆ど見る蔭もなき微々たりしもの、今日の処一日三千石以上を産する事容易なりといふ、此採収したる原油は悉く精製の上各地に売出す事となれば、今日にして挫折する事なくんば、其輸入石油を漸次に排斥し行く事も左迄難事にあらざるならんと思ふ、次きには運輸機関の設備に道路の改築に仲々急激の発達は一驚を喫する許りなり、尤も北鉄に就てはイヤ貨物の滞積何の蚊のと随分苦情百出といふ有様なるも、併し兎に角連絡の附きて、長岡より東京へ行くに三国を越ゑて十余日を費さねは叶はざりし、昔日の状態を放れて朝に出発すれば夜は東京に着するを得る事となり、其上は諸方の人士が続々入込む事となりて、新空気も漸次注かるゝに至りたれば間接に越後人士の受くる利益は頗る大なる可きを思ふ、其線路の障碍の如き、運搬力の足らざるが如き、漸く改善の実を挙ぐる筈なれば宜しく諸事の助勢を仰き度きものなり、次きに御心得までに申上度き事あり、這は玆に余の事々しく申上る迄もあらざる可けれど、商工業は其手段経営宜しきに処して己れを傷けず可成大きな利益を得るといふが先づ万全の策なれども、扠て己れを傷けずして可成大きな利益を得るといふ事は仲々六ケしい訳で、心掛けては居るが出来ない相談ならんと思ふ、去ればとて進んで然して守るを知らざれば已に破るゝは必定、守るを知つて進むを為さゞれば到底喜境に入る事能はず、玆に至りて余は信ず、進むに方つて守るを忘る可らず、守るに方りては毎に進むを心かけざる可らずと、斯くてこそ初めて真正事業其ものゝ発達を見る事となり、従て己れの利益も多く獲得する如くなるなり、日清戦後財政と云はず経済と云はず又た一般商工業と云はす、終に今日の如き悲境に陥りたるもの、必竟するに政府側に於て又商工業家に於て其計営宜しきを得さるに基くもの、換言すれは一時の順運に乗して進むを知つて守るを知らず、遂には今日の如き状勢を醸したるものにして、此辺大に鑑む可き者ならんかと思惟す、近くは余の半生、若しくは当地の鉱業家の如きも随分当初より進むを知つて守るを知らさる的手段に出でたるもの多き事と信すれとも、然かも大なる蹉跌もなく今日に至りたるもの、之れ特種の事情の存するあつて然りしものにして、偏に僥倖といふの外な
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く、之れをしも定規と為すは甚だ其当を得ざるものたる事を信ぜずんばあらず、要は只だ時勢と己れの実力とを顧みて然して謹慎なる進退を為すにあり、一言諸君に警告す
同廿七日 午前七時当銀行長岡出張所に到り、親しく事務の撿査と店員に訓示を為され、夫より北越鉄道会社に赴かれ、役員一同を集めて懇々説示する所あられ、同夜は県下各地方の銀行家を常磐楼に招請されたるが、先生には其席上経済界の事情及社債募集に関し、一場の演説を為されたり、今朝廿五日付佐々木支配人より韓国借款に関する書状を入手せられたるに付、直に電報を以て照会を為されたり
同廿八日 午前中北越鉄道会社に到りて事務上の協議を為され午後〇時卅四分同地発、二時五十分沼垂停車場着直に新潟市篠田に投宿せられ、同夜行形亭に於ける同地有志者の招待に応じ一場の演説を為されたり(本演説筆記は本誌社説欄に掲載せり)本日同地着後廿六日付佐佐木支配人よりの書状を入手したるに付、直に返書を発送せられたり
同廿九日 午前当銀行支店の撿査を為され、次に沼垂停車場より万代橋に至る北越鉄道の予定延長線を一覧の上、同夜は浜政弘氏の本宅に於て饗応を受けられたり、今朝本店より電報に接し、且廿七日付佐々木支配人よりの書状を入手せられたり
同卅日 午前当銀行支店に於て店員を集められて夫々訓示を為され、午後市立商業学校に赴かれて演説を為されたるが、其筆記は次号に掲載すべし、同夜鍋茶屋に於て県官及得意先等を招待せられたり、同日岩越鉄道会社専務取締役前田青莎氏出迎の為め新潟へ来着せられたり
五月一日 午前六時新潟出発、新発田・水原等を経て、同夜津川町着同所平田治八郎氏方に一泊、松井支配人・渡辺北越鉄道会社社長同地迄随行せられたり、今朝新潟にて廿九日付佐々木支配人よりの書状を入手、同夜津川より其返書を発送せられたり
同二日 午前六時津川出発、午後四時過坂下町に至り同地郡会議事堂に於て有志者に面接せられ、即時同所出発、若松を過き、七時半頃東山温泉へ着、新滝に投宿せられ、若松市及喜多方・河沼各地方の有志者に応接せられたり、同夜一日付佐々木支配人よりの書状を入手、直に電報にて返信せられたり
同三日 午前七時より若松市有志者の案内に依り、飯盛山に赴き、白虎隊の遺跡を弔ひ、旧城内等を一覧せられたる上、万喜楼に到り、同地方有志者の勧迎会《(歓)》に臨まれ、又懇請に応じ一場の演説を為されたり(其筆記は次号に掲載せん)午後一時半岩越鉄道会社に赴かれ、執務の状況及構内を巡覧せられ、午後二時半臨時汽車にて同所発、沼上停車場にて下車、郡山絹糸紡績会社発電所を一覧せられ、再び乗車、午後五時半郡山着、永戸直之助方に一泊せられ、同夜同地有志者に招待せられ、郡山倶楽部に於て演説を為されたり
同四日 午前七時より有志者の案内に依り、真製社及正製社・郡山絹糸紡績会社等を一覧せられたる上、開成山に到り開墾地を遠見せられ午後○時廿六分同地発車、午後八時半無事上野に帰着せられたり


(八十島親徳) 日録 明治三四年(DK290163k-0003)
第29巻 p.475-476 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三四年   (八十島親義氏所蔵)
 - 第29巻 p.476 -ページ画像 
四月廿五日 晴
青淵先生今朝出発、北越地方ヘ旅行セラルヽニ付、午前四時半起、五時車ニテ出掛ケ、上野停車場ニテ六時出発ヲ見送ル、清水泰吉氏随行ス ○下略
   ○中略。
五月四日 曇
○上略 今午後八時上野ヘ着ノ汽車ニテ青淵男越岩地方ヘ《(ヨリ)》帰京ニ付、松平ト予ト赤羽停車場ヘ出張出迎ヲナシ、同車シテ帰京 ○下略


竜門雑誌 第一五六号・第一―一二頁 明治三四年五月 ○新潟行形亭に於ける青淵先生の演説(DK290163k-0004)
第29巻 p.476-484 ページ画像

竜門雑誌  第一五六号・第一―一二頁 明治三四年五月
    ○新潟行形亭に於ける青淵先生の演説
 本編は、去四月二十八日新潟商業会議所招待会の席上に於ける青淵先生の演説にして、同会議所書記の速記に係れるものなり
久々で御当地へ参上いたしまして相変らず従来より御知己を受け居りまする方々、及び又初めて拝眉をいたす諸君も多いやうに考へまするが、御当地へ罷り出ましたに就いて此処に盛宴をお張り下さいまして且つ私に此時事問題に就いて愚見を申し述べるやうにとのお申し聞けであります、只今鈴木君から頗ぶる身に余るお言葉を頂戴いたしました、此の経済社会に於いて多少苦慮はいたして居りまするが併し中々私が良い思案を持つて居つて此処にお話しをして此経済界に対して諸君を益するといふことは申し上げ得られないことゝ考へられます、去りながら前にも申し上げる通り御懇親の厚い諸君である、又私の一身が経済界に於いては已に御当地に銀行の支店もあり、長く御当地に於きましても厚き御愛顧を蒙むつて居る次第であります、又一方には今度出ましたのは北越鉄道の社債のことでありますが、此北越鉄道に関しても御当地には甚だ関係の深いところでありますから、末尾に鉄道に関係のことも申上げますが、鉄道の事、銀行の事、総べて経済上に重なる関係を有つて居るのであります、其中に拮据経営して居る私ですから、経済社会の重もなる位地に居る筈といふ褒め詞は私は却つて其軌に当らぬと思ひますけれども、経済のことに就いて苦労して居るといふことは私は敢て他に譲らぬので、今日の経済界が如何なる原因に依つて斯ういふ風の有様を呈して居るか、此事に処するに就いては如何にして宜しいかといふことに就きまして一言愚見を陳じて尚ほ諸君の高教を得たいと考へますのでございます
経済といふ言葉は至つて深く意味されまするが、これを十分に説き明かして参りまするには長い弁舌も要しませう、又学者といふ側でなければ殆んど経済といふ意味は十分に述べ尽されないことゝ思ひます、而して第一に私が爰に申上げたいのは、日本に先づ御互ひに従事して居るところの実業が維新以前と維新以後にあつて如何なる有様に違ふか、又此の維新以後の経過がどういふやうに成り立つて来たかといふことを一言申上げたいと思ふのであります
一体此日本の商売といふことは維新以前に在つては殆んど先づ背負ひ呉服、小売商業と申して宜しいので、決して欧羅巴各国あたりの商売と、字は同じくても其働きは丸で異つて居る、重もなる物産は、大抵
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政府がこれを管理したものであつて、而して租税も大抵それで徴収する、即ち米であれ、紙であれ、砂糖であれ、或は織物であれ、幕府皆な――諸藩は租税に取り立つて、重もに政府の力で取り扱つて居つて商売にやつて居るものは、僅かにそれを小売するに過ぎない、申さば小間物屋位であつたといふことは、お若いお方は幾らか疑ひがあらうけれども、私共と歳を同じくする人はそうであつたと必らず御首肯下さるであらうと思ふのであります、而して其区域は僅かに六十余州、日本といふ一国に限られて居つたので、幕府の作用がこれを斯ういふ風にやつたのが無事太平であるといふことであつた、所が安政頃から外国貿易といふものが経済に加はつて来た、そうして政治と共に日本の根本を乱されたのであります、一体の国状は何んであるかといふと一体の勘定が租税に傾いて居る、其の当時は尚ほ更ら酷かつたといふことは、諸君も御了解の出来るのである、前に申す通り総て国を治めるといふことは武門武士の力であつて幕府及び諸藩が此命脈を維いで居つたので、吾々商人は背負ひ呉服、小間物商売をするといふやうに過ぎないのであつた、又農業もそうである、のみならずこれは武門武士が余り栄耀栄華に其費用に供するといふことで、彼れあつて後に我れあり、政治をする必要からして、漸く農もあつたは、商もあつたといふ自他の差別が丸で外国の如く農を以て、或は商を以て、建国の基ゐにしたといふ差とは丸で異なつて居つたのであります、故に前申上ぐる如く、アベコベに向ふから参つて来ても、望みは我国の商売を広く有無を通じて日本を利し自分をも利すといふのであらうと思ふ、吾吾は夷狄……攘夷の説を唱へて居つたけれども、実際の主意は有無を能く通じて己れを利するには即ち彼れをも利するといふのであつた、併しながら私共は其実際を知らぬであつたから前に申し上げたやうな意志を有つて之を迎へて居つたのでありますが、丸で政治にのみ議論が傾いて遂に国の根本を乱す基になつたのであります、勿論貿易の為めには多少日本の商売も進んで来た、海外に向つて進んで来たに相違ない、生糸も売れた、甲斐絹も売れた、何にも売れた、併しこれは皆な政治に依つて開かれた商売であつて、其前までは商売の区域が日本ばかりに限られて居つたのであるけれども海外に於ける商売の有様はそうでない、斯ういふ風にすると商売を発達させる事が出来る。あゝ云ふ風にすると商売を進めることが出来るといふやうに能く考へを進めてこうしてやつて居る、日本では斯ういふことは明治までには無いと申し上げても宜からうと思ふのであります、其外に海外に向つて取引をしたこともあつたに相違ないが、それは悪くいふと、ほんの賽取り、殆んど奴隷同様に卑下されて甚だしきは彼れを掠めて我れを利するを制度とするやうな商売であつたのであります
業に已に前に申上ぐる通り商売は誠に卑しめられて居る、又外国の交通に関しても皆な重なるものは政治に傾いて居つて、国は斯く考へなければならぬ、斯かる事柄は国の利益であるといふやうなことは政治に与つて居るものは何にも知らぬで只だ虚位を以て僅かに其非を弥縫するに過ぎないのであります、それから進んで明治に相成つた、其処で意外に国が変化して、王政復古、廃藩置県、各種の働きは皆な欧米
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に摸倣するやうに進んで参りましたが、其商売に対する事柄は何れから其智識を及ぼして来たかといふと皆な政治の働きになつて居る、これが日本の商売の働かない証拠である、例へば鉄道であるが、鉄道は商売人が此事業を企てやうといふことで始められて来たのであるか、政治の上から鉄道といふものが成り立つたものであるか、或は船でございますが、船は其昔しは舳を切つたもので殆んど動くことの出来無いやうなもの、それこそ三代家光の何んに依つて出来た船を変じて殊に或は器械を備へるとか、或は蒸気に依つて運転するといふ如く、船も海外に依つて始めて日本に輸入されて来た、而してこれが軍艦といふ方で無い船はどういふことで開かれたかと云ふと、矢張り此運漕は蒸気船に依るといふことは、皆な矢張り藩の力若くは政府の力に成つて居る、此処に浜君も御出席になつて居られますが、故岩崎弥太郎君の如きは、成る程民業に依つて成り立つたやうではあるけれども、其実は藩力に依つて成り立つたのである、郵便汽船会社といふやうなものも民業にやらせぬければならぬのである、ならぬのであるがこれも矢張り彼れから与へられたのであるといふことは証拠立てることが出来る、鉄道といひ船といひ、私共が営んで居る銀行のことも大抵は皆な政治の力に依て誘掖されて出来て来たのであるといふことは、諸君も其通りであるとお答へになるであらうと思ふ、斯ういふ風に商売が建国政治でないといふことは着々証拠立てることが出来るのである、けれども言はゞ日本は好運の国柄である、或る場合には随分危険といふことは間々ございました、政治上の危険といふことは今一々記憶はして居りませぬが、中々三十年に至るまでの時代には、或は空気の流通しないで窒息しはせぬか、或は腸窒扶斯に罹つて大に困難したといふやうなことは度々あつたが、先づ偶然にも都合好く困難は始終救はれて居つた――救はれたでは無い免かれて追々商売も発達して参つたと申し上げて宜からうと思ひます
併しながら其間の経済社会の位地を論じて見まするといふと私の記臆では明治の初年から五・六たび一張一弛――張り弛み、或は進み、止まるといふやうな有様になつて居つたやうに思はれる、金融といふことに就いて一つの規程も無かつた頃ほひに漸く藩を廃してそれを中央政府が残らず総括することになつて、且つ役人の力で其金を取るといふことは廃めて御用取扱ひをして居るものに売る、三井とか小野とかまだ別に取扱ひをしたものが五・六人もあつたが其後は商売も幾らか目立つて来たです、如何にもして政治の力に依つて種々のものを鉢植に植ゑては見たが、鉢植であるのに色々の者が植はつたのであるから直ぐに追々に其草木は枯れて仕舞ふた、而して明治六年から七年に懸けまして、前申し上げましたが第一に米を以つて税を納めるには及ばぬ、金で以て納めよ、即ち租税金納制度といふものが明治五・六年から始つたのである、それを民間に委ねたといふことは幾分は社会に活気を帯ばしめて来た、所で小野組は大変力を出して三井組と頡頏して仕事をして来ましたが明治七年の冬に至つて蹉躓して来た、それ等は矢張り一の頓挫で、それが為めに七年八年九年と此の両三年の間に小野組で損害を受けたが為めに、金融緊縮して経済界が一張一弛したや
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うに今記臆されます、而して其間に二・三年を経過して稍や恢復することも出来たところが、恰かも明治十一年即《(十年)》ち西南の戦争が起つて、それが為めに大に不換紙幣を発行しなければならぬといふところで、国立銀行の兌換紙幣及び政府の予備紙幣を発行した為めに日本の経済が膨脹して来た、膨脹して来たと共に何処も彼処も金融が緩るんで来たといふやうな有様、其内に段々物の価ひが――物の相場が昂がつて来る、地所も高くなるは、諸物品も高くなるは、日本の経済も進んで来るはといつたやうになつて居つたところが、銀紙の差が多くなつて来て、昨日は二十銭であつたのが今日は三十銭といふやうに段々上ぼつて来るといふやうな風に、遂に一円の銀が一円七・八十銭までに殖えるやうになつて来た、其頃は中々経済社会の困難であつたときで、如何に処したらば此整理が付くであらうといふことで朝野挙げて皆な心配したときであつた、結局これは不換紙幣から起つた病根である、是非これは紙幣を兌換して、銀行に相当なる補助を与へて不換紙幣でない兌換紙幣を発行しやうといふことで、松方伯は専ら償却することに努めた、総てのことは多く消極的に仕事をするといふやうな方針で一途に出て来たやうになつた、それから明治十四年には大に銀価が減じて五・六・七・八此三・四年の後に余ほど諸物価も引き下がり総べての賃銀が低下して、農家などは大に困難したといふやうに私は記臆して居る、米が下がつて来て売り出すものも安くなつてそうして買ふものも下がつて来たから、これでは堪へ難いといふやうな声が追々四方に伝はつて来たやうな次第であつたが、此時に全く銀紙の差は段々下がつて明治十九年頃には其の差は全くないやうになつて来た
日本銀行の創立は明治十五年であつたが、明治十九年に兌換制度を布くといふやうなことになつたのです、丁度明治十五年から十八年までは金融の縮緊時代で十九年頃から兌換紙幣の行はるゝと共に世上が大に活気を帯びて参りました、廿一年・廿二年、此頃経済界の順境の時であつたと思はれる、其頃には鉄道といふことが大に進んで参つたとか紡績其他の会社の多く起きましたのは十九年から廿一年までの間であつたと思ひます、殊に紡績会社は大阪に一番多く起きましたと思ひます、其他各国に出来たものを合計すると殆んど四千万円といふ余計な金に上つて居る、之が皆な明治廿一年に出来たといふのでは無いが多く其当時に大阪に成り立つた者と思ひます
所が廿二年の冬から経済社会が不況といふ有様になつた、金利が甚だ高くなつて金が下がるやうな有様になつて来た、大阪が殊に激しくて紡績会社が破産するといふやうな大騒ぎを起しまして、五百万円の金を日本銀行から利子を廉くして出して貰はぬと大阪の経済界が誠に困難であるといふやうなことを云つて来ました、其時は日本銀行の総裁は川田小一郎君であつたが、これはどうしたら宜からうといふことで爰に一つの救治策を講じなければならぬ必要が起きましたから、私も安田君なども臨時電報に依つて此協議に与かることになつたやうに記臆して居る、今日まで担保制度が起きて居りますが、これは彼の時から起つたので、会社の株を毎時も担保にして日本銀行から金を借りて融通を附けて呉れた方が宜からうといふやうなことで、それに依つて
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大阪の経済界の恐慌が漸く収まつて来ました、併しながら其原因はそれ程大きなのでは無いと見えて右等の担保制度で其声が収まると同時に金利も余ほど下つて来たといふやうなことであつたが、それから五年・六年、此時には順境であつて殊に六年の如きは経済界が無事であつて且つ金利の廉い時期であつたと申上げて宜からうと思ひます、廿六年も経済界が緩にして商売に困難のない時であつたと申して宜しい殊に三年・四年には政府から鉄道を買上げて貰ひたいというやうな説が大阪に起つて居りましたが、其六年には中仙道の鉄道を民業に移して呉れといふやうな一足飛びに緩慢を現はしたでございます、左様に廿六年は金利は廉いし、商業も誠に順境であり、貿易も皆輸出の方が勝つたといふやうな有様になつて居る、金利は京阪を平均して年の歩合が二銭位であつたやうになつて居る、余ほど安い、或る相場には一銭何厘といふ時もあつた、其処で又一事業を興すといふ傾きになつて来ました、即ち廿七年には色々の事業がムクムクと起つて参りました二十二年頃には一時は懲りたこともありましたけれども、此時に又ムクムク事業が起るやうに傾いて来た、ところが二十七年には御承知の通りの日清戦争――斯ういふやうなことになつたのであります、戦争の為めには軍事公債を募集するやうなことになつて来た、けれども金利が幾ら廉くても此戦争の経過を見てからでなければならぬといふやうなことで、皆な手グスネ引いたといふ風で、公債募集といふことには、手を伸べることが出来ぬで居つたが、二十八年になつて、戦争は勝つた、償金は取れるといふやうなことになつたので、二十九年に政治上に現はれた事実としては、軍備拡張といふやうなことになつて、歳出も俄かに二億万円に増して来た位であつたから、政治家も皆な商売に負けてはならぬと誘導したから、百事の設備は皆な起さなければならぬといふ機会を起したのである、経済界は進むと退く、退くと復た進むといふやうに小波を打つて来ましたが、二十六年は左なきだに大波を起そうといふ時であつたのに、戦争があつたは、戦争はあつたが其戦争に勝つたは、三億円の償金は取れるは、其処で又た政治上に大に費用を増して此国威を発揚して往かんければならぬといふことになりましたから、従つて其外に種々の事業を起すものも亦少なからぬ軍艦の如きは内地に及ばぬところでありますけれども、台場の建築とか其他の軍事上の設備についても、内地にやることの出来るものもあるが、内地で及ばぬところのものは外国から供給を仰ぐといふことは勢ひ免れぬことで、そういふ風になるのである、吾れ人共に種々に力を張つてやつたといふことは勢ひ免かれないことであらうと思ふ
所が商売人の力の弱いのと政治上の働きの始終過度になつて居るといふことであるから、廿八年には大に考へなければならぬ日本の実力といふものを、――国費が八千万円であつたが俄かに二万億円になるといふやうなことに就ては実力がそれだけ有つたか無かつたかといふことを考へて見なければならぬ、如何にも政治上の設備といひ農工業といひ一足飛びに進んで彼等と頡頏することが出来るのであれば宜しいが中々そうは往かない、産れて直ぐは十とは言はれぬ相当に歳を超えて往かなければ十には成れない、十には成れないといふことは人ばか
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りでは無い、物もそうである、そうであるとすると一足飛びにやると悪いといふことは、又以て免かれないことであらうと思ふ、のみならず戦争後此国を進めて往かうとすると、どの位に商売を進めれば此国が維いで持つて往くことが出来るかといふことを調べたならば宜からうと思ふ、然るに寸方は其処から出来て来ないで、土台が軍備とか何んとかいふ所から起るのであるから、私共は誠に遺憾千万に思ふのである、併し其時に国の観察が出来て、どうしても国家が其処まで進んでは私共は続いて往くことが出来ぬ、詰るところ立派に家は出来ましたが勝手元は一向及ばぬ、お膳は出来たけれどもおマンマがまだ出来ぬと悪いといふやうなことが、言ひ得られたら或は宜かつたであらうと私共は思ひますが、明治二十七年に商業会議所から其事を言つて種種申し上げたけれどもまだ調査が能く出来ぬのであつて、遂ひ年々歳費が増して一億五千八万円になつた、各事業も進め得らるゝだけ進めた、鉄道の事に就いても八千万円の金を請求するといふやうに、会社なり商工業なり皆な二十八年以後に俄かに進んで参つたのであります併しながら今申す通り、如何に望みが強うても一を二にするといふことは出来ぬ、そういふことは事実に於て出来ぬと認めまして、三十一年頃は随分金融の必迫を起し、利子は騰貴する、経済界に一つの困難といふ声を生じて参りました、已に三十一年にも其時の大蔵省は一時買上主義を以てやらせて、一時其融通を得て三十一年頃まで困難といふ間にも左までの破綻を起さぬで済みましたが、三十二年はどうであつたかといふと、歳費が実力を超えて居るといふことは同一であらうと思ひますが、日本銀行に保証準備を増加して、即ち三千五百万円の発行力を増したといふことである、其働きは経済界に直接に影響を及ぼしてあるから、東京其他の地方にも随つて幾らか進んで往く形がある、従つて経済界は一時緩和になつて、宜いほどに調和して往つた、のみならず生糸も輸出が増して参りましたから大に昇昂のときであつた、私共もこれで経済界の困難も恢復して往きはせぬかといふやうな考へを一寸起しましたが、英国は杜国の関係からして金利を昂げて来た、此海外の金利は日本にも大に影響をして、俄かに十一月頃に至りて引続いて日本銀行に於いては金利を引き上げるし、それから各地にも金融必迫の声を生じて来たし、遂に三十四年に至つては段々各所の銀行で支払を停止するといふやうに、そういふやうな点に迄不幸が重つて来た、それは独り銀行社会のみでは無い、商売社会にも手形支払が出来ぬといふやうなことが生ずると共に、それに関係の銀行は大に困難を感じて来て、種々なる経済界の苦境を見るやうに至つた
これが前にも申上げました、通常の病気であるか又は原因の異なる病気であるかといふことは判断して見たいのであります、丁度最初の譬へに申し述べました通り、如何に健全に進んで往く日本でも多少の病気があつて、其病気は程宜く往つたといふことを申しましたが、併し苦痛といふものはどうしても玆に去るやうに研究するのが目下の急務であらうと思ふ、二十六・七年の頃から五たびばかり経済社会が弛んだり張つたりしたが、五たび目までは左ほどの事も無かつたが、則ち最終に至つては殊に経済界に苦痛を与へたのである、歳費が俄かに加
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倍したのであるが、それをこゝに合計したならば殆んど五億近い程のものにならうと思ふ、其金高は二十八年以後僅か五年ばかりの間に皆な政治上の事柄に費消したといふのは、経済界に急激の変動を与へられた原因である、彼等は一つしかない、吾等は己れの力が多いから平均に懸る具合が薄くて、仮令影響を受けても斯かる苦痛は無かつたであらう、けれども政治の力は強いものである、国家の歳費は商売に運転される資金に比較して大変強い、これを欧羅巴諸国に比較すると大分差違がある、それを俄かに加倍した歳費になつたといふことになると商売に就ては大変に苦痛を感ずることにならうと私は考へるのであります、そうして見まするといふと、此病気は一時に熱度が余まり強くなつて参つた、其熱度が都合好く強くなつたので無くして、国家経済に不適当なるまでに歳費が余計になつたといふのが、此病根の重なる原因であるとのことは、決して間違つた思案では無いといふことを申し得らるゝであらうと思はれます
如斯き今日に於てこれを救ふといふことを考へますれば、どうしても第一に政治の費用を節略するより外に策は無からうと思ふのであります、即ち大蔵省では此程から事業繰延といふことを云つて居つたが、私共は大蔵省で能く其事に心附いて来て呉れたと悦んで居るのである目下の経済界の病根を真に治療すると云ふことに付ては、これより外には策が無いといふことを思ふと、已むを得ず事業の廃止をして、そうして其熱度を冷却するといふ方法を執るより外には無い、どうも已むを得ませぬ、尚ほことに事業を進むるといふことの出来ぬのみならず、或る部分に対して暫くこれを休止するといふことも行はなければならぬといふことも同時に考へたのであります、併し経済界の整理は民間の事業に対して単に過度の事を抑へるといふことでは、能事終はれりといふことは出来ないと思ふ、今日の所はお互ひに注意しなければならぬといふのは民間事業、即ち実業のこともそうである、実業も余まり俄かに進めて来たから不権衡になつたのであらうと思ふ、此不権衡のことを権衡にするといふことは、経済社会には余ほど考へを措かなければならぬことに思ふ、私は御当地のことに就いては其事情は余り能く知りはいたしませぬが、東京なり大坂なり横浜なりに就いて其一例を申しますと、海陸の接続といふものが一向に附かぬで居る、そういふやうなことが数々あることであらうと思ふ、又資本の点に至つてもそうである、小党分立といふことは成るべく避けて、小資本でもそれを一緒に纏める、出来得る限りそれを糺合するやうにしたいと心懸けて居るのである、私は其他には原因も示してある、成り立ちも示してあるが、成るたけこれは大きく塊まるといふことにせぬと、分裂の弊遂に経済宜しきを得ぬことになるといふことも考へなければならぬと思ふのです、一方には誠に吝なことを申し上げますやうではございますが、一般の気風が虚栄に流れ華美に流るゝの弊害がありはせんかと思はれる、これも其根源を論じますれば、或は今の政費の膨脹が遂に其華美に走り虚栄に傾くといふことを助長したのであるといふことは、私は確かに信で有うと思ふ、殊に其有様は二十八年以後に於て最も多くあるであらうと私は一寸思はれる、例へば国家の為めに赴
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くのであるから決して其人を慰めるといふことは悪いといふのでは無いが、一兵士が営所へ往くときに旗を樹てゝ大勢のものが見送つて、そうして一日酒を飲んで仕事もしないで暮して仕舞ふといふやうなことは、申さば殆んど虚栄に亘る所の行ひである、そういふ虚栄に亘るものが世間押しなべて見ると大変多いかと思はるゝのであります、細民の程度が宜くなるといふことは最も望み且つ最も悦ぶことであるから、成るたけ先きに立つ人は、即ち此一堂にお集りのお方に此貧富の懸隔に就いて其差を少なくするといふことは、最も尽力しなければならぬことであるから、虚栄も気を注けてしないやうにしなければならぬ、華美も戒しめるやうにしなければならぬことゝ思ひます
併し此不生産的の事業になつて居ると、そういふことは防いでも出来ぬことであらうと気遣ひくるゝのであります、今一つは消極的の治療法になるのです、今一歩進んで三十一年に行はれたやうに公債を償還するといふことは宜しいが、これも議論である、東京あたりでは私の議論に対して、お前のやうなことを云ふては往かぬといふことを云つて居る人もあるが、今之れを応急するといふことにすると、此の病ひを治して又病ひを得るやうにならうといふ考へもあり、歳費を減することにした方が宜からうといふ議論もある、のみならず私は此議論に就いては判断を下すことが出来ぬのである、要するに私は努めて政府から公債を償還して貰ひたいといふ議論ではございますが、若しそれよりも大きな応急策といふやうなことにするか、公債を内外に起すといふことにするか、これも大に考へなければならぬことである、経済界を真正に救ふといふことにすると、どうしても政府に於いては、事業の繰延といふやうな浅果敢な考へでは往かぬ、財政の整理が強い力に依つて行はれて事業を繰延べ、それも不生産的のものを繰り延べる此頃起つて居る事業繰延べといふことは大抵不生産的のものゝやうになつて居る、私は不生産的のことは繰り延べて、寧ろ削除して貰ひたいといふ希望があるのである、そういふ風にすると不景気は又一層増して来るといふことは、固より覚悟をしなければならぬ、併しそれに依つて再び世の中が景気になつて来るやうにならうと思ふ、私共は事業を繰り延べ華美のことを廃めて貰ひたいといふ希望を有して居るのであります、これが私の経済界に斯く有りたいといふ希望であるが、こんなことならば、貴様が云はぬでも分り切つて居る、陳腐な説であるといふお考へのお方もございませうが、私もモウ六十歳で色々経済界に苦労を重ねたものでありますが、斯る場合には格別妙策奇談といふやうなことはない、甚だ陳腐な説ではあるが、これを以て此難病を癒やすより外は無い積りであります、誠に順序も無い、ほんの思ひ付いたことばかり、それも陳腐の説で甚だお聞き苦しいことゝ存じます終りに臨んで一言申上げて置きますが、私は北越鉄道の事の関係を有つて此度び御当地へ罷り出たのでありますが、私は御当地此他の地方の方々から色々の御相談に与かりまして、私に世話をせよといふ御依頼を蒙むつたこともございましたが、それこれの中で追々捗取つて此北越鉄道が出来たのでありますが、元来会社が成り立ちまして事業も段々進んで参りましたが、扠て其経営施設が誤つて実に今日は甚だ困
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難の場合になつて居るのでありますが不肖なから私も監査役の職に居つて、時々此牛耳を執りまする所の取締役会にも列して私の意見を申し述べ置きましたが、扠てどうも思ふやうに進みませぬです、随分此会社がこゝに社債を募るといふことに就いては色々私も意見がありますので、こゝに御列席になつて居るお方もございますけれども、それは追々お咄しをいたすことゝして爰に態々御清聴を煩はすほどでもございませぬが、併し此鉄道が御当地と密接の関係を有つて居りながら未だ万代橋まで線路が来ないといふことは、どうも遺憾とは思ひながら今日まで出来なかつたといふことは、宜しく諸君に於ても御宥恕を願ひたいです、決して新潟市を粗略にするといふのでは無い、望んで能はぬことであります、今の社債に依つては先の社債を償ふことが出来ますし、渡辺君もこゝに御出席になつて居られますが、前後の経営に就いても事業上に甚だ完備を欠いたこともあつたに相違無いと思ふのであります、如何せん一方には会社の経営が誤つてあつて金が足らぬで、漸くそれを埋めて聯絡を付けた、聯絡を付けたが、一方に又差支へが出来たのである、斯ういふ風に種々の差支――不都合等は免かれぬのであります、実に困難の位地に居るところの鉄道ではあるが、併し此鉄道は矢張り不十分ながらも交通運輸を謀ることの出来る時機には達して居るから、若し之れ微かつせば貴国の中央に対する聯絡は十分に出来ないと申し上げても宜しい、そうすると此鉄道に就いても其功能を幾らか唱へて貰ひたいといふことを一言申し述べて置きます実に此会社は困難の位地に立つて居るのであるから、此以来罷り出まして自分の考へる所を当局者にも推薦をして、又諸君に向つても一言いたして見たいといふ考へもあつたのですが、斯かる席に私の考へを述ぶるのは、少し其機会を得ますまいけれども、序でながら一言申し述べて置きますから、衷情をお聴き取りを願ひたいです
尚ほ一言申し上げますが、第一銀行の支店、北越鉄道の関係、又従前からの御懇親、此三ツの因縁を以て、今後も尚相変りませず御懇命を願ひたいです


竜門雑誌 第一五八号・第一―六頁 明治三四年七月 ○新潟商業学校に於ける青淵先生の演説(DK290163k-0005)
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竜門雑誌  第一五八号・第一―六頁 明治三四年七月
    ○新潟商業学校に於ける青淵先生の演説
 本編は本年四月三十日新潟商業学校に於て青淵先生の演述せられたる商業教育談の筆記なり
臨場の諸君、学生諸子、今日は私が御当地へ参つて居りましたに就て当新潟商業学校で学生諸子に対して一言の商業教育に関する意見を述べるやうにと、此ほど教頭の川口君が御依頼がございました為めに、此処に罷り出で諸君にお目に懸つた次第であります
只今川口君から私のこれまでの経歴に就いて御紹介下さいましたが、甚だ溢美過賞と申すべき様で却つて慚愧に堪へませぬ、決して商業界の泰斗とか、若くは商業教育の率先者といふ如き、私は功労は無いであらうと思ひます
併しこれ等の謙遜の言葉を此処に縷述いたすも必要の無い次第でございますから、此処に学生諸子に対してお目に懸かつたを機会として一
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言申し述べて置かうと思ひますことは、第一に商業教育が今日の実業界に如何に必要であるかといふ点と、もう一つ商業教育に従事せられた諸君が将来どういふ考へを有つて此世に処するが宜しいかといふ二つの事柄に就いて愚見を申し述べて置くやうにいたしませう
此処に申し述べますことは私は度び度び東京若くは其他で演説に談話にいたしたことでございますから、詰り新案ではござりませぬ、或は陳腐のことに思はるかも知れませぬが、偖て平生の宿志といふものは俄かに変はることでないから毎時も同じことほか申されませんので、甚だ事の古めかしいことは御容赦を請ひます
此実業教育が今日の実業界に如何に必要であるかといふことを申し述べますには、第一には日本の商売がどういふやうに成長したかといふことを簡単に申さなければならぬと考へる、日本の商売は、一昨夕も御当地へ到着いたしまして有志諸君の御案内を蒙むつた席上でも概略申し述べましたけれども、此維新以前に在つては頗る区域の狭い頗る軽蔑されたものである、故に商売に対しての教育といふことは殆んど先づ無かつたといふ外無いです、御当地辺は如何であつたか、私も矢張り田舎に生れて田舎に生長したものである、東京より二十里許り隔つた中山道の在方で生長いたしましたから、私共小供の時分に教育された其生徒は、殆んど常に申して居りますが、商売往来といふ書物と塵劫記といふ算術書、此二冊外商業教育は無かつたと申して宜しい、殊にそれも商業といふか普通教育といふか、若くは大学といふか区別し難い如き教育法であつた、甚だしきは此教育は商業家に在つては成る得べきだけこれを避けるやうにして居つた、殊に商業家の最も忌むのは漢籍てあつた、といふ一の例を申しますると、川柳に「売家と唐様に書く三代目」――尤も三代目になると少しづゝ人の前に学問などの考へが附いて来る、其時分に身代が悪くなる、遂に売家といふ札を唐様で書くやうになる、そういふ学問であつた、故に殆んど漢籍などを教へるのは家を滅ほす如く見做されたものであるから、結局東京あたりの立派のお棚と称へる商家などでは、子供に四角の文字を読ませると大変年寄りが叱かり且つ戒しめるといふ程であつた、然らば此外漢籍以外に如何なる教育があつたかといふと、其日其日の商業の取締と事務の以外に子供の教育が無かつた、僅かに今申す筆算とそうして自分の名前を書くとか若くは加減乗除の算盤が出来る、これで以て教育は足れりとしてあつた、故に其商売人が世の中から卑下されたといふことも誠に已むを得ぬ場合であつて、詰り人に向つて尊敬さるゝべき元手を入れるといふことは一体無かたのである、其取扱ふことは勿論商売人の仕事は卑しいものと誹られ、又其成長するものは左様に無教育に成り立つて往く、こうして己れも人も、己れ自身が商売人は野卑のものである損益さへ知つて居ればこれで済むものであるといふ心持を有つて自からも卑下した、人も卑しみ、又自からも卑下する、そういふ有様で発達しやうが無いといふことは数の免かれぬ話しである其有様で遂に此維新以前若くは御一新になつてから外国人などに相交はるといふ時に至つては、実を申せば用意が無いと言はうか仕度が無いと申さうか、何も無しに立派に一人の人と相対するといふ世の中に
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なつて来たからして、維新草創の、若くは其以前の海外通商に就ての商売の仕方などゝいふものは、殆んど外国人に対すると先づ手代といはうか番頭といはうか、モウ一歩悪くいへば仲買、賽取といふやうな者で決して相対するなどは一人も出来た人は無い、事は知らず量見は卑しい、何にか詐はつて彼れを掠めて金を少々儲ければこれが最大の働き、斯くいふやうな仕方で外国人に接したから、日本に参つた外国人は日本人を見て、情けない有様だ、商売に就いては殆んど智識が無いと見下られたも已むを得ぬのであります、それで政治家は此商売人を率ゐて、そうして今の世の中からして珍重され、政治家なり、軍人は此力に依つて国家を進めて往かう強めて往かうと組み立てゝ、ある外国人と相戦ふて往くのであります、それこそ卵を以て鉄に叩き附けると同じで、これは迚も商売にも何んにも比較になつた咄しで無いからして相取り組むことが出来ぬ、商業は着々進んで往くのに、独り日本人は不信用であるといはれて居るのは、其原因遥かに遠しといはんければならぬ、従つて其頃の教育家はどういふ有様であつたか、――其頃と申すのは維新後の教育です――、先づ初めに学校は出来ましたけれども、此文部省で大学を作つても、学問の勤めは総て政治家になるとか学者になるとか、教師になるとかいふ外に学問の考へは無かつた、商売に工業にといふやふな学術は殆んど維新草創の間には唱へる人が無かつた、蓋し人も無かつた、こゝに実例を一つ申しませう
明治十三年である、漸く文部省に理科・工科が出来て、そして理学士工学士といふやうなものを造り出すことになつた其頃、十三年に私が――今は会社になつて随分重大なる東京の一会社でございますが、瓦斯会社であります、これが東京府に属して瓦斯局といつて居つた時分は、此瓦斯局の東京府から委嘱されて東京府の瓦斯局長をして居つた其時に外国人にばかりやらせて見るのは甚だ残念である、どうか日本人にやらせて見たいといふので、今申した其理学士を雇はうと思つて此大学に照会をした、ときに教師も、其時の大学総理も至極宜からうといふて相談をしたが、本人が嫌やだといふた、何ぜ本人が嫌やだかと聞いて見ると、此事業は後に人民の事業になる、そうすると自分は民間に下らなければならぬ、同じ直段では自分は嫌やだ、それが丁度十三年である、私は是に至つて文部省の教育が実に情け無い有様だといふことを酷く嘆息した、何んとなれば若し民間に下るが嫌やといふことであれば此事業は何処でやる積りか、教員になるか、役人になるか、然らざれば政治家になるか、政府の事業をするか、漸く工学なり理学なりを大学に於て課程を設けて、そういふ生徒を養ふ、これも容易の費用で無い、況んや仕上げた人の心は如何であるかといふと、普通民間の事業は大層卑下さるゝものであるから嫌やと生徒がいふ、此学校の世話をする、即ち其時の大学総理といひましたのは、今の加藤弘之博士である、どういふ意見を有して此学生を薫陶して居るか、指導して居るか、甚だ疑はしいと思つて加藤氏に其事を酷く嘆息して咄したことがある、加藤氏はそれを聞いて恠しからぬことだ、面目が無い、誠に民業を卑しいといふことは如何に学校でもそういふことは時時申して努めて説得いたしませう、再三説得いたし且つ私も其人に会
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つて将来に在つては寧ろ民業の方が望み多いと、或は道理を以て説き或は利益を以て誘ひ漸く其人を瓦斯局に雇ふたといふ例がある、私は今川口君から商業教育に就いて大に憂慮した人であるといふお褒めの言葉を戴いたがこれが即ち其頃である、今の東京商業学校は其原因はもう些つと始めでした、明治七・八年頃成り立ちましたがこれが東京の高等商業学校に向つて商業教育を勤めんければならぬと観念したのは丁度今の一年――十二年頃であつて、自分の心の低き感じを強めた前に申す通り商売人は至つて卑下されて居る、従つて商業教育は殆んど無い、又其他に教育といふ教育は一歩過ると革命家になるといふ教育の仕方である、幸ひ維新後欧羅巴に則つて教育法を一洗いたしたであるが、偖て其教育は皆な矢張り政治家・役人の教育で、大体民業に充つべき工学とか理学とかいふものまでも組み立てゝも其科の生徒は今申すやうな意念であつて、殊に商業に対しては殆んど教育といふことは明治十三・四年頃まで未だ世間に無かつた、僅か東京に講習所があつて東京市も――今は市ですが、其頃は東京府であつた――東京府から聊かの保護を願つて維持して居る、甚た微々たるものであつた、所が其十五年に其東京府には不用のものであるからこれを廃校するといふ議を起して一方には民業を軽蔑して大学に稽古したところの、詰り民業に必要なる学科を訓練した人すら尚ほ民業に就くを嫌ふ時代に幸ひ東京府で聊かたりとも商業教育が持続されてあつたのを無用の経費なりとしてこれを廃止せんといふ決議を為すに至つては私共酷どく驚いた、これは以ての外のことだ、斯ういふ仕方で教育の総べてのもの或る部分は皆な政治の教育に走つて仕舞ふ、従つて此商売にはトンと誰れも心を用ゐて呉れぬといふ、商業教育に対して心を用ゐて呉れぬといふ仕方であつては未来は如何になるか、迚も日本の商業教育は発達することは覚束ないといふ観念を起しました、それから初めて東京市に経費を支弁して学校をして廃滅に帰さぬやうに、これを持続させるといふことに多少議論尽力いたしたのでごさいます、これが十六年でごさいましたが、其事に就いて時の東京府知事が大層骨を折つて市民の重なる人に向つて醵金などを募りまして、其醵金を以て維持することにいたした所が、政府に於ても斯く東京市民が商業教育に強い東京市が廃したのは心得違ひであるから仕方が無い、然る上は政府から此費用を出して維持する外仕方が無からうといふことで、先づ一年は農商務省から金を出して維持して、そうして其翌年、此教育は成るべく専一に帰することが宜からうといふことで文部省に帰して、一歩一歩進んで今は生徒が四百人もあり経費も拾万円近く支出する相当の学校に成り行きました、丁度それを顧みますと十八・九年二十年内から以前のことでごさります、今日で見ますと商業学校で成り立つた生徒が商業家になるといふことを望むは勿論のこと、或は帝国大学から出身した人も大分商業教育に従事するものは進んで望むやうになりましたのは、時勢の変遷とは申しながら僅か二十年の間に、私一身の考へでありまするが甚だ心嬉しい、実に僅かの中にそういふ人気が変はつたかと昔日を考へますると愉快に考へます、実際商業教育に於てはまだ今日の程度を以て果して完全と申し兼ぬると吾々は思ふのであり
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ます、已に昨年の冬から当春へ懸けて高等商業学校出身の人達は互に相謀つて遂に此学校を今一歩進めて商業大学とまで至らしたいと希望して居ります、但し此商業教育は只だ位地を進め気位を高めるといふ方が必要だといふのでは無い、寧ろ商業教育を得て商業に従事する人は成るたけ事業に専ら任するやうになりたいから、余まり位地を高めるとか階級を上げるとかいふことは好みませぬけれども、併しなから今日までの余弊、即ち商業を一般卑しめるといふ観念が商業界には少なくなつてもまだ他の部分に多い、即ち政治界若くは軍人者間とか、そういふ自から其位地を高めることも必要であらうといふ意念から、今申す商科大学といふまでに此科程を進めたいといふ説も起つて、互に講究しつゝあるといふ迄に相成りました、左様に教育上の時体《(マヽ)》も進歩して来ましたが併しまだ商業界に出た人達が十分に此商業界のことを取つて居るといふ時代であるかと申すと、相当に歳月は経過しましても社会から考へて見ますると、まだ歳月が浅い為めに今の教育が我日本の商業界に対して十分に働いて居ると申せぬでありませうけれども、尚ほ十年二十年の歳月を経て参りますれば、遂には真正なる学問に依りて成り立つた人々が追々に殖えて参つて、遂には商業者といふ一体の品格、一体の気象が昔日と全く異なるやうに相成るであらう、それで始めて力が細いにもせよ、日本商業界は他の部分と肩を並べるやうに相成るであらうと末を望んで居るのであります、若し果して政治若くは軍人・教育・法律、そういふ種類よりも割合に大に優るとも劣らぬ位地に商業界が進まぬならば、即ち日本の商勢は何時までも最下級に居るといふ有様になつて終はらねばならぬと申さぬければならぬのですからして、今の如き希望は私は国を思ふ人に於ては、独り私が申上ぐるばかりで無い、どなたでも左様に観念して、左様に其位地に達することに商業界に従事するお方は望まんければならんことに私は申し上ぐるのでございます
商業教育が今日の商業界に左様に必要なことである、是非相当なる学問に依つた商業でなければ、此末は決して第一国の商務を処理して往くことが出来ぬのみならず、一歩進んで海外に対等の商業をなし往くことが出来ぬといふことは、私が申上ぐるまでも無く誰れも信ずることであるが、誰れも信じてまた其場合に至つて居らぬといふことは、諸君は御承知あらねばならん、且つ商業教育が此商業界に必要だといふことを申し述べれば、まだ種々なる点がありますけれども略してここに止めて、これから先き商業教育に薫陶された人達が、即ち今此席にお出での学生諸子が、未来――学業を終つて向ふの覚悟は如何であるか、諸子の量見はどうして宜しいかといふことに就て一つ申し述べて置きませう                    (未完)


竜門雑誌 第一五九号・第四―八頁 明治三四年八月 ○新潟商業学校に於ける青淵先生の演説(承前)(DK290163k-0006)
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竜門雑誌  第一五九号・第四―八頁 明治三四年八月
    ○新潟商業学校に於ける青淵先生の演説(承前)
学問の次第は、他の学問も商業に就いての学問も別に変つたことは無い、第一に勉励して能く覚え能く記臆して、教官なり其他指図をする人の命令に服従して、其与へられて居る課程を十分に練習するといふ
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やうにせねばならぬ、商業に従事する人は是非此事は別して心を用ゐんならぬので、成るたけ心を専らにせねばならぬ、商業といふものは誰れも彼れも皆な大将になるといふ考へでは決して其教務が十分挙つて往かぬ、先づ其課程に就て学び、到る処に皆さんは成るたけ一の技術者になるといふことの考へを有つて苦心して往かんならん、志しもそういふやうになくばならん、私は前には商業者が甚卑下されると困る気位は高く持たんならん、決して政治家・軍人其他の向と同一に相並ふやうに心懸けなければならぬと申したのは、其力とか智識の進んで往き方が只だ無暗に交際の為めに軍功の為めに高慢に尊大にして不覚を取るなといふ主意ではございませぬ、こゝはどうでも言葉を以て意を解してはなりませぬから、能く聴き違はんやうになさらんければならぬ、商業は誠に能く専らなるものである、帳面を附けろといふたら附けることに就ては熱心に其事を守るといふことは甚だ商業に必要のことである、或は得意先は応対にして、或は倉方の取扱ひにして、或は物品の出納にして、総べてこれから先き各々方が学問が出来てから事務に附く、其事務に附く場合に今私がいふたやうな気位を高くといふた所がなくなる、大将気取りて気位を高く以つたら宜からうと考へらるゝと間違ひである、心を強く以て堅固にせよといふので、我が位地を高慢に高く留まらせよといふのでないから、能く誤解を為さんやうにして戴かなければならぬ、成るたけ其事に専らに其内に事務を能く呑み込んで、それに従事して能く怠らぬといふ観念を有つて余まり高尚なる望みを持たぬやうにせねば、決して学んだ丈けのことを十分に世の中に功能を現はすことが出来ぬである、昔しの教育は総て漢の高祖、太閤秀吉ばかりを作るやうになつて居たが、今の教育はそうで無い、其内にそういふ人の出来る場合もありませうが、又出来ぬ場合もありませう、併し多数の人が今申したやうな漢の高祖や太閤秀吉のやうな不規律の考へを有つては、決して世の中に位地を保つて往くことが出来ぬ、故に商業教育に従事したものは成るたけ我が分を守るといふことを考へなければならぬ、それから又此事業に就いて成るへくたけ種々なることを考へて、あれが宜からう、これが宜からうと、屡々自分の従事することを変更するといふことは甚だ宜しくない、成るたけ意を専らにして、初めて事業に懸かつたならば成るたけ遂げるといふ観念にせねばならんのである、今人間の一生に変化をせんならぬ場合もある、それは自然已むを得ないときに於て初めてあるべきもので、これから学成つたならば、例へば何れに向くか、或は雇るゝとか、或は又自分の親が斯ういふ発体をして居るから其手伝をするとか或は一身で身を立てゝ、何にか商売をするとか、各々方それそれに何れも身の程に従ひ、其事柄に就いて往くといふことにいたしまして、成るたけ其事柄に就いてやるといふ念慮で無ければならぬ、悪るかつたら隣りに往かうといふ浅果敢の念慮を以て従事するは到底世の中を益さぬのみならず、己れ一身の発達も遂には為し得られぬといふことを観念しなければならぬ、斯やうに申すと渋沢はとういふ位地であるといふお方もありませうが、私共屡々変化いたしました、今日の商売になりますまでには、四たび五たびも変化して、遂に商業家になりま
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した、併し其変化は実に已むを得ない場合であつて、其初め百姓から浪人になつてからは余まり已むを得ないと申さぬが、これは自身が求めてやつた有様でありませうが、其外は已むを得ないと申して宜からうと思ふ、そふいふやうなことは此実業界に於ては何れにもあると思ふのです、独り渋沢のみではありませぬ、これ等は皆な已むを得ない場合からであります、これから次に仕事を幾らもするといふことは宜くない、変化せぬと同時に成るべく従事し懸けたことは一つに止めるといふことでなければならぬ、あのことも此事も三つも四つも手を着けて往くといふことは成功を告け難い、これも直ぐ反問が出るであろう、左様に申すと渋沢はどうである、銀行家でありながら種々の事業に関係してゐる、已に今日見ても銀行とか或は鉄道のことの為めに此処に来てゐるでは無いか、斯ういふ反問をするでありませうか、併しこれは私自分が好んで各種のことをするといふよりも寧ろ其位地で免かれない場合からするので、変化し得らるゝのであります、殊に私一身を以て果して此学生諸君に同じやうな境遇として論する訳に往かんのである、私一身は成るべく事を専らにしやう、一つに止めやうといふ精神は矢張り失はぬでゐるのである、況んや此事業にこれから先きに着く諸君に於ては、決して左様の種々なることに手を出すといふ観念では十分なる功を奏さぬものである、成るへく一つの仕事を成功しやうといふことを考へなければならぬ
尚ほ申し上げて置きたいのは、段々教育は進んで参るに従つて智識の働きは十分に出来得るです、併し今日の教育は智識の働きは十分に進め得らるゝが、扠て其真正なる志の働きに就てはどうも私は欠くる所がありはせんかと思ふ、即ち智育は立つても徳育が不足でないかといふことを恐るゝ、此徳育といふ中にも種々ある、単に只徳育といふてもが、只だ孝悌忠信と一概に言ひ切つて、それだけが徳育とも申されん、或は倫理とか道徳とかいふ教へも定つて此学校の課程中にもありませうが、どうも一体の風習が目前を間に合せ、又小成を以て安んするといふ気風が、追々智育の進むほど其弊を強めるかと私は憂ふるである、左様に人間が小さく塊まつて居ると、取りも直ほさずこれが鉢植ゑの松見たやうになつて仕舞ふ、一寸見た枝振りは結構かも知らんか、直きに風に触れでもすると倒るゝ、少し長い雨に遭ふと腐つて仕舞ふ、こういふ風にして言行の高邁といふ所は少しも無くなつて仕舞ふ、左なきだに御互ひ日本人の性質として物の感触は甚だ強いか、又耐忍の力は甚た弱い、殆んど此感触の強い耐忍の弱いといふことはどうしても此気量が大きくならんといふ一の恐れがある、これは英吉利人若くは亜米利加人あたりの剛毅な活溌な人に比較いたしますと、実に恥かしいやうな有様である、これが今の学問からして智識が堅まり甚だしきは目前の利益を得れば、これは寧ろ賢いと慾走ることになつて、商業の教へなどはどうしても利益とか損害とかいふことを以て先づ第一に心懸けねばならぬものであるからといふことで、此小利口といふものに対しては自然と人間か卑しくなる、若し商売人が軽蔑されたのもそれに原因したのである、そういふ事情であるから普通の他の教育よりは心懸けの持ち方で吾々は段々卑しくなるといふことは免か
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れぬことてある、其位地が然らしむるのである、加ふるに今の一分試めしの刻莨に依つて気象を剛毅にするといふことを養つて往かぬと、遂には日本の人が挙げて眼の前の儲けさへあれば、それで宜いといふことになる、若し左様に往きましたならば、此商業界は教育が進むほど位地が低くなるといふことを又恐れなければならぬやうになる、寧ろ其教育が挙つたならば或る場合には優れて力の強い人が出来たてあらうが、教育のあつた為めに人間が小さくなつて悉く商業人が小人島の人となつたと斯く申されるやうにならぬとも申されん、故に今申す通り己れの勤めるところに対しては如何にも大人しく気を小さく従事することに対しては傍き目も振らず誠心一意に、従つて心に抱く念慮は成るべく剛毅に活達にしなければならむ、人間の貴ふところは其処である、若し此念慮を欠いて往くと、今申す通り実際に商業教育はかりてない、渾べて教育が人間をして却つて其弊にのみ陥いらしめるやうにならんとは申されんのてありますが、冀くは此処に就学いたし且つ卒業さるゝ所の即ち満場の学生諸士は、今私のこゝに申し述べましたこと、第一には日本の商売は甚だ商業教育が必要である、斯やうに新潟市は力を入れて吾々に大なる費用を懸けて商業教育を与へて呉れるのてある、其精神には十分酬はねばならぬ、商業教育は此商業界に必要であるといふ第一段に申したことを能く御記臆なさるやうにいたしたい、第二段に此処に卒業したものは飽くまても熱心に其事業に従事し且つ志しを強く高く有つやうにして欲しいと思ふのてす、私は或る席て古今教育の比較を申し述べました其事に一言申し述べたのは何にも彼も昔しの教育法が悪るかつた、今の教育法が宜いと申しましても又今の制度が大層良いといふことは勿論褒めらるゝ、併し一つ悪いことは師弟の関係、生徒が恩誼に感するといふことに乏しいといふのは甚だ昔しに劣つて居る、苟くも学に就くものは恩誼に感するといふことは甚だ必要てあるから、これだけは昔しを忘れぬやうにいたしたいといふことを申し述べたことがございます、此一堂の学生諸子は即ち新潟市が斯く力を入れて諸子を教育するといふことに対しては、又此校長始め教頭其他の先生方が諸子の為めに十分に教育を与へられるといふ、即ち師恩に対しては常にこれを忘却せさらんやうにいたしたいと考へるのであります、これ即ち今の徳育の一つてある、其二点をどうぞ学生諸子は御忘却のないやうにいたしたいと思ふのであります余り益することも無くて長い間清聴を汚しました、これて御免を蒙ります


竜門雑誌 第一五七号・第六―八頁 明治三四年六月 ○若松に於ける青淵先生の演説(DK290163k-0007)
第29巻 p.491-493 ページ画像

竜門雑誌  第一五七号・第六―八頁 明治三四年六月
    ○若松に於ける青淵先生の演説
 本編は去る四月三日若松市有志者《(五月)》の招待に応じ青淵先生の述べられたる演説の要領なり
今回御当地を過ぐるに方りて此の如き盛んなる歓迎を蒙るは光栄とする処なり、予は嘗て中仙道の片田舎に生れたる一小民にして慶応の初め事情ありて京都に出て従一位一橋家の扶持を受くるに至れり、当時故松平容保公は京都守護職として同地に駐在せられしを以て其家臣た
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る外島・横山・柴・神保・広沢の諸氏と相往来して会津なる文字を記憶するに至れり、然れども其当時は維新改革過渡の時代にして語る処のものは勤王佐幕、聞く処のものは鎖港攘夷の可否を論するにありしを以て予は唯政治上軍事上の会津として記憶したるに過ぎざりき、而して其後職を大蔵省に奉じ明治六年其職を辞して実業界に入り再び広沢氏等と会して交を温むるや談多くは過去の追懐にしてまた政治軍事の外に知るを得ざりき、斯の如く予は早く既に会津を知りたりと雖も其知るや政治上の会津、軍事上の会津として知りたるのみなりし也、然るに明治二十七年頃に至りて岩越鉄道創設の問題起り、当時の知事日下義雄氏予を訪ふて語るに同鉄道開通の必要を以てし予の賛成を求めたり、其時予は同鉄道の開通は急務ならんも中央の資本家のみにて其業を起さんとするは不可能の事に属す、幸に地方資本家も之に同意し一致協和して事に当らば予も亦た努力する処あるべしと答へたり、日下氏即ち之を諒して地方を担任する事となりたれば、予も亦た三菱其他の資本家に説き遂に其事業に着手するに至れり、之れ予が政治軍事以外更に経済上に歩を進むるに至りたる也、然るに会津地方は古来武を尚び敵愾心に富める割拠的の気風を帯びたりしが、此気風今も尚改まらず、人民或は理論を固執して一致を欠き感情に逸して調和を思はず、即ち政治上軍事上の会津として知りたるは今に於いて尚真面目を改めさるに似たるものあるを知る也、由来我邦の弊とする処は人材は政界に偏重して国家の施設も亦た政治を標準とするに在り、之を泰西諸国が経済に重きを置きて外交軍事は皆経済を標準とするに比すれば太甚しき差異ありと云はさるを得す、試に見よ戦争は或は已むを得ずとするも家を焼き人を殺すは戦争の目的とする処にあらず、業を進め民を安からしめて国家を富強ならしむるを目的とする也、戊辰の当時に見るも若松の如きは兵燹にかゝりて一家離散し七千の士族中二千の戦死者を見るに至りたりと云ふにあらずや、今日に於いて思ふも惨状実に忍びさるものあり、然るに人之を怪まさるは我邦因襲の久しき未た其弊害を知るに至らさるが為ならん、彼二十七・八年戦役の如きも幾千万の巨資、幾千の生霊を失つて而して戦後奢移の弊風を輸入したるにあらずや、而して今日の経済不振を誘致したるにあらずや、今日の大問題たる事業繰延の如きも不振挽回の方策としては又た已むを得ざる処に属す、即ち専ら戦時にあるの思を以て消極的政策を採り而して不生産的の失費を戒むるは実に今日の急務と云はざる可らず、思ふに苟も理財を観るの人各々之を思はざるは無かるべしと雖も「三歳の童児之を知るも百歳の老翁尚之を行ふこと難し」とする如く種々なる事情の為に、見易き道理に就きて紛擾を免れさるものならんか、然れとも之れ経済上憂ふべきの現象たる也、然り而して若松市の如きは戊辰当時の惨憺たる災禍を過きて今日に至りたるは、之を三十年間の進歩創設にかゝるとせば即ち喜ぶべきも、若し戊辰前の市街と経済を継承したるに過きすとせば甚だ遺憾とせさるを得す、然らは即ち若松市の如きは国家の消極的方策を採らざる可らざるに反して、大に積極的方針を採るの必要あるに非らずや、今日の状態を改むるは第一交通運搬の便を開くこと、第二金融機関を設備することを以て、最大急務
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となすべき也、一例を挙ぐれば岩越鉄道の如きは未だ全通の運に至らず、且つ地方に於いても之が利用に努めずと雖も三十二・三両年度に於ける各半期の統計に見るときは物産の輸出は日を追ふて増加するの傾向を有する之れ注目すべき現象にあらずや、而して予は此地に来り只見川・大川を渡り東山に泊し白虎隊墳墓、旧城趾を観たりと雖も他に経済上の設備事業に至りては未た見るに足るべきものあるを知らす之れ誇るべき事なるか又た将来の進歩発達を予期し得べき事なるか此山川あり此沃野ありて而も水利、電力等の利用を為さざるは必らずしも地方の為に思ふて喜ぶべき事に非らざるべし、予は此等の点に於いて諸君の注意を請はんと欲す、而して予は岩越鉄道以来会津と関係を作りて、今日此地に来りて優遇を受く、実に感謝に堪へず、予は今回新潟より若松に来りて百聞一見に如かずと云ふ古人の言我を欺かざるを知れり、其鉄道問題に就きて考ふる処のものは、機を見て発表する処あらんとす、然るときは諸君も亦た協力幇助するに吝ならざらん事を望む