デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
2節 中央社会事業協会其他
1款 中央慈善協会
■綱文

第30巻 p.521-535(DK300061k) ページ画像

大正7年2月28日(1918年)

是日、帝国ホテルニ於テ当協会主催ニ係ルジヨン・シー・ベリー博士歓迎会開催セラル。栄一之ニ出席シ当協会会長トシテ歓迎ノ辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 大正七年(DK300061k-0001)
第30巻 p.521 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正七年     (渋沢子爵家所蔵)
二月二十八日 雪 朝来降雪三・四寸ニ及フ、寒気殊ニ強シ
○上略 午後五時帝国ホテルニ抵リ、米国人ベリー氏歓迎会ニ出席ス、但中央慈善協会ノ主催ナリ、食卓ニ於テ一場ノ歓迎演説ヲ為ス、食後ベリー氏ヨリ演説アリ、夜九時半散会 ○下略
   ○中略。
三月二日 晴 風強ク寒気殊ニ強キヲ覚フ
○上略 午前十一時兜町ニ抵リ、米国人ベリー氏通訳沢谷氏ト共ニ来ル、ハリス監督モ来会ス、依テ欧洲ノ戦乱ニ付基斯教《(督)》ノ尽力ノ足ラサル点ヲ詰リ、両氏ト種々ノ談話ヲ為ス、ベリー氏ハ四月中旬再ヒ東京ニ来ル由ナレハ、其期ニ於テ再会ノ事ヲ約ス ○下略
   ○中略。
三月二十日 曇 強風砂塵ヲ捲キ道路暗黒ニシテ咫尺ヲ弁セス
○上略 事務所ニ抵リベリー氏東京着後ノ宴会ニ付、デビス氏ト会話ス
○下略


渋沢栄一書翰 増田明六宛 (大正七年)二月二一日(DK300061k-0002)
第30巻 p.521-522 ページ画像

渋沢栄一書翰  増田明六宛 (大正七年)二月二一日    (増田正純氏所蔵)
  尚々ベリー氏夫妻招宴之場所ハ銀行倶楽部又ハ帝国ホテル抔可然と存候、為念申添候也
○中略
別紙 ○欠ク中央慈善協会より申越候米国人ベリー氏招待之事ハ、事務所ニ於て先約無之候ハ承諾いたし度候ニ付、取調之上ニて貴方より添田地方局長又ハ杵淵氏まて早々確答候様可被成候、来書ニ対して当方よりハ回答不致候間、是又御承引有之度候
○中略
  二月二十一日湯河原客舎ニ於て
                      渋沢栄一
    増田明六賢兄
           坐下
 - 第30巻 p.522 -ページ画像 
増田明六様         渋沢栄一
            要件
「大正七年《(鉛)》」
         二月二十一日


社会と救済 第一巻第六号・第五三〇―五三二頁 大正七年三月 中央慈善協会主催ベリー翁歓迎並講演会(DK300061k-0003)
第30巻 p.522-524 ページ画像

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社会と救済 第一巻第六号・第四六〇―四六七頁 大正七年三月 日本の監獄改良と往時の記憶(ジエー・シー・ベリー)(DK300061k-0004)
第30巻 p.524-532 ページ画像

社会と救済  第一巻第六号・第四六〇―四六七頁 大正七年三月
    日本の監獄改良と往時の記憶 (ジエー・シー・ベリー)
 私は今夕斯くして与へられたる此特権に対して非常に感謝するものでございます。此一堂に於て諸君と相会して斯く諸君に御目に懸りま
 - 第30巻 p.525 -ページ画像 
すことは、非常に喜びに堪へないものがあるのでございます。此所に御集りの方々の御話を拝聴して居る中に、如何にも諸君の心の中に非常に強い確なものがあつて、是が今諸君の従事して居られる所の働きに各々諸君を送つて居ることを考へる時に、私は唯此場の喜びでなくして、日本の将来の為に非常に喜ばなくてはならぬ、と申すは諸君が一同熱心に此慈善の事業に従事して御出でになるといふことは、是亦実に啻に日本のみならず、延いては東洋の支那の如き国々にまで実に此幸福を及ぼして行くものと考へて、此喜びに堪へない次第でございます。
 仮りに諸君が故国を離れて永く他国に御旅行をなすつて、暫くの後に郷里に御帰りになつたと御想像になる時に、其時に起る所の諸君の心の喜びは、実は今私の心の中に湛へて居る所の喜びでありまする。と申すのは私は嘗て永く此日本に住ゐをし、又働いた者でございますそしてそれが暫く亜米利加の方に帰つて居つて、再び玆に日本の本土へ帰つて来たのでございます。といふのは明治五年より明治二十六年までの間、丁度二十一年間私は御国に住ゐをし、且つ又働いたのでございます。其二十一年間は人生の最も壮んな時でありまして、其時代に於ける働きは凡そ実を結び、且つ又其当時の記憶といふものは深く人間の心の中に根差し、且つ又其当時の友情といふものは確に成立する所の時代でございます。そして例へば衛生とか、若くば医薬の業、殊に人道的或は宗教的のそれ等の方面の建設的事業に於ける働きの結果といふものが現れる時代であつたのでございます。其時代を日本に送つて居つたといふことが、実に私に取つて貴い記憶となつて存して居るのでございます。其間の私の働き、尚ほ又其時の色色な記憶は、今私の心の中に貴い遺産となつて存在して居るのでありまして、恐らく此記憶は私の生涯の続く限り、決して私の心を去ることはないと思うて居るのでございます。
 其当時のことを今想ひ起して見るならば、当時日本は実に亜米利加を愛して、そして亜米利加を信頼して居られた時代である。亜米利加も亦日本を愛しまして、日本の安寧幸福の為に鮮からず心を注いで兄弟のやうに、或は兄であつたかも知れませぬが、兎に角も兄弟の情を以てお互に親密に交つて居つた時でございます。然るに考へても洵に苦痛に感ずることは、何時の間にか両国の間に、一種の誤解と疑心とが侵入して参つたのでございます。此雲、此霧は実に日本に於ける亜米利加の友人或は亜米利加に於ける日本の友人を尠からず心配をさせ苦痛に感じさしたのでございます。併ながら信実と親愛、或は信頼の光は決して長く雲に依つて蔽はれし居るものではございませぬ、必ずや赫々たる光輝を発する時があるのでございます。両国の間に置かれたる所の此疑は、恰も一種の陥穽の如くありまして、どちらかの国民が其中に陥るやうに仕掛けてはありましたが、是は決して今日に至つて見るならば、我々が置いたものではございませぬ、我々が遣つたものでないといふことが明かに分つて参りました。是には一種の敵があつて、其敵が恰も小麦の種子に燕麦の種子を蒔き混ぜたる如き、一時の瞞着的の仕事を玆に致したのでございます。是が今日は分つて参つ
 - 第30巻 p.526 -ページ画像 
たといふことは、更に今日日本と亜米利加は今提携して、昔の歴史的信頼、愛の土台の上に立つて、唯今は親密なる交際を玆に恢復したといふ事実に依つて見て明かなる所でございます。
 最後の雲霧は先般石井大使が米国に御出になつた時に消散したと申して宜しいのでございます。石井大使が亜米利加に御越しになると同時に、亜米利加の国民は競ひ起つて同氏を歓迎したのであります。心より各々歓迎を呈したのでございます。実は此事実は亜米利加に居る所のお互さへも実に不思議に思ふ程の喜びの情を以て歓迎したのであります。或は大使御自身も予期以上の歓迎ではなかつたかとも考へるのであります。カリフォルニアの桑港に御上陸になつて、それから亜米利加の各市を御遍歴になつて、最後に東部のボストン市に御到着になる、先づ其間に、実に彼方からも此方からも、到る処満腔の好意、実に厚き友情を以て亜米利加国民は同氏を迎へたのでございます。此ことを見る時には恰も国民の上に立つ所の神が唯上からして亜米利加の国民を奨励し、刺戟し、一種の熱気を送られて、そして亜米利加の国民を旧との日本に対する所の友情に立ち返らしたやうなものと考へるより外はないのでございます。斯くして此事実に依つて見ても、今や実に両国の間の友情、及び互ひの愛情といふものは昔に立ち返つて実に変らない所の立場に返つて居ることを考へるのでございます。
 私は今回日本に参りましたのは、亜米利加にありまする米国伝道会社を代表して、今回日本に参つたのでございます。此伝道会社たるや凡そ百八年程前に出来たる米国に於ける会衆派に属して居る所の伝道機関でございます。此会社は基督の精神を啻に亜米利加国民にのみ止めずに、広く之を世界万国の人々にも斉しく要するものとして、此間に伝へむものといふ目的で、諸外国へ宣教師を送り出して居るのでございます。現に日本にも幾多の宣教師諸君がお出になつて居る。且つ又此宣教師諸君は、日本に於ける所の組合教会と、共同して働いて居るのであります。此日本に於ける組合教会の方々が私共を今回御招きになり、且つ又加へて日本に働いて居る宣教師諸君からも御招きを受けたに依つて、今回此一行が日本に渡来することになつたのであります。そして此渡来の目的といふものは、今後日本に於ては更に此基督の精神を要する所の色々なる働きが段々起つて来るに違ひない、且つ又日本に於けるばかりでなく、或は支那に於て、或は印度に於て、或は土耳其に於ても、各地に於て其精神が益々勃興するに違ひない、現に我々は是等の国々に啻に宗教を直接に伝へる所の人ばかりでなく、或は学校教師なども供給し、或は又看護婦、或は幼稚園に働く所の人其他文筆を以て立つ所の人々、有らゆる人々を、是等の国々に派遣して、そして此伝道事業の為に色々な方面よりして働かして居るのであります。是等の働きの結果、将来に於いては益々其事業の拡張を図らなければならぬやうになつて来ることが、現に見えて居るのであります。
 所が今日の時勢はどちらかと申しますると、ちよつと一時、其鋭を蔵めて、我等の勢力を暫く蓄へて置くといふ時機である如く感ぜられる、将来に於ける所の大要求に応ぜむが為に、今暫く鋭気を養つて行
 - 第30巻 p.527 -ページ画像 
くといふ時でありはしないかといふ考がありますので、そして日本に居る所の人々と能く其辺を協議を致しまして、採るべき所の方針並に働きに付て協議しやうと思ふのでございます。而して又之を協議する所の人に於きましては、啻に之を我々の教派の人には決して限りませぬ、例へば此所に在らつしやる所のハリス監督の如き、又は中央慈善協会長を為すつて居る所の渋沢男爵の如き、斯ういふやうな方々からも隔意なき所の御注意を受けて、そして最も適当なる方針と働きを考へ出して、将来に向つて活動を致したいものと思つて、玆に今回渡来した訳でございます。
 私は再び健康にして此日本に渡ることの出来たことを喜び、且つ又当時交りを結んで居りました所の熱心なる監獄改良に志す所の方々と相会することの出来ることを、非常に喜ぶのでございます。斯くして私の記憶は既往に遡つて、凡そ四十年の過去を今想ひ起さすのでございます。其当時一人の青年は亜米利加に在つて、其当時最も進歩したる所の監獄の制度を専心一意研究して居られまして、そして又一人の青年は敢て其人に劣らない所の熱心を以て、日本に於て其事業の為に尽瘁して居られたのであります。そして実は是等の青年の働きが、今日は実に立派なる実を玆に結び出したのでございます。想ひ起せば明治六年のことでありまするが、私が神戸に居ります時に、其当時監獄の補助をして居られたる所の一人の友人の勧めに依りまして、其折監獄内の囚人に流行をして居りました所の脚気病を診察し、或は之を治療する所の方法を見出すが為に、監獄の中に這入つて視察する機会を得たのであります。そして其働きを終へて今や監獄の門を出やうとして居る時に、私の眼に不図留つたのは、其当時獄則を破つたる所の一人の囚人が、今や刑罰を受ける所でございました。其囚人は俯向けに地上に横へられて、其両手は広げて、そして地上に打込んである所の杭に、手首がしつかりと結び付けてあるのであります。そして其の囚人の足も、同じやうに両方開いて後にある所の杭に各々しつかりと結び付けられて居るのであります。此囚人の傍には一人の頑丈なる獄吏が、竹を割つて之を又能く縛つてある所の四尺四・五寸位の長さの棒を持つて立つて居る、軈て彼は其囚人の先づ左側の方に立つて、其の竹の笞を振上げて囚人の股、又は臀部の柔かい所を目掛けてヒシヒシと打下ろしたのであります。凡そ幾回程打たれたか覚えて居りませぬけれども、凡そ二十五回若くば三十回程打たれただらうと思ひます。見て居ると最初は其笞を打下ろすと、其笞を受けたる肉は赤くなつて来まして、それから見るといふと其肉はピリピリと震へて来る、見る見る中に段々腫上つて来て、最後に其部分を紫色に変ずるといふ具合で実に眼も当てられないやうな悲惨な光景でございました。其当時に其所に居る所の監獄医が私に述べました話に依ると、此笞を受ける所の結果に依つて、度々根の深い、意地の悪い腫物が身体に生ずるといふ話でございました。其後数年で浦塩斯徳に行く途でございましたが丁度釜山であつたか、元山であつたか覚えませぬが、多分元山であつたやうにも思ひますが、同じやうな刑罰が行はれて居つたのを目撃致しました。其当時の囚人は見て居るといふと、凡そ獄吏に三つ程力強
 - 第30巻 p.528 -ページ画像 
く打たれやうに思ふと、其辺に立つて居つた所の見物の一人で、恐らく囚人の友人共であつたのでありませう、何か其囚人に対して信号めいたことをしたやうであります。此印しをするといふと、今まで打つて居つた所の獄吏の其笞が、初めはえらい勢で振上げますが、下ろす時はやんわりとしか、囚人の身体に触れない、そして打つ真似をしてどんどんやつて居るといふと、打たれる所の囚人は今度は痛くないのに矢張り痛さうな大きな声を出して、終ひまでギヤアギヤア泣いて瞞着を続けて居つたことを見ました。
 極く之を短かく申上げますと、唯此一言で足るのでありますが、実は其当時日本の監獄に於て見た所の有様は、嘗て欧羅巴の昔に行はれて居つた所の学説が、其儘まだ日本には応用せられて居つたのでございます。即ち牢屋をして若しも唯苦痛の場所といふ以外に何等かの設備をした時には、望んで其中に這入つて来る横着者に依つて一ぱいになつて仕舞ふであらうといふ此一つの学説である、デありまするから牢屋は唯単に囚人に取つては極めて苦痛の場所としてある以外に、何等の設備が無かつたのであります。然るに幸なことには此事実は最早過去のことになつて、諸君の御目には疾うの昔に留らないことになつたのでございます。そして実に此監獄を改良されたる所の功績、是等の事業に対する所の名誉は、実は諸君、今諸君の間に在る所の留岡幸助氏・原胤昭氏、及び小河博士、又大久保公、是等の人々、及び其人人と共に働いたる所の方々に対して、此名誉を捧ぐべきものと考へまする。且つ又是等の人々のみならず、是等のことは洵に改良すべきものといふことを実際に認めて、それ等の人々の言ふ所に同情をし、それを取入れた所の国民の上に是等の名誉は帰すべきものであると、私は実に是等の人々の為に玆に諸君に申上げるのでございます。
 今も昔も同じことでございまするが、総て改革の事業といふものは先づ青年の心の中に根差して参りまする、是等の青年は一種の幻を見ます、高い理想を何所からとなしに得て来るのであります。そして此幻の通りに我が生活を引上げたい、どうかそれに調和する所の生活を得たいものと絶えず考へ、其為に努力するのであります。且つ又之を其周囲に居る所の人々に訴へるのでございまする。そして彼等の其理想に動かされたる所の人々は、又其青年と同じ考となつて彼等の後ろにそれを印して行きます。斯の如くして世の中に輿論といふものが成立ちまして、そして此輿論といふものに段々国民が従つて行くといふ所から、遂に改革の事業が成立つて行くのでございます。で私の所には度々是等の青年がやつて参りまして、時々彼が有つて居る所の理想に対して進んで行く困難を訴へて参りまする。其時に私は是等の青年に対して決して一言も彼等を失望させるやうなことは申しませぬ、静かに彼等の言ふ所を聞いて、そして彼等の言ふ所の中に、何かこちらから助くべきことがあれば出来るだけ助ける、又忠告を与ふべきことがあれば極めて親切に忠告をして、決して唯一言も彼等をして失望させる様な挙に出でないのであります。而して実は此幻を見る所の青年が進み進んで、世の中といふものは段々に改革事業といふものが行はれて行くのでございます。欧羅巴に於て、或は英吉利に於て監獄改良
 - 第30巻 p.529 -ページ画像 
の実を挙げたる所のジヨンハワードの例に取つて見ても実は是であります。或は欧羅巴の文明及び歴史の方向を変じたる所の、彼の大宗教改革の基となつたるマルチン・ルーテルの生涯も、実は是であります或はクリミア戦争の苦痛を減じたるフロレンス・ナイチンゲールの働きも、此外に出でないのであります。或は彼の働きに依つて今日の如き広き意味に於て行はれて居る所のフラー・ハルトンの働きも、実は是であります。日本に於ては彼の新島襄氏の如き、実に基督教の改革の基礎をなしたる働きに於ても之を見るのであります。或は彼の孤児院を創立して、無告の孤児を立派な人間に育て上げた所の石井十次氏の働きに於ても等しく之を見るのであります。斯の如く考へ来る時には、私は此日本に於ても前きに申した所の青年達が、実に此貴い理想を有つて進んで行つて、其事業を成し遂げ、且つ又彼等のみならず、実に此日本に於ては幾多の青年が諸般の方面に眼を着けてどんどん進んで行つて、国民が洵に真面目で彼等の間に同情を有つてどんどん附き進んで行かれた結果として、今日あるだらうと思はれる、日本の万事の此改革を遂げられたることを考へて、実に喜びに堪へませぬ。且つ又今晩の如き実に諸君は貴い理想を皆御有ちになつて居る所の諸君であります、日本に於ける所の貧民、或は困窮者をして、益々高い所の地位に引上げて、彼等をどうか助けて日本国民の中の健全なる者に仕上げたいといふ所の諸君の理想といふものは、必ずや是亦実現し来る所の時機が来るといふことを、過去に於ける経験より考へて見て諸君の為に祝し、且つ又私は此ことに対して喜びに堪へない次第でございます。
 昔ユダヤの平原の上で、天の使が救主なる基督の誕生を告げましたる時に、其言葉の終りに「人には恵あれ」といふ言葉があります。是は聖書にある言葉でありますが、其意味を分り易く申しますれば「人には好意あれ」といふ意味でございまするが、此一言は実に其後人と人との間に関係を支配する上に、実に金鉄の法則となし来つたのでございまする。何故ならば此法則を破つた以上は、忽ち混乱といふものが湧き上つて参るのであります。玆に一人の親があるとして、其親が我子の犯す所の過に対し、一々余りに激しき所の体刑を加へ、身体を鞭打つとか、其他色々の肉刑を加へて行く時には、其子供の心の中に在る所の優しい、麗はしい所のものは段々働きをしなくなつて仕舞ひ却つて其反対の頑固な、卑しい所の性質が段々発達して来て、遂に親に反抗をするといふやうなことになつて参ります。教師が其生徒に対して余りに苛酷なる取扱を加へる時には、遂に其生徒をして同じくいぢけて、そして頑固にして、遂に其勉強も悪むといふやうな心を養成して参るのでございまする。或は政府に之を例を取つて見ましても、露西亜に於て多年見た所のやうに、其人民を苛酷に取扱ふ所の貴族政治は、遂に革命を喚び起すに過ぎないのでありまする、そして斯ういふやうな具合に、総てのことを尚ほお互の悪人、即ち囚人の上にも当嵌めることが出来る、即ち矢張り彼等の中にある所の愛、或は良い所のものを目掛けて取扱つて行かなければ、彼等をして余りに頑固なる訓練を加へ、若くば余り厳しい所の刑罰を彼等に加へる時には、遂に
 - 第30巻 p.530 -ページ画像 
彼等は益々劣情を段々発して行くやうになつて、寧ろ社会の友人といふことの代りに、社会の敵となつて立つて行くやうなものを玆に造り出すに過ぎないのであります。囚人は悪を為すやうな人でありまするけれども、猶ほ其人々の中にある所の愛の心、或は良心といふものを目掛けて、それを目当として行かなければ、到底此悪人を改良し、善人に立帰らせるといふことの出来るものではありませぬ。尚ほ此事実此理由を御疑ひになる所の方々が若しもありとするならば、それ等の人に対して私は、玆に一つの事実を御報告申して見たいと思ふのであります。
 是は昨年のクリスマスの時に亜米利加のオクラホマ州に起つた事実でございます。此オクラホマ州の知事ロバートウイリアム氏が、どうかして監獄に在る所の人々を善く導き、彼等を改良して行く所の良い方法はないだらうかと色々心を砕かれて、其方面に従事して居る人に対して忠告を御求めになつた結果として、玆に一つのことを発表せられたのでございます。それはクリスマスの丁度数日前に、監獄に在る所の囚人を集めて、次の如き宣告を彼等に与へたのであります。即ちクリストの為さるべきことゝ思ひ、且つ又是は人道……人間の為すべきことゝも考へ、且つ又人の互に兄弟であるといふことを実際に現はす為に、唯今私はお互達に告げる、即ち是よりして此監獄を出てそれぞれ家に帰つて、其家庭に於ける親愛する人々と共にクリスマスを守つて、さうして休んでもらひたい、而して玆に諸君の名誉に掛けて一つのことを誓つてもらひたい、来る一月の二日限りに諸君は再び監獄に帰つて来て、其看守の役所に戻つて来なければならない、さうして諸君が猶ほ社会に対して負うて居る所の負債を果す為に働かねばならないといふ、此一場の申渡しをしたのでございます。此ことを新聞に於て見ますると、私は其結果がどうであつたかといふことを知りたいと思ひまして、知事のウイリアム氏に宛てゝ、問合せの手紙を出して置きましたが、最早私が東洋に向つて出発する際で、到底家に返事を得たのでは間に合はないと思ひまして、私の乗る所のコレア号の方に送つて下さるやうに頼んで置きました。所が其手紙の返事を船の中で受取つたのでございまして、此所に持つて居る所の手紙が其返事でございます、是は知事ウイリアム氏の書記官である所のチエシター・ユージ・ウエストホール氏より私に宛てられたる手紙であります。其文言は
 知事ウイリアム閣下は、貴下の七月七日附の手紙に対して、御返事申上げるやうに私に御命じになりました、さうして知事閣下は先般オクラホマ州のミクアリスターの州立監獄及びライナイトの州立感化院よりして、三十九人の囚人をクリスマスの休みの為に家にお帰しになりました、然る所が其中の唯の一人も帰つて来なかつたものはありませぬ。さうして其唯の一人も一分間たりとも時間に後れて帰つた者はありませぬ。唯の一人も斯くして彼等の上に与へられたる信用を害する者もありませぬ。且つ又知事閣下は今回の挙は、平素獄内に於ける所の行状の良い三十九人の人々に与へられたることでございまするが、彼等の上に啻に良い結果を与へたのみならず、
 - 第30巻 p.531 -ページ画像 
其他獄中に在つてどうか良い者に成りたいといふ考を有つて居る人の為に、洵に良い感化を与へたと考へまする。そして彼等の心の中に獄中と雖も彼等の為す所の善行は之を認むる人があり、且つ又彼等の如きも猶ほ善事を為す機会を与へらるゝものであるといふ此感じを、彼等に確に与へることが出来たといふことを信ずる。
 斯ういふ返事を受取つたのでございます。此精神こそ、是が即ち監獄及び囚人改良の為に働いて居る所の人々の為に執らるゝ所のものであります。且つ又此精神を有つて居る人々こそ、実は多くの人々が成るべく後援を与へ、彼等に賛助を与ふべき所の貴い働きと精神であるといふことを、玆に明言することが出来ます。
 来る十一月を以て満二十五年になりまするが、其間日本を離れて居りまして、玆に二十五年振りに再び日本へ帰つて参りまして、そして私は、色々此日本に於て変つて居ることを実は見るのでございます。さうして或る人々からして「どうです、日本に於てどういふことを一番に変つたやうに御感じになりまするか」と言つて御尋になる人もございます。而して又大きな建物を指して「どうです、斯ういふ建物が貴方の留守の間に出来ました」と言つて、立派なる建物を指し示す人もあります。成程私の留守の間に立派な建築物は、あちらにも、こちらにも出来ました、まア此建物(帝国ホテル)の如きも立派でありませう、又東京の外の方の部分にも沢山の立派な建築物が建てられて居ります、実に是は立派なものであります。けれども有り体に申上げますると、私は斯ういふ立派な大きな建物が出来たからといつて、それを見て私は余り感服は致しませぬので、といふのは、斯んなものは亜米利加で始終私共の眼に触れて居ることでありまするから、日本へ来た所がどうも珍らしい大きな家、綺麗な家とは、甚だ失礼でありますが、感ぜられないのであります。併しそんならばどういふ方面に私は感じたかといへば、私は此日本の方々の精神の上に、非常な変化の起つて居る所の事実を、玆に認めない訳には行かないのでございます。どういふ精神の変化であるかと申しますと、四十年前に私が日本へ参りました時は、日本の方々とお互に相応対し、話をして居るといふと日本の方々の言葉は何だかどうも衣を着せたやうな具合で、何か霞を隔てゝ向ふの方を見るやうな具合で、はつきりしない、何か言はうとすると綺麗な言葉で之を包んで仕舞つて、何所が正体であるやら、どうも其人の本心を知ることがなかなか出来ない、何かするといふと、言葉で以て其本当の所を包んで仕舞つて置くやうな具合に御話が聞える、それであるからして、私共は向ふの人が実際どういふことを言つて居るかといふことを知るが為に、非常な苦心が要つたものでございます。然るに今回此所に参りまして多くの方々と御話を致しますると実にどうも非常な変化でございます。もう諸君の言葉の中には言々句句皆真情が溢れ、直ちに胸襟を披いて其胸中にある所の事柄を吐露せられるといふ其間に於て何等の間隔が無い、何等隔つて居らずに、実に赤裸々に諸君の衷心を吐露せられるといふことを認めるのでございます。亜米利加を立つて船に乗つて参ります其船中に、多くのそれ等の人々と話をするには、実に彼等の胸襟を直ちに披かれて、其心中を
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語り出てられるといふ心地好い行に対して、実に私は非常に愉快な感じを起したのでございます。過日も或る青年と、此ことに付て、どういふ訳で斯ういふやうな具合に昔と今との変りがあつたらうかといふことを語り合つて居ります中に、斯ういふことを見出したのであります。今から四十年前の日本は、未だ社会が全く変化を経て居らない過渡の時代にあつたのでございます。即ち昔の影響があつて、余りに何か自分の心にある所のものを其儘話すといふと、何所かの壁の隅、襖の陰の方で自分の敵となる人がそれを聞いて居つた折には、若し之を敵人に聞かれるといふと、由々敷身の大事が起るといふので、成るべく自分の心を包まう包まうとして、さうして実を吐かないやうにして自分の心と身を保護して置くといふやうな傾向があつたのでございます。所が今日の変化は実に驚くべきものであります。今日こそ諸君の間に本当の社会の改良・改革が行はれ、玆に諸君の間に本当の自由が来た、玆に出来たといふことを今日認めて、此事実に対して、非常に私は諸君に対して慶賀をし、且つ又私自身に喜ばなければならぬのであります。是はどういふ所から起つたかと申しますると、段々社会の改良と共に、諸君の精神の開発が出来て、さうして諸君の間に在る所の総ての大宗教家が諸君を導いて、此所まで至つたのであります。玆に至つて諸君は初めて自由の大光明に接することが出来、本当に人と人とが兄弟として交はることの出来る、此麗はしい所の社会状態に達せられたのでございます。斯くしてこそ本当の立派な社会状態を以て今は日本と亜米利加の人々が何等の間隔無しに、何等の隔て無しに、且つ又地位の上に於ても同じ地平線の上に立つて、互に兄弟として交はり合ひ、此ことは延いて段々東洋に於ける所の人々と共に、お互に兄弟として交はり合ふといふ麗はしい社会が、今後益々発展して来ることを私は認むることが出来て、実に衷心喜びに堪へないので、私が喜ぶと共に、諸君に対して満腔の祝意を表したいと思ふ次第でございます。諸君の御清聴を玆に感謝致します。


社会と救済 第二巻第二号・第七九―八二頁 大正七年五月 珍客ベリー氏と語る(中央慈善協会長 男爵渋沢栄一)(DK300061k-0005)
第30巻 p.532-535 ページ画像

社会と救済  第二巻第二号・第七九―八二頁 大正七年五月
    珍客ベリー氏と語る (中央慈善協会長 男爵 渋沢栄一)
 米国人ジヨン・シー・ベリー氏は、明治五年より二十六年まで、前後二十有一年基督教宣教師として日本に滞在し、近畿・中国の間に熱心布教せらるゝと同時に、我国監獄の改良・看護婦の養成・慈善事業の指導等にも尽瘁せられたる人であるが、当時余は同氏と相見るの機会なく、従つて談話の折もなかつた。明治二十六年に至り氏は帰米して、其後絶えて日本へ渡らるゝこともなかつたが、今回四半世紀を経て再び渡米せられたのである。
 是を以て我中央慈善協会は此遠来の珍客を迎へて其労を犒らはんが為め、二月二十八日を以て帝国ホテルに驩迎会を開催し、余は同会を代表して一場の祝辞を述べ、氏も亦之れに対する謝辞と共に「監獄改良と故人に対する記憶」てふ演題にて一場の講話を試みられた。之れ余が同氏と相見えたる最初の機会であつた。
 越えて二日、即ち三月二日の午前、ベリー氏は東京在住の米国宣教
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師ハリス監督を相伴ふて余が兜町の事務所に来訪せられ、長時間に亘りて楽しき会話をなしたのである。既に先夜一回の面識もあり、且つ意見の交換も行なひたる後なれば、相共に旧知を見るが如き感を以て腹蔵なき款談に時を移したのである。
 ベリー氏もハリス氏も共に宗教界の長老であり、且つ世人の尊敬する所の学者である。故に余は斯かる宗教家と胸襟を開きたる会談の機会に於て、近時余の胸中を往来しつゝある宗教に関する一の疑問を提出して其解決を得んと想ふて、両氏に対して左の如き問題を提起したのである。
 余は平素欧洲先進国の文明は、単に物質のみに偏依するものではない、真正の哲理と満足なる信念とによりて培養せられたる、所謂道徳的文明なるものである。仮令基督教の権威が物質文明の進歩の為に幾分其力を欧洲の社会に減ずることありとするも、然かも余は基督教の所謂天に在す神が欧洲諸国民の精神を支配することは今尚昔の如くにして、歳月の推移によりて変ずるものではないと確信して居たのである。然るに今日の有様は如何である。欧洲の天地は全然戦乱の巷と化し、幾多の不義・無道・残虐・暴戻は其国の為めてふ得手勝手の名義の下に堂々として行はれ、弱肉強食の実例は随時随所に之れを見るのである。昔日宗教改革の先駆者たるマルチン・ルーテルを出して名誉を荷ひたる独逸も、今は侵略政策の張本となりて四隣を蚕食し、物を奪ひ、人を殺し、他国の生民をして塗炭の苦しみに陥らしむるを以て自らの誇りとして居るのである。之れ果して何が故ぞや、若し天に全能慈愛の神ありとせば欧洲今日の現状を如何に見給ふてあらうか、而して今日の宗教家は、之れに就て如何なる見解を懐かるゝか。
 世界の犯罪は文明の進歩に伴ふて漸く減少するは、各国刑事統計の証明する所である。蓋し神は人をして幸ち多からしめんが為めに智識を与へらるゝのであらう。然るに其智識が進歩し、物質文明が発展するに従ふて罪悪が天下に瀰漫して、其極遂に今日の如き欧洲の惨劇を見るに至れるは、之れ神が人心を支配するの力を喪失しつゝあると言はざるを得ぬのである。而して之れに対する貴君等宗教家の説明は如何。
 特に余一身上の歴史より之れを見れば、目下の欧洲戦乱に就て転た感慨深きものあり。今を去る六十有余年前、嘉永・安政の交、余は紅顔の一少年で、幼時より東洋哲学即ち孔孟の道徳説に感化せられたものであつた。当時余は欧米諸国を以て巧智に富める物質的文明の国にして、其国民は即ち弱肉強食の虎狼の民なりと信じて居たのである。故に互市交易を求むるは即ち我日本を侵略せんと欲するなりと思ひ、切に鎖港説を主張したのである。之れ余が当時一介の田舎書生にして勿論宇内の形勢を審らかにせざりし罪なりしも、其後帝都に出で、更に欧洲に遊学して、聊か外国の事情を知るに至り、始めて余が当初の見解の誤謬を悟り、欧洲国民の宗教的道義の崇高なると、其物質的文明の進歩と共に、精神的文明も亦た大に優れるものあるを看取し、帰国の後、物質的文明を大に我国に起さゞるべからざるを覚へたのである。之れ実に明治初年のことであつて、爾来余は今日に至るまで日本
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の経済的事業発展の為め、金融に、運輸に、商業に、工業に対して、自己の微力を傾注して貢献する所があつたのである。目下老境に入るに及んでは、特に経済の発展と道徳の進歩とを一致せしめ、互に相背反せしめざらんことを努めつゝある。要するに過去四十有余年間に於ける余が努力なるものは、日本をして物質的文明に於ても、精神的文明に於ても、欧洲先進国に恥ぢざらしめんと欲するにありて、常に泰西諸国を以て標準として居たのであるが、図らざりき、今回の欧洲に於る軍国主義の惨禍は、余をして昔時青年時代の感想を再起せしむる有様となり、心中私かに昨是今非を叫ぶを禁ぜざることゝなつたのである。既往は追ふべからずとするも、早晩戦争終熄を告げ、欧洲の天地再び平和克復の時に当り、各国共に愈々軍国主義を助長し、所謂財力・兵力の競争となりて、宗教の力、道徳の行は益々萎微振はざることゝなるの虞なきや。此等の点に就て、余は貴君等宗教家の説明を聞かんとするのである。
 以上は余がベリー氏に対して発したる忌憚なき質問であつた。而して之れに対するベリー氏の答は、略ぼ次の如きものである。
 足下の発せられたる疑問に就ては、余輩も亦同じ懸念を抱きつゝあり。さあれ今日欧洲の天地に無道暴戻の行はるゝ、無道暴戻者あるが為めにして、神の力弱きが為めと云ふべからず。而して今後の宗教家は実に晏如として居るべきではない。よろしく奮起して、大いに世界の罪悪と戦ひ、人としても、国として自己中心の利我的邪念を去り、個人間の正義も国際間の道徳も共に進みて、利他博愛の精神を発展せしめ、弱肉強食の禍害の如きは、全然之を撲滅するに尽瘁しなければならぬ。然りと雖も此は唯意志のみの問題に非ずして、力の問題と言はざるを得ぬ。如何に道義心厚くとも、力あるものに非ざれば、他の邪念を匡正することは出来ぬ。足下の提起せられたる問題は、現に米国に於ても識者間に種々討論せられ、夙に余輩の胸中に湧起し居れば向後尚深く攻究せんと欲するも、余は今や関西に向つて出発せんとしつゝあり、望むらくは四月中旬再び東京に帰来して、更に日を期して相会し胸襟を開きて共に談ぜんことを。
 以上は之れベリー氏の余が問に対する答の大意である。事慈善救済に関せざりしと雖も、互に虚心坦懐を以て時局に関する宗教上の一問題を快談するを得たるは、余の衷心喜悦に堪へざる所である。
 因に云ふ。ハリス監督は当日所用ありて早く去りしにより、余はベリー氏と多く談話したり。且つベリー氏は能く日本語を操つらるゝを以て、仲介を要せず相語るを得たりと雖も、間々難解を感ずる箇所は同伴の沢谷氏通訳せられ、為めに相互の意志を充分に解するを得たるは、余の深く満足する所である。
 斯くて兜町事務所に於て会見したる三月二日の午後、ベリー氏は東京を発して関西旅行の途に上られ、翌三日大阪着の上、同地を初めとして神戸・岡山等を巡遊せられたる後、更に朝鮮に渡航し、釜山・京城及び其他の諸都市を視察せられて、再び東京へ帰着したるは四月十四日であつた。
 余は予てベリー氏の如き社会事業に趣味と経験とを有せらるゝ人々
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に、余が多年経営しつゝある東京市養育院の実況を一覧に供し、且つ其意見を叩かんと欲し居りたるを以て、氏の帰京を好機とし、翌四月十五日午前ベリー氏を初めとして、他の在京米国宣教師七名及び社会事業に関係深き朝野の名士十数名を招待し、大塚辻町なる本院を初めとして、巣鴨分院及び板橋分院を巡視し、夫れより王子拙邸に各位の尊来を請ひて午餐会を開き、宴後別室に於て懇話会を催したり。此席上に於てこそ、余はベリー氏と再び曩日の宗教論を交換せんと希望したのであつたが、事の順序として当日来賓一同の視察に供したる養育院の沿革及将来の施設等を説明することとなしたるを以て、為に長時間を費したるにより、窃かに期待し居りたる宗教談は遂に開始するに及ばずして散会することゝなつた。聞く所によればベリー氏は不日東北地方視察の為め東京を発し、帰京後間もなく帰来の途《(米カ)》に就かるゝ予定なりと云ふことであるから、余が提起したる世界の現状と、宗教の勢力に関する問題に就ての氏の説明は、遂に之れを聴取するの機会なかるべきも、現に東京に在住する他の基督教の大家より徹底的説明を与へらるゝことあらば、豈唯余一人の幸福のみならんやである。
○上略