デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
1款 渡米実業団
■綱文

第32巻 p.215-235(DK320010k) ページ画像

明治42年10月12日(1909年)

是日、栄一等渡米実業団一行、ニュー・ヨーク市ニ入リ二十一日マデ滞在ス。十月二十日、タウンゼンド・ハリスノ墓ニ詣ヅ。


■資料

竜門雑誌 第二六九号・第二八―三一頁 明治四三年一〇月刊 ○青淵先生米国紀行(続) 随行員増田明六君(DK320010k-0001)
第32巻 p.215-217 ページ画像

竜門雑誌 第二六九号・第二八―三一頁 明治四三年一〇月刊
    ○青淵先生米国紀行(続)
                 随行員 増田明六君
○上略
十月十二日 火曜日(晴)
午前六時半紐育市グランド・セントラル停車場に到着す。
○中略
車中にて食事を終り、歓迎委員の案内にて青淵先生以下一同自動車に分乗して、ホテル・アストルに投宿す、此日は彼我時間の都合に依り青淵先生を先頭に、一行凡て同ホテル第一階アストル接見室に集合して、公式来訪者に接見する事と為り、十時商人協会の代表者、十時十五分絹業協会代表者、十時四十五分日本協会及平和協会代表者、十一時四十五分ホワイト博士の来訪を受けたり、畢りて同室に於て団員総会を開く、青淵先生議長席に就き、左の議案を決議したり。
一桑港滞在日数を三日とする事、但内二日は米人の歓迎に供し、一日を日本人の歓迎に費す事
 十一月二十七日桑港に到着、当日は日本人の歓迎と留別会に充て、二十八・二十九の両日を米人の歓迎に充つる事
一米国人側委員及同国人にして、一行の為めに特に尽力したる人々に対し、紀念品を送与する事、但此費用は正賓四百弗以上、専門家百五十弗以上、婦人百五十弗以上、政府より任命を受けたる人々百五十弗以上、随行員は随意の事
 報告
一シラキユース市に於ては、一行のホテルの支払を商業会議所に於て負担し呉れたるに付き、感謝の意を表する為め、即日金弐百五十弗を同会議所に送付し、適当の事業に使用せらるゝ事を得は本懐なる旨申遣したり、此の事後承諾を請ふ事
明治四十一年の本月本日は、日本に渡来したる米国実業団の日本上陸の紀念日なれば、之を祝さん為め青淵先生以下一行主人側と為り、同行米国人を招待して同ホテル十階の広間に於て紀念午餐会を開く、青淵先生主人側を代表して、米国人に対し、本日は恰も渡日米国実業団の日本に上陸したる日にして、又コロンバス氏の米国発見の日に相当するを以て、其紀念の為めに宴を開く旨を述べ、且同行米国人の甚大なる厚意を謝し、又中野武営氏は六商業会議所を代表して均しく謝辞を述べたるに対し、米人側を代表してポートランド市のクラーク氏答
 - 第32巻 p.216 -ページ画像 
辞を述べ、日本に赴きたる米国実業団は、各地到る処に於て歓待を受けたるを謝するは勿論なれども、取り分け渋沢男爵が多忙なるにも拘らず、同一行に対し厚意を与へられるを深謝す、仮令男爵此度米国に来る事無きも、其愛嬌に富める笑ひ顔は忘るゝ事能はさるなり、タフト大統領は一度笑ひば人に無限の感情を与ふるが、男爵も同様なり云云、又日本に赴きし実業団員中の二人死亡したり、其一は布哇、其一は桑港のものなり、玆に鍼黙の杯を挙げて両氏を弔らはんと欲す云々畢りて一同屋上の庭園に至り紀念の撮影を為す
右終りて午後六時半より日本倶楽部に於て、三井物産会社岩原謙三・福井菊三郎両氏主催の歓迎会に招かれ、青淵先生以下一行之に赴き、同社員其他の本邦人と合せて百余名、二室に別れて純日本式料理の饗を受けたるが、去九月一日シヤトル市に於て織田一氏の饗応後四十二日目の日本食、其上毎宴会外人と睨み合ふのであるが、今日は凡て是れ日本同胞のみ、久振りに箸を手にして気も伸びりして、落付て食事するを得るとて一同大満足なりし、午後十二時辞してホテルに帰る。
十月十三日 水曜日(晴)
午前九時絹物組合員の案内にて、青淵先生以下自動車に分乗ホテルを出発、下町にある手形交換所・大蔵省分局・株式取引所を見物し、市役所に到り市長に会見の後ホテルに帰る。
午後一時青淵先生以下一行、同ホテルに於て絹物組合開催の午餐会に招かる、組合頭取スキンナー氏歓迎の辞を述べたるに対し、青淵先生一行を代表して歓迎に対する謝辞を述べ、且日本貿易は生糸に依て重きを為す、此生糸を取扱ふ此組合の歓迎を受くるは一層愉快を感ずる処なり、吾々は生糸の生産を益々多くして、以て本組合の厚意に酬ゆべし、予は生糸に付ては其生産又は輸出に直接の関係を有せざれども深き縁故を有す、其理由は第一予が二十四・五歳迄は農業に従事し親しく養蚕を為し生糸を製したる事、第二日本生糸製造業の進歩したるは、実に明治二年王政維新の際伊藤公・大隈伯等の尽力に依りて、之を海外に輸出したるが為めなり、当時予は大蔵省に仕官して、実地の見地より富岡に生糸場を設立して、国民に生糸の製造改良の方法を示したる事、第三は予が銀行業に従事して生糸荷為替の便を開きたるに在る事、此三の境遇より生糸に関係しては相当苦心したるものなり、日本生糸の将来に付ては、人造絹糸・支那生糸益々生産を高めつゝありて、可恐勁敵なりと雖とも、予は信ず、日本生糸業者の勁敵は人造絹糸にあらず、又支那生糸にもあらず、生糸業者夫れ自身なりと、蓋し生産費を減じ、値を安くして良好の製品を得て需用者に満足を与ふれば、人造絹糸・支那糸如何に発達するも憂ふるに足らざるなり、予は常に此言を以て吾生産者を警戒するものなり云々。
午餐会を終り、同組合の案内にて青淵先生以下自動車に分乗、上町見物を為し、グラント将軍の墓に詣で、青淵先生花輪を捧げて石棺の上に安置し、夫れよりハドソン河の夕景を賞しつゝ、セントラル・パークを車上より瞥見してホテルに帰着す、午後七時青淵先生には神田男爵・頭本氏・石橋氏等と共に、プレスビテリアン教会外国布教部の主催に係る宴会に招かれたり、出席者は司会者ダルス氏の他、グリーア
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師・デバイ博士(紐育慈善協会書記長)ノツクス博士(ユニオン神学校教授)モツト氏(基督教青年会万国部書記)其他紐育市の重なる紳士にて、司会者ダルス氏の指名の下に数番の演説の後、青淵先生及神田男爵答辞を述べられたり、午後十一時半解散帰宿せらる。
本日参観したる紐育手形交換所の規則を得たれば左に抄録す。
○下略


竜門雑誌 第二五九号・第四三頁 明治四二年一二月 ○米国旅行中の玉吟(DK320010k-0002)
第32巻 p.217 ページ画像

竜門雑誌 第二五九号・第四三頁 明治四二年一二月
    ○米国旅行中の玉吟
  左の玉吟数首は、青淵先生が米国巡遊の途上本社々長へ宛てられたる書信中より、乞ふて玆に載録せるものなり(編者白)
    紐育にてタウンセント・ハリス氏の墳墓に詣でゝ
                    栄一
今も猶君がこゝろをおくつきに
     ゆふ栄あかく匂ふ紅葉
    ボストンにてニユーポルトにコムモンドル・ペリーの墳墓に詣でゝ
                    同
手向るは心の花の一束に
     なみだの雨もそへてけるかな
    十月廿六日伊藤公のみまかり給ひしを悼みて
                    兼子
及ばずも御国を思ふ旅まくら
     ゆめにはあらで惜む君かな
    スプリングフヰルド市スミス大学よりかへる野の道すがら
                     同
もみぢはの色そふ秋のみじかくも
     入日の野辺にうす月のかげ
    ジヨージ・ワシントンの墳墓にまうでゝ
                     同
名所のその古へぞしのばるゝ
     かはらぬ園に秋のいろかな


竜門雑誌 第二七〇号・第四四―五一頁 明治四三年一一月 ○青淵先生米国紀行(続) 随行員増田明六(DK320010k-0003)
第32巻 p.217-222 ページ画像

竜門雑誌 第二七〇号・第四四―五一頁 明治四三年一一月
    ○青淵先生米国紀行(続)
                  随行員 増田明六
十月十四日 木曜日 (晴)
午前中は休息の時間割なりければ、青淵先生には室内に在りて信書を認められ、午後零時半より、一行と共に紐育商業会議所に於て開催せられたるレセプシヨンに出席せらる、当日同会議所の議題は米国航海奨励法を設くる事を政府へ建議するの議案なりしが、一行は討議中の議場に案内せられたれば、親しく其の状態を見たり、稍ありて議長は議事未了のまゝ中止を宣し、議員一同に向つて青淵先生を紹介す、依
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て先生は起ちて大要左の如き演説を試みらる
 シヤトル市到着以来、西部・中央の各都市二十四・五ケ処を経て当大都会に入れるは、恰も山間の小川を渉りて遂に大河に出たるの感あり、西部・中央の各富源地より生ずる各種工業の河流が、総て此地に集注し来れるを見て、米国全体の繁栄の本末を始めて相照らし得たるを喜ぶ
 蓋し十九世紀は大西洋の文明なりしも、二十世紀は太平洋の文明ならざるべからず、而して東西相対せる日米両国が、互に親和提携するの要は言を俟たず、日本国土小なりと雖ども、亦為に応分の力を尽さんと欲す、之に就て或は競争の憂あるも、其争や君子の争たるに於ては、決して忌はしき結果の生ずべくもあらず云々
夫より午餐に移り、畢りて青淵先生には一ト先帰宿せられ、再度午後八時半日本倶楽部主催のレセプシヨンに出席の筈なりしも、風邪の気味にて中野氏に団長代理を依頼し、ホテルに在りて加養せられたり
 青淵先生には東京出発以来五十七日、シヤトル上陸以来四十四日、行程三千四百哩、到る地の商工業視察、到る為の饗宴、其他一として一行に先立たれ、また嘗て欠かさせられたる事なかりしが、此日屋外寒気特に烈しかりし為め、風邪に犯され、不得止欠席せられたるは真に遺憾とする処なり
十月十五日 金曜日 (晴寒風強)
午前十時より紐育商人協会の案内にて、西四十二丁目の波止場より汽船に乗じてハドソン河を下り、港内の状況、水陸連絡の状態を視察し夫より東河を遡り、ブルクリン橋を見、ハーレム河を経て、マツハツタン島に沿うて再びハドソン河に出で夕刻帰宿の筈なりしも、青淵先生には前日来の風邪恢復せられさるを以て同行を見合はせられたり
午後七時半青淵先生には少敷快方に赴かれたるを以て、水野総領事のシヱリー料理店に於て催したる晩餐会に出席せられ、午後十一時帰宿せられたるも、為之健康上何等障の無かりしは、大に慶賀すべき事なりし
十月十六日 土曜日 (晴)
青淵先生には午前中を接客に忙しく経過せられ、午後一時より一行を率て日本協会及紐育平和協会の合同午餐会に出席せられたり、午餐終りて会長紐育大学総長フヰンレー氏歓迎の辞を述べ、尚中央正面に飾られたる星の数三十一の古色蒼然たる米国旗は、其古、最初の駐日公使たりしタウンセント・ハリス氏が、江戸に於て始めて自ら作り掲げたるものなり、又其下の手紙と目録及巻絵の箱は、ハリス氏が病気の時幕府より見舞として侍医伊東典薬頭を遣はし、特に贈られたる見舞状と鶏卵の目録及び料紙箱等なりと説明せられたり、依て青淵先生には一行を代表して左の演説を為されたり
 会長及淑女諸君 合衆国と我が帝国との国交を益親睦ならしむるを以て主義とする日本協会と、人道の上より世界の平和を以て目的とする平和協会の有力なる諸君の招請に応じて、我実業団の一行が今日此盛讌に臨席するを得たるは、余及余の一行の共に之を光栄とし愉快として深く感謝する処なり
 - 第32巻 p.219 -ページ画像 
 余等一行の今回貴国に渡来せるは、昨年貴国太平洋沿岸商業会議所の諸君を我が帝国に歓迎して、幸に諸君の満足を得たるに起因し、今年は又其懇切なる款待に応じ、且此好機会を利用して貴国各地の商工業の真想を知悉して、以て今後日米両国の国交上貿易上に一大増進を謀らんとする余等一行の微衷は、已に諸君の多く了知せらるる所ならんと思惟す
 凡そ親睦と云ひ平和と称するも、只両者相附和雷同するに依りて永久に之を持続すべきものにあらず、其間宜く抜くべからざるの基礎なかるべからず、之を以て余は事の既往に属するを顧みず、特に日米両国間の国交に就て聊か余が平生の所感を開陳せんとす、是則斯る特色ある両協会諸君の会同に対しては、敢て無用の弁たらざるを信ずればなり
 日本が世界の現状を知るを得たるは、実に五十六年前貴国のペリー提督が我が浦賀港に渡来せられて、寛厳宜しきを得たる手段を以て我が三百年来の長夜の夢を破られ、尋てタウンセント・ハリス公使が勇敢懇切なる処置に依りて、日米両国の修交条約を締結せられたるは、余等日本国民全般の忘れんとして忘るべからざる記念にして永く恩恵を感銘する処なり
 然るに、当時我が同胞の有志者が、之に対して嫌悪の念を挟み、或は攘夷を唱へ、或は鎖国を説く者の多かりしは、他なし、徳川幕府三代の時に於ける鎖国の原因が、欧羅巴の或る国には私利の為め他国を侵略せんとする野心ありと信ぜしに出てたると、嘉永・安政の頃は幕政大に衰へて、其措置天下の人士を安んぜしむる能はざるとに依りたるものにして、人道の為めに隣邦を誘導せんとする貴国の好意を了知せざるに出でたるなり、是故に維新の政府開かるゝに当ては、当年鎖港を主張せし志士論客皆開国進取の率先者となりたるは決して其説の自家撞着したるにあらずして、其知識の先後ありし所以なり、現に我邦に於て元勲と称せらるゝ諸公の経歴に於て実証するに足るものにして、余の如きも亦其一員たるを公言するに憚らざるなり
 惟ふに真正の親交は、互に能く其事情を知悉して、相恕し相愛して益々其親密を進むるにあり、然り而して国交の親善も個人の交誼も利益を共にするにあらざれは、決して永遠を期すべからず、是れ余等実業家の最大責任にして、而して実業団一行が今回の旅行の如きは、蓋し此趣旨を貫徹せんと欲するに外ならざるなり
 余等一行が貴国に到着せし以来、既に五十日に近くして、其間貴国の各都市を歴訪する事実に二十六ケ所なりとす、而して到処諸君の深厚なる歓迎を受けて、独り旅行の愉快を取るのみならず、悉く門戸を開きて、雄大豊富なる各会社工場等を視察せしめたるは、余等の深く謝する処にして、余等は今回の旅行を以て細かに貴国の事物を知悉し、帰国の後普く之を我邦の同人に報告し、其天与の豊歉と実力の懸隔とを顧みず、奮励一番相提携して以て東洋の天地を開拓し、其文明を進め、其利益を増して、余等が負ふ所の天賦の任務を尽さんと欲す、是れ蓋し両協会の趣旨に副ふものにして、満堂の諸
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君も亦異議なきものと信ず、玆に卑見を陳べて諸君の清聴を煩はし重ねて今日の歓待を深謝す
右の青淵先生の演説は、同行の米国側委員グリーン氏通訳の労を取り次きに頭本元貞氏・神田男爵・ノツクス博士(日本協会代表)クラーク教授(平和協会代表)の演説あり、夫れよりノツクス博士は起ちて青淵先生を日本協会の終身会員に推選するの動議を提出し、同協会員一致を以て之を賛成決議したるを、先生には快く之を承諾せられたり午後五時解散
午後八時より当地正金銀行支店支配人今西兼二氏の招待にて、青淵先生以下一行ヒツポドロム座の見物を為す(此座は明治三十八年の開場にて、世界第一の安全にして壮麗なる最新式の建築なり、而して之に要したる費用五百五十万円にして、五千二百人の観客を裕に収容する事を得、舞台の横幅二百呎、奥行百十呎、背景用の幕幅二百十二呎、高さ八十五呎、其大袈裟なるさすが米国式なりと感心したり)演劇は日本旅行五幕、日本に渡航せんとするクツク大佐の率ゆる団体門出の光景、此幕にて真物の自動車、二頭曳の馬車、自転車等縦横に舞台上を馳せ、黒煙を吐きつゝ進行し来れる汽船は舞台上の紐育の埠頭に碇泊し、其仕掛の大なる実に劇場に在るの感を有せざるに至る、次きは伊太利ヴヱニスに於ける某伯爵令嬢と船員との恋目出度叶ふの段、次きはニユージーランドに於ける怪神の住窟の光景、及同地人の舞踏にて終了を告けたるが、此の間に二百五十人の美装の女兵出てて分列式を為し、又は真物と異なる無き合衆国の兵隊一中隊が銃剣を肩にして調練などなし、又は舞台の中央に、真の滝長三丈幅一尺位のものを出来し、滝壷よりは美装の美人が浮き上りて舞台に出てて舞踏し、又舞台の美人は楽隊に歩調を揃へて此池水に平然として列を乱さず進入するなど、一として驚かざるもの無かりき、午後十時半ホテルに帰宿
十月十七日 日曜日 (晴)
午前十時より青淵先生には中野武営氏及一行中の同会員と共に、東京高等商業学校同窓会紐育支部の歓迎会に臨まれたり、出席者は一行中にては
 青淵先生―中野武営―堀越善重郎―飯田旗郎―加藤辰弥―上田碩三―増田明六の諸氏にして又同支部にては
 福井菊三郎(物産)岩下清朝(同上)山内健吉(正金)太田原一佐(大倉組)与田作造(正金)岡山友助(森村新井組)尾上重吉・大貫忠一(両氏とも物産)中村普二郎(野沢組)田中教太郎(物産)井上熊三郎(京都商工)松島泰夫(正金)水野和雄(森村組)岡本光蔵(プラウン・ウヰリアム・バンク)村田伊之助(日本製茶)井上信(物産)服部保二郎(同)芝田孫二郎(正金)田島繁之(物産)一宮銀生(同)高岡直次郎(堀越)吉田初郎(物産)中井長三郎(正金)川口盤夫(日本製茶)平田保太郎(森村)金原東造(森村新井)幹事、津田微(高田)同、三上孝司(同)同山崎馨一(紐育副領事)
 外に旧講師河合勇の諸氏なり
支部長福井菊三郎氏の歓迎の辞に、次き中野武営氏及青淵先生の演説ありたり、右畢て午後三時青淵先生には中野・石橋・巌谷の三氏等と
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共に、カーネギー・ホールに於て開催せられたる日本人共済会秋季大会に出席せらる、会長高見氏の演説、油谷・福富両氏の事業及会計報告、今西氏・石橋氏・巌谷氏・中野氏の演説あり、最後に青淵先生は起ちて、異邦に在りて多数の日本人諸君と一堂に会したるは、無上の悦なる上に、是迄は到る処として通訳に依りて為したる演説も、本日は日本語を以て自由に述るを得るを悦ふ、人は如何なる主義方針を持つべき哉は至難の問題なるが、諸君は母国を去るに先ち必ず一の主義方針を有するならんと信ず、人は栄達を目的となすは勿論なるべきも己れ独り栄達すれば可なりとは、野蛮時代の事にして、世の進歩と共に己れ一身を主義とする事能はざる事を知らざるべからず、己の栄達を謀ると共に、国家の栄達を謀る事に顧慮せざる者は、野蛮の域を脱せざるものの行為なりと云ふべし、蓋し国家は個人の集合体なれはなり、於是か仁義道徳の必要起るなり、仁義道徳の解釈は韓退之の原道に於て、博愛之謂仁、行而宜之之謂義、由是而之焉之謂道、足乎己無待於外之謂徳と在りて、此仁義道徳なるものは己一身に帰する者にあらず、惹て国家に及ほすべき者なり、諸君は此意を以て自己の栄達を計ると共に、母国を顧慮せざるべからず、然る時は以て国光を発輝すべし、以て栄達する事を得べきなり云々と訓戒の演説を為し、五時解散帰宿せられ、午後七時より先生及同令夫人主催の同行外国人及各地商業会議所会頭招待会を、セルモニコ・ホテルに於て開会せらる、出席者は
同行外国人
 ローマン氏  同令夫人      オスボーン氏
 クラーク氏  同令夫人      ストルマン氏
 ハイド氏   ムーア氏      グリーン氏
 エリオツト氏 ローゼンバーガー氏 パックハム氏 グード氏
日本人側
 中野武営氏 土居通夫氏 西村治兵衛氏 大谷嘉兵衛氏 松方幸次郎氏 上遠野富之助氏 日比谷平左衛門氏 水野幸吉氏 同令夫人 神田乃武氏 同令夫人 頭本元貞氏 堀越善重郎氏 岩原謙三氏 山崎馨一氏(紐育副領事) 巌谷季雄氏
の諸氏にして、青淵先生の挨拶に次きて、外国人側代表者ローマン氏日本人側代表の中野武営氏の謝辞あり、午後十二時解散せられたり
十月十八日 月曜日 (晴)
本日以後廿一日迄は定められたる日程とては無く、一行随意の行動に委せられたれば、青淵先生には終日在宿せられて、来訪日本人に接し且信書を認められたり、工学士神田礼治氏は、スポケーン市に於て開会せられたる万国鉱業会大会に出席の帰途、米国各地鉱山視察の序、又工学士新家孝正氏は米欧の建築業視察の途に在り、前後して先生を訪問せられたり
午後七時、青淵先生には森村組新井領一郎・村井保固両氏の饗応にて日本倶楽部に到り、同十二時帰宿せられたり
十月十九日 火曜日 (晴)
午前七時青淵先生には、日比谷・坂口・堀越・中野・西村・紫藤・町
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田・上遠野の諸氏と共に、ホルヨークに於ける絹糸協会々頭スキンナー氏経営の絹織物工場視察の為め同地に赴かれ、帰途午後七時より高峰譲吉氏の催にかゝる日本倶楽部の晩餐会に臨席せられ、午後十二時帰宿せられたり
十月二十日 水曜日 (晴)
青淵先生には午前中信書を認められ、正午エクイテーブル生命保険会社々長バウル・モルトン氏の催にかかる法律家倶楽部に於ける午餐会に出席せられ、畢りて中野・巌谷氏等と共に、最初の駐日公使たりしタウンセント・ハリス氏の墓処に詣て、午後六時帰宿せられたり
此日先生詩歌あり
    弔故巴理斯公使墓
 古寺蒼苔秋色探   孤墳来弔涙沾襟
 霜楓薄暮燃如火   留得丹誠報国心
    同
 今もなほ君が心をおくつきに夕栄あかく匂ふ紅葉
午後八時より青淵先生にはアストル・ホテルに於て、日米紳士を招待して盛大なる晩餐会を催されたり、出席者は
米国人紳士
 シー・エー・コツフイン氏、ウヰリアム・スキンナー氏、ジエー・ヱツチ・シツフ氏、ヴイ・ピー・スナイダー氏、エー・ビー・ヘポバーン氏、ジエー・アール・モールス氏、エス・エル・ウートワード氏、イサツク・セリマン氏、ヘンリー・クリユウス氏、エス・デー・ウイツプ氏、チヤーレス・ホーマー氏、エル・ラツセル氏、ジエー・ジエー・マツクコク氏、シモンス氏、ホワイト氏、ノツクス氏、ローマン氏、外新聞社員十三名
日本人紳士
 水野幸吉氏 今西兼二氏 新井領一郎氏 村井保固氏 福井菊三郎氏 井上準之助氏 高峰譲吉氏 山崎馨一氏 中野武営氏 土居通夫氏 西村治兵衛氏 大谷嘉兵衛氏 松方幸次郎氏 岩原謙三氏 頭本元貞氏 堀越善重郎氏
の諸氏にして、青淵先生の挨拶に対しスキンナー氏外数諸氏の謝辞演説ありて、主客歓を尽して午後十二時解散せられたり
十月廿一日 木曜日 (晴)
紐育滞在一週間も匆卒の間に経過して、今夜十一時列車に帰着し、明朝は午前一時に発車する順序なりければ、一行は荷作等に余念なし
青淵先生には午前来訪の客に接し、正午はシツフ氏の招待に依りて、重なる委員と共に法律家倶楽部に催されたる午餐会に列せられ、主人側の挨拶に対して一場の演説を試みられ、午後三時帰宿、午後九時ホテルを引揚げ、自動車にて特別列車に搭乗せられたり、渡瀬・田村・南・原(竜太)の諸氏は此処にて分れ、加奈陀地方視察の途に上る
○下略


渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二四九―二六三頁 明治四三年一〇月刊(DK320010k-0004)
第32巻 p.222-227 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二四九―二六三頁 明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
 - 第32巻 p.223 -ページ画像 
    第一節 紐育市
十月十二日 (火) 晴
 午前六時三十分予定の如く、紐育中央停車場に着す。午前九時下車商業会議所員を始め、市民及び在留日本人多数の歓迎を受け、直に出迎の自働車に分乗して、九時三十分、ホテル・アスタアに入る。
 午前中は左の商人協会・絹業組合・商業会議所・日本協会及平和協会等諸団体代表者の公式訪問あり、渋沢男を始め、各商業会議所会頭、其他之に応接す。
 十一時半事務室に総会を開き、中野委員長座長となりて、左の事項を決議す。
  一行の帰途、桑港到着の当日、即ち土曜日及翌々月曜日の二日を桑港主人側に与へ、日曜日は午前教会、午後日本人側の招待会及留別会に充て、火曜日午後一時乗船の事、
  前総会に於て宿題となりたる、接伴委員に対する贈品の費用として、団員より寄附を仰ぐべき予算の概略は、正賓は四百弗以上、専門家は百五十弗以上、婦人は百五十弗以上、政府特派官吏は百五十弗以上、随員は主人側及本人の意見に依り、随意寄附の事と定む。
 次に渋沢男は、今朝スミス氏の訪問を請けしが、今夕機械学会の大会ありて、コーネル大学教授カーペンター博士の、防火法に関する演説ある筈なれば、原林・田辺・高辻三氏の臨席を望むと述べ、即ち右三氏出席の事に決す。右卒りて、第八階に特設の食堂に入り、団員及び接伴員一同は、クリーブランドに於ける決議に基き、紀念の為め小宴を張る。即ち太平洋沿岸の実業家が横浜に上陸せしは、昨年十月十二日にして(其内当時来日せしは、今回の一行中ローマン氏及クラーク氏なり)而かも十月十二日はコロンブスが米大陸発見の紀念日なり。此日を以つて、我が一行の紐育に入りしも亦奇なりと云ふべし。
 席上ハイド氏先づ立て祝杯を挙げ、次で渋沢男爵は本団を代表し、中野氏は六会議所を代表して、所感を述べ、次にポートランドの代表者クラーク氏は、昨年日本に赴ける同行者にして、既に他界に入れる者の為めに、緘黙の乾杯をなし、桑港代表者ストールマン氏は少時本団と別るゝも、十一月十八日再びサクラメントにて会せんとて、別杯を傾け、次にロスアンゲルスの代表者オスボーン氏も、加州に於ける再会を期して杯を挙げ、且つ加州に於ける排日問題に付いて、羅府は之に与せざる旨、熱心弁ずる処あり、次に領事グリーン氏は一行の婦人の為めに健康を祝し、最後に一同又ローマン氏夫妻の健康を祝し、主客胸襟を開き、歓を尽して宴を了り、更にホテル屋上園に於て、紀念撮影を為す。
 此夜三井物産支店主催の招待にて、一同は日本倶楽部に至り、純日本式の晩餐を饗せらる。接伴員側の米人諸氏も亦之に列す。席上エリオット氏は自今彼我相互の間に、増々諸般取調の便宜を謀らんとの発議あり。一同賛成の意を表し、更に委員に挙げて事務を附托するに決す。
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十月十三日 (水) 晴
 午前九時米国絹業組合の案内にて、自働車に分乗し、先づ手形交換所及び大蔵省分局を参観し、株式取引所を訪ひ、次に市庁に於て、市長マックレラン氏に会見し、終りてホテルに帰る。神田男・南博士・巌谷・熊谷等、教育関係の向は、午前中バアナード女子大学・コロンビヤ大学等を参観す。午後一時よりホテル・アスター内に、米国絹物業協会の主催に係はる午餐会あり、会頭ウヰリアム・スキンナー氏、及渋沢・神田両男の簡単なる演説あり。午後も引続き同組合の案内にてグラント将軍の墓に詣で、団長親しく花環を捧ぐ。夜は米国プレスビテリアン教会外国布教部の主催に係る、晩餐会あり。団員中特に宗教・教育に関係あるもの十数名列席す。席上ノックス博士・慈善協会幹事長デバイン氏・万国青年会幹事モツト氏の演説あり、渋沢男爵は、大要左の如き意見を述ぶ。
 今夕此処に招待を受けて、宗教・教育・慈善事業、及び実業に関係ある、第一流の諸名士に見ゆるを得たるは、余の頗る愉快とする処なり。余等今回渡米の目的は単に我が実業界の進歩を謀るにあるも、亦別に深意無きに非らず、蓋し我が国は、三百年来鎖国の方針を取りしも、実は不得止に出で、決して好んで之を為せるに非らず、是れは当時の歴史に徴して、何人も等しく認むる処ならん。然るに其日本が、五十六年前始めて世界と交際の道を開くの機会を得たるは、全く貴国の賜物にして、其好意に対しては、国民上下大に感謝する処なり。ペルリ提督に次で、日本の開発に尽力せしは、タウンセント・ハリス氏なりとす。氏の日本に対する功労は偉大にして、其条約締結に際し、非常の忍耐と親切とを以て之に当れるは、歴史に証して又余あり。例へば彼の書記官ヒユースケン氏の惨殺事件に際し、他国公使は直に国交の断絶を期し、国旗を撤して横浜に引揚げしに、ハリス氏は之れに反し、甘んじて我が幕府の保護の下に、静に事端の落着を待ち、遂に他国の公使等をして、亦帰館せざるを得ざるに至らしめたり。此寛仁にして勇敢なる態度は、我国民の永く感銘措かざる処なりとす。爾来親交度を進めたるも、不幸にして我が国は、十年来に二回の大戦を敢てせしが故に、或は我が国民を以て、偏武好戦の民と誤解するあらんも、之れ大なる迷惑なり。彼の二戦の如きは、共に正当防衛に外ならず。我等は寧ろ戦争を嫌ひ、平和を好む国民なり。此故に今回の渡米の如きも、畢意平和の使節として、国民より派遣されたるものなり。而かも我国に於ては、上 陛下を始め奉り、官民等しく之れに重きを措けるは、我等が出発当時の光景之を証明するに難からず。思ふに商工業の進歩は、世界の文明に最も大切なりと雖も、更に之よりも大切なるは、国民の精神的進歩なりとす。然るに我邦旧来の教育は、主として支那経学に偏せるが故に、商工業に対しては、大に謬見を有し、専ら之れを卑みたり。然れども余が見によれば、是れ決して孔孟の教の本旨に非らず。若し真に之に憑らば、殖利と仁義とは、決して併行せざるものに非らず。衣食足て礼節を知るの語に徴して、寧ろ両者の並
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立は、国家教育の大本にして、徒らに彼を卑み、是れを重んじたるが如きは、後世腐儒の言に過ぎずと云ふべし。由来商業は道徳と離れて一刻も立つを得るものに非ず。個人に付て之を云ふも、自己を利せんと欲せば同時に他をも利することを忘るべからず。此と同じく、国と国との間に見るも、単に一方にのみ利するは、理に於て在り得べからざる事なり。真正の文明は、福利と道徳との並行にあるは、元より論を俟たぎるなり。而して此道徳を維持せんに、我等は我等の武士道に拠らんとするも、将来永久に、之れにのみ依つて可なるや、将た宗教に頼らざるべからざるや、此問題は自分一個のみならず、国民一般に目下心を砕き研究しつゝある処なり。否余が此度米国に来つて、各種の事物に接触する毎に、益々此念を強うするの感あり。
 米国の慈善事業の発達完備せる、実に感嘆に余あり。之に反して我が国に於ては、現に余も三十年来之に特別の関係を有せるも、屡々困難を感ずる事あり。思ふに日本には親族間に於て相扶助するの風習あるが故に、公共慈善は反つて其必要を閑却さるる観あり、蓋し慈善の真の目的は、之れを多く施さんよりは、受くべき者を減少せしむるにあらん。而して米国に於ても、輓近此点に注目し来れりと聞く、是れ大に喜ぶべき事ならずや。
 終りに臨んで、宗教に対する卑見を述べんに、余は幼より儒教を以て教育され、従つて孔孟の教を信ずるものなるも、亦将来の道徳は、宗教に憑るの必要を認むる者なり。而して此宗教は、如何なる者を採るべきかは、今日断言し難きも、只だ其何たるを問はず、単に信仰にのみ、重きを置かず、所謂実践躬行、信念と躬行と並び立てる者たらんを要す。已に斯の如き宗教あらば、之を我が邦に伝布し、又隣境に布教せられん事を、最も歓迎するものなり。云々。
十月十四日 (木) 晴
 午前一同ホテルに休息し、午後零時半より、紐育州商業会議所の接見、及午餐会に列す。恰も航路補助案の議事中なりしが故に、暫時之を傍聴し、後歓迎式・接見会を了り、階上に午餐の饗応を受く。会頭シモンス氏の歓迎辞に次いで、渋沢男、大要左の如く演説を為す。
  ○前掲ニツキ略ス。
 午後八時半日本倶楽部主催の接見会あり、一同出席す。会長高峰博士の歓迎の辞、水野副会長の演説、中野氏の答辞等あり。茶菓寿司の饗応を受け、三鞭の杯を挙げて健康を祝し成功を祈る。会するもの男女二百余名、実に一時の盛を極む(団長は不快の為め欠席す)
  備考 紐育商業会議所
  世に紐育商業会議所と云ふも、実は紐育市の商業会議所に非ずして、紐育州商業会議所なり。
  千七百六十八年四月五日(米国独立前)に組織され、後千七百七十年三月十三日に至り、英国々王(当時英国の殖民地たりし)故ジョージ第三世の認可を経て、法人組織となりたり。
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  千七百六十九年以来、此商業会議所の集会は、普通ブロード街最末端なる「エキスチェンジ」(取引所)と称せられたる建物の、最大室に於て集会するを常とせり。爾来各所に会場を転じ、現在の建物は千九百二年に築造されたるものにして、建築技師はベーカー氏なり。
  前米国大統領ルーズヴェルト氏の、千九百二年十一月十一日の演説中に曰く「紐育の商業会議所は、国外に対しても、国内に在つても、平和の捷利を援助する為めに、終始一貫の態度を執るものなり」と
十月十五日 (金) 晴
 午前十時紐育商人協会の案内にて自働車に分乗し、西四十二丁目波止場より汽船サガモーアに乗組み、先づハドソン河を下り、自由女神像の辺より、マンハッタン島の南端を一周し、転じてブルクリンと紐育との間なる東河に入り、各沿岸を見物す。船中にて午餐の饗応あり。後ち河を溯りてハレム河に至り、再びハドソン河に出で、六時ホテルに帰る。
 今夕は水野総領事の催にて、団員の重なるものと、紐育市の重立たる日米人とを、料理店ジェリースに招きて晩餐会あり。出席者は渋沢男・中野氏・神田男・土居・松方・大谷・西村・上遠野・頭本・岩原等の団員、及紐育在住の福井・今西・村井・新井・井上の諸氏並に山崎領事官補、高峰博士、ヘンリー・クリュース、セスロー、ウツドフォード将軍、バンタイン、スナイダー、ドクトル・ジヨンヒンレー、マククック大佐、ヲルター・ページ、セリグマン教授、コフヒン、ウイリァム・スキンナー、リンド、セーラッセル、ローマン、ハイド、クラーク、オスボーン、ストルマン、ムアー、グリーン、エリオット、グード、バッカハム、ロセン、バーカー等の諸氏、当日事故の為め欠席せしはシヤコブ・シーフ、メルビルストーン、ロバート・トムソン、ドクトル・ニコラス・パットラー、フランシス・ルーミス、バンダーリップ、ハミルトン、ホルト等の諸氏なり。
十月十六日 (土) 晴
 午後一時日本協会及び紐育平和協会司会の午餐会をホテル内に催さる。会するもの男女三百余名、紐育市立大学総長フヰンレー博士司会、席上渋沢男の演説(グリーン氏通訳)神田男・頭本氏等の演説あり、又米人側よりはノックス博士(日本協会代表)クラーク博士(平和協会代表)の演説あり。此日会場の正面に、タウンセンド・ハリス氏が初めて江戸の米国公使館に掲げたりと云ふ、当時の米国国旗(日本の材料にて作りたるものにして、現に紐育市立大学ハリス館所蔵)を飾りたるは、主人側の深く意を用たる処にして、一行為に今昔の感に堪へざりき。席上渋沢団長の演説梗概左の如し。
   ○前掲ニツキ略ス。
 同夜は正金銀行支店の招待にて、一同ヒポドローム座を見物す。
十月十七日 (日) 晴
 午前より午後にかけて、一同随意に各方面の見物に向ふ。午後三時
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半よりは、カーネギー・ホールに於て、日本人共済会の秋季大会あり。席上石橋・巌谷・中野諸氏、及渋沢男等の演説あり。夕景散会す。
十月十八日 (月) 晴
 紐育市、其他在留日本人等の公式歓迎会は既に終りたることゝて、本日よりは各自随意に視察研究の事とせり。
十月十九日 (火) 晴
 今朝渋沢男・日比谷・坂口・堀越・中野・西村・紫藤・町田・上遠野の諸氏は、ホルヨークに於けるスキンナー氏(絹業協会会頭)の絹織物工場視察の為め、同地に向ひ、即日紐育に帰る。
十月二十日 (水) 晴
 正午より「エクイテーブル」生命保険会社長パウル・モルトン氏、法律家倶楽部に於て午餐会を催し、団員の主なるもの之に出席す。尚渋沢男・中野氏は帰途、最初の駐日米国公使タウンセンド・ハリスの墓所に参詣し其霊を弔ふ。団長詩あり、曰く。
  古寺蒼苔秋色探。 孤墳来弔涙沾襟。
  霜楓薄暮燃如火。 留得丹誠報国心。
 午後七時半より、渋沢男は一個人の資格を以て、日米紳士数十名をホテルに招待し、晩餐会を催す。之に応じたるものは高峰博士・今西・新井・村井・福井・井上、コツフイン、スキンナー、シッフ、ウィラード、ワンダリップの諸氏、其他団員の主なる者等なり。
 本日午後華府大使館より、天長節当夜の招待状を受く。
十月二十一日 (木) 雨
 紐育市の富豪シッフ氏は、法律家倶楽部に席を設けて、渋沢男以下一行の主なる者を招き、叮重なる午餐を饗せり。来会者は何れも当代財界の有力者とす。今夕六時頃一同ホテルを引揚げ、それより散歩或は買物等をなし、十一時頃何れも列車に帰り、夜半ニューヘブンに向ふ。渡瀬・田村・南・原博士の四氏は、此処にて一行に別れ加奈陀地方視察の途に上る。


東京経済雑誌 第六〇巻第一五一三号・第七七八頁 明治四二年一〇月二三日 渡米実業団の紐育歓迎(DK320010k-0005)
第32巻 p.227-228 ページ画像

東京経済雑誌 第六〇巻第一五一三号・第七七八頁 明治四二年一〇月二三日
    渡米実業団の紐育歓迎
我渡米実業団は、十月七日我国に初めて使節を送りたるフイリモーア大統領の生地たるバツフアローより、ナイヤガラ瀑布見物に出掛け、一寸加奈陀領に立寄り、夕刻帰りて共進会発会式に臨み、同夜ロスチエスターに向ひ、同市に於て思出多き演説の交換あり、更にイサカを経、シラキユースに入り、セネクタデーを過ぎりて十二日朝愈々紐育に着し、ホテル・アストルに投ぜり、接伴委員エリオツト氏の発言にて、実業団と接伴委員及昨年日本へ渡来せし米国人側との間に、此後の親密なる関係を結び、諸般調査の便宜を図る為めに両国側より数名の調査委員を挙げたり、十三日は同地絹物業組合の案内にて、彼の有名なる大統領にして日本の指導者たりしグラント将軍の霊廟をハドソン湖畔に訪ひ、日々諸処の招待、観光視察に忙殺せらるゝ有様なるが既に十六日を以て米国旅程の半ばに達せり、同地滞在は十日間の予定
 - 第32巻 p.228 -ページ画像 
なり



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第五四〇―五四二頁 明治四三年一〇月刊(DK320010k-0006)
第32巻 p.228 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第五四〇―五四二頁 明治四三年一〇月刊
 ○第三編 報告
    第二章 電信雑輯
○上略
十月十二日 オクラハマ州オクラハマ市三井物産会社出張所より
  「オクラハマ市の商業会議所は、日本実業団がオクラハマ市を訪問せんことを熱心に希望す、其諾否を承知したし」
との来電ありたるも、右は予定の時間には到底実行し難きこと故、好意を謝して断わりたり。
十月十九日紐育滞在中、桑港市が震災後に於ける復興を祝せんが為めに催したる、ポルトラ(最初に加州を開拓したる人)祭典を行ひたるにより、団長渋沢男爵の名を以て、同日桑港商業会議所に宛て、左の電報を発したり。
  「予は日本商業会議所を代表し、本日より開始さるべきポルトラ祭の成功を熱望し、併せて貴市が先年の大災害の後ち、再築されたる偉蹟に対して祝意を表す。是等の希望と祝意とは、貴商業会議所を経て、桑港の市民に伝達されたし。貴市の招待は、一行の殊に満足する所にして、団員等は数週間の後に貴市に着し、貴市の着々成功しつゝある偉大なる事業の実跡を、親しく拝見せんことを切望しつゝあり」
之れに対し、翌日桑港商業会議所会頭マクナブ氏より、渋沢団長に宛て
  「桑港商業会議所は、日本実業団の鄭重なる電報に接し、深謝に堪へず、近き将来に於て、来訪の栄を賜はらんことを待つ」
との来電ありたり。
紐育滞在中、加奈陀に赴きたる団員の一部の取扱振り、及其資格に関し、在オッタワ中村総領事より、
  「実業家一行中の四氏、不日オッタワに来るべき由に付き、加奈陀政府にては、空前の待遇を為さんとしつゝあり、右四氏は如何なる資格を以て来遊するや、承知したし」
との来電に対し、
  「此連中は紐育の滞在一週間延期したる時間を利用し、個人の関係又は特殊の研究をなさんが為めに、貴地方を旅行するものにして、日本実業団の公然たる分遣隊にも、亦派出員にもあらず、加奈陀政府にて取調に十分の便宜を与へられんことは、最も希望する所なるも、之れに公式の待遇を与へらるゝは、本人等も聊か迷惑する所なるべく、又主人側太平洋聯合商業会議所の思惑も如何かと思はる、其含みを以て加奈陀側に応接されたし」
との旨を返電せり。
○下略



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二六四―二八二頁 明治四三年一〇月刊(DK320010k-0007)
第32巻 p.228-235 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二六四―二八二頁 明治四三年一〇月刊
 - 第32巻 p.229 -ページ画像 
 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
    第二節 紐育市勢一斑
 (備考、在紐育帝国総領事館の調査に拠る。統計は特に附記せるものゝ外、明治四十一年の分を採れり)
 (一ヱーカーは我が四反十八歩、即ち千二百坪余とす)
○大紐育市 マンハッタン区・ブルクリン区・ブロンクス区・クヰンスボロー区・リッチモント区の五区より成る。面積二十万九千二百十八エーカー、其内公園(五大公園及其他)七千二百二十二エーカーに及ぶ。即ち全市の三分四厘四毛(百分)にて、公園道路の延長五十二哩に達す。
市債発行高 明治三十七年以後の発行高 一四六、九三五、一八六《弗》
平均一年三千万弗を出でず。其内訳割合左の如し。
            割

 一、給水事業    一、四五〇 一、市内鉄道    〇、二三二
 一、学校      二、六四〇 一、公共建築物   〇、五八三
 一、橋梁      〇、〇三五 一、道路土木    一、五一〇
 一、船渠及渡船事務 二、四三〇 一、其他      一、一二〇
合計一四六、九三五、一八六弗

人口 最近五年間に市(大紐育)の人口増加率一割七分二里
 明治三十八年の統計四百一万四千余人、現在四百四十二万二千六百八十五人(明治四十一年一月調)明治四十二年の概算は四百五十五万四千七百九十二人、生活費も此の五年間に一割五分を増加せり。最近五年以前六十二方哩の小紐育市拡張して、三百二十七方哩となり、之に対する市の経営事務著しく膨脹せり。之れが為め市一般税の負担を増したれど、同時に地価は非常に騰貴し、地主は利益を得たり。
移民入市 最近四年五箇月間(明治四十二年一月に終る)当市に上陸せし欧洲移民数、三百七十万人に達し、大部分は、市の住民と為れり。明治四十年中移民合計百〇三万九千二百人。
市の徴税費 百万弗に対し、六十七弗七十一仙、五年前に比し、二弗六仙を減ず、五年前に比し、市内不動産の課税額三割四分の増加とす。
大紐育市の動産・不動産課税評価額 一、動産四三五、七七四、六一一弗 一、不動産六、七二二、四一五、七八九弗(下町目抜の場所一吋平方に付き、地上地下相場五弗と言ふ)
 市の歳出予算(四十二年)一億五千六百五十四万五千百四十八弗、五年以前に比し四千七百九十五万二千四百五十四弗の増加とす。
市内火災に関する給水事務 最近設備改良高圧式に由る圧出量二十四時間に五千万ガロン(一ガロンは我二升五合弱)に達することを得(一平方吋に対し三百五十封度の圧力)給水迅速、出火警報後二分時にして効あり、随つて保険会社の確立する所以なり。而して保険料の減額マンハタン区のみにて一年五十万弗に達せり、各区に二三ケ所の喞筒圧送工場あり、喞筒一台の能力一分間五千ガロン内外の送水量とす、電気動力にて運転
市内給水量 (飲料火災其他一般)現今一日四億七千九百万ガロン、即
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ち我か千百九十七万五千石とす。其使用料の歳入二百万弗、グロートン(Groton)溜水源池の溜水量八百八十億ガロンに達す。
 各十年間に人口増加率三割三分に及べば、明治六十年頃には七百万人に達すべく、随つて給水量も、一日千二百五十万石乃至千五百万石を要すへし。
消防事務 市内火災警報告知機の数六万三千四百五十九ケ所、市管消防隊二百四十九組四千二百十人、消火船十隻(新式四隻)、送水力一分間七万八千ガロン、水上火災の警備とす。
瓦斯と電気事務(公共用)市内ランプ及燭光数

          個        燭光           個        燭光
 電灯  二〇、四一四 八、四〇一、〇三〇 瓦斯灯  四三、八九二 二、六二七、二三二
 ナフサ灯 四、〇四七   二四二、二四四 石油ランプ     無         無
  合計                      六八、三五三 一一、二七〇、五〇六
 五年前に比し増加率九分  五割八分 (明治四十一年十月調)
 瓦斯使用料 (公共用) 七十五仙 (私用) 八十仙 一千立方呎に付
 電気同   (公共用) 七仙五厘 (私用) 同十仙 一キロメートル《(マヽ)》
市内衛生(明治三十七年自一月至十一月)
 十一ケ月間市の死亡数 七万千七百二十五人
                 千人に対し 二〇、〇六の割
昨年中(十一ケ月間) 六万七千三百十一人
                 千人に対し 一六、六〇の割
市管教育 市管学校
 明治三十七年六月中 五百〇一ケ所
 同 四十一年九月  五百二十二ケ所
 学生数    卅七年中   四十一年中
               人        人
 全校登簿人員  六二二、二〇一  七一六、九六五
 平均一日出席者 四六六、五七一  五四五、〇九八
 中学校登簿数   一九、三三〇   二五、二六四
 専門学校登簿数     九五九    一、七一三
 小学校同    四九六、九二五  五六九、七八二
 幼稚園      一三、六四五   二〇、五八二

 以上凡て市の経費に由る。
橋梁(ブルックリン市と紐育市との交通)
 ブリックリン橋上電車・高架鉄道車通過数
 卅七年中一日平均 三千八百四十台 四十年中同 四千三百卅二台
一日雑沓時間(午前七時より九時、午後四時より六時)中一時間の電車通過平均数。
 卅七年 二百二十台 四十一年 三百四十七台
 高架電車の橋上通過数は、現在一時間三百六十六台とす。
一、クインスボロ橋の効用 ロングアイランド農夫の紐育市場に出荷する要路とす、一時間十二万五千人の車送能力を有す。
一、マンハタン吊橋の新架設 架塔二基の鋼鉄要材二千五百万封度、橋梁径間鋼材三千八百万封度、懸吊用大鋼条四本三万七千八百八十八条の鉄線を有す。
 軌道   八路  車道(自動車・荷車) 一路  人道 二路
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此橋乗客車送能力片道一時間十七万五千人に達すべし。
以上を以て如何に紐育本部と「ブルックリン」市との交通頻繁なるを窺知すへし。
市営船渠及埠頭 四十二年末各大西洋航路会社は、其の繋船場を「ハドソン」河の下流(廿三丁目以下)に移す。其社名
  キュナード汽船 カンパニ・ゼネラル・トランス・アトランチック
  ホワイト・スター線       レッド・スター線
  アメリカン・アトランチック・トランスポート線
 繋船場賃貸総額年収五十六万弗。
 繋船場埠頭の長さ紐育ハドソン下流の分最大の処八百二十五呎。
 ブルクリン側市有埠頭最長千八百呎 各繋船場水深約四十呎
 市営渡船建造費(新式) 五隻に付 百七十五万弗
市内街路掃除費 四十一年中経常 六百九十一万二千余弗
同街上雪氷取捨費、其他臨時六十二万一千余弗、合計七百五十三万七千余弗
 雪の取捨費のみにて百万弗以上に及ふこと珍らしからず、街路の清潔なる所以なり。
警察 市は現下四百四五十人に対して一人の巡査を有し、市民一人分担の巡査雇用費一年約三弗廿仙内外に当る。
市の海陸兵備 市の陸海軍設備費(建物二拾三ケ所)千四百六十八万五千百八十八弗。
紐百の図書館 「カーネギー」図書館、十年前「アンドリゥー・カーネギー」氏五百二十万弗を寄附して市営図書館の建造を市に計れり
 市は敷地を供すこと、市は年々建物築造費の一割を支出して各図書館を維持すること等、其条件たり、其結果昨年末迄に卅二ケ所の図書館の開設を見たり。
 蔵する書冊貴書   七二四、八九四冊
 右の閲覧者数     十九万九千八百廿六人
 貸出書籍    五、四九〇、二四四冊
 普通書       六二一、三九〇冊
    第三節 紐育商工業概況
○手形交換高 交換所は今を距ること約五十年前の創設にかゝる、明治四十年中
 年内手形交換高 七百三十六億三千〇九十七万余弗
 交換尻     三十四億九百六十三万二千余弗
 一日交換高平均 二億四千百四十一万三十余弗
 明治四十二年(一千九百九年)の交換総高は七百九十二億七千五百八十弗(我千五百八十五億五千一百六十万五百余円)
○銀行及類似の業 一千九百九年(明治四十二年)四月二十八日現在
 紐育市内の国立・州立銀行・及トラスト・コムバニーの預金総額
 三十億七千六百五十六万五千八百弗(我六十一億五千三百十三万一千六百円)
△在紐育国立銀行(National Bank)銀行数 四拾
 資本合計   一億一千百九拾万余弗
 - 第32巻 p.232 -ページ画像 
 右の内最大  二千五百万弗
 積立金合計  一億三千九百万余弗
 右の内最高  二千五百万弗
△紐育州立銀行(「マンハッタン」、「ブロンクス」の両区)
                        其数 四拾五
 資本総額   二千二百三拾万弗
 右の内最大  三百万弗
 積立金総額  三千二百四拾七万余弗
 右の内最高  五百万弗
△在紐育貯蓄銀行「マンハッタン、ブロンクス、ブルックリン、クインス」の四区にて其数五拾三ケ所
 預金者数   百七拾七万八千二百九拾四人
 預金総額   八億二千二百四拾五万余弗
米国対外貿易額中紐育商港の輸出入割合
 四拾一年紐育の輸出入 四割五分四八
 同年     輸入  五割七分六二
 同年     輸出  三割七分六七
紐育の、米国内他地方との水運による商業、一ケ年一百億弗と見積らる。
交通 大西洋航路

                 隻        噸
 サウザンプトン行        四   四四、八四二
 グラスゴー行          五   三七、九九五
 倫敦行             五   六一、二五五
 リバプール行          六  一〇七、四〇〇
 地中海行            六    八、四四〇
 ハーバー            七   八四、二四一
 地中海ハンバーグ行      一六  二四六、二八三
 サウザンプトン・ブレーメン行 一三  一八九、三九四
 ゼノア行            五   六二、三五〇
 アントワープ行         七   八三、一七〇
 スカンディナビヤ行       三   三五、五〇〇
 サウザンプトン行        八  一四三、八〇〇
  合計          八十五隻  百拾万四千六百七十余噸

△株式取引所出来高(明治四十一年)
 株式 百五十三億一千九百四十九万一千七百九十七弗
 債券 十億八千百二十六万一千百二十弗
 計  百六十四億七十五万二千九百十七弗
    (我三百二十八億一百五十万五千八百三十八円)
△一千九百八年(会計年度)に於ける紐育発外国行船舶数 三千八百七十八隻
   附記 加奈陀分遣隊記事 (田村新吉氏稿)
  明治四十二年十月十八日南博士・原博士・渡瀬学士・田村の四氏は、加奈陀地方農商工業視察の為め、分遣隊として紐育を発し、十九日午前七時加奈陀モントリオール市に着す。
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十月十九日
  曩に加奈陀政府貿易事務官として本邦横浜に駐在せしダブリユ・デイ・アル・プレストン氏は、加奈陀政府派遣官として出張し、我一行を「モ」市に出迎へ、「グランド・トランク」鉄道会社の貴賓専用特別客車に案内し、首府オツタワに向け出発、同日午前十一時オツタワに着し、ラツセル・ホテルに投ず。一行は総理大臣サー・ウイルボドロリエー卿より午餐の招待を受け、大蔵大臣フヰルデイング、農商務大臣フヰツシヤー、労働大臣キング、中村総領事及プレストン、其他上院・下院議員等列席、食を共にす。
  午後農事試験場を視察し、場長サンダー氏の邸宅にて、茶菓の饗応を受く。同夜中村総領事より晩餐会の招待あり。一行参会、十一時帰宿す。
十月二十日
  プレストン氏其他の案内にて、個人の経営農場・製材場・水道、「インターナシヨナル・マソン・シグナル」会社・議事堂・図書館を巡視し、商務大臣カトライト氏に面会、交話す。午後八時一行は農務大臣フヰツシヤー氏より晩餐の饗応を享け、中村総領事・今井書記生・加奈陀政府官吏及議員十数名之に列す。
十月廿一日
  午前八時オツタワ市を発し。セントアンス市に向ふ。此地にはマクドナルド大学(私立)あり。校長・教頭の案内にて同校を参観し、男女学生と共に昼餐を喫し、午後茶菓の饗応を受く。
十月廿二日
  午前トロント市に着し、市長及会議員に面会し、次で各種製造場学校、及水道を視察す、一行は同地倶楽部に於て、市参事会員より午餐を饗せられ、夕刻モントリオールに向ふ。
十月廿三日
  午前九時、一行はモントリオールに着、マギール大学・水道・製粉会社、及大船巨舶の出入自在なるセント・ローレンス河の水利を繹ね、又陸上交通機関を視る。孰れも規模頗る大なり。次で加奈陀倶楽部に於て昼餐の饗応あり。
十月廿四日
  午前八時半ボストン市着、パーカー・ホテルに於て本団に会す。
  但し田村氏は独り加奈陀に留り、追而米国西部にて一行に会せんとす。
   同上 土木水道概況  (原工学博士稿)
    (一)オツタワ市
オツタワ市は、加奈陀州の首府にして、人口八万余を有し、街路の延長百四十四哩、市街の最も完全なる個所は十六哩にして、内九哩は「アスフアルト」を以て道路を被覆しあり、花崗石を以て被覆し在る個処は、軌道内、並に重量ある車輛の通行する処にのみ之を用ゆ。而して市の面積は三千三百五十エーカーにして、内公園の総面積は四百五十エーカーとす。リドー運河は、モントリールより、オツタワ河を通じて「キングストン」に至る、内地の水路にして、其
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総延長百二十六哩なり。抑も該運河は、軍事上の必要より、一大工事を起したるものにして、工費五百万弗を要し、千八百三十二年に竣成せり。而してオツタワ河とオンタリオ湖との水面の差、四百五十八尺にして、其水面の差の有る個所を回航する為め、船渠四十七ケ所を設け、其内の多くは、長さ百三十四呎、幅員三十三呎にして中八個は市中に在り。
蒸汽鉄道の線路は、殆んど九線路の市街に進入するあり。毎日列車の運転すること百回の多きに及ぶと云ふ。而して其重なる鉄道は、加奈陀太平洋鉄道、グラント・トランク鉄道、オツタワ紐育鉄道等とす。又市街鉄道は、何れも電気鉄道にして、総延長四十哩、乗車賃率は五仙均一なり。
加奈陀州に於ける河川には瀑布の数多く、水力豊富なりと雖も、就中オツタワ附近に優る処なしと。而して其水力を称して、白石炭と云ひ、市の区域内のみにても十万馬力を有し、市役所を中心とせる十哩の内にありて、二十三万馬力を利用するを得、四十五哩の区域内に於ては、優に百万馬力を利用することを得ると云ふ。水道喞筒はウエリントン街に在り。喞筒の揚水量一日四千三百万瓦倫にして壱千万瓦倫の機械壱台、三百万瓦倫のもの三台、四百万瓦倫のもの弐台、八百万瓦倫のもの弐台、合計八台を設置しあり。何れも水平式機関にして、其動力は水力に因る。其水力を供給する運河は、幅員二十尺、深十八尺、延長千五百尺、勾配千五百分の一にして、オツタワ河より引水せり。而して水道の水源は同河の上流にして、喞筒場より七千尺の距離に在り。内径四十吋の鋼鉄管を以て導水す。
又運河取入所の附近は、加奈陀太平洋鉄道の線路に該るを以て、横断個所には特に堅牢なる鉄筋混凝土拱を用ひ居れり。其地層は頗る堅牢なる石灰石の水平層なるを以て、特に内部の保護工事を要せざりき。而して尚水量を増加するの必要あるが為め、第二の送水管を布設工事中にして、内径四十二吋管を以て、現在の取入口に並行して引水し、之に要する運河を構造しつゝあり。其形状は前述の運河と同形なるも、幅員は二十七尺となせり。
    (二)トロント市
トロント市は、オンタリオ州の首府にして、市街の面積十九平方哩人口三十四万を有す。
市街鉄道は約百哩なりと云ひ、車道は専らアスフアルトを以て被覆し延長百哩、其他石道木道等もありと雖も此等は僅少に過ぎず。
水道の水源はオンタリオ湖にあり。即ち喞筒場より五千八十七尺の間は隧道にして、内径八呎の馬蹄形拱は煉瓦、底部は混凝土にして水面の下八十呎の処にあり。而して隧道の一端に接合井あり。接合井より湖中の取入口に至る距離は、七千九百三十呎にして、内径六尺の鋼鉄管を、水面下四五尺の処に布設して導水せり。而して尚目下最も完全なる濾過装置の工事中なり、其総工費は弐百五十万弗なりと云ふ。
水道喞筒場は、三重膨脹式喞筒にて、一日の揚水量千五百万瓦倫一台、ウオージントン式喞筒一日の揚水量千万瓦倫弐台、別に四百万
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瓦倫、並に八百万瓦倫の旧式喞筒各壱台を設置し、其総揚水量一日四千七百万瓦倫なり。
又特に高圧喞筒弐台を設置しあり、其揚水量五百万瓦倫にして、其圧力は三百封度なり、之は防火に専用するものとす。
    (三)モントリール市
モントリール市は人口五十万にして、市街には電気鉄道を有す。其延長五十哩にして道路は比較的悪しく、被覆は多くアスフアルトを用ひ居れり。
港湾はセント・ローレンス川の一部を包囲せるものにして、其上流に当り二個の船渠を築設し、以てラシン運河に接続し航行の便を図れり。築港は十年計画にして、其工費二千万弗を要すと云ふ。
水道水源は、セント・ローレンス河にして、同河の港湾水面より高きこと三十八呎の処より引水す。而して其取入口より四千八百呎の間は、巾百四呎、深十四呎の送水溝に依り、其下流二万六千二百呎の間は、巾三十呎、深さ八呎の送水溝に依りて送水し、共に勾配一哩に付五吋にして、其送水溝の終点に沈澱池を設く。其容積四百四万四千八百八十五平方呎《(立カ)》なり。
給水区域は、高区・低区の二区に別ち、低区の喞筒場に於ては、揚水は二個の様式を用ひ、全水量の六分は水力の機械に依り、他の四分は蒸汽機械に依りて揚水し居れり。而して喞筒場に於て揚水する全水量は、一ケ年殆んど百億瓦倫なりと云ふ。又喞筒はジヨン・バルタービル式喞筒一台にて、二十四時間に四百万瓦倫を揚水し、サムソン式喞筒一台にて、二十四時間に五百万瓦倫を揚水し、尚ほジヨオン・バルタービル式二台にて、各二十四時間に三百万瓦倫を揚水し、即ち二十四時間に千五百万瓦倫を揚水する割合なり。而して以上は第一の屋舎内におけるものにして、第二の屋舎には、ウオージントン式喞筒二台、各二十四時間に一千万瓦倫を揚水し、尚同式喞筒一台にて二十四時間に八百万瓦倫を揚水するの設備あり。而して喞筒場より低区貯水池に送水す。貯水池の構造は、岩石を開鑿して築造したるを以て、底部は多少の凹凸を免かれず。周囲の壁は、一部分は天然の岩石を利用し、一部分はセメントを以て積み重ねたる石垣なりとす。又貯水池より給水するには、内径三十吋の本管二条、其延長一万六千百二呎と、内径二十四吋の本管二条、其延長二万七千七百九呎の都合四条の本管に依りて給水し居れり。
叙上の喞筒に依りて、取入口より百五十五呎の高所に設けたる貯水池に揚水するものにして、其容量は三千七百万瓦倫を貯水し得ると云ふ。
高区喞筒場は、蒸汽力を以てする喞筒二台を設置し、一はウオージントン式二十四馬力にして、二十四時間に五十万瓦倫を揚水し、一はキルバート式二百五十馬力にして、二十四時間に二百五十万瓦倫を揚水するものなり。而して高区の貯水池の構造は、凡そ低区の貯水地の構造と同一にして、其容積は百七十五万瓦倫なりとす。