デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
2節 中央社会事業協会其他
1款 中央慈善協会
■綱文

第30巻 p.457-465(DK300048k) ページ画像

大正元年11月24日(1912年)

是日、王子飛鳥山邸ニ於テ当協会第五回総会開催セラル。栄一之ニ出席シテ一場ノ演説ヲナス。


■資料

慈善 第四編第三号・第一〇六―一〇七頁 大正二年一月 第五回総会(DK300048k-0001)
第30巻 p.457 ページ画像

慈善  第四編第三号・第一〇六ー一〇七頁 大正二年一月
    ○第五回総会
 去る十一月廿四日午後一時より、府下王子滝の川渋沢男爵邸に於て本会第五回総会を開催す、生江氏開会を告げ、原常務幹事会務会計の報告をなし、それより会長渋沢男爵の有益なる演説あり、次に会員久留島武彦君の児童に対する話方に就き極めて嗜味に富める一場の講話あり、最後に久米幹事長の挨拶ありて一先づ閉会せり。それより幽邃閑雅なる庭園内に於て、来会者一同に対する男爵よりの饗応あり、互に交情を温め各自歓を尽して、散会せしは六時頃なりき。当日の来会者は無慮二百名にして、感化救済事業講習会に出席せられたる講習員諸氏及市内及附近の救済事業経営者多数を占め、其他の重なる来会者は、会長渋沢男爵、久米幹事長、窪田・中川・留岡・安達・原の諸幹事、本場貞長・三宅秀・山中隣之助・小河滋次郎の評議員、五島子爵山岡中佐等の諸氏なりき。

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竜門雑誌 第二九五号・第七一頁 大正元年一二月 ○中央慈善協会総会(DK300048k-0002)
第30巻 p.458 ページ画像

竜門雑誌  第二九五号・第七一頁 大正元年一二月
○中央慈善協会総会 青淵先生には中央慈善協会会長たる関係より、同会の総会を兼ね、過般内務省に於て開会の児童保護救済事業講習会に出席したる全国各地の養育院・孤児院・感化院其他慈善救済事業に従事する人々を十一月廿四日飛鳥山邸に招かれたり、当日は同会の会員及前記講習会員の来着を待ち、午後二時先づ総会を開きて、事業報告及収支会計報告を為し、次ぎて先生の来会者一同に対する訓諭的演説及余興として久留島武彦君の児童訓話あり、終りて庭園に於て園遊会を催ほされ、来会者一同歓を尽して解散したるは午後六時なりき。


竜門雑誌 第二九七号・第三四―四三頁 大正二年二月 ○慈善事業に対する雑感(青淵先生)(DK300048k-0003)
第30巻 p.458-465 ページ画像

竜門雑誌  第二九七号・第三四―四三頁 大正二年二月
    ○慈善事業に対する雑感 (青淵先生)
 本編は昨年十一月二十四日午後より、王子滝ノ川青淵先生邸に於て開かれたる中央慈善協会第五回総会に於て青淵先生が講演せられたるものにて、本年一月三十日発行の同会機関雑誌「慈善」に掲載せるものなり(編者識)
△慈善協会の性質 今日は中央慈善協会の総会を拙宅に開催致し、且つ此程より児童保護のことに就いて内務省に開かれた講習会に御出になつた方々が近日御帰郷になるといふ時期に際して、それ等の諸君と相会して一日の談話をなし、聊か乍らも御慰を致したいと思つて協会の諸君と図りまして、遠方ながら尊来を願つた次第であります。場所の不便利と何んたる設備もございませぬのに遠方までの尊来に対し頗る恐縮いたします。けれども幸に雨も降りませぬから、どうぞお話が済みましたらば粗末な庭園ではありますが御随意に御散歩下さい、暫時でも御慰みになりましたら、催しました主人の此の上もない光栄と存じます、唯だ設備の不完全は幾重にも陳謝致します。
 中央慈善協会の会務及び会計は、只今原氏から御報道致しました。お集りの方々が皆協会員で在らつしやるかどうかは私は能く知悉致しませぬけれども、此協会が成立致してから相当な歳月を経て居るにも拘はらず、余り拡張を致しませす、又其経費も至つて軽微な金額でありますのは、不肖ながら私が会長の名を汚してをりますれば、自ら省みて慚愧に堪へない次第であります。併し今日協会幹部の人々も亦集つて居りますが、此中央慈善協会の主義は決して協会自身が仕事をしやうといふことではございませぬ、世の進むに伴つて、慈善事業は種種なる方面に発達して参ります。此発達して参るものを成るべく各自権衝を得せしめたい、各事業の連絡を付けたい、それにはどうしても或る統一力を有つやうな施設が必要である。嗚呼がましうても、吾々東京に於て此中央慈善協会といふものを組織して、何れの方面に企てられてある慈善事業に致せ、何れの地方に経営してある救済事務に致せ、成るべく其事情を詳かにして彼は過ぎる此は足らぬ、甲と乙とは完全に連絡か付いて居らぬといふことに見及ぶならば、遠慮なく其事を当局者へ注意し、或る場合には社会に発表もするし、或る事柄に就いては単に私設丈では出来ないことがある、政治の力に依らなければならぬこともある。さういふことを認めたならば、其筋に向つて斯く
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しなければならぬといふ意見を申告する積りである。左様なことをしやうと思ふには、成るべく一方に偏せず全体を網羅した考案を立てるやうにしたい。凡そ事物は俚諺の通り鹿を追ふ猟師山を見ずで、一方を見て驀地に走るといふことであるので、それがために事物の統一を失ひ、各部の連絡を誤ることがあります、殊に慈善事業は官制を以てするとか規則を以て組立てるとかいふことは、其性質上面白くない、詰り愛情とか慈悲とかいふやうなことが溢れて参つて成立つものでございますれば、別して一方に偏し易い、故に之を統一し之を整理せしむるために斯かる組織が必要であらうといふのが、此中央慈善協会を組立てた趣旨でございます。此趣旨に基きまして、私共始終各地に就いて調査を怠らず、或時は原氏の如き其の事に熟達致して居りまする人を派出して各種の事業を視察し、本部の評議を経て之れに対する意見を提出するといふことに致し来て居るのであります。故に会員の多きを求めず、勉めて其経費を節約し、本部だけで大いなる費用を費すといふよりは、各地の仕事の適切に経営される事に御力添へをすると云ふを主義として居ります。満場の諸君は私の元来陳述したることを本協会事務の微々たるお申訳を致すやうに御聴取り下さりませず、性質然るものであるといふことの御理解を御願ひ申します。尚会員の諸君は向後何か御気付もありましたら、何なりと本部に向つて仰せ越されん事を願ひます。
△慈善の意義 今日は幸に斯の如く慈善事業に熱心の諸君のお集りで折角拙宅に尊来を請ひましたのでございますから、私は玆に慈善事業に就きまして、単に児童のみと申さず、又た貧病者のみに限らず、慈善といふ大体に就て、平生の所感を陳述致して暫時の清聴を汚さうと思ひます。併し講習会に御出なすつた方々は、是までに毎日聴き飽きたと思召す位かも知れませぬ。其場合に於て一日の清閑を得やうと思ふて御越しになつたのに、又下手の長談義で同じやうなことを申上ぐるため、迷惑するといふやうなお叱言のないやうに、成るべく事短かに申上げますけれども、斯く御集会の際に只だ中央慈善協会の振はぬ御申訳と、遠方の尊来に対し其の接待の御粗末の申訳だけでは物足らぬやうでありますから、一言添へますのであります。
 私は慈善事業に就いては、成るだけ親切に且つ継続的に経営されて行くことを切望して居るのであります、然るに反対の説を為す人は、左様に何時迄も世の中に困難なる者の多きを望むのか、全体慈善といふものは一国が黄金世界になつた以上は、なくても宜いものであるなどゝ云ふ議論をする人もあります、けれども弥勒の世はいざ知らず、吾々の娑婆では如何に世が進歩しても、進めば進むほど貧富は懸隔して落伍者が社会に殖えるのは免れぬ数だと思ひます。
 左れば此の国を富まし進めると同時に、又貧者を救ひ貧に至ることを防ぐといふ務をせねばならぬと思ふ。蓋し是は人の慈愛の情の強い所から起るのであります。然るに我邦では是までに此慈善に付て大きな設備のなかつたのは、民俗の然らしむる処、国風の然らしむる所である、欧米諸国に於ては其施設か大きいが、日本は小さいといふのは日本人が慈愛心の薄いといふことではないのは明白である。此点に就
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ては別に弁解は要さぬ。お互の性質が落伍者を救ふ貧困者を憐むといふ情合は深いが、併し従来の習慣としては唯だ人を目前に救ふといふことが常となつて、所謂一般の風を為して居るといふて宜いやうに思ふ。臨場の諸君中には僧侶方も御出ですが、喜捨といふことは仏法で慈善に用ゆる言葉であります。例へば人が宮寺詣りに出ると乞食に銭をやる、又は或る場合に一時の寄附をしますのは喜び捨てるといふ仕方でありますが、今日の慈善と云ふものはこれで能事終るとは申せないと私は思ふ。慈愛と云ふことも無論必要でありますけれども、一歩進めたならば矢張り経済の原理に基いた考へを以て救済を行はぬと、真正の効果は奏さない。いはゞ慈善救済と云ふものは昔日は唯だ人情の発露を直ぐに現はすだけであつた。素よりそれが悪いことはないが世の進むに従つて慈善救済の方法も進化して、昔の可憫さうだといふ一念が発露しただけに留まるといふことは、此二十世紀の慈善としては決して適当のものではないと私は思ひます。故に前に申した様に組織的継続的の慈善で無いと、救済せらるゝ人に効能があるとはいへぬ一時の思付き慈善又は出来心慈善とでもいふ様なる救済方法は、成るべく避けることに致したい。お集りの諸君の中にはさういふ取扱をする方はないと保証致しますが、若しさういふものが他にあつたら成るべく其性質を改めさせるやうに御注意あらむことを切望いたします。
△救済の方法 同時にモウ一つ申上げますのは、凡そ救済方法は其程度に適当するといふことが甚だ必要である。例へば玆に貧民があつて病気に罹る。それで或る慈善病院に救養されると仮定する、其場合に病人は立派な寝台の上で満足なる治療を受け、薬用も完備してゐる、これは一方より云はゞ宜いに相違ない。然し此治療を受けた人は、病気が癒るとこれは一時の夢であつて、元の貧民となるから、さういふことをされぬ方が寧ろ宜かつたといふやうにならぬとも申されぬ。或は途上で物乞ひをする者の沢山金を貰つたがため、其一日は俄か分限の如く食事も満足に食べる。酒も飲んで愉快を尽すと云ふ事がないともいはれぬ。これは要するに与へる方が、適度を失つた為めである。斯の如きは決して経済的ではなく、寧ろ其人をして誤るやうな救済である、何れの土地に於て慈善行動を為すにも、其の貧者の程度を図つてやらねばならぬ。もしも程度を失すれば、例へば千人救はなければならぬのに、金に限りがあるので数百人しか救はれぬ、其の人数は兎も角もとして、適度を誤まらぬが宜しい。是は他人の寄附金に依つて其の事業を為す場合を申すので、自然金に限りはありますが、出来得るならば其地方に於て成るべく貧困者の多数を救ひおふせるやうにありたい。縦令全体を救ふことが出来ませんでも、其度合を図ると云ふことに就いては、是非充分の考慮がありたいと思ひます。
△防貧の方法 貧民を救助するといふ極度に至る前に、其貧困に陥るを防ぐといふことが甚だ肝要と思ふのであります。但此防貧といふことは別してむづかしうございます、既に窮迫なる人を一定の方法を以てこれを収容する、又は貧病者であれ、職を失つた人であれ、棄児であれ、収容して之を救ふと云ふことは、前に申した通り継続的経済的にやるなれば、其程度は分りますけれども、単に防貧といふに至ると
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余程むづかしい。唯だ救ふといふのとは話が違ふ。現に東京市養育院で頻りに努めて居ります職業紹介事業の如きは、防貧の一手段と申しても宜からうとも思ひます。此紹介事業も殆ど一年近く取扱居りますが、其大体を管理する私抔には、尚更ら其の真想が能く分りませぬ、日常従事して居る当務者でも、果して斯くあつて宜からうと申し上げ得るまでには至りませぬ様であります。併し其初めは求職者も需要者も大に其分量が違ひました。例へば百人の求職者に対して二割とか或は二割五分とか云ふ位しか職を与へ得られなかつたのが、追々求める者も慣れて来るし、応ずる方も慣れて参りますから、今日では求職者の五割位は紹介して職を得るまで進んで来たのであります。但し今日の所では求職者をして其職に就ける迄暫時の間が困る、総じて求職者は長く待つといふことは其人の余力がないから困難である。故に此待たせる間に何かの仕事を与へる趣向をしてやると、求める人も大に便利であり、又需要者も直きに其人を得るといふことになりますから、甚だ都合が好い。故に誰にも出来るやうな簡易な事業を紹介所へ備へて置いて、求職者は其所にて仕事に就いて居ながら適当の職業を求めさせるといふやうになると宜うございますけれども、紹介所で或る製作業を与へても、果して其製作品が其労働所に価するといふことも申されませぬ。多数の人であつて誰でも出来るといふ、例へば庭掃除とか道普譜とかいふやうなる日常の仕事をさせると宜うございますが、さういふ仕事を見付けるのが頗る困難で、此職業紹介の仕事も却々思ふやうには進んで参りませぬ。
△托児所と宿泊所 又各地方に必要かどうか分りませぬけれども、昼間子供を預る所謂托児事業が大都会には別して要用である。是も養育院では浅草の玉姫町に目下試験しつゝ居りまする。各地にも追々其企画があるやうに承知します。労働者の多く住居する所謂裏長屋といふやうな場所には、防貧法の一として適当なる趣向だらうと思ひます。是は欧米には能く見及ぶことでございます。田舎はそれ程必要でないかも知れませぬけれども、東京には相当な場所に十ケ所なり十五ケ所なり良い方法で設備せられまして、聊かでも預ける人が賃金を払つて其母親が安心してその子を委托し、日暮業が済んで帰つて来て伴れ帰るといふ都合好き仕組を立てましたならば、頗る宜からうかと思ひます、是等の労働紹介とか昼間保育事業とかいふ事の外、尚宿泊救護事業と云ふのがあります。
 東京市営の労働紹介所に於ても、三ケ所共に経営致して居ります。之は無料でなく有料ですが至つて安く、木賃宿へ泊れば一夜八銭であるが、其所に泊れば三銭で済む。是等の事業は皆養育院で取扱つて居りますけれども、院費でやるのでなく、東京市がさういふ仕事を試験して見たいといふので、昨年来一年ばかりやつて居ります、是等の設備は極く窮して職を失つたとか、或は宿泊すべき場所を失ふたかといふやうな人を単に救助するのでなく、即ち一種の貧を防ぐの方法といつて宜いと思ひます、更に一歩進んで東京市又は有志団体で便利の宜い貸長屋を拵へ、単に営利的でなく経営するやうになつたならば、防貧法には最も以て宜からうかと思ひます。然し是等の事は言ひ易くし
 - 第30巻 p.462 -ページ画像 
て行ふことが余程困難である、先年市内に大火災のあつた時に之に対する義捐金があつた。其金を基本として東京市が浅草の玉姫町に貸長屋を立てまして、其貸長屋の管理を目下養育院に托されて居ります。まだ今日の所では総体で百戸ばかりですが、割合は余程安い。是も大いなる防貧事業であらうと思ひます。若し是等のことが貧民の多く集まる所に各所に設けられましたら、各々此貧民の気風を善くし得るだらうと思ふのであります。私は玉姫町の長屋をして、他日細民の模範長屋たらしめたいと思ふて種々苦慮して居りますが、思ふばかりでまだ借家人の気風を改良せしめたとか、淳朴たらしめたとか申上げられませぬ。
△細民の金融機関 更に細民の金融機関に就て申し述べて見たいのは私は本業が銀行者であるから、金融上に就て維新後四・五十年以来の傾向を詳知して居りますが、細民の取引には烏金とかいふやうなものがあるそうですが、其実況を知り得ませぬのであります。東京其他大都会の融通は、欧米式の銀行が相当なる組織の下に経営して、其学術も応用されて、殆ど彼れに比肩する様に進歩して居りますけれども、今申す烏金式の金融は、改良の度合が甚だ鈍いといふて宜いやうであります。此相掠め相奪ふといふやうなる取引が廃されて、正しい情合に経営される貸借が行はれるやうになつたらは、それこそ貧民の多数が大に喜ぶだらうと思ひます。即ち一般の貧民気風を淳朴ならしむるだらうと思ひます。諸物品の売買に付ても其弊害の矯正すべきものが頗る多いと思ふ。蓋し此事は私は余り詳細に調査しては居りませぬが養育院の幹事安達憲忠氏が常にこれを苦慮せられ、此の点は斯く観察したら宜からう、彼の事は斯う講究したら宜からうと評議しつゝ居りますから、玆に愚見として大体を申述べて見るのであります。若し斯くの如く最下級の人々に対して、職を失つたら直ぐに与へる途があり家をなくしても低価で泊り得ることが出来る。又安い金利で貸借も出来る、日常必要の品物も安く買ひ得られる。貧民相共に相信じて各其約束を守るといふやうな気風になつたならば、其間の取引も円満に行はるやうになるに違ひない。然るに今日の貧民の中には、困窮の為めに借りたものを払はぬ人が多いから、遂に他の仕払をなす人々が其価を高く買ふ訳になる。故に結局仕払の出来ぬ人の多くなる程、貧民間の諸物品の価格は割合が高くなる。十円の借金が一ケ年に十八円の利子を要すると云ふやうでは、迚も生活難の声が減ずるものではない。要するに貧民中には多数仕払の出来ぬ人があるからさういふことになるので、段々と貸人がなくなる、其の中間の人気は険悪になつて来る然るに若し私が前に申すやうな有様に改良し得るなれば、貧民の総体の気風が質実になつて、従つて其取引が円満になる。吾人の理想としてはどうか斯く進めて見たいと思ふのでございます。併し僅かに前に述べた労働のこと托児のことに就て着手致したに過ぎませぬのでありますから、其他の事は唯だ希望を申上げるに止つて、何時行はれると云ふ事はまだ見越の着かぬのであります。
△児童の教育方法 更に児童教育のことに就て、平素考へて居る事を申述て御考慮を煩して見たいと思ふのです。養育院に収容致して居り
 - 第30巻 p.463 -ページ画像 
まする児童は概して千人ばかりであります。此子供はどういふ種類が集つて居るかといふと、窮民と称へる種類や棄児・遺児・迷児及び行路病人と称へる種類の集合であります。斯かる各種の種類を合計すると千に近い。其中二百人ばかりは乳呑子で里に出してございます。今巣鴨の分院に居りますのは軈て四百五十人、五百人にも近うございます。それから性質の悪い種類即ち不良少年は、感化部と称へて感化改良せしむる方法を講じて居ります。其人数が百五十人ばかりで、即ち井の頭感化院はそれであります。それから多数の児童の中には比較的結核性の病者が多いのであります。此病気は完全に治療する工夫はない。又其病者の平生の素質を良くするといふやうな衛生的方法も講ぜられぬ。特に東京は結核性にはよい空気ではないものでありますから先年房州に一つの保養所を作つて其所で保養せしめて居ります。保養といふと大層贅沢をさせるやうでありますが、唯だ良い空気を吸収させると云ふのであります。此保養所は唯だ病気の為めであるから、平癒すると東京に返します。是は単に保養を要する程の者でありまして病床に居る程の者でないから、普通尋常小学的の授業は彼所で致させます。そこで今巣鴨分院に収容して居る四百四・五十人の貧児をば、如何なる方法に依つて収容して居るかと申すと、養育院の基本金から生ずる歳入によつて経営して居る者は、それだけの財源があるから宜うございますが、棄児の如き東京市から費用を支給して居る分は勉めてこれを節約したいから、永く収容して置いては困る。成だけ費用を減することを予て市当局から命ぜられて居るのであります。故に是れ等の児童は引受人のあり次第に他所へ出すといふ事を努めて居る。極く少年の分は養子等に貰はれて行くのでございます、養子は余り大きくなると父子互に知り合ふから双方とも好みませぬ。故に大きい児童乃ち八つ九つ十歳位から雇預に出します、兎に角早く退院するといふことを努めて居る。如何とならば永く置けば置く程人数が多くなりますから場所も金も余計掛る。それで引受さへあれば成だけ出院せしむるといふ方針を取りて居ります。之に就て私は常に一の疑問を持て居ります。独り疑問のみならず斯くありたいといふ理想を持ちます、けれどもそれには相当の資金が必要である。即ち是等の児童に凡そ如何なる程度までの素養を与へれば世の中へ出して宜しいといふ、分量を立て教養してやりたい。例へば原則として十六・七歳までは必ず収容する。そして小学校課程を修了せしむるのみならず、適当なる職業を与へてやる。児童の性質によりては農業をもやらせる。工業もやらせるといふ有様に、概して三・四の科目に区別して素養を与へる方式を備へて、他日出院の後直に其職業で世に立てるやうにしてやりたい、斯くするにはそれ丈の素養を与へる工場が必要となります。又日々授業をさせるにも、工業の如きは電気であれ蒸気であれ、直接の設備をやらせると営業費が沢山掛るから、目下の処到底出来ない、拠所なく普通尋常小学だけで、後とは状袋を張らせるとか、粘土細工とか草履を作らせるとか、又女子には裁縫洗濯をやらせるとか、浴衣を縫ひ編物をさせる位で、余り上等の仕事はさせない。そして引受人のあり次第出院させることにして居ります。而して前に述べたる疑問といふは
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現今の教養で是を世に出して満足なる人間にするといふことはどうしても覚束ない。然るに棄児を集めて相手があれば他所へやつて仕舞ふといふのが、今日の養育院の仕事になつて居ります。故に是非とも今一歩進めたいと思ふけれども、費用を得ることが出来ない。併し私の理想と反対に、成るだけ早く世間に出して、其児童の才能に応じて個個別々に職業を与へた方が宜いか、まだ充分研究が積んで居らぬのであります、若し相当なる職業教育を与へる方が可なりとするも、それを行ふ資金がない今日の処では、東京市からは勿論、世間に向て其資金を募るといふても寄附金を得る見込が少ない。斯の如き有様で先年来苦慮して居るのであります。先年来養育院の本院と巣鴨の分院、即ち大人と児童とを別置せんと企望しても、市費では出来兼ましたから東京市の人々及本院の幹事以下と協議して、六年前院資増殖会といふものを起しまして、其募集金で今日の巣鴨分院が買い得られまして、児童だけは本院より分離したのであります。此の先き尚ほ東京市の繁昌と共に貧民も増して来ますから、市としても追々に養育院に力を添へて貰はうとは思ひますけれども、市も却々に種々なる事業があるものですから、何時も貧民救助・弱者保護などいふ事は忘れられるといふ有様で困って居ります。然し世の進むに関はらず救済事業は何時までも抛擲するといふことであると、国家の上に大いなる禍害を惹起さないとも言へないのでありますから、御同様此事業に従事する諸君は大いに力を尽して、其地方又は個人々々の余り迷惑にならぬ度合に於ては一層最善なる方法を講じ、漸次に拡張を図つて行かねばならないかと思ふのであります。
△生活難問題 終りに臨んで更に一言を添へたいことがあります。近来生活難といふ声が世間に起つて居りまして、新聞にも雑誌にも頻りに喋々されて居る。是は実に諸君と共に憂ふべき事である。但し此生活難問題が直ちに救済事業を妨害するとは思はぬけれども、相率いて其関係を増す傾がある。即ち生活難問題が高まれば高まる程、吾々の事業は増して来ると考へねばならぬ。此場合に於て地方の諸君に御注意を請ひますのは、今日一般の人気が唯だ謂れなく東京に集ると云ふ風である。単に東京のことは申しませず、大都会に集る傾向が強くはないか。是は各都会も地方も共に注意して、成だけ集中させぬやうに心懸けたい、地方諸君は能く注意せられて、謂れなく東京に出懸けることを防ぎたいと思ひます。大体上から申せば東京に人が殖ると養育院の入院者が多くなる。生活難の声が高まる程養育院の入院者が多くなる。本年の入院者は高い速度を以て増して居ります。毎年百人以内の増加であつたのが、明治四十五年度は殆ど二百人を越えたる増加になつて居る。今日の養育院の入院者の総計は二千百人になつて居る。
 昨年までは千八百人余でありました、故に一年に三百人に近い増加をして居る。蓋し東京に人が殖へると養育院にも入院者が増加する、東京の繁昌を増すのも必要でありませうけれども悪くすると其繁昌は増さないで養育院の繁昌を増すやうにならぬとは申されぬ。是故に将来御同様に心懸けて、都会に人を集中させると云ふ事は、生活難の声を高めるのであるといふに心して、相互に注意せねばならぬことゝ思
 - 第30巻 p.465 -ページ画像 
ひます。
 以上は思出の儘に弱者保護に関する大体の意見を申述べたのでありますが、只長たらしい愚見を申したに過ぎませぬ。
 折角の尊来に長談議を以て御馳走に代へたのは、私の為めには都合であったが、諸君の為めには嘸御迷惑であつたらうと思ひます。幸にお辛抱下されたことを深く謝します。