デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
2款 中国行
■綱文

第32巻 p.598-614(DK320029k) ページ画像

大正3年7月2日(1914年)

是日栄一、銀行倶楽部晩餐会ニ出席シ、中国旅行談ヲナス。猶コノ前後、諸雑誌ニソノ見聞談等ヲ発表ス。


■資料

銀行通信録 第五八巻第三四五号・第九八頁 大正三年七月 ○銀行倶楽部第百八回晩餐会(DK320029k-0001)
第32巻 p.598 ページ画像

銀行通信録  第五八巻第三四五号・第九八頁 大正三年七月
    ○銀行倶楽部第百八回晩餐会
銀行倶楽部にては、七月二日午後六時より帝国「ホテル」に於て、第百八回会員晩餐会を開き、大隈首相を始め其他の閣員を招待せり、当日の来賓は、大隈総理大臣初め、加藤外相・若槻蔵相・尾崎法相・一木文相・岡陸相の諸大臣、仙石鉄道院総裁及過般支那漫遊をなし帰朝せられたる渋沢男爵等の諸氏にして、主人側の出席者百二十名の多数に上りたり、定刻六時三十分食堂を開き、晩餐を共にし、食後委員長早川千吉郎氏の挨拶あり、次いで大隈総理大臣・加藤外務大臣・若槻大蔵大臣及渋沢男爵の演説あり、十時三十分一同歓を尽して散会せり
○下略


銀行通信録 第五八巻第三四五号・第三三―四四頁 大正三年七月 ○銀行倶楽部晩餐会演説(大正三年七月二日)(DK320029k-0002)
第32巻 p.598-601 ページ画像

銀行通信録  第五八巻第三四五号・第三三―四四頁 大正三年七月
    ○銀行倶楽部晩餐会演説(大正三年七月二日)
      ○早川委員長の挨拶
○上略
終りに臨みまして、渋沢男爵が此頃支那から御帰朝になりました、御出発の前に当りましては、決して今回は利権を獲得するといふやうな目的ではなく、単に詩嚢を肥して戻つて来るといふ御話でありましたが、其後支那にお出でになりましてから御模様を承りますと、渋沢男
 - 第32巻 p.599 -ページ画像 
の御旅行に依て、最も吾々が重きを置くところの隣国の支那と日本との間が、大に融和を得たことのやうに承はるのであります、吾々は男爵の御無事を諸君と共に、此機会を以て祝するのであります
○中略
      ○渋沢男爵の演説
委員長及臨場の内閣諸公閣下、此倶楽部の晩餐会には、私は何時も主人位地で意見を陳述致しますから、今夕も其心得で出ましたところが今晩は此お席の客の一人にお算へを戴きましてございます、それは先月支那に旅行をしたゝめである、支那で沢山支那料理を馳走になつたによりて、又日本に帰つて斯の如き盛大なる御馳走を受くるといふことは、子から孫と利息を産み出すやうな訳で、銀行としては御馳走の利倍増殖と申して宜からうと思ふのであります(笑)○中略
次に私は支那旅行に付て今夕の御馳走を戴きましたが、支那旅行のお話は各地で申述べましたで、甚だ陳腐の言葉になりましたけれども、極めて簡単に一言申添へて、御馳走のお礼に致さねばならぬと思ひます、此旅行は何等任務を帯びませぬで、所謂漫遊であつた、併し漫遊中多少の用務を持ちましたのは、諸君も御承知の通り、昨年孫逸仙の来朝された時に日支の間に合弁会社を組織しました、其組織した会社が第二革命政変のために大に違却しましたのみならず、時としては誤解が生じました、蓋し国際間では其言葉の通じない、疑惑の多い場合に誤解の生ずるは無理ならぬことであります、仮令誤解たらざるも、今日の所では日本が長江筋に手を染るとか、或る利権を取らうとして居るとかいふやうなことを、屡々外字新聞に謡はれつゝある場合でございますから、何か支那に於て事を為さうとするには、其疑惑其妨害は実に推測られぬことであります、故に折角企てました日支合弁会社も、途中立竦まねばならぬ有様であつた。是に於て私の立場と致しましては、切に是が弁解に努め、漸く昨年其疑惑は解き得たやうでありましたけれども、其事業の著手に到らぬのは、いまだ疑懼の念に掩はれて居るやうに見えましたから、支那の官民に対して弁解する必要があると思ひまして、官から命ぜられたことでもなく、誰から頼まれた訳でもありませぬ、唯私の徳義上の任務としまして、曾て支那旅行を致したいと思つたことを遂げると共に、中日実業会社の誤解誤伝等があるならば、之を融解したいと思つて旅行したのであります、支那に於て各地方相会する人毎に、中日実業会社設立の事情は斯くある、又吾々経営の目的は斯様であるといふことを詳細に説明応答致しました上海を始めとして天津に参りますまで、大凡十四・五の都市を巡回しまして、多くは官辺の人、又は商務総会の人にも会見して再三再四談話を交換致しました、幸ひ北京には一週間余居りましたゝめに、此会社の首脳に立つべき楊士琦氏とも数回懇談しました、此同氏は相当に政治界の勢力もあり、年齢も耳順に近いのであります、北京滞在中同氏と屡々折衝致して、漸く此会社の事業着手順序の相談が遂げ得たやうに思ひましたので、帰国の後日本に於る首脳者倉地氏にも懇々其事を申通じましたが、今日はまだ事実に現はれて来ぬやうであります、併し北京に於ける官憲も、商務総会等の人々も、上海其他の商工業者
 - 第32巻 p.600 -ページ画像 
も、若くは外字の新聞紙等も、初め疑ひの目を注いだ程にはございませぬで、近来は余り喋々致さぬやうに見えますのは、仮令私の不敏不徳たるも、一箇月の旅行は只無能に了つたではなからうかと思ふのであります
此旅行中、北京に於て楊士琦氏と種々談話をして居りましたるに、楊士琦氏が申しますには、日本と支那とが協同して追々仕事をしやうと思ふのには、必ず要るものが経験と智恵と金だ、経験と智恵は日本人から貸して呉れるにしたところが、金は何処から出して呉れるであらう、支那は御承知の通り貧之だ、けれども日本も貧乏の点は似て居るやうである、さすれば金は他から借りなければならぬ、経験と智恵は日本から借りるが、金は日本から借りる訳にいかぬではないかと言はれました、先刻総理大臣閣下が、日本も支那に対して資本の事ではさう意張る訳にはいかぬと仰しやつたのは、楊士琦氏の言葉を想ひ回して、何だか有難くないやうな感じが致しましたが、丁度先月の二十三日に北京に於て、楊士琦氏と其談話をしたのであります、私は之に対して答へて云ふた、それは貴下の一を知つて二を知らぬのである、凡そ資本といふものは沢山あるからといふても無暗に来ない、何となれば資本は頗る臆病であるから、危険と思ふ処には来ない、安心だと信用するので来る、沢山有るから来るといふ訳ではない、若しも多く有るから来るのならば、資本家の多い国からドンドン放資しさうなものだが、さうはいかぬ、支那にも金持があるが、試に相談をして見なさい、容易に出さぬであらう、何程の金持でも実状の分らぬ仕事には金を出さぬ、日本は欧米と比較をしたならば貧乏に相違ないが、併ながら日本は支那を能く知つて居る、故に支那にて此事が有望とあれば、日本の資本家は必ず金を出す、詰り資本は事実を知るに於て初めて出るのだから、金が有りさへすれば出ると思ふのは、一を知つて二を知らぬものであるといふて私は弁解致しました、私の此断案が宜いか悪いかは、諸君の御判断に任せるとしまして、楊士琦氏と会つて一の談話を致しましたことを御聴に入れます、此他各地に於て談話したこともございますが、長々と此処で申上げる程の面白い問題はございませぬから、支那旅行の経過談は之に止めます
更に今一つ、恰も総理大臣閣下が今夕尊来に付て、私が往事を回想して、何やらん昔を偲ぶやうな心持が生じます、それは私の上海に参りましたのは今回で三度である、其初めは四十八年前、即ち慶応三年であります、其次は明治十年西南戦争の時であります、三回目は大正三年の五月六日であります、最初の事は暫く措きまして、二回目に参りましたのはどういふ用務かと申しますと、大隈伯爵が大蔵卿で居られた時に、支那の陝西省と甘粛省に一揆が起つて、此一揆を討伐するために、時の将軍左宗棠といふ人が其副将金順の兵に依て其一揆を討平げるといふので軍用金が要る、其金額は左宗棠の「札飭」を以て借り上げる、蓋し「札飭」といふのは左宗棠より許厚如といふ上海の道台に与へたる委任状の如きものであつたのです、依て日本から其金を借りたいといふ事を申込れて、支那中央政府の正確なる証書がなくても宜からうかといふことを種々研究して見ましたところが、其時の滙豊
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銀行といふのが香港上海銀行である、又麗如銀行といふのが「オリエンタル・バンク」である(其頃日本の横浜に於て十一番「バンク」と云つて居りました)此二銀行に就て段々調べて見ましたところが、左宗棠の「札飭」なれば大丈夫といふことであつた、それならば宜しいといふので、内実は大蔵省から金を貸すから、第一銀行の名に依て支那に金を貸しに行けといふのであつた、私は明治十年、即ち三十七年前に於て、既に第一銀行の頭取として支那に金貸に参つたものであります、明治初年に斯様な大仕事をした私程の者は、今日此お席には必ず無いに相違なからうと思ふのであります(拍手)而して此内命を下された大隈伯爵閣下が、今夕此処に御賁臨あられたのは、最も妙である、過日私は此事を上海で想ひ出しまして、或る支那人に話しましたが、其当時談判に与かりました許厚如といふ道台も、今日は影も形もありません、且其上海といふ土地も何れに飛んでしまつたか、今日の上海は全く新たに造営された様でありましたから、私の眼は昔の上海をどうしても認めるに由なくして去りましたが、併し眼は全く見忘れましたが、心だけは確に存じて居ります、況や今夕此処に於て恰も其時命令をお伝へになりました大隈伯爵閣下が、当倶楽部の晩餐会にお出で下すつて、私が支那談を申上げるお席に列して、此三十七年以前の事を陳述しまするのは、是れ位愉快なことはないではございませぬか(拍手)故に三十七年以前に支那に向つて、既に金貸を始めた私でありますから、是から中日実業会社が追々と仕事を持つて来ましたときに、斯の如く有力なる銀行者が沢山居つてからに、些細なる金額に付ても彼の銀行に行くといけない、興業銀行に行くと他の銀行に行け第一銀行に行くと何処の銀行に行けといふ様では、誠に情ないと私自身が銀行者として尚嘆ぜざるを得ぬのであります、どうか是等の苦情を申上げさせぬやうに、私をして満足させて下さることを懇望して已まぬのであります(拍手)


竜門雑誌 第三一五号・第七六頁 大正三年八月 ○青淵先生慰労会(DK320029k-0003)
第32巻 p.601 ページ画像

竜門雑誌  第三一五号・第七六頁 大正三年八月
○青淵先生慰労会 大日本実業協会にては、会頭青淵先生の支那旅行慰労の為め、七月十八日午後六時より築地精養軒に晩餐会を催し、席上青淵先生には謝辞を兼ねて、一場の支那漫遊談をなされたる由


実業之世界 第一一巻第一三号・第一九―二二頁 大正三年七月一日 ○支那視察中最も痛切に感じたる一事 男爵渋沢栄一(DK320029k-0004)
第32巻 p.601-605 ページ画像

実業之世界  第一一巻第一三号・第一九―二二頁 大正三年七月一日
    ○支那視察中最も痛切に感じたる一事
                   男爵 渋沢栄一
 今回の支那視察に対する、私の抱負の一端は、渡支前にお話して置いた処である。実は満洲方面をも廻つて来る筈であつたが、微恙の為め已むを得ず、残念乍ら中途引返して、去月十五日帰京した次第である。
   △上海の一日
 五月の二日に東京を出発して、上海に着いたのは六日であつた。一行は馬越恭平氏・尾高次郎氏、其他合せて十二人、途中で一人加つて十三人になつた。
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 上海には、上海知事とか、都督のやうな武官の官庁もあり、警察署もあり、日本の領事館もあり、又一方には、支那の有力家の集りなる商務総会といふものがあつて、是等の人々が私共一行を迎へられ、総ての点に於て便宜を与へられた。殊に四月二十五日、日本に開かれた中日実業会社の総会に列席した、北京の孫多森、上海の周金箴・朱葆三・印錫璋の諸氏が、丁度私等と一緒に帰られたので、上海着の上は一層便宜を得る事が多かつた。私の用向は唯だの視察に止つたのではあるが、丁度上海には中日実業会社の支店もあり、多少の株主もあるので、是等の人人とも、商務総会の手に依つて面会し、事業上の相談などもした。又、官憲の向きへは、此度の支那漫遊の理由などをも述べる必要があるので、我より訪ね、彼からも訪ねられて、到着の日は暮れ、晩になつては領事館などからの招待会に臨んだりして、殆んど寧時無き有様であつた。
   △西湖の風景
 翌日は鉄路杭州に入つた。杭州には西湖といふ有名な湖があり、山水の明媚、恰かも我が近江八景を彷彿させる。宋末の忠臣、有名な岳飛の石碑も此処にある。又西湖を見下す呉山といふ山があつて実に風景絶佳である。山の反対の側には銭塘江が見える、高い所からは海も見える、此の海は例の浙江省の浙江であつて、海潮が余程高い。秋、湖を眺むるに最も適当な地として有名である。其の傍に杭州といふ町があつて、都督府・民政庁などがある。此処でも領事などの世話で、土地の見物やら自分の用向きの談話やらで、終日を訪問と御馳走と接侍と併せて西湖の観光とに送つた。
 此処で私の最も感じた事は、岳飛の石碑から丁度二・三間を隔てゝ当時の権臣奸佞邪智な秦檜の、鉄で造つた小さいみすぼらしい像が立つて居た事である。御承知の通り、岳飛は宋の名将で忠臣であつた。秦檜は宋の権臣で、非常な佞人であつた。当時宋は金から侵されて居たので、岳飛をして之を討たしめた、処が金は秦檜に啗はすに利を以てして、岳飛を除かんと図つた。佞人秦檜は己れの権勢を恃み、将に金を討亡ぼさんとして、非常な勢を以て進みかゝつて居た岳飛を呼び戻し、謀反の企てありと誣ひ、終に是を殺してしまつたほどの奸臣である。此忠奸二臣の碑が相並んで建て居る。
   △忠奸の墳墓
 近世に至つても、岳飛の忠烈は益々慕はるゝに反し、秦檜の佞奸は益々憎まれ、石碑に迄も之が現はれて居る。一般参詣者も一方岳飛に対しては、其の忠節義烈を偲び、香花を手向けて之を祭るが、一方には香花どころか見向きもしない。甚だしきは小便を引かけたりして、其の不忠を憤る位である。当時岳飛は失敗したけれども、今日は実に成功して居る。秦檜は国家の総理大臣であつて、飛ぶ鳥をも落す程の大勢力を有して居たけれども、今日は如何の状であるか、忠奸の後代に於ける差異、斯の如きを見れば、人間は生前のみを以て一切を判断してはならない。是は私の常に云つている処である。楠正成と、足利尊氏と、何れが果して真の成功者であるか、菅原道実と、藤原時平と何れが果して真の失敗者であるか。人間の真価は所謂蓋棺の後に非ざ
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れば、得て知る事が出来ない。
 私は此の忠臣と奸臣と、義人と佞人との対照を目のあたり見て、深く感ぜざるを得なかつた。殊に支那に於ける一般人民の忠君愛国の情は、日本国民と同一ではない。其支那に於てすら斯の如し、況んや日本に於てをや。我々は大に心したい事と思ふ。是は私が支那漫遊中に於て最も痛切に感じた一事である。
   △蘇州の蚕業
 其の晩は杭州に泊つて、翌日蘇州に行つた。此処でも民政庁の午餐会に招かれたが、席上、私の支那旅行に関する趣意を述べ、将来益々日支実業の聯絡を完全密接にしなければならぬ、それには、互に相侵すとか、相掠するとか云ふ手段でなく、共に提携して行かなければならぬ所以を明らかにし、論語と算盤といふ事で話をした。私は到る処で、論語と算盤に就て話をして来た。
 蘇州で最も注意すべきは養蚕業である、ナカナカ盛んなもので、桑なども至極善く、農家の副業としてやつて居る体裁は日本と同じ事である。桑の性質は未だ改良すべき余地多いが、如何にも地味がよいので立派な桑が出来てゐる。それに労銀が安い、出来た糸は引きが強く光沢もよいから一割位も高い。而も余り丹精せずして斯の如し、実に我が強敵と云はねはならぬ。我が養蚕家は余程此の辺に注意を払ひ、奮励一番されん事を希望する。
 蘇州を一覧して、再び上海に帰り、十日の夜特別列車で南京に向つた。都督府を訪問すると、到る処楽隊や兵隊を以て迎へられ、中には騎兵などつけられ、却つて難有迷惑を感じた位であつた。
   △古都の荒廃
 南京は六朝の時、国の都と定め、明の太祖また彼処に都せられた、是れ即ち南京の称ある所以である。規模は大きいが、町は頗る荒れ名所も衰頽して、今から五・六年も経たら廃滅に帰しはしまいかとさへ危ぶまれる。それで私は都督馮国璋に会つた時、古い物を粗略にするのは人情であるが、必ず後悔されるから、今の中に保存に努めたら如何かと忠告した処、お前は国の富を増す事に就て心配してくれ、そんな事は百も承知だといふやうな風であつた。
 其晩南京を去り、下関から船に依つて揚子江を溯つた。揚子江の川幅は非常に広く、汪洋として千里声無く、帆影ゆるく雲に入る処、川か海か分らない程である。舟の進むに従つて移り変る両岸の景は千変万化、一望十里の平野があるかと思ふと、突兀として山が眉を圧して現れる。其の中には有名な赤壁もあれば潯陽江もあり、快言ふべからずである。九江に寄つて休憩して大冶に着いたのが十四日であつた。
   △大冶の鉄山
 此の大冶の鉄山は、揚子江の両側に属し、川から山まで丁度十八哩もあるそうである。が、鉄道の便があつて、鉱石を河口に運搬して居る。未だ設備は十分とは云へないが、併し実に盛大なもので、未だ曾て斯ういふ立派な鉄山を見た事がない。嘗て亜米利加に行つた時、ビユーテと云ふ所で、大北鉄道会社の経営して居る鉄山を見た。それは立派なもので、斯の如き原料豊富な山が現れては、日本は鉄に於て亜
 - 第32巻 p.604 -ページ画像 
米利加とは到底競争が出来まいと落胆した程だつたが、此の大冶の鉄山はより以上のものであらう。掘鑿が楽な上に全山皆な鉄である。片端から切崩して之を運搬すればよいといふ有様で、私共は実に天恵に富んだ国だと賞讚した訳である。其の近所にはセメントの原料になる石が沢山あるので、セメント工場もある。鉄に就ては我が正金銀行と金融上の大なる関係があつて、大冶の鉱石を日本に取る契約になつて居る。さういふ関係から、頗る幸な事と喜んで居る。後日本に帰つて若松の製鉄所で聞いて見ると、原料の過半は、大冶から来て居るさうである。
   △総統に謁見
 去つて、漢口・漢陽・武昌等を視察し、北京に着いたのは十九日の午後であつた、着早々公使の晩餐会に招待され、翌日からは諸大官を訪問したり、自分の用務を達した。時恰かも諒闇中なので、公使は宴会等には出られぬといふ事であつた。然し折角来た渋沢に、唯だ名刺を持たせて諸大官を訪はせるのも如何あらんと、自ら東道の主となられ、或は国務卿の徐世昌、外務総長の孫宝琦、内務総長の朱啓鈐、其の他総長・長官連中に案内の労を取られた。
 二十一日には、我々一行中の八人、公使に同道されて大総統に謁見した。大総統の謁見と云へば、むづかしい形式でもあつて、我が宮内省に於けるが如き有様かと思ひきや、至つて簡易なものであつた。住居は、旧皇居の一室を其の儘用ゐてあるので、普通の家に比べると大きく立派なものであるが、併し接客の具合は至つて簡易で平民的である。総統は其広い室の奥の方に座して居るのであるが、我々が謁見した時には、自ら入口まで出迎へられ、握手を交換して椅子の所まで導かれ、そこでいろいろと話をすると云ふ風であつた。
   △意見の交換
 総統の曰く、日支両国の実業の聯絡は予の深く且つ久しく希望せる所である。然るに今や日本に於て十分なる経験を有し、日本の実業を発達せしめた貴下が来朝して、独り両国実業の聯絡を計るのみならず当国に於ける事業に対し十分なる注意を払はるゝ段、誠に辱けない。貴下に対しては、各方面に命じて礼を以て迎へ、情を以て接するやう伝へて置いたから、今後も十分に力を尽して貰ひたい、殊に貴下の尽力に依て、此処に中日実業会社も出来、楊士琦が専ら之に任じて居る是等の人々も勉強するであらうけれども、実務を知らず、又経験に乏しい、故に経営に就ては、一に貴下の指導誘掖に俟つ、而して両国間に於ける事業の順調に発達するやうに是非尽力して欲しい云々。私は之に向つて、大略左の如き答辞を述べた。懇切なる御言葉を賜はつて不肖光栄の至り、只だ老耄、十分のお役に立たぬ事を恐るゝのみ。自国に於ては既に老後の故を以て、総ての事業に携る事はやめて居る。併し斯様な御懇命を受けたのであり、殊に両国の合弁会社も老生の発起に依つて組織された以上、力の続く限りは助力しやうと思ふ。殊に当局者にそれぞれの人がある。貴国には楊士琦氏あり我国には倉知氏がある、氏等の才幹に老生が実験上の力を添へたならば、必ず成功は期し得られると信ずる。但し事業の緒に着く手続等に就ては、大に御
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助力を仰がねはならぬから、閣下からそれぞれ十分御交渉の程を願たい。云々。
 公使も、傍から口添へをせられて談は終つたが、其の間三・四十分位であつた。是が北京は勿論、今回の行に於て一番重要な会談であつた。
   △彼我の融和
 此の行を、列国はどう見たか知らぬが新聞紙などには、何か利権の獲得を目的としたかの如くに伝へられた。私の意は固より日本政府からも何等命ぜられた事もなかつたが、支那官民の間には、さう云ふ風に誤解し、幾分か懸念して居る者もあつたやうである。併しながら今回の旅行は、利権の獲得どころではない、寧ろ支那の事業を進め、其の富を増すことに努める為めであるといふ事を、咬んで含めるやうに話した処、実業とはさう云ふものかと、先方も大に安心したやうである。それで相互の誤解も解け、幾分か両国実業家を親密ならしめ、又よく意志を融和せしめたことは、聊さか自画自讃の嫌ひがあるが、実は大に喜んで居る次第である。北京には商人肌の人は、余り無く、多くは官辺との交際で、外務総長・国務卿を初め朝野の諸名士から訪問を受けたこと、都合八回、いろいろと意見談話を交換した。
 二十六日で北京の滞在を終り、二十七日に天津に向けて出発した。天津に着するや、直ちに都督を訪ひ、警察署長を訪ね、領事館に行くといふ風で、東奔西走してゐる間に竟に病を獲、熱を計ると大分高いといふ訳で、一行の人々も心配した。殊に曩には水野参事官が急病で仆れ、次いで二十七日の晩には、北京出発の際停車場まで送つて来られた山座公使が、心臓麻痺で仆れるといふ始末で、一層一行の神経を悩ました。馬越君などは非常に心配して、どんな事が起るかも知れぬから、早く旅行をやめて帰朝しやうと云ひ出したので、終に已むを得ず旅程を変更して、一先づ引上げる事になつたのである。


竜門雑誌 第三一五号・第二三―二八頁 大正三年八月 ○支那漫遊見聞録 青淵先生(DK320029k-0005)
第32巻 p.605-610 ページ画像

竜門雑誌 第三一五号・第二三―二八頁 大正三年八月
    ○支那漫遊見聞録
                      青淵先生
  本篇は青淵先生を顧問とせる雑誌向上記者の訪問に対し、青淵先生が語られたる支那視察談にして、特に青淵先生の検閲を経たるものなり、掲げて参考に資す(編者識)
一 私が支那漫遊の希望を抱いて居つたのは、一朝一夕のことではない。機会があつたら、あちらの古蹟文物を探つて見たいと思つて居たのである。殊に浅薄ながらも、幼少の時より漢学を好み、詩文を作るやうな事もあり、四書・五経・八大家文・古文真宝等の或部分は暗じて居るので、彼の洞庭湖・西湖・赤壁抔も、詩文の上で、斯うでもあらうかと想像して見ることもあり、一度は其実地を見たいと思つて居つた。又、修身上の学問としては、少年の時分から論語を親に教はり先輩も指導誘掖して呉れたから、遂に習ひ性をなして、孔孟の書は一身の憲法と心得て居たのである。勿論私も欠点の無い者ではない。自分も之あるを承知して居る。然し、正義と人道とに外づれる行為は無
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いと信じて居る。左様な訳であるから、是非一度は曲阜にある聖廟に参拝したいと思つて居つたけれども、世事多忙日も亦足らずといふやうな次第で、日一日と延び遂に今日に至つたのである。処が昨年の春偶然中国興業会社を組織することゝなつた。是れは私が昨年の春来遊した孫逸仙氏と相談して設立したのであるが、其後彼が第二革命を起すに及んで、此の会社は支那政府より多少の疑惑を受け、或は水泡に帰するの恐なき能はざる情況であつた。然し是れは非常の誤解であつて、私が中国興業会社を創立したのは、単に日支間の実業の聯絡と其発展を期したるまでにして、固より経済に国境のあるべき筈なく、況や南北抔は問ふ所でなかつた、去りながら是等の疑は何とかして解きたいものであると思うて居つた。其後支那政府の大官中にも、両国合弁会社の設立に就いて、私の北京旅行を望まれた人もあつたので、自分は益々渡支の念を高むるに至つた。然るに当時は折悪しく病気に罹り、医師の注意に従つて見合すことにしたが、漸く時を得て本年五月二日に出発して、多年の望を果すことになつた訳であります。
二 旅行の順序は、上海へ着後、長江を溯つて漢口まで行き、それより湖南・湖北の地にも入る目算であつたが、出発前に変更して、漢口から北京に出で、天津・済南・曲阜・膠州湾を経て、満洲に入り、朝鮮を経過して帰朝する予定であつたが、天津に着いてから、偶ま発熱があつて少しく疲労を覚えて来た。夫も私自身は、左までに思はなかつたけれども、馬越君及一行中の人々が大層心配され、殊に其際、山座・水野の両氏薨去の報がありて、風声鶴唳と云ふやうな有様で、一行から大層な病人扱ひにされた。天津に着いたのは、五月二十七日であつたが、其三十日に独逸汽船の大連に行くのがあり、六月二日には大阪商船会社の船が、大連を発して門司へ行くといふので、此の便によれば、六月四日には門司に着かれることになる。殊に北京に於る用事は一通り済んだ事であるから帰国するが好からう。との事で、如何にも残念であつたが、親友同行者の忠告でもあり、他郷に於て発病せし事でもあり、殊に馬越君の如きは、必ず将来共に曲阜に再遊するから、今回は帰国せよと懇切に勧告して呉れたので、自分も思ひ止ることにした。支那政庁では、私が曲阜の聖廟に参拝し泰山に登ると云ふことを聞いて、特に鉄道の便を設け、テントなどをも用意して呉れたのであるから、老年のことでもあり、病気の為め止むなく見合せたいといふことを、丁寧に諸方に電報をして申訳を為し、三十日に天津を発し、三十一日に大連に着し、六月一日は旅順を一覧して、大連に帰り、二日大連を発して四日に下関に着し、それから九州に入つて、知人の案内により、戸畑の明治専門学校、大分・別府・中津等の各都邑に遊び、滞在中、数回の会合で支那談を試みた。殊に戸畑の専門学校は親友安川敬一郎氏の創設にして、一覧して其注意の周到なると、百事の整備せるに感服した、又大分には私の古く世話した銀行があり、中津は故福沢先生の出生地であるから、此等各地の会合はなかなかの盛会であつた。
 馬関では商業学校や経済会に出席して講演を試み、馬関出立後も広島に立寄りて一場の講演を為し、夜汽車で神戸に行き、それから大阪
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京都等で、現時の経済観・支那談等を試み、十五日無事東京に帰つたのである。此旅行は五月二日から六月十五日まで約一ケ月半の日数を費した。此れが旅行の大要であります。尚旅行中の見聞を二・三お話ししませう。
三 私が上海に参つたのは、今回で三度になりますが、最初は維新以前、其次は明治十年、それから今回と、行く度に面目の改まるのに驚かざるを得ぬ、昔の面影は川の形を残して居る位であつて、曾ては葦のみ茂つて居た土地が、今では立派な町となつて、大厦高楼が建築されて居る。其繁華は実に東洋の一大要港と称すべきである。当地では中日実業会社支店の関係者と懇談するの機会を得た。官憲の向へも、我より訪ね彼からも来訪せられた。殊に総督丁如成といふ人抔は武人ではあるが、実業振興の必要を語り、私に充分の助力を頼むとの話もありて二回程会談した。当地も支那全体の風習として多少官尊民卑の風はあるが、全体に官民の間は親しく見受けられた。
四 此地には有力者を集めた商務総会といふのがあり、其主催で私の為めに官民合同の宴会が開かれた。会衆は百八十人程あつて、夕方から古書画を展覧し、文人連も来られて、詩を作り席画を為すといふやうなこともあり、それから余興として、支那劇を観せられたが、鳴物の音の高いので、大抵聾になりさうであつた。観るといふよりも聴く方が主のやうに思はれる位で、大体から言ふと、日本の能楽に似て居る。脚本は三国誌又は春秋の故事に採つたものであつたが、狂言の区切がわからぬ程、次へ次へと遷つて行くから、見馴れぬ人には殆んど要領を得ない。それが了つて宴会になつたが、私は其席上で先方の挨拶に対して、答辞を述べて其厚遇を感謝し、それから自分の持論である論語算盤主義を演説した。
五 論語算盤主義とは平易に言ふた言葉で、つまり仁義道徳と生産殖利とは決して矛盾すべきものでなく、寧ろ大に一致するものであるとの意味で、即生産殖利は、仁義道徳によつて一層完全に維持さるべきものである。私は此の意味に於て、新聞紙にて報道する、商業は平時の戦争なりとの説に反対するのである、戦争は相互に他を害するを目的とし、其結果一方が益すれば必ず一方の不利を来すのであるが、商売は決して其様なものではない、相互の利益を謀るのが目的であつて一方の利益にのみ偏すべき筈のものではない。商業と戦争とは全く違ふ、其れであるから大学にも、財を生かすに大道あり、之を生す者は衆く、之を食む物は寡く、之を為る者は疾かに、之を用ふる者舒かなるときは則ち財恒に足る。と申して生産殖利と仁義道徳とは一致すべきものであることを示して居る、其他論・孟等にも之に関する適切なる教訓が示されてある。是れが私の論語算盤主義の大要で、上海の宴会でも此意味を敷衍して述べたのである。
六 上海に着いたのは五月六日であつたが、其翌日は鉄道で杭州に行つた。杭州には西湖と云ふ有名な景勝の湖水があり、其の辺りに岳飛の石碑がある。その碑から四・五間程離れた所に、当時の権臣秦檜の鉄像があつて相対して居る。岳飛は宋末の名将で、当時宋と金との間には屡戦ひがあつて、金の為に宋は燕京を掠奪され、南宋と称して南
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方に偏安した。岳飛は朝命を奉じて出征し、金の大軍を破つて、将に燕京を恢復しやうとしたのであるが、奸臣秦檜は金の賄路を得て岳飛を召還した、岳飛は其の奸を知つて、臣が十年の功一日にして廃る、臣職に称はざるにあらず、実に秦檜、君を誤るなり。と言つたが、彼は遂に讒によりて殺された。此の誠忠なる岳飛と、奸佞なる秦檜とは今数歩を隔てゝ相対して居るのだ。如何にも皮肉ではあるが、対照また妙である。今日岳飛の碑を覧に行つた人々は、殆んど慣例のやうに岳飛の碑に向つて涙を濺ぐと共に、秦檜の像に放尿して帰るとの事である、死後に於て忠奸判然たるは実に痛快である、今日支那人中にも岳飛の如な人もあらう。又秦檜に似たる人がないとも言はれぬけれども、岳飛の碑を拝して秦檜に放尿するといふのは、是れ実に孟子の所謂人性善なるに因るのではあるまいか。天に通ずる赤誠は、深く人心に沁み込んで、千年の下猶ほ其の徳を慕はしむるのである。是を以ても人の成敗といふのは蓋棺の後に非れは、得て知る事が出来ない。我国に於ける、楠正成と、足利尊氏も、菅原道真と藤原時平も、皆然りと言ふべきである。此の碑を覧るに及んで感慨殊に深きを覚えた。
七 西湖に五山といふのがあり。之に登れば、西湖を瞰し銭塘江を臨み、又遥かに浙江を望むことが出来る。此浙江は浙江省の海で、海潮が高く観瀾の名所としてある。又此山から一方を望むと、市街が白壁を囲らしたる処、頗る美観である。杭州を去りて小蒸汽船で運河を通じ翌暁蘇州に着した。此地は養蚕の名所で、我邦に最も注意を要することゝ思ひ、詳細なる調査を為したく企望した。杭州も蘇州も其周囲は一つの城をなして居る。城と言ふても我国のものとは違ふ。城廓を廻らして、其の中に宮殿もあり、商店もあり、農村もあり、幾多の住民が其業を営んでいる。つまり城といふは一の大きな煉瓦塀の垣根であつて、其塀の上は幅四・五間もあり、人の往来の出来るやうになつて居る、其高さ五十尺程もあらうと思はれる。杭蘇ばかりでは無く、支那の城と言へば、大抵此の様なもので、北京でも、南京でも、唯大小が違ふといふ丈で、皆同じ様なものである。
八 楓橋夜泊で有名な寒山寺へ行つて見たが話す程のものではない。殊に鐘も叩いて見たが、夜半の声は聞くことを得なかつた。蘇州から汽車にて再び上海に還り、五月十日の夜汽車で南京に行つた。南京は六朝時代の都で、明の大祖の考陵のある処、規模は大きいが今日では見る影もなく荒れ果てゝ、五・六年も経つたら殆んど廃滅しはすまいかと思はれる。其他種々の古跡もあるが、同様に見えるから馮都督に会つた時、古い物を粗略にするのは革命当時の常であるが必ず後悔される時期があらうと思ふから、今の中保存に注意されたらよからうと申した、然るに馮都督はこれに耳を借さずして、貴下は国の富を増すことに就て心配して呉れ、古跡保存などは百も承知だといふ風であつた。其翌日南京を去り、下関から蒸汽船で長江を遡ることにした。下関は南京の近傍にあつて、長江に接し、江の北岸なる浦口には英独両国の経営に成る津浦鉄道があるが、是れが完全に聯絡するやうになつたら、南京は勿論、其沿岸も余程繁華になる事であらう。此下関より愈々長江を遡る事になつたが、江の幅は一里余もあつて、汪洋として
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広く、海であるか河であるか判からぬ程である。進むに随つて山岳現はれ、洲渚来り奇勝応接に閑あらざる程である。船は九江に寄つて碇泊し、一行は領事館に休んで地方の人士に会見し、附近の勝を探ぐつた。尋陽江は此附近にある。尋陽江は此辺だと聞いて、琵琶行を懐ひ浮んだに過ぎぬ。それから進むで大冶鉱山である。採鉱の場処は江岸から鉄道で十八哩もあるさうであるが、盛に鉱石を運搬して居る。此鉄山の規模は実に壮観を極めたものである。先年亜米利加の大鉄山を見て居るから、左までに驚かない積であつたが、実に其の盛大にして採掘の簡便なるに一驚を喫した。更に設備の改善をしたらば、一層の産額を増すであらうと思ふ。我が枝光製鉄所の原料は、過半此鉱山に仰ぐのである。大冶鉱山の一覧は朝より夜に入るまでにして終了し、其夜西沢氏の宅にて宴会あり、畢りて更に乗船して一昼夜にて漢口に着いたが、漢口は上海から海路六百哩上流であるといふが、川幅は中中広大なものである。江は上流にゆく程水流が急になるが、我国の川とは余程趣きが変つて居る。日本の川は冬分は水が減つて、石が出るのであるが、長江は決してそんなことはない、恰も利根川の関宿附近のやうにして更に広大なるのである、東坡が江流声あり。断岸千尺、山高く月小に水落ち石出づ、曾ち日月も幾何ぞ、江山も復た識るべからずと言ふた後赤壁の賦は、聊さか不思議に思はれた。之れは我耶馬渓辺りで見らるゝ光景だらうと思ふ。然し前赤壁の賦に、白露江に横り、水光天に接す。一葦の如く所を縦にして、万頃の茫然たるを凌ぐ浩々乎として虚に馮り、風に御して、其止る所を知らざるが如く、世を遺れ独立羽化登仙するが如し、と言ふたのは、真に近いやうに思はれた。
九 漢口からは、汽車で北京に赴いたが、乗合でなかつたので便宜であつた。其の間名勝もあり古蹟も多い、黄河を渡つたのは夜分で、眠つて居つたから知らすに過ぎて了つた。北京には一週間滞在して、袁総統以下の大官に会ふことが出来たが、商人の少い所であるから、大商人に会ふことは出来なかつた。到る処、論語算盤を説き、日支実業の提携を談じて、王侯貴人より商工業者に到るまで、手を換へ品を代へて之を説いて来た。二十四日は御大喪に付て終日外出を見合せ、謹慎して居たが、外交・教育・農工・商部の閣員四五輩が順次に訪ねて来られ、種々意見を交換し、胸襟を開いて談論した。
一〇 旅行談も諸方の新聞雑誌にも、其大要を話して置いたことであるから、帰途は略してこれ丈にしやう。要するに今回の旅行は、中日実業の聯絡機関を造りしことを紹介し、其の機能を充分に働かしむるやう説明して参つたのであつて、何等利権獲得とか、政略的意味のあつた訳ではない。従つて此等の事は政治上の力を藉りてやるべきではなく、民間の経営として永久の持続を願ふのである。詰り私の平日談論して居る論語算盤主義を説明して来たまでゞある。自分の考へでは其の目的も幾分は達しられたことゝ思ふ。尚支那の現状に就て一言を添へれば、支那一般の有様は貧富の懸隔余りに甚しく、殊に北方には中流階級が無いと申してもよい位である、加之彼国民は、個人性のみ発達して居るから、国家の前途は中々困難であらう。又財政なども余
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程考へぬと危殆に陥らぬとも限らぬ。是等は彼の大官にも、充分注意を促して置いた。


太陽 第二〇巻第一〇号 大正三年八月 支那漫遊所観 男爵渋沢栄一(DK320029k-0006)
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太陽  第二〇巻第一〇号 大正三年八月
    支那漫遊所観
                   男爵 渋沢栄一
    一 利権問題の将来
    (イ)列強の経済的見地
 支那に於ける欧米列国の利権獲得運動は頗る猛烈を極め、従つて他国の一挙一動に就て注目監視懈らざるのみか、動もすれば猜疑の眼を以て之を観んとするの風あり、今次予が支那に漫遊するに方りても、其の真意が利権の獲得にあるかを疑ひ「ノース・チヤイナ・デーリーニユース」の如き、或は本邦外字新聞「アドヴアータイザー」の如き斯の言をなし、又両三ケ月前倫敦「タイムス」も亦同じく日本の支那関係事業につき云為せり。英国は穏和なる国、倫敦「タイムス」は特に穏健を以て聞えたる大新聞なるに拘らず、猶支那に於ける我国の行動に神経を過敏ならしめたる如き、又以て支那に於ける利権問題が如何に紛糾せる一個の国際的問題となれるかを推知するに足らむ。
 支那に於て欧米各国が活動せる実際の状態を見るに、独逸は膠州湾青島を根拠として、唯に其租借地の経営に努むるに止まらず、租借地以外にも活動の手を延ばして種々の計画をなし、又米国は曩に六国借款より脱退せるも、此脱退たる支那に対する関係を全然断絶せんとするが為めにはあらで、新らたに新活躍の余地を求めんとする前提に過ぎずとせられしが、果せる哉最近に至り、陜西省の石油事業に一指を染めんとし、支那にとりては前国務総長熊希齢氏之に関係し、巨額なる資本金に「ウオター・ストツク」をも加へて、大会社を起さんとせり。蓋し陜西省の石油事業は、我中日実業会社に於ても夙に之に着眼し、昨冬調査を為して支那官憲に交渉を試みたる由なるが、突然当春米国の一事業として現はれたるものなり。又仏蘭西は中法銀行を起し追つては支那中央銀行たらしめんとする計画なりと伝へられ、白耳義は露国の名義の下に鉄道事業に資金を放下し、英国が長江流域を其勢力範囲となし大活動を為せるは人の知悉せる所にして、長江航行の汽船会社には大估洋行・怡和洋行等あり、陸上の運輸には京漢線を其掌中に収め、又天津より浦口に到り長江に接する支那南北貫通大幹線、所謂津浦鉄道の南半部を其経営の下に置けり。其他港湾・陸上諸設備に至りては、一々之を数ふるに遑あらず。
 以上は是れ余が今次実地に著き親しく見聞せる一二を挙げたるに過ぎず、此外に上記諸国の支那内地に放資若くは経営せる鉄道其他種々の事業枚挙に遑あらず、故に現勢より推測したらんには、利権問題の将来が如何に国際的に紛糾し、如何に各国共に之が経営に競争すべきかは自から明瞭なるべく、玆に予が喋々を待たざるべし。
 次に政治上の影響につき述べんに、各国の利権争奪、支那関係事業経営につきては、之が背後に政治上の力を待つべきは勿論にして、各国は支那の政治状態の平穏ならんことを希望し、何人が統治の任に当
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るを論ぜず、凡て動乱なく静謐の永続して経済界の攪乱さるゝなきを熱望するは、又言を俟たざる所なり。
    (ロ)支那将来の見地より見たる対策
 支那が天賦の富源に充ち、無尽の宝庫を擁せるは言を用ゆるまでもなく、欧米各国の相争ひて利権獲得に熱中せる一事を以ても、之を推知するに難からず、而して一方には支那人間に利権回収熱亦熾なり。然らば支那は将来各国より要求する利権を峻拒し、之を禁遏するを以て国家の利益となすか、将た各国の請求するまゝに彼等に利権を与ふべきか、此対策如何にして可ならむ歟。
 近世の文明的産業組織未だ十分に発達せず、開拓の余地頗る多き支那に於て其宝庫を開かんとするには、勢ひ自国に欠乏せる資本と近世的殖産の知識を輸入せざるべからざること勿論なれば、偏狭なる思想に捕はれ之を拒絶するは策の当を得たるものに非ず、さればとて各国の請求するがまゝに、一々其言を容れ利権を彼等に許さんか、殆んど際限なかるべく、孟子の所謂交々利を征して国危く、奪はずんは饜かずと云ふことにも立ち到らん。然らば如何に之を処すべきか、即ち与へざるも不可、与ふるも不可にして、要するに与ふべきは与へ、与ふべからざるは与へざるを宜しとす。之を事物に付き分類して一々例証を挙ぐるは困難なるも、国家の事業として飽くまでも保持せざるべからざるは断乎として拒絶し、自ら其経営に当るべく、然らざるものは惜む所なく外国の要求に応じ資本と知識とを入れて、其富源の開発に資すべきなり。是れ一挙両得にして、自国をも利し併せて他国をも利し、而かも其半面何等の損傷を被むらざるべし。之を要するに許すべく、許すべからざるかの選択宜しきを得るにあり。
    (ハ)日本の対策
 今次余の渡支するや、先づ上海にて海関総税務司アグレン氏に面会せるに、氏も亦余の渡支を利権獲得にあるやに誤解せるものゝ如く、利権獲得につき云為したるを以て、余は笑て之に対へて言ふに、日本が支那に於て、盛んに利権の獲得を争ふ時期に達すれば幸なるを以てせり。今日支那に於て各国が利権の獲得に熱中し、各々他を見ること己が如く、余が渡支に方りても直ちに猜疑の眼を以て見張り、其目的を利権の獲得にありと邪推せるは、独り氏の言に止まらず、新聞紙上に現はるゝ所に徴しても明瞭なるが、事実に於て果して我国は支那内地に於て如何なる活動をなし、又如何なる大事業に着手せるか、個人の商業は別とし、大組織にて支那事業に関係せるは誠に寥々たるものにて、南満洲地方は暫く別問題とし、北京以南中部支那に於ては僅に大冶の鉄山、漢陽の鉄廠、所謂漢治萍[漢冶萍]の事業に関係あるに過ぎず。これとても実際我枝光製鉄所の原料を之に仰がざれば他に途なく、全く已むを得ざるに出でたるものにして、此外には日清汽船会社の長江航行に従事せるに過ざるなり。而して是等の事業は、諸外国の利権問題とは全然其趣を異にし、政治的色彩を離れたる純然たる経済関係にあるものなり。其他には近来江西鉄道の借款に関係せるに止まり、諸外国の活躍せるに比しては、実に見るべきものなしと謂ふべきなり。然れども将来は我国に於ても支那内地の事業に益々密接なる関係を着け
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ざるべからざるは勿論なるも、夫とても従来の如く純然たる経済的関係の下に、自国の利益を計ると共に、支那をも利益する策に出でざるべからざるものと信ず。
    二 長江に於ける日英の利害は衝突すべきや
 独り長江と云はず、何れの場所を問はず、自利のみを主張して他の利益を眼中に置かざるに於ては、自他の利害相衝突するは勢の免れざる所なり。然れども各々其守る所を守り相犯さざるに於ては互に衝突する懸念なく、克く平和を維持して併立するを得べし。長江流域は昔時より英国の権力圏とせられたる所にて、英国の獲得したる利権も大に、又英人の施設せる事業も目覚しきものありと雖も、夫の長江筋は大区域なり、英人の着手せる以外に他に遺利なきにあらず、又英国に於て必ずしも此大地方の経済的百般の事業を一手に独占せざるべからざる理由もなかるべし、又縦令其理由ありとするも、之に蒞みなば猶手に余る所あるべければ、其力の及ばざる所は宜しく他国に譲るも、為に何等の痛痒を感ぜざるべきなり。況んや日英同盟国の関係あり、国交親善なれば、長江の利権に関しても、共に手を携へ己れ欲せざる所を人に施さざる主義にて進むに於ては、互に活動の範囲は十分に存して毫も利益の衝突を来さゞるものと信ず。
    三 日支間真個提携の実を挙ぐる方策
 日支間は同文同種の関係あり、国の隣接せる位地よりするも、将た古来よりの歴史よりいふも、又思想・風俗・趣味の共通せる点あるに徴するも相提携せざるべからざる国柄なり、然らば奈何して提携の実を挙ぐべきか、其方策他なし、人情を理解し、己の欲せざる所は之は人に施さず、所謂相愛忠恕の道を以て相交はるにあり、即ち其方策は論語の一章に在りと謂ふを得べし。
 商業の真個の目的が有無相通じ、自他相利するにある如く、殖利生産事業も道徳と随伴して初めて真正の目的を達するものなりとは、余の平素の持論にして、我国が支那の事業に関係するに際しても、忠恕の念を以て之に蒞み、自国の利益を図るは勿論ながら、併せて支那をも利益する方法に出づるに於ては、日支間に真個提携の実を挙ぐること決して難しとなさざるなり。
 之に就き先づ試みるべきは開拓事業にて、支那の富源を拓き、天与の宝庫を展開して其国富を増進せしむるにあり。而して経営の方法は両国民の共同出資に依る合弁事業となすを最良法とす。独り開拓事業に止まらず、其他の事業に於ても亦、其組織は日支合弁事業となすべく、斯くするに於ては日支間に緊密なる経済的連鎖を生じ、従て両国間に真個の提携を為し得べきなり。余の関係せる中日実業会社は此意味に於て発起設立せられたるものにて、其成功を期せんとする所以亦此に存す。
    四 史籍上にて観察せる支那と実際に
      視察せる支那及支那人
 余が史籍を通じて尊敬し居る支那は、主として唐虞三代より後きも殷周時代にして、当時は支那の文化最も発達し、光彩陸離たる時代なり、但し科学的智識に至りては、当時の史籍に掲げられたる天文の記
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事の如き今日の学理に合せずと言はるれども、百事を現在の支那に比較して、今日の昔時に及ばざる感あるは当然のことなるべし、其後西東漢・六朝・唐・五代・宋・元・明・清に及び、所謂二十一史にて通覧せる所に依るも、各朝に大人物輩出せるは言はずもがな、秦に万里の長城あり、隋に煬帝の大運河あり、当時是等大事業の目的が何辺に存せしかは暫く措き、其規模の宏大なる、到底今日の企て及ばざる所なり、されば唐虞三代より殷周時代の絢爛たる文華を史籍に依りて窺ひ、これが想像を逞うして、今次支那の地を踏み実際に着き民情を察するに及び、恰も精緻巧妙を極めたる絵画によりて美人を想像し、実物に着き親しく之を見るに方り、始めて其想像に及ばざるの恨を懐くと等しく、初め想像の高かりし丈け失望の度も深く、逆施倒行とも言ふべきか、余をして儒教の本場たる支那の到る処にて屡々論語を講ずるの奇観を呈せしめたり。
 就中余の感をひきしは、支那に於て上流社会あり、下層社会あるに拘らず、其中間に国家の中堅をなす中流社会の存在せざることゝ、識見人格共に卓越せる人物少なしとせざるも、国民全体として観察するに個人主義、利己主義発達して、国家的観念に乏しく、真個国家を憂ふるの心に欠けたることにて、一国中に中流社会の存せざると、国民全般に国家的観念に乏しきとは、支那現今の大欠点なりといふを得べし。
    五 経済界の将来
 支那経済界の将来如何との問に対しては、先般外交総長孫宝琦氏に答へたるものを移して之を用ふるを得べし、即ち孫氏は余が北京を辞する前日特に駕を枉げ、余が旅宿を訪ひて言へるに、中日実業公司の目的が自他相利する純然たる経済関係にして、政治的野心の之に加はらざるは、貴兄の説明により十分に了解するを得たり、思ふに他の同僚等にありても亦同様に疑念氷解したらんと察せらる。然れども之れ一会社のことにして、支那全般に対してにはあらず、冀くば支那全般に対する将来の方針に付き意見を聞きたしとのことなりしかば、余は之に対へ、全般に亘るものとしては、政治より財政経済に及ばざるべからざるも、政治に関しては全く局外者たるのみならず、亦自から之に与かるを欲せざれば、従て之を言ふを好まず、已むを得ずんば財政経済に関することを述べむも、余は実行の伴はざる空論を為するを常に避けたるが、支那現状より推察するに、恐らく余の言の実行を見るは近きにあらざるべしと答へたり。然るに孫氏は財政経済に関する意見のみにて可なりとし、且つ自己の参考に資すべしとのことなりしを以て、余は氏の請ひに応じ次の言をなせり。
 支那の財政経済の将来に関し、玆に最も重要にして最も意を用ゆべき三箇の点あり。第一に農商工、其他百般の経済の発達は、財政の整備と相待たざるべからず、財政にして紊乱するあらんか、経済界が如何に勉励して発展せんとするも得べからざるは、恰も身体に於ける脳と胃との関係の如し。胃の健全を保たんと欲せば、先づ脳の健全を期せざるべからず、脳に故障ありて独り胃の強健なるを望むも得べからず、然るに余が目撃する所に依れば紙幣は濫発され、各種の貨幣は市
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場に横溢して、幣制に統一なし、即ち支那の幣制は紊乱せるなり、故に先づ第一に幣制の統一を計らざるべからず、第二には中央銀行の制度なり、日本に於ては明治五年初めて銀行制度を設け、初めは専ら米国の国立銀行の法制に傚ひしも、後に至り英国制度を採り、仏独墺諸国の制度にも鑑み、各国制度の美点を摂取して其制度を一定し、年々改良進歩をなせるが、支那に於ても亦銀行制度を完備し、金融の統一を計るは、将来に於ける経済界発展のため最大急務なりと信ず。第三に財政上収支の適合なり、支那財政の現状を見るに、国庫の収支は歳入を以て歳出を補ふに足らず、諸外国よりの借款は其目的主として財政の運用にありて、借款を歳入の一財源として、之に依りて国家の要費を維持せる如きは、実に危険千万にて、最も策の宜しきを得たるものにあらざれば、向後断然之を改め、国庫の収支適合には特に意を注ぎ、借款支弁に依らずして、政費を支弁するの策を講究せざるべからず。
 以上の三点は焦眉の急務にして、実に国家安危の繋る処といふべし若し此事にして改善せざるに於ては、支那経済界の発展は期し難かるべし。(談話要領筆記)