デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
2節 米国加州日本移民排斥問題
3款 日米関係委員会
■綱文

第34巻 p.573-589(DK340065k) ページ画像

大正14年9月15日(1925年)

是ヨリ先、アメリカ合衆国ハワイニ在リテ、在留
 - 第34巻 p.574 -ページ画像 
邦人ノ米国同化運動ニ従事セル牧師奥村多喜衛帰朝ス。是日栄一、奥村ヲ飛鳥山邸ニ引見ス。二十一日当委員会ノ会合ニ招待シテ其説ヲ聴ク。是ヨリ後、継続シテ奥村ノ運動ヲ援助ス。


■資料

(フランク・シー・アサートン他三名) 書翰 渋沢栄一宛 一九二五年六月二三日(DK340065k-0001)
第34巻 p.574-575 ページ画像

(フランク・シー・アサートン他三名) 書翰  渋沢栄一宛 一九二五年六月二三日
                 (渋沢子爵家所蔵)
         HONOLULU, HAWAII
                 June 23rd, 1925
Viscount Shibusawa and
Members of the Japanese American Relations Committee
Dear Sirs :―
  The plans of the campaign to remove causes of friction between the American people and the Japanese, which were discussed before you in July, 1920, and which received your hearty endorsement, were carried out from January, 1921, by Rev. T. Okumura and his son Umetaro. They toured the Islands, holding meetings with the Japanese in nearly all the settlements, the expenses being met by the Atherton, Castle, Cooke and Westervelt families.
  We would like to say that the work of these men has been very successful in bringing about this better understanding, especially between the American employers and their Japanese laborers, and has greatly improved the living conditions of these laborers. In pursuance of this work they have done much to counteract mischievous propaganda of agitators, which has been the chief cause of the strikes and bad feeling.
  In closing we would like to say that we consider their work a very great blessing to the Islands and we wish to add our personal testimony that they have well earned our confidence and respect.
              Very truly yours,
P.O. Box 2990.
               (Signed) F. C. Atherton
       (Signed) Castle family by G. P. Castle
                (Signed) C. H. Cooke
              (Signed) W. D. Westervelt
(右訳文)
          (栄一墨書)
          奥村氏帰朝後未た面会せさるニ付、在京候ハヽ当方来訪之事可申通、而して此連名来状之四名ハ奥村氏会見之後ニ於て意見可申述候事 七月十八日一覧
                    (七月十日入手)
 - 第34巻 p.575 -ページ画像 
 東京市
  渋沢子爵閣下
  日米関係委員会     ホノルヽ、一九二五年六月廿三日
         御中       エフ・シー・アサートン
                  ジー・ピー・キヤツスル
                  シー・ケー・クツク
                  ダブルユー・デイ・ウエ
                  スターヴエルタ
拝啓、一九二〇年七月皆様の御協議を仰ぎ、且衷心よりの御賛成を得たる日米両国民軋轢の原因除去に関する運動計画は、一九二一年一月より奥村多喜衛氏及令息梅太郎氏によりて実行に着手せられ候、両氏はアサトン、キヤスル、クツク、ウエスターヴエルト諸家の出資により、殆ど居住地全部の日本人と会合を催せられ候
此両氏の諒解増進事業は特に米人雇主側及―日本人労働者の間に於て其成功を見、其後右労働者の生活状態は大いに改善せられ候、両氏は此事業の遂行によりて、ストライキ及悪感情の主因たる煽動家連の悪意の宣伝に対抗するに与って力有之候、終に臨み両氏の努力は本島に対する福音にして、吾等は信任と敬意とを両氏に致すものなる事を附記致候 敬具


渋沢栄一書翰 控 フランク・シー・アサートン他三名宛 大正一四年一〇月一六日(DK340065k-0002)
第34巻 p.575-576 ページ画像

渋沢栄一書翰 控  フランク・シー・アサートン他三名宛 大正一四年一〇月一六日
                    (渋沢子爵家所蔵)
  アサートン殿 同御家族様    東京
  キヤツスル殿 同上         日米関係委員会
  クツク殿   同上          渋沢栄一
  ウエスターヴエルタ殿 同上
拝啓、時下益御清適奉賀候、然ば奥村多喜衛氏の帰朝に際し御交付の尊書拝見致候
奥村多喜衛並令息同梅太郎両氏が日米両国民軋轢の原因除去の目的を以て、一九二一年より着手したる在布哇日本人労働者啓発大運動に関しては、貴下等四氏及御家族の多大の御援助の下に健実に行はれ、米人雇主側及日本人被雇者側双方に於て大に意思を疏通し、爾来改善せられし点少からざりしことは、同氏の時々の通信に依りて承知致居候処、今度同氏に御交付の尊書は、更に同氏父子の功績を御証明相成候ものにて、小生も同氏後援者の一人として、欣快に堪へざる次第に御座候
小生は去九月十五日拙宅に同氏の来車を請ひ、詳敷運動の状況及在留邦人の近況に付き聴取し、尚日米関係委員会は同廿一日歓迎会を催ふし、同氏より運動の経歴及将来の方針を聴取して深く同氏の功労を感謝し、同時に引続き向後尚一層の努力を以て、日米両国民葛藤の原因を布哇より一掃し、且排日煽動の原因を捉ふるの余地無き様なされ度と希望し、又奨励致候
小生は又同氏の依頼に応じ、我政府の総理大臣・外務大臣に紹介致し同氏の所信を披攊せしめ候、是以て小生が同氏の運動を助勢するの一
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事と御諒解被下度候
右尊書御受申上度 匆々敬具
  大正十四年十月八日              渋沢栄一
  ○右英文書翰ハ十月十六日付ニテ発送セラレタリ。


集会日時通知表 大正一四年(DK340065k-0003)
第34巻 p.576 ページ画像

集会日時通知表  大正一四年        (渋沢子爵家所蔵)
九月十五日 午前九時半 奥村他喜衛氏来約《(奥村多喜衛)》(王子)


(奥村多喜衛) 書翰 渋沢栄一宛 一九二五年一一月一〇日(DK340065k-0004)
第34巻 p.576 ページ画像

(奥村多喜衛) 書翰  渋沢栄一宛 一九二五年一一月一〇日
                    (渋沢子爵家所蔵)
                        明六
謹啓、御地滞在中は御厚情を忝ふ《(う)》し、御蔭にて将来の運動に付各方面の御賛成を得、大なる希望を以て新なる踏出しをなし得ることを深く感謝罷在候、尚ほ甚だ恐入候へ共、出発の際御願置申候御書面何卒御送致被下度奉懇願候
小生予定の通り十月廿九日横浜出発仕り、去る七日午前無事ホノルヽ到着仕候、此月は留守中堆積いたし居候要務を片づけ、来月より運動に取かゝる心算に御座候、玆に安着の御報申上げ、併せて滞在中うけし御厚情に対し謹で御礼申上候 頓首
  一九二五年十一月十日       ホノルヽにて
                     奥村多喜衛
    渋沢子爵
       座下


(奥村多喜衛) 書翰 渋沢栄一宛 大正一五年三月五日(DK340065k-0005)
第34巻 p.576 ページ画像

(奥村多喜衛) 書翰  渋沢栄一宛 大正一五年三月五日
                    (渋沢子爵家所蔵)
謹啓、本年内地は殊の外寒さ厳しき趣、尊体別に御障り無御座候哉、折角御自愛之程奉希候
叉手昨年御話申上候通り、啓発運動の義去る一月より第二期の踏出しをいたし、各島各地の巡回相始め居申候、時世の趨勢と共に在留同胞の思想大に変化いたし、米人との折合い誠によろしく相成候へども、尚自家の利益のみ考へ面白からぬ行動を敢てするものあり、運動上放害《(妨)》を与へらるゝこと少からず候、併し建つるものあれば毀つものあるは已むを得ざることゝ相考へ、根気よく努力いたし度覚悟に御座候、何卒時々御声援を賜り度切に奉希候、先は時候御見舞旁右迄匆々
                            頓首
  大正十五年三月五日
    渋沢子爵                奥村多喜衛
       座下
                    (栄一鉛筆)
                    三月二十七日一覧


渋沢栄一書翰 控 奥村多喜衛宛 (大正一五年七月二〇日)(DK340065k-0006)
第34巻 p.576-577 ページ画像

渋沢栄一書翰 控  奥村多喜衛宛 (大正一五年七月二〇日)
                    (渋沢子爵家所蔵)
                    (栄一墨書)
                    十五年七月二十日一覧栄一
拝啓益御清適奉賀候、然ば布哇在留の邦人をして米国人の生活に将又
 - 第34巻 p.577 -ページ画像 
米国の主義に同化せしめ、以て両国人を打つて一丸となさんとする所謂在留邦人の啓発運動について、貴下が多年御尽瘁なされ候事は夙に老生の欽仰致居候所に有之候処、御苦辛の効空しからず近年着々効績を顕はし候由、時々の御報告に依りて拝承衷心より歓喜致居候次第に御座候、今や全世界の視聴は太平洋に集注し、今後此地を中心として幾多の重要問題提起せらるべく、対岸の米大陸にては依然として深刻なる排日法の繰返され居候際、布哇にては邦人の同化によりて米国人の同情を贏ち得、彼の加州排日法の如きも遂に侵入の虧隙を与へざるは尤欣快とする所に御座候、希くは今後倍御奮励相成両国人を融合同化せしめ、延いては日米間の平和の関鑰たらしむるに至らんことを切に翹望致候、別封金壱千円は些少ながら御運動費の一助にもと進呈仕候、御受領被下度候 匆々敬具
                      渋沢栄一
    奥村多喜衛様


(奥村多喜衛) 書翰 渋沢栄一宛大正一五年八月一九日(DK340065k-0007)
第34巻 p.577-578 ページ画像

(奥村多喜衛) 書翰 渋沢栄一宛大正一五年八月一九日
                     (渋沢子爵家所蔵)
         (栄一鉛筆)
         大正十五年九月十日事務所に於て閲了明六
         (別筆朱書)
         子爵ノ書状ニ対スル回答ニ付本書ニ対スル回答ハ見合ハセタリ明六
謹啓、酷暑之砌愈御健勝奉慶賀候、叉手小生過日来啓発運動のためカワイ島に出張いたし居候処、此度帰宅尊書拝受披見仕候、小生の運動に対し過分の御言葉を賜はり、且つ運動費とし金壱千円御恵送被下御芳情誠に難有奉存候、愈々奮励初志を貫徹して御厚志に酬ひ奉り度覚悟に御座候
本年一月以来はヂヨウヂ・キヤツスル氏の手を経て運動費を支給せられ居候間、直ちに御援助の事を報告し当分は之にて諸費を弁し得ることを話し大に喜ばれ申候
次に啓発運動も近来は各方面に著しき反響を起し来り、目下日系市民の有志者は起て投票権行使を奨励する運動に着手し、県書記官も大に此挙を称揚いたし申候、また農業を以て身を立つる決心をなさしめ、土地を所有せる実力ある市民を出来るだけ多く作らんとの意見も此頃は真面目に考へらるゝ様相成申候、かくして政治上有力なる分子となり、実業上除くべからざる要素となるに至れば、在留同胞の将来は安固となり、小生予期の通り向ふ五年間運動を継続し得ば必ず見るべき結果あるべしと信じ居申候
此度新に来任せられし桑島○主計 総領事はすべての点に於て小生共と意見合致いたし申候間、今後の運動には大なる力を得可申、欣喜に堪へざる次第に御座候
此度御恵与に預り候に付、過去五年間運動の結果か如何に現れ居るか今後運動の方針及ひ在留同胞同化の実情から子女か忠良なる市民となり得る実証など英文に印刷し、布哇の米人は固より大陸有力者に広く配布致度考にて直に之に着手いたし申候
先は御礼旁希望申上け
 - 第34巻 p.578 -ページ画像 
謹て閣下の御健康を祈る 頓首
  大正十五年八月十九日
                       奥村多喜衛
    子爵渋沢栄一殿


楽園時報 第二一巻・第一号大正一五年一月 母国順礼(二)奥村生(DK340065k-0008)
第34巻 p.578-579 ページ画像

楽園時報 第二一巻・第一号大正一五年一月
    母国順礼(二)             奥村生
 左の一項は順礼記行中ずつと後に出るべきものであつたが。加哇新報に頼まれて其新年号にこれを与へたので。繰りあげて同時に本誌にも掲載することゝした
 余がこの度の帰朝は心身の休養と同時に。過去五年間布哇全島に於て継続実行した啓発運動の報告をなすためであつた。元来余等が啓発運動は。内地に於ては渋沢子爵をはじめ日米関係委員会の人々は勿論当時の総理大臣及び外務大臣の賛成後援を力として始めたものであるから。その経過について報告するのは余の義務と感じたのである。
 予期の通り渋沢子爵は日米関係委員会の人々を集めて。特に余がため歓迎午餐会を催ふし余が報告と意見開陳に十分の時間を与へられ。尚又若槻内務大臣及び幣原外務大臣其外要路の方々にも已に面会を得たが。独り加藤総理大臣との会見は容易に其機会が得られなかつた。その間余は東西各地を巡遊し東京のみに滞留することができなかつたので。延び延びして僅かに中一日を残し横浜出発帰布の日取りとなつて来た。外の事は差し置いても是非首相に会い。余が運動に対する諒解と賛成を得ねばならぬと心を決めたのである。
 十月廿七日夜は渋沢子爵秘書の注意により。総理大臣秘書官と打合せ置くべく。幾度も電話をかけて見たが。終に秘書官をつかまえることができなかつたので。その手段は打切り只管神の指導祐助を祈つて床についた。翌朝は旅館の前に客待せる自動車を雇ふて。八時十分前に麹町区下二番町加藤首相の私邸に伺候した。受付の書生に頼んで首相に『朝早く而かも突然伺ふて甚だ失礼であるが。私は明日正午出発の船にて布哇に帰る筈であるから。どうか面会を許してもらいたい。もし今朝御都合悪しければ。午後にても少しの時間を頂きたい』と申入れた。所が『突然の来訪であるから丁度朝食を始めて居るので。済むまで待つてくれるならば面会しよふ。尤も長い時間はこまる。』との返答であつた。余は『喜んでおすみになるまで待ます。時間は極短くてよろしい』と申入れ。さらばとて応接室に案内された。余は腰をおろすと直ぐに頭を垂れて神に感謝した。暫くすると茶が出た。又暫くするとコーヒーをもつて来た。頗る丁寧な接待振りであつた。応接室に静かに待つ間は余のためには好い祈祷の時間であつた。少時間に意見を述べ尽し得る様心の準備を為した。また首相が全く胸襟を打開いて会談してくれる様聖霊の導きを祈つた。三十分余も経て入口の戸が開いた。余は首相の入来と思ふて起立して迎へた。所が此度も亦前の書生で而して此方へ来いとのことであつた。
 余は案内に従つて奥まつた書斎に導かれた。首相に迎へられストーブの前に並べてある安楽椅子に差向ひに腰をおろした。挨拶がすむと
 - 第34巻 p.579 -ページ画像 
余は直ちに話を始めた。過去五年の運動方針を述べた。話のあいまあいまに色々の質問を受けた。首相からも四方八方の談話があつた。余は最後に将来の運動方針として
 一、布哇出生同胞に出生証明書を獲得すると同時に日本国籍を離脱せしめ。純全たる米国市民として立たしむること
 二、已に市民たる以上は投票権を正当に行使し。己が好む既成の党派に属して。政治的に保護をうけしむること
 三、労働を以て身を立つる決心覚悟をもたしめ。布哇産業上必要なる要素とならしむること
の三点を挙げてその意見を伺へば『今日までの骨折りは感謝する。今後の運動方針も結構。殊に投票権の行使は必要なことである。宜しく邦家のため尽せ』とのお言葉であつた。余は感激して暇を告げた。首相は玄関まで送り出て。余が外套を着る間入口に立たれた。着終りて頭を垂るれば首相も亦丁寧に挨拶せられて相別れた。時は已に十時を過て居た。長い時間はこまるとの始の話であつたが。談話に実が入りて二時間となり。十年の知己若くは親戚の如く実に打解けた会合で。余は嘗てなき好感を与へられた。祈祷の応験を感ぜずには居られなかつた。首相邸を出ると直ちに自動車を駆けて飛鳥山に赴き。渋沢子爵に暇乞し且つ首相と会見の様子を告げた。子爵も夫は大成功であつたと喜ばれた。
 八年前ヌアヌ青年会建築費募集のため帰つた時には。朝野有力なる人々に逢ふて布哇の事情を話す必要があつたので。時の総理大臣寺内伯爵にも面会した。カキーの軍服にサーベルと云ふ姿で而かも寡黙武骨一辺の人であつたが。『我日本外交に二大方針がある。一は日英同盟で他は日米親善。内閣は幾たび代つてもこの方針は変らない。卿布哇に帰れば益々日米親善のため努力せよ』と云はれたことは。今に余が耳底に響いて居る。
 五年前帰朝したときは啓発運動準備のため原総理大臣に面会した。官舎の大臣室で机を隔てゝ対座した。原氏は鼠色の縞帷子に白襟の肌衣。仙台平の袴を穿いて居られた。紋付も羽織も着ないで頗る隔意なく自由に意見を述べ。また懇切な注意と奨励を与へられ。前の寺内総理と面談の時に思いくらべて。如何にも平民宰相であるとの感を禁じ得なかつた。其時原氏は余が意見に対して。『今日の場合卿の言ふ所は至極結構である。日米親善のため十分に力を尽してもらひたい。布哇出生児の籍をアメリカに移すことは最早問題でない。籍が移つたとて先祖を忘れるものでない。籍が変つたため先祖を忘れる様なものは籍があつたとて先祖を思ふ者でない。故にどしどし国籍離脱を決行させてもらひたい』と明瞭に断言されたのである。
 寺内首相の云はれた日本外交二大方針の一なる日英同盟は。満期と共に已に終焉を告げたが。日米親善は原首相も之を高調し。現に加藤首相も亦之に重きを置いて居る。即ち日米親善は今日我国外交の主要点であることは疑ひない。されば布哇に在る我同胞は常に思念を玆に致し。日米親善の助長に幾分にても貢献するあらば。実に邦家に対する一大御奉公である。
 - 第34巻 p.580 -ページ画像 

楽園時報 第二一巻・第五号大正一五年五月 母国順礼(六)(DK340065k-0009)
第34巻 p.580-581 ページ画像

楽園時報 第二一巻・第五号大正一五年五月
    母国順礼(六)             奥村生
 七月初め東京に着いた時は。渋沢子爵は病褥に在り朝野の名士多くは避暑旅行中。加ふるに三派聯立内閣漸く動揺しつゝあつたので。先づ関西地方の要務を終へ。東京の運動は九月中旬にせよとの注意に従ひ。取敢ず京都に落つき夫れから四国・中国・九州を巡遊して丸二ケ月を過ごした。漸く秋冷の候に入つたので九月十一日東京に出た。此度の滞在二週間は今回帰朝の中心運動であつた。此間渋沢子爵は余のため歓迎午餐会を銀行集会所に開き。阪谷男爵・添田博士・井上準之助・梶原仲治・内田嘉吉・浅野総一郎・服部金太郎など一粒よりの政治家・実業家・学者二十余名を集め。余として過去五年間の啓発運動報告をなし。進んで今度取るべき運動の方針につき説明せしめ。満場一致を以て賛成を表し。精神的にも物質的にも援助を与ふることを約諾された。余は京都休養中に過ぐる五年間運動の報告や色々の意見書を集め『布哇に於ける日米問題解決運動』と題する。菊版八十二頁の小冊子を印刷せしめ。予め朝野有力者の間に配布して置いたので。それが東京運動には大なる助けとなつた。
 次に若槻内務大臣に面会して布哇在留同胞の実情を語り。国籍離脱問題に就ては。父兄は理に於ては分つて居るが情に於て決行し兼ぬる有様である。貴下の是に対する御意見如何と伺へば内務大臣は答へて
 我政府は、米国に生れた子女を何時までも日本臣民として取留て置きたい考へは少しもない。彼等が其の国の市民として立派に発展せんことを切に願ふて居る。故に昨年国籍法改正会議の時にも余は。国籍離脱に関しては願や届を要せず。彼の国の出生証明書を得たと同時に日本の籍を除いてやればよいと主張したが届けだけは出させた方がよいとの意見があつたので余は之に譲つた。かく出来得るだけ手続を簡易にする考へであるので。在留民は政府の意の在る所を諒し遠慮なく離脱を決行してもらいたい。君布哇に帰れば若槻がかく言つたと告げて実行を奨励してもらいたい云々
と語られた。余は進んで布哇の出生証明書と日本の戸籍謄本と生年月の相違。或は名の相違まで間々あることを告げ。如何に取計らはるゝかを尋ねた所。赤木秘書官及び該事務担当の岡田課長を同席せしめ。余が説明を聞きたる上。かゝる相違のある場合は。ホノルル領事が本人に相違なしと証明文句を記入せば夫れでよいとの事になつた。其他復籍の事或ひは布哇衛生局にのみ届出で日本籍を保留しない者の帰国入籍のことなど。一々質問して一々明答を与へられ。従来の疑問を悉く解決し得たのである。
 外務省に於ては先づ佐分利通商局長に面会した。同氏には前から色色の印刷物やまた私信も送つてゐたので余が立場も運動の主意もよく諒解し居られた故。万事都合よく語り合ふことができた。余は話の序に近来布哇に種々の人々立寄りて。臆面なく日本主義を振廻し排米思想を鼓吹するのであるが。日米親善が我国外交の方針でありとすれば何故外務省はかゝるものに旅券を与へて我外交方針を破壊せしむる如
 - 第34巻 p.581 -ページ画像 
きことを為すかと質問したことであつた。同局長は近々支那に出張さるゝこととなつて居たので。仔細の事は石射移民課長と協議して行けとのことであつたので。同課長と二回面会して語り合つた。外務大臣秘書官は岸倉松氏である。余は先年世界一周の旅行をなしたとき。ロンドン大使館にて同氏に会い各所に案内してもらい。爾来幾度も文通してゐたので。久し振りの面会を喜んだ。同氏の紹介で直ちに幣原外務大臣に面会することができた。五年前余が此の運動を始めるとき内田外務大臣に会つて主意を話した所。熱誠なる賛成を得且つ同大臣はホノルルの総領事にも訓令して置くから。万事相談して遂行せよとの事であつたので。今回は現大臣に右の成行から五年間の報告をなし。将来の運動方針に対する賛成を求めたのである。
 加藤総理大臣とは九月二十日午前面会する筈であつたが。其前日即ち十九日午後三時貴衆両院建物が焼け。二十日は朝から臨時内閣会議が開かるゝことゝなつたので。余との会見は已むを得ずできないこととなつた。余も又二十一日から新潟地方に赴く予定にて。既に先方にも用意ができてゐたので。総理大臣との会見は無期延期として東京を立つたのである。
 この外朝野の名士との会見談は紙面の都合にて次号に譲る。今回各官省に出入して一つ感じたことは。何れの官庁も余程開けて来たことである。五年前に行つたときは受付か喰ひ止めて中々勝手に通さなかつた。先づ名刺を出す給仕を呼んで持行かせ。而る後応接室に案内する永く待たすといふ段取りであつたが。此度はずんずんと入つて行く受付は何処へ行くかと聞く。誰に会ふのだと言ひ捨てゝ行く。秘書官の室に行つてノックすれば入れといふ。大臣に取次を頼むと云ふ風に頗る簡易に迅速にいける様になつて来た。前にも外務省だけは比較的自由であつたが。今度は前に一番むつかしかつた文部省或ひは内務省の如きも頗る自由になつて居る。是れは一大進歩と言ふべきものであらう。唯宮内省だけはオートモビールで乗込まんとした所。門衛のため止められ長い間待たされたが。是は当然であると恐縮した。



〔参考〕(奥村多喜衛) 書翰 渋沢栄一宛昭和二年一月二〇日(DK340065k-0010)
第34巻 p.581-582 ページ画像

(奥村多喜衛) 書翰 渋沢栄一宛昭和二年一月二〇日
                     (渋沢子爵家所蔵)
                   (別筆)
                   二、五、六返事済
謹啓、内地は寒気厳しき事と存候、別に御障も無御座候哉、折角御自愛奉希候
叉手過日原田博士帰布の節御懇切なる御伝言を賜り感銘仕候、御援助を忝ふ致候小生共の運動も着々歩を進め居申候、是亦た厚く御礼申上候、御心に掛けられ候耕地に於ける労資の関係頗る円満に相成り、今の処往年の如き面倒を惹起す心配は毛頭無之候、若し不幸にして不穏の形勢有之候節は、小生直に出張し鎮定し得る自信を有し申候間御安心被下度候
本年度は進んて日系市民の訓練に力を尽し度、其一方法として別紙に記載いたし候如き計画相立て申候、已に県知事及ひアサトン氏の如き数名の有力者にも相談候処、何れも援助を約せられ、我桑島総領事も
 - 第34巻 p.582 -ページ画像 
大に賛成なし下され候間、必すや好結果を得る事と信し申候、何卒相変らす御声援賜り度希望仕候
先は御伺旁右まで 匆々頓首
  昭和二年一月二十日
                      奥村多喜衛
    渋沢子爵様
        座下
(別紙・謄写版)
過去数年間発行致候英文誌New Americanは資金欠乏の為め昨年度全く休刊致候、然る処諸方より断へず要求あり且つかゝる刊行物の必要を切実に感じ候間、本年度は先づ四回発行の事に相定め候、幸に資金を得ば隔月或は毎月の刊行を見るに至るべしと信じ候
本年度発行の第一回は政治家・実業家・教育家・宗教各方面代表的の人々に『日系市民に対する希望』につき執筆を乞い、第二回には日系市民の之に対する答案を掲載いたし度希望に候
できるだけ汎く青年男女の間に配布いたし度希望に候、若し一人壱ケ年分として金弐拾五仙宛最初に徴収なし下され候へゞ幾分発行費を補ふを得幸に候、如何のものにや御一考を煩し度候
之に関聯して実行致度一の計画は、ホノルヽに於てNew American(日系市民を言ふ)の代表者会議を開く事に候、其第一回即ち本年度の会合には、たとへばハワイ島より三名、マウイ、カワイ、オアフ島より各二名、ホノルヽ若干名の代表者を選出し、来る七八月の交ホノルヽに会合せしめ、凡一週間毎日午餐会にて知事初め各方面知名の士三・四名づゝと卓を囲んて相交り其意見を聞かしめ、帰島の後全島を巡回して報告演説をなさし度候、代表者の往復旅費及び滞在費は当方より支給致すべく候
此計画成功せば、来年度は更に人員を増し、或は倍数と致し度、代表者選定方は追て御報致すべく候
右御勘考下され熱心なる御賛成を希望仕候



〔参考〕渋沢栄一 書翰 控 奥村多喜衛宛昭和二年五月六日(DK340065k-0011)
第34巻 p.582-583 ページ画像

渋沢栄一 書翰 控 奥村多喜衛宛昭和二年五月六日 (渋沢子爵家所蔵)
                    (栄一鉛筆)
                     五月六日一覧
    奥村多喜衛様
拝啓、其後御無音ニ打過候処益御清適賀上候、然ハ先般帰布ノ原田博士ヨリ当地ノ近況御聞及ノ由、又多年御尽力ノ啓発運動ハ着々良成績ヲ被収候趣御通信被下一々拝承致候
今度ハ一時休刊ノNew American御再刊ノ由ニテ、増田ヲ経テ一部御送附被下正ニ受領致候、本英文誌ニ関聯シテ日系市民訓練ノ目的ヨリ、本年度ヲ始メトシテ毎年各地日系市民代表者会議ヲ開クコトヲ計画セラレ、既ニ県知事並ニアサートン氏・桑山総領事等《(桑島)》ノ内外ノ有力者ヨリ賛同ヲ得候由、右ハ善良ナル米国人タルベシトノ多年ノ御主唱ヲ実現スル最良ノ方法ト、小生ニ於テモ遥ニ賛成ノ意ヲ表シ候、併シ言ハ易ク行フハ難シトノ古諺モ有之候間折角不撓御努力被下度候
由来在留邦人ノ啓発運動ハ各地ニ行ハレ居ル様聞知致候得共、孰レモ
 - 第34巻 p.583 -ページ画像 
一時的ニシテ遂ニ成績ヲ挙グルニ至ラス、中途消失致候様子ニ有之誠ニ遺憾ノ至ニ候処、貴兄ハ反之多年一日ノ如ク一難ニ遭遇スル毎ニ益決心ヲ強固ニシテ計画ノ歩ヲ進メラレ、逐次成績ヲ収メラルヽハ小生ノ深ク感謝スル処ニ候
右ハ尊書拝答申上度 匆々拝具
  昭和二年五月六日
                      渋沢栄一



〔参考〕(奥村多喜衛)書翰 渋沢栄一宛昭和二年五月二五日(DK340065k-0012)
第34巻 p.583-584 ページ画像

(奥村多喜衛)書翰 渋沢栄一宛昭和二年五月二五日
                          (渋沢子爵家所蔵)
                      (別筆)
                       六月十一日入手
              (栄一鉛筆)
               昭和二年六月十三日落手一覧、別紙添
謹啓、五月二日付《(マヽ)》の尊翰忝拝誦仕候、小生の働に対する懇篤なる御奨励の御言葉感銘仕候、神もし許し玉はゞ生命のつゞくかきり奮励し理想の実現に相努め可申候間不相変御声援奉希候、先般申上候日系市民訓練の計画も歩を進め八月一日より実行の事に決定仕候、之には有力なる委員もでき、別紙記載の人名の外に賛助委員として
 フランクアサトン ヂヨウヂキヤツスル ウエスタベルト
 リチヤードクツク ヂヨンウオータハウス ウオルターヂリンハム
 桑島総領事
の七氏に御依頼申候、此計画は必ず大なる効果あるべしと信し申候
先は尊書に対し御礼申上度 匆々頓首
  昭和二年五月廿五日
                           奥村多喜衛
    渋沢子爵殿
        座下
(別紙)
        (栄一鉛筆)
         奥村多喜衛氏ホノルル府よりの来翰に相添へたる別紙
(謄写版)
    ニユーアメリカン(日系市民)会議
一。一九二七年八月一日より同六日までホノルヽ市に於て開催
一。出席代表者数
   ハワイ島  ヒロ地方一名、ハマクワ地方一名、コナ地方一名
   マウイ島  東部一名、西部一名
   カワイ島  リフイ近傍一名、西部一名
   オアフ島  ホノルヽ市外二名
   ホノルヽ市 五名
    合計十四名 (備考) 本年の結果を見たる上、来年度は代表者数を増し二倍若くは三倍し、一地方より一名の割になすべし
一。右代表者出府の往復船賃は之を支給し。止宿所は特に用意しあれば滞在費を要せず
一。島地より出府の船便大略左の通り
 - 第34巻 p.584 -ページ画像 
   ヒロ及ハマクワよりは八月一日ホノルヽ着 同九日帰る
   コナよりは七月三十日着 八月七日帰る
   マウイよりは七月三十一日着 八月八日帰る
   カワイよりは七月三十日着 八月七日帰る
   オアフは八月一日着 同七日帰る
  右期日間は必ず当方用意の宿所に滞留のこと
一。開会六日の間は毎日午餐会を催ふし。知事始め政治・実業・教育宗教各方面知名の人々を四五名宛招待し。代表者と食を共にせしめ。各々凡そ十分の談話を乞ふこと
  六日間晩餐には同胞間の有力者を数名宛招待し懇談す
  夜は時に諸種の催ふしあり。又時に自由行動を取る
一。右午餐会に於ける談話は詳細速記せしめ印刷して代表者に交付すべし
  代表者各居住地に帰りたる後。地方を巡回して本会に関し報告演説をなすこと
  (備考)此会合に於て日系市民をして有力なるアメリカ人と交親せしめ。米国市民としての自覚・自任・自重の心を強めしめ。日米人先輩の意見を聴取して之を宣伝し。一般の注意を喚起せしむ
一。代表者選出の票準《(標)》
  年齢に制限なし。英語を解し。地方に帰て報告演説をなし得る人。其他は常識の判断にまかす
一。代表者氏名を七月一日までに中央委員に報告すべし
  中央委員 原田助 毛利伊賀 相賀安太郎
       J・P・エルドマン 奥村多喜衛
  実行委員 国友忠夫 丸山信治 奥村梅太郎



〔参考〕(奥村多喜衛) 書翰 増田明六宛昭和二年七月二八日(DK340065k-0013)
第34巻 p.584 ページ画像

(奥村多喜衛) 書翰 増田明六宛昭和二年七月二八日
                    (渋沢子爵家所蔵)
謹啓、兼て申上置候日系市民会議は、別封プログラムの通り実行する事と相成り、幸に各方面有力者の賛成を得候事を深く喜び申候、小生は此計画は慥かに大なる結果を生み出すことゝ信し申候、尤も是は一回に止らず年々繰返すべきものと存候、プログラムに記しある人々の地位・職業等を御参考にと思ひかき添へ申候、甚だ恐入候へ共渋沢子爵に御話し申上げ下され度希上候、何れ会議終り候上にてまたくわしく御報可申上候、先は右迄 匆々頓首
  昭和二年七月廿八日
                      奥村多喜衛
    増田明六様
                (別筆)
                ○二、八、十一、回答済明六
   ○別封プログラムその他略ス。



〔参考〕(増田明六) 書翰控 奥村多喜衛宛昭和二年八月一一日(DK340065k-0014)
第34巻 p.584-585 ページ画像

(増田明六) 書翰控 奥村多喜衛宛昭和二年八月一一日
                    (渋沢子爵家所蔵)
    奥村多喜衛様
 - 第34巻 p.585 -ページ画像 
                     増田明六
拝啓、時下益御清適賀上候、然ハ七月廿八日付尊書并別封ニテ御送付ノ日系市民会議プログラム十葉正ニ領収致候
右会議ノ日系市民ニ対シ最モ効果アルベキハ予テ期待致居候処、本日同会ノ顧問各位及八月一日ヨリ同六日ニ至ル毎日ノ演説会并協議問題指導者諸氏ガ、孰レモ貴地ニ於ケル青年ノ模範トスベキ各方面ノ代表的人物ナルヲ知ルニ及ンデ期待ノ愈確実ナルヲ思ヒ、貴兄ガ多年不撓不屈日米親善ノ為ニ、将又在留邦人ノ為ニ尽力セラルヽ功績ノ愈顕著ナルヲ推察致欣喜ノ至ニ候
渋沢子爵ニモ尊示相伝候処大ニ悦バレ、尚益御健康ニ益御尽力下サル様切望スル旨申上ヨト被申聞候以上 敬具
  昭和二年八月十一日



〔参考〕(奥村多喜衛) 書翰 増田明六宛一九二八年八月三〇日(DK340065k-0015)
第34巻 p.585 ページ画像

(奥村多喜衛) 書翰 増田明六宛一九二八年八月三〇日
                  (渋沢子爵家所蔵)
               (別筆)
                三、九、二四返事済明六
謹啓、御繁忙なるに拘らず小生の事常に御心に留め下され、すべてをよろしきに御運び下され実に感激罷在候、又嘗て御相談申上候子爵御演説の筆記此度御恵送下され誠に難有存候、之を在留同胞にわかち候へば日米親交の上にまた小生啓発運動の上に大なる力と相成可申、啻に邦文だけでなく之を英訳して日米人殊に日系市民に示し度と存候、御聴許被下度候
尚又折入て御願申度義は、過日御配慮相願候御即位大礼活動ヒルムの義に付、宮内省大谷書記官より封入の書簡有之申候、小生は文部省には知合い方一人も無之、且つ海外に在る名も知られぬ小生個人出願致候ても御取上げ無之事と存候、就ては子爵若くは日米関係委員会より御申込み下され、一組払下を願い下さるゝ事は出来申間敷候哉、此段何卒御一考下され子爵に御相談被成下度奉懇願候、此義相叶い候へば小生の運動には非常なる力を添へ可申、来年は運動の第九年に相成候間、之に由て掉尾の運動を試み度覚悟に御座候
右御依頼まで 匆々頓首
  一九二八年八月卅日
                       奥村多喜衛
    増田明六様



〔参考〕(奥村多喜衛) 書翰 渋沢栄一宛昭和三年八月三〇日(DK340065k-0016)
第34巻 p.585-586 ページ画像

(奥村多喜衛) 書翰 渋沢栄一宛昭和三年八月三〇日
                   (渋沢子爵家所蔵)
謹啓、御病気御全快の御報を載き欣喜雀躍謹んて邦家のため奉慶賀候内地は残暑尚厳しき事と遥察何卒御身御大切に御保養の程奉希候
さて過般増田氏を通して、御即位大礼活動ヒルムに関する件御願申候処、御聴許下され候段誠に難有存候、此度重ねて増田氏に御願書差上置申候間、小生の目的達成致候様御助力伏て奉願候、来年は小生啓発運動の第九年に相成申候間、内外人の間に掉尾の運動を試み度志望に御座候
 - 第34巻 p.586 -ページ画像 
過日相開申候第二回日系市民会議は、昨年に比して質も量も遥かに勝り大成功にて有之申候、報告書出来次第御覧に入れ可申候
先は御全快の御祝詞申上度 匆々敬具
  昭和三年八月三十日
                      奥村多喜衛
    渋沢子爵
       閣下



〔参考〕(増田明六) 書翰控 奥村多喜衛宛昭和三年九月二四日(DK340065k-0017)
第34巻 p.586 ページ画像

(増田明六) 書翰控 奥村多喜衛宛昭和三年九月二四日
                 (渋沢子爵家所蔵)
    奥村多喜衛様
拝啓、益御清適賀上候、然ば今秋挙行せらるゝ御大典の活動写真のフイルムを啓発運動用として御希望の趣にて宮内省大谷○正男書記官に御照会被成候処、文部省に交渉を試みる様と注意を受けられ候趣委細の御申越拝誦致候、早速当方より文部省に貴意相伝へ可申候も、貴方よりは文部当局者に提出の文体を以て至急右希望の願書(宛先未記入のまゝ)を当方へ御発送被成下度候
右乍延引拝答致候、尚大谷宮内書記官より貴兄宛尊翰は玆に同封返上致候也
  昭和三年九月廿四日
                      増田明六



〔参考〕(小畑久五郎) 書翰控 奥村多喜衛宛昭和三年一一月一五日(DK340065k-0018)
第34巻 p.586 ページ画像

(小畑久五郎) 書翰控 奥村多喜衛宛昭和三年一一月一五日
                    (渋沢子爵家所蔵)
拝復、益御清適奉賀候、然ば十月十日付貴翰「布哇に於ける日米問題解決運動」「布哇生れ青年の前途」各十部宛及「楽園時報」渋沢子爵記念号数十部、何れも順着正に落手仕候
御申越の御大礼記念活動写真譲受の件は文部省と交渉の結果一揃二巻出来次第交附せらるゝ事と相成候、代価は弐百参拾円位なる由に有之候、右は文部省の注文にて渋沢子爵の名義にて譲受けの手続致置候間御承知置被下度候、代金も御立替支払置候積に候間其節は更めて御請求可致候、又御送附越の書類は夫々配布致候間左様御承知被下度候
増田氏は九月廿四・五日頃より風邪に冒され軽微の肺炎を惹起し今猶籠居療養中に付、小生代つて夫々取計候間御回答も亦小生より申上候
次第に御座候、増田氏の病気は順快最早心配無之状態に有之候間御省念被下度候
右得貴意度如此御座候 敬具
  昭和三年十一月十五日               渋沢事務所内
                            小畑久五郎小畑
    奥村多喜衛様



〔参考〕(小畑久五郎) 書翰控 奥村多喜衛宛昭和四年一月二四日(DK340065k-0019)
第34巻 p.586-587 ページ画像

(小畑久五郎) 書翰控 奥村多喜衛宛昭和四年一月二四日
                  (渋沢子爵家所蔵)
 - 第34巻 p.587 -ページ画像 
拝啓、益御清適奉賀候、然ば予而御依頼に与り居候御大礼記念活動写真フイルムは、外務省の好意により今般同省より直接ハワイ領事館宛発送致す事と相成候に付き、同フイルム貴着の節は領事館より貴台に通知可有之と存候、領収書並にフイルム使用心得書同封仕候間御査収被下度候、尚ほ代金弐百九拾弐円五拾銭は渋沢事務所に於て立替へ置候に付一言申添候、右得貴意度如此御座候 敬具
  昭和四年一月二十四日
                      小畑久五郎
    奥村多喜衛様
         机下
      (別筆)
       領収書は後便にて発送致すべき旨通知せり



〔参考〕(奥村多喜衛) 書翰 渋沢栄一宛昭和四年三月四日(DK340065k-0020)
第34巻 p.587 ページ画像

(奥村多喜衛) 書翰 渋沢栄一宛昭和四年三月四日 (渋沢子爵家所蔵)
                   (別筆)
                    三月十九日入手
謹啓、其後は甚た御無音に打過候段平に御海容被下度候、愈々御壮康慶賀候
叉手此度御配慮により御即位大礼ヒルム御下付相成り本日荷着正に受取申候、小生の排日予防啓発運動本年は其第九年に相成申候間、右ヒルムを用いて玆に掉尾の運動を試み、積年御援助を賜はりし御芳志に酬い奉り度覚悟に御座候 匆々頓首
  昭和四年三月四日          奥村多喜衛
    渋沢子爵閣下



〔参考〕布哇に於ける日米問題解決運動 奥村多喜衛編 第一四二頁―一四五頁 昭和七年三月四版刊(DK340065k-0021)
第34巻 p.587-589 ページ画像

布哇に於ける日米問題解決運動 奥村多喜衛編
                  第一四二頁―一四五頁
                  昭和七年三月四版刊
    渋沢子爵を悼む
 余が初めて渋沢子爵に親しく面会し懇談の機を得たのは一九一七年九月二十五日であつた。ヌアヌ青年会館建設の計画が起つたとき余は日本から相当纏まつた寄附を貰つてくれとの依頼をうけた。余は布哇のため而も基督教的事業のため、果して日本の金持が寄附するかどうかを危ぶんだが、ベストを尽す考へで往いた。兼ねて渋沢子爵が日米親善に心力を労して居らるゝことを承知して居り、且つ前に一・二度手紙の往復したこともあつたので、先づ子爵を動かして其援助をうけたいと思ひ、帰国直に会見を申込み日取りを定め、当時東京に在つたスカダ博士の自用オートにて送られ飛鳥山に子爵を訪問した。其時余は布哇同胞の歴史から現状につき或は太平洋沿岸排日の運動と布哇移民との関係を述べ、日本朝野の人々が日米問題調査のため布哇を飛越えて加州々々と出掛くるのは迂闊である。問題の解決は布哇から始めねばならぬ理由を詳説し、進んで余が帰国の使命について語り其援助を求めた。子爵は歓んで余が求めに応じ、直に当時の東京商業会議所頭取中野武営氏《(会頭)》と協力して、各方面有力者を銀行集会所に集めて、余に演説せしめ堀越善重郎氏を子爵の名代として余と共に有力者を歴訪せしめ、その到れり尽せる斡旋に由りて予想以上の大金を与へられ、布哇の人々の期待に副ふことを得て大に面目を施したことである。余
 - 第34巻 p.588 -ページ画像 
はヌアヌ青年会館に出入する毎に、胸中渋沢子爵の厚意を憶ひ起して感謝の念を新にするのである。
 一九二〇年外国語学校取締規則問題に引つゞきオアフ島総ストライキのため、日米人の反感漸く甚だしく、其儘に放任し置けば加州の如く排日運動も起り兼ねまじき状勢であつたので、余は我総領事及び二三有力なるアメリカ人とも相談の上、排日予防の運動を起すべく決心し、日本朝野人士の後援を得るの必要を感じ、一九二〇年七月十四日ホノルル出発同二十四日横浜着、三日後即ち二十七日には渋沢子爵に面会して余が帰国の理由即ち計画せる運動の主意方針につき委しく話した。子爵は中心よりの喜悦と感謝とを以て余が意見に賛同し、直に起ちて後援運動に着手せられ、一週間後八月三日の夕東京銀行集会所に日米関係委員会を招集し、晩餐後余に運動の主意方針を演説せしめ満場の賛成を決議し、夫より原総理大臣・内田外務大臣を始め朝野有力なる人々に紹介せられた。余は悉く是等の人士に面会して其賛成と後援の約諾を得た。特に外務大臣の如きはホノルルの総領事に訓令して置くから協力して事に当れと激励された。帰国の要務全く完了し、十一月八日横浜出発帰布の事に定めた。日米関係委員会は四日の夕余が為め送別晩餐会を開き、再び運動の主意・方針につき演説する機会を与へられた。同夜は渋沢子爵は病気のため欠席し阪谷男爵代つて会を司られた。愈八日朝東京出発の際渋沢子爵の秘書増田氏が停車場にまで送り来り、余に子爵自筆の書簡を交付された。
 一九二一年一月から啓発運動に着手し満五年の後には略目的を果したので、運動の経過を報告し、更に次の五ケ年の運動方針につき後援者一同の賛成を得べく、一九二五年六月二十九日ホノルル出発帰国した。此時も子爵の斡旋で日米関係委員会は余がため歓迎午餐会を催され、長時間に亘つて余に報告及び次の運動方針につき演説をなさしめ且種々の討議があつた。又子爵の紹介にて加藤総理大臣・幣原外務大臣・若槻内務大臣・浜口大蔵大臣其他の有力者に面談することができた。斯く帰国する毎に朝野の最も有力なる人々に親しく面会し膝を交えて思ふ儘遠慮なく意見を吐露することができたのは、全く渋沢子爵の叮嚀なる紹介のあつたお蔭である。
 第二回に帰国したとき屡渋沢事務所に往き何彼につき秘書役と相談したことであつたが、或時秘書役が余に語つて曰ふ、過日或方面から子爵に、布哇に於ける日米関係の運動は単にヤソ教牧師なる奥村にのみやらせないでこれに仏教の人も加へたらどうかとの相談があつた。其時子爵は、それはいかん、日米問題に関する運動は唯在留日本人に信用があると云ふ人ではできぬ、アメリカ人にも信任されて居る人でなければならぬ、奥村が已に自らこれを発起計画し、其運動は着々功を奏しつゝあるから彼に一任して置けば十分である。今他の人を加へるのは却つてこの運動の妨害にこそなれ役に立たぬときつぱり答へられました云々と。余は之を聞いたときは実に涙の出る程子爵の知遇に感激したのである。
 子爵は余が運動に対して終始精神的に賛成助力された計りでなく、経済的にも少からぬ援助を与へられたのである。この運動には色々費
 - 第34巻 p.589 -ページ画像 
用がかゝつた。少くとも年二回づゝ全島各地を巡回する旅費及び滞在費、報告書或は配布する冊子の印刷費其他の雑費、年額相当の高に昇つた。これを伝道会社から受くれば基督教宣伝の機関の如く間違へられ、日本外務省の補助を仰げば日本政府のプロパカンダと誤解さるゝ恐れがあるので、日米人有志の個人的寄附に由つて支弁することゝした。初めこの運動を起す相談をなしたとき、キヤスル、アサトン、クツク三家の人々は中心より此挙を賛成し経済的援助は我等で引受けると云ふことであつたので、其事情を打開けて子爵に話した所、子爵は大いに喜ばれ、同時にアメリカ人のみに任せて知らぬ顔はできないから、我も個人として応分の援助をするとのことであつたが、其言を守つて千円づゝ二回送金せられた。第二回目の送金の時には懇切なる書簡を添へられ「海外に在る邦人のため色々の事業が各地に始められたことがあるが、其殆ど凡てが二三年のうちに立消えになつてしまう。然るに、君は十年一日の如く初一念を動かさず同胞のため尽さる、誠に感服の至りである。依つて余も生きて居る間は援助をつゞけてやる云々」と書き送られた。人誰か知己に感ぜざらん。余は常に子爵から斯る奨励をうけたのである。
 今回子爵重態の新聞電報を見るや余は誠意その回復を祈つた。而も終に永眠の報に接す。嗚呼哀しい哉。
 本年春は帰国して子爵に面会し、昨年を以て一段落を告げた啓発運動につき、余が十年間の運動苦心談をなして其恩顧に酬いたく思うたが、会堂建築事業を前に控へて居るため意を果さず。来春は是非にと考へ居たるに、鳴呼今や人已に喪し。哀悼の情何ぞ堪へん噫。
             一九三二年十月十五日奥村多喜衛謹誌