デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
2節 米国加州日本移民排斥問題
3款 日米関係委員会
■綱文

第33巻 p.526-546(DK330067k) ページ画像

大正9年8月3日(1920年)

当委員会ハ、文学博士・神学博士原田助ヲアメリカ合衆国カリフォルニア州ニ派遣シ、同地方ニ於ケル排日ノ緩和ヲ講ゼシムルコトトナリタルニヨリ、是日、同人及ビ千葉豊治ノ送別会ヲ東京銀行倶楽部ニ開ク。

同時ニ、同国ハワイニ在リテ日本人第二世啓蒙運動ニ従事セントスル牧師奥村多喜衛ヲ招キ、其説
 - 第33巻 p.527 -ページ画像 
ヲ聴キテ賛意ヲ表ス。十一月四日、当委員会主催奥村送別会同倶楽部ニ催サル。栄一引続キ奥村ノ運動ヲ援助ス。


■資料

渋沢栄一書翰 原田助宛(大正九年)七月一日(DK330067k-0001)
第33巻 p.527 ページ画像

渋沢栄一書翰 原田助宛(大正九年)七月一日 (原田助氏所蔵)
拝啓、益御清適奉賀候、過日ハ病牀ニ御来訪被下、欠礼之御接待申上候、其際御懇話いたし候加州排日問題ニ関する援助方法ニ付てハ、其後種々熟考之末、終に一昨日之日米関係委員会ニハ、小生も病中なから出席致し、各員之意見各様ニ相生候も、結局何とか応援せさるへからさる事ニ一決致し、幾分之物質上之補助と、特ニ慰問之意味にて適当之人物派出と申事ニ相成、其人撰及物質上之心配も、病人之小生ニ於て担当致候事と相成候、就て至急賢台ニ拝眉相願度と、昨日も再三千葉氏と相談之末、此一書を以て賢台之御出京相願候次第ニ御坐候、但小生ハ明二日転地療養之為大磯へ罷越、寺内伯爵邸ニ接近せる明石と申親戚之別宅ニ寓居之筈ニ候間、何卒御繰合被下、可成至急ニ大磯寓居まて御光来被下度候
右ニ付てハ、今日電報も発送し、且千葉氏よりも書通之筈ニ候得共、病中匆々執筆、前段可得貴意如此御坐候 敬具
  七月一日
                      渋沢栄一
    原田賢台
       侍史
   尚々明石別荘ハ、大磯停車場より西へ約四・五丁ニて、故寺内伯爵邸ニ隣接いたし候、為念申添候也
   ○本款大正九年六月二十九日ノ条参照。


渋沢栄一書翰 原田助宛(大正九年)七月六日(DK330067k-0002)
第33巻 p.527-528 ページ画像

渋沢栄一書翰 原田助宛(大正九年)七月六日 (原田助氏所蔵)
拝啓、益御清適奉賀候、過日ハ態々大磯寓居まて御来訪被下、御厚情感謝此事ニ御坐候、其際御打合申上候賢台之米国行相願候ニ付てハ、小生今日帰京いたし、同志之諸氏と小集相催し、篤と其手続も御協議申上、同時ニ彼地ニ設立之在米日本人会ニ対する物質的援助方法、及桑港なる米人側日米関係委員会との御交渉之振合をも、各自之意見充分開陳致度と予期罷在候処、小生事昨日来少々熱気有之、兎角疲労之気味ニて、何分今日出京仕兼候ニ付、不得已出京見合申候、御違約之段御海容被下度候、依て特ニ書生を派出いたし、委曲阪谷男爵へ申遣候、尚小生事務所主任増田明六と申者ハ、東京なる日米関係委員会之事務担当ニて、従来之手続も稍心得居候ニ付、同人へも書通致し候間両人之中ニ御会話被下度候、但小生も昨夜当地之医師診察之処ニてハ一時之疲労より発熱せしものにて、両三日間ニハ全快可致と申居候、旁来ル十一・二日頃にハ是非一時帰京之上、前段之事共夫々取運可申と存候、依て向後之手続ハ自然賢台西京御帰着後と相成可申ニ付、百事書状ニて申上、もし必要之場合にハ、又御出京相願候歟、もしくハ従是御打合之為誰か差出候様可仕と存候、御含置可被下候、右一書可得貴意如此御坐候 敬具
 - 第33巻 p.528 -ページ画像 
  七月六日
                    大磯寓居ニ於て
                      渋沢栄一
    原田賢台
       侍史


渋沢栄一書翰 増田明六宛(大正九年)七月六日(DK330067k-0003)
第33巻 p.528 ページ画像

渋沢栄一書翰 増田明六宛(大正九年)七月六日 (増田正純氏所蔵)
○上略
原田助氏米国行之義依頼之為、一昨日大磯ニ来訪を請へ、種々相談之上、即今日老生帰京と相約し候も前段之仕合○栄一発熱ニ付原田氏へハ別紙差出候間、貴兄一応御覧ニて大意御領承被下度候、且又別ニ阪谷へ詳細申通し、詰り今般之加州慰問ハ、一面ニハ原田氏ニ托し、移民へ之伝言又ハ同情ある米国人へ之謝意と共ニ、此上之尽力を希望するものとし、在米日本人会即牛島氏之一団に対する応援として、可相成ハ金五万円位差送り申度、其取扱と加州ニ於て右金額之支出ニ付而、有効之取扱ニ出候様との注意ハ、寧口神谷氏へ内々委嘱して相当之注意を請ふものと致候ハヽ、両者相待つて好都合ニ相運可申と存候まゝ其旨阪谷へ懇々申通候、能々御内談可被下候、右ニ付阪谷其他ニも愚見ニ同意ニ候ハヽ、原田氏へハ概略之引合ニ御止メ被下、尚追而小生より夫々書状其他ニて御引合申上候旨、御打合置可被下候、又神谷氏へ内々貴兄より御耳打被成下度候、右ニ付老生より一書同氏へ差上度候も、此度ハ相略申候、可然御伝声可被下候、尚中野へも口頭申含候、御聞取可被下候 匆々不一
  七月六日
                      栄一
    増田明六様
        梧下
 東京兜町 渋沢事務所ニテ 増田明六様 要件親展 大磯 渋沢栄一
 中野時之持参 七月六日


渋沢栄一書翰 阪谷芳郎宛(大正九年)七月六日(DK330067k-0004)
第33巻 p.528-529 ページ画像

渋沢栄一書翰 阪谷芳郎宛(大正九年)七月六日 (阪谷子爵家所蔵)
拝啓、益御清適抃賀之至ニ候、大磯転地後稍快方と存候処、昨日ハ午後より少々発熱、且気分も相勝れ不申候ニ付、一昨日原田助氏と約束せし本日之出京出来兼候間、無余儀特ニ一人出京せしめ、原田氏へも書状ニて其段申通し、委曲増田まて申遣し候得共、何卒賢兄より原田氏へハ宜敷御引合被下度候、詰り同氏之日本出立ハ来ル八月と申事ニて、一応布哇ニ立越、同地之学校長と協議之上ならては、米国行も引受兼候趣ニ有之、所謂条件付之約束ニ有之、而して米国ニ於る運動も先つ数月間位ならてハ相任し兼候様被存候、依而愚考にハ、本月廿三日出立と確定罷在候神谷忠雄氏に鑵詰事業視察之外ニ、今般之慰問ニ
 - 第33巻 p.529 -ページ画像 
関する事務之壱部を依托し、過日之会議ニ基き、日米関係委員会より在米日本人会に対し、可相成ハ金額五万円位を応援するものとして、其金額之事ハ神谷氏を通して牛島其他之担当者ニ交付し、其有効之支出方法をも、幾分神谷氏ニ参与為致候ハヽ、経費之仕払ニ付而ハ、相応之取締も出来可申、而して原田氏之義者、幸ニ布哇なる学校講義ニ余暇出来して、当方之希望ニ応し、加州移民慰問と米国側有志者との聯絡旁、情意貫徹ニ付而之一方を委任するものとせハ、加州滞在もさして長時日を要せさる事と存候、依而概略前段之趣旨を以て、金子・添田氏等と御内談被下、同意ニ候ハヽ、原田氏へも其旨概略ニ御引合被下度候、今日老生より原田氏へハ単ニ一書を送り、賢兄と増田ニ申遣候趣申通候義ニ御坐候、但老生も発熱ハ当分之事ニて、今朝ハ余程快方、書状も相認候位ニ付、来ル十二日ニハ是非帰京候間、其上ニて資金勧募之方法ハ御相談之上尽力可致と存候
右所労中思出之儘執筆致候ニ付、御判読可被下候 匆々拝具
  七月六日
                      渋沢栄一
    阪谷芳郎様
        梧下
  尚々委細之義者、増田へも書中申通置候、且原田氏へ之一書も露封ニいたし、増田ニ一覧候様取計申候、為念申添候也
  議会中御多忙とハ察上候も、何卒此件ハ御助力之程頼上候
                        不一
阪谷芳郎様 親展 渋沢栄一
七月六日 中野時之 持参


渋沢栄一書翰 原田助宛 大正九年七月一六日(DK330067k-0005)
第33巻 p.529-530 ページ画像

渋沢栄一書翰 原田助宛 大正九年七月一六日 (原田助氏所蔵)
拝啓、爾後賢台益御清適奉賀候、過日ハ小生之希望ニ任せ態々御出京被下、殊ニ大磯転地先まて御過訪被下候も、匆卒之拝接いたし候ハ、欠礼之至ニ候、其際御口約之小生出京之義も、病気再発之虞有之候為め、御違約と相成、無拠阪谷男爵まて書通し、委細同男爵より御協議申上候次第も、其後小生之病気軽快ニ付、去ル十二日東京へ罷越し、一々伝承仕候、就て東京なる日米関係委員会を尚一会相催し、賢台を慰問使として同会より派出之件、及在桑港之日本人会ニ対し物質的援助之額を協定し、其支出方法をも相定候必要有之候間、右等之会合を本月十九日といたし、当日ハ小生是非とも出京之上、百事協定致候見込ニ御坐候
当方之都合前陳之通ニ付、十九日之集会相済候ハヽ、早々何分之義確乎書状ニて至急ニ可申上と存候ニ付、予メ御聞置被下度候、而して弥
 - 第33巻 p.530 -ページ画像 
以御出張相願候事ニ決定候とも、其時日ハ先頃賢台御申聞之如く、来ル八月之汽船にて差支無之と存候、但本年早春米国サクラメント府よりビルスと申人渡来せられ、鑵詰会社創立之義ニ付日米之資本共同之義勧誘を受け候為め、米国之実地視察方を其頃より種々申談し、神谷忠雄と申人ハ、現ニ斯業ニ経験も有之、且先年加州ニ土地貸与之制限法発表之際、加州移民より之請求に応し、添田博士を派出せしニ、補助として前陳之神谷氏も同行致候、旁鑵詰業之実況調査之序、特ニ牛島氏其他之同志者又ハ米国側之人士へも書通いたし、相当之助力相託候積ニ御坐候、尤も此神谷氏を派出するハ、単ニ小生個人之取扱ニて日米関係委員会より相託し候義ニハ無之候、而して神谷氏ハ本月廿三日出帆之シヤトル航路ニて出立之都合ニ御坐候故に、賢台ニ於て日米関係委員会之代表として御出張被下候時ハ、神谷氏ハ既ニ加州ニ於て実状夫々探知之筈ニ付、可成神谷とも御協力被下候様被成下度と存候此義前以小生より申上置候
過日東京ニ於て阪谷へ御申聞有之候書記一人御随行之事ハ、相当之御要求とハ察上候得共、目下関係委員会ニハ適当之人も無之、殊ニ桑港御着之上ハ在米日本人会と申相応之団体も存在候義ニ付、賢台之秘書位地ニ立候人物も可有之、もし文書之記録又ハタイプライター等之事ハ便宜之方法も有之筈と存候ニ付、常任的書記御帯同ハ願くハ御見合相願度候、敢て鄙吝之申上方致候ニハ無之候も、日米関係委員会とても全く有志者之助力を以て種々之経費ニ任し居候義に付、勉て節約を主といたし度と相考候儘、無伏臓申上候義ニ候、何卒御了承被下度候又布哇大学校へ電報を発して、賢台之加州行を小生より依頼之義ハ、もしも其電報が新聞紙等ニて誇大ニ吹聴致候虞無之候哉、可相成ハ別紙草案之如くして、賢台より御打電被下候方、幾分か穏当ニ相聞へ可申と存候、御再案被下度候
何れ来ル十九日之会同ニて諸事決定次第、直ニ書状にて可申上候得共其後之手続御通知旁、一書可得貴意如此御坐候 敬具
  大正九年七月十六日        大磯寓居ニ於て
                     渋沢栄一(印)
    原田助様
  尚々本月六日小生大磯より出京難致ニ付、其陳謝之為メ差出候拙書ニ対する貴答ハ、東京ニて落手拝見仕候、賢台弥御出張被下候ニ付てハ、日米関係委員会ニ於て御委托之要旨ハ、書面ニ認め御出立之際差上候様可仕と存候、為念申上候也
(別紙、別筆)
    電報案
今回渋沢男爵ノ慫慂ニ依リ、重要ノ任務ヲ帯ヒ数ケ月滞在ノ予定ニテ米国本土ニ赴クニ付、貴大学ニ於ケル小生ノ開講期ヲ一千九百廿一年一月以後トセラルヽ様、御承諾ヲ得タシ、尚小生ハ家族同伴ニテ天洋丸ニ乗船、九月二日貴市到着ノ予定ナリ、御返電マツ


日米関係委員会文書(DK330067k-0006)
第33巻 p.530-531 ページ画像

日米関係委員会文書           (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、炎暑之砌益御清適奉賀上候、然ハ貴台近々本会代表員として御
 - 第33巻 p.531 -ページ画像 
渡米被成下候ニ付てハ、御送別之為め晩餐会相催度ト存候間、遠路之処御迷惑と存候へ共、来八月三日午後六時、東京銀行集会所へ尊来被下度願上候、右御案内申上度、如此御坐候 敬具
  七月三十一日            日米関係委員会
                      渋沢栄一
                      藤山雷太
    原田助様


(増田明六)書翰 原田助宛 大正九年七月三一日(DK330067k-0007)
第33巻 p.531 ページ画像

(増田明六)書翰 原田助宛 大正九年七月三一日 (原田助氏所蔵)
  大正九年七月卅一日
拝啓、廿九日付八月三日送別会御受ノ旨御申越ノ貴電落手仕候、又同日ノ貴書二通モ正ニ拝受仕候、布哇大学総長ヨリハ意外ニ早ク返電有之、併カモ快諾ノ旨申参ラレ、渋沢男爵ニ於テモ大ニ安心セラレ居候就テ過日男爵ヨリ御話申上置候御送別ヲ兼ネ一会相催候件ハ、来ル八月三日午後六時、東京銀行集会所ニ於テ開催ノ事ニ相決シ、夫是準備中ニ御坐候、当日御案内致候先々ハ、貴台ノ外千葉・奥村ノ両氏、外務省ニテハ埴原次官、田中・芳沢両局長、伊集院通報部長・松岡同部員ニテ、主催側ハ日米関係委員会常務委員タル渋沢男爵外会員一同ニ候(委員会ノ会員ハ総計三十二名ニ候)
服装ノ義御気ニ懸ケラレ、御問合ハセニ候処、炎暑ノ候ニ候ヘハ、和洋服孰レニテモ略装ト申事ニ決定致候間、白服ニテモ聊カ差支無之候御承知被下度候
先ハ尊書御受旁申上度如此御坐候 拝具
                      増田明六
    原田助様
  尚々銀行集会所ハ、東京駅出口正面ヨリ半町位ノ位地ニ候、為念申添候也


(阪谷芳郎)日米関係委員会日記 大正九年(DK330067k-0008)
第33巻 p.531 ページ画像

(阪谷芳郎)日米関係委員会日記 大正九年
                 (阪谷子爵家所蔵)
  九、八、三 原田助、千葉豊治送別ノ為日米委員会、奥村モ布哇ヨリ来ル、出席ス、同人布哇ノ状況ヲ語アサントン、カツスル、フーク三氏好意ノ件


(増田明六)書翰 原田助宛 大正九年八月一四日(DK330067k-0009)
第33巻 p.531-532 ページ画像

(増田明六)書翰 原田助宛 大正九年八月一四日 (原田助氏所蔵)
   大正九年八月十四日
 京都南禅寺松林
  原田助様 増田明六
拝啓、不順極リ無キ天候ニ御坐候処、御障モ無之御清適之義と奉賀候
○中略
過日之書面ニテ近日送附可致旨申上置候ヴアンダリツプ氏一行及アレキサンダー氏一行トノ協議事項ニ関スル書類ハ、明日箱根ニ避暑セラルヽ渋沢男爵ニ別紙覚書ノ通差上置候間、同男爵ヨリ御受取被下度候渋沢男爵ハ去五・六ノ両月、療養ニ費シタル病気未以テ全快トハ難申
 - 第33巻 p.532 -ページ画像 
容態ニ有之候為メ、目下当面ノ緊急用務一段落相付候ヲ機会ニ、十日程ヲ箱根小涌谷三河屋《コワキダニ》ニ送ルベク明十五日東京ヲ出発致候、右ニ付キ特ニ貴台ニ願上度一事ハ、男爵ニ於テ貴台御出発前尚一度拝眉ノ上、種々御談話致度義有之候由ニ付、御地ニ於ケル御用相済ミ候ハヽ、横浜御出帆前、貴台ノ御都合良キ時日ニ於テ男爵ヲ前記ノ場処ニ御訪問被下度義ニ御坐候、其際別紙覚書ノ書類及米国各処ヘノ御紹介状御渡申上候筈ニ御坐候間、御出立前御迷惑ノ義ニハ候ヘ共、何卒御繰リ合ハされ、御訪問被成候様願上申候
貴地ヨリ小涌谷ヘノ道順ハ、京都発東京行汽車国府津ステーシヨンニテ降車、小田原電気鉄道箱根行電車ニ便乗、小浦谷停留場ニテ下車、人力車ニテ二丁余ニシテ三河屋ニ達シ候
右得尊意度、如此御坐候 敬具
  尚々小生義モ、男爵ノ御転地中ヲ機トシ、十六日ヨリ廿一日迄旅行ノ積ニ御坐候、廿二日ニハ必ス帰京致居候、乍余事申添候
別啓
我日米関係委員会ヨリ桑港在米日本人会ヘ送与スル補助金ノ義ハ、今日ノ処未タ関係委員中其負担分ヲ払込マサルモノモ有之候為メ、貴台ニ御届方御願致候手続難運候ヘ共、其中纏リ次第横浜正金銀行ノ送金手形ト致、御持参相願候様可致候、尚右御送与ニ関シ、在米日本人会会長牛島氏宛書面ハ、男爵自身認メラレ、箱根ニテ貴台ヘ御渡申上筈ニ御坐候間、御承知置願上候、再拝
    覚
一大正九年三月桑港アレキサンダー氏一行ト我カ日米関係委員トノ協議事項摘要
一右協議会ニ出席シタルアレキサンダー氏一行氏名表及我日米関係委員氏名表
一大正九年四月紐育ヴアンダリツプ氏一行ト我米賓歓迎会代表協議委員トノ協議事項ニ関スル、渋沢男爵ヨリ内田外務大臣宛書面写
一右協議ニ列席シタルヴアンダリツプ一行及我協議委員氏名表
一日米関係委員会代表者タル渋沢男爵藤山雷太両氏ヨリ原田助氏ヘ依頼シタル事項覚書、附渋沢男爵ヨリ神谷忠雄氏ヘ交付シタル覚書写
      以上


渋沢栄一書翰 シドニー・エル・ギユーリック宛 一九二〇年八月一四日(DK330067k-0010)
第33巻 p.532-533 ページ画像

渋沢栄一書翰 シドニー・エル・ギユーリック宛 一九二〇年八月一四日
          (シドニー・エル・ギユーリック氏所蔵)
            (COPY)
          Baron Shibusawa
        2 Kabutocho Nihonbashi
            Tokyo
                 August 14th, 1920
Dr. Sidney L. Gulick.
  105 East 22nd Street,
  New York, N. Y.
 - 第33巻 p.533 -ページ画像 
My dear Dr. Gulick:
  Years have passed since we saw each other last and I hope that you have been well all these long years.
  So far as I am concerned, I have been kept quite busy, especially so from the beginning of this year concerning the American-Japanese questions. I have had interviews with individuals and conferences with parties of Americans on various subjects in order that our time-honored friendship may be conserved and fostered. This strenuous work told on my physical system and the result was that I had to spend two months of May and June in the sick bed. Now I am pretty nearly recovered from it and am again at the helm.
  …………
  During our long separation our mutual friends, Baron Morimura and Mr. J. Naruse passed away and one can not help but feel loneliness when he meditates upon such events, but I am determined to work for the cause of justice and humanity so long as my life lasts, and I want you to remember that as there is a Gulick in America, so is there a Shibusawa in Japan devoting his time and energy to the promotion of moral cause transcending political glory and economic ambition.
  …………
  Recently our men in California sent a representative to the homeland to get a help for the purpose of softening this nasty agitation and one of their requests was to have someone sent to them, who might quietly confer with the interested friends and leaders of California. The Japanese-American Relations Committee saw the reasonableness of their request and at once communicated with Dr. Harada who for a while hesitated but finally accepted to take this responsibility. He is to leave Yokohama on the 24th inst. for San Francisco. As he was coming to the coast, we thought it best to have him come to the East to confer with our friends in that section of the country. Knowing that you and Dr. Harada are very intimate friends, I thought it opportune for me to seize this occasion to greet you. As to the details of the mission of Dr. Harada and of my present conditions, please ask him directly, and if you can give us any suggestions in connection with his mission or any other matter that affects the relations of the two countries, I will be greatly obliged to you.
  Trusting that you are well and happy, I am always
             Very truly yours,

                   E. Shibusawa
 - 第33巻 p.534 -ページ画像 

渋沢栄一書翰 増田明六宛(大正九年)八月二二日(DK330067k-0011)
第33巻 p.534 ページ画像

渋沢栄一書翰 増田明六宛 (大正九年)八月二二日 (増田正純氏所蔵)
貴方本月廿日附御状ハ、今朝落手拝見いたし候、爾後益御平寧是賀、御申越之件ニ付事済候義ハ回答を略し、要件左ニ申上候
原田君ハ今朝当方へ過訪せられ候ニ付、米国行ニ関する要務詳細ニ御打合いたし、書類及書翰悉く御渡申候、同君も充分了解之旨被申聞候在米日本人会へ送付之金額ハ、集合之高丈ケを此際為替金として原田君之手を以て送付候様御取計可被下候、外務省之分ハ埴原君へ切ニ申込、是非とも米国送り之分ニて金壱万円下付相成候様御相談可被下候例之原田君米国より電信往復之義ニ付、必要之場合外務省へ相願候事も御忘れなき様頼上候
原田君ニハ幣原大使と熊崎総領事ニハ大臣之添書必要と相考候ニ付、是又同君よりも請求と存候も、貴兄ニ於ても埴原君へ御依頼有之度候○中略右者只今原田君と面話中執筆致候義ニて、同君ハ今日ハ箱根ニ滞留、明日ハ多分東京へ被参候事と存候、其前米国送金之事及外務省との引合要件等、夫々御取運可被下候、右匆々貴答如此御坐候 拝具
  八月廿二日小涌谷客舎に於て
                      渋沢栄一
    増田明六様
        貴酬


渋沢栄一書翰 増田明六宛 (大正九年)八月二五日(DK330067k-0012)
第33巻 p.534 ページ画像

渋沢栄一書翰 増田明六宛 (大正九年)八月二五日 (増田正純氏所蔵)
              (増田明六筆)大正九年八月二七日御返事済
貴方廿三日附御状昨日拝披、御申越之件々了承いたし候、原田氏ハ弥以て今日開帆と存候、定而御見立被成候事と存候
桑港へ之送付金、外務省ニて不運ひ之為メ金四万円と相成候よし、残念千万ニ候、如例官庁之怠慢ニハ困却仕候
○中略
  八月廿五日
                         栄一
    増田様坐下
        貴酬
増田明六様 拝復 渋沢栄一
従小涌谷 八月二十五日


米国排日問題書類 第二(DK330067k-0013)
第33巻 p.534-535 ページ画像

米国排日問題書類 第二            (阪谷子爵家所蔵)
大正九年十月二十二日
  在桑港太田総領事来電の写
 - 第33巻 p.535 -ページ画像 
    原田博士より左の通り渋沢子爵へ電報方依頼方ありたるに依り御伝達方然る可く御取計を乞ふ
  本文
  桑港商業会議所のイニシアチーブ反対決議公表せられ、日米関係委員会も同じく反対意見を二三日中に公表の筈、桑港附近及ロスアンゼルス附近の米人協会団体の努力も、亦州民に少からざる好反響を興しつゝあり。
  余(原田博士)は一般投票当日まで当州に止り、東方へ向ふ予定、排日案の形勢に対し、同胞間不安を感じ居るも、米人との個人的交際は平常と大差なく、又同胞の態度慎重にして騒擾の模様無し


在米日本人史観 鷲頭尺魔[鷲津尺魔]著 附録・第八一頁昭和五年四月刊(DK330067k-0014)
第33巻 p.535 ページ画像

在米日本人史観 鷲頭尺魔[鷲津尺魔]著 附録・第八一頁昭和五年四月刊
    布哇大学教授の元祖
                      原田助
 熊本県人、曾て米国に学び神学博士となる。帰朝後京都同志社校長となり、一九二〇年、布哇大学の招聘により教授となり、日本文学歴史の講座を有つ。


布哇に於ける日米問題解決運動 奥村多喜衛著 第七―一二頁 昭和七年三月四版刊(DK330067k-0015)
第33巻 p.535-537 ページ画像

布哇に於ける日米問題解決運動 奥村多喜衛著 第七―一二頁 昭和七年三月四版刊
    運動の準備
 明治四十年の学童問題を始として。加州に排日運動の起りかけた頃から。而して問題の主なる材料は。布哇在留同胞の状態であることを聞くにつけ。余は将来布哇にも。同じ問題が起るに相違ないとの心配を起した。殊に日本人学校の如きは。早く教育の主意方針を。根本的に改革しないならば。折角の良き事業が。却つて強い排日の材料となるべきを憂へて。屡々口に筆にこの意見を公にした。然るに不幸にして得た所の反響は。非国民・売国奴の嘲罵であつた。布哇向き日本語教科書の編成を断行した時の如き。之が主唱者たる有田領事と余は。教科書より忠君愛国の四字を除いたとの理由で、幸徳秋水であるとまで。実に甚だしい筆鋒で。雑誌の上に攻撃されたこともある。一九一九年布哇県会に。外国語学校法案の提出された時の如き。余が平生の議論が不幸にして的中し。余をして先見の明をなさしめたので。思ひ掛ない誤解をうけた。法案発案者の如く言做され。余に対する幾通の脅迫状は送致され。或は余が著書を。利刀を以て切断して輸送し。諷刺的に脅かしたものもあつた。過去の状態已に此の如くであるのに。今また、排日予防運動を始め。余が考案を実行するに至れば。更らに大なる反対や障碍に。出会はねばならぬと覚悟した。故に慎重に考へ十分なる準備をなして。而る後運動に着手するの必要を感じたのである。
 米人の我同胞に対する誤解や疑惑は。単に一時の感情や皮相の考へからでなく。随分根深く這入つてゐる様に思はるゝので。これを掃蕩するの途も亦唯だ姑息なことでなく。根本的であらねばならぬと考へた。即ち多数同胞の有つてゐる『我等は日本人であるから。何処までも大和魂で突通さねばならぬ。我等の子女《こども》を全然米国民と為てしまう
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ことは。先祖に対して済まぬ。日本に対して不忠である』との思想を根柢より破壊して『我等は努めてアメリカに同化し。我等の子女《こども》は善良なる米国市民に仕立てあぐべし』との決心誠意を現はし。またその事実を示すことに由て。初めて米人の誤解疑惑を一掃することができると考へたのである。而して自ら顧みず僭越にも、敢て此運動に着手せんとしたのには聊か理由がある。
 その第一は従来此種の議論や運動が国賊視せられ。啻に悪罵されたのみならず。或ひは危害の身に及ぶ恐れがあつたので。手出しするものは甚だ少ない。されば他の人を待つ間に終に機を失して。取返しのつかぬ窮境に陥りはせぬかと心配したからである。
 その第二は此種の運動は唯日本人側だけでなく。米人側の諒解を要す。而して余は布哇にある已に三十年。外人間にも幾多の知己あり。其援助を得べしと自信したからである。
 その第三は余は学生寄宿舎を経営すること已に二十七年。其間寝食を共にしたる青年六百を越ゆ。或ひは日本に帰り、或ひは大陸に転じ若くは他界の人となつたものも少くないが。その布哇各地に散在して已に相当の地位を作り已に一家を営むものも甚だ多い。余一たび足を挙げて此運動に踏出せば。彼等及び其父兄は歓んで余を迎へ、余に加勢すべしと信じたからである。
 余は先づ時の領事に意見を開陳してその諒解を得。次に米人中最も有力にして。且つ我同胞に対して同情厚きスカダ博士。ウエスタベルト氏及びアサトン。キヤツスル。クツク三家の人々に相談した。孰れも満腔の賛意を表し。且つ援助を約諾した。尚ほ進んでは我総理大臣始め。朝野有力なる人士の意見を確かめたいと思ひ。丁度幸ひに一九二〇年十月東京に開かるゝ世界日曜学校大会に。布哇を代表して出席することになつて居たので。此機会に内地の諸士を訪問することゝした。
 七月十四日サイベリア号にてホノルルを発し。同廿四日横浜に着いた。廿七日には渋沢子爵を訪問して。布哇の現状から余が排日予防運動の主意及ひ方法について詳しく話し。大に子爵の心を動かした結果八月三日東京銀行集会所に催ほさるゝ。日米関係委員会の晩餐会に招かれ。食前一時間あまりの時間を与へられて。余は布哇の実情殊に同胞の状態から今。漸やく起りかけてゐる排日的気分を一掃すべき腹案等につき。赤誠を披瀝して全会員に訴へた。話終ると添田寿一博士や頭本元貞・団琢磨・堀越善重郎などの諸氏は。進み出で余が手を握り満腔の賛意を表すと云はれ。非常なる奨励を与へられた。此問題は早く総理大臣及び外務大臣の耳にも入れよと云ふことになつて。渋沢子爵の取持で。総理大臣は八月十日午後二時。外務大臣は何時にても面会すると定つた。乃ち余は指定の時日に永田町の官邸に原総理大臣を訪問し。従来布哇に於て非国民・売国奴と罵れた余が米化論を。忌憚なく開陳して、総理大臣の意見を求めた。所が総理は今日の場合、卿の意見は至極結構であるから十分に力を尽せと云はれ。加州問題につき。同胞児童の国籍問題につき。はつきりした意見を聞かされ。余は感激を以て退出した。数日の後外務省に出頭して。先づ田中通商局長
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と会談した。同氏も亦大に賛意を表せられ。直に余がため外務大臣と面会の時間を打合せ。其翌日午後三時。内田外務大臣と意見を交換した。同大臣も亦た全然余が意見に同感であると云はれ。運動に対して種々援助を約諾せらる。其後貴族院に於ても河井書記官長と懇談し。また其紹介にて藤堂子爵其外の人々と語り合ひ。京都に於ては帝国大学集会所にて。荒木総長始め数名の教授の外。第三高等学校・師範学校・中学及私立中学・女学の校長合せて二十名と晩食を共にして。例に由つて日米論を演述し。諸種の質間を受けた。要するに余が出会ふた名士のうちには。余が意見に対して、一人の反対者もなかつたのである。
 殊に余が日本を辞して帰途に就かんとする前四日。即ち十一月四日の夜。渋沢子爵及び藤山東京商業会議所頭取《(会頭)》の主催にて。銀行集会所にて特に余がため日米関係委員会の送別晩餐会の開かれたとき。前の八月三日の会合には。避暑旅行のため欠席した人が多かつたと云ふので。再び余が演説を求められ。食前充分の時間を与へられ。思ふ存分に意見を陳述した。食後先づ阪谷男爵は立つて『余は奥村君の演説を涙を以て聞いた』との前提を以て語り始め。一々条を逐ふて賛意を表し。之に加へて今夕御出席の官辺の人は。第一に金子枢密顧問官であるが。政府はこの問題を如何に考へるか御意見が承りたい。また現に日米問題を背負ふて立てる渋沢子爵は已に高齢である。商業会議所にて此事業を引受け継続することはできぬかと。藤山頭取の勘考を促された。次に金子子爵は立つて、奥村君の意見は余が年来の意見と符合して居る。また日米条約には好ましからざる者は送還してよいとの明文があるから。我儘に彼の国の美俗を破り法度を軽ずる様な不良なものは送還すればよい。金子堅太郎波止場に行つて受取てやらうと云ひ添田博士は海外在留者の啓発は至極結構であるが。多くの事は内地国民の反影であれば。先づ内国の啓発が急務であると憤慨され。最後に藤山頭取は、排日の声を聞けば唯米国の不法のみを考へたが。今晩の様に詳細の事実を聞て見れば。我に顧るべき点多々あるを感じた。此の如き事は我等だけでなく。成るべく広く知らせたいと語り。尚日米関係の事業に付ては。商業会議所に移民課とでも云ふべき様なものを設け。常に海外移民の事を調査し。事あれば直に局に当らしる途を講じたい。東京市民がかゝる重要事のために。十万円位の負担を増すは容易である云々と述べられた。結果全会一致にて余が運動をエンドースすると云ふことになつた。乃ち渋沢子爵は自ら筆を把つて。賛成決議の大要を記したる書簡を、十一月七日付にて余に交附された。かくして朝に在つては総理大臣及び外務大臣。野に在つては日米関係委員会の人々。其他有力なる人士の熱誠を込めたる賛成を得たのである。即ち余が期望したる準備は、玆に完成したるを以て。愈一九二一年より実施運動に着手することゝなつた。
   ○右ニハホノルル出発ヲ七月十四日トシ、次掲資料ニハ七月十七日トセリ。ココニハ訂正ヲ加エズ。


楽園時報 第一五巻第九号 大正一〇年九月 土産ばなし(九)奥村生○多喜衛(DK330067k-0016)
第33巻 p.537-540 ページ画像

楽園時報 第一五巻第九号 大正一〇年九月
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    土産ばなし(九)
                      奥村生○多喜衛
 余が此度の帰朝は、十月東京に開かるゝ第八回世界日曜学校大会に布哇を代表するためであつたが、余自身に取つては別にもつと大きな使命を感じて居た。そは何事かと云へば
 一昨年春我同胞が総立となつて学校法案に反対した頃から、米人の我に対する感情は丸で一変し、排日的筆鋒が英字新聞にも顕れて来た。昨年春オアフ島諸耕地がストライキをなすに至つて、其手段方法を誤りたるため、米人の悪感情は一段深きを加へた。云はゞ日米人の間に雲が懸つた。而して其雲が年一年と濃くなつて居る。雲が厚くなれば終に雨となるのは自然の成行、日米人の関係も此儘に打やつて置けば、或は排日の雨となりはすまいか、と云ふ恐があるので、雲のまだ薄ひうち、未だ雨降らざる先に、その雲を一掃する工夫をせねばならぬと思ふた。一言で云へば排日予防運動の必要を感じたのである。而して米人の誤解を去り疑惑を解くの途は、在留同胞がアメリカに同化せんとする意志のあること、また同化し得る可能性のあること、我等の子女は善良なる市民に仕立上ると云ふ精神あること、言を換へて云へば米化せんとする誠意を、アメリカ人に示すのが最肝要と信ずるが故に、此問題を提げて全島の我同胞に訴へて見ようと覚悟を極めた。先づ之を時の領事に図り、又米人有力者中特に日本贔負の数人に相談した。何れも満腹の同情賛意を表したので、余は日本に行き朝野有力者の之に対する意見を確めて、而る後実地運動に着手せん考へであつたのである。
 日曜学校大会までに此大使命を果したいと思ふたので、七月十七日ホノルヽを出発した。余は今回の旅行中は『布哇に於ける排日予防、大きく言へば日米問題解決』の外は何をも云ふまじと心に定めたのである。
    □
 帰航サイベリア丸にて一夕講演会が開かれた、元桑港日米新聞の記者であつた林甚之助君と余と講演者に択ばれた。余は乃ち日米問題の解決として米化の必要を論じた。船が横浜港内に入ると、八名の新聞記者が来て余を応接間に呼込んで意見を聞かれたので、例の米化論を吹た処、随分訳の分らぬ質問に出会ふた。
 七月廿四日に横浜に着し、廿五日東京に入つて、其翌日原田博士に出会ふた。博士は当時八釜しくなつて居た加州の排日問題につき、日米関係委員会から桑港出張を頼まれたが、布哇大学へ赴任の理由で再三辞退しても聞かれないので、余と相談の上決定せんと、余が帰着を待うけて居る所であつた。廿七日には博士と相携へて渋沢子爵を訪ひ博士の桑港行を取極めた。其序に余は布哇に関する意見を開陳して、大に渋沢子爵の心を動かし、結果八月三日夜東京銀行集会所に於ける日米関係委員会の晩餐会に列して演説せよと云ふことになつた。かくして不思議な摂理にて、早くも余が運動の端緒は開かれたのである。
    □
 八月三日の夜は、渋沢子爵の紹介で日米関係委員会の前に立た余は
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布哇の実情殊に同胞の状態から、今漸く起りかけて居る排日的気分を一掃すべき方案等につき、一時間あまり思ふまゝに陳述した。話終ると添田博士や頭本元貞・団琢磨・堀越善重郎などの諸氏は進み出て余が手を握り満腹の賛意を表すと云はれ、非常なる奨励を与へられた。此問題は早く総理大臣・外務大臣の耳にも入れよと云ふことになつて渋沢子爵の取持で、総理大臣は八月十日午後二時、外務大臣は何時にても面会すると定つた。乃ち余は指定の時日に永田町の官邸に原総理大臣を訪問し、忌憚なく、従来布哇にて非国民・売国奴と罵られた余が米化論を開陳して総理の意見を求めた、所が総理は、今日の場合卿の意見は至極結構であるから、十分に力を尽せと云はれ、加州問題につき、また同胞児童の国籍問題につき、はつきりした意見を聞かされ余は感激を以て退出した。
 数日の後外務省に出て、先づ田中通商局長と会談した。同氏も亦た大に賛意を表せられ、直に余がため外務大臣と面会の時間を打合せ、乃ち其翌日午後三時内田外務大臣と意見を交換した、大臣も亦た同じく賛成し、運動に対して種々援助を約諾せらる、かく一瀉千里、余が使命は大体成遂ぐることができたのである。是を以て見ても、我朝野枢要の地位にある人々が、如何に日米親善に心力を注ひで居るかゞ分る。
 貴族院に於ても河井書記官と懇談し、また其紹介にて藤堂子爵其外の人々と語り合ひ、京都に於ては帝国大学集会所にて、荒木総長を始め数名の教授の外、第三高等学校・師範学校・中学校及び私立中学・女学の校長合せて二十名と晩食を共にし、又例の日米論を演述した。色々の質問があつて、一番手答へある会合であつた。
    □
 かくして余が使命は果され、日曜学校大会も終つたので、例の如く冬の寒さの襲来を恐れ、船腹不足で到底わり込む途のないのを、浅野東汽社長の厚意で無理やりにルームをこしらゑ、而も一室専領で、大威張で十一月八日の天洋丸に乗込むことゝなつた。
 出発の四日前、十一月四日夜渋沢子爵及藤山東京商業会議所頭取《(会頭)》の主催にて、銀行集会所に特に余がため日米関係委員会よりの送別晩餐会が開かれた。八月三日の会合には避暑旅行のため欠席した人が多かつたと云ふので、再び余が演説を求められ、食前充分の時間を与へられ、思ふ存分に意見を陳述した。食後先づ阪谷男爵は立て『余は奥村の演説を涙を以て聞ひた』との前提を以て語り始め、一々条を逐ふて賛意を表し、之に加へて今夕出席の官辺の人は第一に金子枢密院顧問官であるが、政府はこの問題を如何に考へるか、また現に日米問題を脊負ふて立てる渋沢子爵は已に高齢である。商業会議所にて此事業を引受け継続することはできぬかと、藤山頭取の勘考を促された。次に金子子爵は立て、奥村の意見は余が年来の意見と符合して居る。また日米条約には好ましからざる者は送還してよいとの明文があるから、我儘に彼の国の美俗を破り法度を軽んずる様な不良なものは送還すればよい、金子堅太郎波止場に行つて受取てやらうと云ひ、添田博士は海外在留者の啓発は至極結構であるが、多くの事は内地国民の反影で
 - 第33巻 p.540 -ページ画像 
あれば、先づ内国の啓発が急務である、と憤慨され、最後に藤山頭取は、排日の声を聞けば唯米国の不法のみを考へたが、今晩の様に詳細の事実を聞て見れば、我に顧るべき点多々あるを感じた。如此事は、我等だけでなく成るべく広く知らせたいと語り、尚日米関係の事業に付ては、商業会議所に移民課とでも云ふ様なものを設け、常に之に当らしむる途を講じたい。之れがため東京市民が十万円位の負担を増すは容易である云々と述べられた、結果全会一致にて余が運動をエンドースすると云ふ事になつた。乃ち渋沢子爵は自ら筆を取て、賛成決議の大要を記したる書面を十一月七日付にて余に交附せられた。是にて余が使命に関する運動は全く完結した。余は是より布哇に帰り、一切を投出しこの目的のため余生を献げんと、言ひ尽されぬ感激と希望を以て、横浜を発し帰途に就ひたのである。


渋沢栄一書翰 奥村多喜衛宛 大正九年一一月七日(DK330067k-0017)
第33巻 p.540-542 ページ画像

渋沢栄一書翰 奥村多喜衛宛 大正九年一一月七日 (奥村多喜衛氏所蔵)
拝啓、益御清適奉賀候、過日ハ御発途前御繁忙中にも拘はらす、特ニ御臨場被下忝奉存候、折角開催いたし候貴下御送別之宴会も、老生ハ宿痾之為め終に出席も仕兼、真に欠礼之至りと恐縮此事に御坐候、乍去当夕来会之本会員一同は、貴下か在布哇同胞之将来を御憂慮被成候ニ付て、種々御抱負之事共拝承いたし、曩に老生単独ニ相伺候と同しく、全然御同感と申事ニ候間、此段書中御報道申上候、就てハ貴下御帰布之後ハ、本会之趣旨をも我同胞一般へ御伝達被下、協力一致日米両国之親善を永遠ニ継続せしむる様御高配之程、切ニ希望仕候、抑も国際之融和ハ両国間互ニ正義人道を基礎とするは勿論ニ候得共、各自相共ニ忠恕敬愛之交情を以てするは、最以て喫緊之義と存候、而して我同胞之海外に在りて動もすれは不同化的人民との誤解を受け候ハ、此辺に欠点無之とも難申哉と懸念仕候、殊ニ将来米国之市民たるへき在布哇我同胞之子女教育ニ付てハ、別して注意を要すへきもの有之、老生等之主義とする所も、頃日来貴下と御談話せし如く、務めて米国之制度文物に遵由して、米国人と其喜憂を共にし、所謂郷に在りてハ郷に従ふ之良風美俗を養成致度と存候、果して然らは、単に布哇米人のミならす、米本国人も亦之を認むるものと相成、永久的之親和も期して待つへき事と存候
右者貴下御発途に際し、御告別旁一書可得貴意如此御坐候 敬具
  大正九年十一月七日
                東京日米関係委員会
                  常務委員
                    渋沢栄一(印)
    奥村多喜衛様
          貴下
  尚々本会々員人名別紙ニ記載いたし差上申候、又去ル四日之小集ニ出席せし人名も別記仕置候、是又御承知可被下候也
(別紙、別筆)
本文曩ニ老生単独ニ相伺候云々の点ハ「曩ニ老生単独ニて貴意見承り候節、御賛同申上候と均しく、同夕会合之本会々員一同に於ても、全
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然御意見ニ同感と申事ニ付、小生より此段以書状御報知申上候」と申す文意ニ御坐候、文字省かれ候為め、意の尽されさる厭有之候に付、玆ニ附記仕候次第ニ御坐候
  大正九年十一月七日 増田明六
(別紙、謄写版)
    日米関係委員会々員氏名
   井上準之助    服部金太郎
   原富太郎     早川千吉郎
   新渡戸稲造    堀越善重郎
   大谷嘉兵衛  男 大倉喜八郎
   和田豊治   子 金子堅太郎
   梶原仲治     高田釜吉
   団琢磨      添田寿一
   頭本元貞   男 瓜生外吉
   内田嘉吉     串田万蔵
   山科礼蔵   男 古河虎之助
   藤山雷太     江口定条
   姉崎正治     浅野総一郎
 男 阪谷芳郎   男 目賀田種太郎
   志立鉄次郎    志村源太郎
   島田三郎   男 渋沢栄一
   土方久徴   男 森村開作
 幹事服部文四郎  幹事増田明六
 同 小畑久五郎
(別紙、別筆)
    大正九年八月三日出席者氏名
               会員      堀越善重郎
               同       梶原仲治
               同       団琢磨
               同       添田寿一
               同       頭本元貞
               同       姉崎正治
               同       浅野総一郎
               同     男 阪谷芳郎
               同 子《(男)》 渋沢栄一
               幹事      増田明六
               同       小畑久五郎
    大正九年十一月四日出席者氏名
               会員      服部金太郎
               同       早川千吉郎
               同     子 金子堅太郎
               同       団琢磨
               同       添田寿一
               同     男 瓜生外吉
 - 第33巻 p.542 -ページ画像 
               同       内田嘉吉
               同       藤山雷太
               同     男 阪谷芳郎
               幹事      服部文四郎
               同       増田明六
               同       小畑久五郎
(別筆)
  奥村多喜衛様 渋沢栄一


(フランク・シー・アサートン)書翰控 渋沢栄一宛 一九二〇年八月二六日(DK330067k-0018)
第33巻 p.542-543 ページ画像

(フランク・シー・アサートン)書翰控 渋沢栄一宛 一九二〇年八月二六日
               (フランク・シー・アサートン氏所蔵)
                (COPY)
                     Honolulu, Hawaii,
                     August 26, 1920.
Mr. Baron E. Shibusawa,
  Tokyo, Japan.
My dear Baron Shibusawa :
  I am very pleased to learn from the Reverend Okumura that he has arrived in Japan, and that he has had the pleasure of presenting to you and some of your friends his plans for bringing about a better understanding between the Americans and Japanese throughout these Islands ; and also his plans for the Americanization of the Japanese who are making their homes here. As you are fully aware, this is one of the most serious problems that is confronting us here in the Islands. I have discussed with Reverend Okumura some of his plans before he left and I am very heartily in accord with his ideas and the method which he proposes to follow ----- particularly his plan to visit the various smaller towns throughout the Islands and the plantations, and meet in groups with the older Japanese to explain to them the necessity of having their children educated in American ways and being brought up according to our American customs.
  It is quite natural that the present generation of children growing up here, whose parents were born in Japan and are naturally quite loyal to Japan, should be torn by conflicting emotions. Naturally, the home influence is strongly Japanese, while the influence of our public schools is strongly American. Since these young people have been born in American territory, they are eligible to American citizenship ; and if they plan to live here should rightly seek to imbibe our American ideals and customs and become loyal Americans. It therefore seems vital
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to many of us that their parents should now be awakened to this situation and should be urged to cooperate and assist their children in becoming Americans, and not try and educate them to be Japanese and loyal to Japan. If the younger Japanese growing up here cannot give evidence that they will become genuine American citizens, who can be depended upon in any emergency, it seems to me that the situation of the Japanese here will become more and more difficult, and the relations between the two countries become more strained. Those of us who are deeply interested in this problem have welcomed the plan which Reverend Okumura is developing, and sincerely trust that it will receive cordial support from you and other leading men of Japan and such assistance as you can render him.
  ............
  With kind regards, I am,
            Very sincerely yours,
            (Signed) F. C. ATHERTON


渋沢栄一書翰 奥村多喜衛宛 大正一〇年七月二八日(DK330067k-0019)
第33巻 p.543 ページ画像

渋沢栄一書翰 奥村多喜衛宛 大正一〇年七月二八日 (奥村多喜衛氏所蔵)
(別筆)
   大正十年七月廿八日
   奥村多喜衛様
拝啓、其後打絶御無音ニ打過候処、御変り無之益御清適之段賀上申候小生ニ於ても別条無く、不相変多忙ニ消光致居候間、御安心被下度候
昨年十一月御別れ致候後、貴兄ニハ御予定之道程を着々御進行之義と拝察致候、要之日米親善之問題ハ、単ニ言論のミにてハ其効無之、行之之ニ伴ふてコソ、真ニ親善之実を挙くるものと信候、小生之昨年十一月貴兄ニ差上たる拙書之趣旨も、右ニ外ならさる義ニ候間、何卒貴地同胞各位と互ニ協力一致して、両国親善之実を先つ布哇ニ於て顕著ならしむる様、此上之御尽力希望仕候
今度友人姉崎博士之渡航ニ際し特ニ博士ニ託し平素の御無音を謝し併せて希望申陳候、尚小生之近況ハ同氏より御聴取被下度候 匆々敬具
                      渋沢栄一


渋沢栄一書翰 奥村多喜衛宛 大正一〇年九月二〇日(DK330067k-0020)
第33巻 p.543-544 ページ画像

渋沢栄一書翰 奥村多喜衛宛 大正一〇年九月二〇日 (奥村多喜衛氏所蔵)
(別筆)
   大正十年九月二十日
  奥村多喜衛様
拝啓、時下益御清適奉賀候、然ハ先年来御尽力の排日予防運動之義、着々予定之計画を被進、今度全島ニ亘リ第一回之御巡回を終られ候処其結果頗る良好にて殊ニ米人間ニ大なる好感を与へ候趣、予て斯く有るべしと期待致居候へ共、更ニ其御成効を衷心より深く御悦申居候
右御巡回之経過報告ハ、拝受之都度精読致し、最近にハ千葉豊治君貴
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地より帰朝にて、委曲之談話有之、御好果の著るしきを悦ふと同時ニ御計画を何処迄も遂行セらるゝ様切ニ願居候
小生義、来る十一月華府ニ於て開催セらるゝ太平洋会議を機会として当地日米関係委員会を代表して、同会委員之両三氏と共に来十月十三日横浜発春洋丸にて渡米する事と相成候へ共、十一月十一日迄にハ華府ニ到着致度ニ付、往路貴地ニ於て緩々御話致候余裕無之候間、帰航之折ハ篤と御意見承り、邦人問題ニ関し何とか具体的成案を得度と希望罷在候、何卒御含被下度候
右不取敢御通知申上度、書外拝眉ニ相譲り申候 敬具
                     (栄一自署)
                      渋沢栄一


渋沢栄一書翰 奥村多喜衛宛 大正一一年四月一五日(DK330067k-0021)
第33巻 p.544 ページ画像

渋沢栄一書翰 奥村多喜衛宛 大正一一年四月一五日 (奥村多喜衛氏所蔵)
(別筆)
   大正十一年四月十五日
  奥村多喜衛様
拝啓、先般貴地滞在中ハ種々御厚情を蒙り謝上申候、御地拝辞後海路無恙帰京、爾来幸ニ健在元気ニ消光罷在候間、御放念被下度候
此程ハ尊書被下、不相変熱心御運動之趣を承知致、遥ニ敬服罷在申候御申越之件ハ来月早々日米関係委員会を催し附議候上、何分之御回答可申上候間、御承知置被下度候
扨本書を以て御紹介申上候は、当地ニ於ける実業家古河虎之助男爵ニて、小生ハ同氏之先代以来親族同様昵懇之間柄に御坐候、此度同氏ハ業務上小閑を得たるを幸ニ、予て御病痾之令夫人をして海上ニ保養を為さしめんと、同伴貴地ニ旅行之途ニ就かれ候間、何卒旅中之御心添可然御配意願上申候
同氏ハ日米関係委員会々員にて、多年日米親善の為ニ尽力致居候へ共此度之旅行ハ令夫人之病気療養之目的にも有之、旁多数之人々ニ面会致、又ハ饗宴等ハ可成御辞退致度由ニ御坐候間、此段御含被下度候、先ハ御紹介申上度、匆々如此御坐候 敬具
                      渋沢栄一
 (栄一自筆)
 老生日常匆忙寸暇無之、略儀なから代筆にて申上候、其中閑を得て詳細拝陳可仕と存候也、栄一拝具


渋沢栄一書翰 奥村多喜衛宛 大正一一年八月七日(DK330067k-0022)
第33巻 p.544-545 ページ画像

渋沢栄一書翰 奥村多喜衛宛 大正一一年八月七日 (奥村多喜衛氏所蔵)
   大正十一年八月七日
  奥村多喜衛様
拝啓、時下益御清適奉賀候、然ハ排日予防啓発之御運動ハ貴兄独特之御試にして、貴兄以外之他のものゝ企て及ハさる義にて其好績を年一年と堅実ニ顕著ならしむるハ、日米親善之為め深く可賀次第ニ御坐候何卒向後も引続き自彊不息之御決心を以て益努力せらるゝ様希上申候別紙小切手ハ邦貨壱千円を米貨四百七拾八弗七拾五仙と換算したるものにて、貴兄之御事業賛助之為め寄附致候間、御落手被下度候、実ハ右之外友人等をも勧誘致し、相当之金額を御送附致度と心掛候へ共、目下本邦之経済界ハ委微其極ニありと可申状態にて、到底醵集之見込
 - 第33巻 p.545 -ページ画像 
も難立候ニ付き、今回ハ小生丈け之寄附金を拝送仕候義ニ御坐候間、此辺之事情御領意被下度候
先ハ得芳意度如此御坐候 匆々敬具
                      渋沢栄一



〔参考〕(奥村多喜衛)書翰 増田明六宛 大正一三年二月一八日(DK330067k-0023)
第33巻 p.545-546 ページ画像

(奥村多喜衛)書翰 増田明六宛 大正一三年二月一八日
                     (渋沢子爵家所蔵)
                 (別筆)
                  三月廿日回答済 明六
謹啓、懇篤なる御書面を頂き、誠に難有存候、殊に小生の働に対し、過分の賛辞を忝ふし感謝罷在候、叉手新聞電報によれは、近々子爵は再ひ日米問題のため御渡米の御心組の趣、果して事実に御座候哉、御様子相伺度候、小生今春は骨休めに帰国いたし度希望なりしも、種々の事情に妨けられ中止致申候、秋になれば或は実現できるかと相考へ居申候
次に小生共の啓発運動は、第三年に労働者の要求不平を聞き、之を以て耕地支配人及ひホノルヽ代理店に掛合ひ候所、実に意外の好結果にて、要求の殆んと全部が容れられたるため、労働者は非常の満足、各所にて小生共に対し感謝会を催すなど申まいり候、又一方耕地側よりは、昨年末小生共の属する布哇伝道会社に対し、小生共の運動に対する謝辞を伝へ、且つ来年度より運動費全部を耕主組合にて負担するにつき運動を継続してもらいたいと申込み来候、小生は小さな働か労資双方に認められたるを深く喜ひ申候へ共、右の申込は断然拒絶いたし申候、其理由は過去三年間はウエスターベルト、キヤツスル、アサトン、クツク四氏及子爵の御厚意に由て費用を弁したることは、憚らす公にして感謝いたし居候次第なるが、今後耕主組合の金にて運動いたし候時は、小生共をケブタク思ひ居るものは、之を以て中傷し、資本家の走狗など批評して、小生共の働を効果少からしむる恐あるからに御座候、併し小生共は新年言志に申述へたる如く、此運動は是非継続の必要有之ものと相考へ居候ニ付、何とか新しい途を得、新しい方針に進み度相考へ、本年度より左の案を立て申候
 一、今後最も意を用ゆへきは、布哇生青年の指導及其職業問題の解決
 一、青年をして農業を以て身を立つ考をもたしめ、また農を以て身を立て得る様、耕地側より仕向けせしむること
 一、青年をして善良なる政府を作るため、投票権を正当に使用するの義務を感せしめ実行せしめ、最も有力なる政党と関係をつけ、其翼の下に保護せしむる事
 一、従来発行し来たりし英語新聞New American(布哇生日本人即新米人)を以て、此主意を青年間に宣伝し、極少額即ち一ケ年五十仙の会費を出せて、青年を糾合する事
右に付ては山崎総領事にも相談し、また有力なる米人数人とも談し、已に着手いたし、小生は現に本日よりカワイ島に出張する事に致し居申候、別封にて機関紙New American数部御送り申候間、御一覧下され度候
 - 第33巻 p.546 -ページ画像 
此運動にも即ち全島各地を廻て啓発するため、相当の費用を要し候に付、ヂヨウヂ・キヤツスル氏は之かため金壱千弗を提供いたし申候、小生思ふに今回の運動の結果は慥かに日系市民の権利を保護し得る事と信し申候
恐入候へ共、右の事情子爵に御話し下され度、今後運動の模様は時々御報申べく候
復興事業御繁忙の際、折角尊体大切に遊さるゝ様、子爵に宜敷御伝へ被下度候
先は御懇書に対し御礼を兼ね当方近情申上候 頓首
  一九二四年二月十八日
                      奥村多喜衛
    増田明六様
 別封にて英文紙二十枚御送り申候、恐入候へ共坂谷男爵《(阪谷)》・金子子爵・添田博士など日米関係委員の方々に御出会の節右の事情御話下され御配布相願度候 再拝



〔参考〕(奥村多喜衛)書翰 渋沢栄一宛 大正一三年九月二日(DK330067k-0024)
第33巻 p.546 ページ画像

(奥村多喜衛)書翰 渋沢栄一宛 大正一三年九月二日 (渋沢子爵家所蔵)
                    (栄一鉛筆)
                    九月十五日一覧
謹啓、其後は甚た御不沙汰仕候段御海容被下度候、酷暑の砌御尊体御障無御座候哉、邦家のため折角御自愛奉希候、小生今夏は休養之為め帰省致度心組にて有之候処、新移民法発布後各島同胞の間に巡回し人心の動揺を防くべき必要を認め、帰朝中止いたし申候、別封小冊子は五月以来毎月一般同胞間に配布したるものを、更に纏めて一冊となし数万部を普く配り申候ものに御座候、御寸暇の節御一覧被下候へば光栄に御座候、布哇の日米人関係は頗る良好にて少しの心配も無之候、先は暑中御見舞旁右迄 頓首
  一九二四年九月二日
                      奥村多喜衛
    渋沢子爵閣下