デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
2節 米国加州日本移民排斥問題
3款 日米関係委員会
■綱文

第33巻 p.476-478(DK330041k) ページ画像

大正6年11月3日(1917年)

是日、当委員会及ビニュー・ヨーク日本協会協賛会主催ノ下ニ、アメリカ合衆国ハワイノ実業家フランク・シー・アサートンノ歓迎ヲ兼ネ、日本基督教青年会代表欧洲戦場慰問使日疋信亮・山本邦之助ノ送別晩餐会ヲ、東京銀行倶楽部ニ開ク。栄一出席シテ挨拶ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第三五四号・第一五三―一五五頁大正六年一一月 ○日米関係委員会のアサートン氏歓迎会(DK330041k-0001)
第33巻 p.476-478 ページ画像

竜門雑誌 第三五四号・第一五三―一五五頁大正六年一一月
○日米関係委員会のアサートン氏歓迎会 青淵先生の主宰せらるゝ日米関係委員会及紐育日本協会協賛会の両会申合はせて、去十一月三日東京銀行倶楽部に於て、今般来朝のフランク・シー・アサートン氏の歓迎を兼ね、不日日本基督教青年会を代表し、慰問使として欧洲の戦場に派遣せらるゝ同会理事日疋信亮・山本邦之助両氏の送別会を催したり。来会者は主賓アサートン氏及日疋信亮・山本邦之助の両氏。陪賓江原素六、スカツダー、フイツシヤー、デビス、フエルプス、根本正・小崎弘道・留岡幸助・奥村多喜衛・松沢光茂(以上日本基督教青年会理事)、日比谷平左衛門・藤山雷太・杉原栄三郎の諸氏、又両会会員としては青淵先生・中野武営・金子堅太郎子・島田三郎・服部金太郎・小野英二郎・堀越善重郎・頭本元貞諸氏の外、増田明六君にして、卓上青淵先生、アサートン氏及日疋信亮氏の各挨拶あり、主客歓を交へて午後十時散会したりと云ふ。青淵先生及アサートン氏の挨拶大要如左。
△青淵先生の挨拶
  爰に日米関係委員会及紐育日本協会協賛会の申合せを以て、今般来朝せられたる布哇のアサートン氏の歓迎を兼ね、今度日本基督教
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青年会の慰問使として聯合軍の戦地に派遣せらるゝ日疋信亮及山本邦之助両氏を送る為め、玆に晩餐会を開会する機会を得たるを喜ぶ蓋し此両会は会員は小数なれども、常に日米両国親善の為に深く心を用ゆる団体なり。而してアサートン氏はホノルル市の有力なる実業家にして、現に基督青年会会長の職にあり、多年同地在留の日本人の為めに心を添ひられ、同時に我等と均しく身実業家にありながら、尚且つ日米両国の親善に熱心努力せらるゝ御方なり。
  凡そ国交の親善を求むるに、政治家・学者の力に依ると、実業側の力に依るとの二法あるが、之を人体に譬ふれば、医師の必要なるは素よりなるも、而も人は平素の摂生に注意せざる可らざるが如く国交の親善を計らんと欲せば、時に政治家・学者の力を要すべしと雖も、其日常に在りては遂に国民外交に依らざる可らざるなり。予は此意味に於て絶へず相当の力を尽す次第なるが、アサートン氏も均しく其考へを有せらるならんと思惟するなり。
  日疋・山本両氏の欧洲戦場に慰問使として赴くに付ては、米国の大なる努力に依りしとの事なるが、誠に機宜に適したる企てにて、此両氏の行が聯合国民に甚大なる好印象を与ふるものなることを信じて疑はざる所なり、たゞ米国の慰問の大なる計画に対し、我の如何にも小なるは遺憾なりと雖も、併し慰問の精神に至りては、決して米国諸賢に譲らざるを惟ふなり云々。
△アサートン氏の答辞
  爰に渋沢男爵の主宰せらるゝ日米関係委員会及日本協会々員諸君より、予の来朝に付、斯る深厚なる歓迎を受け、又親しく渋沢男爵に面会することを得たるは、深く感謝し且喜悦する所なり。予は二年前、男爵がホノルヽ市に立寄られし際、午餐会を催して聊か歓迎の意を表したるが、男爵が多年日米親善に就き、将た基督教青年会の為めに尽力せらるゝに対しては、常に感謝しつゝある所なり。
  予は布哇に生れ、乍不肖同地に在留せる日本人と常に交際を保ち日米両国の親善を謀るに相当の尽力を致居る積なり。
  惟へば今時欧洲の大戦は世界の凶事なりと雖も、其中に良き好果を生するならんと思はるゝは、戦後世界の国民は戦前よりも一層親睦となるべき事これにして、特に聯合国として戦争に従事する国民は、更に一層親密となるべきを信じて疑はざる所なり。
  布哇には世界各国の人在住するを以て、人種に関する偏見なく、又現在の人口の中其半数は日本人にして、約十万を以て数ふべく、其他西・希等の諸国民在留せるが、今此等の各国青年を如何に指導誘掖すべきやは布哇に於ける一問題なり。予等は其一着手として、基督青年会館を建てんと企図し、今や二万五千弗を投じて土地を需めたるも、其建築には、外に四万弗を要する見込にて、今度其一部の資金を得べく、布哇に二十五年以上牧師の職に従事せらるゝ奥村多喜衛氏、及三四年前より書記として従事せららゝ松沢光茂氏を彼地より日本に派遣するに至りし次第なり。然るに此両氏の使命に対して、渋沢男爵より多大の尽力を添えらるゝ趣を承知し、深く感謝する所なり。此の如き計画を以て会館の建築を終らば、各国人種の
 - 第33巻 p.478 -ページ画像 
区別なく、其青年は布哇に留まるも、本国に帰るも、必ず善良なる国民となり、其母国と布哇の平和親善を繋ぐ人となるべきや、論を俟たずして明かなる所なるべし。
  次で今度日本基督青年会より日疋・山本両氏を、慰問使として聯合国欧洲戦場に派遣せらるゝは、即ち聯合国々民に対する同情の発露にして、大に賀すべき事なりとす。米国基督青年会が慰問使を戦地に送るに至りしは、青年会の総監督とも称すべきジヨン・モツト氏が、開戦間も無く戦場に赴き、親しく其状況を視察し、帰りて直に青年会より慰問団を組織して彼地に送り、傷病兵・罹災者は勿論俘虜に対しても同情の念を表したるが、其効は仏国政府の認むる所となり、其後同政府よりは五百人の会員派遣方を希望し来り、引続き伊太利より二百人、追而露西亜よりも二百人の派遣方を交々希望し来りて、今や米国青年会は聯合国の戦地に在りて頗る活動し居るなり。然るに此際日本基督青年会よりも二人の慰問使を派遣す、米国の夫れに加はりて戦地に赴くは、たゞに日米両国の親善を意味するのみならず、聯合国に対する親善を語る所以たらずんばあらざるなり云々。