公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
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明治43年9月18日(1910年)
東本願寺輪番大草慧実ニヨリ、深川区西町ニ第二無料宿泊所設立サレ、是日、開所式ヲ挙行ス。栄一之ニ臨ミ祝詞ヲ述ブ。
渋沢栄一 日記 明治四三年(DK300041k-0001)
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渋沢栄一 日記 明治四三年 (渋沢子爵家所蔵)
九月十八日 快晴 冷
○上略 二時深川西町ニ抵リ、第二無料宿泊所開所式ニ列席シ一場ノ祝詞ヲ述ブ ○下略
竜門雑誌 第二六九号・第四六頁 明治四三年一〇月 ○青淵先生無料宿泊所の開所式に臨場(DK300041k-0002)
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竜門雑誌 第二六九号・第四六頁 明治四三年一〇月
○青淵先生無料宿泊所の開所式に臨場 深川区西町四十一番地に設けられたる「第二無料宿泊所」にては、九月十八日午後一時四十分開所式を執行したり、門には日章旗を秋風に翻へし、横手の蔀に藍色のペンキにて「第二無料宿泊所」と筆太に記され、式の執行所は二階の三十畳敷の広間にて、西手に一間の仏壇あり、灯明に反射する真鍮の香炉、供物抔神々しく供へられ、軈て所長大草慧実師以下参列の僧侶歎仏偈を唱え、次で青淵先生約三十分間に亘り、国家経済上貧者弱者を救はざる可らざる所以を説き、尚ほ長谷川内務書記官・田川助役等の演説ありて式を終りたりといふ
東京市養育院月報 第一一五号・第一五―一六頁 明治四三年九月 第二無料宿泊所の開所式(DK300041k-0003)
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東京市養育院月報 第一一五号・第一五―一六頁 明治四三年九月
○第二無料宿泊所の開所式 東本願寺大草恵実師の創設せる本所若宮町なる無料宿泊所は、其事業の拡張と共に今回第二無料宿泊所を深川区西町四十一番地に新設し、九月十八日午後二時を以て開所式を挙行せられたり、当日の来賓は約百五十余名にして、式次は左の如くなりしと云ふ。
讚仏
大草所長の挨拶
渋沢男爵の演説
長谷川内務書記官の演説
大谷教学部長の祝辞朗読
東京府知事代理比村事務官の祝辞朗読
東京市長代理松尾庶務課長の祝辞朗読
田川市助役の演説
植木深川区長の祝辞朗読
日東新聞社長の祝辞朗読
安達養育院幹事の演説
右了て閉会せしは同三時半にてありき、同所は五十余坪の総二階建に
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て、七・八十人を宿泊せしめらるべく、労働紹介は勿論、食料実費販売昼間幼児預り等、凡て労働者に対する便宜を計る企劃中なりと。
東京朝日新聞 第八六五九号 明治四三年九月二〇日 ○寝る家のない男女(DK300041k-0004)
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東京朝日新聞 第八六五九号 明治四三年九月二〇日
○寝る家のない男女
▽深川の第二無料宿泊所で
▽日本の金持渋沢男の演説
十八日午後一時四十分、美しい一台の自動車が、深川区西町四十一番地の日章旗を掲げた家の前で停つた、馬肉屋やら鍜冶屋から駄菓子屋やら工場やら、一帯の空気が久し振の秋晴に濁つて、一種の臭気がする此の場末町に、日章旗と自動車は余りに相応しからぬ対照である
▽自動車の珍客 日章旗を掲けた家は三十坪ばかりの二階建、横手の蔀には藍色ペンキの大きな字で「第二無料宿泊所」と書いてある、今日は其の開所式を執行すると云ふので、入つた右手の座敷には、早やフロツクコートや紋付羽織袴の人々が詰め掛けて居る、此処に着いた自動車は誰あらう、日本で有数の大金持男爵渋沢栄一閣下とある、例のニコニコと左右に目礼しながら暗い階段を二階へ上る、式は午後二時十分から始まる
△南無阿弥陀仏 二階は縁無し荒畳の三十畳敷、西手には一間の仏壇があつて、赤色錦の打敷キラキラする奥には、御仏安らかに在ますのか、灯明に反映する真鍮の香炉など神々しい、式と云つても極く素朴なもので、所長大草慧実師以下参列の僧侶五・六名が、簡単な嘆仏偈を唱へたに過ぎぬが、次で渋沢男爵・長谷川内務書記官・田川東京市助役の演説、井上神社局長代理・阿部府知事代理・原田市助役代理・深川区長などの祝詞朗読があつて、案外時間を費した
△貧者と弱者と 無料宿泊所の二階で渋沢男爵の演説を聴く様になつたは、或る意味に於て日本の進歩である、男爵は黒い洋服の右手に白い手巾を握つて、卅分余も其の慈善事業観を述べた、貧者弱者に対する無料宿泊所の様な事業は、政治・経済にも交渉する処が浅からぬ、貧者弱者が死ぬるのを見殺しにするは、決して国家の為でない、然しこれを救ふには其道があると云ふ事を、大分突込んで汗を流して論じられた、特に貧者弱者と云ふ言葉は意味強く響いた
△寒いと増加す 長谷川書記官は独逸に於ける無料宿泊所の大きな事仏蘭西に於ける慈善事業の行渉つて居る事を述べて、此無料宿泊所も東京市内各区に一ケ所づゝ設定される様になりたいと結ぶ、殊に独逸の無料宿泊所が、夏季には毎日千五百人位しか収容しないのに冬季には四千人に増加すると云ふ最近の事実を述べて、浮浪者と気候の関係就職難と気候の寒暖などを云つたのは面白い、外では一群の少年が自動車を取巻いてガヤガヤと騒いで居る
△安宿に二万人 最後に養育院幹事安達憲忠氏の報告がある、明治卅四年四月本所若宮町に無料宿泊所を開いて以来、本年八月までに宿泊した人員六万千五百六十一人、内職業を紹介した者四千三百九十人、然し東京市の下層労働者で木賃宿に泊つて居る者は二万人ある、彼等は受負者の手を経て、東京市・逓信省・砲兵工廠などへ手伝人足に行
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くが、賃金一日五十銭・六十銭・六十五銭でも、下受負が口銭をハネるので、彼等の手には二十八銭乃至四十銭しか入らない
△最も高い汗税 考へて見ると実に高い汗税である、木賃宿に泊る労働者は一泊料八銭、三食十八銭、草鞋二足五銭合計三十一銭は、何うしても一日の生活費に入る、その位は誰でも儲けるけれど、受負者が三割乃至五割も天引くので困る、と云ふ様な実情も話した、式はこれで済んで、一同茶菓を饗ばれて帰る、此処の所長は東京監獄の教誨師沼波政憲師、木賃宿の富川町に程遠からぬ此処へ来て一夜の雨露を凌がねばならぬ程の不仕合せな人々よ、策二無料宿泊所は斯の如くにして開かれた(天)
〔参考〕日本社会事業名鑑 中央慈善協会編 第二輯・第七〇―七一頁 大正九年五月(DK300041k-0005)
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日本社会事業名鑑 中央慈善協会編 第二輯・第七〇―七一頁 大正九年五月
無料宿泊所(二個所)
第一無料宿泊所 東京市本所区若宮町三八
第二無料宿泊所 同市深川区西町四一
所長(太田信次郎)
事業 宿泊救護・職業紹介(其他保育)
組織 大谷派本願寺の後援に依り、同寺補給金・一般寄附金・補助金等を以て維持経営し、職員として所長以下理事三名・事務員二名を置く。
沿革 明治三十四年四月、浅草本願寺輪番大草恵実・東京市養育院幹事安達憲忠両氏の発意に依り、東京市浅草区神吉町に之を創設す。三十八年三月同市本所区若宮町所在の東京市所属家屋の無料貸附を受けて之に移転し、四十二年三月前記家屋の下付を受けて之を改築せり現在の第一無料宿泊所は即ち之なり。次で四十三年九月現所長太田信次郎・故田辺米造両氏の援助に依り、第二無料宿泊所を深川区西町に増設し、大正二年五月青山葬場殿一部の下付を受けて其改築をなせり尚ほ六年五月に第一無料宿泊所内に幼児昼間預り所を新設せり。
現況 大正七年度中の二個所合計宿泊延人員一〇、三〇六名(内第一、七、一七三名。第二、三、一三三名)之に対し職業を紹介したるもの九〇三件。無料を以て窮民を宿泊せしめ、一般宿泊は集合制度に依るも、自助寮(第二無料宿泊所附属)は寄宿制度を採れり。而して必要あるものに対しては就職の途を講じ、入院施寮の手続を取り、又一時の食を給与し、爾後の相談に応ずる等、応急的処置を採りつゝあり。現在建物第一無料宿泊所二棟四三坪、第二無料宿泊所建物一棟三五坪資産の総額九、二六八円、大正七年度の収支金各四、五二五円なり。
資産及収支(会計年度自四月一日至三月末日)