デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

3部 身辺

8章 住宅
■綱文

第29巻 p.613-616(DK290196k) ページ画像

明治9年8月26日(1876年)

是日栄一、深川福住町四番地ニ移転ス。


■資料

渋沢家文書(DK290196k-0001)
第29巻 p.613-614 ページ画像

渋沢家文書                (渋沢子爵家所蔵)
○上略
九年四月十八日 深川福住町四番地所宅作悉皆ニテ価壱万五百四拾円ニテ買入夫々修繕七千余円ヲ費シ出来ノ上八月廿六日御引移相成候事九年七月十一日 五番地所及建物買入千六百円ナリ、十二月廿日 九番地家作買入九百八十円ナリ
十年十月御表座敷新築ニ着手、十一年十月落成
 - 第29巻 p.614 -ページ画像 
十一年四月廿三日 七番地土蔵一棟住宅共今津や後家ヨリ買入候代金九百六拾円ナリ
同年同月日 七番地土蔵及地所三百三拾五坪弐千四百四十円買入代大村五左衛門ヘ仕払候事、三百円一口
○下略


青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第九三九―九四〇頁 明治三三年六月再版刊(DK290196k-0002)
第29巻 p.614 ページ画像

青淵先生六十年史 竜門社編  第二巻・第九三九―九四〇頁 明治三三年六月再版刊
 ○第六十章 家庭
    第二節 邸宅
○上略 明治六年官ヲ辞シ、実業ニ従事スルヤ、移テ日本橋区兜町ノ邸ニ居ル、其後明治九年深川福住町ニ移ル、是ヲ本邸トス、明治十二年七月別邸ヲ北豊島郡王子ニ造リ居ル、明治二十一年十二月先生関係事業益々多キヲ以テ、事務ノ便宜ヲ計リ事務所ヲ日本橋兜町ニ置ク、先生多クハ兜町ノ事務所ニ居ル。招客或ハ保養ノ為メ時々深川及王子ノ邸ニ到リ数泊ス
深川福住町邸ハ明治十年十月名工清水喜助ノ造ル所ニシテ、檜及黒柿ノ良材ヲ用ヒ、天井ハ神代杉孔雀目ノ一枚板及赤桐ノ一枚板ナリ、欄干《(間カ)》ノ葡萄及柿ノ刻物ハ名工堀田瑞松ノ刀ニシテ、当代ノ傑作ト称ス、庭ハ一面ノ池ニシテ海ヨリ潮水ヲ引キ、灯籠木石凡ナラス、風景愛ス可シ、徳川前征夷大将軍慶喜、臨眺殊復奇ノ五字ヲ書シ賜フ、之ヲ木刻ノ額面ニ造リ楼楣ニ掲ケリ
○下略


渋沢倉庫株式会社三十年小史 利倉久吉編 前付折込ミ 昭和六年九月刊(DK290196k-0003)
第29巻 p.614 ページ画像

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(芝崎確次郎) 日記簿 明治九年(DK290196k-0004)
第29巻 p.615 ページ画像

(芝崎確次郎) 日記簿  明治九年     (芝崎猪根吉氏所蔵)
明治九年第四月十六日 日曜
 本日主人公並湯島先生同道ニテ、深川福住町飯島喜左衛門屋輔再見分トシテ出張相成、営繕向御協議之上御帰邸
十七日
 本日夜ニ大工清水喜助並手代壱人出頭、営繕向有増取調方被申渡帰《(荒)》
十八日
 大工再調とシテ出張ノ事
 本日弥買入候事ニ決着、第六大区務所ヘ旧地主北岡文兵衛代酒巻並当方ヨリハ鈴木善助、是ハ証文並金子受渡しニ付主人代小生罷出、 区長外出之差支券面書換ハ更ニ翌日と相約し、帰リ懸ケ地所長家引継受取候事
十九日
 約之通双方区務所ヘ罷出取引皆済、鈴木善助殿主公名代とシテ区務所江罷出、取引済売渡証書等所持帰宿、同日銀行元方書記課ニおゐて地券面書換願書類御下命ヲ受取調候事
二十日
 土蔵守並家守両人従前之引継取調とシテ鈴木善助殿ヲ別段依頼、芝崎同道午後第三時後出頭、両人面会先規聞合之上、更ニ従前之通リ相心得候様口達および候事
 序ニ内倉金蔵所有之造作向買受度、鈴木氏口入ニテ代金取極リ譲受帰邸之事、直ニ主人公江上申 ○下略
廿一日
 本朝未明ニ転宅披露、稲荷河岸より小船壱艘ニテ、家財深川江引移し候事
 ○下略
廿二日
 ○上略 旧地主より差置候留守居番弐人ハ、廿日夕刻出張之節弥取引相成候ニ付而ハ、勝手次第引払候様申付候得共、差向差支候ニ付両三日之処頼置、小生引越し候ニ付相帰シ可申、因テ両人飯料とシテ金壱円相渡し引払申渡し候事


はゝその落葉 穂積歌子著 改訂版・第三八―三九頁 昭和五年一〇月刊(DK290196k-0005)
第29巻 p.615-616 ページ画像

はゝその落葉 穂積歌子著  改訂版・第三八―三九頁 昭和五年一〇月刊
○上略
 明治九年の秋深川福住町に移転された。こゝは元、近喜といふ大きな商家の住居であつて、建物も大きく地所も広い。川に面した門から玄関までの間に、貸倉が並んで居て、米穀其外のものが出し納れされた。これが渋沢倉庫会社の元祖とも云ふべきものであらう。庭には大きな汐入りの池があり、放つた緋鯉が連らなつておよぎ廻つて居た様が、まだ目に残つて居る。それから庭には非常な大木の桜が二本あり一もとは染井吉野、一本は普賢で、春ごとに美しい花盛りを見せた。他所へ連れて行かるゝことの至つて稀な私どもの為には、其の二本の桜が春の命であつた。
 - 第29巻 p.616 -ページ画像 
 その後順々に客間・居間が改築された。建築は清水喜助氏が担当されたのであるが、木材の選択、建物の様式などは、母上の趣味によつて出来上つたものである。この建物は今も綱町邸に移されてあつて、其床の間に、毎年の御忌日に、御肖像と御霊位が安置せらるゝのである。御心を籠められた室の御霊前で、子たちや孫たちが集つて、御在世の昔を語り合ふのが例となつて居ることは、尊霊にも御満足遊さるることゝ思ふ。
○下略
   ○近喜トハ飯島喜左衛門ノ屋号近江屋ナルニヨリソノ略称ナリ。


清水建設百五十年 同史編纂委員会編 第四六―四七頁 昭和二八年一一月刊(DK290196k-0006)
第29巻 p.616 ページ画像

清水建設百五十年 同史編纂委員会編  第四六―四七頁 昭和二八年一一月刊
 ○第二篇 明治時代(一八六八―一九一二) 二代清水喜助
    渋沢邸の新築―唐獅子彫刻の不評
 三井組の三野村利左衛門を通じて渋沢栄一翁に識られることが出来た二代喜助は、築地ホテル館・第一国立銀行・為換バンク三井組を建てた技倆を高く買われて、明治十年(一八七七)十月、深川福住町の渋沢邸の建築に当つた
○中略
 特命を受けた二代喜助は、日夜精励して此の建築に従事し、その出来栄えは見事なものであつたという。
 建物の木材は檜及び黒柿を用い、天井は神代杉孔雀目の一枚板および赤桐の一枚板で、欄干には彫刻がしてあつた。庭は一面の池で、潮水を引き、灯籠・木石の配置にも充分に気を配つてあつた。
 二代喜助は特に思考した末、二階に昇る階段の親柱に唐獅子を取りつけることにして、有名な彫刻家に依頼してあつた。それが完成したので、養子の清水武治に取付けに持つて行かせたところが、渋沢翁は案に相違して大変な不興であつて、武治が如何に父の好意を披瀝しても取付けさせない。翁は却つて夫々の分に応ずべきを説かれ、武治は空しく其の獅子の彫刻を抱いて帰つて来たという。
 この建築は、明治四十年(一九〇七)に芝区三田綱町に移築されたが、現在は大蔵大臣の官舎になつている。
○下略
   ○右資料ハ刊行ノ際ニ追補セルモノナリ。