デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 東京市養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第30巻 p.166-168(DK300009k) ページ画像

大正3年8月1日(1914年)

是日栄一、当院安房分院ヲ視察ス。


■資料

九恵 東京市養育院月報第一六二号・第四頁 大正三年八月 渋沢院長の船形行(安達憲忠)(DK300009k-0001)
第30巻 p.166-167 ページ画像

九恵  東京市養育院月報第一六二号・第四頁 大正三年八月
    渋沢院長の船形行 (安達憲忠)
○上略
 八月一日午前六時三十分霊岸島発東京湾汽船会社の幸洋丸にて出発院長は令息正雄君と内藤執事を従へられ、院よりは伊丹医学博士・松本医員と予の三名扈従す、同日は晴天にて海上静穏、午前十一時船形に着す、本来なれば此船は北条直行にて船形には寄港せざるを、同社は院長の為に予定を変更して同町に寄せられしなり、同町長小宮由松氏・正木清一郎氏、町内の名誉職の人々数十人、及び院の職員諸氏の出迎あり、直に分院に車を駆り、院内一覧後、山の中腹なる四阿にて湾内を臨みなから午餐を供し、後校舎に休憩ありて正木氏等と会談后正木氏の好意にて午後四時より石油発動船にて鏡湾内を一周する事となり、先船形の正西に突出せる太武岬に着し、同所に上りて地形を一覧せられたり、同所は元海軍の射的場にて各軍艦の実射練習場たりしも、日露戦役後は一回も同所を使用したる事なしと云へり、夫より湾内に停泊せる第一艦隊六隻の間を縫ひて、沖の島・鷹の島の辺りを周遊し、午後六時頃那古に着し山田屋に入られたり。
 二日、昨日富浦村海水浴場に至り居られたる院長の令孫敬三君、院長を院に訪問あり、随て同家に宿泊せられしが、本日院長一行は敬三君を富浦なる高等師範学校の寄宿舎に送られ、十二時分院に帰還、院
 - 第30巻 p.167 -ページ画像 
内外を巡視ありたる後、職員一同へ訓示ありき。
 昨日舟遊中正木氏より、那古・船形二町の有志者院長の来房を好機とし、高説を承りたしとて懇請ありしかば、本日午後四時より分院の校舎にて一場の講話を約せられたるが、時刻に至り二町の有志者来集せらるゝ者八十余名、院長は支那漫遊に関したる所感・財政経済に係る事を、凡二時間に渉りて講話ありて、午後六時散会、山田屋に帰られ一泊、翌三日午前八時半船形より乗船、当日も亦幸に海上穏かにて午後一時半霊岸島に着す。
○下略


九恵 東京市養育院月報第一六二号・第一―二頁 大正三年八月 渋沢院長の訓示(八月二日安房分院に於て)(DK300009k-0002)
第30巻 p.167-168 ページ画像

九恵  東京市養育院月報第一六二号・第一―二頁 大正三年八月
    渋沢院長の訓示(八月二日安房分院に於て)
 今日各方を此処に呼びたるは、別に改つて仰々しく訓示などゝ申す訳でもない、私は殆ど毎月十三日には本院や巣鴨分院には必ず参りて常に協議もする、多忙ではあるが職員一同にもお逢をもするが、当地は遠方でもあり、参る事も少いから、各方に会する機会も少い、今度久し振りに参りましたから、一応心得方に就てお話をして置きたいと思ふ。
 凡そ事を為すには何事に依らず常に親切なる心を以てする事が肝要である、特に本院の如き生きた人を取扱ふ事業に従事するには深切でなければならぬ、況して児童の世話をするのであるから、真情から発する深切がなければ其効を奏する事が薄い、吾々は兎角口で言ふだけで、行ひに尽すことが少いのである、世の中には口と心が別々になつて居る者が往々ある、是は卑近な例であるが芝居茶屋のおかみさんが甲のお座敷のお客は芝翫が嫌で団十郎贔負で、乙のお座敷のお客は団十郎が嫌で芝翫贔負である事を承知して居るので、甲の座敷へ来ては団十郎を褒め立るかと思ふと、隣の乙の客の前へ出ると反対に団十郎を貶して芝翫をほめる、是等は心に誠がない、其場合に依てよい加減にやるので、口と心が別々な証拠であるが、口と心のみでなひ、口と心と行ひが別々である、斯の如く口だけの者、心と行と一致せぬ者、口と心と行と一致せぬ者、皆是が真情の伴はぬもので、深切らしくても真情の伴はぬものは、其深切は届くことはないのである、従て事業の成績は挙らぬ、此分院は御承知の通り四十二年に勝山から移て来たので、児童の病気に罹て死ぬ者が多ひ、之を防ぐのは保養所を海岸に設けて弱ひ子に保養をさすが宜しひと云ふので試みたのが原因である試験の結果果して奏功著しひので、此所に分院を設立するに至つたのである、如何に土地が善良でも、方法が完全でも、之に従事する人々の深切心が不十分であれば実功を奏する事は困難である、是を第一の心掛とせねばならぬ。
 元来斯る場所に育てらるゝ児童は、やゝともすると憂鬱に陥り、因循になり易ひ、即ちいぢけ易い、余程以前の事今日の幹事の位置に置てあつた人に飯田と申す人が居た、其節私も数々院に来て子供を見るに、どうも元気で活溌な様子をして居るものが少ひ、是ではいかぬと思ふて色々事情を糺して見ると、余り厳格な躾けをしようとした結果
 - 第30巻 p.168 -ページ画像 
であると判た、其時に種々考へて注意をした事であるが、全体児童は依頼心の強ひものである、其所に顛ぶと泣くのは何も痛いので泣のではない、悲しくて泣くのでない、求むる所があるので泣のである、例へば親がおうおうと走り来て起して遣るとか、菓子の一つも貰ふ、是が児童の泣く目的である、之を考へて見ると泣くのは一の希望である云ひ変れば一の快楽であるとも云へる、若し泣ても笑ても頓着せぬとしたら如何、此依頼心即ち一の希望を取り去つて仕舞ふのである、児童を扱ふものは此状理を能く会得して、此依頼心を利用し、之を処したならば、今少し元気に今少し活溌に育ちはせぬかと申した事があつたが、其後に来た木下栄次郎と申人は此点に大に意を注で、爾来余程改て来たのである、夫も是も皆真情からあふれ出る深切の取扱ひでなくてはならぬ、特に弱ひ児童、病弱な児童などは充分の功を奏する事が出来ぬと考へる、願くは各々方が右申す如き深切を以て、忠実に職務を励まれる様にしたい。