デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
1款 渡米実業団
■綱文

第32巻 p.423-448(DK320017k) ページ画像

明治42年12月26日(1909年)

是日、東京高等商業学校講堂ニ於テ東京市第九回講演会開催セラレ、栄一之ニ臨ミアメリカ旅行談ヲナス。爾後翌四十三年一月十七日日本橋倶楽部月次会、同月二十二日東京高等商業学校歓迎会、同月二十七日自治協会招待会、二月二十二日第四回議員銀行家連合懇親会、三月一日横浜商業学校、
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同日横浜経済会月次会、同月五日静岡旧城内陳列場、四月四日埼玉県八基村教育会、四月二十三日神戸高等商業学校、四月三十日財団法人埼玉学生誘掖会、五月三日深川鷗盟会ニ於テアメリカ旅行談ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四三年(DK320017k-0001)
第32巻 p.424-425 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四三年   (渋沢子爵家所蔵)
一月十七日 曇 寒
○上略 六時日本橋倶楽部ニ抵リ、月次会ノ饗宴ヲ受ク、卓上一場ノ演説ヲ為ス(米国旅行中ニ感セシ要件ノ二三ヲ述ヘタリ)食後種々ノ談話アリ、夜十一時過帰宿ス○下略
  ○中略。
一月二十二日 曇 寒
○上略 午後三時高等商業学校ニ抵リ、学生一同ノ企望ニ応シテ米国旅行中ノ感想ヲ講演ス、聴衆一千余名、満堂余地ナキニ至ル、校長沢柳氏先ツ紹介ノ詞アリ、夫ヨリ一時間余ノ長演説ヲ為ス、畢テ神田氏ノ英語演説アリ○下略
  ○中略。
一月二十七日 晴 寒
○上略 自治協会ノ集会アリテ交詢社ニ抵リ、晩餐前一場ノ米国旅行談ヲ為ス、畢テ会員ト共ニ夜飧シ、腹部悪シキ為メ、中坐シテ王子ニ帰宿ス○下略
  ○中略。
二月二十二日 晴 寒
○上略 午後五時銀行集会所ニ抵リ、懇親会ニ出席ス、食卓上一場ノ挨拶ヲ為ス、夜十一時王子ニ帰宿ス○下略
  ○中略。
三月一日 曇 寒
○上略 十時半ノ汽車ニテ東神奈川ニ抵リ○中略 石井氏ト馬車ニテ太田村ニ抵リ、商業学校ニ於テ一場ノ演説ヲ為ス、教育ニ関スル企望ト米国ニテ観察セシ要点ヲ述フ○中略 社交倶楽部ニ抵リ横浜経済会月次会ノ会同ニ出席シ、晩飧後一場ノ演説ヲ為ス、経済的ニ米国ノ商工業ヲ観察セシ要点ト、自国現下ノ状況トヲ詳話ス○下略
  ○中略。
三月五日 晴 寒
○上略 午前八時半新橋ニ抵リ、急行車ニテ静岡ニ抵ル○中略 旧城内ノ陳列場ニ於テ渡米旅行談ヲ為ス、聴衆千有余名ナリキ○下略
  ○中略。
四月二十三日 曇 軽暖
○上略 十時半再ヒ梅田ニ帰リ、夫ヨリ神戸行ノ汽車ニ搭ス○中略 高等商業学校ニ抵リ、学生ニ対シテ一場ノ演説ヲ為ス○下略
  ○中略。
四月三十日 晴 暖
○上略 六時牛込埼王学生誘掖会ニ抵リ、学生ノ催ニ係ル茶話会ニ出席ス
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先ツ寄宿舎ヲ一覧シ、学生ト共ニ夜飧シ、後一場ノ講話ヲ為ス、米国旅行談ニ加ヘテ、修学上精神修養ニ関スル要旨ヲ談ス○下略
  ○中略。
五月三日 曇 軽寒
○上略 午後三時上野常盤花壇ニ抵リ、深川鷗盟会ヨリ案内セラレタル集会ニ出席ス、余興アリ、後宴会ニ際シテ、常議員総代ヨリ歓迎ノ辞アリ、依テ之ニ答ヘテ、米国旅行談ト本会設立当時ヨリノ地方自治制ニ関スル意見ヲ演説ス○下略
  ○明治四十二年十二月二十六日並ニ同四十三年四月四日ノ日記ヲ欠ク。


竜門雑誌 第二六〇号・第四九―五〇頁明治四三年一月 ○東京市講演会(DK320017k-0002)
第32巻 p.425-426 ページ画像

竜門雑誌  第二六〇号・第四九―五〇頁明治四三年一月
    ○東京市講演会
東京市第九回講演会は二十六日〇四二年一二月午後一時半より高等商業学校講堂に開会せり、当日は歳末にも拘はらず、渡米実業団の一行なる青淵先生を初め、高辻奈良蔵・渡瀬寅次郎二氏の講演ありしことゝて、定刻より傍聴者詰めかけ、遉の講堂も殆ど満員の好景を呈し、近来の盛会なりき
      青淵先生の講話
今回予の米国旅行は、勿論一身の見学の為めにもあらざれば、又保養の為にも非ずして、昨年米国太平洋沿岸諸州の実業家諸君の一行が来遊せるを機とし、我々国民は熱誠なる歓迎をなせし結果、其返礼旁々両国の交情を温めんとの趣旨に基づき、彼等諸州の発議により、我が五商業会議所《(六)》の団体を招待せるに因るものなれば、或る意味に於ては国民の一部を代表し、両国の交情を温むると共に、兼て我邦人の誠意をも伝へんとの大任を帯びたるものと云ふべく、我々一行は不肖ながら幾分か此国民の期待せし所に背かざりしを断言して憚らず、故に此の行に於て一行各員が其目的を果さん為めに取りし所、及び彼国人の情意のある所は、詳細之を我同胞に報告するの義務あるのみならず、其機会の多きを悦ぶなり、左れば如何に米国人が到る処に我等一行を温かき情意を以て歓迎せしかを述べんとて、九月一日シヤトルに上陸せし以来、九月十九日ミネアポリスに於て大統領タフト氏と会見せる顛末を初め、グランド・ラピツド、シカゴの歓迎、紐育、ボストン、フヰラデルフヰヤの優待より、ペリー提督墳墓の弔祭及び聖路易・桑港等に於ける歓待の模様を略述して、彼国民の意思の存する所を明かにし、進んで彼国に於ける各種産業の盛大なるに説き及ぼしては、トラストの組織は、科学の進歩に伴ふ分業の理論に背馳せるものにて、其弊は専売的傾向を帯ぶる結果、前大統領ル氏は之が撲滅策を取りしも、此通弊にして除き得べくんば、事業統一の上に一大利益あるを以て、対外競争の見地よりすれば大に講究を要すべき大問題なりと説き更に今日と雖も、彼国に於て所謂排日思想なるものゝ社会の一角に存在するは事実なれども、今日に於ては我国人の想像する程のものにあらずして、政府及び有識者は年を追うて膨脹しつゝある人口の排泄口を、将来は東洋方面に向つて求めざる可からざるを知り、之が為めには我々日本国民と手を取り、平和的に其政策を実行せざる可からざる
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を自覚し居れるものゝ如し、左れば将来は益々両国民の交情切なるに至らん、而して其他米国に於ける感化救恤の事業の盛大なることは到底我邦の及ばざる所なりと語り、最後に来春よりは必ず彼の実業団体の漫遊あるべきに顧みて、我帝都の客を遇する設備何れも不完全なるに思ひ及べば、冷汗背を湿すを覚ゆる所なるが、特別列車若しくはホテルの設備の不完全は已むを得ずとしても、責めては故障なく通行し得る道路だけにても、夫れ迄に通じ置かれたしと、市当局者に注意して降壇せり


竜門雑誌 第二六一号・第三七―三八頁明治四二年二月 ○日本橋倶楽部晩餐会(青淵先生並に山本総裁招待)(DK320017k-0003)
第32巻 p.426 ページ画像

竜門雑誌  第二六一号・第三七―三八頁明治四二年二月
    ○日本橋倶楽部晩餐会
    (青淵先生並に山本総裁招待)
日本橋倶楽部は、一月十七日夜六時月次会を開き、青淵先生並に山本勧銀総裁を招待して其所見を聴けり、宴の将に終らんとするや、大橋新太郎氏は主人側を代表して簡単に一場の挨拶を述べ、一同と共に来賓の健康を祝せんと乾杯し、先づ青淵先生の演説を請へり、依て先生は立て、渡米当時の感想を語て曰く
 米国の我が実業団を遇するや実に墾篤を極め、一行為めに多大の面目を施せり、左れど一面既に斯る面目を得たる以上は、永遠に之を保持せざるべからざるの責め重且つ大なるを感ずると共に、彼の東洋に雄飛せんとするの念頗る篤きを認めし上は、決して油断は出来ざる也、而して其国富充実の跡一見実に羨望に堪へざる所なるが、当初西部を見ては、彼の今日ある上に天与の恩恵大なるあるに帰因すと感したるが、漸次東部に入るに及んで、必ずしも天与のみに依て然るにあらず、寧ろ人為的奮闘の結果なるを確信するを得たり、於是乎予は吾人の覚悟如何に依て、彼に拮抗すること遂に難きにあらざるを信ぜしめたり、而して之れと共に、彼我企業の風潮を観るに、彼は学理と法律に束縛せらるゝなきに反し、我れに於いては徒らに学理に駆せ総てを法律づくめに決せんとするの弊あり、若し夫れ此弊風を去て、学理と法令をして事実の後に随従せしめ、一方国民挙て奮闘するあらば、蓋し商工業の発達期して待つを得べし云々
と結び、了て高木益太郎氏営業其他に関し注意を促す所あり、九時散会、会するもの主賓を始め七十余名に達し、頗る盛会を極めき


竜門雑誌 第二六二号・第一八―二三頁明治四三年三月 ○渡米所感 青淵先生(DK320017k-0004)
第32巻 p.426-430 ページ画像

竜門雑誌  第二六二号・第一八―二三頁明治四三年三月
    ○渡米所感
                      青淵先生
  本篇は一月二十二日午後東京高等商業学校の歓迎会の際、同校々堂に於て演説せられたる概要なり
只今校長さんから御叮嚀御紹介に預りました。私が渡米中に於ける所感を述ぶるに先ち一言申上げたき事は、此校の学生といふ事であります。四十三年の一月に御目に懸るは御互に悦ばしい事です。然し昨年六月二十一日は誠に悲惨な有様にて対面した事は御記憶の事ならん。今日此場にて憂愁を語るは不祥ではあるが、実際私は昨年の憂に引か
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へ、今年喜を以て再会するは、何とも申されぬ程悦ばしい故、無用の言に非ずと思ふ。扨て実業団の旅行は、校長さんよりの御話の通り、出発前の予想以上に歓迎せられ、十二月十七日帰国以来各方面の歓迎会に列席し、殆ど凡ての事柄を語り尽し、今日は別段珍らしき話とてなし只重複を恐るのみ。されど因縁深き諸君と私の間柄なれば、特に御話せん覚悟なりき、且校長さんよりも申出がありましたので、更に勇んで参上したる次第なり。之から旅行の概況及び所感の中、種々なる事柄を切上げ、多忙なりし事、苦痛なりし事、愉快なりし事、名誉なりし事、利益なりしと思ひし事につき御話いたしませう。悲しい哉私は英語を解せず、米国の地理に精通せず、為に発音其他不明瞭の個所なき能はず、此の点は偏に御用捨を願ひます。
団体の旅行は八月十九日に横浜を解纜し、八月三十一日「シヤトル」着、九月一日同市を訪ひ、終りは十一月三十日、此間汽車にて西より東、東より西に走り、行程一万八百余哩なり、都市五十三、滞在日数最も長きは「ニユーヨーク」にて十日、「シヤトル」五日、「シカゴ」四日、三日は大都市数個、一日の処もあり、或は滞在(宿るが意)せず到着早々見物し、直に其晩汽車に投じて他所へ向け出発する事もありき。
      △多忙なりし事
五十三個の都市を訪問するに、最初詳細なる時間割を与へられた。元来旅行は予め決定(日数・時間等)する事の好都合もあれど、長期の旅行に至りては、却て繁雑を来し、困却する事なきに非ず。今回の如きは殆んど夜中旅行し、昼間或る都市に着くや否や歓迎会に招待され少くとも二三の演説あり、多き時は五つにも及ぶといふ有様で、休息の時間は毛頭ない。見る眼は喜ばしけれども、走りまはる身体は非常に労れる。又夜になれば直ぐ出懸けて、帰る時は一時になる事あり、それでも送つて来た人には御礼に酒でも出して談話する、床に入るのは随分遅くなる、で眼覚むれば又直ぐ仕度して出発する、これが九十日間毎日の事だから、実に眼の回る程多忙である。但「プログラム」を造つて何処々々へは何人といふ風に定められし時は、余程骨の折れ様が少い。兎に角右の様で見物もし、用向も足し、交際上の談話もせねばならぬので、男ばかりではなく、婦人迄も此忙しい中に処して能く自ら応対を仕遂げたのである。多忙てふ文字は決して形容に用ひたのではない。そして汽車は「シヤトル」から一直線に東岸に通ずる様先方の厚意で仕つらへたので、丁度活きて動く家と思つて差支ない。之に乗るのは始めの程は牢屋に入る心地せしが、九十日後には遂に馴れて来て、繁忙なる「ホテル」に泊るより遥に気持よく感じました。人生万事如斯もので、最初は苦しき事も忍耐して行へば、終には却て好む様になるのである。諸君の学業に於けるも亦同様である(と警句を吐かれて一同を感ぜしむ)。
      △苦しかりし事
「シヤトル」市の歓迎会に臨みし時は、あまり熱くて卒倒するかと思つた。列席の人々に挨拶するのに順に整列して(先方の人々が)待つてをるから、当方は一端から順次に、手を握り合ふて姓名を云ひかは
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す。此時「レセプシヨン」といふ、「レセプシヨン」の意義は「手を握る事」なるや、将「姓名を云ひかわす事」なるやは、諸君の断案に任す(とて一同大に笑はせたり)そして私は団長といふので常に一番先に手を握らせられた。熱くて堪へられぬ上に、また大多数の人と手を握り合ふ、苦しさは言葉に尽されない程であつた。
「シカゴ」着第一日は「日本デー」といふ日であつた。(特に名づけたものならむ)此時も歓迎会で大分多数の人が集まり、四名の演説を拝聴しました。引続いて政府の建物の中で会合があつたが、新造の故かペンキの悪臭は鼻を突く、風通は悪く、それはそれは実に苦しい思をした、婦人などは懸命に扇子を動かすけれども、中々婦人の力では涼しくならぬ。婦人の困憊さ加減は男子よりも著しい。
此処が終ると直ぐ又大会堂で「レセプシヨン」がある。人数は凡五百人位あつたが、之が又例の通り一人一人手を握らねばならない。婦人の様な柔かい手で握つて呉れるなら未しもだが、そういふ人は誠に少ない。丸太の様な大きな堅い手でギユーツとやられるのだからたまらない。それに向ひの人は皆大きなもの故、自分は仰いで挨拶するといふ始末。此処でも又卒倒するかと思ひました。之が到着一日といふのだから猶ほ苦しい、(一行皆同感ならむと男云はる)次にこれは私独の苦しかりし事なれど、序に申し上げます。全体私は英語を知らぬ故、通訳が側に居つて新聞記者其他の人に談話を交へしも、時として通訳の側に居らぬ事あり。此時は実に困つて仕舞た。先方は多く頭から、「英語が話せますか」と聞いて来る、面喰ふて「英語は駄目だが仏語は話せる」など答へる。幸ひ先方に仏語を話せん時は好いが、不幸話せた時には、当方は材料極めて欠乏だから直ぐ窮してしまう。斯かる事は語学に堪能なる神田男などは全く知らぬ苦痛です。今後の社会は語学の才無くしては非常なる損失を招くこと多し、諸君幸に心せよ。
      △愉快なりし事
初ての土地に三箇月も旅行する事故、愉快なるは素より可然事なれど今度の旅行は親切丁寧極りて至らざる処なしと謂ふべき程であつた。
米人は親しみ易く吾等を見る事一見旧の如く、特に突飛の人は知己・親戚に逢ひたるが如く、無邪気に質朴に待遇し呉れた。為に一行は、心置なく打語ひ愉快窮りなかりき。
玆に記憶すべきは、米人は自慢の言葉を用ふること甚多き事なり。即ち自身・細君・土地・国家を自慢し、甚敷に至りては「日本に斯様な物ありや」など聞苦しき問を発する者さえある。されども、こは彼等の性質と見るべきものにて、決して吾等を侮辱するものとすべきに非ず。彼等は頗る快活に一行を優遇し、不愉快の感を起したる事は殆とない。
宴会に於ては、彼地の風習ならん。余興てふもの多くあらず。一行の滞在中芝居の案内を受けしこと五回、余興の催しありしこと六、七回に過ぎず、此点本邦と大に異る処がある。
更に附言せんに、彼等の長所として質問を歓迎する事である、「我が心の鍵は君に渡したり」てふ態度もて万事を語り、若し我の質問する事案外少なからんには、甚不快の念を抱くやう見受けた。さらぬだに
 - 第32巻 p.429 -ページ画像 
我は今回渡米の効果を大ならしめん為め、社会のあらゆる方面に就き疑義を問ひ、一行の人々より「又団長は何か尋ねて居る」と笑はれた位である。
      △名誉なりし事
今回の一行は、実際の価値以上に価値ある者の如く思惟せられた。これ一行の最も深く感ずると共に絶大の名誉なりしと思ふ。吾等一行自ら敢て卑下するの要を見ずと雖、然し米国人の眼中に映ぜし程の光輝赫々たる者には非ず。米人の一行を見る事甚大に過ぎたるを思ふ、旅舎より出づる時の如き、何れの地たるを論ぜず騎馬巡査十数名ありて一行を守り、沿道には無数の男女列をなして一行を迎ふ。如斯衆人環視の中に、自動車を駆りて過ぎ行く一行の胸中如何ばかり得意なりけん、或町に於ては州知事の出でゝ自動車に陪乗せらるゝあり、或は全市の巡査悉く出でゝ一行を迎ふるなど恰も査公の教練かと疑はる。
尚一行は大統領・米国政治家・実業家の有名なる人々と面会せり。かくして両国間の情誼を温むる事に努めた。只憾むらくは当代に卓絶せる実業家「カーネギー」及「モルガン」の二氏に会見するの機を得ざりき。されども日本の状況・厚誼・商売の方針等遺憾なく通ぜしを信ず。如斯吾等一行が絶大の栄誉を博したるは、一行が相当の資格ある者の集合なりし事は拠る処なきに非ずと雖、偏に我帝国の威信の彼に厚く、彼が我帝国に対する尊崇の反響が一行の頭上に及びしによるものと思ふ。かれを思ひこれを思へば、嬉しくも又痛ましき限である。
      △利益なりと思ひし事
利益に関して最大なるは教育の方面である。こは神田男に譲りて、我れは他の方面に亘りて所感を披瀝せん。勿論教育と関聯を有す。本旅行の基因を求むるに、四十年(一脱)於て米国太平洋沿岸人の来邦せし時、本邦の各所にて彼等に与へたる情誼の甚厚かりしに対し、謝意を表せんとして彼国より我が外務省に招待状を送付し来りたるに始まる。而して一行の覚悟如何と見るに、米国に於て、猶未だ排日の熱消ゑやらず、往々にして彼我の不利を醸せる事あれば、之れを鎮圧せんとする直接の目的と、今後益日米の親善を増進し、有形に通商を拡張せんとする直接間接の目的を有したのである。
此の使命を帯ぶる一行は、常に目的の実現に尽瘁したりと雖、今日に於て其結果を明言するに苦しむ。諸君幸に諒せられよ。
但本邦実業家の米人に対する感情を漸く広大に示し得たるを悦ぶ。換言せば、彼等が吾人に対する誤解、即戦争を好み、賭博に耽る国民てふ感念は、我等五十三名が日常の言語動作に依りて、遺憾なく氷解せられたるを信ず。同時に彼等を更に精密に知る事を得たる等、直接の利益ありしは玆に呶々するを要せず。
商業上日本より米国に至る商品の価格甚だ多く、米国より日本に来るものゝ価小なりとて奇怪なる見解を有する者ありたれば、我々は一々左の如く弁解を与へて置いた。
千九百〇八年の輸出入統計を見るに
(一)日本より米国に壱億三千万円也。
(二)米国より日本に八千万円也。
 - 第32巻 p.430 -ページ画像 
我が彼れに輸出する商品中、生糸は最著しきものである。然し仏・清伊も亦生糸を産し、価格本邦のものより安し。然も本邦に供給を仰ぐ且生糸は多少の加工を為すと雖、尚原料品たり、米国は之を以て高価なる精製品を造るに非ずや。由是観之「日本は生糸を買ふて貰ふに非ずして、売つてやるなり」と、又米国は自国内に於ける生産物の需要大なる結果として価甚高し。従つて海外に販路を求むる事他国に比し極めて緩。従て高価なり。英国特に独逸の如きは、東洋語を研究してすら販路の拡張に熱中し、従うて商品の価格低廉なり。然るに日本は尚米国の商品を購ふ。これ「米国が売るに非らずして、日本が買ふてやるなり」と、彼等が此弁解を価値あるものとして聞き研究せられんを希望した。諸君の社会に雄飛する時に当り、如斯見解の果して適当なるや否や、大に考察すべき事柄であらうと思ふ。
彼米人は吾等邦人を見るに、恐怖の眼を以てするやの感なきに非ず。即「日本人は機敏なる商人なり」てふ念慮を有するものゝ如し。果して然らば、将来商業上多少の敵愾心を持つて吾人と技を争ふやも知るべからず。これ吾国人に執り甚迷惑なりと雖、事実は避くべからず。諸君、今より此点に思をこらさん事を望む。更に米人は学問に忠実にして、実業を補助する事柄は充分攻究消化して、常に応用するの才能に富で居る。吾等一行の始めて太平洋沿岸に上陸するや、鬱蒼たる森林、連々たる鉱脈、茫々たる耕地を見て、米の国富は天賦の賜多きによるとそゞろ羨望の念堪へがたかつた。進んで大西洋岸に到るに及び黒煙濠々、天日を遮る煙突の多きを見ては、以前の感想転た非なるを覚り、天賦を利する知力の絶大なるに拠る事を想起した。
又彼米人は、学問法律を実務に適用する才智著敷発達せるを感ず。吾人は亦此点に於て足らざるや明し。
世の進歩は充分の要素ある必要とす。現今吾人は法律及学問と実務と懸隔せしむる事甚多し。此の状を以てして世界の大勢に後るゝ事無きや甚疑なき能はず。
或は恐る、諸君の我を目して「学問時代に育たざる故、変妙な考を起す者」となさるゝや否やを、我は学問なくして今日に及ぶ。然れども満堂の諸君は完全なる学業を修むるの人である。然も他日実業界に投じて、帝国の富を増すべきの士である。益自重幸に誤る勿れ。期して待つ諸君の商界に飛躍を試むるの日、如上の我が杞憂必ずや烏有に帰するを。


竜門雑誌 第二六一号・第三八―三九頁明治四三年二月 ○自治協会招待会(DK320017k-0005)
第32巻 p.430-431 ページ画像

竜門雑誌  第二六一号・第三八―三九頁明治四三年二月
    ○自治協会招待会
一月二十七日午後六時交詢社楼上に開会、出席者六十余名にして、大要左の如き青淵先生の米国旅行談あり、別室に於て晩餐会を開く
 △馳走を自慢する風 米国人は饗応の際決して謙遜せず、コロネル大学へ招かれたる際、某教授は同地の水が大自慢なりとて、喋々水の効用を演説し、酒の代りに水を馳走せり、又ダルーズにては有名なる湖水の白魚を馳走する故、運動せよとて案内さるゝ儘、終日湖水・公園等を遊び廻り、晩餐の食卓に着けば白魚とスープの外はパ
 - 第32巻 p.431 -ページ画像 
ンも碌々食へぬ始末に、一行這々の体にてホテルに逃げ帰りし滑稽もありし
 △強き公共的精神 米国民の公共的精神強烈なるは只驚歎の外なし大資産家にして子なきものは、公共事業に向て大に其財産を寄附するが故に、コロネル、エール、ウヰスコンシン、シカゴ等の諸大学は、何れも寄附金によりて設立され居り、殊にシカゴ大学にはロツクフエラー氏二千万弗を寄附したるにより、其設備は到底州立大学の企及すべからざる善美を尽すに至れり、其他カーネギー氏が全国に二千余の図書館を設立し、デトロイト州のフリヤ氏が独力にて日本の美術屏風二百六十双を州に寄附したるが如く、国民一般に公共的精神充実し居るを以て、凡ての公共事業は公立よりも私立の方余程完備し居れり
 △道路其他の改善を望む 我等の旅行がシヤトルに初まり、桑港に終れる三ケ月一万一千哩の長旅程にして、其間に通過したる都市は五十三なりしが、到る所自働車をやる大道路あり、其間何等妨害となるものを見ず、然るに我国の現状は道路と公園の差別を没し、狭隘なる道路に於て羽子をつき、小供の鬼遊を為すなど、今後幾多渡来すべき外人の観光団に対して、折角来遊するも歩するに困難を感せしむるは遺憾此上なし、此点は旅館の設立と共に国庫補助を得てなりとも、是非早く改善を希望せざるを得ず云々


銀行通信録 第四九巻第二九三号・第三七八―三七九頁 明治四三年三月 ○第四回議員銀行家連合懇親会(DK320017k-0006)
第32巻 p.431 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

銀行通信録 第四九巻第二九四号・第五〇七―五一〇頁明治四三年四月 ○両院議員中銀行家並東京組合銀行有志第四回懇親会席上演説(四十三年二月二十二日)(DK320017k-0007)
第32巻 p.431-433 ページ画像

銀行通信録  第四九巻第二九四号・第五〇七―五一〇頁明治四三年四月
    ○両院議員中銀行家並東京組合銀行有志第四回
     懇親会席上演説(四十三年二月二十二日)
      ○渋沢男爵の演説
○中略
昨年の亜米利加旅行は、御聞及びの通り八月半ばに出立致しまして、十二月半ばに帰りました、故に四箇月の間の大旅行で、大陸の汽車旅
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行も三箇月でございましたが、其道行は略しまして、見ました事柄に付て大体の観察を一二申上げて置きたうございます、但し工業上に付ての事などは、寧ろ佐竹君が後に御話のある積りになつて居りまするで、御聴取あることを希望致します、独り佐竹君のみならず、成るべく斯う御集りの処でございますから、どうぞ議会に席を持つて居らるる御方、又は地方の諸君に於て、新見解、新智識を以て、充分御論説のあらつしやるやうに希望仕りまする、仮に私が此会の司会者として見たところが、どなたに御演説の御指名を申上げると云ふことは致し兼ねまするが、先づ隣席におゐでの御方などには、是非御願ひ申上げる積りでございます、そこで私が今亜米利加の旅行談を取摘んで申上げて、此開会の趣旨とともに談話を終らうと考へますが、亜米利加の一般の有様は、百般の事業を頻りに大きく網羅するやうに考へて居るやうでございます、一例を申すと製鉄事業の如き、市俄古のゲリーと云ふ処に、合衆国の鋼鉄会社が特に大工場を開いて、殆んど鉄事業を集中してしまふと云ふやうな経営をして居るやうでございます、「トラスト」と云ふ言葉が数年前から聞えて居りまして、或る場合には壟断を意味するが如き嫌があるやうに思ひましたけれども、さう云ふ意味の「トラスト」も無いではないか知れませぬが、事業をして区々に経営するのは、生産費を余計掛けるのと、販売に付て世間の見渡しを間違へる、要りもせぬ物をどしどし造り、右の方から左の方へ持つて来るかと思ふと、又左から右へ持つて往くと云ふ弊害が多い、そこで其弊害を少なからしめるのは、成るたけ此事業を集中して、一番良い方法を以て工事は分業にして、支配は集権にする、斯う云ふ趣意を執つて居るかと見えますやうです、総ての事業にさう云ふ事が為し得られるかどうか、疑問でございますけれども、果して今申す有様が私の観察にして中るとすれば、今日の我国の有様は、余り分立に過ぎて居ると云ふ虞がありはせぬか、若し余り分ち過ぎて居るのであれば、今申すやうな集中主義の亜米利加の事業とは、迚も闘ふと云ふことは出来ぬかと斯う考へますると、どうも今御互が銀行ばかりでなしに、或る事業を経営することに付ては、モウ少し集中すると云ふことの考が生じはしないかと、斯う思ふのでございます、是等はどうも一事に付て総ての物を律し得るかどうかは疑問でございますけれども、亜米利加の有様はどうもさう見えまするので、斯かる御席に自分の感想を申上げて、イヤさうでないと云ふ御説があれは伺ひたい、若し果して然りとすれば、御互が心掛けて、成るべく小さい物を大きくする、二つの物を一つにする、十の物を五つにすると云ふやうな経営を心掛けねばならぬことではなからうかと思ふのでございます
更に一つ申上げて見たいのは、亜米利加人のする仕事は、悪く申すと乱暴と言ひたい位に、良いと見ると直ぐに着手すると云ふ気風でございます、如何にも直情径行、勇敢果断と云ふやうに見受けられます、併しさう云ふ気象に似合はず学問を重んじて、其果断する所作が、総て学理に合ふと云ふことを、深く考へて居られるかと思ふやうでございます、要するに亜米利加人は、学問とか法律とか云ふものに対して常識の発達を深く心掛ける、是は其性格がさう云ふ方に長じて居るた
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めかと思はれる、吾々日本人と較べて見ますると、少し軽卒と云ふ嫌がある、併し俗にいふ学問酔ひがするとか、法律負けがするとか云ふことが、少いやうに思ふ、是は御互に余程心掛けて、一般に此風習を興すことを考へねばならぬと思ひます、現に目下我邦の有様は、総て議論づくめになつて、甚しきは法律が人を使ひ、学問が人を支配するやうになりはしないか、若しさうなると、即ち学問負け、法律酔ひと云ふことになつて、自身が法律を使ふのでなく、人が学問を応用するのでなくして、学問が人を支配するやうになる、亜米利加の有様は全く反対に見える、此等は我も人も心して、モウ少し常識から仕事を仕出すと云ふことを心掛けなければ、国家の進運に不充分な嫌がありはすまいかと懸念されるのであります、要するに亜米利加の大体の風俗に付て観察するに、日本に対する感情から申しますると、或は其間に客を愛する情合とか、或は客を迎へる工合と云ふこともありましたらうけれども、五十三箇所巡回致した所の様子で見ますると、到る処誠に快活に、能く其土地の現況を見せ、頗る深切に迎へて呉れまして、又吾々共も努めて亜米利加人に対して、日本人は押並べて良い感情を持つて居ると云ふことを説明しました、彼国人も其事を能く聴き受けて、頗る同情を表すると云ふて、益々交誼を厚うし、歓喜の間に経過致しました、吾々旅行の有様は、風を観、俗を察し、或は交誼を厚うすると云ふことに付ては、所謂漫遊ではございましたけれども、大体に於ては、左まで欠点は無かつたと申上げて宜からうと思ふのでございます、見聞した事の驚くべきもの、盛なること抔は或は今申し上げました製鉄所のこと、又は原料多き鉄山の有様、若しくは各都市の商店の模様とか、工場の設備とか、或は公園とか、学校とか、州庁とか云ふやうな事に付ては、何処の土地で斯る物を見た、其宏大なる有様は斯様であると云ふことは、ナカナカ申上げ切れぬ位でございます、且つ是等は申上げても余り価値の無いことでありますから略しますが先づ米国の商工業の有様は、分業にすると同時に集中させると云ふ精神を以て進行して居ると見受けられます、それから個人の働きが頗る直情径行で、且つ敢為でありながら学問を重んずる、而して其学問に酔はない、法律に制せられぬ人気であると云ふことは、吾々の十分に学習したいと考へるのでございます、亜米利加に対する大体の観察は帰国後種々なる席で申上げて、今日では耳古いことでございますけれども、見たところの目が一つしかなかつたために、申上げることも変つた事を言ひ得ぬのであります故に、初めて御目に懸つた方々には、或は御参考にならうかと思ふて、隣席から一言添へよと云ふ御言葉に従つて、亜米利加観察の概況を申上げた次第でございます(拍手)


竜門雑誌 第二六四号・第五―一九頁 明治四三年五月 ○八基村教育会に於て 青淵先生(DK320017k-0008)
第32巻 p.433-443 ページ画像

竜門雑誌  第二六四号・第五―一九頁 明治四三年五月
    ○八基村教育会に於て
                      青淵先生
 本篇は本年四月四日、青淵先生が其郷里八基村教育会の招請に応して臨席せられ、同日開会の同会第二回総会に於て演説せられたるものなり
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○中略 先づ第一に亜米利加旅行談をお話致して見やうと思ひます。
日本と亜米利加の国交の追々に親善に進んで参りますることは、私が玆に政治家らしう、抑々安政元年にコンモンド・ペリーが来て通商のことを談判したなどゝ、喋々と講釈めかしてお話する必要はないが、併し私一身から考へまするといふと、大変にそれが反照して面白い話になるのである、お集りのお方々は、先刻の頌歯会に列した人は別段として、其他のお人は多くは壮年若くは青年であるから、昔のことを知つたお人はそれこそ寥々、晨星の如しである、が血洗島も昔時は、外国関係に付ては、それこそ大騒動を惹起さるとまで、村民多数ではなかつたが、或る一部分は思ふた程であるのです、独り当村ばかりではない、其頃の外交といふ問題は、諸藩士とか若くは学生とか、江戸に京都に、さういふ都会にのみあつた問題ではなくて、殆と国を挙げて憂国の人々が皆論じたのである、忘れも致さぬ嘉永六年亜米利加からコンモンド・ペリーと云ふ人が国書を携へて浦賀へ来て、久里浜で此国書を受取つたのは其年の六月である、引続いて其翌安政元年一月嘉永でいふと七年である、丁度私は十四の年であつた、再びコンモンド・ペリーが日本へ来て、遂に此通商条約と云ふものが、追々に成立して参つて、日本が外国と云ふものを知つたのは其時が始めである、尤も其前からし支那・天竺若くは和蘭等の修交は、三百年も以前から続いて居りましたけれども、徳川氏の政治を執るに際して、どうしても外交は閉すが宜い、通商をば断絶するが宜いといふので、僅に長崎だけを限られて、日本人は総て海外へ行くこともならず、来つても直接な交際はさせぬと云ふ制度であつた、亜米利加が強い覚悟を以て、若も日本が絶対的に拒絶をするなれば、已むを得ねば干戈にも訴へんといふて来られたに依つて、其時の徳川家の、老中の筆頭は誰であつたかと云ふと、福山に十一万石を領して居つた阿部伊勢守正弘で、此人が重に其衝に当つて、遂に亜米利加と和親通商といふことに相成たのである、其和親通商は徳川氏が外交を誤つたのでなかつたやうであるけれども、其処置が頗る曖昧であつた、頗る姑息であつた、而して征夷将軍と云ふ職分を持ちながら其職分を尽さぬのみならず朝廷の命令も聴かず、武士たる職分も尽さぬといふからして、世間で段々に議論するやうに相成つて終に攘夷鎖港と云ふことが到る処に起つて参つた、併し能く吟味して見ると、亜米利加の通商を求め修交を望んだのは、決して日本を掠奪しやうとか日本を征服しやうとか云ふやうな意志で来たのではなかつた、唯有無を通じ商売を盛にするのが総ての国民の発達を図る所以であると云ふだけの、誠に善良な心懸を以て参られたのだけれども、併し其時分来た亜米利加以外の国も皆それであつたとは申されぬ訳であつたのです、其時の国々の状態を判然と今玆に申上げる程詳かに私も存ぜぬが、併し或北方の国などから来たのは、アワ宜くば、我領土にしやう侵略しやうと云ふ、野心を持つて居つたかも知れぬのである、故に正邪善悪を鑑別することの出来ない一般の日本人は、事情に通せぬからして、此外国の通商が徳川氏の処置宜しきを失つたのであると言ふて、総て幕府の政治に反抗を企てたのである、前に申した血洗島の鎖港議論がなかなか八釜しかつたといふ私は
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其八釜しいことを申した一人であつた、但し私一人が申したのではない、苟も志ある人は皆是は大変だ、国家危急存亡の秋であると思ふたのです、私共の覚悟はなかなか是は国家の大事だ、畑を耕しては居られぬ、田を鋤いても居られぬ、蚕も出来ぬ、国が潰れる、斯う云ふ観念を以て騒いだ、今見ると少し子供らしい、子供らしいと云ふよりは何か事を好む野心家の如く誤解されたかも知れませぬが、決してさう云ふ訳ではない、其時の精神は、唯国家が大事だ、此儘に措いたら、悪くすると外国に取られてしまひはせぬか、夷狄禽獣とも思ふ醜夷に征服されるやうなことがあつたら、二千五百年の金甌無闕の国家をして、実に情ない有様に立至らしめはせぬかと云ふことが、志ある人の大なる心配であつたので、畢竟私共血洗島に農業を経営して居ることが出来ぬで、今日此処へ出ましても朝に晩に御目に懸らぬやうな境涯になつたのも、源を質せばそれから起つたのでありまして、私一身が何か他所へ出て、栄達がしたいとか、金儲をしたいとか云ふやうな料見で故郷を離れたのではございませぬ、物変り星移つて今日となるとどう云ふ料見で家を出懸けたのか、如何なる訳で、血洗島の百姓が為し得られなんだかとお疑がありませうが、私の一身はさういふ覚悟で家を出たのである、而して其時は此血洗島のみならず、八基村にある青年が皆同じ考を持つて同じ行動をしたのでありますから、仮令其時の村中が挙つて力を併せたで無うても、血洗島の村と云ふものは、亜米利加の通商に対しては、五十数年以前に大なる関係があつたと申しても、決して過言でないのであります、而して其一人の私が遂に大に変化して、明治四十二年には、日本から出る所の商売人の仲間、名けて渡米実業団と唱へた所の団長として、亜米利加を旅行したと云ふのでありますから、事物の変遷と云ふものは、頗る奇妙なものだと、申して宜からうと思ふのであります。
少し前置が長くなつて、お話が脇に外れたやうでありますが、亜米利加へ行つた渋沢が、元とさういふ人であつたと云ふことは、他の地方へ行つてお話すると何でもないが、此血洗島に於ては若いお方は、成程ソンなことがあつたか、己れは祖父さんから能く聴かなかつたといふお人もありませうけれども、今私が、申上げることは決して虚構のことではない、といふことは、其頃の事実を知つたお方にお尋なさると明かに解ることであります。(拍手)
昨年亜米利加に参りました人々が、婦人まで併せて確か五十三人でありました、此旅行の起りました原因は、一昨年東京・大阪・京都・神戸・横浜の五商業会議所からして、亜米利加に向つて日本に商業視察旁々遊びにお出なさらぬかといふ案内をしたのである、其場所は太平洋沿岸即ち桑港、オークランド、ローサンゼルス、サンチヤゴ、又北の方ではシヤトル、タコマ、ポルトランド、スポーケン、此八箇所に向つて案内状を出したのである、其案内状を出したのはどう云ふ理由であるかと申すと、近頃新聞でも御覧でありませうが、日本から渡る所の労働的の人々が、カリホルニヤ州に於て、亜米利加人と能く融和しないのです、向ふの労働的団体が、日本から行つて働く人を酷く嫌うて、或る場合には不法の行動をする、独り不法の行動のあるばかり
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でなく、或は州の議会に、若くは国の議会に、我労働者の渡米禁止問題を屡々出す、続いて新聞紙などは、日本は戦争の好きな国だ、日本は我儘な強い国だ、満洲の処置でも、露西亜と戦争をして之を追退けたのは宜いけれども、露西亜を追退けたのは露西亜の横暴を防ぐためである、然るに暴を以て暴に換へる日本は、矢張露西亜と同じやうな勝手をする、さうして戦争は強い、戦争は強いが国は貧乏だ、貧乏で戦争の強いのは誠に手に合はぬ、お互でも貧乏で無暗に腕の強い奴が酒でも飲んで押掛けて来られると、甚だ迷惑すると云ふやうな有様に感じられる嫌があつたので、我政治家も大に之を憂へ、実業界でも心配して、自ら融和を図るために、どうぞ日本の実地を見せたら宜からうといふのが、今申す八箇所に向つて日本の五商業会議所が、是非日本を遊覧なさいと云つて招待状を発した訳であつた、そこで一昨年の秋、五十人計りの人々を纏めて、彼の国から実業団が参つた、私は昔東京商業会議所の会頭をして居つたが、明治三十七年の病気から少し用向を減じたいと思うて、商業会議所を辞退しまして、亜米利加からの旅行者のある頃には、商業会議所の関係はございませなんだけれども、現に商業会議所に出て居る人々とは懇意でありますから、是非今度のお客に対しては、各商業会議所の補助役に立つて来客の接待をもして呉れ、場合に依つては私の宅にも招いて遠来の珍客を饗応して欲しいと云ふやうな依頼を受けて、そこで九月であつたか、十月頃であつたか、一日私の王子の宅へも此人々を招いで、丁寧な饗応をも為し又情意を尽した言葉を以て、其来賓に歓迎の辞を述べたこともあります、それらの事柄が追々に――独り其事ばかりではありませぬけれども、亜米利加人から渋沢と云ふことを聞き知るやうにも相成り、且つ丁度其頃ほひに、太平洋艦隊が日本を訪問された、前に参られたのはペリーであつたが、今度の艦隊長はスペリーと云ふ人、十七隻の艦隊を率ゐて参られました、実業家の来られたと相前後して居つたから、日本人は各所に於て此艦隊にも十分な歓迎をした、相待つてそれらの事柄が亜米利加の実業家、若くは政治家の間に大層に能く聞えて、誠に日本といふ国は亜米利加との交情が密である、又客を愛する情が甚だ切実である、老人も若い人も子供も、打挙つて亜米利加の珍客を皆喜んで迎へたといふことが大に申伝つた、引続いて今度は、先方から日本人を招かうと云ふことになつて、其始めは北部の方、即ち太平洋沿岸でも北に属する側で四箇所、前にも申しましたがシヤトル、タコマ、ポートランド、スポーケン、是は日本で例へて云へば、横浜とか若くは名古屋とかいふやうな場所です、それから同じ太平洋に接して居つても、もつと南の方の商業会議所のある所で桑港、オークランド、ローサンゼルス、サンチヤゴ、此八箇所が申合せて、今度は日本の方を招くことに相成つた、招かれたのは商業会議所でありましたけれども、唯単に商業会議所の会頭と云ふばかりであつては、日本を代表するやうな意味に取られぬ、是非これは東京に於ける商業界に、過去に現在に相当なる功労もあり、名誉もあり、又海外――独り亜米利加ばかりでなしに、欧米に向つて多少名の聞えて居る人を出さなければ、成程日本が良い顔触を以て此招きに応じたと言はれぬやうになる、さ
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うなれば向ふへ行つても何だか申訳に寄越したと云ふやうになつて、切角の応答礼問も効能が薄くなるといふので、商業会議所の連中と政治家の側では、外務大臣を始め外務省の重なる人が誰彼と種々なる評議を致して、遂に其結果、私に是非立つやうにと云ふことの相談を受けたのであります、私ももう去年七十である、大分身体も弱つて居まするし、聞きますると、其旅行がなかなかに骨折れさうでもございます、元来言葉は通じませず、仏蘭西語は僅かに話しますけれども、是も自由とはいかぬ、どうもさういふ責任を持つのは困難でございますので、切に御免を蒙らうと思うて、最初三月頃から其話が始つて三箇月ばかり、もう三日置き五日置きに外務大臣とか次官とか、一方には商業会議所の人々が種々なる方面から勧誘されましたが、否々と申して努めて之を避けて居つたのです、所が段々日も迫つて来る、然るべき人を是非選定しなければならぬが、さて多数を選定する前に主脳に立つ人が定まらぬと、申さば方針が立たぬといふやうな訳でございまして、唯一意私の動くことを頻に忠告すると云ふやうな有様から、甚だ自分も窮した、所が忘れも致しませぬ、六月十五日であつた、其前からして私は、東京で官途を罷めてから、先づ第一銀行を創立して之が経営をして居りました、其後に種々なる会社或は銀行等にこの創設此世話と申すので、殆ど其数を申しましたら三十余も関係をして居りましたが、段々年も取りますから、さう老後にまで多く関係をして居るのは自らも面白くないと思ふた、親戚も止めた、旁々総てを謝絶致す積りで、丁度、昨年の六月四日《(六)》であつたか、思ひ起して、関係の諸会社に総て辞退のことを申出して居つた、それらのことに就て同月十五日に、東京の重なる会社、事業に従事する人々が――或は日本銀行の総裁とか、又た三井銀行の人とか、三菱の人とか、興業銀行の人とか、商業会議所の会頭とか云ふやうな、東京に於ける有力の実業社会の人々が二十余名集つて、私の身上に就て評議をした末に、其辞退のことは先づ別段として、兎に角亜米利加旅行には、どうも外に然るべき人が無いから、年は取つて居る、言葉は通ぜぬといふて居るけれども、健康がそれ程勝れぬとまでも言はれぬやうであるから、是非あの男を推さうぢやないかといふことに、評論がそこへ落ちて、遂に議が一致したに就て、丁度其日に千家尊福・高橋是清の両男爵、それから東京商業会議所会頭の中野武営、此三君が其仲間から委員として選まれて来たから、何でも無理にも承諾を請ひたいと申して参られまして玆に初めて私が退引ならぬ場合に至つたので、已むを得ぬから、然らばお請を致さうと申して、漸く旅行の意思を決定致したのでありますそれですから、話の始つたのは三月頃であつたが、私の覚悟をしたのは六月十五日であつた、出立したのが八月十九日である、六月に其事が決定しましたから、遂に東京に大阪に京都に横浜に神戸に、続いて名古屋に此六箇所の人々が、前に申す通、正賓と唱へる人が十七名、専門家と唱へる人が十七名ばかり、併せて三十四・五人、御婦人が四五名、随行員が七・八名、丁度五十三人と相成つたと覚えて居りますそこで相一致して、成るべく此行動に矛盾のないやうにしたいと云ふから、団長を造つて総て団長の指図に依り、団長が団体を代表すると
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いふ体裁にして此旅行を完全に遂げるやうにしやうと云ふことに相成つて、八月出立前に手続が定りました、之が先づ其旅立に属する一の順序である。
右やうな旅行でありますから、諸方の送別も、随分盛んでありましたが、唯普通の送別のみならず、八月十七日、即ち出立二日前に芝の離宮で、特に官内大臣をして午餐の宴を賜つた等のことも、此旅行が唯普通の伊勢参宮的で無かつたといふことを証拠立て得られるであらうと思ふ。
乗つた船は「ミネソタ」号でありまして、九月一日にシヤトルへ著致しました、それからして前に申した案内をした所、即ち主人の位置に居る商業会議所、又其商業会議所が誘うて、其誘ひに応じて、亭主方となつて、日本人を招かうと云ふ場所、それを残らず数へて見ますと五十三箇所である、此五十三箇所を悉く訪問して、中には三日或は五日、極く長い場所は紐育で十日間居りました、又一日で済ました所もある、一日といふよりは、一寸寄つて直さま又脇の都市へ行つたといふやうな場所もある、故に其長短は各市に於て違つて居ますけれども兎に角其大都市を五十三程訪問して、何れの場所も相当なる歓迎を蒙り、尽く先方から歓迎辞を述べられますから、是に対する答辞を述べなければならぬ、それが唯一席で済むと宜うございますけれども、場所に依ると一日に三回位やらせられることがある、私はもう際限なく――殆ど演説を幾度したか宜う覚えても居りませぬが、少くも二百遍位は此旅行中したらうと思ふのです、それ程演説をしましたが、相変らず矢張下手で、どうも巧くは申上げられませぬから、是はなんぼ遣つても巧くいかぬものと見へます、殊に斯ういふ場所でありますと、中には少し私の言葉の解り兼る方もあらつしやいませうが、大概は御了解下さるであらう、所が亜米利加では誰にも解らぬ、(笑)脇に通訳をして呉れる人が居りますが、何だか調子の悪いもので、丁度聾に話をするやうなものである、此方が大層張込んで愉快にやつて見ても其時は解らぬからカーンとして居る(笑)此方の演説が済んで、後で通訳をするとパチパチ手を拍く、何の為に手を拍くのか、可笑しくつて拍くのか嬉しくつて拍くのか、時々調子違ひのことがあつて、なかなかに旅行中の演説も、或る場合には間抜けたこともあつたのでございます、それから比較すると、故郷ではあり、言葉は通ずるし、誠に愉快である、今日は仮令皆様が退屈なさつても、私の話の済むまではなかなか帰さない(笑)丁度東京で下手の義太夫語が、戸を閉めて無理に聴かせたとかいふ話があるが、私も今日は其位の覚悟を持つて居りますから、其積りで御聴き下さい。(拍手)
五十三箇所の都市を廻ります順序といふものが、色々区々でありました、又其五十三箇所の事を残らずお話をなす訳には参りませぬが、実に鄭重なものでありまして、亜米利加人の日本の賓客を愛すること、又客に対する接遇の念の入つて居ること、実に私は敬服しました、先づ其一斑を申すと、商工業の発達の模様とか、或は国民の襟度が快闊であるとか、学問を重んずるとか申すやうな、賞讚すべき廉々から申すと、なかなかにお話が長くなりますが、先づ概略向ふの景況をお話
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致しませう。
今度の旅行は特に汽車を別に誂へ、シヤトルからして汽車に乗つて、出掛けたのが九月の五日です、此五日から十一月の三十日まで、ズッと同汽車で旅行をしたのです、所が日本の汽車でお考になると、汽車旅行はどんな塩梅であろうかと一寸想像が付き兼ませうが、彼の寝台車――寝台車も日本の寝台車より広い、亜米利加のは四尺八寸のゲージですから、日本の三尺六寸から見るとズッと広い、それにもう一つ幅が延して取つてありますから、殆んど汽車の一室が小さうても一部屋になつて居つて、それが皆銘々戸が締るやうになつて居る、其列車に総体の一行――吾々共は五十幾人であつたが、彼地で附いて歩いた人が十幾人、其他汽車に乗込んで居る人々、或は汽車の世話をする車掌と云ふやうな種類の人、総てを併せたら百二・三十人、若くは百五十人も乗つて居りましたらう、其汽車の一と構が全く吾々の住居で一行の外には一人も這入つて居らぬ、私は団長といふから――従者もありましたが三つ部屋を取つて、さうして其三つの室を我家として、始終其汽車に乗つて旅をする、先づ深谷の駅へ来て血洗島を訪ねるといふ場合と仮定すると、汽車が停車場へ来る、直さま血洗島から自動車が――血洗島にはそんなものは無いが、自動車が四・五十台位ズツと停車場へ来る、朝九時という約束であると七時頃に着きます、汽車の中で朝飯をしまひ、朝飯をしまふと歓迎委員の人々が自動車で迎へに来る、それへ皆分けて乗つてお諏訪様へ行くとか、鹿島様へ行くとか或は学校へ行くとか、方々をズツと乗廻して、さうして場所に依ると多くは市役所へ寄る、市役所といふてもなかなか深谷の町長さんの居る所よりはズツと広い、大きなものです、其処へ行くと少くも百人位寄つて居ますが、そこで歓迎の辞がある、御馳走も何もない、唯寄つて能く来たといふ辞を掛ける、そこで代表者が答詞をしなければならぬ、それから学校を見るとか、工場を見るとか、或は公園を見るとかして、多くは田舎に倶楽部がある、其倶楽部で昼飯を食べる、さういふ振合であつて、倶楽部へ行つて見ると、予て案内がしてありますから、其処に倶楽部会員が百人、百五十人、若くは三百人も寄つて居ることがある、午餐といふものはそれ程丁寧のものではありませぬ、が又場所に依つては大変丁寧の所もある、中には又至つて簡略の所もある、相集つて手を握り、是は誰である、是は誰であると言うて、殊に私は団長の位置に居りましたから、種々なる人が来て手を握つて、斯う云ふ訳である、あゝいふ事である、亜米利加をどう見る、亜米利加で何を吃驚した、亜米利加には斯ういふものがある、是から先き十分に見せると云ふやうな話が段々ある、彼是と話をして居る中に、食堂が宜いからというので食事場へ案内される、食事が済むと後から演説で、此方も一人二人挨拶をしなければならぬが、事に依ると昼でも五人位の演説がある、だから昼飯の終るのは大低三時四時位になる、それから又電灯或は瓦斯工場と云ふやうな、種々なる其土地の名物を見せられて、さうして其晩汽車へ帰つて着物を着換えて――燕尾服に勲章などを附けて、所謂正服に改めて、今度は又晩餐会へ出掛けて行く此晩餐会の席は多くは立派なホテル、或は特に設けた会堂などもあり
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ます、又は斯やうな一個人の誰某の家で開かれることもある、此晩餐会が又昼から見ると更に演説が多い、大抵どう早く終つても午前一時過ぎ位になる、それから又直ぐ汽車へ帰つて来る、汽車へ帰つてやつと着物を脱いで寝衣に換へやうとすると、汽車がゴロゴロ出掛ける、又其翌朝もさういふ塩梅だ、毎日さういふ有様で五十三日を経過したと申して宜しい、其見物をしました中で、特に鉱山に就て、アナコンダと云ふ所で銅の精煉所を見たとか、或はビユーテと云ふ所で其銅を掘出す坑区を見たとか、或はフィビングと云ふ所で鉄の鉱山を見た、又シカゴのゲリーと云ふ所で製鉄所を見た、或はグランドフオークと云ふ所で大きな農場を見た、又シカゴの市で「ストツクヤード」と云ふ牛豚若くは羊などを殺す大工場を見た、其他水道、火災の予防法、或は東京にも近頃あります三越などのやうな「デパートメント・ストアー」と申しまして、何品に拘らず一の店で総てのものを間に合せると云ふ組織の商店です、之が大概一市には二箇所三箇所づゝあつて、而も壮大なものである、殆とグルグル廻ると、一日廻つても同じやうで、出るのか這入るのか分らぬやうな有様である、さういふ所を総て見物するので、さうして或る都市に於ては有力なる人が出て、種々なる話をして聴かせる、殊に驚いたのは今申す「フィビング」の鉄山です、実に壮んなもので、どうしてあのやうな盛大な鉄鉱があるものかと思ふ位でした、其鉄の原料に依つて、重に製鉄をして居るのが、さう遠くはないやうですが、シカゴの新規に出来た、鋼鉄工場、又以前からある、ピッツバークのカーネギー工場、是等の製鉄の工業といふものは実に驚き入つたものである、先づ各地を巡廻して御馳走を受け歓迎をされた有様は前に申す通で、又工業の模様は、独り鉱山ばかりでなしに、諸工業の模様は残らずの各都市に、悉く大工業があるとは申しませぬが、所々に有名な大工場がある、其工場を尽く丁寧に見せられ、或る場合には至つて物が簡易でありますが、或る場合には又物が余り鄭重である、或る場合には至つて物が粗雑であるが、或場合には如何にも宏大である、先づ亜米利加の総ての事物は、殆ど日本の人人などから見ると一寸端倪すべからず、甚だ比較し悪い有様が多いのです、其大きな有様に就て無用とでも思ふことを二・三お話すると、華盛頓の停車場です、これは以前参つたときには無かつたが、今度は立派に出来て居つた、停車場に這入る鉄道線路が、三十三線ばかりある、それが皆停車場の屋根の構内に線路が這入つて居るから、殆ど大きな原みたやうに見える、それ程列車が這入つて居るか、どうかといふと、些とも這入つてゐない、華盛頓といふ所は政治の都府で、決して其やうに貨物の沢山輻輳する所ではない、併しペンシルベニヤ中央線、其他四線ばかりの大鉄道が、どうしても政治の中心だから、一つ聯絡を附けて置かなければならぬといふので、何でも政府から四百万弗か補助を仰きて、さうして中央聯絡線を設けてあるが、人は沢山来ず、貨物は其やうに無いから、左様に沢山線路は幅輳して居るが、車は誠に寂寥たるものである、又其構造が大抵大理石で出来て居る、殆ど私共行つて見ると、東宮御所と停車場と間違へる位である、前の庭などは誠に塵一つもなく椅麓で、青々と芝が生えてズツと広い、なぜ
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アンナ詰らぬことをしたものか、立派ではあるけれども、殆ど銭の使ひ場がなくてアンナことをするであらうと言ひたい位で、少し無用の長物といふ感があるのです、又一の例は、費府に慈善事業の「ジラートコレージ」と云ふものがある、之が千五百の棄児を収容して居る所です、所が其棄児の扱方が、迚も大金持の息子さんでも、あれ程丁寧の扱ひはされまいと思ふ位の待遇をして居る、是等は先づ亜米利加の鄭重に失すると思ふ著しき例である、さればさういふ風に総てのことが皆鄭重かと思ふと、又思ひの外簡略のことがある、饗応の仕方も其通である、前に申した壮んなる鉄工所の直ぐ近くに、ダルーズと云ふ所がある、レーキ・スーペリオルと云ふ湖水の側で、其処へ一日招かれたときに、其湖水から白い魚が取れる、それを御馳走するといふ触込であつたから、大層御馳走があることゝ心得て行つて見ると、成程白魚と云ふものは呉れたけれども、それより外に何もない(笑)水ばかりで酒もない、大に当が違つて、まだ何か出るだらうと思つてゐると、麺麭の食懸も何も皆給仕が持つて行つてしまつて食ふことが出来ない、後でホテルへ行つてソツプの飲直しをしたと云ふやうな滑稽がある(笑)そこで彼地の饗応の仕ざま、接待の仕方が大変簡略のこともあるといふのが、先づ亜米利加の有様です、人の客に対する待遇も尚然りで、えらい鄭重のことを遣るかと思ふと至つて真率である、日本などゝはまるで反対といふ点が多いのです、御互に日本人は成るべくたけ自ら云ふことを卑下する、所謂謙徳を守るといふて、ちよつとしても、いえどう致しましてと、己れのことを卑下するを一の礼儀としてある、反対に亜米利加は己れのことを誇るを礼儀ともしますまいけれども、習慣として居る、甚だしきは自分の細君を日本一――日本一とは言はぬ、亜米利加一の婦人だと云ふ(笑)それはまるで戯れに言ふかと思ふと、決して戯れではない、笑ひも何もせずに、今日は近頃あなたの見たことのない、美人をお目に懸ける、そこで手を握られて、是ですと云ふのが自分の細君です、さういふやうな有様で、真率と申せば真率、乱暴と申せば乱暴で、兎角自国のことを自慢に思うて居る、ですから、亜米利加を旅行して居ると、毎日亜米利加一に出会す(笑)これが亜米利加一だ、中には世界一もあります、笑ひますと向ふも笑つて、是は亜米利加人の癖ですなどゝ云ふて、さう云ふことはトント構はぬ、そこらに至ると東洋主義、殊に日本の国などから行つて見ると、人が皆平等で階級などを構はぬから、人に対する遠慮が極く少ない、さうして我意思を人の前で表白することが極く無作法である、それに引替え、此方では一寸したことでも遠慮するからして、大いに総ての点に於て調子の違ふことがあります、が併し何に致せ、一体の国力は実に盛んなものであつて、前にも申す通り、鉱物であれ森林であれ、総ての天産物が甚だ富んで居る、之れに人工を加へ機械を応用し、盛んに其の富源を開発する、そこで人が至つて敢為で、又大胆です、敢為で大胆でありながら、頗る学文を重んじます、此の学文を重ずるといふからして、総ての設備が唯だ乱暴に流れない、先づ経済社会に於ては、あれ位に急激に進歩した国は殆んど稀であるといふことは、欧羅巴人も申して居りますし、私共見ても、何れの地方も
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僅かの歳月に非常なる進歩を為したといふのは、真に驚き入るやうでございます。
殊に農業に就て、亜米利加人の最も力を入れて居ることを玆に申添へて、此地方などで十分御注意を請ひたいと思ひます、セントポールと云ふ所にゼームスヒルと云ふ人がある、此人の演説筆記は、今日学校の図書館に二・三冊差出して置きましたから、其中どうぞ皆様が御覧下さつたら、私は仕合せに存じますが、此ゼームスヒルと云ふ人は、其履歴を申すと、元と鉄道工夫的の人であつた、果して工夫であつたかどうか知りませぬが、今年七十三で私より二つ上です、今度セントポールで面会をして色々話をして見ましたが、至つて実着な、今申すやうな唯率直粗暴の亜米利加人とは頗る趣を異にして居る人です、併し労働的生活から段々に成上つて、遂に亜米利加大富豪の一人となり殊に今日七十以上の人でありますから、余程人にも推尊され、自らも自負して居る人です、身柄はどうだといふと、鉄道会社の社長である所が此人は頗る農業学者で、亜米利加の未来はどうしても此農業を盛にせねばいかぬ、近頃亜米利加人が兎角農を去つて工に就く、田舎を出て都会に行くことは甚だ国の為めに憂へべきことだということを、頻に例を挙げて論じて居ります、此人の議論に依ると、千九百五十年には亜米利加の人口は二億六千三百万人になる、其場合に斯る鉱山若くは工業といふやうなもののみを主眼として国の経済を図つて行つたならば、亜米利加人は今に食ふことが出来ないやうになる、満足に之が希望を充たし需用に応ずると云ふには、どうしても農業ならざるを得ぬ、然るに亜米利加は土地は相応にある、而も悪くはない、けれども農業の仕方が甚だ粗雑である、又地力の尽し方が甚だ手薄である、斯る有様では、亜米利加の富を永久に保持する訳にいかぬ、殊に田舎の人が都会に行き、農業が工業に移り変るのは、実に国家の此上もない憂であると云ふ趣意を、それこそ喋々百千言を費して論じて居ります、又其文章の中には日本の農業なども批評して一噎《エーカー》(日本の四段)に対する亜米利加の収穫は此位であるが、日本では其三層倍取れる、――吾々は日本の耕作の仕方が小農法で不利益であるとばかり思うて居つたが、亜米利加へ行つてヒルの説を聴くと、亜米利加の大農法といふものは、どうも地力を尽さぬからいかぬと云うて、却てヒルは反対に日本を羨んで居る、これはヒルの説が十分尤もだとばかりは申せぬ、あゝいふ大きな地面を持つて居る国は、果して日本の通の小農耕作法が宜いかどうか、是は疑問である、私は寧ろ亜米利加の仕方が宜からうと思ふけれども、ヒルの如き意見を持つて亜米利加の農業家を戒めるといふことは、亦一の大なる議論と思ふので、甚だ面白く感じましたから、私はそれに一の序文を書いて、さうしてヒルの説をば東京にも地方にも成るべくたけ紹介して、亜米利加にさへ斯ういふ説を為す者があるといふことを、日本の農業に力を入れる人に能く知らしめたいと思ふのでございます。
亜米利加談は、初から終りまで一々お話をすると、自分でも自分の言ふたことを忘れる位長くなりますが、もう時も経ちまするし、さう長くお話も出来ませぬから、先づ概況其様な有様で、即ち五十三市を巡
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回致しましたと御承知を願ひたい、それで到る所見ました景況は、前に申述べたやうな次第であります、詰り吾々の一団は、先づ一国の平和の使命を帯びて参つたと云ふのでありましたからして、向ふも各都市皆其意味を以て待遇をして、幸に尽く能く迎へられ、尽く能く情意を疏通して、丁度昨年十二月十七日に都合好く帰国を致した、而して先づ此の一団の使命は果した、但し其以来の亜米利加との交情が、それらの事から弥増に懇親が、重なるやうにありたいと私共希望して居ります、又或る点まではさうなつて居ると思ふ、さりながら前に申す通、なかなか突飛な国風ですから、さういふ中にも、例へば満洲の鉄道を中立にしやうじやないかといふ注文が出るかと思ふと、有力のシツプとかシヨーとか、どつちも私は懇意の顔ですが、露西亜と日本が親密にするのは、亜米利加を疎外する心であらうと云ふやうな、心苦しい演説なども時々聞えるのです、是は蓋し亜米利加の気風の率直の所が解るので、其ために国交が沮害されて、遂に国と国との間に忌むべきことが生ずるなどゝ云ふことは、私は万々無からうと思ふ、而して昨年吾々の旅行は、亜米利加の国民をして日本を知らしめたと云ふことに就ては、幾分の効能があつたらうと思ひます、同時に私は日本に帰つて以来は、到る処で亜米利加人の気質は斯様である、亜米利加の社交上若くは経済上・工業上、総ての方面が斯様な有様である、善いと悪いと観た儘を親切にお話をして、而して亜米利加全体の国情が斯やうであるから、成るべく亜米利加を誤解せぬやうになさるが宜いといふことを申して居ります、今日の此亜米利加談をするのも、即ち八基村の諸君にして、成るべく此亜米利加と云ふものゝ国情を誤解させともないのです、昔私が五十六年前には亜米利加を唯敵とばかり心得たのは、何も知らぬ即ち誤解の為であつたが、今日はさういふ暗闇の喧嘩はせぬやうに、事情を明かにして、さうして是を是とし非を非とするといふ文明国民とならねばならぬのであります、どうぞ諸君にも亜米利加に対する――独り亜米利加ばかりではない、他の外国に対する有様を能く知つて、さうして是を是とし非を非とし、彼は斯うであるから我は斯様でなければならぬ、彼の長所は斯様であるから、此方は斯う云ふ長所を以て応じなければならぬと云ふ覚悟を持ちたいと思ふのでございます。
亜米利加談は先づ大体是で終りまして○下略


竜門雑誌 第二六四号・第二四―二七頁明治四三年五月 ○神戸高等商業学校に於て 青淵先生(DK320017k-0009)
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竜門雑誌  第二六四号・第二四―二七頁明治四三年五月
    ○神戸高等商業学校に於て
                     青淵先生
 左の演説は「青淵先生関西紀行」にもある如く、四月二十三日、神戸高等商業学校の請に応じ、同校生徒の為めに講話せられたる筆記なり
○中略
私は去年アメリカ旅行を致しました、前後四ケ月に渉つて海陸二万一千哩を通過し、其間五十三の都会を視察しました様な大旅行を致しました、旅行中には大学も見た、中学も見た、実業学校も見た、孤児院
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の様な特殊教育も見た。
さうして是等の教育の状況はといふと、地方により科目により、夫々異つて居る特長を持つて居るのが見える、だが概して見た所、教育の意義が日本と異る所があるやうに思うた、此異なる点に就ては、学ぶ人も教へる人も十分に考ふべき事だと思ふ。
総じて米国では、私設の学校が頗る繁昌して居る、政府や州や市が設立したものは第二流・第三流のもので、却て私設学校に劣つて居る、此原因はと云ふと、私設のものが財源豊富だからであらう、例へばシカゴ大学の如きは、ロツクフエラー等の巨額の醵金がある、こんなに資金の豊富な学校には、善い校長も善い教員も聘用して置くことが出来る、詰り才学のある人物を任用することが出来るから、自然に私設の方が設置万端行届くことになるのである、従て学校の資格も第一流の地位を占める、之に反して官公立の方は、資金の自由が左程に行かぬ所から、第二流・第三流に落ちて来るのであらうと思はれる、実例を挙げて見ると、米国の大学中で、其名の高いハーバードやエール、コロネル、シカゴ、ウヰスコンシンなど、何れも国立でも州立でもない。
日本だとて、富国となるときには、さうなるだらうが、併し之は永遠を期すべき事で、ロツクフエラーの醵金弐千万弗といふやうな、そんな金を我が邦で見るのは、急に出来難いことである、だから此点を外にして、急に学び易い点に就て注意すべきであらう。
尤も私等の視察は、そんなに細かな点にまで及んで居ない。故に話が自然概論になる、併し視察の不足は深く咎めて貰うては困る、実際に於ける視察の状況はといふと、例へば神戸の様な一市に朝九時頃着したと仮定する、さうすると九時半頃迄に朝飯を済せる、夫れが済むと市長やら知事やらに会見する、挨拶がある、終ると直に水道・公園・店舗(例へばデパートメント・ストアの如き)等に案内される、神戸でいふと須磨辺までも自動車で案内される、軈て一ノ谷辺で午餐会がある、午後は学校に行く、大勢の客が大勢の主人に引廻される、其主客が一々細かな質問や答弁を遣つて居ることは、迚も出来ることで無い、斯んな訳だから見る所は多かつたが、観察の細かなることは望まれない、自然皮相的の観察に陥ることもあらう、是も事情己むを得ないのである。
さて此の様な皮相的観察で以て、彼の教育と我のと比較して見ると、日本では其教育法がどうも鋳形詰になつて居る、科目が多過ぎて居る従て卒業が遅くなる、加ふるに日本人は六十以上になると衰へるのだから、三十歳で卒業する人は、働き時が僅に三十年しか無い、是が若し二十で卒業せらるゝものであつて、私の様な七十歳まで働かるれば五十年もある、三十年間と五十年間とは六と十との比例である、日本人の働き得べき力の上に、六が十になり得べしとすれば、夫こそ大変な差が起る訳である。
尤も教育の当局者に聞いて見ると、日本人には特に漢籍といふ障害物がある、更に語源を異にする外国語がある、漢籍も一種の外国語である、こんなに外国語の数種に日本人は苦心せねばならぬから、欧米人
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のやうに教育年限を縮め難いと言はれる、成程是も一説である、だから私は出来るだけ科目を減じたいと思ふのである、又さうした方が、却て自修の観念が多くなるであらうかと思ふのだ、けれども之は私の今主論とすべき点ではない、尚是以上日本の教育風が、米国のそれに学ぶべき点があると思ふのである、それは日本では、学問上はかうだが事実はかうだと、其処に学問と事実との区別がある、米国には此区別は無い、此区別がない様にならねば、教育は其発達を示したものとは言へない。
どうも学問と実事と一致しない、即ち其間に区別があるといふことは学問が生学問になつて居るからだ、生煮えになつて居るからだ、生煮えだ、又生学問だといふのは、畢竟学問が齟嚼されないからである、齟嚼されないから消化されない、従て吸収されない、滋養にならないこんなでは大層な先生が、折角勤労せられても、功が挙らない訳だから、誠に遺憾至極である、だから教へらるゝものはどうしても、生学問をしない様にせねばならぬ。
種々に比較して見ると、学問の活用には日本人がどうも負けて居る、法律の上に見ても、日本では人間が法律に使はれて居る傾が見える、火災予防法の実行の如き、又銀行の信用を保つ方法の如き、規則は堅く守らねばならないが、元来規則を守るということも、其程度を過ぎては所謂柱に膠して瑟を弾ずるので、学問が不消化に且つ常識に外れるから、此の弊に陥るのだ、学問倒れをするのである、人格が進み常識が発達すれば、こんな学問倒れがない事になる。
尤も米人の仕事は大胆で突飛で、日本人とは正反対なことがある、日本人は常に謙徳を守るのに、彼れ米人は反対に自己を吹聴するに勉める、だから自分の店は米国一だ、此工場は世界一だなどいふ説明に出逢つた事が甚だ多い、極端なものになると、チツポケな市の人が其市を誇らんが為めに、我市は人間が少いけれども其割に仕事が多い、是が他に類がないことだなどといふ、又或る処で瘋癲病院に往つて見ると、是が米国第一の瘋癲病院だと説いて居る、考へ様に依ると、何だか瘋癲の多いのが自慢の種になつて居る様にもある、或は又亭主が其細君を天下一の美人と紹介するもあれば、細君が其夫を押除けて喋舌るのもある、こんなに随分甚しいのがある、謙徳は何処に在るのか分らぬ程突飛で大胆である、私は是等が皆日本人の学ぶべき長所であると言ふのではない、けれども是等米人の学問に関する注意は、甚だ良好だと称賛するを憚らない。
第二に米人が突飛で大胆であるに反して、学問を重ずることは大に日本人と異つて居る。彼等は学理を重んずるが故に、深く量り遠く慮りて事物を処理して居る、是れ米国の駸々として進む所以である、之に反して生学問をしてヘボ見識に満足すれば、却つて之が進運を阻害することになる、かうなつては折角学問しても、父兄・教員及び自分の勤労に報ひない結果に陥つて仕まう、だから学問はなるべく能く消化するやうに注意して、所謂学問負けをせぬ様にせねばならない、又学問の進歩と共に、人格常識を並行して進歩せしめねばならぬ。
○下略

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竜門雑誌 第二六七号・第二六―三〇頁明治四三年八月 ○埼玉学生誘掖会に於て 青淵先生(DK320017k-0010)
第32巻 p.446-448 ページ画像

竜門雑誌  第二六七号・第二六―三〇頁明治四三年八月
    ○埼玉学生誘掖会に於て
                      青淵先生
 本篇は青淵先生が本年四月三十日埼玉学生誘掖会茶話会の需めに応じ、同日同会に臨みて演説せられたる要領なり
本日は寄宿舎の茶話会でありまして、若い方々の面白い話を承りまして、実に愉快でありました。本年の二月十一日の学友会大会に出席して私の渡米談を致す筈でありましたが、丁度折悪しく病気で参る事が出来なかつたのは残念でありました。今晩は其渡米談を致す事にします。然し渡米談は後廻しとして、先づ、諸君に一応御話致す事があります。○中略 之れより渡米の御話を致しませう。扠て昨年の秋実業団の旅行は、出発前の予想以上に歓迎せられました。其の旅行の有様は、既に種々の新聞に書かれましたから御承知だらうと思ひますが、幸ひ誘掖会寄宿舎生の方と、今晩会合致しましたから、改めて御話致します。団体の旅行は八月十九日に横浜を解纜し、八月三十一日シヤトル着、九月一日同市に上陸し、終りは十一月三十日桑港にて汽船に乗組んだので、此間汽車にて西より東、東より西に、行程一万八百余哩にして、訪問したる都市五十三、滞在日数最も長きはニユーヨークに十日、シヤトル五日、シカゴ四日であります、大抵の処は一日若しくは宿らずに到着早々見出し、直に其晩汽車に投じて他所へ向け出発致しました、五十三の都市を訪問するに最初詳細なる時間表を与へられましたが、元来旅行は予め日数・時間を決定するは必要なる事ではありますが、長期の旅行には、却つて困却する事なきにしもあらずでありました、此度の旅行の如き米国の歓迎委員の世話にて、汽車を「ホテル」とし、夜は旅行しつゝ眠り、昼間或る市に着くや否や歓迎会に招待され、少くとも二・三の演説あり、多きは一日に四・五回にも及ぶと云ふ有様で、休息の時間は毛頭ない、見る目は楽しけれども、走り廻る身体は非常に疲れます、又夜になれば直ぐ出掛ける、帰りは午前一時にもなる事もあります、これでも送つて来た人あれば答礼の三鞭酒でも出して談話する、これが済んで床に入る、目が覚むれば又直ぐ仕度して出掛ける、毎日同じ事を繰り返す、之れが九十日間続くのだから、実に目の廻る程多忙であつた、兎に角斯うして見物もし用向も済しまするので、其の忙はしさ一通りではありませぬ、初めシヤトルに着いて歓迎会に臨んだ時、未だ夏の事ではあり、非常に暑くて卒倒するかと思ふた位でありました、列席の人々に挨拶するのに順に整列して(先方の人々が)待つて居るから、当方は一端から一々順次に手を握り合ふて姓名を云ひかはす、人数は多し、殊に私は団長と云ふので真先に握られる、身の丈高き洋人の数多の中で居るので、暑くて堪へられぬ、実に其の苦しさは非常でありました、シヤトルでは着した三日目に「日本デー」と云て大歓迎であつた、大分多数の人が集り、四名の演説を聞きました、引続き政府の建物の中で宴会がありましたが、建物が新造ですからペンキの悪臭は鼻をつく、天井低く風通り悪く、それはそれは実に苦しい思ひをしました、同行の婦人等は殊に困難
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の様子でした、これが終つて直ぐ又大会堂でレセプシヨンあり、人数凡そ五・六百人位あつたが、之れが一人一人手を握る、私は余り語学は出来ぬ、実につらい思ひをしました、今後の社会には語学は是非必要であります、舎生諸子も一生懸命に語学を勉強すべきであります、初めての土地へ九十日も旅行する事故、愉快なるは素よりの事なれど今度の旅は米人が一見旧知の如く種々丁寧親切につくしてくれ、一行心おきなく打語らい、実に心地よい事でありました、又或る市では自動車数十台に私等を乗せ、之れを連ねて騎馬巡査が先頭で、衆人の前を得意に走り廻つた事抔は、とても日本では見られぬ図でありました米人と話して見るに、日本人が日本は世界に知れ渡れりと考ふる程、日本を解して居りません「日本には斯る物なかるべし」等の言葉は、決して吾人を侮辱せるものにあらずして、全く日本を知らざるに原因するのであります。
一行は米国大統領タフト氏其他米国政治家又は実業家等米国の有名なる人々と面会しました、斯くて両国の交誼を温むるに勉めて、吾人が絶大の名誉を博したるは実に喜びに堪へませぬであります、此の旅行の基因を述べんに、明治四十年に於て米国太平洋沿岸の人々が来邦せし時、本邦の人々が各所に於て歓迎し、彼等に与へたる情誼厚かりし為め、之れに対し謝意を表せんとて彼国より我が外務省に招待状を送つて来たのに始まり、又我々実業家が彼の太平洋沿岸の一部に排日の思想のあるを幾分なりとも鎮静し、両国の親善を増進し、其の通商を発展せしめん目的に外ならんのであります、故に其の人選も相当の資格あるものを集めて行きましたから、之が彼れより厚く歓迎せられし一原因なるも、尚我が帝国の威信が彼の国に宣揚し、帝国に対し尊崇の念を深からしめたる反響が、吾人一行の頭上に及びしものなるは、争ふべからざる事実であります、真に痛快の極みでありました。
終りに教育の事を述べませう、米人は平民主義にて、自己の得たる富を多く学校に寄附しますから、私立に随分立派なるものがあります、図書館の如きも、私立にて大なる完備を有するものがあります、米国人が私財を以て教育を扶助し進歩せしめつゝあるは、実に称讚すべきことではありませんか、大なる資金を要する学校は、大概実業家の補翼に成つて居る、教育ある実業家は又教育の盛大を望む、両々相待つて以て因果の関係をなして米国の社会を進歩せしめつゝあるのであります、実に米国民は前にも云ふ様に平民主義なるが故に、官立の学校は余り勢力なく、盛大なる学校は皆な私立である、スタンフオルド大学・シカゴ大学・ウエスコンシン大学・イサカ大学・エール大学・ハバート大学・フイラドルヒヤ大学の如き、有名なるは皆な私立大学であります、米国は新開の大国丈けありて、種々の天然産物に富み、その産業組織の新式にして、規模の大なるには驚きました、吾人一行が始めて米国の太平洋沿岸に上陸するや、鬱蒼たる森林に驚き、内地に入りては宏大なる鉄脈、従つて其採掘方法の新式偉大なるに驚き、石炭も多く、銅の製錬の方法の大規摸にして、巧妙なる学理を遺憾なく応用せる抔は、到底日本人の夢想も出来ざる所であります、広茫たる耕地に、大農主義にて耕作する農夫を見て、米国の国富はこゝに在り
 - 第32巻 p.448 -ページ画像 
と感じ、実に羨望の至りでありました、進んで大西洋沿岸方面に向ふに至つては、大工場所々に多く煙突林立し、黒煙濛々天日尚暗き有様を見て、我が日本の現状と比して、感慨無量でありました、尚ほ種々話したき事がありますが、段々時間も経ちますから、之れにて止めませう。