デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
3款 第三回米国行
■綱文

第33巻 p.18-35(DK330002k) ページ画像

大正4年10月23日(1915年)

是日栄一、横浜ヨリ乗船シテ渡米ノ途ニツキ、十一月一日ホノルルニ寄港ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK330002k-0001)
第33巻 p.18-22 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正四年         (渋沢子爵家所蔵)
十月廿三日 曇
午前六時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後二三ノ来人ニ接シ、他ノ依頼ニヨレル揮毫ヲナシ、九時家人ニ告別シテ家ヲ離ル、先ツ徳川公爵邸ヲ訪フテ告別シ、尋テ大隈伯爵ノ邸ヲ訪ヘ少間会話シテ、又中野武営
 - 第33巻 p.19 -ページ画像 
氏ヲ訪ヘ、十時半第一銀行ニ抵リ行員一同ニ別辞ヲ述ヘ、畢テ事務所ニ於テ同族親戚一同ニ告別シ、共ニ午飧ヲ食ス、十二時東京停車場ニ抵ル、送別ノ人多数来聚シテ各余カ健康ヲ祝ス、石井外務大臣・河野農商務大臣・加藤男爵・板垣伯等ノ名士モ来リテ別ヲ送ル、十二時半発車横浜着、直ニ汽船春洋丸ニ搭ス、一行ハ武之助・正雄・増田明六・頭本元貞・堀越善重郎・野口弘毅・横山徳次郎・長野生等《(永野生等)》・渡辺利次郎氏ヲ加ヘテ合計十人、外ニ星野錫氏一行七名ニシテ、横浜港ニ送別スルモノ実ニ数千人ニ多キヲ見ル、午後三時解纜シテ、東京湾内ニテ暫時碇泊シ、夜飧後進行ヲ始ム、是ニ於テ余等一行皆船中ノ人トナル夜正雄・長野等ト遊戯ス、十二時就寝
十月廿四日 小雨
風強ク船ノ動揺甚シ、然レトモ病ヲ為スニ至ラス、強テ午前七時頃ヨリ起床シ、衣服ヲ整理シテ甲板ニ出レハ、少シク快然タルヲ覚フ、八時朝飧ヲ食シ、後新聞紙類ヲ一覧ス、且昨日来諸方ヨリ寄セ来レル多数ノ電文祝詞ヲ一覧ス、此日伴新三郎氏米国ヨリ帰朝ノメキシコ丸ヨリ無線電信ニテ当方ヘ祝詞ヲ寄セラル、乃チ之ニ返電ス、松下軍次氏病死ノ事ヲ東京ヨリ無線電信ニテ報シ来ル、午飧後米人チヤーチ氏著書ヲ読ム、成瀬仁蔵氏ノ翻訳シテ送レルモノナリ、夜飧後頭本・今西佐々木等ノ諸氏ト花牌ノ遊戯ヲ為ス、十二時ニ至リテ止ム、夜ニ入リテ船少シク静カナリ、十二時半就寝ス
十月廿五日 曇
風稍強ク船少シク動揺ス、一行中ニ船室内ニ籠居スル者二三人アリ、余ハ幸ニ其中ニ算入セラレサルヲ得タリ、午前七時起床、入浴シテ衣服ヲ整ヘ八時朝飧ヲ食ス、後米人チヤーチ氏著ノ独乙学者連八十三名ヨリ米国民ニ寄セタル宣言書ニ答フト題スル論文ヲ一覧ス、論旨剴切ニシテ、痛ク独乙学士ノ妄言虚誕ヲ駁撃ス、頗ル痛快ヲ覚フ、又浮田和民氏ノ帰一協会ヨリ発表スヘキ宣言書草案ヲ一読ス、午飧後右ノ二書ヲ以テ頭本氏ニ示シ一覧ニ供ス、午後ヨリ夕方マテ遊戯ニ消閑ス、夜飧後モ遊戯シテ十二時ニ至リテ就寝ス、夜ニ入リテ風少ク船ノ動揺稍減スルヲ覚フ
十月廿六日 半晴
午前七時起床、支度ヲ整ヘテ甲板上ヲ散歩ス、昨日来風力減シテ船ノ動揺少シ、八時朝飧ヲ食シ、後米人ラツド氏著ノ倫理上ノ中立問題ト題スル一書ヲ読ム、又明石照男氏ノ余及ヒ佐々木氏ヘ宛テ提出セル第一銀行ニテ海外為替業開始ヲ必要トスル意見書ヲ一覧ス、畢テ日記ヲ編成ス、堀越善重郎氏来リ牛島氏ノ事ニ付風聞ヲ告知セラル、午飧後モ尚書類ノ調査ト日記ノ編成ニ勉ム、夜飧後ハ花牌ノ遊戯ニ閑ヲ消ス十二時就寝
十月廿七日 晴
風少シクアレトモ船動揺セス、午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、畢テ米国聯合準備銀行制度ニ関スル書類ヲ一覧ス、発足前正金銀行頭取井上氏ノ寄贈セラレタルモノナリ、午前十時ヨリ同船ノ邦人上等客ヲ会シテ、来ル三十一日ノ天長節ニ当リ祝賀会ヲ開クヘキコトヲ議ス座長トナリテ一同ニ諮リ、後委員七名ヲ指名シテ其取扱方ヲ委托スヘ
 - 第33巻 p.20 -ページ画像 
キコトト決シ、更ニ委員ヲ撰挙シ、余モ其一人トナリテ当日ノ順序ヲ協定ス、畢テ午飧シ後日記ノ編成ヲ為ス、午飧後読書、夜飧畢リテ船中ニ相撲・剣舞等ノ余興アリ、夜第一銀行佐々木氏ヨリ電報到来ス、十二時過就寝
 午後十一時過留守宅ヨリ美枝子出産ノ電報来、女子出生、母子健康ノ由申来ル
十月廿八日 曇
午前七時起床、入浴シテ朝飧ス、畢テ日記ヲ編成ス、昨夜船中一等客ノ内外人間ニ運動会開催ノ議アリ、余ハ其名誉会長ニ推サレ、今日ヨリ種々ノ競技アル筈ナリ、午前船室ニ在リテ読書ス、且今回ノ渡米ニ関スル趣旨ヲ記載スヘク種々考慮ス、午前十時半ヨリ運動会アリ、足相撲・競走等種《(々脱)》ノ競技ヲ為ス、午飧後又船室ニ於テ読書ス、発足ノ際携帯セル銀行史ノ原稿ヲ一覧セシモ到底船中ニ於テ修正シ能ハサルニ付、其事ヲ佐々木氏及明石ニ書通ス、夜飧後遊戯ニ閑ヲ消ス、十二時過就寝、此夜モ甲板上ニ舞踏会アリ、船中笑声起ル
十月廿九日 晴
午前七時起床、入浴シテ甲板上ヲ散歩ス、八時朝飧ヲナシ、後船室内ニ於テ種々ノ書類ヲ検閲ス、出立ノ際浮田和民氏ヨリ寄セラタル帰一協会一協会《(衍)》ニ於テ発表スヘキ大正革新ニ関スル国民ノ覚悟ト題書スル宣言書体ノ原稿ヲ熟読シ、之ヲ修正シヨリ《(衍)》、布哇ヨリ書送スヘキ準備ヲ為ス、頭本氏ヨリ示サレタル大隈伯ト米人ヱリオツト氏トノ往復文書ノ訳文ヲ一覧ス、午前十一時ヨリ甲板上ニ運動会アリ、午飧後渡米趣旨ノ起草ニ勉ム、午飧後モ旅行理由ノ起草ニ勉ム、夜飧畢テ二等船客中ニ演劇ノ催アリ、依テ之ヲ一覧ス、夜十二時就寝
十月二十九日 金曜重複 晴
午前七時起床、入浴シテ甲板上ヲ散歩ス、朝飧後昨日来取リ掛リタル渡米理由ノ起草ヲ継続ス、午前十一時甲板上運動会アリテ参観ス午飧後又理由書ノ起草ニ勉メ、午後脱稿ス、後日記ヲ編成ス、又原稿ヲ浄写ス
此日ハ廿九日ノ再来スルモノニテ、東ニ向テ〓行《(マヽ)》スレハ地球ノ運転上必スアルヘキ筈ナリト云フ、夜飧後遊戯ニ消閑ス、夜十二時就寝ス
十月三十日 曇
風強ク船少ク動揺ス、午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、畢テ甲板上ヲ散歩ス、後、御伝記○徳川慶喜公伝稿本ヲ読ム、午飧後船室内ニテ読書ス、夜飧後遊戯ニ閑ヲ消ス、十二時就寝ス
十月卅一日 曇、時々小雨 風強クシテ船動揺ス
午前七時起床、入浴シテ甲板上ヲ散歩ス、八時朝飧シテ読書ス、午前十時ヨリ天長節祝賀ノ為、最上ノ甲板上乗組全部ノ邦人ヲ集メ、御真影ヲ拝シテ遥ニ佳辰ヲ祝シ、後国歌ヲ唱ヘ、余ノ発声ニテ聖上陛下ノ万歳ヲ三唱ス、畢テ船室ニテ本邦行書状ヲ認ム、午飧後御伝記附録ノ稿本ヲ読ス、夜飧後曾テ船中一等室ノ外人ニ案内セシ天長節ノ招待会ヲ上等ノ食堂ニ開ク、装飾其他ノ準備モ悉ク整ヘ、午後九時ヨリ続々来客アリ、乗組外人ノ男女百二十余名許リナリ、余ハ悉ク来客ニ握手シ、後、一場ノ祝詞ヲ述フ、頭本氏通訳セリ、来客中米国ヨリ漢口駐
 - 第33巻 p.21 -ページ画像 
在ノ総領事一同ヲ代表シテ答辞ヲ述ヘ、且盃ヲ挙ケテ我天皇陛下ノ御健康ヲ祝ス、夫ヨリ国歌アリ、終ニ余ノ発声ニテ万歳ヲ三唱シテ後、余興席ニ移リ、仕舞・喜劇・手品等アリテ一同歓ヲ尽シ、十二時散会ス
十一月一日 曇、風尚強クシテ船動揺ス
午前七時起床、入浴シテ甲板上ヲ散歩ス、八時朝飧ヲ畢リ、喫煙室ニテ今西氏ト布哇ニ於ル銀行業務ト生命保険業経営ノ事ヲ談ス、後、御伝記附録ノ稿本ヲ閲了ス、今日午後ホノルヽ港ニ到着ノ由ニテ乗客一同上陸ノ支度ニ忙シ、午飧後驟雨屡々来ル、逆風ノ為メ〓行《(マヽ)》遅クシテ午後四時布哇着、検役畢《(疫)》リテ上陸セシハ午後六時過ナリ、ヤング・ホテルニ投宿ス、服装ヲ改メテ田舎倶楽部ニ抵ル、布哇ニ於テ各団体ヨリノ歓迎会ニ出席スル為ナリ、帝国領事・布哇市長・商業会議所及銀行会社・新聞社来会者二十名許リナリ、席上各員ノ演説アリ、余モ答辞ヲ述ヘ、十時頃宴散シテヤング旅館ニ帰宿ス、夜雨降リテ風強シ
十一月二日 曇
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲホテル食堂ニ於テス、午前九時春洋丸ニ帰ル、有田領事・米倉氏等十数名送別ノ為メ船ニ来ル、有田氏其他ノ地方有力者ヲ会シテ神宮奉賛会ノ挙ヲ説明シ、其賛同ト献金勧募ノ事ヲ依頼ス、書類数種ヲ領事ニ交付ス、午前十時開帆、風強クシテ船ノ動揺甚タシ、終日甲板上ニ於テ散歩シ、又喫煙室ニ在テ談話ス、夜飧後遊戯ニ閑ヲ消ス、夜十二時就寝ス
十一月三日 朝来晴ヲ得レトモ風強クシテ船動揺ス
午前七時起床スルモ風邪気ト船疾トニテ外出ヲ得ス、室内ニ在テ朝飧ス、正午頃ヨリ風少ク減シテ船稍静カナリ、午飧ハ食卓ニ於テス、畢テ甲板上ヲ散歩ス、喫煙室ニテ談話ス、午後ニ至リ風漸ク減シテ〓行平穏ナリ、然レトモ読書又ハ書類ノ整理ニ懶クシテ、終日甲板上又ハ喫煙室ニ於テ談話ト遊戯トニ消閑ス、夜飧後モ同シク遊戯ス、夜十二時就寝ス
十一月四日 晴、風静カ《(ニ脱)》シテ船ノ動揺少シ
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、畢テ甲板上ヲ散歩シ、午前十時過日天長節祝賀ニ関スル委員会ヲ開キ、経費ノ決算ヲ協議ス、船室ニ在テ日記ヲ編成シ、又演説筆記ヲ修成ス、朝飧後理髪シ、又米国上陸後ノ旅行日程ヲ頭本・増田二氏ト協議ス、午飧後再ヒ演説筆記ノ修正ヲ為ス、又日米問題ヲ読ム、六時上甲板ニテ日本食ノ夜飧アリ、牛鍋ノ調理其味甚タ美ナリ、畢リテ喫煙室ニ於テ遊戯ス、夜十一時過就寝
十一月五日 晴、風波漸ク穏ニシテ船中安静ナリ
午前七時起床、入浴シテ朝飧ス、畢テ米国聯合準備銀行ノ制度ニ関スル大蔵省及正金銀行等ヨリ付与セラレタル書類ニ付、今西・野口・堀越氏等ト逐条ノ研究会ヲ開キ種々討論ス、午飧後御伝記ニ関スル演説筆記ノ修正ヲ為ス、発送《(途)》ノ際外務省ヨリ交付セラレタル外交文書ヲ読ム、桑港沼野領事及新聞社ヨリ無線電報アリ、依テ同シク無線ノ返電ヲ発ス、夜飧後喫煙室ニ於テ遊戯ニ閑ヲ消ス、十一時過就寝
十一月六日 晴、昨夜ヨリ冷気殊ニ加ハリテ寒ヲ覚フ
午前七時起床、直ニ入浴シテ後朝飧ス、畢リテ御伝記ニ関スル筆記ノ
 - 第33巻 p.22 -ページ画像 
修正ヲナス、過日起草セシ今回ノ渡米理由書ノ英訳、頭本氏ノ手ニ編成セラレテ其大意ヲ聞ク、桑港沼野領事ヨリ無線電報アリ、即時同シク返電ス、発途ノ際大蔵省ヨリ提出セラレタル経済ニ関スル調査要目ニ付会議ヲ開キ、今西・堀越・野口氏ト種々討議ス、年飧後外務省ヨリ交付セラレシ日米・日支ノ外交文書ヲ一覧シテ頭本氏ニ示ス、夜飧畢リテ船中運動会ノ優勝者ニ賞品授与ノ事アリ、余ハ其賞品ヲ各員ニ授与ス、畢テ柔道アリ、永野及正雄等ノ乱取アリ、夜十時頃散会ス、船中ノ余興畢リテ後花牌ノ遊戯アリ、夜一時過就寝
十一月七日 曇、朝来風寒シ
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後日記ヲ編成シ又日米問題ヲ読ム、明日ハ桑港ノ筈ナレハ、着港ノ時間ヲ船員ニ聞合ハセテ沼野領事ニ電報セシム、午飧後御伝記ニ関スル筆記ノ修正ヲナス、日本丸ノ本邦行ヲ見ル、終日風静ニシテ船中安寧ナリ、夜飧後遊戯ニ閑ヲ消ス、午後一時就寝《(マヽ)》ス


竜門雑誌 第三二九号・第八〇頁 大正四年一〇月 ○青淵先生の渡米(DK330002k-0002)
第33巻 p.22 ページ画像

竜門雑誌 第三二九号・第八〇頁 大正四年一〇月
○青淵先生の渡米 青淵先生には、桑港博覧会の見物を兼ねて従来親交ある米国朝野の諸名士及在留日本人とも会見して意思の疏通を図り以て益々日米間の親善に資する所あらんと欲するの期念を以て、老躯を提して十月二十三日零時半東京駅発汽車に搭じ、午後三時横浜解纜の春洋丸に便乗して渡米の途に上れり、随行者は次男武之助・三男正雄・秘書役増田明六諸氏にて、頭本元貞氏には青淵先生の求めに応じ通訳として同行することゝなり、又堀越善重郎氏は商用を兼ねて随行することゝなり、第一銀行副支配人野口弘毅氏は第一銀行より特に随行を命ぜられ、其他栄銀行専務取締役脇田勇・石川島造船所取締役横山徳次郎・渡辺利次郎・永野護諸氏同行することゝなりし次第なりといふ


竜門雑誌 第三三二号・第三七―四〇頁 大正五年一月 ○青淵先生米国旅行記(一) 随行員増田明六記(DK330002k-0003)
第33巻 p.22-24 ページ画像

竜門雑誌 第三三二号・第三七―四〇頁 大正五年一月
    ○青淵先生米国旅行記(一)
                随行員 増田明六記
 青淵先生米国旅行は今回を以て三回目とせらる、第一回は明治三十五年先生年六十三歳、第二回は明治四十二年にして年七十歳なりしが七十の高齢にて海外旅行を企てらるゝ事既に日本人として稀なるに、今回は本国に於ける曠古の大典たる御即位式にも列せられず、七十六歳の高齢を以て平素最も厭はるゝ航海を敢てして渡米せられたる所以は、一に日米両国の親善を念ふの至誠、止むに止まられざるが為めならんと信ずるなり、本誌十二月号に掲載せられたる先生の今回旅行の目的は、未だ米国に上陸せられざる航海中に起草せられたるものなるが、其上陸後に於ける先生の行動は、豈只加州排日土地法に止まらざるなり、大博見物・日米関係調査会設置・万国日曜学校大会協議に止まらざるなり、先生の日々会談せらるゝものは孰れも米国に於ける各方面の代表的人士にして、先生は常に日本国民代表の意念を以て之に接触せられたるなり、蓋し先生の此旅行より生ずる結果に至りては、
 - 第33巻 p.23 -ページ画像 
将来日米親善に甚大なる増進を致すべきを期するものなり
  本稿は、大正四年十月二十三日先生の東京出発より同五年一月四日帰朝までに於ける日々の行動を摘記したるに過ぎざるが、次号よりは先生に随行し終始親敷先生の通訳に従事せられたる頭本元貞氏に請ふて、先生の紀行を掲載する事と為したれば、会員各位は同紀行に就きて、如何に先生が国家の為めに尽力せらるゝかを察せられん事を切望す
十月二十三日 土曜 晴
午前十一時日本橋区兜町渋沢事務所に於て渋沢家同族各位の催されたる送別午餐会に臨み、同族総代穂積博士の送別の辞に属して別辞を述べ、終りにシヤペン杯を挙げて同族各位の健康を祈られ、午後零時半東京駅発車、一時四十分横浜駅着、直に自働車を駆りて春洋丸に乗り込まれ、雲霞の如き見送人と別れ、午後三時同港出帆せられたり
十月二十四日 日曜 少雨
前夜来風あり、浪高く船の動揺烈しかりしも、青淵先生には船暈にも冒されず、至て御元気なり
青淵先生の知遇を蒙れる米国ポートランド市在住の伴新三郎氏、メキシコ丸に乗り込み帰朝の途に在り、此日無線電信を寄せて青淵先生の健康を祝さる、又東京の松下軍治氏二十三日夜六時半死去せられたる旨、遺族より無線電報あり、孰れも答電を発せらる
十月二十五日 月曜 晴
天気晴朗なれども風浪高し、青淵先生少しく船暈に罹られたるも、食堂を廃せらるに至らず、東京・大阪其他各地より先生宛、ボン・ボエージの無線電信頻に来る
十月二十六日 火曜 曇
今日は波幾分か収まり、先生には終日読書に耽らる、夜渋沢同族各位より青淵先生宛健康を祝されたる無線電信あり、直に答電を発す
十月二十七日 水曜 晴
天気快晴、久し振りに日光を見る、海上平穏、連日船暈に冒されて呻吟したる人々皆起き出で、甲板頗る賑かなり、午前日本人一等船客の総集会を開く、来る三十一日天長節祝賀に関する協議会なり、青淵先生座長席に着き、種々協議の上、先生より星野・今西・阪本・藤原・新井・佐々木の六氏を委員として指名し、各般の準備に当らしむる事となれり
夜令息渋沢武之助氏令夫人、二十六日夜六時芽出度女児安産せられたるの報あり、直に祝電を発せらる
十月二十八日 木曜 晴
天気快晴、青淵先生元気旺盛なり、夜令息武之助氏令嬢命名の無線電信を発せらる
本日より一等船客合同の競技会行はれ、爾後連日執行の筈なり
十月二十九日 金曜 晴
青淵先生終日読書、此夜シー・デツキに於て日本人二等船客の催にかかる船員の演劇会あり、布哇在留日本人より青淵先生宛頻に無線電信を寄せらる
 - 第33巻 p.24 -ページ画像 
十月三十日 土曜 晴
午後風波起り浪高かりしが、青淵先生には引続き御元気にて、終日書物を手にせられたり
十月三十一日 日曜 晴 天長節
天気快晴なりしが前夜に引続き浪高し
午前十時各等日本人船客エー・デツキに集合し、青淵先生司会の下に天長節遥拝式を挙行す、一同君が代を合唱し、洋上遥に聖寿の万歳を三唱す、夜天長節祝賀饗宴あり、集まれる内外人一同シヤンペンを揚げて聖寿の万歳を奉祝す
十一月一日 月曜 雨
午後五時布哇島ホノルヽ市に寄港、青淵先生には上陸して、同市ヤング・ホテルに投宿せられ、午後七時同市カントリー倶楽部に於て帝国総領事代理・ホノルヽ市長・同商業会議所会頭・日本商人同志会々長横浜正金銀行支店長の発起にかゝる歓迎晩餐会に出席せられたり
十一月二日 火曜 雨
前夜来の風雨尚止まず、午前九時ホテルを辞し、直に春洋丸に乗り込み、十時同市出帆、再度洋上の人と為らる
十一月三日 水曜 曇
前日に引続きたる風浪尚止まず
十一月四日 木曜 晴
船の動揺依然たり
本日より桑港各方面の人々より青淵先生宛無線電信頻に至る
十一月五日 金曜 晴
寒気急に加はりたれど、青淵先生には聊かも御障り無く元気盛なり
十一月六日 土曜 晴
前日同様青淵先生宛桑港各方面の人々より無線電信頻繁なり
十一月七日 日曜 晴
天気快晴風浪収まり、青淵先生元気旺盛なり
○下略


東京日日新聞 第一三九九九号・広告 大正四年一〇月二四日 【本日米国へ向け出発の…】(DK330002k-0004)
第33巻 p.24 ページ画像

東京日日新聞 第一三九九九号・広告 大正四年一〇月二四日
本日米国へ向け出発の節は、態々御見送被成下難有奉存候、此段乍略儀以紙上御礼申上候
  十月二十三日              渋沢栄一 外一同


中外商業新報 第一〇六〇三号 大正四年一〇月二四日 ○東京駅を狭めた 渋沢男の出発(DK330002k-0005)
第33巻 p.24-25 ページ画像

中外商業新報 第一〇六〇三号 大正四年一〇月二四日
    ○東京駅を狭めた
      渋沢男の出発
七十六の老躯を提げて日米親交に資すべく、廿三日午後零時卅分東京駅を発し渡米の途に就いた渋沢男の壮挙は、尠なからず
△社会の注意を 惹いた、十一時頃から東京駅前の広場には、東西より走せ参じた朝野名士の自働車・俥が雑然として大雑踏を極めた、一木・高田の各大臣、石井新外相等を始め、芳川伯の白い髭も見えれば
 - 第33巻 p.25 -ページ画像 
麒麟の如な頼倫侯や久保田内務次官の姿も見える、其他には近藤男・団・早川・大倉・安田・馬越の実業家連もあり、花の如き夫人令嬢方もあつた、軈て午砲前に駆けつけた自働車から、夫人・令息・令嬢等と共に渋沢男が下り立つと
△握手やら挨拶やらで、一頻り動揺めき渡る、心利いた駅員は人々を掻き分け、一方の血路を開いて男爵を重囲の裡から救ひ出してプラツトホームに導くと、此処にも山の如き見送人、再び男は此等の人々の囲む処となつたが、辛じて車内に免れてホツト呼吸吐く、間もなく窓前に押し寄せた人々は又も男爵へと迫る、此時遥に此群を離れて何事か密語するは、苦が虫の加藤前外相と
△ニコニコ顔の 石井新外相、語る処は抑も何事ぞなど、時節柄人々の注意を引いた、見送る可く同車した渋沢男夫人・阪谷男・同夫人・令息等の乗つた車窓の前には大倉喜八郎翁と馬越恭平翁がすれすれに肩を並べて「おい、男爵の元気もなんだが、あんたも大変な元気で」などゝ若やかに笑ふのも目についた、斯くて零時卅分警鈴鳴り響いて渋沢男万歳の歓声と共に、車は静に軋り出た
    △春洋丸解纜
      船内食堂の乾盃
横浜に着せる渋沢男一行は、直に春洋丸に乗込みたり、本船まで見送りたるは夫人並に阪谷男夫婦、其の他の親近及実業家百余名にて、同船食堂に於て乾盃を行ひ、浅野氏の音頭にて男の万歳を唱へ、男亦一同の為め万歳の音頭を取りて之に酬ひたり、尚ほ同船にて星野氏外六名の渡米実業団も出発したるを以て、之亦見送り盛んにて、春洋丸は一時立錐の余地なき賑ひを呈したるが、定刻午後三時徐々解纜して港外へ影を没せり


中外商業新報 第一〇六〇三号 大正四年一〇月二四日 ○渋沢男一行出発 朝野諸名士の見送(DK330002k-0006)
第33巻 p.25 ページ画像

中外商業新報 第一〇六〇三号 大正四年一〇月二四日
    ○渋沢男一行出発
      朝野諸名士の見送
既記の如く渋沢男爵は、同行の令息武之助・正雄、堀越善重郎・増田明六其他の諸氏と共に、廿三日午後零時三十分東京駅発列車にて渡米の途に就けるが、午前十一時頃より刻々同駅に参集せる見送り人は、大隈首相(代)、一木・高田・石井の各相、久保田・上山・松井・菅原の各次官、芳川伯・徳川頼倫侯・金子子・井上府知事・奥田市長・尾崎男・加藤男・若槻前蔵相・近藤男・三島日銀総裁・柳生台銀総裁・団琢磨・早川千吉郎・福井菊三郎・豊川良平・大倉喜八郎・安田善三郎・馬越恭平・加藤正義・和田豊治・中野武営・福原有信諸氏を始め殆ど朝野の名士を網羅し頗る盛況なりき、斯くて渋沢男は万歳声裡に見送りの夫人・阪谷男・同夫人・佐々木勇之助氏、其他親近の人々と同車、横浜に着車すれば、此処にも亦在浜実業家等多数の盛なる出迎を受け、直ちに税関岸壁に横付にせられし春洋丸に乗込み、午後三時海波静に解纜、渡米の行程に上れり


竜門雑誌 第三三一号・第九四―九五頁 大正四年一二月 ○春洋丸船中の天長節(DK330002k-0007)
第33巻 p.25-27 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

大阪朝日新聞 第一二一三一号大正四年一一月四日 渋沢男布哇着(DK330002k-0008)
第33巻 p.27 ページ画像

大阪朝日新聞 第一二一三一号大正四年一一月四日
△渋沢男布哇着 渋沢男は春洋丸にて、ホノルルに寄港せり、日米実業家の歓迎会あり、男は其席上に於て、日米親善に関する演説を試みたり(ホノルル特電二日発)


竜門雑誌 第三三一号・第九五頁大正四年一二月 ○布哇に於ける先生(DK330002k-0009)
第33巻 p.27-28 ページ画像

竜門雑誌 第三三一号・第九五頁大正四年一二月
    ○布哇に於ける先生
布哇に於ける先生の歓迎につき、詳細なる新聞記事(一九一五年十一月十二日発行「ホノルルスタアブレチン」新聞所載)を得たれば、左に訳載することゝせり。
 日本財界の巨人にして且つ大慈善事業家たる渋沢男爵の歓迎宴は、当市米日商人有志の発起に依り、昨夜「カントリー」倶楽部に於て開催せられたり。
 渋沢男爵は其卓上演説に於て、世界平和の克復の為めに発議を為すべき国は、米国以外に一も之れなきことを日本は信じつゝあり云々と述べたるが、この男爵の演説は会衆一同の大喝采を博し、当夜の会合に一大光彩を添へたるを覚えたり。
 歓迎宴の主催者は、当市在留の日本商人団・ホノルル商業会議所・日本総領事代理有田氏・横浜正金銀行支店、及び当市の市長レーン氏にして、座長は商業会議所会頭ワルドロン氏之れを務め、陪賓中には当市銀行家の多数を網羅したり。当夜会合の精神は米日両国民の親善を表はすべき一手段たりしなり。渋沢男爵の語たる処に依れば、男爵今回の渡米は格段なる一定の目的を有せずと雖ども、愈々着米の上は交戦国間の平和を克復せしむる手段に関し、各方面の人士に其意見を尋ね、併せて右平和克復問題に就き日本が採るべき手段に関し、米国民が如何に考へつゝあるかを確かめ、且つ同問題に関する米国の発議権に就き、同国知名の士と意見を交換するに在りと云ふ。
 市長レーン氏・横浜正金銀行支店長青木氏・有田領事・ホノルル銀行のスポールジング氏・日本商人団長米倉氏、前の正金銀行支店長にして其後太平洋銀行を設立したる今西氏等も亦た演説を試みられたり。今西氏は渋沢男爵及其一行を載せたる春洋丸に同乗して共に米国に向ひつゝあるなり。又男爵一行中には堪能なる英語学者頭本氏も加り居りて、昨夜の如きも氏は渋沢男爵の演説を通訳するの任に当りたり。
 当夜の会合は徹頭徹尾好感好情を以て満たされ、座長ワルドロン氏は起ちて日本皇帝の為めに乾杯をなし、之れに次で渋沢男爵も赤た米国大統領の為めに乾杯をなしたり。
 スポールジング氏と市長レーン氏とは、渋沢男爵の友誼的兼非公式的なる今回の米国旅行に対して、一路平安ならんことを祷り、特に
 - 第33巻 p.28 -ページ画像 
市長は人種間に於ける友情の増加が戦争終滅問題に対して大なる勢力あるべき旨を添へて演述したり。
 因に当夜出席の重立ちたる人名を挙ぐれば、主賓渋沢男爵の外、ワルドロン氏・ブラオン氏・市長レーン氏・ペツク氏・スポールジング氏・コツクボルン氏・ルイス氏・ペトリー氏・ドリウ氏・アーレン氏・領事有田氏・副領事藤井氏・青木氏・マゼソン氏・子安氏・米倉氏・三上氏・山本氏・牧野氏・中左氏・不破氏・芝氏・ハルゼー氏・ハンム氏・渋沢武之助氏・渋沢正雄氏・今西氏・堀越氏及び頭本氏等なりき。因に男爵は特に女子教育の発達に留意すること甚だ深く、過去二十年間に於て女子教育機関に対し屡多額の寄附金を喜捨したる由にして、又た男爵は国民の進歩発達を図かるには、教育の普及と選挙権の拡張とが、最も大切なる要素たることを深く信じ居れりと云ふ。


東京日日新聞 第一四〇一一号大正四年一一月五日 渋沢男歓迎会 ホノルル市長の演説(DK330002k-0010)
第33巻 p.28 ページ画像

東京日日新聞 第一四〇一一号大正四年一一月五日
    ○渋沢男歓迎会
      ホノルル市長の演説
〔ホノルル特電〕(四日特派員発)渡米の途にある渋沢男一行、一日ホノルルに寄港し、同夜内外人三十余名の歓迎晩餐会に臨みたり、席上ホノルヽ市長リーイン氏は、親日的演説を試み、参会者一同国民外交の必要を力説せり


竜門雑誌 第三三一号・第一八―二一頁大正四年一二月 ○余が今回の渡米理由 大正四年十月三十一日天長節の佳辰に当り 太平洋上春洋丸の船室に於て 青淵先生(DK330002k-0011)
第33巻 p.28-30 ページ画像

竜門雑誌 第三三一号・第一八―二一頁大正四年一二月
    ○余が今回の渡米理由
      大正四年十月三十一日天長節の佳辰に当り
      太平洋上春洋丸の船室に於て
                      青淵先生
  本篇は、青淵先生が今回渡米理由を周知せしむる目的を以て、春洋丸船室に於て起草せられたるものにして、同行者頭本元貞氏之を英文に翻訳し、彼地新聞記者に交付したるものなり(編者識)
余が今回の北米合衆国旅行は、主として当春来桑港に開会中の巴奈馬開通記念の大博覧会を参観し、同時に加州方面の米国の友人を訪ふて旧情を温め、且在留の邦人にも会見して、注意を与へたいと思ふに過ぎぬのであるから、永く滞留はせぬ積りであるが、従来余は米国には各地に懇親の知友が多いから、此序を以て東部をも巡回し、華盛頓・紐育、若くは費府・ピツツバーグ等の都市に抵り、実業界・宗教界・教育界の人々にも会話して、米国近来の事物の非常なる発展に付て其実況を見聞して、我邦に資する所あらせたいと企望するのである。又時日と旅程とが許すならば、独り桑港のみに止めずして、太平洋沿岸を、南はロスアンゼルス、北はシヤトル等の都市、即ち先年余が我邦の実業団長として渡米せし際に、種々なる款待を受けたる地方各知友をも訪問したいと予期して居る。但し老齢の身を以て長途の旅行をするのであつて、殊に気候も追々寒風に向ふから、成るべく早く切り上げて、往復二ケ月半位で帰国するの考である。前にも云ふ如く、余が
 - 第33巻 p.29 -ページ画像 
今回の渡米は、政府又は他の団体等より、毫も或る使命又は嘱託等を受けたることなく、真の自由旅行であるれども、現に我が政事界及び実業界に在る親友にして、常に日米の国交に付て種々尽力し居る多数の人々は、余が此漫遊を衷心より喜悦して、各方面に於て、最も懇篤なる方法を以て送別せられたのは、如何に是等の人士が米国に対する交情の深厚なるかを証すべきであると思ふて、余は之れに満足して居る。
偖余が此漫遊を思ひ立ちたる理由には、大小二個の意味が含蓄せらるるのである。而して其小なるものは単に余が一身に関する謝恩的の行動と言ひ得べく、又其大なるものは現下欧洲の戦乱に関して、米国の識者に向て、世界的の観念より余が卑見を陳述して、其明教を請はんと欲するのである。
是より余は先づ其小なる者の説明を試るとしよう。今を距る六十三年前、米国が日本の長夜の眠を覚醒して世界の仲間入りをさせて呉れたのは、余が十四歳の時である。当時余は東京に遠からぬ田舎に在て、農家の少年として耕耘の余暇漢学と撃剣とを修めて居つたが、時勢漸く騒然として、漢学者又は撃剣家等の余が地方に遊歴する毎に、徳川幕府の外交上の失政を伝聞して、青年ながらも時々扼腕憤慨したこともあつた。夫れから十余年を経て、余は旧里を脱走して攘夷論者の伍伴に入りて、京都に流浪したりしが、或る事情によりて鎖国論を変じて一橋公に仕へ、公が徳川宗家を相続せし後、其命に依り仏蘭西に留学し、親しく欧洲の文物を見て大に前説の非なるを覚り、翌年に至りて徳川幕府は倒れて明治維新と世は変じ、余も亦帰朝して明治政府の官吏となりたりたれども、余は曩に感ずる所ありたる為め、数年間にして官吏を固辞し、終に現在の身となりたるのである、故に余は常に我身の変化輾転は、我邦の政変と其軌道を同ふし、而して其発端は、実に米国政府がコンモドル・ペリー氏を日本に派遣して、和親通商の事を勧誘せしに起因したるものと思惟し、其縁因の浅からざるを感じて、爾来日米国交に付ては自己の利害を顧みず、報謝的に専心尽力し来つた。想ふに余の微力短才、何等の効果を見るを得ざるは固より其筈の事なれども、成敗は余の期する所にあらず。只自己の所信を貫くまでにして、所謂斃而已矣に安んずるのである、夫れ故に余は我邦と米国との国交上に付ては平素之れに注意して、其友誼親善なるを見て喜悦し居りしが、明治三十八九年頃より加州に於ける我邦の移民に対する処置に差別的の事あるは、余が中心安んぜさる所にして、爾後余は深く之を憂慮し、日米間の同志の人士と共に其解決に努力し居るのである、明治四十二年余が渡米実業団長として米国に渡航し、多数の人士に会見して衷情を吐露し、両国民の情意の融和を図りしも、之が解決を望む為めであつた。又今回の桑港大博覧会に於ける日本よりの出品も、一昨年加州に土地法の制定ありしより、我邦の官民間に幾分躊躇する所ありしを、余は切に其出品を慫慂して聊か該会に貢献したと思ふ。右の事情であるから、今回其会場を参観して実況を視察するは、余の歓喜に堪へぬ次第である。是れ余の心が余の老躯をして此行を決せしめた所以である。更に他の大なる一個の理由は、昨年以来欧
 - 第33巻 p.30 -ページ画像 
羅巴に勃発したる大戦乱である。余の想像を以てすれば、此戦争の起因は、或る強大国の威力を全世界に逞ふせんとする驕暴心より発して玆に及びたるものと言はざるを得ぬのであつた、社会の不幸真に名状すべからざるものである。曾て余は支那の書を読して「弱の肉は強の食」と言ふ古語に付て、深く其人道に悖るを慨し、又青年の時仏蘭西にて「強い者の申分は常に優者となる」と言ふ俚諺を聞いて、当時文明を以て欧洲に誇れる仏国にも尚此言あるを憂ひ、其後我邦に於ける明治十年国内戦争に当りて、「勝てば官軍、負くれば賊」と言ふ俗曲に心を傷めたが、詰り、支那古言も仏蘭西の俚諺も日本の俗曲も、皆強者にのみ利益ある悖徳不義の比喩なれば、吾人苟も道徳仁義を以て世界の文運を発展せんことを期する者は、勉めて此没理の妄言暴行を禁遏せねばならぬ。現に欧羅巴の戦局に対して、米国の学者間には、種種其意見を発表せられ居るのであらう。余の知る所にても、ピッツバーグ市のエス・エチ・チッヤー氏の米国民の欧洲戦争観、又エール大学教授ラツド博士の倫理上の中立問題を一覧しても、吾人の意見と符節を合する如くである。故に余は思ふ、此惨澹たる欧洲の戦雲を掃攘して、恵風和暢、靄然たる春日の日光を観ることを得るのは、米国固有の正義人道を重んずる雄大の力に得たざるべからずと同時に、又東洋の平和を維持して、能く其常軌を逸せしめざるは、我が日本の任ずべきものである。然るに此大任ある両国間に、前段に述べたる如き国交上の未了案件あるは、余の憂苦措く能はざる所である、是れ乃ち、余が老躯を提して此旅行を為し、米国の識者に向て問はんと欲する要点である。要するに、余は之を小にしては自己の謝恩的の行動とし、又之を大にしては世界の戦乱の善後策を講ずる為めに、此旅行を思ひ立つたのであるから、其大小の懸隔は所謂蒼海の一粟であるけれども世界の平和を愛する真情に於ては、彼此軒輊なきものと思ふ。曾て余が親友の米国人シドニー・ギユリツク氏は、其著述せる一冊子に題して、氏が日米問題の解決を無声の声を以て神より命ぜられたと言はれたが、余も亦之に倣つて、他人若し余が渡米の源因に問はゞ、平生尊信する孔夫子の教示に従ひ、天の使命を受けたりと答へんと欲するのである。
                           (了)


渋沢栄一書翰 八十島親徳宛(大正四年)一〇月三〇日(DK330002k-0012)
第33巻 p.30-31 ページ画像

渋沢栄一書翰 八十島親徳宛(大正四年)一〇月三〇日 (八十島親義氏所蔵)
其後益御清適と拝祝致候、開帆以降航海極而平安にて船病ニ罹りたる者とても無之、老生も日々船室ニ於て種々之書類調査ニ消光罷在候、今回之渡米理由書ハ、昨日まてニ邦文を作成し、今日より頭本氏之手ニて翻訳之筈ニ有之候、桑港着之上発表候積ニ付、其上ニて写貴方ヘも相廻し可申と存候、種々と思案いたし、聊此旅行ニ道理を付し候之感有之候
出立前御依頼いたし候ガゼツト新聞社より之注文之書翰、及野依氏依頼之序文ハ、可成早く御修正御遣し可被下候
井口正之氏より被申出候銀行史(森山章之丞氏之手ニて出版すヘきものゝ由)ハ、船中ニて一覧之上、修正出来候様なれハ布哇より送付之
 - 第33巻 p.31 -ページ画像 
心組ニ候処、一覧候処にてハ余程之修正を要し候ものニて、到底船中之片手間仕事ニハ出来申兼候、去り迚老生之著述と相成候ものとせハ無責任ニ明石起草之儘ニて同意も仕兼候、依而帰朝後ニ無之而ハ、何等着手出来せさる旨、早々井口氏ヘ申通し、同時に明石ヘも御書通可被下候
国際新聞社之件、大野式工業会社之営業振ハ、別ニ相替候事無之候哉時々御注意可被下候
○中略
阪谷氏と佐々木氏ヘハ各一書相送申候、其他各方面之分とも御届可被下候、右平安之二字申上候まてニ候 匆々不備
  十月三十日
                      渋沢栄一
    八十島親徳様
         梧下
 尚々御伝記ニ関する書類も携帯候ニ付、船中ニて一覧、修正相済候ハヽ、布哇より送付すヘく、出来兼候ハヽ、桑港着迄ニハ相済し、郵送之積ニ付、萩野氏ヘ御伝言可被下候
 国際病院寄附金之取纏め方、及日曜学校之大会ニ係る寄附金募集之事、阪井氏ヘ御打合被成、阪谷・中野両氏ニ承合之上、相運候様、御申通し可被下候
 養育院移転寄附金之事も、安達氏ヘ御聞合ニて、爾後之模様御申越可被下候
八十島親徳様 直展 渋沢栄一
春洋丸船中に於て 十月三十日 (朱書) 「大正四年十一月廿六日入」


渋沢栄一書翰 阪谷芳郎宛(大正四年)一〇月三一日(DK330002k-0013)
第33巻 p.31-32 ページ画像

渋沢栄一書翰 阪谷芳郎宛(大正四年)一〇月三一日 (阪谷子爵家所蔵)
  尚々御伝記編纂之事も、時々其成績御聞合被下、督促之義頼上候又二本榎建碑・諏訪神社境内建碑之撰文も、延引ニ相成候ハヽ、御催促有之度と存候也
拝啓、益御清適奉賀候、老生一行開帆後無異、風浪も静穏ニて、日夜甲板上之運動会又ハ仮装夜会、時ニ或ハ演劇・浪花節・琵琶抔之余興接続いたし、娯楽ニ忙殺せられ候有様ニ御坐候、右ニ付一同船疾等相脳候《(悩)》ものとてハ無之、元気ニ打興し居候間、御省念可被下候
帰一協会ニ於て研究中之、戦後国民之覚悟と申問題ニて宣言書様之もの発表之一案ハ、出立之際浮田和民ニ於て原案作成、汽車中ニて被相示候ニ付、船中ニ於て熟読いたし、少々修正を加ヘ、今便ニ其修正案を浮田氏ヘ書送し、同時ニ成瀬氏ヘも申遣置候、其中開会《(同カ)》ニて御評議可申上ニ付、充分ニ御講究被下、一致之上何か之体裁にて社会ニ発表
 - 第33巻 p.32 -ページ画像 
いたし度と企望仕候、御尽力可被下候
神宮○明治神官奉賛会之事ハ、明日布哇到着ニ付、先つ同地より相始め、桑港其他米国之各地夫々誘導勧募可致候得共、畢竟ハ各地領事之助力必要ニ付、既ニ松井次官・阪田通商局長ヘハ会長より照会ニハ相成居候も、官府之事ハ動もすれハ親切を欠き候恐有之候ニ付、尚通商局ヘ御頼入被下、各領事館ニ於て充分ニ御世話被下候様、特別ニ御引合被下度候
出立前種々心配せし国際病院ヘ之寄附金募集之件と日曜学校大会之後援寄附金之件ハ、中野氏と御協議相成、阪井氏ニ奔走方御依頼被成、一方ハ是非とも総額拾五万円ニ満つる様致度、又日曜学校之方も五六万円ハ必要ニして、其内壱万円余は本年ニ払込相成候様いたし候都合ニ御心配被下度候、殊ニ日曜学校之方ハ米人も小崎・鵜飼・川澄之諸氏も、頻ニ老生出立前被申聞候義ニ付、徳義上何とか致し遣し申度と存候、御高配被下候
老生今回之渡米理由ニ付而ハ、米国到着前ニ趣意書を作り、桑港着之際新聞紙之訪問ニ相答候方可然と相考ヘ、両三日前船中ニて取調、目下頭本氏翻訳中ニ候、桑港ニて発表之上ハ写差上可申ニ付、御一覧可被下候
留守宅ヘも一書を送り、八十島ヘも出状いたし要務申遣候、株式売却之件、其他重要なる出納之事ハ、充分御取調且御心添可被下候
穂積ヘハ出状不致候、御逢之際御伝語可被下候、乗船後一両日ハ陸地之平生と異り、大ニ余暇を生し候感有之候も、経過ニ従ひ種々船中之雑用相生し、且是迄取調得さりし書類等之撿閲等ニて、矢張閑暇とてハ無之様相成候、只爾後至而健康、日夜読書又ハ調物、又ハ談話等時間を利用罷在候、御省念可被下候、右当用申上度 匆々敬具
  十月三十一日当賀            渋沢栄一
    阪谷芳郎様
        梧下
  尚々琴子其他御一同ヘ宜御伝声可被下候也
阪谷芳郎様 親展 渋沢栄一
春洋丸船中ニ於て 十月三十一日


渋沢栄一書翰 佐々木勇之助宛(大正四年)一〇月三一日(DK330002k-0014)
第33巻 p.32-33 ページ画像

渋沢栄一書翰 佐々木勇之助宛(大正四年)一〇月三一日 (佐々木勇之助氏所蔵)
                (ゴム印) (佐々木)
                26 NOV 1915 (印)
拝啓、爾来益御清適抃賀之至ニ候、老生発途ニ付而ハ、種々御心添被下忝奉謝候、横浜開帆後一行健全、船病ニ罹り候者も少く、日々愉快ニ航海罷在候、今日ハ天長節之佳辰を甲板上ニて奉祝し、乗組一同万歳を三唱いたし候、今夕ハ又内外人相集り、レセプシヨン相催し候都
 - 第33巻 p.33 -ページ画像 
合ニ御坐候
出立前申上候明石之手ニて取調候銀行史之事ハ、船中ニて一覧候処、到底其儘ニ上木候義ハ出来兼候間、帰京之後ニ篤と事実等調査仕度、就而ハ八十島ヘも其段申遣候ニ付、井口と申者ヘ八十島より申通し、一方明石ヘハ賢台よりも御示し置可被下候
銀行業務ニ関する取調方ハ、時々野口氏と申談居候、幸今西氏も同船ニて、海外関係ハ熟知せられ候ニ付、篤と事情承合候様ニも可仕と存候、布哇又ハ紐育・桑港等ニ於て着手すへき方法等、見込相立候ハヽ夫々野口より貴方ヘ相伺候上処理可致と存候、御含可被下候
金融ハ其後異情無之候哉、露仏等より公債談ハ何か事実ニ顕れ候事無之候哉、欧洲之戦況も船中ニてハ別而隔靴掻痒之嫌有之候、バルカン方面之形勢ハ益聯合軍ニ非なりと申新聞を、無線電信ニて承及候まてニ御坐候、船中ハ太平洋之名ニ譲らすして、日夜運動会又ハ夜会抔ニ歓楽を尽し居候次第ニ御坐候
生糸合名之新井氏同船ニて、生糸之価位次第ニ騰上之由承知いたし、我当業者之為幸慶此事と存候、丸喜取引之向も幾分之仕合せを得候義と遠察いたし候、義一・桃井等ヘ時々御訓戒可被下候
一行も明日ハ布哇着之筈ニ候も、尚前途遼遠と申有様ニ御坐候、右船中ニて発足後之近況申上候 匆々頓首
  十月三十一日当賀            渋沢栄一
    佐々木勇之助様
          梧下
  尚々重役其他之諸兄ヘ御伝声頼上候也
佐々木勇之助様 親展 渋沢栄一
太平洋中春洋丸船室内ニ於テ 十月三十一日 日本銀行総裁と正金銀行頭取とニ別而宜敷御伝声被下度候


渋沢栄一書翰 明石照男宛(大正四年)一〇月三一日(DK330002k-0015)
第33巻 p.33-34 ページ画像

渋沢栄一書翰 明石照男宛(大正四年)一〇月三一日 (明石照男氏所蔵)
爾来御清適欣慰之至ニ候、老生乗船開帆後日々健全、且一行頗る元気にて、船疾等もなく、日夕甲板上之運動又ハ仮装夜会、時としてハ演劇・浪花節等、種々なる余興ニ夜を深し候有様ニ御坐候、御降心可被下候
出立前御打合之銀行史は、船中ニて一覧候処、上木するものとせハ篤と詮考を要する点有之候様存候ニ付、到底船中卒爾之修正ハ難出来候間、其段八十島ヘも申遣し、同文館之方ヘハ帰朝迄相待候様申通候都合ニ候、御承引可被下候
老生此旅行之趣旨、両三日来船中ニて種々腹案、昨日原稿出来候間、頭本氏翻訳中ニ候、桑港着之上米国新聞ニ発表之積ニ候間、其際写御廻し可申上候、御一覧可被下候
 - 第33巻 p.34 -ページ画像 
過日京坂旅行ニ付而ハ、野口・杉田、馬関之西条、其他次席之人々にまて別而御厄介ニ相成候処、渡米旅装等ニて寸暇も無之為め、御礼状も差出不申、等閑ニ打過申候、何卒貴兄より宜敷御申通し可被下候、久原氏ヘも同しく御申伝被下度候
同行之武之助も正雄も無異御安心可被下候、右平安之二字申上度如此御坐候 拝具
  十月三十一日当賀
                      渋沢栄一
    明石照男様
        梧下
  尚々愛子ヘもよろしく御伝ヘ被下度候、横浜出船之際別而惜別之情相見ヘ候も、前文申述候如く一行愉快ニ航海罷在候間、安心候様御示し可被下候也
明石照男様 親展 渋沢栄一
太平洋中春洋丸船室内ニ於て 十月三十一日当賀


(堀越善重郎)書翰 阪谷芳郎宛大正四年一〇月三〇日(DK330002k-0016)
第33巻 p.34-35 ページ画像

(堀越善重郎)書翰 阪谷芳郎宛大正四年一〇月三〇日
                    (阪谷子爵家所蔵)
粛呈、爾来益々御清栄ニ被為渡候御事と奉敬賀候、陳者横浜出帆之際は雑沓ニ取紛れ、親しく御暇乞も不仕、欠礼之段多罪御海恕被成下度奉願上候、平和協会より渋沢男爵宛の書並ニ男爵御渡米ニ関する宮岡恒次郎君よりButler宛の写も又男爵ニ拝呈すると同時ニ、御下命ニ随ひ其書中の意味を口頭ニ而委曲具状致置候
又閣下の御名札は頭本元貞君ニ渡し、御懇意先ヘ拝呈する様依頼致置候、其理由は頭本君は渋沢男爵ニ必らす随従して米国の名士ニ御面会相成可申も、小生は摂見の機会甚だ少かる可を恐れ候故、頭本君ニ依頼せる次第ニ御坐候、尤も男爵御訪問の際は閣下の御名札を御懇意先ヘ拝呈の事、小生より其都度注意可致筈ニ御座候
渋沢男爵も、日本御出発以来、一日も船病の御苦痛不被為在、随而毎日三度とも、食堂ニ御出席ニ相成り、一向御不愉快の様子も見ヘす、我々随行者は一同大安心致居候、唯何分船中の仕事多く、或は読書、或は著述の草案ニ忙殺せられ、常ニ一室ニ御屏居ニ相成り、他人と御談話の時間も無御坐候、此の如くニ而は、御健康ニも自然御影響あらんと痛心致居候ヘとも、御承知の如き性来の御勉強家ニ候故、一寸の光陰も空費するを惜む而已ならす、是非布哇より日本ヘ郵便ニ而送還す可き原稿もある由ニ而、切ニ御勉強中ニ御坐候、乍去、幸ニ例の如く、至極の御元気、更ニ御疲労の御容子見ヘざるは、誠ニ一同の幸福ニ御坐候
 - 第33巻 p.35 -ページ画像 
布哇ニ而は布哇の市長・商業会議所、商業団体及ひ在留日本人共同ニ而歓迎会を開度旨ニ而、昨廿九日夜御照会ありし故、今三十日右承諾之旨御返事相成申候、定而盛大なる歓迎会ならんと存候、布哇ニは十一月一日到着の予定ニ御坐候
明三十一日は天長節ニ候故、同乗の外国船客一同を招待して「レセプシヨン」を催候筈ニ而、男爵の御名を以而、其れ其れ招待致候処、殆んど全員招待ニ応する旨答来り候、則ち外人約百五十名、邦人約四十有余名、之ニ船員を加ヘて二百有余名の招待ニ御坐候、此又盛なる事と存候
横浜出帆の際は御餞別を賜り難有拝味仕候、乍筆末玆ニ謹而御礼申上候 恐惶謹言
  大正四年十月三十日春洋丸船中ニ而
                      堀越善重郎
    男爵阪谷芳郎閣下