デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
2款 中国行
■綱文

第32巻 p.558-583(DK320027k) ページ画像

大正3年5月30日(1914年)

是日栄一、天津ヨリ乗船、大連ヲ経テ旅順ニ赴キ、六月二日同所ヨリ乗船、四日下関ニ着ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正三年(DK320027k-0001)
第32巻 p.558-560 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正三年   (渋沢子爵家所蔵)
五月三十日 晴 朝来冷気又一昨日ノ炎熱ト土地ヲ異ニスルカ如シ
昨夜来腹部不良、下痢数回ニシテ大ニ疲労ス、六時過強テ起床、旅装ヲ理ス、蓋シ今朝九時白河碼頭ヨリ解纜ノ独乙郵船ニ搭シテ大連ニ渡航スル為メナリ、一同相集リテ当地ニ於ケル各種ノ挨拶及伝語等ヲ了シ、午前八時半自働車ニテ碼頭ニ抵ル、本船ニ乗移リテ送別ノ内外人ニ謝詞ヲ述フ、此地ノ警察署長ノ楽隊ヲ率ヘテ来リテ行ヲ送ル、地方官憲及商務総会ノ人々来会ス、本邦人ニハ領事館員、其他在留商店ノ各員多数来リ送ル、午前九時発船、白河ノ航行船極メテ安静ナリ、船室ニ於テ日記ヲ編成シ、又各種ノ書類ヲ読ム
中日会社尾崎・森二氏及藤井氏モ送行セルニヨリ、同会社将来ノ経営ニ付種々ノ訓誡ヲ為ス
白河ノ航行殊ニ平静ニシテ、両岸ニ蘆荻多シ、午飧後塘口ニ抵リテ暫時𦩘船《(碇カ)》ス、石炭ヲ積入ルナリ
夕方太沽ニ添フテ航行ス、旧砲台ノ跡ヲ望ム、渤海ニ出ルモ船平穏ナリ、夜半少ク動揺ス
五月三十一日 暑《(曇カ)》 朝来冷気昨日ニ比シテ更ニ加ハルヲ覚フ
午前六時起床、洗面後甲板上ヲ散歩ス、漸ク満州ニ近クシテ処々ニ島嶼ヲ見ル、朝飧後旅順表忠塔ヲ北方ニ見ル、十二時午飧、船大連ニ達
 - 第32巻 p.559 -ページ画像 
ス、本船直ニ碼頭ニ着スルヲ以テ来リ迎フル者甚多シ、時々微雨、本船ヨリノ上陸不便ナリシモ、多数ノ歓迎者ニ擁サレテ上陸、後直ニ自働車ニテ遼東ホテルニ投宿ス、此ホテルハ和様ニシテ坐敷ノ設備都テ洋風ヲ加ヘス、殊ニ一室清浄ニシテ頗ル意ニ適セリ、休憩後来訪者ノ多数ニ面会ス、相生某・米山某二氏ヨリ種々ノ談話アリ、此夕南満会社ヨリ星カ浦ニ於テ一行ヲ歓迎スル小宴ヲ開ク趣ナルモ、病ヲ以テ之ヲ辞シ旅宿ニ在テ静養ス、夜読書・雑話等ニテ、離家以来月余ニシテ少ク慰安ヲ得タルヲ覚フ
六月一日 曇 風強クシテ雨ヲ催フスニ似タリ
午前六時起床、二三ノ来客ニ接見ス、朝飧後支度ヲ整ヘテ九時旅宿ヲ発シ、自働車ニテ停車場ニ抵リ、旅順ニ赴ク、白仁長官ヨリ特ニ白須秘書官ヲ送リテ嚮導セシム、特別列車ニテ一行十時過旅順ニ抵リ、此辺古戦場ナラサルナシ、白須氏説明甚タ勉ム、旅順ニ抵レハ長官来リ迎ヘ、共ニ馬車ヲ駆リテ工業学校ヲ一覧セシム、途中各所ヲ指点シテ戦争当時ノ事ヲ説ク、学校ノ一覧畢リテ、大和ホテルニ於テ午飧ノ饗応アリ、畢テ海軍水交支所・陸軍陳列所・白玉山等ヲ一覧シ、四時過旅順発ノ汽車ニテ大連ニ帰リ、停車場ヨリ満鉄会社員ニ誘ハレテ星カ浦ニ抵リ、星ノ屋ニ於テ夜飧ス、星カ浦ハ満鉄会社ノ経営ニ係リ、海ニ瀕シテ眺望絶佳ナリ、和洋共ニ旗亭ノ設備完全ニシテ、其調理モ亦可ナリ、夜十時頃旅宿ニ帰ル、此夜雨大ニ風亦強シ
六月二日 晴 軽寒軽暖、洋中ノ空気清爽タリ
午前六時半起床入浴ス、後朝鮮ヨリ来訪セシ西村道彦・古城簡堂二氏ヲ始メ、当地ノ人々多ク来訪ス、一々会話シツヽ朝飧ヲ食シ、後旅装ヲ理シ自働車ニテ市街ヲ一覧ス、山成氏先導セリ、此日大連ヲ発シ大阪商船会社ノ郵船嘉宜丸《(義)》ニテ門司ニ向ケ帰国ノ筈ナルニ付、旅宿ニ来リ告別スル者頗ル多シ、市街ヲ一巡シテ九時過ギ本船ニ抵ル、来リテ送別スル人早ク既ニ本船ニ充満ス、商業学校生徒一隊来リテ送別ス、送別ノ人々ト手ヲ分チテ十時出帆ス、昨日ノ風浪其跡ヲ留メテ船少ク動揺ス、一時午飧畢リ、甲板上ニ於テ読書ス、三時船室ニテ日記ヲ編成ス、終日甲板上ノ散歩又ハ室内ノ読書ニ消閑ス、夜飧後船室内ニ於テ種々ノ余興アリ、十一時就寝
六月三日 曇 風ナクシテ舟行平穏ナリ、気候又甚タ熱ナラス
午前六時起床、船中ニテ入浴ス、畢テ朝飧ヲ食シ甲板上ヲ散歩ス、昨夜ヨリ支那地方ヲ離レテ朝来朝鮮ノ島嶼ヲ見ル、船室ニ於テ読書ス、午飧後済州島ヲ右舷ニ見ル、又巨人島ヲ左舷ニ見ル、〓行平穏ニシテ船中無事ナリ、頻ニ絶句類撰ヲ読ミテ二三ノ絶句ヲ得タリ、船中ニ於テ諸員ノ請求ニ応シテ揮毫ヲ試ム、従テ書スレハ従テ請求アリテ、数十枚ノ多キニ至ル、朝鮮地方通過ノ際ハ島嶼多クシテ、恰モ瀬戸内航路ノ観アリ、只憾クハ山ニ樹木ナクシテ風致ニ欠クヲ、夕方ヨリ朝鮮地方ヲ離レテ船少ク動揺ス、夜飧後昨日ト同シク船中ノ余興アリ、然レトモ船ノ動揺多クシテ聴ク者少シ、十時過就寝、深夜ヨリ船頗ル動ク、蓋シ玄海洋ヲ航スル為メナリト云フ
六月四日 晴 風静カニシテ暑気又強カラス
午前六時起床、昨夜ヨリ船頗ル動揺スレトモ、幸ニ船疾ニ至ラス、七
 - 第32巻 p.560 -ページ画像 
時洗面、支度ヲ整ヘテ甲板上ニ於テ四方ヲ展望ス、舟子ノ語ル処ニヨレハ、一昨日来ノ低気圧ニテ此辺強風アリ、亜米利加丸ノ如キハ昨日此航路ニ於テ大ニ困難セシト云フ、サレト本船ハ夜来少ク動揺シ、午前三四時ノ頃尤モ強カリシモ、船疾ヲ発スルニ及ハス、七時半朝飧ヲ食ス、九時六連島検疫所ニテ検疫アリ、一行中本船ニテ神戸ニ渡航スル者、又ハ上陸シテ直ニ汽車ニテ東上スル者アルニヨリ、夫々伝言ヲ托ス、且上陸旅行ノ順序ヲ定ム、九時馬関着、直ニ小蒸気船ニ移リ春帆楼ニ投宿ス、兼テ書信ニテ打合セ置キタレハ、東京ヨリ兼子来リ迎ヘ、共ニ旅寓ニ抵ル、投宿後入浴朝飧シテ数多ノ歓迎者ニ接見ス、休息後、大里ナル浅野セメント工場ヲ一覧ス、辻・須永二氏周旋甚タ勉ム、畢テ帰宿、午飧後商業学校ニ抵リ、学生ニ一場ノ講演ヲ為ス、此夜関門銀行者ノ催ス処ノ招待会ニ出席シテ一場ノ支那視察《(談脱カ)》ヲ為ス、夜十時過散会ス


竜門雑誌 第三一四号・第四六―四八頁 大正三年七月 ○青淵先生支那旅行梗概 増田明六(DK320027k-0002)
第32巻 p.560-561 ページ画像

竜門雑誌  第三一四号・第四六―四八頁
    ○青淵先生支那旅行梗概
                     増田明六
○上略
  五月三十日 土曜日 晴
 青淵先生容体益良好、体温稍々常態に復し、元気大に加はる、一同始めて安堵の思あり、午前九時紫竹林碼頭出帆の独逸汽船西江号に搭乗、先生以下一同大連に向ふ、支那側大官及在留邦人の有志者埠頭に出でゝ先生を送る、特に都督は軍楽隊を送り、奏楽して行を壮にす、午時塘沽に着、三時太沽を過ぎ終日海上に在り。
  五月三十一日 日曜日 晴
 青淵先生容体益快癒なり、午前航海、午時大連着、南満洲鉄道野村総裁以下多数の出迎を受け、遼東ホテルに入る、夕朝鮮銀行三島太郎氏の案内に依り、先生及堀井氏を除き、一同星ケ浦星ノ家に於て晩餐の饗を受く。
  六月一日 月曜日 晴
 青淵先生容態益良好殆ど全快す、朝青淵先生以下一同特別列車にて旅順に向ふ、白仁民政長官より遣はされたる白須秘書官一行の接伴役として同行す、旅順着後二組に分れ、先生外数名は旅順工科学堂参観他の一組は爾霊山戦蹟を訪ひ、午時大和ホテルに於て白仁民政長官の午餐会あり、一同出席、午後先生外数名は水交社・記念品陳列所・白玉山等に至り、其他は松樹山・二竜山等の戦蹟を訪ひ、四時一同停車場に集合、大連に回る、夕満鉄の案内にて先生及堀井氏は星ケ浦に赴き、他一同は扇芳亭に於ける同社の晩餐会に出席す。
  六月二日 火曜日 晴
 青淵先生平常の健康態に回復す、午前十時先生を始め、明石・馬越・増田・大沢・堀井・仲田・野口・堀江の九氏は、大阪商船の嘉義丸にて大連出帆門司に直航す、渋沢武之助・尾高・辻の三氏は満洲及朝鮮経由、三島氏は銀行用務の都合の為め、孰れも同地にて先生と分袂したり。
  六月三日 水曜日 晴
 - 第32巻 p.561 -ページ画像 
 午時大黒山列島通過、午後亜米利加丸より颶風に遭遇の無線電信ありしも、本船は極めて無事、青淵先生は食堂に於て船員の嘱に応じ揮毫を試む、夜波濤高し。
  六月四日 木曜日 晴
 午前十一時嘉義丸門司へ入港、青淵先生令夫人本船に出迎はる、仲田・大沢二氏は先生に別れて神戸迄航行を続け、他は先生に随従上陸下の関春帆楼に入り、馬越氏は山陽ホテルに入る、午後先生は下ノ関商業学校に於て講演し、後門司に渡り浅野セメント会社参観の後、下ノ関に帰還し、第一銀行支店に到りて店員一同に訓辞を与へられ、夜春帆楼に於て関門銀行業者の招待に係る晩餐会に出席す。
此日一行を解散し、各自由行動を執る事に決す。
○下略


禹域従観日記 初稿・下篇第一四九―一五九丁(DK320027k-0003)
第32巻 p.561-565 ページ画像

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竜門雑誌 第三三六号・第一一三―一一四頁 大正五年五月 渋沢男爵支那漫遊中の演説及談話の梗概(DK320027k-0004)
第32巻 p.565 ページ画像

竜門雑誌  第三三六号・第一一三―一一四頁 大正五年五月
    渋沢男爵支那漫遊中の演説及談話の梗概
○上略
 大連渡航船上
  五月三十日 土曜日
午前九時独逸船にて出帆、白河を下りて大連に向ふ、海上波静かなり
 大連
  五月三十一日 日曜日
朝来遼東半島の一角を望む、午後一時半大連に著す、夜一行は星ケ浦に遊びしも、男爵は二・三の人々と旅宿に止りて静養せらる、然れどももはや健康は全く本復し、元気稍平生の如き観あり
 旅順
  六月一日 月曜日
男爵始め一行旅順の戦跡を弔ふ、当年の武夫が苦戦奮闘の名残未だ消え遣らず、感慨極りなし、午餐は都督府の招待、夜は大連にて南満鉄道会社の招待を受けたれど、何れも打解たる宴会にして何等形式的の応答なし
 帰航船上
  六月二日 火曜日
朝九時嘉義丸に乗船して帰国の途につく、海路平穏なり、尾高氏・武之助氏等は一行に別れ、陸路満洲を経て朝鮮に向ふ
 同上
  六月三日 水曜日
朝鮮の沖を通航す、午前男爵は船中にて揮毫せらる、玄海灘に入りては風浪頗る高く、船の動揺すること甚し
 帰朝
  六月四日 木曜日
船馬関海峡に入りて両岸の風光を一望す、山紫水明蓬莱島を望む心地しぬ、十時半上陸春帆楼に投ず、正午新聞記者を集めて支那談を試みられ、午後二時下ノ関商業学校に抵りて一場の講演あり、それより浅野セメント会社を一覧し第一銀行支店に於て行員に一場の訓示をなす夜は関門銀行業者の晩餐会に臨みて亦一席の漫遊談を述べらるゝなど殆んど寧時なく元気旧に倍するものあり、一同只驚嘆するのみ○下略

 - 第32巻 p.566 -ページ画像 

時事新報 第一一〇四六号 大正三年五月三一日 ○渋沢男帰朝 六月四日門司着(DK320027k-0005)
第32巻 p.566 ページ画像

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時事新報 第一一〇四七号 大正三年六月一日 ○渋沢男の着連(DK320027k-0006)
第32巻 p.566 ページ画像

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時事新報 第一一〇四七号 大正三年六月一日 渋沢男一行着連 (大連三十一日午後発)(DK320027k-0007)
第32巻 p.566 ページ画像

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時事新報 第一一〇四八号 大正三年六月二日 ○渋沢男の巡覧 (大連一日午後発)(DK320027k-0008)
第32巻 p.566 ページ画像

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時事新報 第一一〇四八号 大正三年六月二日 渋沢男の談話(大連五月三十一日午後発)(DK320027k-0009)
第32巻 p.566-567 ページ画像

時事新報  第一一〇四八号 大正三年六月二日
△渋沢男の談話(大連五月三十一日午後発)渋沢男は往訪の記者に語りて曰く
 余が今回の旅行は、第一に山東省曲阜に孔子廟を、済南府に孟子廟を拝するにありしも、二十七日天津にて微恙に罹りたるのみか、九十度以上の炎天の為め、止むなく中止せるは遺憾なりき、更に再遊を期せんとす、然れ共第二の目的たる中日実業公司の為めに両国株主の意志を疏通せしむるには、充分に成功せりと信ず、同公司は孫逸仙氏の発起に発芽し、袁総統と日本資本家との間に成れるものにして、決して英文北京日報の流布せる如き利権の獲得などに関係なし、已に五百万円の資本中、日支両国株主より百二十五万円の払込を終れるも、時機を見て両国経済的利益の共通せる企業に投資し、又は斯る事業の整理を助くるの用に供せんと思ひ、自重して未だ支出の運びに至らず、されば余は袁総統に面会せる時も、余は或種の利権獲得者の如く、右手に算盤を持ち左手に爆弾を隠して来りたる者に非ず、右に算盤、左に帳面を携へ、北京に入れりと述べ、袁総統も余の旨を諒とし、深く余の訪問を喜べり、北京滞在中は袁総統徐国務卿以下、支那官吏・実業家・在留邦人より非常に好遇された
 - 第32巻 p.567 -ページ画像 
り、山座・水野二氏の死去は誠に残念なり、山座氏の死は天津にて知りたるも、水野氏の死は在京中にて、殊に氏は十九日小田切氏が余の為め開きたる午餐会席上より腹痛の為帰邸せる儘回復せず、其儘死亡したれば殊に気の毒千万に堪へず、氏は往年余等が米国視察の際紐育総領事として、日本に迄も同行帰朝せる程に一行に対して便宜を与へ呉れたる事あり、対支外交の為め、氏の死去は邦家にとり遺憾の至りなり


東京朝日新聞 第一〇〇一一号 大正三年六月三日 渋沢男の談 ▽二日帰朝の途に上る 二日大連特派員発(DK320027k-0010)
第32巻 p.567 ページ画像

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時事新報 第一一〇四九号 大正三年六月三日 ○渋沢男出発(DK320027k-0011)
第32巻 p.567 ページ画像

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(東洋生命保険株式会社)社報 第一八号 大正三年六月 支那漫遊所感(其一)尾高次郎(DK320027k-0012)
第32巻 p.567-571 ページ画像

(東洋生命保険株式会社)社報  第一八号 大正三年六月
    支那漫遊所感(其一)
                    尾高次郎
 - 第32巻 p.568 -ページ画像 
○上略
 扠て、渋沢男爵の今回支那を漫遊せるゝに就ては、世人は、何事か秘密の使命でも帯びられたるかの如く想像したものと見へ、我が一行の出発前に於て、現に内地の新聞紙すらも、往々ソンナ語気で書き立てたこともあつたが、然し夫は甚だしき想像違ひで、全く男爵自身の単純なる漫遊であつたのだ。
 男爵は人も知る如く、前後三回海外を漫遊せられたにも拘らず、我国とは政治上・実業上、共に唇歯輔車の大関係ある、一葦帯水の隣国支那大陸へは、一度も足を容れずして今日に至つたのは、全く不思儀の次第であつた。日本実業の指南車たる男爵が、未だ一度も支那の商工業を視察せざりしのみならず、予てより孔子の教へを遵奉する男爵にして、七十五歳の高齢に至るまで、儒学の本家本元たる支那を見られざりし事は、実に不思議の至りである。去れば男爵も、常に此事を遺憾とせられ、時間の許すものあらば、一度は四百余州を漫遊し、杭州・蘇州の詩的風物を探賞し、且つは日頃から尊敬せられてゐる孔子の廟を曲阜に参拝して、年来の宿志を果したいと云はれて居つた。即ち今度の支那漫遊は全く其の為で、彼の中日実業株式会社の経営策の如きは、男爵が上海へ上陸以後、支那の官憲より要望せられ、最後に袁大総統よりの依頼に因り、勢ひ辞すべからざる破目に立致つて、新たに責任ある用務と相成たに過ぎないのである。
 然るに曩きに男爵一行の支那漫遊の噂が、日本の各新聞紙上に現はるゝや、其記事は細大漏らさず翻訳せられ、打電せられ、そしてそれが支那の新聞紙上に掲載されたので、男爵が未だ日本を出発せざる以前に於て、早や既に支那に於ける各外字新聞紙は、筆を揃へて男爵の支那に来る事を妨げたのである。
 其当時自分はこれを見て思へらく、斯る事は支那に於ける朝野の輿論には非ざるべし、多分は、支那に利害関係を有する外国人が、猜疑の偏見よりする議論ならんと、然れども彼等は何故に左程に男爵の漫遊することを恐るゝや、余は其の解釈に苦んで居たのであつた。それと同時に袁政府要路の人々と雖も、多くの利権問題に就て、欧米人と握手して居るとすれば、此際男爵の来るを歓迎することは無かるべしと想像した。
 去れば自分抔は、男爵の為に考へて、今回は支那漫遊の時機としては適良であるまいかと思つた、自分等が斯く思ふと同時に、男爵に接近する人々中にも、大に男爵の身の上を案じ、或る人の如きは強ひて此旅行を諌止せんとして、男爵の機嫌を損し、更に余の許に来りて、尚も此行を見合はすべしと忠告した者もあつたのである。
 然るに男爵は、それ等の事は毫も歯牙にかけられずして曰く、若も支那の新聞の批評に驚きて、此旅行を見合はすならば、支那新聞に因て伝へられたる根も無き風説に、却て根を生ぜしむるの恐れがある、夫れよりは一度び支那へ行つたならば、果して使命を帯びしや否や、果して利権獲得であるや否やは、忽ち判然するであらうから、根も無き風説に驚いて、今更意旨を変ずべきにあらずと、是に於て断然出発する事となつたが、一行十二人といふは目出度き数であつた。
 - 第32巻 p.569 -ページ画像 
 男爵の左右に居る者が、此の漫遊を気遣つたのは、必ずしも高齢の男爵が千里の遠征に上らるゝを心配したのみではない、何人も知る如く支那は革命戦後、未だ人心落付かずして、全国戒厳令を布いて居ると申すも同様で、道中筋に於て如何なる間違がないとも云はれぬからであつた。然るに男爵の意気は頗る豪壮にして、動もすれば、先年哈爾賓に於ける伊藤公の凶変の如きは、男子の快事なりと放言せらるゝこともあるので、余は余り縁喜の善い話では無いと思ふた、それ故に余は真逆の時には、及ばずながら、何かの役に立つ積りで、特に請ふて男爵と同行する事にしたのである。
 扠ていよいよ我一行は、五月二日朝、東京新橋を出発し、其夜神戸より東洋汽船会社の巨船一万五千噸の地洋丸に搭乗して、四日長崎に着し、更に海上無事、六日に上海に着し、弥々上海へ上陸の時から、自分は必ず男爵の身辺に居て、窃かに前後に気を配り、そして男爵に接近し来る支那人等に注視した、併しながらこれは全く無用の心配であつた、といふのは、予て出発前に想像したる総ての用心は皆杞憂であつて、支那政府の我一行に対する保護は至れり尽せりであるから、最早自分等は何等懸念の必要なきを覚つたのである。
 其一例を挙ぐれば、先づ汽船が上海の埠頭に着くや、武装せる支那の軍隊は、之を迎へて路傍に整列し、軍楽を奏し若くは小銃を捧げて好意を表し、又馬車に乗れば、一隊の騎兵その前後を警戒し、更に一行の通過する沿道には、約百歩に一兵を配置し、ホテルに入れば、その内外には若干の兵卒が余り目立たぬ様に、見へ隠れに昼夜警戒して呉れた、而して此の様な警護は上海のみで無く、男爵の到る所いづくも皆同様であつたので、男爵は此の待遇を蒼蠅く思はれ、また甚だ迷惑に感ぜられ、余りに無駄の事であるからとて、これを謝絶せんとしたのである、然るに支那政府は、男爵一行を国賓として待遇すべき命令を、沿道の各官憲に伝へた後で、各地とも已にそれぞれ警護の準備を致し居れば、今更撤回させるも宜しくあるまい、支那政府の好意を我より謝絶するは気の毒である、寧ろ彼の為すに委す方がよからうと上海総領事が云はれたので、遂に其儘にして置いた。
 男爵が上海へ上陸以後、各地到る所、ホテルに入つても休息する暇なく、否衣を更ゆる暇もなかつた、譬へば波止場なり停車場なりは、必ず送迎者を以て充満して居る、ホテルに入れば日支両国人の訪問は引きも切らず、いづれに行くも必ず其土地に於ける支那の都督府とか民政庁とかいふ所よりは、定例の如く招待される。のみならず、日本の官憲からも招待され、支那人の商業会議所からも招待される、日本居留民の歓迎会へも臨まねばならぬ、各地とも我高等商業学校出身の人々は多数活動してゐて、必ず男爵一行をその同窓会へ招待する、其外支那人の工場を見せられる、日本人の事業を見せられる、見れば必ず批評を請はれるといふ風にて、一日少くとも三・四回は御馳走攻めに逢ふことになつて居て、或る日の如きは、七回招待を受けて、悉く之を請けたこともある、そして男爵は何れの宴席へ臨むでも、必らず其得意の演説をなし、又如何なる招待に対しても、常に辞した事が無い、何人の訪問に対しても必ず満腔の誠意を以て面会してやる、これ
 - 第32巻 p.570 -ページ画像 
は東京に居らるゝ時も其通りである。
 七十五歳の高齢なる男爵が、昼夜の別なく活動を続け、その一挙一動寸分の隙も無かつたのは、即ち男爵の精力が絶倫の致す所であるから、此偉人が旅行中の起居動作に付て、其二・三を話して見よう。
 上述の如く、男爵は終始少しの隙もなく活動されたのであるが、単に各地を駆け廻はりて宴会に臨むといふのみならば、体力さへ丈夫ならば誰にでも出来得る事であるが、男爵の一挙一動は唯だ昼夜人に接し、又宴席へ臨むばかりではないので、其の人に接するや、他の人には真似の出来ない程親切鄭寧なる応接振で、何時如何なる人の談話にもよく耳を傾けると同時に、その対手の人へは必らず満足を与へ、日に幾十人に接するも、其訪問者は一人として心残りする者が無い、卓上演説も亦然りで、男爵は云はんと欲する所は、悉くそれを云ひ尽すので、二六時中間断なく頭を働かされる、それが連日連夜である。
 男爵が汽車若くは汽船に乗られた時は、最も閑暇の時であるから、緩る緩る休息するかと見れば、左様でない、自分等が男爵の休息されるを望むのは、寧ろ自分等の疲労を休めるが為にて、年若なる自分等はいつも失礼して、自席へ引籠り睡眠を貪る程なるに、男爵は其様な閑暇の時は、最も喜んで必ず日記を認めらるゝ、然らずんば必ず読書を為さる、若も労せらるゝ時は、傍人をして音読させて之を聴く、また宴会に臨んで人々に乞はれる時は揮毫も為さるゝ、傍に碁を囲む者あれば、対局者同様の熱心を以て之を見る、人が球を突けば、当局者以上の興味を以てこれを見る、校書の歌曲、雛妓の舞踊の末技と雖ども、其文章曲節手振りに迄で注意せらるゝこと人一倍で、凡そ眼に触れ耳に聴くものは、其の非凡なる記憶力を以て古今東西の事実に比較対照し、悉く研究の材料となすのであるが、全く暇なる時は漢詩も作れば和歌も作らるゝのだ。
 此度の旅行中、漢口より北京・天津と、随分大陸の温度が激げしかつたが、其の炎熱の中にあつても、男爵が汽車中は固より、ホテルの室内にても一度として、上衣を脱いて涼を納るゝような事はない、終始端然として威儀を正し、膝さへも崩されなかつた、そして汽車中又は船室中に於ても、眠るべからざる時間内には、決して横になるが如き事はなく、午睡を催さるゝ時もホンノ五分間か十分間、端座のまゝトロリと為さるに過ぎなかつた。
 男爵は壮年時代より、今日に至るまで、五十年間社会に活動した為め、時としては世間より誤解されたる批評もあつたのであるが、古稀を越えたる今日の男爵は、慥かに神仏の如くで、心の欲する所に随つて矩を超えないといふ、聖賢の域に達したものであらう、去りとて又甚だ窮屈なる人でもなく、時に左右の者と諧謔を交へて談笑することもあるが、其一言一句は皆金玉の言語にして、無学の余等は之に対して返事にまごつくことが多く、男爵に対し気の毒の感が起ることもある。而して男爵に接すれば温容慈父の如くなるも、然らば忸れて近くべきかといふに、常に一種犯すべからざる毅然たる態度ありて、端睨すべからざる人格を有することは、当代実に其比倫を求むるも到底得べからずと思はるゝのである。
 - 第32巻 p.571 -ページ画像 
 男爵が上海に上陸後、劈頭第一に、支那人の脳髄を抉つた一事がある、それは支那の官民より男爵に質問があつた時である。その質問者の多くは、支那の陸軍中将とか都督とかいふ高位高官の軍人であるがお職掌に似合はざる頗る振るつた質問であつた、即ち今度男爵が支那へ来られたに付ては、定めて支那の為めに、実業上大に利益を与へて呉れるかといふのである、これに対する男爵の答へが、又頗る奇抜である。曰く、実業の秘訣は論語にある、自分は五十年間終始一貫、論語によつて商売をして来たのである、則ち論語より外に商工業を発展せしむる法はないと喝破したのだ。
 支那人は予てより男爵を日本の福の神と思ふて居る、明治維新後五十年間に於ける日本実業の大発展大勃興は、全く男爵の力にあると信じて居る、其日本の福の神の計画する所、一として成就せざるはなくよしや失敗に傾きし事業も、男爵の手を煩はせば、容易に挽回し得るものと思ふて居つた、それ故に此人に頼めば、支那に於ける天賦の富源は遺憾なく開発せられ、支那をして世界の黄金国たらしむることも得べしと思ふた様であつた。而もかゝる質問を発する者は支那の商売人でなくして、時めく高位高官の軍人の口より発するに至つては、吾吾日本人としては不思議に感ぜざるを得なかつた。けれど其高位高官の軍人は、いづれも三十歳前後の若者である、日本ならば少尉・中尉の年輩と思ふ程の人が、支那では少将・中将であるから面白い、日本の維新当時の官員の若かりしことが、恰も今の中華民国の官員の如きものであつたろふと思はれた。
 男爵は三面六臂の人間ではないが、終始一貫論語で商売をしたといふ答は、支那人の大に意外とした所であらう。論語の本家本元たる支那人が、論語の講義を却てその弟子国たる日本人から教へらるゝのみならず、此問答は恰も孟子が梁の恵王の問に答へて、王何ぞ必しも利を云はん、また仁義あるのみと云はれたに酷似して居るから面白い、而も此種の問答は各地に於て繰り返された。
 自分等が漫遊中支那人に就いて驚いたのは、支那人が孔子に対する尊敬の念の薄い事である。支那人の多くは孔子を以て、一の喋舌る人であつて実行の人でないと見て居る、故に論語の教への如きは取るに足らず、若も孔子の教へを奉ずる時は却つて其の国が衰亡するものとまで云つてゐる。男爵が孔子を尊敬し、中華民国の官民が論語を軽んずる所は、全く雪と炭の相違で、彼等は商売と道徳を別物と思ふて居る。尤も翻つて思へば、日本に於ても論語と十露盤を一つにするといふことは、明治初年に於ける男爵の新発明の言葉であつて、之を聴きたる多くの日本人は、其当時矢張り奇言として驚いたのである。○下略


(東洋生命保険株式会社)社報 第一九号 大正三年七月 支那漫遊所感(其二)(DK320027k-0013)
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(東洋生命保険株式会社)社報  第一九号 大正三年七月
    支那漫遊所感(其二)
                      尾高次郎
      男爵の漫遊を妨げたるは何故なるや
 先に述べた如く、支那に於ける各種の外字新聞が、渋沢男爵の漫遊を妨げたのは、支那の輿論を代表したので無かつたことは、男爵が上
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海へ上陸後、支那官憲と支那商工業者の鄭重なる歓迎振りに因て、首肯することが出来た。
 支那人が妨げたので無いとすれば、果して何者が妨げたか。由来上海にも北京にも、天津其他の要地にも、多数の外国人が居るにも拘はらず、彼等は男爵一行に対しては、極めて冷淡であつた、無論彼等は用談なきが故に、男爵を訪問せぬことは当然であるが、外国人にして時々面会を請ふたる者は、僅に外字新聞の記者位の者であつた。而して其記者が種々の質問を為す言葉の節々に因て、男爵の支那漫遊を嫌ふた者は、支那に於て利益を獲て居る諸外国人であつたといふことが解かつた。然らば彼等は何故に嫌ふたか、これが余の疑問とする所であつた。
○中略
 従来無資無力の日本人が参つても、外国人は非常の心配をして居た所に、今度日本実業の泰斗たる渋沢男爵が、漫遊と号して此地方に来るといふ、果して然らば長年の間、僥倖にして日本資本家の眼に止らず、秘密にして居たる大富源は、今度こそは看破されることになる、其結果従来の移住者と異なりたる、有資有力の日本人が追々やつて来るかも知れぬ、若し左様のこともあらば、由々敷き大事である位には彼等外国人は感じたであらう。これ即ち彼等の大に迷惑する所であつて、彼等が男爵の来ることを妨げたる原因は、多分此点にあると思ふたから、余は、今や襄陽丸の甲板に立たれて、彼の有名なる大筏、此筏は幾万本かの木材を組合はせて江に浮べ、其上には人家も多くあり又畑もありて、多数の支那人が棲息して居るから、恰も波上の村落ともいふべき、最も不思議のものである。今此大筏の流下するのを見て居られたる男爵の傍に行き、以上の余の感想を話したるに、男爵は何とも答へられずして、話頭を他に転じたが、只一言支那は実に羨むべき天恵の国であると云はれた。
○下略


(東洋生命保険株式会社)社報 第二〇号 大正三年八月 大連と旅順(DK320027k-0014)
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Japan Magazine Vol. V. No. VI, pp. 323-326. Oct., 1914 Commercial Relations Between Japan And_China By Baron Shibusawa(DK320027k-0015)
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Japan Magazine Vol. V. No. VI, pp. 323-326. Oct., 1914.
          Commercial Relations
           Between Japan
            And_China
          By Baron Shibusawa
  My recent trip to China was undertaken neither at the
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suggestion of the government nor yet to promote any private interest of my own, but simply to gratify a long cherished personal desire to see the country and people. In religion I am a Confucianist, to which I owe the calm and resigned spirit that carries me through all difficulties. I have always venerated Confucius and love to read his Analects and the Chinese classics. The principles that govern my conduct in dealing with men and things both at home and abroad, always serving my own country, are based upon the Analects of Confucius. My conception of Loyalty and Filial Piety alone is due to the teachings of my own country, but my principles of social intercourse are derived from the Analects of the great Teacher. In all social matters one can never be misled in trusting to the teachings of Confucius for guidance. Unfortunately the teachings of Confucius are not faithfully followed, even in China. But his tomb is still there; and believing as I do, it is not surprising that I at last found opportunity to visit that sacred spot. Indeed the motives that prompted me in making a pilgrimage to the tomb of Confucius may be likened to the spirit that moves the multitudes who make pilgrimages to Jerusalem or Mecca.
  When Dr. Sun Yat Sen visited Japan last year with a view to improving commercial relations between Japan and China I had a long talk with him about the matter, and suggested that the best way to develop the wealth of China was to utilize the natural resources of the nation; and that as this could not be done without the assistance of skilled hands and brains, Japan should help China by supplying them, thus meeting a demand which China herself as yet cannot satisfy. The outcome of this conversation was the organization of a company known as the Chugoku-Kogyo-Kaisya, for the promotion of more intimate commercial relations between Japan and China. Thus in addition to my religious interest in China there was born a commercial interest. I must say that I was led into this new interest from no motive of personal ambition, nor from any desire to enhance reputation but simply out of a desire to better the relation between the two countries. I was moved by no private interest whatever.
  Although Dr. Sun Yat Sen had visited Japan before I had not had an opportunity of meeting him, but as he appeared to be trying to do for his country what I have long been trying to do for mine, we had to that extent a common ambition, and I felt bound to give him the best advice at my command, insisting that he must exert himself not only in politics but in commerce and trade in order to increase the wealth and prosperity of his
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country. I told him that there were many who had political ambitions for every one person that had a desire to succeed in commercial matters, and that as this was a weakness of his country, he should strive against it. China was in fact much like Japan at the time of the Restoration, when politics more than business occupied the public mind. The energy now being wasted in controversy over the national Constitution should be devoted to developing the wealth of the nation. I further suggested that having succeeded in the task of bringing about the Revolution Dr. Sun Yat Sen should now concentrate the mind of the people on commercial and industrial development. As a man of age and experience I gave him this advice, promising to assist China in every way I could as long as my life on earth lasted; and so there arose the commercial company already mentioned.
  Shortly after the establishment of the new company came the assassination of Sokyojin, an act of the southern revolutionists which was believed to have been connived at by Yuan Shi-kai, bringing upon him serious attacks. This led to a further revolution, in which Dr. Sun took side with the southern revolutionists, which placed him in a position where he was unable to carry out his share of the commercial company he had embarked. As the aim of the company was purely commercial, and in no way to promote the private ambition of Dr. Sun Yat Sen, and its establishment had taken place before the second revolution, our attitude was quite clear; nevertheless the new Chinese Government suspected our motives and subjected the company to explain to the officials at Peking the real nature of the company, and how it was designed to promote the mutual commercial interests of Japan and China, and the officials were satisfied as to the legitimacy of its objects. Later the Chinese officials, through the Tokyo Foreign Office, expressed a desire that I should go over to China, and as I was going in any case to visit the grave of Confucius, the suggestion naturally fell in with my plans.
  As I practically retired from the business world some time ago I hesitated to take any very active part in the new commercial company, limiting my activity to simply giving advice and keeping an eye on its movements. The business management was in the hands of Mr. Kurachi, who went to China last year to interview capitalists in north China who might be interested in the aims of the company. We wanted to find some influential Chinese who could take the place of Dr. Sun Yat Sen, and his friends who had now to be counted out. The
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result of this was that the laws regulating the company had to be altered somewhat, and Mr. Yoshiki was appointed president, the company being completely reorganized in April of this year.
  During my visit to China I took occasion to explain fully the position of Japan in the matter, the conditions of our business world and to impress on the responsible parties just what Japan considers necessary, without favor or reserve.
  First I went to Shanghai and then up the Yangtsze and across to Peking by way of Hankow; and from there I proceeded to Tientsin, Sainanfu and Kyokufu, where I spent three days examining the Confucian ruins, returning to Tientsin and Dairen and thence to Japan.
  In all I was forty-five days in China, during which time I spoke often as many as five times a day before very interested audiences. I always made it a point to meet both citizens and officials wherever I went and to explain to them the objects of our new commercial company, with a view to dispelling all misunderstanding. And I feel satisfied that I was successful in conveying to the people of China the real objects of the company.
  As I traveled between Shanghai and Peking I was much impressed by the wealth of natural resources in that region, especially with the mildness of the climate and the fertility of the land. There appears to be a wealth of mineral resources also, concerning which our company is making due investigation, and the results will be made pulbic before very long. We are also in negotiation with the Chinese government in respect to important matters of business for our company to undertake, and conclusions in relation thereto will soon be reached. For some years the British have regarded the Yangtsze as their special sphere of commercial influence, and it is my desire to see that our company shall in no way interfere with this. It is not our purpose to invade their regions.
  During the course of my itinerary in China I met a great many influential officials and others with whom I talked much about the improvement of commercial relations with Japan.
One of them, at whose fluency in Japanese I was most agreeably surprised, called on me at my hotel and laid before me his views with regard to commercial relations between Japan and China. His was a personal opinion only, but I regard it as representing to a large extent the general opinion in China. After giving me to understand that he was regarded by the public as a pro-Japanese official and that he was quite familiar with affairs in Japan, he went on to say how grieved he was over the unsatis
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factory relations recently prevailing between Japan and China. And so without reserve he requested me to convey his views to the people of Japan. He first wished to take exception to the attitude of Japanese newspapers which seem to entertain suspicions of China and to gender distrust of her in the Japanese mind. There was, he said, too much abuse of President Yuan Shi-kai and of Chinese politics in general. The Chinese, he suggested, did not object to exposure of wrongs; they were ready to accept censure where deserved, to face facts as facts; but the Japanese press indulged in mere motives of mistrust, and viewed things Chinese through coloured spectacles. In fact they attacked everything connected with Yuan Shi-kai. The President, said my informant, took little account of this attitude, but the Chinese people did, and much resented this revilement of their chief representative. The people were apt to regard this attitude of the Japanese press as a reflection of the whole of China. Consequently the Chinese have been led into an attitude toward Japan which is very prejudicial to better relations between the two nations. This gentleman went on to assure me that the Chinese did not expect everyone to have the same opinion as to the character of Yuan or of his political measures, but they looked for some just basis of attack and that fault should be found kindly and not with glee. My informant also suggested that the people of Japan should be very careful not to do anything to further the ambitions of the Chinese revolutionists now exiled in Japan. There was no particular objection to sheltering them in accordance with the dictates of international law, but he regretted that there seemed to be in Japan a China party that was trying to utilize the exiles for purposes inimical to the present government of China. He also took exception to the export of arms to China, and hoped that Japan would in no way further the cause of revolution in China. I could not but agree with the sentiments of this high Chinese official, and I trust my countrymen, one and all, will take the hint which is so pointedly conveyed.
  Before taking my departure from China one of the higher officials who had been in Japan and knew much of our country called upon me and requested my views as to the result of observations in China. I had to say to him that I had many convictions as the result of my trip, some of them political and some financial, but that as politics was outside my sphere I would confine my remarks to finance. I laid special emphasis on the need of promoting national wealth which, I said, always went hand in hand with the solidarity of national finance. The
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people of China should devote more attention to the development of economic enterprises. When national economy is on a safe basis business enterprise may develop without much regard to national finance, but the industrial development of the nation generally would not, so that the main thing at present was to get the finances of China into a safe position. I told him that I considered it of primary importance to bring about some harmony between national finance and public economy if China was to develop successfully her vast resources. Consequently I made the following three suggestions as essential to the prosperity of China:
 1. Reform of the monetary system. So long as the present antiquated system of money continues, varying, as it does, with various localities, every region will be independent of every other, and there can be no harmonious general development. The price of money at present changes almost every day, so that there is no safety in business transactions. Until China unifies her monetary system there is little hope of development.
 2. Improvement of the banking system. China has banks enough at present, but there is nothing common among them: no unity. There must be established a central bank on a firm basis, as in Japan, so as to bring about harmony in national economy.
 3. The method of dealing with the Annual Budget must be reformed, so as to bring about some attempt at balancing annual revenue and expenditure. The present lavish expenditure of money without any regard to its source, most of it being loans, tends to weaken national finance more and more, and will eventually lead to national bankruptcy.
  Without the above reforms I do not think China can establish herself on a safe basis and expect strength and prosperity.


竜門雑誌 第三一七号・第一八―二三頁 大正三年一〇月 ○日本及支那の商業的関係 青淵先生(DK320027k-0016)
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竜門雑誌  第三一七号・第一八―二三頁 大正三年一〇月
    ○日本及支那の商業的関係
                      青淵先生
  本篇は、十月発行のジヤパン・マガジーンに掲げられたる青淵先生の論文を和訳したるものなり(編者識)
 余の這般の支那旅行は、政府筋の内示を受けたるが為めに非ず、又た自己自身の利益を図らんが為めにも非らず、単に支那国及支那国民を親しく目睹するの機を得たしと、多年心中に希望し居りたる願を果さんが為めに過ぎざりしなり。
 余は孔子の信徒なり、孔教によりて我精神の修養をなしたり、孔子は余の常に畏敬する所の聖人にして、余は其論語を愛読す、其他の支
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那古典文学も余の好むで耽読する所なり、余は入りて家庭の人となる時も、出でゝ国家の為めに活働する時も常に論語を以て余が言行の準則となしつゝあり。
 忠孝の観念は、之れを我邦固有の教義に依りて涵養したりと雖ども社交に関する余が行為の原則は、之れを論語によりて学びたるなり、凡そ人たるもの、造次顛沛にも論語の教ゆる所を以て心とせば、恐らくは終始誤りなきを得るに庶幾らんか、独り悲しむ、今や孔子の遺訓は、支那に於ても之れを拳々服膺するもの少なきを。
 さあれ、孔子の墳墓は尚ほ支那に在り、孔子の信徒たる余が、遂に其墳墓に詣づるの機会を得たるは毫も異とするに足るものなく、其動機は耶蘇の信徒がエルサレムを見舞ひ、マホメツトの信者がメツカへ巡礼するに異ならず。
 先年彼の孫逸仙君が、日支両国の通商関係を改良発展せしめんとするの目的を以て本邦に渡来せらるゝや、余も同君と会談して具さに其問題を商議せり、当時余は同君に告げて曰く「支那の国富を進めんと欲するには、先づ其国内に存する天然的富源の開発利用を図らざるべからず、富源開発には技術其他の方面に於て堪能なる専門家を要す、支那にして若し自ら此等の専門家を得る能はずんば、日本は喜んで之れを支那に供給し以て富源開発事業の発展を助くべし云々」と、而して此談話は、ゆくりなくも、遂に日支両国の商業関係を密接ならしむるを以て目的とする彼の中国興業会社の設立を見るの端緒となれり。
 斯くて余は従来の儒教関係以外に、実業的関係をも支那に対して有するに至りたり、実に余が中国興業会社の設立を発起して、支那に対する実業的利害関係を抱くに至りたるは、毫も自己の名誉心を満足せしむるが為めに非ずして、全然日支両国の交情を深からしめんとするの動機より出でたるものなり、余不肖と雖ども、何んぞ私利を営まんが為めに該社を起こすが如き陋をなさんや。
 孫逸仙君が支那の国富発展を念とせるは、余が日本の国富発展を念とするに均しく、此点に於て余等両名は、実に共通の願望を抱きたるものと云ふべし。
 当時余は又た忠告を孫氏に与へて曰く「由来貴国の人士多くは力を政治の改革に注ぎ、実業の開発を思ふ者甚だ少なし、之れ貴国の病弊なり、望むらくは、君自から此点を三思し、深く心を国富の発展に傾注せよ」と、蓋し当時の支那は、維新前後の日本の如く、政治を念とするもの多くして、実業を思ふもの乏ぼしく、国富増進の問題に傾注すべき活力を、空しく憲法問題の争議に徒費するの有様に在りたるなり。
 尚ほ余は孫氏に「革命事業を完成せんと欲せば、須らく民心を産業の発展に向はしむべし」と告げたり、余は年歯孫君に長ずること多く且つ経験亦た君に比して深きの故を以て、敢て以上の忠言を氏に呈したるなり、而して同時に余は、余が生命のあらん限り、支那に対して諸般の助力を与ふるを吝まざるべきを誓ひたり、斯くて中国興業会社は起りぬ。
 同社の設立後、幾何もなくして宗教仁暗殺事件は起れり、而して袁
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世凱氏は暗に之れを教唆したりとして、世の非難を痛く蒙りたり、此暗殺事件の結果として、更に新たなる革命運動は起れり、孫逸仙氏は再び立ちて南部革命党の牛耳を執るに至りしかば、為めに氏は中国興業会社に対する氏の職分を遂行する能はざることゝなりたり、但し会社は純然たる商事的団体にして、且つ右第二回の革命以前既に設立を完了したるものなるを以て、毫も此革命の為めに吾人の態度を二三にするの必要はあらざりしなり。
 然りと雖ども、北京政府は深く該社設立の動機を疑ひて、頗る厳重なる調査を加ふるの挙に出でたり、於是乎余は北京政府の官吏に対して、具さに中国興業会社の性質及ひ其設立の目的を説明するの労を採りしかば、支那官憲も遂に其意を諒し、昨年冬に至り我外務省を通じて余の渡支を促がし来たることゝなりたり、而して余は、前述の如く何時かは孔子の墳墓に詣づるの素志を果たさんと思ひ居りし矢先きなりしかば、遂に意を決して這般の旅行を試むることゝなりたるなり。
 余は先年実業界より殆ど退隠したるを以て、自身は故さらに右中国興業会社の事務を管掌するを避け、単に相談役の地位に坐し、社務の一切は挙げて之れを倉知鉄吉君の手に委ねたり、又た同君は客歳社務を帯びて、北支那に於ける資本家等と会合せんが為め同地に赴きたることあり。
 又た孫逸仙氏及其与党は、第二回の革命以来該社の幹部より脱退したるを以て、其補欠として有力なる支那人の入社を見るに至らんことは、吾人の最も熱望して措かざる所なりき、而して此目的を達せんが為め、会社は其定款に改正を加へ、楊士琦氏を迎へて社長となし、斯くて本年四月に及びて、完全に其組織の改正を遂ぐるを得たり。
 余は今回の旅行中も、機を捉えて屡々中国興業会社に対する日本の態度及日本実業界の状態等を説明し、腹蔵なく其所見を開陳して、以て支那側有力者の誤解を釈くに努めたり。
 余の此度の旅行は先づ上海に到り、夫より長江を遡ぼり、漢口を経て北京に入りたり、北京を去りて天津に至り、図らずも病に冒され、遂に曲阜の孔廟参拝を中止し、同地より直に大連を経て日本に帰着したるなり。
  ○前掲英文記事中ニテハ、孔子廟ニ参詣シタルゴトク記シアルモ、ソノマヽトセリ。
 余の支那に在りたる日数は合計三十余日にして、其間余は一日五回より少なからざる演説を試みたることあり、而して余は至る処、重もなる市民と官憲とに会し、中国興業会社の目的を説明して、彼等の誤解を去るに努めたり、余は此努力の幸にして酬ゐられたるものあるを信じて喜びに堪えず。
 余は上海より北支に赴くの途次、最も欣羨に堪えざりしは、該地方に於ける富源の豊富なるの一事にあり、特に其気候の温和にして土地の膏腴なるには、垂涎を禁ぜざりし程なり。
 中国興業会社の新計画事業に関して、目下支那政府と交渉中なるが日ならずして其成果を得るに至るべし、又た英国は従来長江沿岸の地を以て其勢力範囲と見做しつゝあるが如し、故に中国興業会社は、右
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沿岸の地域に於て英国の利権を侵害するの嫌ひある如き挙措を採らざるべし。
 又た這回の旅行中、余は多数の支那大官及び其他の有力者と会見したるを以て、一々日本対支那の商業関係を改良発展せしむるの必要を説明したり、而して特に一名の支那大官は余を旅館に訪問せられ、流暢なる日本語を以て、日支両国の商業関係に関する自己の意見を開陳せられたり、而して其言は単に一箇人としての意見なりしと雖ども、余は之れに依りて、一般支那識者の意見を察知するを得るものと考へたり、氏は自己の意見を陳べたる後ち、徐ろに刻下日支両国間に存在する意思の疎隔を嘆ずるの言を漏らされたり、氏の語る所によれば、特に日本の新聞紙は、支那人の心を日本より離れ去らしむるの態度を具へつゝあるが如しと云ふ「袁総統の事とし云へば、一も二もなく之れを非難せんとするは、日本新聞紙の態度なり、支那国民は其非を非として攻撃せらるゝを厭ふものに非ずと雖ども、単に先入主的誤解の色眼鏡を以て、万事を曲解批評せらるゝは遺憾の極みなり、袁氏自身は日本新聞紙の記事を敢て意とせらるゝものに非ずと雖ども、然かも一般国民は、自己の代表的統治者たる袁世凱を痛罵せらるゝを見て、果して平然たるを得べきや否や、之れ大に考慮すべき問題に非ずや」とは、之れ右大官の余に告げられたる所なり。
 氏は又た言を続で曰く「人各々見る所を異にするを以て、支那人と雖ども、敢て日本新聞紙に対して、袁氏を謳歌せられたしとは希望せず、然りと雖ども、苟も其人格及政策を攻撃せらるゝには、正確なる根拠を有し且つ好意善情を以て攻撃の筆を採られたく、慢罵自から快とするが如き態度あるべからず、又た日本に潜在する支那の亡命者に対しても、日本国民たるものは其革命運動を煽ほるが如き措置を採られざらんことを希望す、国際法の条規によりて、日本が支那亡命客を保護せらるゝに就きては何等異存を唱ふるの余地なし、然りと雖ども所謂日本人中の支那党なる人士が、支那亡命者を煽動して以て自己の利を獲んと欲するが如きは、吾人の最も遺憾に堪えざる所なり云々」と、余は此大官の言を聞きて、心私かに肯く所あるを禁ずる能はざりき、而して我日本国民も、此言を聞きて、大に悟る所あるべきを信ずるなり。
 又た余が愈々支那を出発して帰朝せんとするに際し、曾て日本に遊びたることありと云ふ一大官は余を来訪して、余が支那視察によりて得たる意見を聴かんことを需められたり、余乃ち語つて曰く「今回の余の支那旅行は、余をして支那の政治及び財政問題に関し幾多の意見を抱かしめたり、さあれ政治に就ては余の語るべき限りに非ざるを以て、専ら財務の件に関して愚見を披瀝すべし、先づ目今支那の急務とすることは富源の開発なり、富の増殖なり、経済企業の発展なり、而して実業の発展は必ずや国家経済の堅実を待たざるべからず、故に支那の産業を発達せしめ、国富の増殖を図からんと欲するには、先づ今日の支那の財政をして万全安固の基礎の上に置くを急務とす、又た支那今後の繁栄を図からんと欲するには、差当り三箇の必要条件あり、即ち第一を貨幣制度の改革とし、第二を銀行業の発達とし、第三を国
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家歳計予算編成の改良とす、今第一要件より順次に之れを述べんに、現在の支那貨幣制は頗ぶる時代後れにして、各地各様の貨幣あり、従つて経済関係に於ては各地各々独立の姿を呈し、其間に一の統一なし又た貨幣の価格は日々変動極まりなく、為めに商取引に幾多の危険を生ず、之れ支那の発展を妨ぐること大なるものなるを以て、宜しく速かに幣制の改革を行ふべし。
 第二には銀行の改良発達なり、目下支那には銀行の数乏しからずと雖ども、然かも各銀行間には統一なく、業務の共通なし、故に此弊を匡済し、以て国家経済の整調を図かるが為め、確実なる中央銀行を創設するは焦眉の急務なり。第三に要する所の改良は、国庫歳入出の均衡を図るに在り、目下支那の財政、毫も財源を顧慮せずして支出を濫りにする傾きあり、然かも其歳入の大部分が借款に依れる収入なりと云ふに至つては、最も恐れざるべからざる所にして、若し今日の状態を長く継続せしむるに於ては、或は国家的破産の悲運に陥るなきを保すべからず、之れ余が予算編成の上に細心の注意を加へ、以て歳入出の均衡を図るべしと云ふ所なり云々」と、実に余は以上三箇の改良が支那に於て実行せられざる限り、同国の安全と発展とは、到底之れを期し難きを信ずるものなり。



〔参考〕対支回顧録 対支功労者伝記編纂会編 下巻・第一三七五―一三七八頁 昭和一一年六月再版刊(DK320027k-0017)
第32巻 p.582-583 ページ画像

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