デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
2節 中央社会事業協会其他
3款 財団法人東京府慈善協会 = 財団法人東京府社会事業協会
■綱文

第30巻 p.674-681(DK300088k) ページ画像

昭和2年6月12日(1927年)

是日、日本青年館ニ於テ当協会創立十週年記念会開催セラル。栄一之ニ出席シ一場ノ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第四六六号・第一〇一頁 昭和二年七月 青淵先生動静大要(DK300088k-0001)
第30巻 p.674 ページ画像

竜門雑誌  第四六六号・第一〇一頁 昭和二年七月
    青淵先生動静大要
      六月中
十二日 東京府社会事業協会創立十周年記念会(日本青年会館)


東京府社会事業協会報 第三二号・第四五―四九頁 昭和二年七月 記念式に列して (中央社会事業協会長子爵渋沢栄一)(DK300088k-0002)
第30巻 p.674-677 ページ画像

東京府社会事業協会報  第三二号・第四五―四九頁 昭和二年七月
    記念式に列して (中央社会事業協会長子爵 渋沢栄一)
 此意義ある記念式に参列しまして、一言御祝ひを申述べることを得ましたのは洵に光栄と存じます。所が時を誤つて祝辞を申上げる時間を失つたやうでありますから、私は此処に此記念会に因の多い故井上君に対する感想を一言申述べたうございます。
 私と井上君との関係は、一つ家で事を共にしたとまでは申されませぬが、恰度十年以前、東京府社会事業協会成立と共に、私も中央社会事業協会から推されて其会の世話を致しました。左様な事業の関係から、井上君とは色々お親しみを篤うしましたけれども、更に尚特に同君と意見を一つにして頻りに論じ合ふたことがございます。それは同君が寛政の頃の幕府の執政たる白河楽翁に就て種々調査をなされたことがあります。それは唯だ単に楽翁公に対する履歴を調査するのみならず、海外に於ける楽翁公に親しい人をも調べられた、それは独逸のスタインと云ふ人で、此スタインと楽翁公の二人を比較論議した一つの書物を作られた。是は其頃或は書肆に於ても販売されたか知れませぬが、私は特に他の関係から之を一冊手に入れまして、後ち一覧しましたが、頗る正鵠を得たものゝやうに思ひました。蓋し井上君が楽翁
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公に私淑され、又スタインに大いに見る所があつて、比較されたものと思ひますが、此二人は、恰度時代を同ふし、又人柄を同ふし、其懐抱する所の学説、若くは政治上の働きに頗る相似寄つた所があるのを見て、特に感じて「楽翁とスタイン」と云ふ表題で一冊の書籍が出来たのであります。如何に井上君が斯る事に忠実で、且つ御熱心であつたかを証するに足るのであります。スタインに付ては、私は甚だ欧羅巴の事に浅学で何等知る事を得ませぬが、楽翁公の事に就ては多少調べて居りました。
 只今あります東京市の養育院、あれは白河楽翁公が作られたとは敢て申しませぬが、頗る関係の深いお方であるのであります。寛政度に田沼意次と云ふ人が時の勢ひに乗じ、将軍の寵を恃んで、今から申せば悪政を頻りに逞ふした。其結果幕府の制度は頗る紊乱し、賄賂公行醜弊瀰漫と云ふ有様であつた、其時御三家である水公の後に文公となられた治憲と云ふ方が、此疲弊せる幕政の改革に就ては、非常に優れたる人材を用ふるより他ないと云ふ主張の下に、遂に楽翁公は三十歳の頃であつたが、幕府の為めに起たれた、それは天明七年であります翌年正月本所の吉祥院と云ふ寺にある所の不動に向つて、少し古風な方法ではありますが、幕政改革の祈願の為め誓文を入れて祈られた。如何にそれが熱烈なものであつたかと云ふことが察知せられるのであります。此誓志本懐せざれば死すとも止ぬと云ふやうな熱心さで、平生至つて質素にして、至つて謙遜内輪の方には不釣合な、強い勇気を以て赴任されたのであります。さうして寛政五年、恰度政を執つた間は七年で、全部の改革をしたとは申されますまいが、従来の田沼の悪政を大部分改革されたのであります。元来の田沼は華美な風を尚び、所謂文化的に、何も彼も豊富に、即ち綺羅を飾ると云ふ趣向であつた之に反して楽翁公は極く質素倹約の方針であつた。そこで東京市に縁故の生じた所以は、寛政元年でありましたが、其頃の江戸市中の各町内に命じて、従来の経費を大いにつめて、其つめた金が一町内が千円余つたとすれば、其内百円だけを取集めた人に褒美として与へ、又其残りの二百円は金を払込んだ人々に返し、後の七百円を町内の経費とした、之を名付けて七分金と言ひます。蓋し三分を割いた残りが七分だから言つたのでせう、それが大分溜つて、恰度維新の時に東京市の共有金となつて出て来たのであります。其共有金が東京市の養育院を作る時の資金になつたのであります。故に東京市の養育院は、楽翁公に依つて建てられたやうなものであります。而して楽翁公の倹約は其精神とせられた所ではありますが、其施設の実績を見ますと、決して唯だ単に倹約ばかりを始終した人ではないのであります。私は井上君とは違つて、スタインの事を知らず、唯だ楽翁公だけを賞讚するは、少し井上君から言へば片手落と言ふか知れませぬが、不幸にして存じませぬから、楽翁公の事だけを少しお話申上げた次第であります。
 楽翁公の政治の執り方は、全く田沼の経営とは趣きを異にして居ります。さうして京都禁裡に対しても、浮華なる勢ひを以てすると云ふのでなくして、非常に熱心に臣分を尽されたやうに拝見します。殊に禁裡御修繕の事などに就ては、楽翁公自身で専ら力を尽されて、関東
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が禁裡の御造営に就て大いに力を入れたと云ふのは、蓋し松平越中守に於て然りと申したが宜いと思ひます。
 尚ほ楽翁公執政中の事件として、尊号問題より中山大納言等との間に容易ならざる大問題を惹起し、是が解決も極めて困難であつた。是は光格天皇の御生父様を太上天皇と尊称しやうと云ふ京都側の主張であつた、又幕府に於ても十一代将軍家斉の父治済を大御所として西丸に入れやうと云ふ企てもあつた。是等両方の主張は楽翁公としては正義を紊乱し、道を私するものなりと考へ、恰度時の関白鷹司公と種々打合せをして、之を取止めたのであります。是等に関する書類は今も尚ほ松平家に遺つて居ります。是等の点を見ても洵に正義を重んじられた事が分るのであります。結局此問題に関しては中山大納言と正親町大納言の二人を関東へ呼んで、譴責をしたのが最終の処分であつたのであります。更に楽翁公は内治ばかりでなく、海外の関係なども余程注意されて居るやうに見受けます。どの辺まで考が行届いて居つたかと云ふことは、今玆で申上げる程深くは存じませぬが、例へば花月草紙に「いくさの道」と云ふ小品文があります、是等に依つて見ても未来の戦争は必ず鉄砲の軍さになると云ふことを看破しておゐでなさるやうであります。又蝦夷に対する露西亜の関係に就ても頻りに心配をされて居る。林子平をあのやうに罰せられたけれども、あれは唯だ林子平を罰すると云ふ狭隘な考でなかつた、林子平の行動は時の幕府より見れば少し事を好んだ仕方でありましたから、余儀なく罰したに過ぎぬ、海外関係に就ては以上の如く能く知つて居られた。
 斯様に財政の窮乏を救ひ、政治の改革をするには倹約をする外はない、又京都関東の問題も今申上げた通りであります。各方面に亘つて内治外政に行届いた知識を有つて居られたが、更に文学方面に就ても特殊の技能を有つて居られたやうに拝見されます。此間も松平家にある所の書物を拝見しましたが、正徹と申す歌人は足利時代の歌人で大層立派な人でありまして、歌集もあります。其正徹か住吉神社へ百首納めて居る、それを楽翁公が見て面白い、恰度詩の和韻の様な体裁と同じ体に依つて、御自身が作られた住吉神社奉納百首、是等の歌を拝見しますと、私は歌の学問は存じませぬが、唯だ風景を詠むばかりでなく、或は皇室尊信、又国を守る事、若くば更に進んでは海外発展と云ふ方迄言尽されて居つた。之程の識見を有つて居られたかと思ふばかりであります。
 それで井上君が楽翁公の事を一冊の冊子として著はされたことは、私深く協賛するものでありますが、不幸にして其書物を私が得たのは同君が故人になられた後であつたかと思ひます。此事に就て詳しく井上君と話合ふ機会を得なかつたことを、洵に残念に思ふものであります。
 話は楽翁公に飛んで、主たる井上君の話が甚だ附たりになつた次第でありますが、実は私は現在も中央社会事業協会に其職をなして居りますが、どうしても社会事業と云ふものは、未来に於て益々完全に行ふて、貧富の間に隔絶の無いやうに宜しく調和して、唯だ単に法令の精神にばかり依らないで、互に相協調して行くことが甚だ必要であら
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う。此点に付きまして、私は故井上君と全く同一の考であつたやうに思ふのであります。思ひ返せばもう七・八年になりませう、偶然にも井上君は何かの会合で帝国ホテルに相会して、其宴席で俄かの御病気私は其前の卓に居つて、其時の驚きは今も尚ほ記憶して居ります。それが同君の致命であつて、再び同君を見るを得ずと云ふ悲惨な事に相成つたのであります。内務省若くば東京府に於ける社会事業が今日の進歩をなせるは、全く同君に負ふ所が多いのでありまして、同君が遂に世に完全な働きを為し得られぬ間に終はられたと云ふことは、如何にも名残惜しいことであります。今日此の記念の日に方つて、故人を思ふて感想の一端を申上げることは、洵に涙たらざるを得ぬのであります。お集りの皆様方も故人と御親しみある方は、今私の申上げた事に御同感下さると思ひます。玆に一場の感想談を申上げた次第であります。(拍手)


東京府社会事業協会報 第三二号・第二〇―二四頁 昭和二年七月 創立十年記念会(DK300088k-0003)
第30巻 p.677-681 ページ画像

東京府社会事業協会報  第三二号・第二〇―二四頁 昭和二年七月
    ▽創立十年記念会
 本協会では創立十年記念会を、去る六月十二日午後一時半から新装成つて青葉に燃ゆる明治神宮外苑日本青年館に催した。初夏の薄曇した陽は柔かい光を外苑一帯の木立に投げ掛け、会場正面の万国旗は折柄の風に翻つて居る、午前十時係員一同は会場青年館に集つた、白堊三層の大建築は既に掃き拭くはれて清涼の気に充ちて居る、諸般の打合を終り、館内を巡視して、零時半定められた部署に着いた、早くも来賓や社会事業団体の方々がチラホラ見へる。
 記念式は定刻を過ぐる十分、一時四十分から中原常務理事の司会で始つた。田中副会長開会を宣言し、平塚会長の式辞に次ぎ、来賓鈴木内務大臣(代読安武社会局庶務課長)・西久保市長(代読御厨社会局長)片山東京府会議長等の祝辞があつて、厳粛荘重の裡に進行した。
      会長式辞
  玆ニ東京府社会事業協会創立十年記念会ヲ挙行スルニ方リ、朝野貴賓ノ賁臨ヲ辱ウシタルハ予ノ最光栄トスル所ナリ
  顧ミルニ本協会ハ当初東京府慈善協会ト称シ、大正六年二月時ノ東京府知事井上友一氏ノ主唱ニ依リ、官公私社会事業関係有志発企者トナリ、管内諸団体大多数ノ賛成ヲ得テ設立セラレタルモノニ係リ、東京府管内ニ於ケル各種社会事業団体及関係者ノ聯絡ニ依リ、其ノ共同的発展ヲ期スルト共ニ、要保護者ニ対シテハ協力救済ノ実ヲ挙ゲ、一般社会ニ対シテハ斯業ノ機運ヲ促進シ、複雑ナル社会欠陥ノ予防救治ニ資スルヲ目的トセリ、当時我邦ハ世界大戦ノ影響ヲ受ケテ、産業界・経済界ハ異常ノ発展ヲ遂ゲ、一面社会思想ハ急激ナル変調ヲ来シタルヲ以テ、斯業ノ意義使命ヲ新ナル反省ニ導クト共ニ、従来ノ個別的ニシテ消極的ナル救済事業ヲシテ、一大転機ニ向ハシメ、公共的理想ノ下ニ社会連帯観ノ見地ニ立チテ、汎ク予防的建設的施設ノ興隆ト、内容改善能率増進ノ急要トヲ痛感セシムルノ際ナリシカバ、本協会ノ設立ハ蓋シ其ノ輿望ニ応ジタルモノニシテ、爾来早クモ十星霜ヲ閲シ、東京府援護ノ下ニ聊カ此方面ニ微力
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ヲ効シ来レリ、而シテ此間幾度カ不測ノ災害ニ遭遇シ、即チ創立当初ニ於ケル大風水害、大正七年夏ニ於ケル米価事件、更ニ大正十二年九月ノ大震災等相踵イテ突発シ、此等ノ事変ハ本協会ノ事業ヲシテ単ナル進会的連絡若《(マヽ)》クハ調査宣伝等ニ局限セシムルヲ許サズ、且其ノ組織自ラ府ノ社会行政ヲ補翼スルニ便ナル立場ヲ有スルヲ以テ其ノ委託ニ依リ施設シタル直営事業少カラズ、公営ニ代リテ相当ノ成績ヲ収ムルニ至レリ、特ニ最近ノ情勢トシテ市内細民地区ノ郊外移動ハ、災後一層其ノ勢ヲ増大シ、従ツテ郡部ニ於ケル社会施設ノ要求更ニ切ナルモノアル、所謂大東京ノ発達ニ徴シ、市ニ於ケルハ都府全体トシテノ社会政策上必須ノ事ナリト信ズ、本協会ガ聯絡事業ノ外直営事業ヲ経営セルハ、主トシテ此ノ如キ特殊ノ沿革アルニ依ルナリ
  抑本協会ガ斯ク時運ノ必要ニ応ジテ今日ノ発展ヲ遂グルニ至リタル所以ノモノ、固ヨリ創立者タル故井上会長及其ノ後ヲ継承セラレタル故阿部会長・宇佐美前会長ヲ始メ、役員並会員諸氏ノ熱心ナル努力ニ由ルト雖、而カモ畏クモ上皇室ノ恩寵、政府・府会当局及江湖ノ深厚ナル援助ナクンバ、焉ンゾ克ク如此ヲ得ン、玆ニ創立十年ヲ記念スルニ当リ、衷心感謝ノ意ヲ表スル所ナリ
  惟フニ本協会ノ前途ヤ愈々多事ナルモノアリ、今後特ニ有力ナル聯絡機関トナリ、官公私相提携シテ社会改良ノ実ヲ挙ゲントセバ、一ニ各位ノ協力ニ俟サルヲ得ズ、希クハ倍旧ノ援護ヲ賜ハラムコトヲ、一言所懐ヲ述ベテ式辞トス
  昭和二年六月十二日
         財団法人東京府社会事業協会長 平塚広義
      内務大臣祝辞
  本日玆ニ故東京府知事井上友一君薨去ノ日ヲ卜シ、東京府社会事業協会創立十周年記念会ヲ開催セラルヽハ、洵ニ意義深シト謂フベキナリ
  顧フニ故井上友一君ハ、夙ニ社会事業ヲ研究シテ鋭意之ガ発達ニ力ヲ致セル斯業ノ先覚ナリ、其ノ出テヽ東京府知事ニ任セラルヽヤ府下社会事業ノ聯絡統制ノ必要ヲ認メ、大正六年二月自ラ創意シテ本協会ヲ設立セリ、其年九月東京地方ニ颶風襲来、海嘯之ニ伴ヒ、惨状ヲ極ムルヤ、本協会ハ鋭意罹災者ノ救護及善後処置ノ途ヲ講ズル処アリ、翌七年所謂米騒動突発スルヤ、又適切ナル施設ヲ講ジテ人心ノ鎮静ニ努ムル等、何レモ採テ以テ他ノ範トスルニ足ルモノアリ、若シ夫レ先年ノ大震火災ニ処シテ之ガ措置ヲ誤ラズ、其ノ使命ヲ完ウスルニ努メタルガ如キ、本協会ノ功績ハ世ノ讚称止マザル所ナリ、加之其ノ本来ノ目的タル社会事業ノ聯絡統制、其ノ他従事員ノ養成及奨励ノ為メニ、常ニ意ヲ用ヰ、斯業ノ発達ニ力ヲ致セルノ続《(績カ)》ハ之ヲ没スベカラザルナリ、帝都社会事業ノ今日アル固ヨリ上 皇室ノ渥キ恩賚ニ基キ、官公私各般ノ施設相俟テ克ク時代ノ要求ニ応ジタルニ因ルモノナリトハ云ヘ、本協会関係諸氏ガ努力ノ労亦多大ナルヲ認メズンバアラズ、冀クハ創立十周年ヲ機トシ、今後益々協同戮力、事業ノ進展ト整善トニ尽瘁セラレンコトヲ、記念会ヲ開
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催セラルヽニ方リ、一言所思ヲ述ベテ祝辞トナス
  昭和二年六月十二日
                 内務大臣 鈴木喜三郎
      東京市長祝辞
  東京府社会事業協会本日ヲ卜シテ玆ニ創立十周年記念式ヲ挙行セラルヽニ当リ、一言祝辞ヲ述ブルヲ得ルハ本職ノ欣幸トスル所ナリ惟フニ近事時運ノ変遷ニ伴フテ社会組織ノ変動ヲ来シ、貧富ノ懸隔益甚シク、社会ノ人事愈々繁雑ト為リ、社会事業ノ振興亦其必要ヲ加フ、然リト雖社会事業ハ其主体ノ公私ヲ問ハズ、規摸ノ大小ヲ論ゼズ、単独孤立シテ行ハルベキモノニ非ズ、必ズ相倶ニ連絡提携シテ社会ノ安寧幸福ニ資セザルベカラズ、若シ互ニ排他嫉視スルガ如キ事アラバ、決シテ其興隆発展ヲ期シ目的ヲ達成シ能ハザルハ自明ノ理ナリ、本協会ハ這般ノ消息ヲ察シ、大正六年時ノ東京府知事故井上友一博士ノ首唱ニ依リテ創立セラレ、爾来社会事業団体ノ相互連絡ニ努力シ、且ツ斯業ノ普及改良ヲ目的トシテ、直接事業経営ノ任ニ当レリ、今日社会事業ノ聯絡発達ハカク本協会ノ力ニ俟ツモノ多シ、而シテ其直接経営ノ事業ハ主トシテ郡部ニ関シ、東京市ノ社会事業トハ互ニ唇歯ノ関係ニ在リ、両者協力ノ結果其業績大ニ見ルベキモノアリ、コレ偏ニ本協会首唱者ノ先見ノ明ト、職員ノ熱誠トニ俟タズムハアラズ、聞クガ如クンハ本日ハ恰モ故井上博士ノ忌辰ニ会スト、本協会十年ノ光輝アル歴史ヲ見テ、故人ノ英霊亦以テ地下ニ安ラカナリト謂フベシ
  現下ノ世相ハ益社会事業施設ノ必要ヲ感ジ、其ノ提携連絡亦愈々緊切ナルベキヲ信ズ、此秋ニ当リ本協会ノ健全ナル発展ヲ庶幾スルヤ切ナリ、聊カ蕪辞ヲ述ベテ祝辞トス
  昭和二年六月十二日
                 東京市長 西久保弘道
      東京府会議長祝辞
  玆ニ初夏新緑ノ候ヲ卜シ、東京府社会事業協会創立十週年記念祝賀会ヲ挙行セラレ、陽徳日ニ滋キ此祝典ニ列スルハ余ノ深ク光栄トスル所ナリ
  博愛ノ業ハ人類至上ノ大道ニシテ、治道ノ根本平和ノ素因タルヤ論ヲ俟タザル所ナリ
  曩ニ東京府知事故井上友一君ハ社会事業協会ヲ創立セラレテ、府政史上不磨ノ功績ヲ揚厲セラル
  本事業ハ世態ノ進運ニツレ、年ト共ニ発展長育シテ、実社会ニ寄与セル所実ニ枚挙ニ遑アラズ、国家ノ進歩文明ノ道程ニ横ハル生存競争ノ惨苦ハ、引ヒテ国家救済ノ必要ヲ生ズルニ至レル、此欠陥ヲ補ヒ弱者ノ友トシテ平和ニ精進スルハ、即チ社会事業ノ崇高ナル使命ニシテ、生存ヲ基調トスル経済的患苦ハ、国家ト共ニ不滅ノ永遠性ヲ有スルガ故ニ、須ラク先賢之事蹟ヲ考究シ、時代環境ニ応ジテ施設ノ根本ヲ定ムルベキナリ、惟フニ公益事業ノ遂行上建設ニ多大ノ資ヲ投ジ、流動資金ノ欠乏則チ経常費ノ不足ハ、中途事業ノ蹉跌ヲ見ルガ如キ最モ慎ムベキ事ニシテ、徒ラニ崇外輸入文明ニ眩惑シ
 - 第30巻 p.680 -ページ画像 
直訳模倣ノ弊風ニ捕ハルヽガ如キハ、寒心ニ堪ヘザルモノニシテ、常ニ民風習俗ノ世態ヲ実査シ、徐々トシテ漸進的質実ノ効ヲ収メ、其要求ヲ満タスニ努メ、以テ理想的事業ノ完成ヲ期スベキモノナリト信ズ
  冀クバ当路者諸君ノ奉仕的精神ニヨル勉励努力ニヨツテ、事業ノ前途ニ一路邁進セラレンコトヲ切望シテ止マザルナリ
  本日余ハ此盛大ナル式典ニ列シ、欣快擱ク所ヲ知ラズ、一見所感ヲ述ベテ祝辞トナス
  昭和二年六月十二日
               東京府会議長 片山久蔵
 是にて一旦式を閉ぢ、次で穂積博士の講演に移つたが、殆んど満場立錐の余地なく、穂積博士は「夫の貞操義務に関する大審院の新判決例に就きて」と題し、最近大審院に於て横田博士の名に依り下されたる「夫にも亦、貞操義務あり」といふ新判決例に付て、最初の意見を発表された、穂積博士は人も知る其の方面の権威である。多年是れ等の問題に付て社会を啓蒙されて居つたので一般の期待も深かつた、博士は事件の経過から大審院の判決に至るまでの大要を述べ、法理的解釈、本判決の将来会改良に及ぼす影響等に亘り、平易簡明に説明せられ、多大の感動を与へられたが、何分にも切りつめた時間であつたことは遺憾であつた。
 小憩後、渋沢栄一・矢吹慶輝・留岡幸助・山室軍平・渡辺海旭諸氏の創立十年感想談があつた、いづれも本協会に関係深き方々である。或は故会長井上博士を偲び、又は社会事業の将来等に関して、含蓄多き言葉を残されたが之れ亦、時間に制限があつたので折角お話下さる方々に対してもお気の毒であつた、尚ほ宇佐美勝夫・井上秀子の両氏にも感想談を述べて頂く筈になつて居たが、止むを得ぬ御用事の為め御出で無く、従つて感想談を承る機会を逸したことは、来会者一同の心残りとしたことである。
 次で音楽演奏に入り、先づ大塚淳・末吉雄二・伊達三郎・栗原大治四氏の絃楽四重奏に心耳をすませた。
      絃楽四重奏       ヂュピタークオーテット
 一、(イ) メヌヱツトと長調小夜楽中ヨリ…モーッアルト作
   (ロ) 間奏楽歌劇「カヴアルーリヤ、ルスティカーナ」中ヨリ……マスカーニ作
   (ハ) メヌエット……ポッケリーニ作
 二、四重奏曲 作品第九十六番 へ長調……ドヴォルシャーク作レント
    モルトヴィヴァーチエ
 それより映画「欧米社会事業の一端」を観覧したが、伊太利ナポリに於けるチヴィタ夫人の感化船、独逸に於ける不具者再教育の実際等は、頗る興味をひいた、特に益富政助氏自ら解説々明の労を執られたことは、我等の深く感謝するところである。
 この間本協会創立者井上友一氏の追彰式を行ひ、理事相田良雄氏本協会員を代表して左記追彰文を朗読し、来会者一同は故会長を暫し追
 - 第30巻 p.681 -ページ画像 
想した。
      追頌の辞
  東京府社会事業協会創立十年記念ノ式典ヲ挙グルニ方リ、吾等一同深ク創立者ニシテ会長タリシ故井上友一氏ノ遺績ヲ回想シ、玆ニ謹ミテ追頌ノ誠意ヲ表ス
  昭和二年六月十二日
            財団法人東京府社会事業協会会員一同
 最後に海軍々楽隊長佐藤清吉氏指揮の下に、海軍々楽隊(隊員諸氏四十四名)の五十分に亘る荘重華麗なる大管絃楽があり
 一、序楽巴里の謝肉祭……スヴェントセン作
 二、未完成交響楽「ロ短調」…シューベルト作
 (イ) アレグロ・モデラート
 (ロ) アンダンテ・コンモト
 中原常務理事の挨拶あつて、午後五時四十分プログラムの全部を終つたが、来会者・来賓・社会事業団体・協会々員関係者等合して一千余名、予期以上の盛会を見たことは、本協会の感謝措く能はざるところであるが、同時に設備万端不行届勝であつたことは、更めて此の機会にお詫びすると共に、御忙い中を繰合せて特に斯業奨励の為、講演感想・映画・音楽の御出演を快諾され光彩をお添へ下さつた各位、並に青年館関係各位が本会の遂行に多大の助力と便宜を与へて下さつたことを感謝する。
 当日、本協会では十年記念として、本協会の設立の趣旨・目的・組織・財産等を始め、現在並に既往事業の概要を記載し、其の内容を示すべき写真数十葉を添付したる「東京府社会事業協会一覧」(菊版二百二十余頁)を発行し、来賓及会員に贈り、又一般来会者には茶菓を呈した。
 因に本協会の創立は大正六年二月十一日であるから、厳密に言へば去る二月十日を以て満十週年に相当するのであるが、創立者にして且第一次会長たりし故井上友一氏の御命日を選んだのである。