デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 東京市養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第30巻 p.174-175(DK300011k) ページ画像

大正5年12月8日(1916年)

是日栄一、当院ニ至リ、事務員一同ト事務室楼上ニ会シ一場ノ訓話ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正五年(DK300011k-0001)
第30巻 p.174 ページ画像

集会日時通知表  大正五年      (渋沢子爵家所蔵)
十二月七日 木 午前十時 東京市役所ヘ御出向(養育院予算委会)
十二月八日 金 朝    養育院ヘ御出向ノ約(前九時頃ノ筈)


九恵 東京市養育院月報第一九〇号・第一―三頁 大正五年一二月 執務者に斯の信念を望む(養育院々長男爵渋沢栄一)(DK300011k-0002)
第30巻 p.174-175 ページ画像

九恵  東京市養育院月報第一九〇号・第一―三頁 大正五年一二月
    ○執務者に斯の信念を望む
               (養育院々長 男爵 渋沢栄一)
 本篇は本月八日渋沢本院長が事務員一同と事務室楼上に会して訓話せられたものなり。由来院長の一言一句は毫も奇峭絶壁の痕なく、平々坦々たることさながら孔夫子の言の如し、彼の中庸に所謂放之則弥六合、巻之則退蔵於密、其味無窮、皆実学也、この語以て訓話の抽象的解釈とすべし、吾人は爰に丙辰の年を送るに当り、読者諸子と共にこの無限の醍醐味に飽くことを得るは、聊か本誌の光栄と信ずる所である
 皆さんとこの清かなる一室に会してお話するといふことは、私の寔に満足に感ずる所である、私は毎月十三日に本院へ参りまして院の庶務を聴取し、種々の出来事を処理して居るが、何故にこの十三日を選んだかに就きましては大に意味のある事であります、爰に本院の由来を説明して其点を明にしよう、元は重複の嫌なきに非らざるも、新に奉職せられた方もあらうと信ずるので、極く簡単に御話して見やうと思ふ。
 明治三年の頃であつた、たしか露国の皇族がお出でになるといふことで、当時市中に浮浪しつゝある乞食二百名許を狩つて、これを非人頭の車善七なるものに依託した、所がこの非人の善後策に就て当時要路の有司が夫れ夫れ協議の結果、曩に車善七に依託しあつた非人どもを一時旧加州藩邸に移し、次で上野護国院の堂宇を買収してこれに収容したのである、この非人救護の費用並に収容所の諸費は、松平越中守定信公の遺策に因れる市の積立金所謂七分金なるものを割いて支弁したのであつた、即ち公の遺志を継紹したことになるので、本院は実に公の遺徳に因つて成立したのである、明治七年私が本院に関係し、院長として本年まで殆ど四十三年の春秋を閲みして居りますが、私は深く楽翁公の人格に敬服し、終始公の志を以て私の志といたしてゐます、寛政年間公が老中となつて天下の政事を左右せられたる時代は、彼の田沼意次が幕政を頽敗せしめたる後であつたので、其苦心の程も実に思ひ遣らるゝのであつた、加ふるに天明の飢饉で蒼生塗炭の苦みに遇ふた時であつたので、公はこの幕政の挽回と共に仮令一身一族を犠牲に供するも民をして其堵に安んぜしめんことを欲し、天明二年正月窃に心願書を本所の吉祥院に納められたのである。
 - 第30巻 p.175 -ページ画像 
其心願書は実に熱誠の籠つた、読む人をして其強き信念に深き感動を与へしむるものである。
 「天明八年正月二日、松平越中守義、奉懸一命心願仕候。当年米穀融通宜く、格別の高直無之、下々難義不仕、安堵静謚仕、並に金穀御融通宜、御威信御仁恵下々江行届き候様に、越中守一命は勿論の事、妻子の一命にも奉懸候而、必死奉心願候事。右条々不取調、下下困窮、御威信御仁徳不行届、人々解体仕候義に御座候はゞ、只今の内に私死去仕候様に奉願候、生きながらへ候ても、中興之功出来不仕、汚名相流し候よりは、只今之英功を養家之幸、並に一時之忠に仕候へば、死去仕候方、反て忠孝に相叶ひし義と被存候、右の仕合に付、以御憐愍、金穀融通、下々不及困窮、御威信御仁恵行届中興全く成就之義、偏に奉心願候 敬白。
 この心願書は当時誰れ一人知るものもなかつたが、明治維新の際不図もこの心願書を寺院中に発見したのであつた。其心願書に就て公が当時の心事を忖度すれば、実に賢宰相として推重するに足るばかりでなく、其民を思ふの情の切なると、其主に忠なるの態度とは、歴々として文字の間に顕はれ、熱烈なる血涙は実に全紙を湿ほしつゝあるのである。我国歴代の宰相中果して公に対して慚色なきや否は、私の大に遺憾とする所である、私は本院の創設が公の遺徳によると、公を推重するの念切なるものがあるが為め、公の命日たる十三日に必ず院に来る事として居るのである。
 こゝに於て私が皆さんに対つて是非とも要求せねばならぬことは、楽翁公の遺志を継紹することである、公の事業が深き信念の基に出発し、凡ては精神的なるが如く、皆さんの仕事も凡てに精神的ならねばならぬことである、強き信念の基に活動して頂きたい事である、兎に角今日に至つては収容者数二千六百人以上に達してゐるのである、縦し是等の多くのものが自得自業の結果として見た所で、彼等と雖も同じ人類である、同じ人類であれば、其前生涯は如何やうにあれ同情といふことが必要である、彼の論語篇中にかやうな言葉がある、曰く、己れ達せんと欲せば先づ人を達せしめよと、彼れに同情し彼れを救済することに努むるは、己れ達せんとせば人を達せしめよとの意義に合致するものである、又曰く、夫子の道は忠恕のみと、忠恕とは即ち仁であり、愛であり、慈である、人たるものは飽くまでも肝腑より迸出する所の真実心を以て人を遇せねばならぬものである、況んや皆さんは現在の地位並に職務上よりして、猶一層彼の所謂誠心誠意を以て職務に従事せねばならぬ、勿論学問智識といふものも執務上最大要件ではあるが、苟も誠心誠意を欠くに於ては、事業の内容の空疎となるはいふまでもないことである、猶種々披瀝することもあるが、要するに至誠天地を動かすといふことをば、皆さんの念頭に置かれんことを希望するのである、実は十三日に参るべきであつたが、医士が強ての勧告に従ひ、近く転地静養の途に上らねばならぬので、十三日を繰りあげて今日にいたした次第である云々。(文責記者にあり)