デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
4節 保健団体及ビ医療施設
3款 恩賜財団済生会
■綱文

第31巻 p.60-84(DK310009k) ページ画像

明治44年5月30日(1911年)

是ヨリ先二月十一日、皇室ヨリ施薬救療ノ資金トシテ百五十万円ノ下賜金アリ。爾来栄一、内閣総理大臣桂太郎・内務大臣平田東助等ト恩賜財団法人設立ノ協議ヲ重ネ、五月九日桂総理大臣ハ富豪ヲ首相官邸ニ招集シテ協力ヲ求ムル所アリ、是日財団法人済生会設立認可サル。栄一、寄附金募集ニ世話人トシテ尽力シ金十万円ヲ寄附ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK310009k-0001)
第31巻 p.60 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年     (渋沢子爵家所蔵)
二月十二日 晴 寒
○上略
朝日新聞記者来リテ、貧民施療ニ関スル詔勅ニ付テ意見ヲ諮問セラル依テ詳細ニ陳述シ遣ス、中外商業新報記者来リ、同様ノ事ヲ諮問セラル
○下略


竜門雑誌 第二七四号・第一八―二二頁〔第一八―二十頁〕 明治四四年三月 ○恩賜奉答の途(青淵先生)(DK310009k-0002)
第31巻 p.60-62 ページ画像

竜門雑誌  第二七四号・第一八―二二頁 明治四四年三月
    ○恩賜奉答の途 (青淵先生)
 本篇は青淵先生がやまと新聞記者の請ひに応じて語られたるものにて、二月下旬の同紙上に連載せるものなり
如何にして聖意に副はんか、過る十一日桂首相が難有き思召を蒙り、御内帑金百五十万円御下賜の御沙汰を拝戴せしに付ては、如何なる感想を抱くかと云へば、余は今故らに自己を吹聴する次第にあらざるも多年細民恤救の事に従ふと共に、無辜の窮民にして疾病に罹り治療を受けざる者に対しては、隣保相助けて斯る窮苦を受けしめ間敷ものなりとの考へを抱けり、其疾病に罹りて医療を受け得ざる境遇に立つ者は、其の人の不敏にも因り、放蕩の結果にも因り、又全く不幸にして斯の如き境遇に沈淪するにも因るべくして、千差万別なりと雖も、仮令其の人の不敏不幸にもせよ、又放蕩にせよ、斯る境遇に在る者をして医薬の恩恵に浴せしむるは政治上よりも努む可く、吾人は同胞としても、且つは親戚としても、勿論成る可きだけの注意を払ひて悲惨の境遇を脱せしむ可きなり、既に我同胞の中斯る不幸の者の輩出したる場合は、其の人懶惰なるの故を以て傍観するは非なり、国家又は一個人・親戚其他の慈恵に依り野に餓莩なからしむるは、即ち文明の人類共同生活の一方法なりとす
△養育院の歴史 玆に余の関係せる養育院の沿革を述ぶれば、維新匆匆に際し我国の状態も貧民の始末など云へる事よりは、諸般の事業に付て国家を進歩向上せしむる事に汲々たる時代なりしも、余は貧民に対する救済の事業も、注意す可き一事項として常に忘却せしことなし
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然れども余は大富豪と云ふに非ざれば、一個人にして病院を建築する事、又慈善事業を起すが如きことをせざるも、自己財政状態の許す限多年諸種の慈善事業に対し応分の出資に吝かならざりし者なり、而して今の養育院の前身は、明治十六・七年頃までは東京府より相当の補助を受け居たりしが、時の東京府会は斯の如き事業に多額の補助を為す可きものに非ずとの見地より之を斥け、遂に十八年に至りて全く糧道を絶るゝ事となれり、是に於てか一種の慈善会を組織し、年々寄附金を募り之に依て養育院を維持することとし、越えて廿二年に至り自治制の行はるゝに際し、市の訓令に基きて之を市に移すことを出願し爾来養育院は東京市に属することとなり、種々なる方面の救助設備を企て、既に三十一年には井頭に感化部を設け、不良少年の感化事業に従ひつゝあり、而して這は三十一年英照皇太后陛下崩御に際して一時賜金の御沙汰を拝したれば、之を元資金とし、其他七万円を一般寄附に求め、総計九万円を以て此の事業を経営することとなれるなり
△貧者救済の手加減 尚ほ三十九年には十三万円を投じて巣鴨に分院を造り、又院資増殖会を設けて是れが資金の供給に充て、更に房州に保養所を建て、今や養育院全部に収容せらるゝ者千八百七十人と註せらる、其内には(一)種々の事情に纏綿せられ疾で薬を得る能はざる者(二)老衰して社会に身の置所なき者(三)幼にして養ふ途なき者(四)浮浪少年(五)少年の病者(六)老人の病者等ありて、其統計は一面東京市の繁盛を認むる目標となるものゝ如し、蓋し東京市が益々繁盛に進むに随ひ、養育院に収容せらるゝ貧窮者の益々増加するを見るの状態にあり、而して救済の事たる斯の如く必要なるも、之を実地に試るは其手加減却々に難し、何となれば若し一歩を誤れば惰民の奨励と成り、又被収容者の一身を過らしむる虞あればなり、其手加減は貧困者の救済は惰民を作らざる程度を択まざる可らず、又貧困者を余り親切に取扱ふ時は却て害を醸す事あり、過日も三井の慈善病院を参観せしが、貧困者にして医薬に接する能はざる者も斯る鄭重の取扱ひを受け、其の厚意は実に感佩すべけんも、一朝疾癒えて壮健の身体となりたる場合、帰宅せんに家もなき被収容者は、恐くは永く此の病院に在らんことを希ふが如き不心得を生ずることなきか
△国家的重要問題 然れども浮浪少年の如き、若し之を放任する時は忽ち掏摸の親分に誘拐せられ、遂に不良者と為りて、国家に害毒を流すこととならん、是等に対して公共団体救済を施すは国家的及び社会的急要問題なりとす、然るに世には無慈悲の吝嗇家ありて、貧民を救済するは恰も貧窮を奨励して漸次之を多からしむるものなりといふを以て口実とし、仮令世に如何なる不幸に沈淪する者あるも、敢て顧みざらんとする者もあり、然れども貧者の救済にして等閑に附せらるゝ時は、彼の忌む可き社会党の如きを出し、延いては路傍に餓死する者をも生ずるに至らん、今日に於ては狗屍も尚路傍に棄つ可らず、況や人類の餓莩をや、之が救済は人道として捨置く可きにあらざる也
△財団法人の組織か 桂首相以下内閣諸公は、恩賜金に対し業に已に聖意に副ひ奉る可き良法を案出しつつあるが如くなれば、之を一般に示すか又は恩賜金の処分を如何にせんかとの諮問あるべきか、不日其
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の発表に接すべければ、余は今日に於いて何等具体的成案を有せざるも、或る精密なる調査に拠れば、全国中の施薬若くは救療を完全に行はんとすれば、一箇年二百万円を要す(一人前五銭と見積り)、然れば恩賜金を悉く施薬救療にのみ費すべきか、又此忝き恩賜金を基礎として一個の財団法人を形成し、患者に非ざるも喰ふに米なく纏ふに衣なき輩をも併せて聖恩に浴せしむることとなすべきか如何、米も即ち薬の一種にして、衣も亦病気の一原因なるを以て、斯る機会に接したる桂侯を始め政府当局者が、聖恩の優渥なるに感奮して大に力を尽し、又た世の富豪にして聖恩に感泣し出金を托せば、一個の財団法人を組織し貧困者を救済するも可なりと信ず、若し折角の尊き御思召を単に施薬救療のみに止むるに至らば、或は聖意の存する処を有功に貫徹し兼ぬるやも知れずと思惟す
△大御心の貫徹 英国には故ヱドワード陛下総裁の下に慈恵基金を募集して、汎く貧者救済の方法を立てたる例もあり、而して今や桂首相以下内閣諸公は聖旨の貫徹に関する種々の方策を有する如くなれば、或は相当の委員を命じ、会を組織して其の法を講ぜしめらるゝか、又は何等かの原案を定めらるべきか、何れにせよ政府は此の有難き聖旨の貫徹する様宜しき措置に出で、六千万の同胞をして厚き大御心に感佩せしむる事とならん


竜門雑誌 〔第二七四号・第二十―二二頁 明治四四年三月〕 ○優詔と国民の覚悟(青淵先生)(DK310009k-0003)
第31巻 p.62-63 ページ画像

    ○優詔と国民の覚悟 (青淵先生)
 本篇も亦た二月十一日に煥発せられたる優渥なる詔勅に関し東京朝日記者の請ひに応じて青淵先生が其所懐を述べられたる一なりとす自ら他に語られたるものと其趣旨を異にするの実を見るべきなり
優渥なる勅語と共に、貧民の為めに内帑百五十万円を御下賜あらせられて宣はせらるゝやう「経済の状況漸に革まり人心動もすれば其の帰向を謬らんとす」との聖旨は、商工業の発達殊に機械力の応用益旺盛となり、生存競争は次第に激烈となり、貧富の懸隔愈遠ざかつて、道義の念動もすれば乱れんとするの傾向あるを憂慮せられたるものと拝察す、文化の進運と共に貧富の懸隔が次第に遠ざかり行くは、欧米先進国に見ても事実にして又止むを得ざる所なり、此時に当り貧民を適当に救済して謬らせざる様に努むるは、独り人道上又は政治上に必要なるのみならず、経済上に於ても頗る必要なる事なりと信ず、例へば貧民職を失ふて窃盗を働かんか、被害者の損失は勿論、加害者は窃取せる財を無益なることに浪費し、更に又国家は此の犯罪人を捕縛し、囚人を収容するに相応の経費を要するに非ずや、今回の優詔を拝して唯単に有難しとのみ感泣するは、国民として充分に聖恩に酬いるの義務を果したるものに非ず、苟しくも栄誉あり地位あるものは此際奮つて貧民の救済に意を致し、社会の秩序と国家の安寧を完全に維持する事を期し、以て聖旨に副はざれば決して忠良なる臣民と認むる能はず然るに我邦に於ける貧民救済事業如何といふに、少数なる公共機関の外に富豪の経営する所は、僅に慈恵医院と三井慈善病院を見るのみ、余は多年貧民救済の為めに東奔西走して屡世の富豪に説く所ありしも貧民救済には害ありと称して賛助する者極めて少数なり、貧民の救済は素より其宜しきを得ざれば余弊を産む、然れども余弊の有無は救済
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方法の良否に基く、余弊ありと称し救済事業を否認するは、恰も教育に余弊ありと称して教育全廃を唱ふると同様ならずや、余は昨年洪水の際、本所・深川・浅草・下谷の四箇所に窮民施療所を臨時に設けて毎日貧民窟を歴訪せるが、其当時施療患者は一日平均千人以上に達したるも、施療患者退水後に於ては日に月に減少して、翌春に至らば一日一箇所平均百人内外に減ずべきものと予期したるに、今日に於ても施療を受くる者、慈恵医院・養育院・三井慈善病院あるに拘らず、尚一日一箇所平均九百人の上に出づる有様なり、貧民の患者のみにて此の如く多数なり、患者以外の窮民は思ふに頗る大多数なるべし、此機会に於て聖旨に酬いんとするものは、施療の外に尚防貧と救貧の途を講ぜられん事を望む、余は養育院を経営するに当り行路病者の善後処分には大に持余したる事あり、車夫・人夫の如き徒が病気の為めに職を捨てゝ入院し、全快後退院せば既に職を失ふて、差当り食を獲るの途なくして窃盗を働くものを生じ、折角の慈善も完全なる効果を挙ぐる能はざるを恨みたる折柄、浅草なる東本願寺別院の監督なる大草慧実師が、貧民の為に無料宿泊者を設け、且宿泊者の為に職業の周旋を為さんとの希望なりしを以て、本所若宮町なる養育院の所有地を東京市に交渉して下附せしめ、金五百円を寄附して数年前に愈無料宿泊所を設立し、曲りながら兎に角夜具蒲団を置きて毎晩六十人内外の貧民を宿泊せしめて職業を紹介しつゝあり、昨年洪水後に於て一入此種の事業の必要を感じて深川西町にも増設せるが、是等の設備は尚遥に不足なり、就ては各地方各町内の有志者が此種の小設備を処々に新設し又は多数の富豪が団結して大設備を為さん事を望む、現に本春正月紐育なる水野総領事が余に報告せる所に拠れば、同市在住のモルガン、シーフ、ハリマン等二十六名の富豪は、二十万弗を投じて昨年中に貧民の職業案内所を設立したりといふ、其他防貧救貧の方法としては共同浴場を設立するも可なり、又欧洲に於けるが如くの労働時間中貧民の子供を監督するも可なり、防貧・救貧の方便は何れにても可なるが之を実行するに当りて充分に聖旨に酬いんが為には、左の二条件を必要とす、其一は三井慈善病院の如き貴族的なる設備を要せず、貧民の身分に相応せる待遇を以て甘んじ、同一額の資金を以て成る丈多数の貧民を救済するにあり、他の一は救済を為すに当りては其度を重んじて、常に自覚・自治の観念を奮起せしむる様に努めざれば、却て惰気を生ずるに至る、昔仏法の喜捨を説くに、人に物を施さば自ら仏の恵を享くべしと断案を下し、又は積善の家には余慶ありと説きたるも、是等は総て誤れり、慈善には自から其度ある事を忘る可らず


竜門雑誌 第二七五号・第七〇頁 明治四四年四月 ○恩賜金相談会(DK310009k-0004)
第31巻 p.63 ページ画像

竜門雑誌  第二七五号・第七〇頁 明治四四年四月
○恩賜金相談会 施療救済恩賜金御下賜の件に付、井上侯は四月二日午前十一時より、三井・岩崎・青淵先生・松尾、高橋各男、早川・安田・朝吹・安田・添田・園田・山本・近藤・加藤・池田・大倉(代)諸氏、外数十名を内田山の自邸に招き、各自の寄附金其他に付数刻の懇談あり、数項の要件を決定し同三時頃散会したりとなり。

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渋沢栄一 日記 明治四四年(DK310009k-0005)
第31巻 p.64 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年     (渋沢子爵家所蔵)
四月二日 晴 軽寒
○上略 十時井上侯内田山邸ニ抵リ、施薬救療ニ関スル詔勅ニ対スル件ヲ協議ス、会スル者二十名許リ、種々ノ意見アリシモ、結局七名ノ立案委員ヲ定ム、井上侯・余・高橋男・添田・近藤・豊川・団、外ニ井上友一氏ヲ助手トス、協議畢テ午飧ヲ為シ ○下略
   ○中略。
四月二十七日 曇 軽暖
○上略 午前九時半井上侯爵ヲ麻布ノ邸ニ訪ヘ、汽車会社ノ事及施薬救療ノ件ヲ協議ス、十一時桂公爵ヲ訪ヘ同事件ヲ談話ス ○下略
   ○中略。
四月三十日 雨 軽寒
○上略 二時半大倉氏ヲ葵町ニ訪ヒ、汽車製造会社ノ事、施薬救療ニ関スル寄附金ノ事ヲ談ス ○下略
五月一日 晴 軽寒
午前六時半起床、入浴シテ原胤昭氏ノ来訪ニ接シ、施療病院ノ事ヲ談ス ○中略 午前九時麻布井上侯邸ニ抵リ、施薬救療ノ事ヲ談ス、桂公爵・平田内務大臣モ来会ス、高橋・添田・近藤・益田・松尾ノ諸氏来集ス十二時過談話畢テ午飧ヲ食シ ○下略
   ○中略。
五月八日 晴 軽暖
○上略 九時三田桂公爵邸ニ抵リ、施薬救療ニ関スル財団法人設立ノ方法ヲ協議ス、松尾・高橋・益田・近藤、其他数名来会ス、畢リテ午飧ヲ為シ ○下略


竜門雑誌 第二七六号・第四九―五六頁 明治四四年五月 ○恩賜財団に関する協議会(DK310009k-0006)
第31巻 p.64-71 ページ画像

竜門雑誌  第二七六号・第四九―五六頁 明治四四年五月
    ○恩賜財団に関する協議会
紀元の佳節に際し、畏こくも御内帑の中より施薬救療の資金として百五十万円の下賜金あり、爾来官民共に聖旨に感奮して種々協議を重ね愈々施薬救療財団法人を組織することゝなり、其の協議の為め去五月九日午後四時より首相及内相主人役となり、東京・大阪其の他各地の富豪を首相官邸に招待して熟議を遂げたるが、当夜の模様を聞くに、定刻に至り出席者一同着席するや、先づ一同に対して別項の如き済生会組織に関する草案を配付し、桂首相は徐ろに起つて別項のごとき演説を試み、尋いで平田内相も亦実行方法等に関する演説(別項参照)を試みたるが、之れに対し青淵先生は来会者を代表して大要左の意味の挨拶をせられたり。
 只今首相及内相の御話を承り大に感泣に堪ず、維新以来我国は内国百般の進歩を図り、其間には文化の発達を促し、又国民の富力増進に努むる所ありし結果、貧富の懸隔著しく、随て貧民は疾病に苦しむ場合にも之を療養する道なきが如きを致せり、是れ勢の止を得ざる事情なるべし、左れば今に於て其方法を講ずるは実に刻下の急務なり、此時に当つて貧民中病に伏して療養すること能はざる者あるべきを思召され、施薬救療の為め御内帑金の恩賜ありたる御聖旨に
 - 第31巻 p.65 -ページ画像 
対し奉りては、我国民全体の感泣措く能はざる所なるべし、我国昔時に於ては施薬救療のことありしのみならず、維新前は所謂家族制度に依りて之れが救済の方法を取り居たるも、今日斯の如き方法を欠く場合に於いて、公の方法にて施薬救療の道を講ずるは尤も急務たるべし、此聖旨に対し又之を奉じて為したる今回の計画に就ては朝に居る者は勿論、何人も賛襄の意を表せざる者なかるべし、其実行の方法等に就ては細微に渉りては種々の意見あらんも、大体賛同するに躊躇せず、唯御注意迄に希望する所は、今回の計画を完成せんが為に余り零砕の処に迄勧誘するが如き事ありては、昨今既に租税誅求の批難ある折柄のことにもあれば、却て聖旨を奉戴するに急にして之に悖ることゝなるに至らん、去れど又如何に少額の寄附と雖も、篤志に基くものは固より之を受けざる可らず、要は聖旨を迎ふるに於て決して無理ならぬ様に勧誘することなり、尚此計画は恩賜金其他を据置きて、利子に依り施療せんとの趣旨なるが、昨今利率低落の折りにもあれば、充分資本額を大ならしむる必要あるを以て、我々は大に奮発して其成績を挙ぐる覚悟なかる可からず、左れど今此処に於て直に金額を決定すること能はざる可ければ、各地に夫れそれ世話掛を置きて招待されたる者の金額を定め、又勧誘の世話を為さしむるを可とせん云々。
次いで六時半食堂を開き、二室に分れ、桂首相・平田内相各主人席に着き、種々当面の問題に就き談話しつゝ晩餐を取りたるが、席上桂首相は今回の計画に就ては中々一朝一夕に出来難ければ約十年を期して完成すべく、之が為めには少くとも二千万円以上の資金を集めざる可らずと語られたり、食後談話室に戻り種々協議の結果、各地の世話人は東京二十人・大阪十人、其他横浜・名古屋・京都・神戸等は各々五人宛として、当夜の出席者及不参者中より至急選定して、来る二十日過ぎ更らに各地世話人の総会を催すこと等を決定して、八時半頃より漸次散会せしが、尚前記各地の外各府県に於ける重立ちたる資産家約一千名に対しては、義金募集の趣旨を認めたる勧誘状を桂総理・平田内相等の署名を以て発したりと、因に当夜の出席者及び東京市の世話人は左の如くにして、其他各地は未定なりと云ふ。
     当夜の出席者
 △東京 青淵先生・岩崎久弥男・三島弥太郎子・岩崎小弥太男・山本達雄・池田謙三・安田善次郎・日比翁助・安田善三郎・松尾臣善男・益田孝・豊川良平・神谷伝兵衛・大倉喜八郎・近藤廉平・渡辺治右衛門・加藤正義・賀田金三郎・服部金太郎・高橋是清男・原田二郎・荘田平五郎・三井八郎右衛門男・根津嘉一郎・小野金六・添田寿一・末延道成・神田鐳蔵・福原有信・古河虎之助・団琢磨・藤山雷太・端善次郎・高松豊吉・小池国三・相馬永胤・飯田義一・雨宮亘・西脇済三郎・中川新右門・米井源治郎・中村是公・村井吉兵衛・野沢源次郎・山中隣之助・柳生一義・美濃部俊吉・中島行孝・酒井清兵衛・中野鉄次郎・渡辺太次郎・田中平八・佐々木慎思郎
 △大阪 浜崎永三郎・土居通夫・谷口房蔵・山口玄洞・田中長兵衛中橋徳五郎・野村徳七
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 △横浜 原富太郎・小野光景・若尾幾造・渡辺福三郎・来栖壮兵衛安部幸兵衛・左右田金作・木村利右衛門・平沼専蔵・増田増蔵
 △神戸 小野謙吉・川崎芳太郎・辰馬吉左衛門・松方幸次郎・小寺荘吉
 △名古屋 伊藤治郎右衛門・岡谷惣助・奥田正香・神野金之助・滝定助
 △京都 浜岡光哲・中井三郎兵衛・飯田新七
     東京市世話人
東京市の世話人二十名は当夜直に左の如く決定せり
 青淵先生・豊川良平・高橋是清男・団琢磨・益田孝・添田寿一・近藤廉平・山本達雄・浜口吉右衛門・朝吹英二・大倉喜八郎・佐竹作太郎・柿沼谷蔵・中野武営・馬越恭平・中沢彦吉・大橋新太郎・安田善次郎・福原有信・松尾臣善男
恩賜財団済生会寄附行為左の如し。
    第一章 名称
 第一条 本会は恩賜財団済生会と称す
    第二章 目的及事業
 第二条 本会は明治四十四年二月十一日内閣総理大臣に賜はりたる勅語の旨を奉戴し
  天皇陛下 皇后陛下至貴至高の保護を仰ぎ、施薬救療に関する事業を挙ぐるを以て目的とす
 第三条 本会は前条の目的を達する為め左の事業を行ふ
  一 東京其他全国適当の地に漸次施療病院を創設し、之を経営すること
  二 全国に渉り施薬救療普及を計ること
 第四条 本会の事業施行に付ては、年度の初予め主務大臣の認可を受くるものとす
 第五条 本会の事業施行に付て必要なる事項は当該行政庁に之を委嘱することを得
    第三章 事務所
 第六条 本会は事務所を東京市  区  町   番地に置く、但評議員会の議決を経て之を変更することあるべし
    第四章 資産及会員
 第七条 本会の設立の日に於ける資産は帝室の恩賜金及其利子とす
 第八条 本会は評議員会の議決を経て基金を設くることを得
  前項の基金を設けたる場合に於ては他の資産と区別して管理し、其元資は之を保存するものとす
  基金は評議員三分の二以上の同意を得、総裁の承認を経て、勅許を得るに非ざれば之を処分することを得ず
 第九条 本会は評議員会の決議により、総裁の承認を得、特別会計を設くることを得
 第十条 本会の資産は国債証券又は確実なる有価証券を買ひ入れ若は郵便官署又は確実なる銀行に預け入れ利殖を図るものとす、但特別の事情ある場合には評議員三分の二以上の同意を得、総裁の
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承認を経て不動産を買ひ入るゝことを得
 第十一条 本会の経常費は、資産より生ずる収入を以て支弁す
 第十二条 聖旨を奉戴し本財団翼賛の為め寄附する金品は永遠に之を受領し、其金員は凡て之を基金に編入す、但其目的を指定したるものは其用途に充つ
 第十三条 本会の事業を翼賛するものは之を会員と称す
  会員の種類及待遇、別に之を定む
 第十四条 毎会計年度の終に於て剰余金あるときは基金に編入す、但剰余金の一部に限り翌年度へ繰越すことを得
 第十五条 本会の予算は毎年度評議員会の議決を経て総裁の承認を請ひ、決算は評議員会の認定を経て総裁に報告するものとす
 第十六条 本会の会計年度は毎年四月一日に始まり翌年三月三十一日に終る
    第五章 総裁・会長・副会長及顧問
 第十七条 本会に総裁・会長各一人、及副会長二人を置く
  総裁・会長及副会長の選任は勅裁を仰ぐ者とす、会長・副会長は総裁を輔翼し、総裁故障あるときは会長、総裁・会長共に故障あるときは副会長之を代理す
 第十八条 本会に顧問若干名を置き、総裁の諮詢に応ぜしむ
  顧問は総裁勅許を経て之を嘱託す
    第六章 役員
 第十九条 本会に理事 名、監事 名及評議員 名を置く
 第二十条 理事及監事は評議員会に於て推薦し、総裁の承認を受くるものとす
 第二十一条 理事中に理事長一人を置く、理事長は総裁の指名により上任す
  理事長は本会を代表し一切の事務を処理す
  理事長故障あるときは総裁の指名したる理事代て其職務を行ふ
 第二十二条 理事又は監事に闕員を生したるときは、臨時評議員会を開き補闕推薦を行ふ
 第二十三条 評議員は本会員の中に就き総裁之を選任す
 第二十四条 役員の任期は凡て四年とす、但再任を妨げず
 第二十五条 役員補闕者の任期は前任者の残任期間とす
 第二十六条 理事及監事の任期満了の場合に於ては、其後任の就職する迄は仍ほ前任者に於て其職務を行ふものとす
 第二十七条 本会に事務員若干名を置く
    第七章 評議員会
 第二十八条 評議員会は毎年一回之を開く、但理事長に於て必要と認めたるときは、臨時之を招集することを得
  監事又は評議員四分の一以上より会議の目的たる事項を示して請求を為したるときは、臨時評議員会を開くことを要す
 第二十九条 評議員会の会長は評議員会に於て毎会評議員中より互選するものとす、此場合に於ては年長者を以て仮に会長とし、其選挙を行ふ
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 第三十条 評議員会に於て選挙を行ふときは、其議決を以て指名選挙の法を用ふることを得
 第三十一条 評議員会の議事は過半数を以て之を決す、可否同数なるときは、会長の決する所による
 第三十二条 評議員会は評議員四分の一以上出席するに非ざれば議事を開くことを得ず、但同一事項に付き再回招集の場合は此限に在らず
    第八章 補則
 第三十三条 本寄附行為の施行に関し必要なる細則は、評議員会の決議を経て別に之を定め、総裁の承認を請ふものとす
 第三十四条 将来此の寄附行為の条項を変更せんとするときは、評議員総数四分の三以上の同意を経て、総裁の承認を請ひ、且主務官庁の認可を受くることを要す、但重要なる事項の変更に付ては仍ほ勅許を受くることを要す
    第九章 附則
 第三十五条 本会設立の後理事就任するに至る迄の間は設立者(某)理事の職を行ふ
   (某)は個人名を掲ぐる見込なり
     △桂首相の演説
本日は、特に重要なる案件に就き御協議の為各位の御集合を煩したるに、御多忙の際殊に遠隔なる諸君に於ても、万障を排し斯く御来会を辱ふせるは感謝に堪へざる所なり、諸君も既に御承知の如く、本年紀元節の佳辰に方り 陛下親しく不肖を御前に召され、済生治教に関する難有勅語を賜り、特に無告の窮民にして医療の途を得ざるものあらんことを思召され、施薬救療の資として内帑の資百五十万円を下し給はり、宜しきに随て之を措置し、永く衆庶をして頼る所あらしめんことを期せよとの御沙汰あらせられたり 陛下が民の疾苦を軫念在らせらるゝの渥きは今更申すも畏き次第なるも、斯の如き優渥なる聖旨を奉戴せる上は、今後益々力を救療の事に致し、窮民をして医療の途を得ざるが如きことなからしむるは、洵に今日の急務にして、亦実に聖恩の万一に奉答する所以なりと信ず
申す迄もなく、我皇室は昔より慈善救済の事に厚く軫念在らせられ、既に奈良朝の時代に於ても施薬療病院等の設ありて、其の由来する所極めて遠しと雖、此の事業の必要なること汎く世間に認識せられ、其の施設の稍々観るべきものあるに至りたるは尚ほ近年の事に属す、回顧すれば既に十有四年前、明治三十年 英照皇太后陛下崩御の時に当り、特に御手許金を慈恵救済の資として各府県に下賜せられたり、各府県に於ては爾来専ら之を増殖して救済事業の奨励助成の資に充て、其発達を図れるを以て、施設上少なからざる便宜を得、中央地方を通じて一般に今日我邦救済事業上一段の振色を見るに至れるは、洵に皇室仁慈の余光に負ふ所なりとす、幸に救済事業も漸次其数を加へ、経営の見るべきもの寡からずと雖、之が改善発達を要するもの亦頗る多く、其完全の域に達するは前途猶ほ遼遠なりと謂はざるべからず、現に施薬救療の機関の如き、其施設の稍見るべきものは僅に指を二・三
 - 第31巻 p.69 -ページ画像 
の救療病院に屈するに過ぎず、其他団体若は個人経営に係るものなきにあらずと雖、其規摸概ね大ならず、施設亦不完備なるを免れず、然るに一面細民の情況は経済状態の変遷推移に伴ひ、益生計の困難を感ずる趨向あるは亦免かるべからざるの勢にして、時に疾病に罹るも医療を受くること能はず、容易に恢復し得べき病患も為めに其期を遅くし竟に天寿を完ふする能はざる者あるが如きは、独り人道の上より観て以て遺憾とするのみならず、地方の生産力にも少からざる影響を及ぼし、一国の活力も之が為めに著しく消耗せらるゝを免れず 陛下が大御心を窮民の上に注がせられ、施薬救療の資を下賜せられたるは、其御仁慈の渥き今更感激に堪へざる所なるが、我救療事業が今日尚ほ此の如く不振の状況にあるを考ふれば、誠に遺憾の至りに堪へず、今回各位の御集合を願ひたるも、何卒して弘く救療の実を挙げ聖旨の貫徹普及を図らんとするに外ならず、而して其大体の案としては先づ恩賜金を以て財団法人を設立し、之に有志の義金を加ふることとし、其名を恩賜財団済生会と称し、本会の事業に就ては 両陛下の至貴至高の御保護を仰ぎ、尚ほ総裁は皇族の中より推戴致したき考なり、而して此事業は朝野一致共に力を戮せて之に従ふにあらざれば、到底充分の目的を達すること能はざるを以て、各位宜しく此意を諒とせられ、聖旨の貫徹に対し御尽力あらんことを希望す、尚ほ其組織・事業等の詳細は内務大臣より陳述せらるべきを以て、宜しく御協議を竭されんことを切望す
     △平田内相の演説
本年紀元節に当り、桂首相を御前に召されて下し給はりたる聖勅といひ、施薬救療資金の御下賜と云ひ 聖恩の洪大なる洵に感激に堪ざる次第なり、救済事業に就ては政府に於ても夙に其必要を認め、専ら之が指導督励に勉め、其施設の優良なるもの並に発達の見込ある者に対しては、奨励金又は助成金を下付して事業の普及を期しつゝあるも、之を泰西諸国に比すれば尚著しく遜色あるを免れず、即ち泰西諸国に在ては各種の救済事業も大に整頓し、殊に貧民患者に対しては或は公費に依て自宅救療の道を開き、或は入院救療の便を与へ、或は慈善団体其他富豪の寄附金等に依りて、多数の施療病院も建築せられ、其他各種の施薬救療の方法に依て療病の道を得せしむる等、公私共に専ら其力を竭しつゝあり、又死亡統計の上より見るも、現に英国の如きは人口千人に就て僅に十四人、独逸に於ても同じく十八人に過ぎずして漸次減少の傾向を示しつゝあるにも拘はらず、我邦の死亡率は尚依然として二十人内外を算し、毫も減少の傾向なし、是等は必ずしも公私救療事業の施設如何のみに帰すべきものにあらざるも、救療事業の関係する所少からざるは固より言を俟たざる所なり
施薬救療資金の御下賜に就ては、窮民を御軫念あらせらるゝ大御心の深きに感激すると与に、朝野力を併せて最良の方法を竭し、以て 聖旨の貫徹普及を図らざるべからず、右に就ては総理大臣より演説ありし如く、御下賜金を以て一の財団法人を設立し、之を恩賜財団済生会と名け、之に有志の義金を加へて汎く救療の実を挙げんことを期す、同会の組織に就て其大体を述ぶれば、財団の総裁として皇族を奉戴し
 - 第31巻 p.70 -ページ画像 
顧問・会長・副会長を置くの外、専ら事務処理の任に膺り、財団を代表すべき理事を置き、又重要の案件を審理する為め評議員を設け、本会の事業に賛同する人々の中に就き各方面より選定せんとす、又本会の事業を翼賛する人々は之を会員として永く其誠意を紀念し、其協力に由て本会事業の大成を期せんとす
本会の事業は大体之を二に分ち、即ち療病院の設立と施療券の配付とに依り、汎く全国各地に救療の普及を図らんとする考へなり、言ふ迄もなく大都市に在りては窮民の数も多く、其生活状態も概して困難なるが故に、枢要の都会地には成るべく療病院を設立し度き考へなるも一時に其運に至らざるに依り、特に必要なる地に漸を以て之を設くることゝし、又全国に亘りて汎く施薬救療の普及を図らんとするには種種の方法もあるべく、随つて充分研究を要するも、先づ今日に於ては適当の標準に依りて施療券を各府県に配付し、寒村僻地に至るまで普く聖恩に浴せしめんと欲す
又施療券は之を各地に配布し、各府県の赤十字社病院・公私立病院・医師会、又は開業医等に委托して診察治療を行はしむる考へなるも、其施療を要すへき人員に就ては、乍遺憾全国患者の統計なき為め之を予定すること甚困難なり、欧洲諸国に於ても矢張り精確の統計なるものなく、独逸の衛生大家ペンテンコーヘル氏の所説を基として計算するに依り、今仮りに其例に倣ひ死者一人に付患者三十四人、疾病治療の平均日数二十日として、之を我邦現時一ケ年の死亡総数百万人に割当て全国患者の総数を推算すれば、三千四百万人の患者ある割合となるべし、乍併此内窮民として施療を要すへきものは果して幾何なるか其要費を甄別するに就ても、地方の状況に依り自らは異同もあるべく一概に標準を定むることは固より困難なるも、大体其百分の一を施療するものと仮定すれば三十四万人となる割合なり
尚終りに一言すべきは各地有志の義金に関する措置是なり、此有志の義金は之を中央に集注し、一財団の下に管理及利用の方法を講ぜんとす、此の如くして之を各府県に分置せざる所以のものは、各府県に於ける救療を要すべき患者の数は之を予定すること頗る困難なるのみならず、其の数も亦年々異動あるを免れざるべく、之に加ふるに是を各地に分置するに於ては其資金の間に自から多寡を生じ、救療を要する患者と資金とは衡平を保つ能はずして、随て其救療上にも厚薄を生じ地方に依り偏重偏軽を見るが如きことなきを保せず、故に寒村僻地に至るまで斉しく 聖恩に浴せしめ、全国に亘りて過不及なく公平に救療の実を挙げんとするには中央に於て之を統へ、全国各地の救療状態に基きて年々予算を立て施療券を配付するを以て、最も其方法の宜しきを得たるものと認む、曩に紀元節の佳節に当り優渥なる聖勅を内閣総理大臣に賜はり、尚ほ施薬救療の目的を達すべき思召を以て内帑金御下賜あらせられ、宮内大臣より之を基として 聖上皇后両陛下至貴至高の御保の下に財団を設け、汎く 聖旨の普及を計るべき旨伝宣の次第もあり、内閣総理大臣は熟考の末、反覆諸般の調査を尽し、其準備漸く整ひたるに付ては、先づ御下賜金を基として玆に恩賜財団済生会を設立す、朝野共に此の事業を翼賛し、与に共に 聖旨の普及を計
 - 第31巻 p.71 -ページ画像 
らん為め、既に貴族側又貴衆両院議長等とも夫々協議を為し、又同時に本日を以て東京・大阪・京都・横浜・神戸・名古屋市に於ける重立たる資産家約二百名を官邸に集めて協議する所ありたり、以上の外各地方に於ける重立たる資産家に対しても、直接に召集の上協議すべき筈なるも、早急のことにもあり、又農繁の折柄遠方より上京を求むるの迷惑なるを察し、此等の人々に対しては各府県知事に委嘱して夫々協議せしめんとし、桂総理大臣及び平田内務大臣より既に書面を発送せり、大体の主意は朝野一致して永遠に聖旨を貫徹せんとするにあり従て豊富なる財源を要するを以て、主として有力なる資産家の義金に待つは勿論なり、尤も慈善家・篤志家が 聖旨を奉戴し特に寄附を申出るものは、時期金額の如何を問はず固より喜で之を受領すべし


竜門雑誌 第二七七号・第七六―七八頁 明治四四年六月 ○恩賜財団済生会の経過(DK310009k-0007)
第31巻 p.71-73 ページ画像

竜門雑誌  第二七七号・第七六―七八頁 明治四四年六月
    ○恩賜財団済生会の経過
恩賜財団済生会の経過は予て記載する所ありしが、其後に於ける経過の概要を記さんに。
△五月廿九日 同日午後二時より永田町の桂総理大臣邸に於て東京側の世話会を開きたり、当日の出席者は左の如し。
 高橋是清・豊川良平・添田寿一・松尾臣善・朝吹英二・近藤廉平・大橋新太郎・中沢彦吉・柿沼谷蔵・佐竹作太郎・山本達雄・福原有信・長島秘書官・小橋衛生局長・井上内務参事官、
青淵先生は当日徴恙の為め、桂首相・平田内相は他の公務の都合にて欠席せられたる為め、同会に於ては纏まりたる決議を為すに至らず、六月早々再会を催すことゝして散会したり。
△六月五日 桂首相は同五日午後四時より東京外五大都市の世話人を招きて、恩賜財団済生会に関する協議を遂げたるが、曩に東京市の世話人会を開きて之に関する申合を為したる事あれども、六大都市全部の世話人会は即ち今回が初めにて、左の諸氏出席せり。
 △東京 青淵先生・高橋是清・添田寿一・浜口吉右衛門・豊川良平益田孝・近藤廉平・朝吹英二・柿沼谷蔵・山本達雄・中野武営・馬越恭平・中沢彦吉・大橋新太郎・安田善次郎・福原有信、
 △神戸 伊藤長次郎・川崎芳太郎△大阪 鈴木馬左也・広岡恵三・土居通夫・中橋徳五郎・小山健三・岩下清周△横浜 小野光景・原富太郎・大谷嘉兵衛△京都 飯田新七△名古屋 鈴木総兵衛・岡谷惣助、
主人側は桂首相・平田内相・柴田翰長・一木次官、有松・井上・小橋各局長、杉・長島・坂田・塚本・木田川の各秘書官にして、桂首相より本会設立の経過を説明したる後ち、本会に対する華族の態度に付ては『華族全体として聖旨を奉戴し、然る可き措置に出づる事』と、華族中の資産家が個人々々に相当の醵金を為す事との両方面あり、而して徳川華族会館長は聖勅拝戴以来熱心に之が為に尽力せられつゝあり又官吏の方に付ては内閣書記官長より説明せしむべしと挨拶す、次で柴田翰長の説明に曰く。
 官吏は勅任官は年俸十分の一、奏任官千五百円以上は十五分の一、
 - 第31巻 p.72 -ページ画像 
千五百円以下は廿分の一を二箇年内に醵出せしむる計画なり、然るに親任官の方々には既に相当の考慮あるべきを以て、別に規定せず云々。
斯くて午後六時一同晩餐を共にし、桂首相は最と謹厳に左の挨拶を述べらる。
 目下多忙の砌り、多数御来会あり、熱心に御尽力下さるは切に感謝する所なり、殊に東京以外の方々は、遠路を厭はず非常の時間を費やしつゝ御参会せられたるは、深く御礼を申上ぐる所也。我が済生会の事業は今日の我国情に於て最も大切なると共に、之れが十分の成功を期するは至つて困難の事たるを信ず、然れども聖旨を奉戴し万難を排して之が完成を期せば、其の効果の真に著大なるべきは全く言説を要せざる可し、幸に有力なる諸君の熱心なる尽力に依り、速かに且つ充分の成功を収めん事を信ず云々。
安田善次郎氏来賓総代として之に答ふ。
 済生会の事に就て有り難き聖旨を承り、且つ本事業に畢生の心血を注がれつゝある総理大臣の熱誠を拝聴し、吾等感激に堪へず、かねがね這種事業に志ある者多々ありしも、従来相当の機関なかりし為め十分之れを善用する事能はざりし、然るに今や忝くも聖旨を奉戴したる済生会の成立したる以上、凡ての人普く之を利用すべく、自分も亦及ばずながら相当の微力を致さんと欲す、而して此処に列席の東京外五大都市の有力者も亦熱心尽力の事なれば、必らず十分聖旨を貫徹するに足るべき善美の結果を齎らし得べきを信ず、目下本会の準備着々順当に進捗し、已に八分通り成功せる者と云ふべく、残れる二分も亦聖天子を戴き又事業に熱心なる総理大臣の在るより必らず成功せん事疑を容れず、一同に代り御鄭重なる御趣旨並御饗応に御答す云々。
夫れより再び細目の協議を遂げ、其協議の趣旨に基き左の如き申合せを為したり。
 一各世話人は其依嘱地方資産家の人名を調査し、其財産情況に依りて出金額を具体的に定むる事。
 一地方世話人は其結果を当該府県知事に報告する事。
 一中央の世話人は同様の結果を、直接桂首相に報告する事。
 一地方府県知事は遅くも七月上旬までに世話人の報告に基き管下の各富豪を召集し、又実際の寄附額を定むる事。
貴族富豪の醵金額は各自の意思に依るべきは勿論なるが、其醵出方法は一回支出を原則とし、其最長期のものと雖も十年賦に止むべく、同時に官吏側の出金額に柴田翰長の報告せる率に依れば、総額約三百万円は徴収し得べき予定なりと、尚東京の世話人は来る八日午後二時先づ首相官邸に再会合を催ほすことゝして散会せり。
△六月八日 同日午後二時より永田町首相官邸に於て済生会東京世話人会を開き、青淵先生・高橋・山本・添田・浜口・大橋・中沢・朝吹益田・柿沼・豊川・佐竹・近藤の十三氏、及長島総理大臣秘書官・木田川内務大臣秘書官出席、事業進行方法に関し協議の末、各世話人に於て夫々部署を定めて勧誘する事に決し、四時半散会せり、因に恩賜
 - 第31巻 p.73 -ページ画像 
財団済生会に対する官吏の醵金方法に関しては、各省は桂首相の通牒に依り其意思に基き左の如き義金申合事項を決定し、管下官署に通牒せられたりと云ふ。
      △官吏義金申合事項
 一、官吏の義金勧誘は現在の官等俸給に依り之を定むる事、但し月賦払と為す者は明治四十四年七月より明治四十六年六月迄の俸給を標準とする事。
 二、月賦払の者は官等に変更ありたるときは、其翌月を標準とする事。
 三、一時払の者は左の標準に依る事。
  △勅任官 俸給一ケ年分の十分ノ一 △奏任官 年俸千五百円以上は 一ケ年俸給の十五分ノ一、年俸千五百円以下は一ケ年俸給の廿分ノ一
 四、月賦払の者は左の標準に依る事。
  △勅任官 三項醵出額の廿四分ノ一 △奏任官 三項醵出額の廿四分ノ一


(八十島親徳) 日録 明治四四年(DK310009k-0008)
第31巻 p.73 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四四年     (八十島親義氏所蔵)
五月三十一日 晴
○上略
夕五時ヨリ王子ニ於テ同族会開会、済生会ニ約十万円ノ寄付ハ必要ト思フ、向後各家収入減ヲ覚悟シ、家計費ニ節約ヲ加ヘ、事実ニ於テ節費喜捨ノ目的ヲ果ス事必要ナリト訓諭セラル ○下略


渋沢栄一 日記 明治四四年(DK310009k-0009)
第31巻 p.73-74 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年     (渋沢子爵家所蔵)
六月三日 晴 暑
○上略 午前九時三田桂公爵ヲ訪ヘ、平田内相来会シテ共ニ済生会ノ事ヲ協議ス ○下略
   ○中略。
六月八日 晴 軽暑
○上略 午後二時永田町総理大臣官舎ニ抵リ、済生会ノ事ヲ協議ス、東京世話人一同ノ出金額ヲ協定シ、尚他ノ有力者勧誘ノ手続ヲ談ス ○下略
   ○中略。
六月十三日 曇 軽暑
○上略 午後五時永田町総理大臣官邸ニ抵リ、済生会寄附金ノ事ニ付勧誘ニ勉ム、日本橋区ノ富豪諸氏来会シ、各自其出金額ヲ定ム ○下略
   ○中略。
六月十九日 大風雨 暑
○上略 午前十一時永田町総理大臣官邸ニ抵リ、済生会寄附金勧誘ノ集会ニ出席ス、会スル者四十名余、各出金高ヲ帳簿ニ記入ス ○下略
   ○中略。
六月二十三日 曇 暑
○上略 午前十一時永田町総理大臣官邸ニ抵リ、済生会寄附金勧誘ノ事ニ尽力ス、午飧後世話人等ト種々ノ協議ヲ為ス ○下略
   ○中略。
 - 第31巻 p.74 -ページ画像 
六月二十六日 曇 暑
○上略 午前十一時永田町総理大臣官邸ニ抵リ、済生会寄附金ノ事ヲ周旋ス、午飧後協議 ○下略
六月二十七日 雨 暑
○上略 午前十時事務所ニ抵リ、浜口氏ト共ニ済生会寄附金ノ事ニ関シ、峰島・堀越・渡辺氏等ヲ訪問ス ○下略
   ○中略。
七月一日 雨 暑
○上略 十一時半総理大臣官舎ニ抵リテ、済生会寄附金ノ事ヲ周旋ス ○下略
   ○中略。
七月七日 晴 暑
○上略 十一時永田町総理大臣官舎ニ抵リ、済生会ノ事ニ付市内ヨリ招集セル人々ノ来会ニ出席ス、畢テ同会将来ノ施設ニ関シテ、桂・平田両大臣、及世話人一同ト種々協議スル処アリ ○下略
七月八日 晴 暑
○上略 午前九時千駄ケ谷徳川公爵ヲ訪ヘ、面会シテ済生会ノ事ヲ談話ス ○下略
   ○中略。
七月十二日 晴 暑
○上略 午後一時半事務所ニ抵リ、森村市左衛門氏ノ来訪ニ接シ、済生会寄附金ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
七月十四日 晴 暑
○上略 午後四時三田桂総理邸ニ抵リ、済生会ニ関スル要務ヲ協議ス、平田内務大臣来会ス ○下略
   ○中略。
七月二十日 曇 暑
○上略 午後三時半三田桂公爵ヲ訪ヘ ○中略 済生会ノ事 ○中略 ヲ談話ス ○下略
   ○中略。
七月二十二日 曇 冷
○上略
午前九時永田町総理大臣官舎ニ抵リ、済生会ノ事ニ関スル会合ニ出席ス ○下略


竜門雑誌 第二七八号・第三六―四〇頁 明治四四年七月 ○恩賜財団済生会の其後(DK310009k-0010)
第31巻 p.74-77 ページ画像

竜門雑誌  第二七八号・第三六―四〇頁 明治四四年七月
    ○恩賜財団済生会の其後
六月八日までの恩賜財団済生会の経過は前号に掲げしが、其後経過の概要を記さんに、
△六月十三日(第一次寄附) 桂首相は六月十三日午後五時永田町の官邸に日本橋区方面の資産家を招き、恩賜財団済生会の寄附に付き懇談する所ありたり、出席者は主人側桂首相・平田内相を初め、青淵先生浜口・柿沼・大橋諸氏等の東京寄附勧誘世話人、及び杉村甚兵衛・薩摩治兵衛・大村彦太郎・服部金太郎・高津伊兵衛・日比谷平左衛門・村井吉兵衛の諸氏、並に長島・杉・木田川の各秘書官にして、先づ桂
 - 第31巻 p.75 -ページ画像 
首相は一場の挨拶をなしたる後、施療恩賜金御下附の事より済生会設立に至る趣旨を述べ、次に平田内相は施療事業の説明をなし、青淵先生は済生会設立以来寄附勧誘の経過並に現状を述べたる末、此際応分の寄附をなし済生会事業の成功を期し 聖旨に副はん事を望むとて懇談を試むる処あり、次で一同は食堂に入り晩餐を共にしたる後更に協議を継続し、寄附金取纏をなす事とし午後九時頃散会したるが、東京市に於て十三日迄済生会本部に正式の手続を経て寄附の申込みをなしたる資産家並に其金額は左の如し。
   百万円     三井家
   百万円     岩崎家
   百万円     大倉喜八郎
   拾万円     青淵先生
   拾万円     村井吉兵衛
   五万円     高橋是清
   五万円     浜口吉右衛門
   五万円     益田孝
   五万円     近藤廉平
   五万円     山本達雄
   五万円     日比谷平左衛門
   五万円     服部金太郎
   五万円     杉村甚兵衛
   参万円     朝吹英二
   参万円     佐竹作太郎
   参万円     中沢彦吉
   参万円     大橋新太郎
   参万円     薩摩治兵衛
   弐万円     添田寿一
   壱万円     豊川良平
   壱万円     柿沼谷蔵
即ち合計参百七拾九万円に達せるが右は何れも十ケ年賦納付の筈なり
△六月十九日(第二次寄附) 桂首相は六月十九日午前十時より左記の諸氏を官邸に招待したり、首相は先づ一場の挨拶を為し、続いて平田内相は既往の経過を説明し、青淵先生は世話人を代表して、東京市に於ける義捐金募集の経過を述べて醵金の勧誘を為し、右終りて零時半一同食卓に着き、午後三時半散会せし由なるが、当日の寄附者及び金額は左の如し。
   拾万円  赤星鉄馬     五万円   馬越恭平
   五万円  浅野総一郎    五万円   緒明圭造
   五万円  根津嘉一郎    五万円   神田鐳蔵
   五万円  賀田金三郎    参万円   小池国三
   参万円  福島浪三     参万円   加藤正義
   参万円  (田中平八    参万円   大川平三郎
        同銀之助)
   弐万円  飯田義一     弐万円   山中隣之助
   壱万円  高津伊兵衛    壱万円   田村利七
 - 第31巻 p.76 -ページ画像 
   壱万円  大田黒重五郎   壱万円   藤山雷太
   同    木村清四郎    同     山本条太郎
   同    岩原謙三     同     吉井友兄
   同    中野武営     同     門野重九郎
   同    大倉久米馬    同     山口宗義
   同    志村源太郎    同     高松豊吉
   同    三村君平     同     佃一予
   同    小野金六     同     雨宮亘
   同    木村長七     同     近藤陸三郎
   同    波多野承五郎   同     岡崎邦輔
の諸氏にして、合計八拾壱万円にして、東京市に於ける義捐の累計は四百六拾万円に達せり。
○中略
△六月二十三日(第三次寄附) 六月二十三日には日本橋在住の左記諸氏を招待し、前回同様の挨拶及報告あり、正午食卓に着き午後二時散会したり、当日正式に醵金の申込を為したる諸氏は即ち左の如し。
   五万円  中井新右衛門   五万円   原六郎
   参万円  園田孝吉     参万円   今村繁三
   参万円  松方巌      弐万円   渡辺大治郎
   弐万円  長井利右衛門   壱万円   成瀬正恭
   壱万円  千葉松兵衛    同     福原有信
   同    深田米治郎    壱万弐千円 塩原又策
   壱万円  広津清兵衛    壱万円   山本嘉兵衛
   同    高橋門兵衛    同     津村重舎
   同    吉村甚兵衛    同     清水米蔵
   同    渋谷嘉助     (以上各十年年賦)
    合計参拾四万円
之を第一・第二醵金に合すれば、四百九拾四万円也。
諸官省中、六月廿三日迄に内務省へ宛て済生会へ寄附を申込みたる諸官庁は左の如くなるが、何れも高等官にして、月賦納付多く、一時払込は殆んど無しと云ふ。
 聾唖学校△蚕業講習所△貴族院事務局△印刷局△行政裁判所△会計検査院△奈良衛戍病院△名古屋土木出張所△帝国図書館△維新史料編纂事務局△第二高等学校△東京帝国大学△内務省
○中略
△七月一日(第五次寄附) 七月一日桂首相官邸に於ける招待者中の出資者は左の如し。
 金拾万円 田中長兵衛
 金五万円宛 渡辺治右衛門・川崎金三郎
 金参万円宛 堀越角三郎・三島弥太郎・峰島茂兵衛・前川太郎兵衛
 金弐万円宛 和田豊治・清水満之助・天野源七・亀田介治郎・吉田丹左衛門
 金壱万弐千円 吉村鉄之助
 金壱万円宛 前川太兵衛・吉田丹次郎・中村茂八・岩出惣兵衛・伊
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藤幹一・岩崎伝次郎・岩永省一・高木与兵衛・染原七兵衛・河合佐兵衛・小栗兆兵衛・中山佐市・志岐信太郎・中島行孝・小川平助・小林伝次郎・古屋徳之助・小川䤡吉・久米民之助・西村直・白石元治郎・村井貞之助・浅田正文・小西孝兵衛・松尾臣善・中村清蔵・高田小次郎・郷誠之助・森岡平右衛門・三谷長三郎・岡田治衛武・米井源治郎・小林弥兵衛・小西安兵衛
○中略
△七月七日(第六次寄附) 桂首相官邸に於ける第六次の出資者は左の如し。
 △弐万円早川千吉郎 △壱万円宛鹿島チヨ・三枝代三郎・杉本鶴五郎・高島小金治・小川専助・後藤長左衛門・田中栄八郎・浅井倍之助・籾山半三郎・青地玄三郎・谷口真次郎・杉山八右衛門・安井治兵衛・菊池長四郎・小倉久兵衛・清野長太郎・久保田勝美・犬塚信太郎・久保田政周
当初よりの累計額は六百弐拾八万弐千円なりといふ
△皇族の御醵金 財団済生会の事業は、桂首相・平田内相・青淵先生等の尽力により追々進行しつゝあるが、各皇族方に於かせられても聖意を奉戴し夫々醵金の思召あらせらるゝに付、近々皇族別当家令会議に於て確定の上、御出金額も御決定相成るべしと拝聞す。


竜門雑誌 第二七九号・第六二頁 明治四四年八月二五日 ○済生会経過(DK310009k-0011)
第31巻 p.77 ページ画像

竜門雑誌  第二七九号・第六二頁 明治四四年八月二五日
    ○済生会経過
 桂首相は七月二十二日午前九時永田町の官邸に済生会世話人を招き義捐金醵出に関する報告をなせり、出席者は桂首相・平田内相、杉・長島・木田川各秘書官、及青淵先生・大倉・安田・山本・添田・朝吹近藤・馬越・中沢・福原・佐竹・浜口・大橋・高橋・中野諸氏等各世話人にして、先づ平田内相は各府県に於ける義金醵出に関する情況を詳細に報告する所あり、次で桂首相は、済生会発起以来各位の尽力に依り、当初に予定したる義金二千万円を超過するの見込付きたるを以て、各府県の分は一先づ来る二十五日迄を以て締切り、金額を確定し直に総裁を奉戴し、正副会長・理事・監事以下の事務機関を組織し、事業に着手することゝなせる旨を述べ、一同其意を諒し正午散会したるが、其後東京に於て義捐の申込をなしたる者左の如し。
 △三十万円 安田善次郎 △二十万円 古河虎之助 △二万円 国沢新兵衛 △一万円宛 田中清次郎・岡松参太郎・野々村金五郎・福沢フサ
即ち五十六万円にして、東京市に於ける義捐金累計は七百二十五万七千円に達せり。


渋沢栄一書翰 松井吉太郎宛 (明治四四年)六月三〇日(DK310009k-0012)
第31巻 p.77-78 ページ画像

渋沢栄一書翰  松井吉太郎宛 (明治四四年)六月三〇日   (松井三郎氏所蔵)
○上略
済生会之義ニ付来示拝承仕候、東京ニてハ老生抔毎日之如き会合ニて随分困却仕候、乍併追々寄附金相進ミ、商工業者丈ニテ今日まてニ決定之分五百三拾八万円余ニ上リ候間、向後都合能相進候ハヽ、予期之
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金弐千万円ニ相成候もさして難事ニ無之歟と存候、貴方ニても夫々御心配中之由、何卒御尽力被下候様頼上候
○中略
  六月三十日
                      渋沢栄一
    松井賢契
         坐下
「越後国長岡六十九銀行」
                           「東京兜町」
               松井吉太郎様        渋沢栄一
                     拝復親展
六月三十日


(八十島親徳) 日録 明治四四年(DK310009k-0013)
第31巻 p.78 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四四年   (八十島親義氏所蔵)
偖明治ノ第四十四年(予ノ第三十九歳)モ玆ニ終ヲ告ケヌ、例ニ依リテ一年ヲ通シテノ感想ヲ回顧、随録センカナ ○中略 済生会ノ発起ニハ、富豪ニ対スル内実強制寄付ノ挙ヲ伴ヒタルモ、兎モ角桂公ノ政治上ノ勢力ニ依リテ、苦情ダラダラ乍ラ成立ヲ見ルニ至レリ ○中略 済生会ノ発起ニ際シテモ、男爵ノ努力ナカツセハ、カヽル成功ハ見ラレザリシナラン ○下略
   ○右ハ明治四十四年年末ニ際シ、一年間ヲ回顧、随録セシモノナリ。


恩賜財団済生会第一回会務報告書 同会編 附録・第二三頁 大正二年一一月刊(DK310009k-0014)
第31巻 p.78 ページ画像

恩賜財団済生会第一回会務報告書 同会編  附録・第二三頁 大正二年一一月刊
    金壱千円以上寄附者芳名録 (大正二年三月三十一日現在)
○上略
  金拾万円  北豊島郡滝野川村  男爵 渋沢栄一
○下略


恩賜財団済生会第一回会務報告書 同会編 第一―五頁 大正二年一一月刊(DK310009k-0015)
第31巻 p.78-79 ページ画像

恩賜財団済生会第一回会務報告書 同会編  第一―五頁 大正二年一一月刊
    第一章 沿革
    (一) 本会ノ設立
明治四十四年二月十一日紀元節ノ佳辰ニ方リ、畏クモ 聖上親シク桂首相ヲ 御前ニ召サセラレ、済生治教ニ関スル優渥ナル 勅語(巻頭掲出)ヲ下シ賜フト共ニ、特ニ無告ノ窮民ニシテ医療ノ途ヲ得サルモノアランコトヲ軫念アラセラレ、施薬救療ノ資トシテ内帑ノ資百五拾万円ヲ下シ給ハリ(伝宣書巻頭掲出)宜シキニ随テ之ヲ措置シ、永ク衆庶ヲシテ頼ル所アラシメンコトヲ期セヨトノ 御沙汰アリ
前記ノ 勅語ニ基キ、桂首相ハ優渥ナル 聖旨ヲ奉体シテ其ノ貫徹普及ヲ計ラムカ為、各大臣ト協議ノ上、恩賜ノ慈恵資金ヲ基礎トシテ財団法人ヲ組織シ、以テ施薬救療事業ヲ経営セムコトヲ期スルト共ニ、朝野力ヲ戮セ同志相謀リ、以テ普ク全国ニ亘リ弘ク救療ノ途ヲ講シテ
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之カ事業ヲ大成センコトヲ計リ、乃チ桂公爵発起人トシテ五月九日東京・京都・大阪・横浜・神戸・名古屋各市ノ資産家約百九十余名ヲ招待シテ済生会設立ノ趣旨ヲ演ヘ、其翼賛ヲ求メタルニ、何レモ戮力 聖旨ノ貫徹ニ勉メムコトヲ誓ヒ、便宜是等ノ都市ニ世話人ヲ置キ、之カ斡旋ノ任ニ当ランコトニ決シタリ
右世話人ハ左記ノ通嘱託シタリ
       東京市世話人
     男爵 渋沢栄一氏   工学博士 団琢磨氏
     男爵 近藤廉平氏        朝吹英二氏
        柿沼谷蔵氏        中沢彦吉氏
        福原有信氏        豊川良平氏
        益田孝氏         山本達雄氏
        大倉喜八郎氏       大橋新太郎氏
     男爵 松尾臣善氏     男爵 高橋是清氏
   法学博士 添田寿一氏        浜口吉右衛門氏
        佐竹作太郎氏       馬越恭平氏
        安田善次郎氏       中野武営氏
       京都市世話人  ○氏名略
       大阪市世話人  ○氏名略
       神戸市世話人  ○氏名略
       横浜市世話人  ○氏名略
       名古屋市世話人 ○氏名略
発起人ハ又同月十二日東京新聞記者ヲ招待シ、新聞ノ助力ヲ請フ所アリ、同日更ニ第一回東京世話人会ヲ開キ、寄附金ノ勧誘ニ就キ協議シタリ
同月二十九日、第二回東京世話人会ヲ開キ、前回ノ事項ニ就キ協議シタリ
六月五日東京外五都市ノ世話人会ヲ開キ、寄附金勧誘ニ関スル事項ニ就キ協議ヲ為セリ
曩ニ東京ニ招待スルコトヲ得サリシ地方資産家ニ対シテハ、地方長官ニ其ノ協議ヲ委嘱シ、発起人ヨリ夫々ニ対シ本会設立ニ関シ翼賛方ノ書面ヲ発送シ、地方長官ハ各地ニ於テ日ヲ期シ是等ノ人々ヲ招待シ、寄附金勧誘ニ就キ協議ヲ為シタリ
更ニ華族諸家ニ於テモ、此際 聖旨ノ貫徹ヲ計ルカ為、本会事業ヲ賛襄シ寄附セラレタキ旨、勧誘方発起人ヨリ華族会館長徳川公爵ヘ依頼セリ
右ノ外各官庁ニ於ケル高等官在職者ニ在リテモ賛同寄附方、発起人ヨリ各庁長官ニ勧誘方ヲ委嘱セリ
斯クテ五月三十日恩賜金百五拾万円及其利子壱万弐千参百六拾円ヲ基本トシ、民法ノ規定ニ従ヒ桂公爵ノ名義ヲ以テ寄附行為ヲ具シ、財団法人設立ノ許可ヲ内務大臣ニ申請シタルニ、同日許可ノ指令ヲ得タルヲ以テ、翌三十一日東京区裁判所登記簿ニ之カ登記ノ手続ヲ了シ、玆ニ本会ノ成立ヲ告ケタリ

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公爵桂太郎伝 徳富猪一郎編 坤巻・第九三四―九四五頁 大正六年二月刊(DK310009k-0016)
第31巻 p.80-83 ページ画像

公爵桂太郎伝 徳富猪一郎編  坤巻・第九三四―九四五頁 大正六年二月刊
 ○第十一編 第壱章 公と社会事業
    七 公と済生会
済生救療の事業たる、慈善事業中に在りて、最大多数細民の休戚に関する問題にして、国家文運の発達と共に、其の施設の完整を期せさる可からす。而して済生会の施設は、帝国唯一の慈善事業にして、而かも公か晩年に於て、社会に貢献したる最大の事業也。
明治四十四年二月十一日、紀元節に当り 天皇親しく公を御前に召し済生治教に関する勅語を賜はり、又特に無告の窮民にして、医療の途を得さるものあらんことを軫念し、内帑の資金百五十万円を下賜せられたり。其勅語並に御沙汰に曰く。
     勅語
 朕惟フニ世局ノ大勢ニ随ヒ国運ノ伸張ヲ要スルコト方ニ急ニシテ、経済ノ状況漸ニ革マリ、人心動モスレハ其ノ帰向ヲ謬ラムトス、政ヲ為ス者宜ク深ク此ニ鑑ミ、倍々憂勤シテ業ヲ勧メ教ヲ敦クシ、以テ健全ノ発達ヲ遂ケシムヘシ、若シ夫レ無告ノ窮民ニシテ医薬給セス、天寿ヲ終フルコト能ハサルハ、朕カ最モ軫念シテ措カサル所ナリ、乃チ施薬救療以テ済生ノ道ヲ弘メムトス、玆ニ内帑ノ金ヲ出タシ其ノ資ニ充テシム、卿克ク朕カ意ヲ体シ、宜シキニ随ヒ之ヲ措置シ、永ク衆庶ヲシテ頼ル所アラシメムコトヲ期セヨ
     恩賜
 一金壱百五拾万円
 右最前 勅語ノ 思食ニ依リ、施薬救療ノ資トシテ下賜候旨御沙汰被為在候、此段伝宣候也
  明治四十四年二月十四日
               宮内大臣 子爵 渡辺千秋
    内閣総理大臣 侯爵 桂太郎殿
輓近経済状態の変遷に伴ひ、貧富の懸隔、益々其の甚しきを加へ、多数の細民をして、生活難を感せしむる傾向を生するは、自然の勢にして、社会主義の起る、之に由る。是れ実に経世に志あるものゝ、留意する所にして 天皇の深く社会の現状に軫念し、済生治教の勅語を賜ひ、内帑を散し、斯民を救はんことを期させ給ひたる所以也。
国民は 勅語及ひ恩賜金の御沙汰を拝し、皆其の 聖徳に感激せさるは無く、貴族院は各部長・理事の会議を開き、恩賜金の処分に就ては公及ひ閣臣に信頼するに決し、衆議院も亦粗々之と同一の決議をなせり。是に於て公は閣僚と共に、恩賜金に関する大体の方針を決し、公と平田内相とは、専ら其の任に当り、先つ貧民救療の調査を遂け、其の結果恩賜金を以て財団法人を設け、之に全国有志者の義金を加へて聖旨を貫徹せんことを期し。一木内務次官・床次地方局長・小橋衛生局長並に柴田内閣書記官長・長島秘書官等を挙けて委員と為し、首相官邸に会して、諸般の準備に著手し、以て財団法人の組織案を作製するに至れり。
公は財団法人の組織案成るを機として参内し 天顔に咫尺して奏上する所ありしに 天皇直に之を嘉納せらる。只其の会名に『恩賜財団済
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生会』とあるを注視し、公に謂て宣く、『此の事業は 朕のみにて之を行ふに非す。朕か臣民と共に行ふ事業なれば、恩賜財団の四字を小さくし、済生会の三字を大にし、恩賜財団済生会とすへし』と。公は深く宏遠なる 聖旨に感激して 御前を退き、下命の如く奉行し夙夜励精、誓て済生の目的を達し、聖旨を貫徹せんことを期したり。
五月八日、公は義金募集の件を、各府県知事に委嘱し、九日、東京・大阪・京都・横浜・名古屋・神戸の富豪、九十三名を首相官邸に招集し、恩賜財団済生会協賛趣意書並に同会寄附行為定款等を発表したり
     恩賜財団済生会協賛趣意書
 済生救療の事たる、救済事業中に在りても、民の休戚に最も緊切なる関係あることは、今更言を須たす。又之を国家衛生の上に観るも将た之を一般経済の上に察するも、其影響する所、極めて大なるものあり。殊に国運の進暢に伴ひて、之か施設を為すこと、更に一層の急を感せすんはあらす。抑々救済事業の我邦に於ける、其由て来る所頗る旧し。然れとも、世人の汎く之か必須なることを認識するに至り、施設の亦随ひて稍々観るへきものあるを致したるは、蓋し極めて近年の事に属せり。顧みるに、明治三十年 英照皇太后陛下崩御のことあるに丁り、慈恵救済の資として、特に内帑の資四十万円を各府県に下賜せられてより以来、歳を閲すること十有四年、資金も亦今や積て二百万円に垂んとす。其中央・地方を通して救済事業の上に、一段の振色を加へたるもの 皇室仁慈の余光を荷ふ所極めて大なりとす。今や救済事業は、公私の施設を通して、其数既に四百有余に達し、其経営往々観るへきものなきにあらさるも、而かも之をして益々改善の実を挙け、其内容を整斉して、以て完成の域に達せしめんことは、前途尚頗る遼遠なりと謂はさるへからす。畏くも本年紀元の佳節に当り 今上陛下に於かせられては、親しく桂総理大臣を御前に召されて、世局の大勢に随ひ、倍々憂勤して業を勧め教を敦くして、以て健全の発達を遂けしめ、先つ無告の窮民に対して、施薬救療以て済生の道を弘めよとの 勅語を賜り、特に内帑の資百五十万円を下賜し給ふ旨の 御沙汰あらせらる。天徳宏遠にして窮民を軫念せらるゝの渥き、誰か感奮興起せさるものあらんや。今や泰西の諸国に在ては、何れも其力を済生救療の事に致さゝるはなく、或は公費に依て自宅救療、又は入院救療の普及を図り、或は各種の慈善団体、又は富豪の寄附等に依りて、幾多の施療病院を建設し、其の他各種の施薬救療の方法を立てゝ、以て療病の途を得せしむる等、孜々として其及はさらんことを、是れ恐るゝの状あり。然るに、顧みて是を我邦に察するときは、一般救済事業の数、近時漸く増加するに至りたりと雖も、之か施設の実状は、尚遠く泰西に及はさるの憾あり。殊に施療救済の事に至ては、其数より謂ふも、将又其実状より謂ふも、更に著しき遜色なきを得す。現に公費救護の法規に拠るものゝ外、之か機関として経営の蹟、稍々観るへきものは二・三を算し得るに過きす。其他団体及個人の経営に係るもの固より之なしとせさるも、規模何れも小にして、其施設尚頗る不完備なるを免れさるもの多し。殊に我邦近時に於ける、経済状態
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の推移甚著しきものあり、多数の細民をして、為に益々生計の難を感せしむるの傾向なきにあらす。随て貧民の疾病に罹るも、容易に医療を受くるを得す、空しく病苦の為に呻吟して、長く業務に就くこと能はさるもの、亦勢其多きを加へさるを得す。固より救療を為すに当ては、先つ施療の要否如何を甄別し、以て其事を慎み、苟も濫施に亘りて、為に惰民を助長するの弊なきを期するは、言を俟たすと雖も、其能く労務に堪ふへきものにして、医薬を得さるか為め不幸にして容易に恢復し得へき病患だも、勢益々重からしむるの外なく、往々にして其天寿を完うすることを得さらしむるは、独り其人の為に憾事とすへきのみならす、一人の疾病は更に他の勤労を妨け、延ては老弱を飢餓に瀕せしめ、之をして又同一の窮地に陥らしむるものなきを保せす。此の如きの類、若し各地到る処に多々之ありとせんか、一国の活力は之か為に著しく消耗せらるゝを免れすして、一国の生産力は、亦為に減殺せらるゝに至るへし。今試に我邦の死亡統計を以て、之を英独の諸国に比せんか、彼に在ては近年著しく一般の死亡率を減し、英国の如きは人口千に就きて僅に一四・四を示し、独逸の如きは亦同しく逓減して一八を示すに係はらす、我に在ては今尚依然として千分の二十内外を示し、毫も減少の傾向あるを見す。加ふるに庶民病として、最も恐るへき結核死亡者に至ては、明治三十二年に於て、全国死亡総数百分の七・二五なりしもの、爾来は漸次に増加して、今や百分の十内外を算し、就中大市街地に在ては、百分の十八乃至二十一の高率を示すに至れり。殊に小児死亡率の如きは、従来彼に比して遥に少数なりしを誇りたりしに近年彼に在ては著しく其減少を示せるに係はらす、我に在ては却て漸次増加の勢を呈せり。此の如きは其由て来る所、固より独り公私救療の不完備にのみ是れ帰すへきにあらすと雖も、若夫貧民救療の施設にして、其宜しきを得、疾病の未た甚しからさるに先たちて、早く医療を加へ、一には此の如くにして、其天寿を完うせしめ、一には此の如くにして、能く其労務に従ふことを得せしむることは、其一国の活力に裨益する所、必す大なるものあらん。施薬救療の殊に今日の我国に急なるを感するは、蓋し之か為なり。
 今上陛下の深く 大御心を貧民の救療に注かせられ、特に内帑の資を下し賜はりて、済生の途に充てしめられたるは、殊に救済事業を以て念と為すものゝ、寔に感激に堪へさる所なり。依て玆に朝野力を戮せ、同志者胥謀り、恩賜の資を基本として、更に加ふるに有志の義金を以てし、普く全国に亘り、弘く救療の途を講して、以て 聖旨の普及貫徹を期せんとす。
尋て公は済生会設立の旨趣、並に其経過を述へ、朝野一致の力に由て 聖旨を貫徹せんことを期する旨を演説し、其の賛成を求めたり。其の演説の要旨を掲くれは、即ち左の如し。
   ○演説前掲(第六八頁)ニツキ略ス。
公の演説終るや、平田内相は、財団計画と其の事業とに就て説明する所あり。男爵渋沢栄一の提議に由り、東京に二十名、大阪に十名、横浜・名古屋・京都・神戸等に五名宛とし、合計五十名の世話人を設く
 - 第31巻 p.83 -ページ画像 
ることに決し、一同は 聖旨を協賛して、各其の力を尽さんことを誓ひて、散会したり。
已にして、済生会事務所を、内務省内に置き、寄附の統理、施薬・救療事業の調査、処務の分課、給与規程等を定め、其準備略々結了するや、寄附金は世話人一同、及ひ各地方長官、並に各市長等の尽力に由りて、予定額に達すへき見込確立し、済生事業開始の時機に到達したりき。
是に於て五月二十一日、勅令に由りて伏見宮貞愛親王、総裁に任し、尋て公は会長に、平田は副会長に任せられたり。其日公は第一著事業として、寄附行為の件を上奏して裁可を得たりしかは、寄附金募集の方法を議定し、二十九日、世話人一同を首相官邸に招集して財団法人設立の件を協議し、三十日、財団法人済生会設立の認可を得たり。
斯の如く恩賜金のみを以て、財団法人の成立を告けたるも、之に加ふへき予期の寄附金を、確実に決定せされは 聖旨の貫徹期し難きを以て、公は六月五日、世話人一同を首相官邸に招き、寄附金額決定の件を協議し、八日地方長官に嘱するに、高等官の寄附勧誘を以てし、九日華族会館長たる公爵徳川家達に嘱するに、華族の寄附勧誘を以てし十三日、東京市の実業家を首相官邸に招きて、寄附金額の決定を議せしか、十五日に至り、岩崎・三井・大倉等、富豪の寄附金額決定したりしを以て、十六日之を各地方長官に通知して、地方の寄附金額決定を促せり。
爾来、公は極力基金募集に努めたる結果、予定額二千五百万円を得たりしかは、八月五日、済生会規則を決定し、廿二日、評議員総会を開き、其の経過を報告し、玆に済生会の創立事務一段落を告け、事業の開始を見るに至れり。
○下略


雨夜譚会談話筆記 下・第七四八―七五一頁 昭和二年一一月―五年七月(DK310009k-0017)
第31巻 p.83-84 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第七四八―七五一頁 昭和二年一一月―五年七月
                     (渋沢子爵家所蔵)
  第二十七回 昭和四年十二月二十四日 於渋沢事務所
    (二) 恩賜財団法人済生会と先生との御関係に就いて
先生「済生会の創立の事は覚えてゐるヨ。但し創立後の経営には大して直接の関係を持たないから、此方面の事は知らない。」
渡辺「現在、子爵は済生会の顧問として御関係があるのみでございます」
先生「そうかネ。何でも事の起りは、桂さんが総理大臣を罷める少し前(註、明治四十四年二月十一日)骨折つて、帝室から百五十万円の御下賜金を戴く事になつた。それについて民間からも醵金をしてこれを以て社会事業を起す計画を立てたので『醵金にはお前が出て一つ尽力して呉れ』と、桂さんが私に頼まれたので、私も『おやりなさい。此際金持から金を蒐めて社会事業をお起しになる事は、至極賛成です』と引受けて、尽力した。その時、大倉氏に百万円出させた。何でも大倉氏は加減が悪くて引籠つて居つたから、私は病床に行つて薦めたヨ。三井・岩崎も、大倉が百万円出したらと云つて
 - 第31巻 p.84 -ページ画像 
各百万円寄附する事になつた。それから峰島キヨ(?)と云ふお婆さんにも薦めに行つたら『外の人なら何だけれども、渋沢さん御自身でお出でになつたのだから……』と云つて五万円寄附したヨ。」
篤 「峰島のお婆さんが五万円出すなんか余程の事でございますネ。あたりまへだつたら、五万円が千円でも寄附するやうな女ではございません。」
先生「その時は、寄附金募集については相当尽力したヨ。総額で二千万円ばかり蒐まつたと思ふ。然し実務について、理事とか監事とかに立つた事がないから、その方面の消息は知らない。」
渡辺「只今は、先に京都府知事をやつて居つた馬淵鋭太郎さんが理事長をやつて居ります。」
先生「私は現在の事は、何にもわからないが、大して馬鹿げた事業に金を遣つてゐるのでもあるまい。」
渡辺「そんな事はございません。全国に済生会の医者を置いて、役場の証明書を持つて行きさえすれば、誰でも診察して呉れる事になつて居ります……。それから桂さんが明治四十四年に御下賜金を戴いた時は、丁度幸徳秋水の大逆事件がありましたが、桂さんは政府当局者として、世間に対する思想緩和策と云つたやうな意味で御下賜金を仰いだのではございますまいか」
先生「いやそんな深い意味はなかつたと思ふ。」
敬 「私はその時分の事を記憶して居りますが、世間では『桂さんが幸徳事件を御下賜金で買つた』と評判して居りました。」
   ○此回ノ出席者ハ栄一・渋沢篤二・渋沢敬三・渋沢元治・渡辺得男・小畑久五郎・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。