デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
5節 災害救恤
7款 深川区内諸救恤
■綱文

第31巻 p.408-410(DK310058k) ページ画像

明治43年8月(1910年)

是月ノ水害ニ際シ、栄一、当区内罹災窮民ヘ金弐百円賑恤セルニヨリ、同四十五年一月十一日、賞勲局総裁ヨリ木杯壱組ヲ下賜セラル。


■資料

(八十島親徳) 日録 明治四三年(DK310058k-0001)
第31巻 p.408 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四三年   (八十島親義氏所蔵)
八月十五日 晴
午前九時兜町ヘ出勤 ○中略 今日ハ各方面漸次減水、三井・三菱ノ大焚出シヲ始メ、個人ノ焚出、見舞品、又軍隊ノ活動モ功ヲ奏シ、大分行ワタリタルモノヽ如シ
渋沢男爵ハ十二日長野、十三日上諏訪ニ来ラレ、同地ニ滞在、汽車不通ニ困却せラル、留守中相談ノ上、不取敢邸宅又ハ本籍所在地ノ罹災民救助ノ為、深川区役所及北豊島郡役所ヘ各弐百円ツヽ義捐金提出ノ事トシ、今朝予ハ深川区役所ニ至リ、区長代理ニ面会ス、電車通リ退水、区役所門前一町計リノ間路面一二尺ノ水残レル位也
○下略


青淵先生公私履歴台帳(DK310058k-0002)
第31巻 p.408 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳         (渋沢子爵家所蔵)
    賞典
明治四十五年一月十一日 明治四十三年八月水害ノ際、東京市深川区罹災窮民ヘ金弐百円賑恤候段、奇特ニ付為其賞、木杯壱組下賜候事        賞勲局総裁



〔参考〕深川区史 同史編纂会編 上巻・第七三一―七三四頁 大正一五年五月刊(DK310058k-0003)
第31巻 p.408-410 ページ画像

深川区史 同史編纂会編  上巻・第七三一―七三四頁 大正一五年五月刊
 ○第九章 市制施行後の深川(其三)
    第四節 変災
○上略
 暴風雨 明治四十三年八月
 この年八月に入つてから連日の雨で、つひに十日及十一日に至つて出水による惨害の猛烈なるものがあつた。まづこの時の降雨量を見ると、かの四十年の大雨に比較して、四十年のもの一平方里三〇六八五六五一石(坪当り六・五七七斗)に対する三八三六九八九四石(坪当り八・二二四斗)であつたと云はれてゐるが、これによつて単に降雨量のみで見ると両者にはあまり距りがないことになるのである。而も実際は順次記す如く、両者は比較にならないものであつたが、これについては(一)今次のものは降雨の範囲が広く諸川の出水量が増大したことと(二)従来は長期の降雨の場合日々の雨量格段の相違なく、中間に稍多量なるのみであつたが、今次のものは日一日雨量が逓増し最後の十日に至つて覆盆の大雨となつて、既に飽和せる土地河身は急
 - 第31巻 p.409 -ページ画像 
激に雨水を受けたとの二つの原因にあると云つてゐる。
 出水の模様を見ると、市内神田川・江戸川・小石川・藍染川殊に甚しく、これが為め牛込・小石川・本郷の各区に浸水があつたが、これに較べて荒川・利根川は更に劇しく、荒川では入間郡古谷村で最高水位二十八尺二寸、利根川では栗橋町で二十一尺五寸、権現堂で二十三尺二分、江戸川では宝珠花村で二十一尺七寸五分と云ふ記録を残してゐる。そしてこれらの漲溢した水勢は処々に堤を決潰して、諸川の水交錯してその主流綾瀬筋を下り、荒川に合し一大氾濫をなし、本所・深川・浅草・下谷は殆んど水に浸された。只当時利根左岸に大溢れがあつて水勢緩和され、権現堂の破壊がなかつたので、未だ幾分災害が軽減せられたのであつたが、概してこの当時の溢水の主流が綾瀬筋に在つたことは、往時の関東水系の主流利根の人為によらざる旧河道がこの辺にあつたことを暗示してゐるのではないかと思はれる。
 この水災による被害は、東京府水害統計に記す府下の死者十八人、負傷者九人、建物の潰破流失五十五棟、浸水床上八万八千四百九十五棟、同床下三万三千八百七十一棟と云ひ、その大概は察せられるが、区内では浸水家屋一万八千八百三棟、浸水及埋没流失土地宅地二百三十三町九、其他八町、出水最高平地上六尺、浸水区域入舟町外六十三ケ町であつたと云ふ。これは極く大概であるが、この外交通機関・通信機関・電灯等の被害は推して知らるべく、尚災後の救恤・保健衛生に関する措置等は枚挙に暇あらず、今その多くを略し、左に八月十七日の東京市会に於ける、市長代理の報告中、本区に係る事項を抄出してこの項を終る。
   ………而して浅草・下谷方面の洪水と同時に、本所・深川方面の水勢が愈々増加すると云ふことも察せられますので、私(原田助役)は本所・深川の方に参りまして、急場の各区の救護実況を視察いたしました。………十一日から十二日に掛けまして本所方面・深川方面の水勢が愈々増加いたしましする為め、本所の病院の防禦は困難しました。………救護事務に就きましては、御承知の様に罹災救助事務取扱規程と云ふものがございまして、この規則に基きまして府知事は予てその事務を郡区長に委任してあるのでありますから、区長はこの災害に際しては、市の指揮を俟たず、直ちに救護事務所を開始したのであります………この水害の至ると共に、区長はそれぞれ応急の設備を致して居つたのであります。………既にこの機関があります上は市は此救護規則に基て区長の事務を援助し、且つ督励すると云ふことが最も必要であると考へ、………此方針を執りました。………十二日から十三日に掛けまして最も水嵩が多かつたので………罹災者は益々増加いたしまして、………一面には収容し一面には食物を供給せんとするのでありますけれども、………誠に充分に行届かぬのである。それ故、輜重大隊に交渉し出張を求め快諾され、直ちに一万人分の焚出を担任せらるることになりました。………同時に三井同族会から焚出を寄附されたので、………先づ下谷・浅草・深川の三区は食糧を供給し得る途
 - 第31巻 p.410 -ページ画像 
が稍や具つたのであります。その外十三日から下谷・浅草・深川の方は十三日から三井の焚出しと、三菱の米の供給、それから区自身焚出してゐるのは勿論であります。是等と合せて此三区は食糧も稍や充分に行渡ることになつてゐたのであります。その時偶々横須賀の海兵団からも水兵一中隊を、………府及び市に向つて応援に送ると云ふことの通知に接しました。………之は府と相談しまして、………五十名を市の為めに働いて貰ふことにし………本所・深川に於て目下尚働いて貰つてゐます。………十五日に至りましては衛生の設備に専ら力を注ぐことに致しました。而して市及び各区の吏員を集めまして、十五所に救護所を設け、一箇所には医師四名、看護手二名宛を置き、疾病者の応急手当をすることに致しました。………更に赤十字社からも大規模の救護班を出して貰ふことにしました。………それから本日(十七日)に至つては、更に又陸軍省から非常に大規模の救護班を出されたのであります。………之に依りまして今日では救護及び食糧の供給、衛生に就きまして、私共が必要と認めました事だけは、先づ一通り整ひました。………(下略)
○下略



〔参考〕東京市史稿 東京市役所編 変災篇第三・第四五七―四八四頁 大正五年三月刊(DK310058k-0004)
第31巻 p.410 ページ画像

東京市史稿 東京市役所編  変災篇第三・第四五七―四八四頁 大正五年三月刊
 ○第二章 第二節 本記 帝都時代ノ風水害
    明治四十三年大水災
○上略
 明治四十三年大水災 明治四十三年 ○紀元二五七〇年。大水災ノ状況ヲ詳記スレバ左ノ如シ。
○中略
三、被害 此ノ水災ニ於ケル市内ノ被害ハ ○中略 東京市及警視庁ノ調査ハ、之 ○東京府水害統計ニ比スレハ多少ノ出入有リ。今孰カ是ナルヲ知ラズ。姑ク東京府水害統計及水災雑書・東京市水害誌収ムル所ノ各区長報告其他ヲ参照シ、各区被害ノ一班ヲ左ニ掲ク。
○中略
深川区 ○市内。
 浸水家屋一万八千八百三棟。浸水及埋没流失土地宅地二百卅三町九其他八町八、計二百四十二町七。
 ○平地面出水最高深度六尺。 ○浸水区域ハ、入舟町・木場町・洲崎弁天町一丁目二丁目・島田町・古石場町・牡丹町・佃町・平富町一丁目・万年町二丁目・亀住町・冬木町・富川町・東平野町・西永町・久永町・三好町・扇橋町一丁目・二丁目・伊勢崎町・清住町・西大工町・裏大工町・東扇橋町・東大工町・猿江町・御船蔵前町・西六間堀町・東六間堀町・上大島町・猿江裏町・海辺町・安宅町・鶴歩町・洲崎町・西平井町・扇町・数矢町・富岡門前川岸・同山本町・富岡門前東仲町・亀久町・大和町・和倉町・元加賀町・島崎町・西平野町・山本町・吉永町西町・仲大工町・霊岸町・東元町・常盤町一丁目・東町・西元町・八名川町・新安宅町・本村町・東森下町・西島町・千田町・西森下町・深川公園地・平久町二丁目ニ亘ル。
○下略