デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.13

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
2款 中国行
■綱文

第32巻 p.491-518(DK320024k) ページ画像

大正3年5月2日(1914年)

是ヨリ先、栄一ガ首唱セル中日実業株式会社設立セラル。栄一之ヲ機トシテ、中国ヲ視察シ、曲阜ノ孔子廟参拝ノ宿望ヲ遂ゲ、且ツ同国実業家トノ関係ヲ緊密ニセンタメ、是日三男武之助及ビ明石照男・馬越恭平・尾高次郎等ヲ同伴シテ東京ヲ発シ、神戸ヨリ乗船シ長崎ヲ経テ六日上海ニ着ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正三年(DK320024k-0001)
第32巻 p.491-492 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正三年      (渋沢子爵家所蔵)
五月二日 曇午後ヨリ雨 軽暖人ニ可ナリ
○上略 朝飧後直ニ旅装ヲ整ヘ、支那漫遊ノ途ニ上ル、七時半自働車ニテ家ヲ発シ、家族ト共ニ新橋ニ抵ル、送別ノ為メ来会スル者多シ、停車場立錐ノ地ナキニ至ル、大臣アリ、将官アリ、学者アリ、実業家アリ学生アリ、八時半発車、静岡・名古屋・京都・大坂等ノ各駅ニテ地方送別者多数来会ス、乗客中野村満鉄総裁・米人アルウエン氏等アリ、静岡ニテ午飧シ、京都ニ於テ晩飧、午後九時過神戸ニ達ス、大坂支店長野口・神戸支店長杉田氏等来リ迎ヘ、小蒸気船ニテ本船地洋丸ニ抵ル、夜十一時頃本船神戸港出帆ス、暫時喫煙室ニテ談話シ、十一時半船室ニ入リ就寝ス
五月三日 曇時々小雨 軽寒軽暖、船行甚タ急ナラスシテ動揺ナシ
午前六時起床、船中ニテ入浴シ、室外ニ出レハ船備前来島附近ヲ通過ス、住友家ノ経営セル日阪島精煉所煙突ヲ遠望ス、今治附近ヲ通過スル時其煙突ヲ見ル、午前八時半朝飧ヲ食ス、後大沢氏ト自助団ニ関スル趣旨書及規約等ニ付テ種々協議ヲ為シ、其文案ヲ托ス、又日記ヲ編成ス
明石・増田二氏ト、旅行中各員ノ担当分掌ノ事ヲ談ス、午飧後読書室ニテ演説筆記ヲ修正ス、夕方ニ至リ馬関門司ノ海峡ヲ通過ス、両岸ノ眺望佳絶ナリ、甲板上ヲ散歩シ、船長室ニ於テ望遠鏡ヲ以テ四方ヲ展望ス、海峡ヲ出レハ玄海洋ニシテ、波濤渺茫タリ、船少ク動ク、夜飧後甲板上ニ活動写真ノ余興アリ、又囲碁等アリテ毫モ寂寥ノ感ナシ、夜十一時就寝ス
五月四日 晴 気候平和ニシテ朝来快然タリ
午前六時起床、入浴シテ茶ヲ喫ス、衣服ヲ更メテ室ヲ出レハ、長崎ナル銀行会社ノ各員多ク来リ迎フ、但本船ハ払暁着港シタルナリ、午前八時朝飧ヲ食シ、地方人等ニ誘ハレテ上陸シ、先ツ迎陽亭ニ抵リテ休憩ス、十時過高等商業学校長ノ請ニ応シ其校ニ於テ学生一同ニ一場ノ講演ヲ為ス、畢テ向井氏所有ノ聖廟ヲ一覧ス、頽敗腐朽見ルニ堪ヘス一覧後又迎陽亭ニ抵リ、地方人士ノ歓迎宴アリ、席上余カ旅行ニ付テノ要旨ヲ演説ス、午後二時宴散シテ帰途支那領事館ヲ訪問ス、蓋シ朝
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来本船ニ訪問セラルヽヲ謝スルナリ、三菱造船所ヲ一覧ス、飽ノ浦・立神両所共設備状大《(壮)》、精緻ト云フヘシ、畢テ本船ニ帰リ午後四時半開帆ス、風静ニシテ船平穏ナリ、夜飧後甲板上ニテ活動写真ノ余興アリ
五月五日 晴 風ナクシテ船中静ナリ
午前六時起床、入浴シテ衣服ヲ更メ、甲板上ヲ散歩シ、随行者ト共ニ支那長江筋ノ行程ヲ研究ス、野口氏ノ長江地図ニヨリテ詳細ナル説明アリ、午前八時半朝飧ヲ食シ、再ヒ読書室ニ於テ地図ヲ開キテ各所ノ古跡ヲ質問ス、上海ヨリ遡リテ姑蘇・南京・九江・武昌・漢口ヲ経テ湖南ニ至ル、野口氏ノ説明頗ル詳密ナリ、畢テ船室内ニテ日記ヲ編成ス、午飧後演説筆記ヲ修正シ、又揮毫ヲ試ム、夕方ヨリ海色少ク濁ル蓋シ揚子江ノ水海ニ注クタメナリ、夜飧後喫煙室ニテ遊戯ス、十一時就寝後上海ト題スル冊子ヲ一覧ス
(欄外記事)
 朝小蒸気船ノ〓行ヲ見ル
五月六日 小雨 軽暖
午前六時起床、揚子江ノ水濁流ニテ入浴スルヲ得ス、船呉淞江口ニ碇泊ス、朝来上海ヨリ迎ノ為メ来ル者多ク本船ニ会ス、相会シテ上海滞在中及江蘇・杭州等遊覧ノ日程ヲ協議ス
昨夜中本船揚子江ニ入リテ、殊ニ動揺ノ事ナシ、上陸後本日及杭蘇遊覧ニ付テノ日程定マリテ後、朝飧ヲ食シ、畢テ本船長其他ニ告別シテ三井物産会社ヨリ送レル小蒸気船ニテ上海ニ抵ル、船中小雨降リテ眺望ニ便ナラス、黄浦江ニ入リテ両岸ニ壮大ノ工場・家屋ヲ見ル、十時頃上海ニ着シ、直ニ上陸シテアストル旅館ニ投宿ス、旅館ニモ来リ迎フ者多シ、投宿後旅宿ニテ午飧シ、直ニ領事館ヲ訪ヒ、更ニ盛宣懐氏ヲ訪フテ、種々ノ談話ヲ為シ、総務商会等ヲ歴訪シ、夜上海ナル日本人倶楽部ニ催シタル宴会ニ出席ス、日支間有力ノ人士多ク集ル、食卓上一場ノ演説ヲ為シ、宴散シテ唐紹儀・伍邸芳氏等《(伍廷芳)》ト会話シ、又六三亭ニ遊テ夜十二時帰宿ス


竜門雑誌 第三一三号・第二〇―二二頁大正三年六月 ○長崎高等商業学校に於て 青淵先生(DK320024k-0002)
第32巻 p.492-494 ページ画像

竜門雑誌  第三一三号・第二〇―二二頁大正三年六月
    ○長崎高等商業学校に於て
                      青淵先生
  本篇は青淵先生が支那へ赴く途次、五月四日長崎へ寄港せる際、長崎高等商業学校々長事務取扱山内正瞭氏の請を容れ、同日午前十時同校講堂に於て全校学生に対し約三十分の講演をなせるものなりとて、同地の東洋日の出新聞が其大要を摘記して掲載したるものなり(編者識)
此度の支那旅行に際し本校に立寄り、而して第二の帝国民として帝国の実業を発達せしむる学生諸君に相会ふの機会を得たるは、予の衷心愉快とする処なり、予は大分老衰し、為に声も立たず、且着早々校長より講演を求められ、為に何等の準備なきも、実業の発達進歩を心とせらるゝ諸君の心を心として、こゝに一場の講話を敢て試みんとす
今回旅行の目的は単に漫遊に止まる、予の上海へ赴きしは前後二回のみ。而して第一回は五十年前にかかり、第二回亦四十年前に属す、加
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之上海には二回赴きたりと雖も、支那内地の模様は毫も知らざるが故に、是非とも老後の懐出に一遊を思ひ立ちたる次第なり。新聞紙上には予の支那旅行を目して、利権獲得運動の為なりなど掲げらるゝが、決して爾るにあらず。但だ昨年支那有力者と合辦の事業を企てたり、始めは中国興業会社と称し、今は中日実業会社と改めたるが、コハ昨年孫逸仙氏と予と組織せるものなれば、漫遊の序を以て其目的を達すべく、彼の地の実業家と会し、又将来の為に官途にある人とも多少談合せんと欲するものにて、其他には目的無き也。予は今後は益々商業教育の必要を痛切に感ずるものなり。乃ち商業教育上注意を要すべき点について一言せんと欲す。
予は種々の場合に於て之を云ふが、予の若き時の教育は、非常に簡単にして又頗る楽なりき。而して維新以来教育の事勃興せしと雖も、そは政治教育を主とせり。故に教育を受くる者は政治界に雄飛せむと欲する者のみにして、実業界は依然文字を知らぬ人々によりて保たれたりき。斯の如くにして、国家の富み、且つ鞏固なるを望むも得べからず。多数の富、多数の力を以て進み、其処に始めて真正に国家の発達を求め得べく、現時土耳古又は墨西哥の状態に鑑みて、特に此感を深ふせずむばあらず。東京に於てすら、高等商業学校の重要視さるゝに至れるは僅に二十年来のことにして、実業教育は社会より度外視されたるの観ありき。然るに明治三十八年本校の創立を見て、又他地方にも実業教育の振興を見るに及べり。併し乍ら商業教育が総ての点に於て行届けりとは考へられず。東京・神戸・大阪・長崎等に高等専門の学校あり、其他甲乙二種の商業学校ありて、夫等の学校より年々多数社会に出づるに至れるも、商業教育真個に発達して昔時の憾みを一掃せりとは、未だ遽かに断すべからず。一言以て之れを蔽へば、商業道徳の堅固に成り行けるや否やは疑問なり。道徳は人道也、誰人も之を為さゞるべからず、政治にも軍事にも必要なれど、特に商業に在りては最も罪悪に傾き易きが故に、其必要や重大なり。富は誰人に拘はらず之を所有するを都合宜しとなす。乃ち実業界にありては、其誘惑を受け易しと為す。富めば仁ならずと故人は云へり、而してアリストートルも亦た、総ての商業は罪悪也と極言せり。富が総ての目的となり手段を選ばず、之を行ふに至りて、罪悪を犯さゞるものは稀なり。則ち実業に従事する者にありて、商業道徳の最も重要なるを見る。
大会社の支配人となり、或は所謂成功を遂げたるものを羨望するの念は、罪悪に陥るの径路なり。羨望夫れ自身は、大なる誘惑にして罪悪の端緒也。凡そ誘惑には他働と自働とあり、而して羨望は自から之れを受くる誘惑なり。実業教育に精神教育の重且つ大なるは、之れを以つても知る可きに非ずや。
予は四十余年来第一銀行に従事せり。而して毫も移らず。此間大いに進んで富を造りし人もあり。又枢要の地位に達せし人もあり、然るに依然として予は第一銀行に没頭せり。乃ち此点より云へば、予は呉下の旧阿蒙也、然りと雖も、予が始め実業界に志せしは堅き自信を有してのことにて、多少英仏其他諸外国の事情も知り居たれば、抱負を持ちて実業界に起ちたり。斯の如くにして自身を発達せしめざりしも、
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一方実業界はこの四十年来異常の発達を来したり。要するに当代の実業界は、昔しの如く十露盤を弾くことのみを学べる人にては、之に当り得べからず。世界を対手の商業は、充分の素養を以てせざれば能はず。而も物質的教育のみを享け、精神的教育に欠けたる者にては、到底世界的商業の舞台には立つこと能はず、予は明治十年及び三十一年並に三十三年の四回この長崎を見舞へり。言ふ迄もなく長崎は、三百年の長き歴史を貿易史上に有し居りて、今日の発達は更に昔しの繁栄にも優りつべし。然れども精神的方面に幾許の発達有り耶は疑問也。
コハ単に長崎を指して云ふにはあらず、此頃の如き不祥の事件各地に発生するについて予は深憂あり。特に日本の中心たる東京に於て続々不祥の事件発生するは、国民の一人として、又実業界の一員として憤慨に堪へざるものあり。諸君は第二の国民として、而して帝国の完全なる発達を図る為め、一層精神的修養を積みて、其大任を全ふせられむことを望む。(終)


竜門雑誌 第三一五号・第四五―五四頁大正三年八月 ○青淵先生支那紀行(一) 随行員増田明六記(DK320024k-0003)
第32巻 p.494-501 ページ画像

竜門雑誌  第三一五号・第四五―五四頁大正三年八月
    ○青淵先生支那紀行 (一)
                随行員 増田明六記
      青淵先生の支那旅行目的
 青淵先生には年少より深く漢籍に親しまれたれば、其山川風物を実際に目撃して雅懐を述へ、且多年深く崇敬せらるゝ孔子の聖廟に参拝せんとの希望は、久しき以前より有せられたる処なるが、身は常に朝野の総顧問たるの位置にあらるゝを以て容易く出遊を許されざりしが恰も当時中日実業株式会社の設立せらるるあり、先生は其主唱者にして而して傅育役たり、同社は固より日支両国実業提携連絡の必要より生れ、最初南方孫逸仙氏と共に発起したるものなりしが、今や袁世凱氏の賛助を得て北方の株主をも多数包有するに至りしを以て、折柄支那側発起人よりも頻りに来遊を慫慂し来りたれば、爰に万障を排除して出発の途に就かるゝに至りしものなり、故に此行の目的は一面に於て趣味の為め、他方に於て日支実業連絡を図らんとするに有りとす
 然るに先生の此行を以て、政治上に又は利権獲得上に何か遠大の目的あるが如く邪推し、堂々紙上に之を論ずるものあるに至りしは、先生の頗る遺憾とせらるゝ処なるべし、左に先生の支那啓発に関する意見、及先生の旅行に関するジヤパン・アドバータイザ及北京デーリーニウスの論文を掲ぐ

      青淵先生の支那啓発に関する意見
                (大正三年四月チヤイナ・プレスの需に応じ寄稿せられたる一篇)
 支那が天賦の富源に充ち無尽蔵の宝庫を擁するは言を須ゆるまでもない、之れ欧米各国が相争ふて其利権獲得に熱中しつゝある所以である、然るに一方に於ては、支那人自身の間に利権回収熱が熾になつて来た、然らば支那は将来列強より要求する所の利権を峻拒し、之を禁遏するを以て国家の利益とするか、将た又た各国の請求するが儘に利権を譲与すべきか、即ち利権問題に対する方針は如何に定むべきか、之れ重大なる問題である。
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 余の見る所に依れば、支那の現状は近世的産業組織未だ充分に発達せず、開拓の余地頗る豊富なる国柄なれば、其宝庫を開き国富を発展せしめんには、勢ひ自国に欠乏する資本と産業上の智識技能とを輸入しなければならぬ、故に此点より考ふれば、偏狭なる思想に囚はれて絶対に利権附与を拒絶するは、策の得たるものではない、さればと言ふて、列国の求むるが儘に一々其言に聴き、利権を彼等に附与せんか之れ実に際限のなきことにして、其結果支那は終に自国の存立を失ひ大に悲しむべきこととなるかも知れぬ、然らば如何に之れを処すべきか、絶対に与へざるも不可にして、際限なく与ふるも不可なりとせば今後如何なる態度を採るべきであらうか、要するに与ふべきは与へ、与ふべからざるは与へずと云ふ方針を確守するより外はないのである一々例を挙げて、之れは与へてよろしき利権なり、之れは与ふべからざるものなりと云ふ分類を示すことは困難であるが、国家の事業として自から経営せざるべからざる仕事は、飽くまで自から之れが経営に当りて列国の請求を拒み、然らざる種類のものは惜む所なく外国の要求に応じ、資本と智識とを入れて其富源を開発するが得策である。
 日本は従来支那の内地に於て、如何なる経済的の活動を為したかと云ふに、南満洲を除けば、他には別に見るべき程のものがないのである、之れ甚だ遺憾なることであつて、将来は日本も亦、支那内地の事業に対して大に密接なる関係を生じなければならぬ、一体支那と日本とは、古来の歴史上より云ふも、風俗慣習の上より云ふも、文学・宗教の上より云ふも、人種の上より云ふも、地理上の位置より云ふも、相互の関係は甚だ親密なるものであつて、従つて利害相伴ふべき間柄であるから、経済界の事業などは、殊更に相提携せざるべからざる筈である、然らば則ち如何にして其実を挙げんかと云へば、他なし相愛忠恕の道を以て相交るより外はないのである、即ち我等が日本の利益を図ると同時に支那の利益をも図かり、利益と徳義と一致せしむるの道を以て相交はれば、玆に初めて提携の実を挙げ得るのである。
 尚ほ支那の将来の為めに図かるに、財政及経済上一日も忽にすべからざるは、財政の整理と、貨幣制度の改革と、銀行制度の完備との三点である、借款を以て国家歳入の一財源となし、之れによりて政費を支弁するなどと云ふことは最も警むべきことで、国庫収支の均衡を図かるは最も焦眉の義務である、又た支那の幣制は目下甚だ不統一であつて、不換紙幣は濫発され、各種の補助貨幣が市場に横溢すると云ふ有様であるから、速かに改良統一を行はねば、経済の発達も亦望むことは出来ぬ、次は銀行の制度である、支那に於ては金融に関する機関が備はらず、従つて商工業の進歩に多大の障害があるから、銀行制度を完備し、以て実業の発達に利便を与ふることゝせねばならぬ。

      支那に於ける日本
                (一九一四年三月十三日発行「ジヤパン・アドバタイザ」記事大要)
 揚子沿岸に於て、中日実業会社の為めに重大なる利権を獲得せんが為め、近々渋沢男が北京へ来たらるべき噂さは、中外の注目する所となりたり。
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 中日実業会社は、初め孫逸仙氏が大総統時代に組織せられたるものにて、其後氏が敗残の身となられしより、日本側に於て前外務次官倉知氏を入れ、而して渋沢男は依然日本側の総裁たり。
 今日まで利権獲得の運動者が、日本より北京に来たりしことは甚だ稀れにして、一二の例外を除けば、日本が支那の為めに独立に借款に応じたることも亦未だあらざりしなり、但し此事実を見て、直ちに日本政府若くは日本資本家が、支那に於て列国と競争して利権の獲得を為すの念なかりしものとするは迂愚の至りなり、仮令日本は北京に於て其運動を為さゝりしとするも、地方に於ては少なからざる活動を為したることあり。
 不幸にして日本は富める国に非ず、故に列強と比肩して所謂支那の恩人たるの地位を保つこと容易ならず、之れ今回渋沢男及び其同志者が他国より遅れて此利権運動に着手せざるを得ざりし所以なりとす。
 日本が九江より南昌を経由して福州に至る鉄道線路の敷設権を獲得せんとするの希望は、多年世に知れ渡りたる事実にして、且つ福建省を若干程度まで自己の勢力範囲と認めつゝあるの事実も、列国の反対せざる所たりしなり、然りと雖ども今回中日実業会社が求めんとしつつある揚子江沿岸の利権獲得の一条は、単に鉄道敷設てふが如きことよりも、尚ほ一層重大なる意味を有することを表示するものとして認めらる、吾人の察する所に依れば、今回の利権獲得運動は従来英国の勢力範囲として列国より認められつゝありたる地方に於て、日本が英国と其利益を分たんと決心したる証拠なるべく、而して英国及英国人が此日本の運動に対して如何なる観察を下だすべきかは、今後大に注目すべきことなり。
 恐らく英国は、南満洲に於ける日本の位地が同盟国の英国たりとも大仕掛の企業を同地に行ふべからざる程特別なるものとして尊重するの故を以て、揚子江沿岸に於ける英国の特別なる位置も、亦日本政府に於て同様に尊重すべしてふ抗議を提出するやも知るべからず、蓋し渋沢男等の運動が確実の計画なりと認めらるゝに及ばゝ、必ず何等かの抗議は英国側より提出せらるゝに至るべしと信ず。
 日本の此利権獲得は未だ現実せられたるものに非ず、且つ日本は英国及其他列強の態度を察すると同時に、支那自身の態度をも察せざるべからず、日本は支那の信任を博せんと欲したるにも拘はらず、充分に之れを博し居らざるの事実は、北京に於て何人も之れを知らざるものなし、蓋し日本人は未だ支那人を理解せず、従つて支那を左右する能はざるものゝ如し、然りと雖も漸次欧米人よりは一層親密に彼等に近付きつゝあるは疑ふべくもあらず、又た日本が支那に関する精確なる報道を得るの便は、到底他国人の競争し得る所にあらざるなり、蓋し之れ日本留学の支那学生に対する感化力の偉大且つ永久的なるが故に帰すべきものとす。
 日本は常に東洋対西洋の題目の下に、又た同文同教の故を以て支那に対し提携を申込むの便利を有すと雖も、而かも二三の例外を除けば箇人としての日本人に対する信用は、支那に於て頗る薄弱にして、且つ日本の政策に対する猜疑は広く上下に行はれつゝあり、蓋し日本の
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政策は平素甚だ公正を欠くの故を以て、支那人より非難せらるゝの傾あり、例へば一面に於ては支那に対して暴慢なる態度を示めすことあると同時に、他面に於ては之れに反して親善なる友邦として我れを信任せよと云ふことあり、而して此矛盾は日本に在りては或は之れを理解するを得べしと雖も、北京に於ては到底之れを解する能はざるなり故に日本の政府反対者等は、従て外務省の政策に攻撃を加へ、支那に対する手段を一層緊縮強固にせざるべからずと論じつゝあり、若し南京事件の談判の如き、寧ろ強硬なる態度を以て支那に臨まば、揚子江沿岸の利権獲得の如きは、其目的を達し得るの機会今日よりも一層多かりしならんとさへ言ふものあり。
 抑々日本は何故に揚子江沿岸の利権獲得に指を染めんとするに至りしやと云ふに、蓋し之れには種々の原因あり、政治上より云へば一種の名誉心も伴ふべく、又た将来支那が他の保護国となり、若くは分割の運命に遭ふの日あるを恐るゝが為めにして、経済上より之れを云へば、日本品の販路を拡張し目下の輸入超過と正貨流出の趨勢を止めんとするにあるべし、又た陸軍々人は台湾島と揚子江との関係が密接なるを唱道すべく、海軍々人は福建省沿岸に一の良港を得ることが如何に価値多きかを説くなるべし。
 然りと雖も、外に向つて手を延べんとする者は、先づ其内部を斉えざるべからず、日本は未だ産業界に第一歩を踏み出だしたる身分に過ぎず、支那に経済的助力を与へんとして出発する渋沢男は、其背後に東北地方の饑餓に苦む人民を残こし行くなり、日本の手を以て開拓すべき事は、朝鮮にも満洲にも台湾にも多々之れあり、日本は今や自国の鉄道の為めに、軌条及機関車を自から供給するの道を有せざるに当り、隣国支那の為めに鉄道の敷設を企てつゝあるなり、自国を支え自国を開発するに要する金銭を充分に有せざるに拘はらず、却つて隣国に対して財的補助をなさんとしつゝあるなり、歳計の辻褄を合せんが為めに、年百年中欧洲市場にて借金をなしつゝあるにも拘はらず、又た日露戦争当時の重税を今尚ほ国民に賦課せざるを得ざるの苦境に在るにも拘はらず、尚ほ其上にも借金をなして、之を支那に貸付けんとしつゝあるなり、支那に於ける日本実業家の名誉心と精力とは、寧ろ感ずるに足るものありと云ふを得べし、日本の政治家及日本国民が世界の檜舞台に乗り出ださんとするの希望は亦諒とすべきものあり、然りと雖も、目下日本の急務とすべき事は、此帝国主義的政策以外に何物もなしと云ふを得べきや、否な否な、日本の努むべき事は、富力に於ても文化に於ても遥に日本より優等なる列強諸国と徒らに競争を試みんよりは、寧ろ其内部の発達に留意し、徐々に確実なる進歩を図かり、以て自国の基礎を強固ならしむるにありと信ず、之れ実に日本の急務なり。

      渋沢男爵支那旅行の目的
                (一九一四年三月十九日発行「ジヤパン・アドバタイザ」記事大要)
 昨日(三月十八日)本社の一記者渋沢男と会見したる節、男爵は過日本紙に掲載せられたる北京通信、即ち同男が近々北京に赴かるゝ用
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向は揚子江沿岸に於て、一大利権を獲得するが為めなりてふ記事に対し、全然否定を与へられたり。
 男爵曰く「余が近々北京を見舞はんとするの計画を有するは正に事実なり、然りと雖も、余の支那行は単に観光の為めにして、中国興業会社の為めに同国に赴かんとするに非ず、該会社の創立当時に於ては余も主として尽力したる一人なりと雖も、今は表面上該社と何等の干係もあらざる身なり。
 過日貴紙上に掲げられたる余が支那行の目的に関する記事は、余自身も之れを見て少なからず驚きたり、即ち該記事は全然事実相違にして、何等の根拠あることなし、余は未だ曾て支那に遊びたることなきを以て、好き機を得て同国を漫遊せんものとは余が多年の希望たりしなり、余は支那に多数の友人を有す、而して此等の友人は従来屡々余の同国漫遊を勧め来たりたることありたり、然りと雖も今日迄は事務の繁劇なる為め、其勧めに応ずること能はざりしが、偖て翻つて考ふれば余も次第に高齢となり、遂に或は健康上遠遊を許さゞるの時来たるべし、斯くては甚だ残念の至りなれば、強壮なる間に漫遊を試むるに如かずと決心し、遂に今回遠からず同国に赴かんとするに至りしなり、勿論決心は為したるものゝ、余も身既に老境に達したるものなれば、之れが遂行は身体の工合と気候の如何とによりて変更を来たすやも知れず、従つて旅行中の計画順序等も尚ほ未だ確定し居らざる次第なり、然かしながら若し気候にも健康にも支障なき場合は、成るべく四月下旬に東京を出発せんとする考なり、但し呉々も誤解なきを望む所は、今回の余の旅行が全然私的漫遊に過ぎざるの一事に在り。
 抑々客歳中国興業会社の設立せらるゝに当つてや、余も其創立委員中の大立物なりしは事実なり、而して同社設立の目的は、日支両国相互間の工業的・商業的及び財政的利益を拡充せんが為めにして、余は之れが創立に尽力は為したるものゝ、創立後は身を退きて直接経営の衝に中たることを避けたり、孫逸仙氏が、日本に来遊せられたる際には、支那の南北両派未だ敵視するの状態に在らず、孫氏自身は、実に中国興業会社の支那人側の利害を一身に代表し居りたるなり、其後南北の不和となり、支那の形勢遂に今日の如くなりたるより、中国興業会社は更に北部の官憲と熟議を遂げ、其結果相方とも斯かる会社の存在は、日支両国の経済的利益の為め必要なることを互に認むることゝなりたり、勿論従来日支両国人の共同経営に係かる幾多の会社あり、此等は自然孰れも日支両国民の商業及経済的関係を密着せしむるの働きを為しつゝありと雖も、然かも中国興業会社の設立せらるゝに至るまでは、日支両国の経済的関係を発展せしむるを以て、会社の主なる目的とする所の事業は未だ存在せざりしなり、而して斯かる特別の機関を設くるの必要は、多年識者の認むる所にして、余は単に其設立の為めに応分の努力を貸したるに過ぎず云々」と。
 記者は是に於て男爵に一問を発し「聞く所によれば、中国興業会社は日本政府の後援を受くること浅からずと云ふ、事実果して如何」と尋ねたり、而して男爵は之れに答へて曰く「勿論日支両国の経済的利益を増進せんとするを目的とする中国興業会社の如きは、日支両国政
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府の好意ある援助を必要とす、又た実業家が其資本を国外に注入せんとする場合には、其投資を行ふべき国に対する本国政府の方針を見定め、之れに背反せざるの措置を採らざるべからず、然かりと雖も、之れを以て直ちに中国興業会社を半官的の企業なりと認定するは不可なり、該社の如き政府より一文の補助金も受けず、又た何等の命令をも受け居らざる純然たる独立の経済的施設なり云々」と。
 是まで述べ来たりて男爵は、話頭を一転し、稍や諧謔的態度を示めされつゝ語りて曰く「余は先刻余の支那行の使命が、決して揚子江沿岸の利権獲得に非ず、従つて英国の勢力を蚕食せんと試むるものに非ずと公言したり、然りと雖も、余が北京着の上は、先方の人々より、或は何等かの新事業計画に就て相談を持ち掛けらるゝことあるやも計かられず、余は元来実業家たるを以て、若し日支両国の為めに有益なる将来有望の事業計画を聞くことあらば、余は勿論之れに賛成し、亦一臂の力を貸するに吝かならざるべし、然りと雖ども此等のことは北京着の上ならでは知るべからざる事柄なり、唯だ揚子江沿岸の利権云云の噂さは、全然訛伝なることを玆に明言して憚からず、余既に老ゐたり、何ぞ斯かる小面倒なる任務を帯びて渡支するが如きことをなさんや云々」。
 終りに男爵は中国興業会社なる名称を改めて、中日実業会社となすの計画ありてふことを記者に語たられたり。
 (本篇青淵先生談話中誤伝の点あるも、原文の儘登載せり)
      渋沢男爵の支那旅行に就て
                (一九一一四年三月二十五日発行北京デーリー・ニウス新聞記事)
 中国興業会社創立者の一人たる渋沢男爵は、本月末頃日本を出発して渡支せらるゝ予定なりと云ふ、而して此件に関し東京発行の「ジヤパン・アドバタイザア」新聞の一記者、渋沢男を訪問したる処、同男爵は此程北京電報として同紙に掲げられたる記事、即ち同男の北京行きは揚子江沿岸に於て利権を獲得せんが為めなりてふ記事に対して、之れ全然無根の噂さなりと云はれたり、男爵の言に依れば、今回の支那旅行は全く観光の為めにして、中国興業会社の要件は毫も帯び居らず、然かし北京着の上は或は各方面より事業上の相談を持ち掛けらるることもあるべく、而して斯かる場合には自分自身も之れを熟慮することあるやも計かられず、蓋し自分は日支両国の経済的利益を発展拡張するを熱望し居るものなれば、有益なる企業あらば助力賛襄を与ふるは自分の最も喜ぶ所なり云々とあり、然かし吾曹の見る所を以てすれば、渋沢男の北京に来たらるゝ場合には、単に貴賓として歓迎せらるべしと雖も、企業上の相談などを持ち掛くる者は一人もあらざるべしと信ず、又た之れと同時に、渋沢男は北京着後に於て袁大総統を始め、其他内閣員等を余り屡々訪問せられざる様注意せらるゝならば、支那政府は之れを大に徳とするなるべし、蓋し支那の大官等は利権獲得運動者と会見するに疲かれ居り、特に日本人は多弁長座をなし、一度会見を許すや喃々喋々弁を弄し、利権を求め、相手方の大官をして殆ど病人たらしむるに至るを以て、支那大官に取りては日本人に遇ふことを禁物の一と考へ居るの有様なるを以てなり。
 - 第32巻 p.500 -ページ画像 
 然るに幸なる哉、利権獲得の為めに渡来せらるべしてふ噂の立ちたる渋沢男爵が、単に観光の為めの旅行なりと自から言明せられたるは支那政府に取りて甚だ難有ことなり、希はくは男爵自身に於ても其言明を守られんことを、北京に於ける我等新聞記者等は、男爵の言の果して事実なるべきや否やを聳耳張目して監視すべし。
 若し万一渋沢男爵渡来の使命が利権獲得にありとせば、我等は如何なる言を以て男爵に告ぐべきか、我等は須らく男爵に向つて次の如く明瞭に告ぐべし、曰く「支那に於て利権を獲得せんとする前に、日本に在りて国内の経済的発展に専心努力せらるべし、仮令目下の状態にて支那に於て利権を得ることありとするも、日本は之れを活用発展せしむるの資金を有せざるべし云々」と、支那に於て利権を得んとして日本を出発する渋沢男は、其背後に幾多の東北饑民を残こし行くなり朝鮮及台湾に於て開発を試むべきこと多々存在するに拘はらず、支那の為めに財政的助力をなさんとして渡来し来たるの必要何処にありや隣国の事を配慮するよりも、先づ日本の内部を斉ふるに努むる方、日本の為めにも支那の為めにも利益なることなり。
 島帝国の内部には目下広く人心の動揺あり、之れ海軍収賄事件の為めに非ず、実に重税の負担と生活費の高騰に基因するは、英紙「タイムス」の既に指摘したる所の如し、特に日本の下層社会は殆と堪え難き重荷に悩まされつゝあるなり、渋沢男爵たる者須らく三月十三日発行の「ジヤパン・アドバタイザア」に掲載せられたる「支那に於ける日本」てふ記事を一読せらるべきなり、而して右記事中には左の如き言あり。
 「日本は今や自国の鉄道の為めに軌条及機関車を自ら供給するの道を知らざるにも拘はらず、支那の為めに鉄道の敷設を企てつゝあり自国を支持し自国を開発するに要する金銭を充分に有せざるにも拘はらず、却つて隣国の為めに財的補助をなさんとしつゝあり、政府歳入出の辻褄を合はせんが為め、年百年中欧洲の市場にて借金をなしつゝあるにも拘はらず、又た日露戦争当時の重税を今尚ほ国民に賦課せざるを得ざるの苦境に在るにも拘はらず、尚ほ此上借入金をなして之れを支那に貸付けんとしつゝあるなり、支那に於ける日本実業家の名誉心と精力とは、寧ろ感ずるに足るものあり、日本の政治家及日本の国民が、世界の檜舞台に乗り出ださんとするの希望は亦諒とすべきものなり、然りと雖も、目下日本国の急務とする所は寧ろ其帝国主義的政策以外に在りと云はざるべからず、即ち日本は富力に於ても文化の程度に於ても、日本より遥かに優等の地歩を占むる列強諸国と無益の競争を試みんよりも、翻つて其国内の発達に力を尽くし、確実なる進歩を図りて、以て自国の基礎を固むるに在り云々」と
 蓋し吾曹に取りては、渋沢男が利権獲得の為めに渡来せらるゝや否や、若くは其到着後に於て新企業の相談を持ち掛けらるべきや否やに就き、余り多く頓着するものに非ず、何となれば吾曹は支那政府が渋沢男より提出さるゝ申出でに対して、余り重もきを措かざるべきを信ずればなり。
 - 第32巻 p.501 -ページ画像 
 唯だ吾曹が実業界の元老たる渋沢男に忠告したき事は、外を見るよりは先づ内を顧み、重税に苦む日本人民を助くるの労を採られん事の一事にあり、吾曹は日本国が現在よりも、一層真面目に其内部改善政策を採らん事を希望す、而して其場合に渋沢男が、自国の為めに尽すべきは誠に多々存在すべしと信ず。


竜門雑誌 第三一六号・第三三―三六頁大正三年九月 ○青淵先生支那紀行(二) 随行員増田明六(DK320024k-0004)
第32巻 p.501-503 ページ画像

竜門雑誌  第三一六号・第三三―三六頁大正三年九月
    ○青淵先生支那紀行 (二)
                  随行員 増田明六
 青淵先生支那旅行の目的は、右の如く公明正大にして、苟も支那啓発を以て任ずる新聞社の如きは、大に其行を歓迎すべきを、尚且強いて利権獲得の為めなりと想像を逞ふするに至りては、実に言語同断と云はざるを得ざるなり、先生は孔子の所謂己の欲せざる所之を人に施すこと勿れの金言を主義として、終始一貫一事一物皆之に依らざるもの無し、故に此旅行に於ても中日実業会社の業務上、或は彼より需められて意見を陳べ或は注意を与ふる事あるべきも、為之他を排し自己を利するが如き言動のあらざるは言を俟たざるなり、蓋し先生の偉大なる精神は、到底彼等外人の覬覦する能はざる処ならん歟。
 如此外字新聞先づ先生の旅行を曲解し、続て支那新聞社又之に雷同して、妄言を排列し、以て先生の此行を阻止せんと計りしを以て、或は万一禍の先生の身辺に及ばんことを恐れ、或は彼の地の風土・気候の先生の健康に適せざるべきを憂ひ、切に其中止を請ふもの少からざりしが、先生は断乎として所信を曲げられず、遂に五月二日を以て出発せらるゝに至りしなり。
 先是先生には中日実業会社副総裁倉知鉄吉氏と共に、昨年(大正二年)十一月三日発程の企あり、此時の旅程は先づ朝鮮京城に至り、安東県本渓湖を視察し、奉天を訪ひ、同地を中心として長春・吉林等附近の地を巡視し、更に大連に至り、山海関・天津を経て北京に赴き、夫れより漢口に出で長江を下り、大冶・九江・南京を経て杭蘇両州の名勝を探りて上海に赴き、夫れより十二月上旬長崎に帰着せらるゝ予定なりしが、出発前図らずも気管枝加答児に冒され、間も無く全快せられたるも、時恰も寒冷の候に迫り、朝鮮北満の寒気或は先生の健康上如何あらんかの懸念より、高木兼寛博士の切なる勧告ありて遂に中止するに至りしものなり
   青淵先生の参内
 先生已に意を決せられたれば、四月廿九日午前十時三十分宮中に参内して、侍従職を経て旅行の御暇乞を言上せられたり。
   駐日支那公使陸宗輿氏の厚意
 先生這般の献身的旅行に対して、種々の方面より多大の厚意を寄せられたるが、駐日支那公使たる陸宗輿氏は、先生の出発に先立ち、其中央政府に先生紹介之書面を発し、尚万一の場合を顧慮して、左の護照を○写真版略ス。 発して先生に送られたり。
   銀行集会所の送別午餐会
 東京銀行集会所にては、先生の此行を送らんが為め、五月一日正午
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銀行倶楽部に於て午餐会を開き、送別の意を表されたり、出席者六十有余名、発起人総代池田謙三氏の挨拶に次ぎて、先生は深く会見の好意を謝し、且つ余が支那漫遊に就て世間種々の揣摩臆説あるが如くなれども、余は居常私淑する孔子の廟に参拝し、兼ねて多年親しみたる漢籍によりて見聞せる山川風物を実地に視察せんとする外他意なし、唯実業方面に於ては此程成立したる中日実業会社に対して、余は創立者たり、且同社は始め南方の人々と協議して日支実業の提携連絡の為め成立したるものなるが、其後変遷して今や北方の株主をも多数包容するに至りたれば、因と南方の志士と事を起したる関係上、其間多少にても誤解の存する事ならんか、将来同会社事業の進捗上障害を与ふる事なきを保せざるを以て、此際支那の大官・紳商其他と交驩して、充分其誤解を洗滌し、且つ将来の親善を計らんとするに在る云々と答辞を述べられ、主客十分の歓を為し午後三時散会せられたり。
      青淵先生随行員及同行者氏名
       随行員
                 令息 渋沢武之助君
        第一銀行営業部副支配人 明石照男君
                秘書役 増田明六君
              第一銀行員 大沢正道君
                 医師 堀井宗一君
           中日実業会社社員 野口米次郎君
                    堀江伝三郎君
       同行者
          大日本麦酒会社社長 馬越恭平君
        同社総務掛長(右随行) 仲田慶三郎君
         東洋生命保険会社社長 尾高次郎君
          同社秘書(右随行) 辻友親君
             朝鮮銀行理事 三島太郎君
     但三島太郎氏は上海に来会し、先生に請ふて同行するに至りしものなり
   出発
  五月二日 土曜 晴後雨
 午前八時三十分急行列車にて新橋を発す、倉知鉄吉・今西兼二両氏は平沼迄、浅野総一郎氏は国府津迄、又益田孝・渡辺嘉一・森格の三氏は平沼より乗車国府津迄、孰れも同車して先生を送りたり。
 益田孝氏国府津にて別かるゝに臨み、左の一句を詠み先生に送られたり。
   渋沢男爵の支那に行かるゝを送りて
  ふみにのみしたしまれつるもろこしに
       あそふはいかにたのしかるらん
 午前九時六分平沼駅に着す、横浜の左右田金作氏及渋沢商店渋沢義一・桃井可雄の両氏、及店員諸氏停車場に在りて先生を迎送す。
 横浜の増田嘉兵衛氏当年八十歳、先生と旧知の間柄にあり、此地より同車して名古屋に至る。
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 正午静岡駅に着す、尼崎伊兵衛・森理七等の諸氏先生を迎送す、第一銀行清水百太郎氏先生を迎へて、此処より同車し名古屋に至る、浜松・豊橋を過ぎて午後四時八分名古屋に到る、第一銀行諸氏及伊藤伝七・斎藤恒三の諸氏迎送す。
 同五時大垣に着す、大阪に於ける新聞記者乗車、先生に支那旅行の目的及時事問題に関し問ふ処あり。
 同七時三十二分京都に着す、第一銀行中川知一・片野滋穂両氏以下行員諸氏、及中井三郎兵衛・舟坂八郎の諸氏迎送す。
 同八時二十五分大阪に着す、第一銀行熊谷辰太郎・野口弥三・竹村利三郎・田中猛・飯塚八平の諸氏を始めとして、本山彦一・今西林三郎・岩下清周・岩本栄之助・栗山寛一の諸氏等迎送を為す、熊谷・野口・岩下の三氏は同地より同車して船中迄送られたり。
 同九時十分神戸三宮に着下車す、第一銀行杉田富・藤森忠一郎・井上徳治郎の諸氏以下行員諸氏を始めとして多数の出迎あり、神谷忠雄氏神戸に旅中に在り又来会す、東洋汽船同地支店長伊藤氏の案内にて出迎の諸氏と共に直に波止場に到り、同社より特に廻送せられたる小蒸汽船に搭乗して、地洋丸に移乗したるは午後九時四十分、乃ち喫煙室に於てシヤンペンの杯を挙げ、見送りの諸氏と別れを告げ、喇叭一声同地を解纜したるは正に十一時なり。
 山下亀三郎氏長崎に商用あり、神戸より同舟の人となる。


竜門雑誌 第三一七号・第四一―四八頁大正三年一〇月 ○青淵先生支那紀行(三) 増田明六(DK320024k-0005)
第32巻 p.503-508 ページ画像

竜門雑誌  第三一七号・第四一―四八頁大正三年一〇月
    ○青淵先生支那紀行 (三)
                      増田明六
  五月三日 日曜 晴
 目覚むれば天気晴朗にして、海上平穏、加ふるに瀬戸内海の勝景指顧の間に点在し、壮快云はん方無し。
 中日実業会社創立総会に支那側株主を代表して出席したる支那周金鍼氏・孫多森氏等の一行亦船中に在りて、青淵先生と能く談す、孫多森氏囲碁を能くす、先生の勧に依り一行の尾高氏と対局す、尾高氏の力優に三目を彼に抜けり、午後一行はデツキビリヤード・輪投等に時を費す。
 午後四時半関門海峡を通過す(此際第一銀行下関支店長西条峰三郎氏、遥に一丘陵に上りて青淵先生の万歳を唱ひたる由後に聞知せり。)
 夜上甲板に於て活動写真の催あり、総て外国人嗜好の筋書にて、予等には一向感興も起らざりしが、外国人は屡々拍手喝采したり。
 此日瀬戸内航海中、青淵先生宛上海総領事より、来六日夜先生及一行を日本人倶楽部に請し、支那有力者紹介旁居留民有志にて晩餐を饗せんと、又長崎市長より来四日同地高等商業学校生徒の為めに演説を請ひ、且同市有志者の午餐会に是非出席を請ふ旨の無線電信あり、先生には孰れも其厚意を感謝し、且承諾の意を返電せられたり、夜玄海灘航海中、阪谷男爵より先生海上安否問合の無線電信あり、即時海上静謐健康益良好の旨返電せられたり。
  五月四日 月曜 晴
 - 第32巻 p.504 -ページ画像 
 午前七時長崎に投錨す、同地有志諸氏小蒸気を以て出迎に来る、即ち船中にて朝食を了り、諸氏の案内に依りて上陸し、直に車を連ねて同地高等商業学校に到り、校長山内正瞭氏の先導にて校内を巡覧、茶菓の饗を受け、後学生に対し青淵先生より大略左の演説ありたり。
   青淵先生の演説大要
  世間では予の今回の旅行を目して、実業上の利権を獲得する為であるとか、何とか種々の説を為す者がありますが、決して左様なことはないのであります、只本年日支両国人合弁事業として、中日実業会社を彼国人と共に発起設立したる縁故より、彼地に行つたら其将来の発達に就て関係ある人々と話して見たいと思ふに過ぎないのであります故、此度の支那旅行に付ては、特に爰に述ぶる種も無いのであります、そこで今日は将来実業家たらんとせらるゝ諸君の御参考にもならんと思ふ事を、一言述て置きたいと思ひます。
 度々種々の席で申述ることでありますが、予等の若い時の実業教育は、極く古く簡易なものであつたのであります、維新後は欧風を学んで稍新しい学問が輸入せられましたが、主に政治方面にのみ傾いて、実業界の人々は其時分には殆んど教育を受けない者のみであつたので御座います。然し此有様では到底国家は立つて行く事は出来ない、昔の東洋的教育で、所謂君主が英明にて善政を行ひ、人民が帝の徳に依り其命に従ふて居れば足ると言ふのであればそれでよいのであるが、世界の今日の有様はさうでは無くて、一国民の多数の富が増さなくてはならぬのである、トルコやシヤム等の様に、一部の国民が富んで他の者は奴隷視される様では、決して富強の国たる事は出来ないのであります、君主政体の国であらうが、共和政体の国であらうが、斯る有様では決して健全なる発達をなす事は出来ぬのであります、そこで日本も之に鑑み先づ大に教育を興したのであるが、政治の方面のみに傾いて、実業の方面は余り顧みられなかつたのであります、漸く明治二十年頃に東京に実業教育らしいものを授ける学校が出来て、それ迄は日本の実業教育と言ふものは、全く度外視されて居たので御座います。
  それから十数年の後東京高等商業学校と言ふ名になり、続て各地に商業教育の盛になりましたのは極く最近の事でございますが、今日では東京・神戸・大阪・御当地・山口等に於て高等の商業教育が施されつゝあり、又甲乙種の商業学校が四十に近く、又私立の分も随分少くないよふになりましたのは、大に喜ぶべきことで、如斯実業教育が進むにつれ注意しなければならぬのは、智識の方面の教育と同時に、精神の方面の修養を怠つてはならぬと言ふことであります、即一言で言ひますれば、商業道徳の基礎が丈夫とならねば、堅実なる発達は、むづかしいと云ふ事であります、実業家・学者・軍人・政治家たるを問はず、道徳は人道でありますから、誰しも心得ねばならぬのであります、就中実業家の側に於て最も注意を要すと思ふ、蓋し商業は非道徳に傾き易い、それは商業界に特に誘惑が多いからであります、尤も誘惑と言ふものは誰にもあるが、実業家と最も関係が深い故に、古い教にも慥か孟子の中であつたかと思ひま
 - 第32巻 p.505 -ページ画像 
すが「仁を為せば則ち富まず、富めば則ち仁ならず」と言ふ意味の事があるし、又欧羅巴の教にもアリストートルと言ふ人は「総ての商業は罪悪なり」とまで喝破して居ります、本、富と云ふものは自分が得る事が第一の目的である、是が為には如何なる手段をも選ばぬと言ふ事になれば、非道徳に陥り、罪悪と迄極言せらるゝに至るのであります、如斯商業家と言ふものは非道徳に陥り易いのでありますから、諸君は大に心すべき事であると思ひます。
  僅々四十年間を以て、政治に軍事に実業に大に教育は盛となりましたが、皆多くは物質的教育であつて、幾分精神教育も加味せられては居りますが、多く物質的に注入せられるからして、その方にのみ心が奔ると言ふことになる、以前一緒であつた仲間の人々で、或人は支配人となり、又或人は大なる富をなしたと言ふことであれば多くの人がこれを羨望する、その羨望が軈て大なる誘惑となる、友達が悪い方面に誘惑するのは他人がする誘惑であるが、羨望の為に生ずる誘惑は自分から起す誘惑であつて、その害最も甚しいものであります、それ故に如斯誘惑の多い実業界に立つて行かうとする人人は、毅然として之に打ち克つの覚悟が無くてはならぬ、それでなければ、実業教育というものは却て誘惑の教育となつて、其真の目的というものは達し得られない事になるのであります。
  私は明治六年より実業界に入つて、今年で四十二年になります、始めて第一銀行に従事し、不肖ながら其時から首脳に居り、今日でも頭取で居りまして、お恥しい事には四十年間少しも変らないのであります。私は随分古い人間でありますが、同時に私程日本の昔の有様を知つて居るものは無いと言ふも、過言ではなからうと思ひます、その頃軍事は軍事に長けた人、又教育に外交に各其人があつたのであります、然し実業界には其頃誰も居らず、所謂世界を股にかける商業は、発達する能はざる状態にあつたのであります、私は海外に旅行し、稍文明的商業を発達せしむる事が出来るかと思ひまして、四十年間実業界に身を委ねて居たのであります、私一個としてはその間に少しも発達せず昔の儘で居りますが、日本の実業界は昔の比ではなく、実に驚くべく喜ふべき状態に立到つて居るのであります、御当地には明治十年、三十年《(三十一)》、三十三年と参りまして、いつも前回に参りました時に比し発展して居るのを感じましたが、今日にては大なる発展を遂げて居る様に思ひます、長崎丈でも然うであります、他の都市に於ても大に発展せるものがあるのであります、物質的にはその様に著しい発展を致して居るのでありますが、精神的には如何、之も亦共に進歩せりと断ずるには大に躊躇するのであります、これは何人も是認する処であらうと思ひます、近時日本の中心たる東京に於て種々の不祥の事件が発生致しましたが、これは国民として、特に教育家として大に注意すべき由々敷き大事であると思ひます。
  長い事を申せば限りがありませんが、何卒今の学生諸君、所謂第二の国民たる諸君は、智識の点に於てのみならず、精神の強固と言ふ事の切に大事なる事をお考へになつて、此点に十分御注意あらん
 - 第32巻 p.506 -ページ画像 
事を希望する次第であります。
右終り、再度車を連ねて長崎聖堂に詣づ
  聖堂は新大工町に在りて、孔聖以下七十二弟子を祭る、古書に依れば正保四年儒医向井元舛氏、幕府の許可を得て学問所を東上町に刱建したるもの即聖堂の起因にして、向井氏世々祭酒たり、宝永四年幕府地を旧銭座跡に賜ふて今の地に移転せしむ、孔聖の像は唐より齎らし来りたる銅像にして、正殿に掲ぐる万世師表の扁額は、乾隆帝の勅書なりとあり
大門・欞星門・大学門・聖廟・明倫堂を存すれども、今や孰れも殆ど頽敗せん計りの状態に在り。
 夫れより迎陽館に青淵先生招待午餐会に出席す、発起人総代三井銀行支店長福田秀五郎氏の挨拶に次ぎて、青淵先生の答辞あり、発起人諸氏の款待至らざるなく、乗船以来洋食に飽きたる一同は、長崎料理に舌鼓を鳴らして厚く其厚意を謝したり。
 当日発起人諸氏は左の如し
正金銀行支店長高道竹雄氏・三井銀行支店長福田秀五郎氏・日本商業銀行支店長田阪正生氏・三井物産支店長荻田延次郎氏・日本郵船支店長小松辰吉氏・大阪商船支店長柿井田泰治氏・三菱造船所長塩田泰介氏・三菱会社支店長三谷一三氏・長崎電灯専務取締役古賀春一氏・汽船漁業会社同倉場富三郎氏・喜久屋商会支配人松本梅三郎氏・十八銀行支配人野口孝太郎氏
  此日先生には、同市在住支那人商務総会よりも午餐の饗に招かれたるも、時間に余裕無きを以て特に令息渋沢武之助氏を使として遣はされ、其厚意を謝すると同時に、出席し得ざる理由を述べしめられたり。
 右終り、塩田所長の案内にて三菱造船所を参観す、先つ飽の浦に於て、附属事業として経営せらるゝ工業予備学校に至りて生徒の兵式体操を見、次ぎて各教室を参観して、造船造機の職工を養成する状況を見て同所の隆盛亦偶然に非ざるを知り、夫れより機械工場・鍛冶場・造缶場・鋳造場等を見、立神造船所に於ては鉄工機械場・鍛冶場・フレート及アングルフアーネース・橈盤場・現図場・形取場・木工場・大工場・鉋場・鋸場等を同氏の詳細なる説明の下に一覧し、後小蒸気に搭乗して遥に小管船渠を望み、午後三時半帰船したり、因に
  三菱造船所は、飽の浦及立神に亘れる工場を総したる名称なり、安政三年徳川幕府和蘭より技師を聘して、飽の浦に船舶修繕所を起したるもの即飽の浦造船所の起原にして、明治四年工部省所管に移り、立神に船渠を築造したるもの即立神造船所の起原なりとす、同十七年三菱会社が工部省より工場全部を借受け、同二十年之が払下を受けしより鋭意拡張に勉め、今日に於ては立神船渠は延長五百二十三呎を有し、優に一万噸の船舶を入るを得せしめ、又飽の浦船渠は更に大なる延長七百二十八呎九吋を有し、現時東洋に於ける船艦にして入渠し能はざるものなく、真に東洋第一の大船渠を以て称せらるゝに至れり、而して現在従事役員六百名、常傭職工七千人、使用総坪数十四万坪余、海岸線の延長実に千三百五十間の長さに及べ
 - 第32巻 p.507 -ページ画像 
りと云ふ。
 午後四時多数見送人の厚意を謝しつゝ同地を出帆す。日清汽船会社専務取締役白岩竜平・同社漢口支店長角田隆郎の両氏長崎より乗船同行の人となる。
 神戸より同乗したる山下亀三郎氏一行に別れて上陸す。
 此夜在上海東京高商同窓会より五日夜歓迎会に先生以下一行を招待したしとの無線電信ありしも、本船は同夜半着六日上陸の予定なりしかば、其厚意を謝すると共に此旨を返電したり。
 門司須永登三郎氏外諸氏より、先生の健康を祈る旨の無線電信あり一々答電を発す。
 上海総領事及三井物産小田柿支店長宛無線電信を発し、上陸後の宿泊所其他に関し種々依頼を為す。
  五月五日 火曜日 晴
 終日海上に在り、天気快晴にして風浪無く、陸上に在るに異ならず先生以下一行元気旺盛なり。
 此日船長より、特に先生の希望あらば速力を早め、今夜上海に上陸し得る様すべしとの懇談ありしも、先生には既に六日朝上陸する事と為し上海にも通知したる事なるを以て、篤く其厚意を謝するも、特に速力を早むるに及ばざる旨を答へられたり。
 青淵先生には同船石井機関長・小沢一等運転士・小池事務長の依頼に応じ、船中にて数葉の揮毫を試みられたり。
 夕景舷頭に出づれば、碧緑の海水は揚子江より流出する黄濁の河水に圧せられて黄海に変せり、濁波を蹴りて崇明島(長四十哩幅五乃至八哩、住民五十万を有す、十四世紀頃には未だ水面に現出せざりしと云ふ)を右に眺め、呉淞港に到着して投錨したるは午後九時半なり。
  呉淞港は、上海の門番所たるに過ぎざる一小部落に過ぎざるも、黄浦江の揚子江に会する地にして、上流十二浬に上海を擁し、同地に溯江する事能はざる大船舶は皆此の地に仮泊するを以て、其名は往昔より人口に膾炙せり。
  五月六日 水曜 晴
 早朝上海在住邦人及支那官民諸氏多数の出迎人甲板に充満す、青淵先生には七時朝食を了し、船長以下に別を告げ、又総領事代理村上義温氏の紹介にて出迎の人々に挨拶を為し、同氏及書記生西田耕一氏・三井物産支店長小田柿捨次郎氏等の案内にて、特に廻送せられたる小蒸気に乗じ、江を溯る十二浬、二時間にして上海に進み、左に浦東を臨み、右に上海市街の東端楊樹浦を眺め、我が三井の経営に属する上海紡織会社の盛況を顧み、九時半上陸して、直にアストル・ハウスに投宿す。
 前日より此地に外国人競馬の催あり、来会者甚だ多く同ホテルの雑沓一方ならず、領事館の予めの厚意に依りて一行漸く数室を得て合宿したり。
 午前中青淵先生は来客の応接に忙敷、午後は渋沢・明石両氏と共に西田氏同伴、日本総領事館・盛宣懐氏・鄭観察使等を訪問して到着の挨拶を為す。
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 他一行は打連れて仏租界・李鴻章銅像・愚園新公園・六三公園等を巡遊す。
 午後六時青淵先生以下一同、在留邦人有志者の催に係る日本人倶楽部の歓迎会に招かる、一同燕尾服にて乗り込み、来会の邦人及支那人と互に握手を交換したる後、食卓(洋食)に就く、総領事代理村上義温氏座長として歓迎の辞を述べ、続て青淵先生は起ちて感謝の意を述べ、且此処に在留同胞諸君の厚意に依りて民国の有力なる官民諸氏と会したるを喜ぶ、此中には嘗て高名を聞き、又は親敷談話を交換したる人々もあるが、此機会に親敷面談するは予の光栄とする処なり、予は少年時代より日本古風の教育を受け、支那の学問に付て聊か研究したるが、就中孔孟の教は今に至る迄尚勉めつゝある関係より、嘗て書籍に於て読みし古蹟風光等を羨慕し、爾来幾度か旅行を企てしも遂に成らず、漸く今度其目的を達し玆に諸君と会見するに至りしなり。
 元等予等の支那に願ふ処は、単に教育に於けるのみならず、国家としても相当願ふ処ありと信ず、古来緑因ある中日両国は、互に提携して進まざるべからざるは、単に予一個の意に止まらず、恐らく民国の諸君も同感ならんと思考す。
 民国も昨年来政治上の変動ありし結果、聊か実業を閑却したる傾きなきや、既に天の時を得、地の利を有する民国の諸君は、更に人の和を得れば其結果果して如何、其利益果して如何にや。
 諸君の知らるゝ中日実業会社も既に組織せられたれば、両国の親善は今や文字に政治に教育に、将亦実業にも更に一歩を加へたるものなり云々と結び、西田耕一氏熱心に之を通訳す、拍手頻に起る、次に上海商務総会副会頭貝潤生氏・紅十字総理沈仲礼氏・観察使代理交渉使虞汝釣氏の演説あり、何れも異曲同工、熱心に中日の親善を鼓吹して拍手屡々堂を圧す。
 席上余興場の設けありしも、折柄御大喪中なりしかば、単に背景を示したる丈に止められたり。
 午後十一時頃散会せり。


禹域従観日記 初稿・上篇第一―七丁(DK320024k-0006)
第32巻 p.508-510 ページ画像

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竜門雑誌 第三三六号・第八一―八九頁大正五年五月 渋沢男爵支那漫遊中の演説及ひ談話の梗概(DK320024k-0007)
第32巻 p.510-517 ページ画像

竜門雑誌  第三三六号・第八一―八九頁大正五年五月
    渋沢男爵支那漫遊中の演説及ひ談話の梗概
      小引
 渋沢男爵閣下 余は閣下の支那漫遊中に於ける演説及び談話の梗概を記述する光栄を負ふに当り、予め閣下の宥恕を乞はんと欲するものあり、蓋し閣下の言辞たる諄々として説き、娓々として語り、而も抑揚あり照応あり、一世の大文章たるを失はず、されば其通訳に任する者即座に之が要領を捕捉して他国語に訳述せんとするも、皆流汗淋漓、苦悩せざるもの稀なり、況や爾来数ケ月を経過せし後に於て之を記憶に喚起して、以て光彩陸離の言辞を伝へんとする此一
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篇の如きは所謂木に縁りて魚を求むるの類と謂はざる可からず、余生来菲才にして頃日特に文辞に親まず、拮屈贅牙の文寧ろ閣下の真意を誤り記するなからんを虞る
 閣下が月余に亘りて縷々説述せられし千言万語は、錦玉の辞たるを失はずと雖も、要は閣下の年来唱道せられたる論語算盤の主義を敷衍せられしのみ、孔夫子の道が忠恕を以て一貫せらるゝ如く、閣下が支那の人心を刺激し来られしものは、唯閣下の操行に過ぎざるなり、何者も奪ふ可からざる主張をば、赤裸々に吐露せられたるに在り、而も一の廬山は看る処によりて其の形を異にす、閣下の如き偉大なる人格の発露が、時と場合とによりて千態万状の観をなすもの素より論なき所なり、人を見て法を説く、豈に啻に宗教家のみなりとせんや、此の如き多趣多様の言辞につき一々其の妙諦を描写するは、これ亦余の能くする所にあらざるなり
 閣下は這回の遊歴を称して、一の漫遊に過ぎずとなせり、或は一中日実業公司なる会社の為め、之が産婆役を勤むるに止ると弁せられたり、夫れ然り、豈夫れ然らんや、其位は魯国の太夫に出でずして轗軻不遇に終りたる孔夫子の徳風が、数千年の久しき東洋の思想界を支配することを回顧せば、閣下の此行が、啻に水雲の媒のみならず、又単に中華の企業を慫慂し来るに止らず、実に隣邦同胞の覚醒を促し、其の道義心の発展に資すること多大なる、思惟せずむはあらず、蓋し人は棺を蓋ふて定る、余の感想の誇大に失するや否は、後世の史家に一任して可なり、然りといへども余が此企望の如きは椽大の筆にして始めてこれを後世に伝へ得べきなり、然るを、余が其才に非ずして徒に其重に任ず、心に顧みて自ら忸怩たらざるを得ず、若し此記事にして閣下の言辞の片鱗をしも画き得るとせば、余が望外の幸と言はむのみ
  大正四年一月五日         摂州御影にて
                     明石照男

    渋沢男爵支那漫遊中の演説及談話の梗概
 出発車中
  大正三年五月二日 土曜日
午前八時半、見送人の波に額きつゝ新橋を出発す、沿道重なる駅次には亦見送の人十数名あり、名古屋辺りより新聞記者の連中車内に侵入して絶間なし、問ふ処は主に這回旅行の目的なり、男爵は一々懇ろに『唯一扁の漫遊に過ぎず、中日実業会社の用務を帯ぶるも、これ唯其関係者の一人として実地の見聞をなさんと欲するのみ、露骨に謂はゞ風流七分経済は三分位なるべきか、然るに近時支那に於ける英字新聞は、余の此行を以て利権を獲得せんが為めなりとなす、人を誣ゆるも亦甚しと謂ふべし云々』と述べられしも、これは後に各処の演説に詳述せられしものなれば、委しくは其場合に於て記述することゝなすべし、現下の経済界の救済策に関しては『寧ろ自然に放任して、静かに其成行の如何を観察するを可とす、外債募集の如きモルヒネ注射は断じて其可なる所以を知らず云々』と、進んでは政府財政々策の批評、
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大隈内閣成立の事情など談論風発の中大阪に着きぬ、大阪及び神戸にては見送人も殊に多く、雨降り来りて混雑謂はん方なし、地洋丸船上三鞭酒に鹿島立ちを寿きて後、錨の解かれしは午後十一時を過ぎぬ
 船上
  五月三日 日曜日
早朝船は静かに来島瀬戸を通過せり、穏かなる航海を続けつゝ、馬関海峡を過ぎて外海に出でしは午後四時なり、玄悔灘も風波極めて静謐なり
 長崎寄航
  五月四日 月曜日
目醒むれば船は既に長崎港内に在り、此地の高等商業学校の懇請を容れ、午前十時同校生徒三百余名に対して一場の講演あり、先づ商業教育並に同校との関係の存する次第より説き起されて後
 凡そ人たるものは志は大に気は小ならざる可からず、自己の希望が遠大なるべきは論を待たざれども、其の日常の行動は極めて着実真摯なるを要す、而して人世の行路には誘惑甚だ多くして、動もすれば之が為めに失墜するに至る、而も外部の誘惑は之を看破し易く、又防禦するに難からざるも、内部の誘惑に至りては、居常細心の注意を払ふに非ずんば折角の努力の水泡に帰することも稀なりとなさず、内部の誘惑とは他に非ず、自己、自己を誘惑するの謂なり、即ち自己の慾望・驕慢心・空想・野心等の為め、企画し得べからざるものを得んとし、到底達する能はざる処に行かんとすることこれなり、人間の失敗はこれに因すること多く、誠に慮るべく慎むべし、余は既に四十余年間第一銀行の頭取と云ふ同一の職務に従事するものなるが、此の年月間終始一貫業務に励精したる所以のもの、一に自己の操行を保持したるが為めのみ、余の所謂内部の誘惑に打克ちたるが為めのみ、今や時勢は有為着実なる青年を要するや頗る切なり、諸子が他日経済界に活動せらるるに当りて、幾多内外の誘惑に迷はさるゝことなく、能く自己の良心を琢磨して、日に新に日々に新ならんことを望む
と凡そ四十分間平易にして親切なる教訓を与へられたり、頽廃せる孔子廟を参拝して後、迎陽亭に於ける歓迎午餐会に臨む、重なる実業家二十余名の開催にかゝる、三井銀行の福田秀五郎氏挨拶を述べて曰く『先年男爵の率ゐられし渡米実業団が、日米の親交に多大の貢献をなしたりと聞く、此の度の支那漫遊も亦同一の効果を見るは、今より期して待つべし』と、之に対し男爵は懇ろに謝辞を述べられて後、徐ろに
 予の渡支の目的たる凡そ二なり、一は観光の為めにして、他は中日実業会社の為めなり、予は少年時代より漢学を以て薫陶せられたれば、支那の名勝古跡に対しては多年憧憬の念に堪へず、且つ常に孔子を尊崇し論語を以て処世の経典となすが故に、行く行く各地の風光を観賞して後、曲阜の聖廟に参拝せんと欲す、この希望たる既に久しき以前よりのものなるが、常に俗務に忙殺せられて其意を得ず頃日少閑を窃みて多年の翹望を果さんとするに過ぎず、次に中日実
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業会社の用件は、これ単に附随のことに属す、先年第一革命成立の後孫逸仙氏の我国に来遊するあり、予は此機を捉へて彼に慫慂し、彼と共に日支合弁の組織を以て一の企業会社を組織せり、是れ即ち中国興業会社なるものなりしが、間もなく第二革命の勃発するあり為めに孫氏は亡命の人となれり、之より先北京政府に於ては、此会社に対して青眼を放ち、其の真相を確知せんとて、孫宝琦・李盛沢の二氏を派遣せしが、余等の眼中には素より北方もなく、南方もなく、全く政治的意味を離れたる両国民の実業的提携によりて、支那の物資開発に努力せんとするのみなれば、勉めて此等の事情を来遊の二氏に説明するに際し、二氏は自国の戦乱再発の為めに匆惶帰国せり、かくて会社の成立も一頓挫を来せしが、去秋時の総理熊希齢氏より我が山座公使を経て、日本実業界の代表的人物の来訪を得て之によりて以て中国興業会社其他の要件に関し日支間に於ける実業方面の聯絡を計りたしとの旨を、我外務省に申し来り、外務省は予に交渉ありたれば、予に於ては所謂渡りに船と思ひて直ちに快諾を与へたり、然るに当時予は病の為め渡支する能はず、已むなく倉知氏北京に出張し、他方に於ては東京に亡命せる孫氏と協議して、氏が会社との関係を絶つ事とせり、かくの如くにして北京政府との意思は漸次疏通し、袁総統の幕僚の一たる楊士琦氏が会社の総裁たるに至り、会社の定款を修正し、其名称も中日実業会社と改めて、去る三月廿五日完全に成立するを得たり、然るに此会社に対して、各国は勿論、支那各地の有力者に於ても、今猶猜疑の眼を以て之を観察するのみならず、動もすれば悪声を放ちて前途を妨礙せんとするものあり、今や会社は漸く各種の事業に着手せんとするを以て、此際支那各方面の人士と接衝して其由来を詳説し、会社の目的は日支実業の聯絡を鞏固にし支那の富源の開発に資せんとするに在ることを、闡明せんと欲して渡支する次第なり、近時支那に於ける英字新聞が、予の旅行を以て利権獲得の為めなりと称し、殆んど三日に挙げず罵詈誹謗を逞うするは、誤解も亦甚しと謂ふべし、之を要するに這回のことたる一の漫遊にして、支那の風景を遊覧すると同時に中日実業会社の産婆役を務めんとする訳合なり、従来長崎は支那との交通頻繁にして、其関係も亦密接なり、若し此行日支実業の発展に資するあらば、これ予の満足する所なり、玆に諸君の御好意に対して、予が旅行の目的を開陳し、併て諸君の優待を感謝す
と詳細に旅行の理由を説明し、呉れぐれも誤解なからんことを要望せられたり、饗宴終りて後三菱造船所を見物し、午後四時乗船、直ちに出帆、五島沖を通過して日暮れぬ
 船上
  五月五日 火曜日
船は終日西に向ひて馳せり、一天晴れて風波なく、蒼海はさながら明鏡の如し、一同幸ある航海を悦びつゝ雑談に耽り、さては白岩竜平氏の支那談など傾聴しぬ、予定より早く夜九時過既に呉淞沖に投錨せり
 上海第一日
  五月六日 水曜日
 - 第32巻 p.514 -ページ画像 
未明多数の出迎人上海より来りて、甲板上の混雑謂はん方なし、やがて小蒸汽船にて黄浦江を溯る、上海に上陸「アストル・ハウス」に着きしは十時過なり、此処にも内外の来訪者数多あり、此人々の去れる後、男爵は「チヤイナ・プレツス」の「ブレース」氏を引見して一時間余会談せられたり。
 記者「上海につきての感想如何。
 男「予の上海の地を踏みしは今回にて三回目なり、第一回は今より四十八年前徳川家の公子に随従して仏国に赴くの途上立寄り、第二回は三十七年前或実業上の用務を帯びて来りたり、現時の光景を一瞥して当時を回想するに、真に隔世の感あり、三十七年前にありては、かくの如き大厦高楼も街路も橋梁もなく、又市街電車も自働車も一としてこれなかりき、唯逝く水は濁流滔々として今も昔に変らず。
 記者「男爵の支那来遊の目的得て聴くを得べきか。
 男「予が支那に遊ばんと欲せしは、一朝一夕のことにあらずして、這回の旅行も殆んど一年前より企画し居りたり、而も予の此行や断じて利権獲得運動の為に非ず、英字新聞が囂々として論難するは人を誣るも亦甚しと謂ふべし、此旅行は単に観風の行楽のみ、予の教育、予の信条、これ予が孔子の聖廟に参拝せんと欲する動機にして同時に主要なる目的に外ならず、更に第二の目的として中日実業会社の要件を帯ぶるも、これ唯北京に於て支那の官憲並に関係者と懇談せんと欲するに過ぎず、豈他意あらんや。
 記者「長江沿岸に於ける日英の利害は、動もすれば衝突すと謂ふ、男の所見如何。
 男「予は日英同盟の継続を喜悦する者なれば、日英両国の利害が支那に於て相背馳するの言を耳にするを遺憾とす、或論者は日英同盟は単に政治上の同盟に過きずとなせども、是れ甚しき偏見なり、日英同盟は単に政事上の同盟たるに止らず、同時に経済上の同盟たらざるべからず、英国の長江流域に於ける勢力の広大なるは論を待たざれども、而も同盟国双方に於て利害の衝突を来さゞる限りは、相互に譲歩して共に利益する所ありて可なり、若し日本にして英国と協同して長江流域に事業を経営するを得べしとすれば、吾人は決して之をなすに躊躇するものに非るなり。
 凡そ一国の発展進歩を企図するに当り、経済上必要なる要件三個あり、一は天与の富源にして、二は資本、三は智識及経験これなり、支那は無限の富源を有し、英国は豊富なる資金を有し、而して日本は支那に関する智識経験に富める人士済々たり、之を以て日本は支那の富源開発に関しては此の如き人士と材料とを提供して、以て英国の資本と協同することを企望して已まざるなり。
 記者「御高見は面白く拝聴せり、猶ほ現下の支那の状勢につきて更に何等かの御所見なきか。
 男「曰く、大にあり、支那の制度文物の改革すべきもの蓋し尠少なりとせず、而も急務中の急務は何ぞやと謂はゞ、実に財政を整理することこれなり、財政にして鞏固安全ならずんば、国運の進捗得て
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望む可からざるなり云々。
更に大隈内閣が日本現下の時勢の要求に出でたることなど、一二の雑談を聴きたる後、記者は辞し去れり
午後男爵は、領事館に刺を通じて後、先づ盛宣懐氏を訪問せらる、寒暄の挨拶よろしく終れば、大隈内閣の成立や井上・松方二侯の近状や又大隈伯の百二十五歳説や、会談はそれよりそれへと滾々尽きざるものありしかど、盛宣懐氏の疲労漸く甚しきを観取せしにより、其説を尽さずして談話を止めたり、此会談は素より偶然の座談に過ぎざるも日支両国が一致協同して事業を経営せざる可からざることは、彼我の意見符節を合するものあり、猶少しく井上侯よりの伝言もあれば、他日更に会同して委曲を尽したしとて、其日時を約して辞し去りぬ。
次に民政長兼交渉使虞汝鈞氏を訪ふ、初対面の挨拶ありて後、渡支の目的及道程などを述べ『天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かざれば、日支両国は和衷協同の実を挙げざるべからず』と論ぜられたり。
次には鎮守使鄭汝成氏を訪ひ、氏が経済的発展の国家興隆の第一要義たるを説きたるに対し『軍人にして此言あるや頗る我意を得たり』と答へられたり。
夜は七時より日本人倶楽部に於ける居留民有志の歓迎会に臨む、会するもの此地在留の重なる日支両国民凡そ百二三十人、宴酣なる頃ほひ村上領事代理起ちて曰く
 渋沢男爵は日本実業界の元勲にして、日本の財政の鞏固なる所以、其経済の振興する所以、男爵の力に待ちたるもの尠しとせず、今や男爵は七十余歳の老躯を提げて、中日実業の関係を増進せんとして中国遊歴の挙を敢てし、途上我が上海に来られたり、惟ふに支那実業界の現状は、恰も日本維新当初の状態に髣髴たり、故に此際支那の諸士にして経験に富める男爵と一堂に会し、共に共に支那実業の前途につきて会談するあらば、其利益蓋し多大なるものあらんか、而して各地の実業家も亦之に做ひて、相共に支那実業の発展並に両国々交の親密を企図せんか、之に因りて以て所謂唇歯輔車、同文同種の効験を現実にするを得べく、復以て東洋永遠の平和を確保するを得べし
と述べて男爵の健康を祝し、且つ前途の旅行の安全を祈りたれば、男は席静まるを待ち徐ろに起ち
 予の此行や唯一の漫遊に過ぎず、然るに此の如き盛宴を張りて歓迎の意を致さるゝは、感謝の辞尽し難し、且つ支那官民の重要なる人士と此一堂に歓晤するの栄を得たるは、欣喜これに過ぐるものなし
と謝辞を述べ『上海に遊ぶこと今回を合せて三回、今や上海は面目一新し、当時の面影の更に残るなく真に夢の如し』と往時を追想し、進んでは這回の旅行の二大目的を詳述しつゝ曰く
 予は青年時代より好んで漢籍を渉猟し、漢学を研究せり、而して孔孟の学は予の最も重んずる所、修身斉家治国平天下の教は予の一生の規矩とする所なり、されば支那に遊ぶの志望は夙夕絶えざりしに今や親しく曲阜に詣でゝ其古跡を観、又聊か風流韻事に耽るを得る
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幸何ぞ之に如かん。
又中日実業会社に関しては
 予は今日に至るまで、個人としては支那との交通に関係を有せざるも、日支実業の関係を密着せしむるは予の素志なり、而して今や此会社の成立により両国交誼の親密、両国実業の発展に貢献するものあるべし、顧れば日本と支那との関係は既に二千年来の事に属す、而も政治・文学・美術以外更に実業方面の関係を進捗し、両国共同の利益の増進を企図せざるべからず、某々新聞紙が予の此行を以て利権獲得の目的に出づとなすが如きは、取るに足らざる妄説のみ。
と弁じ、猶更に
 予は多年日本の経済界に微力を尽し、幸に其発達に幾分の貢献をなすことを得たり、而して予は孔夫子の教を遵奉するものなりとせば日支両国実業関係の増進の為め一臂の力を仮すは、予の義務なることを確信す。
と断言せられて主人側並に支那側来賓一同の為め杯を挙げられたり。
次に商務総会協理員潤生氏は支那来賓一同に代りて
 先般本会総理周金箴氏が渡日したるに際し、渋沢男爵が歓迎の意を尽し、且つ種々の便宜を与へられたるは、我々一同の感謝に堪へざる次第なり、男爵の名声の赫々たるは予ねて耳にする所なるが、今回親しく渡来せられたるは、これ亦我々一同の光栄とする所なり、希くは種々なる点につき教示を垂れ、中国の実業をして発達の道途に向はしめんことを請ふ
と答辞を述べ、之に次ぎて赤十字社々長沈仲礼氏は快弁を振つて曰く
 予は嘗て欧洲に遊学せし際、在留貴邦人に接し、屡々渋沢男の実業界に於ける令聞を耳にせり、然るに爾来日進月歩、幾多新進の実業家を輩出せる中に於て、同男が今日も猶社会の推戴を享け邦家の為め活動せらるゝ所以は何ぞや、今渋沢男の経歴につき親しく聴く所によるに、男は其青年時代に於ては中国の論語・孟子等の漢籍によりて修養の功を積まれ、幾十年を通じて一貫せらるゝ主義は、依然孔孟の遺教に外ならずと謂ふ、即ち知る渋沢男の今日ある偶然ならざるを、今や啓蒙の感あると同時に、転た慨嘆に堪へざるなり、我国も従来多数の留学生を洋の東西に派遣して新智識の輸入に汲々たり、新学の勃興素より可なり、されど孔孟の教を以て修養する人にして更によく新学を修め、相応じて事に当らんか、大事業の成就期して待つべきなり、由来我国人は少年時代より孔孟の教を学ぶにも拘らず、一も之を実行するなきを省みて遺憾なきを得ざるなり、須く反省熟慮して可ならん
と述べたり、蓋し渋沢男爵の来りて実業の振興を策するや、欧米日新の智識を拡めざる可からず、日本現時の進歩発展も亦之に外ならずと説くならんと謂へり、計ざりき数千年の昔孔子によりて唱道せられ、今日動もすれば人の顧るなき仁義の道が、之を大にしては日本興国の根源たり、之を小にしては渋沢男立身出世の道程たり、而も活きたるお手本によりて親しく聖人の遺訓を耳にするあらんとは、沈氏の驚嘆せしは宜なりと謂ふべし、猶氏は日支の貿易関係につきて曰く
 - 第32巻 p.517 -ページ画像 
 統計によれば、日本の対中国貿易額は近年著しく増進し、将に英国の塁を摩せんとするに至りたるも、両国実業上の施設に於ては、未だ何等観る処なかりき、然るに近時成立せし中日実業会社は実に其根底たるべきものにして、既に此鞏固なる基礎の設けられたる以上は、今後の発達刮目すべきものあらん
と会社の成立を祝して杯を挙げ、之に次ぎて虞上海鎮守使代理は同じく渋沢男歓迎の辞を述べ『男爵が今回の遊歴中、山東省に入り孔子の墳塋に奠せんとするのみにても、男の人格の崇高なるを覗ふに足る』と激称せり。
上海に於ける演説は総て西田氏通訳の労に当り、氏の熱心なる、克く説者の意を訳述して、余蘊なきものゝ如し、十時半散会。
○下略
  ○渋沢子爵家ニハ右明石照男自筆草稿ヲ所蔵ス。


大阪毎日新聞 第一一〇四七号大正三年五月四日 渋沢男の時局談 渡支車中の大気焔(DK320024k-0008)
第32巻 p.517 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

竜門雑誌 第三一三号・第七二―七三頁大正三年六月 ○順天時報の報道(DK320024k-0009)
第32巻 p.517-518 ページ画像

竜門雑誌  第三一三号・第七二―七三頁大正三年六月
    ○順天時報の報道
青淵先生の支那旅行に就て支那に於て発行する順天時報が四月三日及同月十四日の紙上に報ずる所左の如し、内地新聞の報道と重複する所
 - 第32巻 p.518 -ページ画像 
あれども、其の趣きを異にせるを以て参考の為め掲載することとせり
△渋沢男将来華遊歴 日本実業界重要人物男爵渋沢氏前曾有意遊華惟因偶染微恙故滞其行玆聞男爵病已大愈加之気候温和頗適游歴以故決計訂於下月初旬起程游歴満洲北京漢口上海等処云(四月三日)
△渋沢男爵遊華詳誌 日本渋沢男爵来華遊歴屡誌報端玆将其随員及同行人員並其預定行程列記如左
△渋沢男爵随員為渋沢武之助 明石照男 増田明六 大沢正道 堀井宗一 野口米次郎 堀江伝三郎諸人
△同行員為大日本麦酒株式会社社長馬越恭平及其随員仲田慶三郎東洋生命保険株式会社社長尾高次郎及其随員辻友親諸人
△渋沢男爵旅行日程 五月二日於東京発軔同日乗地洋丸輪船由神戸啓程六日抵滬七日乗滬杭火車前往杭州勾当一日於八日復回上海
九日乗滬寗火車離滬遊寗即日回車十日乗火車離滬十一日抵寧十二日乗舟江行十三日於舟次観覧九江十四日黎明泊船石灰窰一遊大冶十五日抵漢十六日滞留一日十七日上午九鐘発漢口
十八日午後五点十分乗火車晋京十九日至二十三日在京小住二十四日午前八点三十分離京抵津
二十五日発津門遊済南二十六日前往曲阜二十七二十八日親謁聖廟登臨泰山二十九日帰抵済南
三十日帰津三十一日抵山海関六月一日抵奉天嗣後巡遊大達旅順長春吉林蘇家屯旅順本渓湖等処経安東県及朝鮮京城東返月之十七日帰抵日本下関
以上係預定行程此後或略有更動亦未可知惟渋沢男爵親謁曲阜孔廟一節則係男爵之宿願也男爵夙崇孔学自従事実業以来始終奉為圭阜曾於遊華以前往訪大隈首相晤談及遊華一事玆録其梗概如左
予此次遊華世人臆説紛起多以攫取中国利権為言此説実非篤論蓋経済与道徳実為一致不能分離者也故於表面雖有時計較得失之事其裏面必須常存道徳之心予此次赴華凡対於鉄路港湾鉱山各項実業微有所見聞故理宜陳述於中日人士之前披露意見亦非藉此以排他人而注重己利也予自従実業以来常以論語己所不欲勿施於人之語銘刻胸中遇事不以利己為本位必熟計乎共通世界之平和与共同之利益故此次赴中国旅行亦絶非私心計画可断言也予私淑孔子已非一日此次親謁孔廟誠為此次旅行之一大目的云云(本)
  ○本資料第三編「実業・経済」中「朝鮮及ビ対外事業」所収「中国興業株式会社・中日実業株式会社」ノ条参照。