デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
2節 米国加州日本移民排斥問題
4款 日米関係委員協議会
■綱文

第35巻 p.259-263(DK350052k) ページ画像

大正8年4月17日(1919年)

是日、アメリカ合衆国サン・フランシスコ米日関係委員会会長ウォレス・エム・アレグザンダー並ニ会員ロバート・エヌ・リンチノ両人ト、日米関係委員会会員数人トニヨリ、丸ノ内東京銀行倶楽部ニ於テ、翌大正九年、日米関係委員協議会開催ノ件ニ就キテ打合セヲ行フ。栄一病気ノタメ出席スルヲ得ズ。


■資料

日米関係委員協議会報告書 日米関係委員編 第一〇六―一〇九頁大正九年一二月刊(DK350052k-0001)
第35巻 p.259-260 ページ画像

日米関係委員協議会報告書 日米関係委員編
                    第一〇六―一〇九頁大正九年一二月刊
○附録
一、大正九年日本に於て協議会を開催するが為め、大正八年アレキサンダー氏がリンチー氏と共に我国に来られ協定したること左の如し
    日米関係委員会
開会 大正八年四月十七日午後四時
閉会 午後六時半
会議場 東京銀行集会所楼上
               出席者
                     アレキサンダー
                     リンチー
                     埴原正直
                     藤山雷太
                  男爵 阪谷芳郎
                     井上準之助
                  男爵 瓜生外吉
                     早川千吉郎
                  男爵 森村開作
                     増田明六
                     服部文四郎
議事の進行を計るが為め座長を置くことゝし、全委員一致、法学博士男爵阪谷芳郎氏を座長に推し、議事記録の為めドクトル服部文四郎氏を名誉書記とす、而して当日決定したる事項左の如し
    (一)日米関係委員総会開会の時期
 是は米国より日米関係委員日本に渡来し東京に於て両国関係委員の総会を開かんとするものにして、其の時期は大正九年即ち一九二〇年を選み四月上旬を開会期とすることゝす
 一九二〇年四月上旬と決定したる理由は、開会の準備に一ケ年を要すべく、秋季亦可なれども多忙のときなるを以て春季を可としたる
 - 第35巻 p.260 -ページ画像 
なり、又大正九年には世界日曜学校大会東京に開会せらるゝも、其の時日未だ決定せず、日米関係委員会は独立して別に開会するを可としたるに依る。
    (二)米国より出席員数
 二十名を超過せざること、但し夫人同伴は其自由とす
 二十名を超過せずとしたるは、余りに多数出席するときは議事散漫に流るゝの恐あるに依る、而して右二十名は主として、米国側に於ける日米関係委員出席するものなるも、同委員中出席することを得ざるものを生ずべく、其欠員は米国に於ける石油・鉄道・鉄鋼・海運等に従事する代表的米国実業家を招き之を補充するものとす。
    (三)議題
 議題は移民・土地所有権・通信交通機関・事業合同提携・放資・交換教授・相互実業家の交歓等を選むべきも、其選定は可成自由にし又開会の当時にも追加するを得るの自由を与へ、議題は余りに具体的に云ひ現はすよりも、成る可く広義のものとするを可とす、是れ例へば支那問題などと云ふときは、直ちに支那の誤解を招くの恐あり、日米関係委員の協議すべき範囲を脱するが如き観あればなり、之を以て日米の支那放資を論ぜんとするに当りては、日米の事業提携の議題中に於て協議するを可とす。
    (四)協議の方法
 議事は可成自由に討議して其の間意見の帰一点を見出すことゝし、別に決議の形式を執ることを避くべし。
    (五)会期
 十日間とす、是れ、全十日を要せざるべきも、毎日開会すること能はざることもあるべければなり。
    (六)費用
 米国委員の滞在費・旅費は米国委員の負担とす、但し此の件は大体の了解にして別に決議したるものにあらず。
        以上
            名誉書記 ドクトル 服部文四郎


(阪谷芳郎)日米関係委員会日記 大正八年(DK350052k-0002)
第35巻 p.260 ページ画像

(阪谷芳郎)日米関係委員会日記 大正八年
                 (阪谷子爵家所蔵)
 八、四、 八 商業会議所ニテ藤山・埴原・串田・井上・余打合、アレキサンダー、リンチ来朝ニ付、服部○文四郎増田同席ス
 八、四、一七 銀行クラフニテ日米関係委員会ニテアレキサンダー及リンチ二氏ト協議、引ツヽキ晩餐、藤山・アレキサンダー・余及リンチ演説ス、来年四月初十日間協議会ヲ東京ニ開会ス、二十名以内米国ヨリ渡来ノコト



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正八年(DK350052k-0003)
第35巻 p.260-261 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正八年(渋沢子爵家所蔵)
四月二十三日
 - 第35巻 p.261 -ページ画像 
米人アレキサンダー、リンチ二氏及其夫人、阪谷・藤山・服部ノ諸氏来ル、蓋シ二氏ハ本月初旬日本ニ来レルモ余ノ病気ヲ以テ会見シ得サルヲ遺憾トセラレシカ、是ニ至リテ会談シタルナリ、服部文四郎氏当日ノ通訳ヲ為ス
   ○中略。
五月一日 曇 軽寒
○上略 十時事務所ニ抵リテ書類ヲ整理シ、増田・白石等ニ○中略 来ル十一日開催ノ米人宴会ノコトヲ指揮ス○下略
   ○中略。
五月十一日 曇 暖
○上略 正午ヨリ兼約ノ米国人アレキサンダー、リンチ夫妻及米国大使夫妻其他邦人多人数来会、米人ノ為メニ送別会ヲ開キタルナリ、十二時半ヨリ午飧、食卓上大使其他ノ演説アリ、食後ニ茶席・庭園又晩香廬等ヲ一覧シ午後三時散会ス
○下略
   ○中略。
五月十四日 晴 軽寒
○上略 午後六時銀行倶楽部ニ於テ米人アレキサンダー、リンチ氏等ノ留別会ノ饗宴ニ出席ス、食卓上一場ノ送別演説ヲ為ス、従来ヨリノ日米関係ヲ説キテ将来ノ親善ヲ企望シ、且東西両邦ノ文明融合ニハ共ニ其長所ト短所トヲ了解シテ、固有ノ性格ニ従テ其本然ノ性ヲ適合セシムル事ヲ努メサルヘカラスト結論セリ
   ○中略。
五月十七日 曇 軽寒
○上略 十一時桑港アレキサンダー、リンチ二氏及町田豊千代・神崎驥一氏等来訪、日米関係ノ事ヲ談話ス○下略



〔参考〕集会日時通知表 大正八年(DK350052k-0004)
第35巻 p.261 ページ画像

集会日時通知表 大正八年      (渋沢子爵家所蔵)
五月十一日 日 正午 アレキサンダー、リンチ両氏招待会(飛鳥山邸)
   ○中略。
五月十四日 水 午後七時 アレキサンダー、リンチ両氏晩餐会(銀行クラブ)
               (服装燕尾服勲章ハ御随意)
   ○中略。
五月十七日 土 午前十時(邦人ノ方)午前十一時(外人ノ方) アレキサンダー氏リンチ氏神崎氏来約、飛鳥山邸
   ○中略。
十二月廿七日 土 正午 日米問題ニ関スル会合(銀行クラブ)



〔参考〕(阪谷芳郎)日米関係委員会日記 大正八年(DK350052k-0005)
第35巻 p.261-262 ページ画像

(阪谷芳郎)日米関係委員会日記 大正八年
                 (阪谷子爵家所蔵)
八、十二、二七 銀行クラフ堀越送別(三十日米国ニ行)渋沢・阪谷 井上・梶原・田中・近藤・目賀田 米国有力者招待
 - 第35巻 p.262 -ページ画像 
ノ件ヲ同氏ニ託ス、桑港日本人会長牛島辞任ノ報アリ、写真結婚ノ件



〔参考〕中外商業新報 第一一八六九号大正八年四月一一日 ○米国実業家大挙して 日本訪問の計画 下検分として桑港商業 会議所副会頭等来朝す(DK350052k-0006)
第35巻 p.262 ページ画像

中外商業新報 第一一八六九号大正八年四月一一日
   ○米国実業家大挙して
     日本訪問の計画
       ▽下検分として桑港商業
       ▽会議所副会頭等来朝す
十日午前八時桑港商業会議所の副会頭であるアール・エヌ・リンチ氏夫妻と、元同会議所の会頭で現在桑港の日米関係委員会長であるダブルユー・エム・アレキサンダー氏夫妻と、加奈陀商業
▽銀行総裁 サー・ビー・イー・ウオルカ氏(一行五人)其他にも有力なる米国又は加奈陀の実業家は、天洋丸にて渡来せしが、其内にても前記のリンチ氏・アレキサンダー氏・ウオルカー氏の三人は、彼の地に於ける経済界の大立物である、東京商業会議所よりは関根親光・中根寅四郎氏外五名、横浜商業会議所よりは増田副会頭・野村洋三氏及鈴木横浜正金銀行副頭取等岸壁に出迎へ、リンチ、アレキサンダー両氏は一旦グランドホテルに入り、ウオルカー氏は
▽正金銀行 にて暫時休憩、鎌倉海浜院ホテルに赴いた、リンチ、アレキサンダーの両氏には、案内役として、桑港新世界の社長池田五六氏が随行し来れるが、両氏共に半白の好々爺であつて、出迎への記者等に交々語つて曰く「自分等は日本を訪問せしは、曩に東京商業会議所を代表して米国を訪問せし山科礼蔵氏の渡米に対するお礼を兼ね日米経済上の接近を図る為、最近に米国実業家の大挙観光団を組織し
▽日本を訪 問せんとする、其計画の下検分として渡来したのであつて日本に滞在するは約一ケ月、来土曜日迄は横浜のグランドホテルに投宿し、日々東京に通ひ、其後は東京に移るも、帝国ホテルに投宿する予定にて、外務省は埴原政務局長に会ひ、日本に於ける観光のプログラムを作る積りである、又ウオルカー氏は白髪素鬚の品格高き偉丈夫であつて、其談に曰く「自分の関係せる加奈陀商業銀行は
▽世界に三 百七十有余の支店を有し、日本や支那にも多くの取引銀行があるのだ、戦後に於ける経済界の状況を視察し、取引銀行の人々とも交歓する為めである、自分は日本に関して多大の趣味を持ち色々研究をもした、又日本の錦絵が好きにて沢山に手に入れて居る」云々



〔参考〕中外商業新報 第一一八七〇号大正八年四月一二日 ○両国実業家接見 日米関係委員会主催(DK350052k-0007)
第35巻 p.262-263 ページ画像

中外商業新報 第一一八七〇号大正八年四月一二日
   ○両国実業家接見
      日米関係委員会主催
九日来朝の桑港商業会議所副会頭兼同所支配人にして加州発展協会々頭たるアール・エヌ・リンチ氏、及同商業会議所副会頭にして日米関係委員会委員長たるダブリユ・エム・アレキサンダー氏は、多年日米親善の為に努力し、同地通過の主なる日本人にして両氏の厚遇を受けざるものなき程なるが、予て日米両国の親善を永遠に保維せんことを目的として、渋沢男爵等の主唱により成立せる日米関係委員会に於ては、
 - 第35巻 p.263 -ページ画像 
今般の来朝を機とし、十一日午前十一時銀行倶楽部に両氏歓迎のレセプシヨンを催し、両氏は之に出席し、常務委員藤山雷太氏(常務委員渋沢男爵は病気の為め不参)並に埴原政務局長其他の諸氏と快談したり、因にリンチ、アレキサンダー両氏夫妻には十三日迄横浜に滞在し翌十四日上京帝国ホテルに投宿し、東京の用務を片付けたる後、本邦各地を巡遊して、再び上京の上、来月中旬出発帰米の予定なりと云ふ