デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
4節 保健団体及ビ医療施設
18款 其他ノ関係諸事業 4. 錦糸病院
■綱文

第31巻 p.213-216(DK310044k) ページ画像

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■資料

錦糸病院後援会趣旨並に錦糸病院の過去現在及び将来 刊(DK310044k-0001)
第31巻 p.213-216 ページ画像

錦糸病院後援会趣旨並に錦糸病院の過去現在及び将来  刊
    敢へて愬ふ
錦糸病院が世の無告病者の為に創設せられしは明治三十一年三月に在り、以後大正十二年八月末日に及んで救療施薬する所実に百三十七万余人の多きを算す、官其の功績を録し、宮内・内務両省、東京府市等より奨励助成の趣旨の下に金員を下賜せられしこと、前後幾回なるを知らず、殊に大正十二年九月一日の大震火災に同院亦た焼失の不幸に会するや、宮内省よりは思召に依る御下賜金壱千円あり、尋いで内務省よりは復旧費中へ金参万円を交附せられたり。
爾来孜々として復旧に努めたるの結果、同院は大正十五年四月一日を以て開院し、従前の通り救療施薬を開始したり、洵に之れ社会の為め幸慶之れに過ぎずとする所なり、而して同院が創立以来二十有六年の光輝ある歴史を有すると、是れに対する皇室の思召の優渥なるとを顧念し来れば、将来大に事業を進展し内容の充実を計らざるべからず、況んや刻下の社会は切に斯くの如きの事業を必要とするの状態にあるに於ておや、是れ吾人の奮然蹶起為めに一臂の労を致し、一日も早く完全なる法人として、本事業の基礎を鞏固ならしめんと欲する所以なり。乃ち大方の君子に愬ふ、希くは吾人の微衷を諒とし、来つて同院の趣旨を賛助せられんことを、敢て不幸なる同胞の為に切望す。
               東京市下谷区真島町一番地
                   錦糸病院後援会
                     電話下谷四〇八番
                錦糸病院後援会
                主唱者
                  伯爵     柳原義光
                  伯爵     酒井忠正
                  子爵     三室戸敬光
                  子爵     滝脇宏光
                  東京府会議長 中野勇治郎
    錦糸病院の過去・現在及び将来
 不肖喜内が、不才自ら揣らず、独力を以て錦糸病院(旧称大日本救療院)を創設し、貧民救療の事を始めたのは、明治三十一年三月であります。貧困病者を救療することが、病者その人の為めたるは勿論、併せて社会風教の為め、公衆衛生の為め、民力涵養の為め、国民道徳の為め、総じていへば国家の為めたることを看取したからであります
 - 第31巻 p.214 -ページ画像 
 創設に方つて、東久世通禧・土方久元両伯爵、青山胤通・小金井良精・佐藤三吉・片山圀嘉四医学博士を始め、大方有心の士の賜はりたる御後援は、極めて多大なるものがありました。当時を顧みる毎に、不肖の感謝を新たにする所であります。
 が、元々、独力の仕事であります。創設以来、財政の困難曾つて絶ゆるなく、苦心又た苦心の間に経営すること、于今二十有六年に及びます。最近の十年間は、隠れたる篤志家の後援せらるゝあり、稍や愁眉を開くことが出来ましたが、それとても、年額三万円に上る経費を支ふるには足りませんので、不肖自身の負債を以てこれを補足し、或る時は、附属講習会を開催して、一は以て、一般開業医の研究に便し、一は以て、資金蒐集の策に用ひたることもあります。殊に大正八年以後は、出版部を附設し、専ら、国民精神の作興、一般道徳の振起に資すべき修養的書籍を著作発行し、その収益を興げて、事業費用中へ繰り入れるやうなことをして来ました。その困難たる、筆舌の能く尽す所ではありません。
 この際、たゞ一つ、不肖の慰めとなり、力となつたのは、創設以来の救療人員が、百三十七万有余の多きを算し、些か以て、素懐の一端を果し得たことであります。
 尚ほ又た、大正四年、宮内省から御大礼賑恤恩賜金があつたのを始めとして、爾後、宮内・内務両省、東京府・市等から、奨励助成の御趣旨に由る金円の御下賜が、幾十回に及んだこと、畢竟、本院の功績を録せられた結果と察せられ、不肖の最も光栄とし、感激措く能はざる所であります。
 然るに最近に於ける社会状態の激変は、不肖をして本院の事業を拡張し、内容を改善するの必要なることを痛感せしめました。こゝに於て、不肖は
   子爵 渋沢栄一殿   伯爵 大木遠吉殿     男爵 阪谷芳郎殿
   公爵 九条道実殿   伯爵 酒井忠正殿   陸車大将 一戸兵衛殿
      前田多門殿      桐島像一殿        太田黒重五郎殿
      関直彦殿       浜口雄幸殿        志賀和多利殿
      下田歌子殿      福原鐐二郎殿       正木直彦殿
      松本楓湖殿      小堀鞆音殿        湯本武比古殿
      今泉雄作殿  (以上賛助員)
 医学博士 小金井良精殿  同上 佐藤三吉殿     同上 片山圀嘉殿
   同上 入沢達吉殿   同上 土肥慶蔵殿     同上 田代義徳殿
   同上 塩田広重殿   同上 鈴木孝之助殿  ドクトル 井上豊太郎殿
 (以上顧問)
 等諸名士御後援の下に、先づ以て、従来の個人経営を改めて法人組織とし、その成るに及んで、中流階級の為めなる簡易診療部、一般開業医の為めなる常設講習会以下、種々の附属事業を創始するの計画を立て、これが実現に向つて着々進行し、以て、大正十二年九月一日、関東地方大震火災の際に及びました。何等の不幸、本院亦た焦土と化し、損害約十五万円に及んださへあるに、一時、該計画を放棄するべく余儀なくされました。
 - 第31巻 p.215 -ページ画像 
 大震火災当日の本院は、実に惨憺たるものでありました。医員以下が猛火を潜つての献身的努力に依つて、入院患者の全部を救出し得たことは、不肖の幾分意を安くした所でありますが、医員、其の他に於て、三名の焼死者と二名の負傷者とを出し、生残者をして、哀悼痛恨已む能はざらしめました。生残者とても、着のみ着の儘、身を以て東方小松川町へ免れたやうな次第であります。
 が、斯かる際にこそ、尚更、救療事業の必要があるのであります。因つて、直ちに臨時救療部を急設し、略ぼ数千人の傷病者を救療しました。
 次いで、焼跡敷地に於て、復旧建築工事に着手し、大方諸氏の御後援と御同情に依り、漸くにして完成いたしました。
 左は、大正四年以降、大震火災前後に於ける官府よりの御下賜であります。
 大正四年   御大礼救恤恩賜  金三百円  宮内省
 同      助成金      金三百円  内務省
 同      同        金三百円  東京府
 大正五年   同        金三百円  内務省
 同      同        金三百円  東京府
 大正六年   同        金三百円  内務省
 同      同        金三百円  東京府
 大正七年   同        金三百円  内務省
 同      同        金三百円  東京府
 大正八年   同        金三百円  内務省
 同      同        金三百円  東京府
 大正九年   御下賜      金五百円  宮内省
 同      助成       金五百円  内務省
 同      同        金三百円  東京府
 同      同        金五百円  東京市
 大正十年   御下賜      金五百円  宮内省
 同      助成       金五百円  内務省
 同      同        金三百円  東京府
 同      同        金五百円  東京市
 大正十一年  御下賜      金五百円  宮内省
 同      助成       金一千円  内務省
 同      同        金一百円  東京府
 同      同        金五百円  東京市
 同      特別補助     金二千円  東京市
 大正十二年  御下賜      金五百円  宮内省
 同      助成       金五百円  内務省
 同      同        金三百円  東京府
 同      同        金五百円  東京市
 大正十三年  御下賜      金五百円  宮内省
 同      助成       金五百円  内務省
 同      同        金二百円  東京府
 - 第31巻 p.216 -ページ画像 
 大正十三年  同        金四百円  東京市
  (右の中、大正九年以前の分は記録類焼失の為め、若干、相違の点あるを免れず)
 尚ほ大震火災に関して、災後間もなく、宮内省より、思召に依る御下賜金壱千円を拝受し、大正十三年六月、内務省より、本院の復旧費中へ、金参万円を交附せれた外、
皇太子殿下の御慶事御挙行に際しては、特に本院の創立経営者たる不肖に対して、
宮内省より、思召を以て、銀盃並に御内帑金弐百円を御下賜になりました。たゞたゞ感激の外はありません。
 それにつけても、一日も早く本院を復興し、事業を開始しければなりませんが、如何せん、財政の困難は、依然として旧の如く、否、旧以上に甚はだしいものがあるのであります。加ふるに頻発する所の諸困難を以てし、四苦八苦の間に焦慮懊悩しつゝ在りしが、幸ひにも、伯爵柳原義光・同大木遠吉・同酒井忠正・子爵三室戸敬光・同滝脇宏光各閣下を始め、篤志家諸君のこれに力を仮さるゝがあつて、大正十四年九月、錦糸病院後援会は組織せられ、尋いで、大正十五年四月一日、開院、従前の通り、救療施薬を実施する事となりましたのは、不肖の最も欣快とする所であります。
 冀くは、幸ひに大方諸君子の、御同情御後援に依つて、一日も早く法人として、本院本来の機能を発揮せしめられんことを、不肖の日夜に切望する所は、たゞこの一事に極まるのであります。
  大正十五年四月   東京市本所区柳原町二丁目十七番地
                錦糸病院長 高山喜内

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 外来患者                     入院患者 年度     患者数      同延人員     年度     患者延人員 大正二年   五、八八三    八〇、七六六   大正二年     六六八 同三年    五、六一三    九九、五九四   同三年    一、二一六 同四年    七、〇八〇   一一八、三五四   同四年    二、七五六 同五年    四、一三三    八三、三六〇   同五年      九三〇 同六年    三、八二七    七五、二〇四   同六年    一、四九六 同七年    四、三九五    六八、五九二   同七年      三九五 同八年    四、五六七    七七、七七八   同八年    一、三六五 同九年    三、四四八    五四、八〇四   同九年    一、一二七 同十年    三、七八一    五八、七七〇   同十年    二、二〇四 同十一年   三、八一二    五二、二九六   同十一年   二、八六六 同十二年   二、五〇一    四〇、二八〇   同十二年   一、六六二 合計    四九、〇四〇   八〇九、七九八   合計    一六、六八五 




  備考 一、大正十二年度外来、入院とも八月末日迄を計上す
     二、右の外、明治三十一年三月本院創立以後大正元年十二月末日迄、十五年間の外来患者延人員五十七万二人を算す
     三、前後合計百三十七万九千八百人なり