デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
2節 米国加州日本移民排斥問題
6款 ニュー・ヨーク日本協会協賛会
■綱文

第35巻 p.473-485(DK350063k) ページ画像

明治45年7月9日(1912年)

是日、当会主催アメリカ合衆国人チャールズ・ダブリュー・エリオット歓迎晩餐会、帝国ホテルニ開カル。栄一当会ヲ代表シテ歓迎ノ辞ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第二九〇号・第七八―七九頁明治四五年七月 ○帰一協会とヱリオツト博士(DK350063k-0001)
第35巻 p.473 ページ画像

竜門雑誌 第二九〇号・第七八―七九頁明治四五年七月
○帰一協会とヱリオツト博士 青淵先生には負傷も略々癒えたるを以て七月九日午後三時帝国ホテルにてヱリオツト博士と会見し、帰一協会の件に就て懇談する所あり、次いて午後七時半より別項記載の如く日本協会協賛会のヱリオツト博士歓迎会に出席せられたる次第なり。


竜門雑誌 第二九〇号・第七六―七七頁明治四五年七月 ○日本協会協賛会のヱリオツト博士歓迎会(DK350063k-0002)
第35巻 p.473-474 ページ画像

竜門雑誌 第二九〇号・第七六―七七頁明治四五年七月
    ○日本協会協賛会のヱリオツト博士歓迎会
青淵先生の名誉委員長として尽力せらるゝ日本協会協賛会にては、七月九日午後七時半より帝国ホテルに於てヱリオツト博士一行の歓迎会を開きたり、当夜の出席者は主賓ヱリオツト博士一行の外、米国大使ブライアン氏、書記官キヤンベル氏、伯爵東郷平八郎・子爵金子堅太郎・男爵高平小五郎・男爵目賀田種太郎・男爵吉川重吉・男爵三井八郎次郎・岩原謙三・服部金太郎・大橋新太郎・加藤正義・樺山愛輔・団琢磨・マツクカウレー博士・ケネデー・同夫人・古河虎之助・阪井徳太郎・佐竹佐太郎・水町袈裟六・志村源太郎の諸氏、及び主人側として青淵先生・飯田義一・早川千吉郎・堀越善重郎・小野英二郎・大谷嘉兵衛・男爵高橋是清・同夫人・同令嬢・松方巌・子爵三島弥太郎・同夫人・福井菊三郎・男爵近藤廉平・頭本元貞の諸氏にして、軈て晩餐を終るや先づ東郷大将起ちて米国大統領の健康を祝し、米国大使ブライアン氏続いて我皇帝陛下の健康を祝し、米国国歌と君ケ代の奏楽声裡、青淵先生は主人側を代表して大要左の如き歓迎辞を述べたり。
 ヱリオツト博士の来朝の噂は当春より之を聞き、一日も其早からんことを期待したり。途中御病気の為め多少来朝の遷延したりとは云へ、御壮健の身を以て具に我国情の視察を願ひ得たるは光栄此上なし、米国と我国とは五十有余年間の国交と云ひ、密接なる貿易関係と云ひ、尋常一様の交誼に非ず、然るに昨今動もすれば戦端開始の風評あるは嘆ずべし、之には識見と眼光ある人の十分なる視察に由
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つて互に其真相を理解せざるべからず、ヱリオツト博士の我国視察は此意味より考へて、実に絶好の機会と云はざるべからず
青淵先生の熱誠をこめたる演説は尠からず博士の心を動かせしが、ヱリオツト博士は端然起立し、偖て述べて曰く、
 短期間の滞留にも拘らず多大の視察を遂げ得たるは是れ一に諸君の賜なり、想ふに世界の和戦は金権と関係する所浅からず、金権一度平和を望まんか、世界の平和之を招来し得るに何の難きことか之れあらん、国際間に平和と善意の持ち来たされつゝあるは是れ疑ひも無き事実にして、実業は此大勢を助くる上に与つて力多し、古は単に物を高く売り又物を安く買ふことを以て商業の能事終れりと心得たれど、今や然らず、商業は実に高尚なる知識に由つて行はるべき者となれり、即商業状態の一変に伴ふ商業道徳も亦一大進歩を告げぬ、而して是れ皆平和を促進するに効無きはあらず、近者日米間に忌はしき風聞伝はれと、熟々思ふに両者内に思想の一致あり、又性情の契合あり、其親交破らんと欲して破る能はず、両国商業関係を見れば歴々之を証して余りあり、余は両国否世界の平和が斯くて幾久しく継続せんことを希望して已まざるなり
当夜出席の多数は我財政経済界の人々とて、ヱリオツト博士の演説は最も興味を以て迎へられ、斯くて散会したるは午後十時過なりし。


竜門雑誌 第二九一号・第一四―二六頁大正元年八月 ○エリオツト博士と語る 青淵先生(DK350063k-0003)
第35巻 p.474-483 ページ画像

竜門雑誌 第二九一号・第一四―二六頁大正元年八月
    ○エリオツト博士と語る
                      青淵先生
客月二日自働車で不慮の負傷をした。傷は些細であつたけれども医者の注意に由つて一週間許り人に遇ふことを謝絶しました。併し九日には多少の瘡痕を遺したけれども、別に心配する程の事もないと云ふので帝国ホテルの会同に出席した所が、又十二日より風をひいて再び一週間許り引籠つて居まして殆ど二十日間事務を取らぬ。左まで苦悶に日を送つたではないけれども、右様な訳で久しく社会の事物に接触せなんだから、目下に於ける世の中の事柄を知り得ませぬけれども、玆に一つ好い機会だからお話をして置きたいと思ふのは、去月九日米国大学の名誉総長たるエリオツト博士と会見して相互に交換したる談話は、多少人も見て価値あるものではないかと思ふ。
エリオツト博士が日本に来られたことは内外の新聞にも喋々されて居り、又外務省でも大いに歓迎せられて 陛下に於かせられては特に拝謁までも許された。尚且つ其令夫人・令孫嬢まで 皇后陛下から謁見を賜はると云ふやうな重き待遇をされた人であるから人柄の尋常でないと云ふことも解つて居ります。殊に三十余歳で既にハーヴアート大学の如き亜米利加で有力なる大学に総長になられたと云ふことは、其人格の如何に優れて居るかと云ふことを証拠立て得られると思ふのです。亜米利加では有力なる大学の総長になることは殆ど大統領に為ると同じ位の名誉ある者と認められて居る。先年私が亜米利加に参つた時に、コロネル大学の前総長であつたホワイト博士が歓迎委員長となつて予等一行を接待して呉れた。同博士の如きは殆ど大統領になるべ
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き程の人物であるが、一度露西亜の大使になつた事がある丈で、其外に官途の経歴はないけれども、亜米利加人が同博士を尊重することは決して州知事とか若くは市長とか云ふやうな種類の人とは同日には論じない。人格・名望・学殖与に夫等の人より遥に立優つた人でなければ米国人の最も重んずる私立大学の総長になることは出来ぬと云ふ。コロネル大学の総長尚且つ然り。況やハーヴアート大学の総長に於ては勿論左もあるべき事と思ふ。エリオツト博士は当年七十八歳中々の高年であるが、私が第一に敬服するのは其性質は極く温良らしひ、決して剛気の人とは見えない。然かも七十八歳の高齢でありながら世界周遊を企て、而して印度で盲腸炎を煩て之を切解し、又令孫嬢が天津で窒扶斯に罹られたにも拘らず旅行中幸に健康を恢復したとは云へ、其の為に行程を変へず、最初の予定通り旅行を継続せられたと云ふことは、蓋し其精神が尋常人に優つて居ればこそ出来ることである、斯くの如きはエリオツト博士を頌讃する程の価値はないか知らぬが、併し其行為を苟くもせぬと云ふ気象丈けは認め得らるゝかと思ふ。
私は予て外務省からもエリオツト博士が来朝せられたならば、個人の資格で家族的の待遇をして呉れたならば同博士も喜ばれるであらう、先年貴下が亜米利加に行かれた時には懸違つて逢はれなんださうだが渋沢といへばエリオツト博士も知つて居るし、且つハーヴアート大学に於ては我一行を優待して呉れた縁故もあるから、是非歓迎をして呉れと云ふ相談も受けて居りました。勿論外務省の相談の有無に拘らず左様なる名誉ある人に接触して談話を交換したいと云ふ考へを以つて居ましたから、博士の都合が付くなら一日饗筵を開いてお話をしたいと思ふて居りました。恰度六月二十九日正午に王子飛鳥山自邸へ御案内をすることになりました。当日は政治界・実業界の数名の友達と、夫れから近頃学者間で頻に思想界の事を研究しつゝあるから、其学者連をも陪賓とし、且つ思想界の事柄に就ても、時があつたらエリオツト博士の意見を聞いて見やうと思ひまして、当日は饗筵よりは談話を主眼としました。併しながら成丈け心入りなる午餐を供し、令夫人も令孫嬢も与に来られる事であるから、此等の御方々には何ぞ慰みになるやう、庭園の散歩とか若くは日本風の音楽とか、或は又他日の記憶に遺るやうな事柄をと思ふて、西ケ原の蚕業講習所の所長とは極く懇意の間柄であるから、一覧の事をお頼み申した所が至極喜で「どうぞ御伴れ申して鄭寧にお観せ下さい、殊に亜米利加は日本の生糸を買ふて呉れる国で、日本は亜米利加に生糸を売る国、さう云ふ名誉ある人が来られて生糸と云ふものは斯う云ふ順序で製造されるものであると云ふことを詳しくお知らせ申すと云ふことは、日本の為めに有益なる事と感ずるから、喜でお目に懸けます」「其御厚意は辱けない、併し時がないから成べく時間のかゝらぬ設備をしてお目に懸けて下さい」「左様しませう」と約束が出来て居ました為めに、二十九日には午前十一時から蚕業講習所の方へ御案内して、さうして拙宅の方で十二時頃に午餐を饗し、午餐が済んだら前に申す目的の談話を交換しやう、そして同氏一行は午後四時三十分上野発の汽車で日光へ行かれる日程であるから、二時間位のお話は出来やうかと斯う云ふ心算でありまし
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た。所が恰度其日にヱリオツト博士の令夫人と令嬢とが 皇后陛下から謁を賜はると云ふことに為つて、それが同日の午前十一時頃であつて、為めに予定の時間より大に遅れて、十二時半頃に漸く蚕業講習所へ来られた。夫れから養蚕から製糸の有様を丁寧にお目に懸けた、成たけ時間を切詰めやうと思ふたけれども、終に一時半軈て二時近い頃拙宅へ来て食卓に就くといふ都合で、食事が済むと直ぐ四時になると云ふやうな訳で談話時間が甚だ短かつた。是れでは一向相互の意思を交換することが出来ず、都合が出来るなら今一度会見したいと云ふて七月九日午後帝国ホテルで再び会見の約束をしたのであつた。
扨て其九日を択んだ訳は、其日には私共の組織して居る紐育の日本協会協賛会、是れは紐育に日本協会と云ふものがありまして、其日本協会の仕事を補助する為に、亜米利加に関係の深い私共仲間の二十四五名の者が協賛会と云ふものを組織してあります。其協会が主唱者になつてエリオツト博士の着早々歓迎会を開かうと云ふ都合であつたが、種々他に差支があつて七月九日に開くことになりました。ソコで其日は同氏は外で催す午餐会に臨み、それから午後二時から協賛会の晩餐会に臨む迄の時間があるから、其時間を以て談話をしやうと云ふので九日の午後再会の約束をしたのであります。其日列席した人々は目賀田・阪谷・吉川・阪井の諸氏、夫れから帰一協会の発起者たる中島・浮田・姉崎・成瀬氏抔都合十一人許りでありました。
私がエリオツト博士と談話をした問題は二つであつて、第一は如何にして日米の親善を増進すべきや、換言すれば日米の国交に就て、政治上の関係を離れて、国民として博士の位置なり予の位置なりに就て如何に注意し尽力したら宜からうかと云ふ問を起して問答をしました。第二は今日の思想界は欧米に於ても段々混雑して来て、時には錯乱するが如くに見えぬでもない、取り分けて、日本にはさう云ふ傾向がある。旧道徳廃れて新道徳未だ起らず、終に信仰も廃れ善い慣習も消滅して、物質的主義許り盛になれば、夫れこそ此世の中は唯物主義に帰着しはせぬか、所謂霊的観念が人の頭脳から取除けらるゝやうになりはせぬか、又一方には唯昔時の迷信のみ存在して、今日の進だ学問と相適応せざるやうになりはせぬか。斯かる混雑錯乱せる思想界を何とか帰一せしむる工夫がありますまいか、是に於て我々同志の者が帰一協会と云ふものを設けて、これを研究しやうと云ふことになつて居りますが、此問題に就ての博士の意見を伺ひたいと云ふのであった。
先づ日米の親善を増進する問題に付て私は口を開いた。亜米利加と日本との間柄は最早今日に於て何等心に懸る点があると云ふではない。日本は五十年前亜米利加の誘導に由つて鎖国の夢を破つて世界に顔を出したと云ふことは、何時までも争ふ可らざる事実で、別して親しい関係であると亜米利加人も思ふて呉れるだらうが、日本人は決して忘れはしない。而して其以来の国交に於ても、始終亜米利加が誘導的に日本に力を添へて呉れ、常に親しくせられて居る。又貿易上から言ふても、日本の重なる生産品を最も多く買つて呉れるものは亜米利加で亜米利加の製造品若くは農業品も随分多く日本に輸入されて、年一年に貿易は進みつゝある。時として亜米利加人は日本から買ふ物は多い
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けれども、売る物が少ないと云ふ苦情を云ふことがあるが、併し日本から亜米利加に売る品物の主なるものは原料品で、亜米利加に於て大いに利益を生ずる品物で、決して亜米利加人が不足を云ふたり不満を懐くやうなものではない。
国交上貿易上に就ては左様であるけれども、時として両国間に種々なる物議が起る、甚だしきは或軍人の如きは往年頻々日米戦争を絶叫した、又新聞社の中にも夫等の説を附会して書立てたものもある。斯かる場合には成べく之を弁解して之を鎮圧し、又さう云ふ暴論の起らぬやうにすると云ふのが、両国の心ある人の注意に由ることゝ思ふ。幸に亜米利加から有為の人物が来られたに就ては、自分等敢て日本に於ける力あるものと任ずる訳ではないけれども、米国との関係も深く、又日本の人に対しても自分等の説には多少耳を傾けて呉れるから、勉めて誤解を正し、或は誤つた感情から激昂心を起さしむる如き事のないやうにせねばならぬと思ひますと言ふた。
エリオツト博士は答へて「誠に御尤も千万の御心配である、併し日米間の関係は今日では御懸念なさる点は一つもないと信ずる。自分は日本へ参つてから短い時日であるが、諸君から親切に各方面を観せて戴いたので、極く概括的であるが略々其真相を察し得たかと思ふ。国民は誠に勤勉で且つ進取的気象を持つて居ることも深く敬服する所である。総ての文物制度其他の事物に到るまで予て聞いて居つた通り、短い歳月の間に能くも斯くまで進で、而して夫れが追々整頓しつゝあるやうにお見受けします。若し国交上に大なる懸念をするとすれば、第一に日米両国民共に是れから先き大いに発達しやうと云ふ希望はドチラも強い、亜米利加人も決して負けることの嫌ひな国民であるが、日本人も亦然るが如くお見受け申す、其の為めに多少の気遣ひを持つと云へば持つかも知れぬが、大なる問題は太平洋の制海権です、若し之を日本が得やうとしても、決して日本独りで之を獲られるものではない、これも日本自らも知つて居らるゝであらうが、亜米利加も其通りで、決して一国の力で以て得らるゝものでない。極端に言ふならば、日英米或は他にモウ一国も加つたなば、太平洋の制海権を得られるだらうが、然らずんば何れの国が之を希望しても、是れは到底不可能の事である、故にさう云ふ事から両国の間に大なる物議の起ることは必ず無いと思ひます。夫れから日本の人口が多くなればなる程、或は布哇若くは比律賓辺に手を伸ばしはせぬかと気遣ふ米国人がないでもないが、私は思ふ、一体移住民を海外に出すと云ことは、年々歳々人口の増殖する日本では免れぬ事であらうが、併し極く熱い処に向けての移住は日本人には適応すまい、他に余地ある限りは必ず他方面に向つて発展して行くだらうと思はれる、左様な事に就て亜米利加人が彼れ此れ気遣ひを持つのは、寧ろ痴人の夢を説くやうなものである、又国際上の歴史を言へば、先刻お述べの通りコモドル・ペリーが日本に渡来して開国の事をお勧め申して以来、総ての方面に於て、亜米利加は日本に対しては、他の国々に対するよりは一層善意を以て親しい交りをして居ると申しても宜からうと思ふ、其事は日本国民も善く知つて居らるゝやうにお見受け申す、亜米利加人も亦日本全体の人々が亜米
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利加を以て古い親類であるかの如き親みを持ちつゝあると云ふことも善く知つて居ります。斯かる国際上の関係であるから、稀に事を好む儕があつたからとて、為めに両国民の間に衝突を来たすと云ふが如き事はドウしても有られぬ事と思ふ。
夫れから貿易である、貿易はあなたの言はれる通り、日本から輸入せらるゝものは亜米利加で出来ない品物であるから、多く這入る程亜米利加の利益である。又日本人も亜米利加の産物で割合の安い物は亜米利加から買ふことを嫌ひもせず厭ひもせぬと言ふことは能く知つて居ります、故に日本の事物の進みに従つて、輸出入額は益々増加すると言ふ所謂好い配合と申して宜からうと考へる、之れに就て衝突を生ずるとか悪感情を惹起すとか云ふことは万々なからうと思ふ。私は斯くの如く観察する、縦令ひ日米両国民の気性が駸々として止まることを知らざる点に於て相酷似して居るにもせよ、夫れが為めに国交上、貿易上に於て両々相衝突して大いに火を発すると云ふが如きことは有られぬ筈と思ひます。此間に立つて成べく行違ひのないやうに心ある人が注意したならば、聊かも懸念せらるゝやうの事はなからうと信ずると答へられた。
私は其答を得て安心しました。併し更に一歩を進めてお話致したいと思ふ二つの点がある。日米の関係は実際如何にもお説の通りであるが私共の懸念する所は亜米利加の太平洋沿岸各地就中カリホルニヤ州に於て屡々生ずる排日問題である。是れは甚だ心苦しく思ふ、日本から同地方へ移住して居る数万の人の多くは同化性を持つて居らぬと云ふ嫌ひもありませう。その人種が違ふと云ふことも相互の親みを薄うする原因に為りませう、又多数の中には外国の交際に慣れて居らぬからして、日常の行状とか或は人に接する仕方に就て甚だ野卑であるとか醜体と見做されることがあるかも知れないけれども、併し其働きから云ふと、亜米利加の総ての労働者よりは賃銀が安くて能く勉強する。又その仕事も上手であると云ふことは公論である。現に私が先年亜米利加に行つた時、オークランド若くはサンフランシスコ、又は其南部の方でも農業を経営して居る米国人に接して話を聞いて見ても、殆ど異口同音に其事を言ふて居りました。中には農業に就てはドウしても日本人の労働者でなくてはならぬ、近頃日本人の労働者が少くなつたので甚だ困難して居ると云ふ。夫れにも拘らず日本人排斥問題が相変らず現はれて来る。先頃其事に就てジヨルダン博士が渡来の時にも、丁度今私が貴下に向つて述べるやうに、殊にジヨルダン博士は西部の人であるから、言葉を強めて極端の希望を言へばカリホルニヤ洲に排日問題抔の生ずることのないやうにする工夫はあるまいかと申した所が、氏は答へて、其処までは請合はれないが、それは左まで気遣ふべき点でないと言はれた。私は今貴下に向つてジヨルダン博士にお問ひしたと同じ意味を以てお話をしたのであるが、此等は如何に解決すべきか。
夫れからモウ一つはニューヨーク若くはボストン辺の実業家連中の意念に於て、亜米利加人が支那に対する商売に日本人と競争する場合、殊に満洲に於ては鉄道の関係上或は政治上から日本人の商売に比較的
 - 第35巻 p.479 -ページ画像 
余計に便利を得ると云ふ苦情は多いやうである。其苦情が或は国際間に於ける物議の根源と為りはせないかと恐れる、事実に於ては左迄でない事も、商売上の関係から自分の商業が思ふやうに行かぬと、他の遣方が悪い為めに斯うではないかと、人を咎めるやうに為る恐れがないとは謂はれない、先頃紐育から来られたインデペンデントの社長ホルト氏と紐育の日本協会の会頭たるラツセル氏、此両人は幸に友人であるから、ジヨルダン博士とお話した如くに、満洲問題に就て頻に問答した事があります。其後両氏は満洲を廻つて再び日本に来られてから言はれるには「満洲の実際の有様を見ては大いに貴下の苦心を諒とする。亜米利加の人が苦情を鳴らすのは誤解をしたからである。其誤解をしたと云ふのは畢竟日本人に対する想ひやりが少いからである。其想ひやりとは何かと云へば、満洲に於ける日本の関係と米国の関係とは大いに違ふと云ふ事である。亜米利加の関係は唯商売上の利害問題丈けであるが、日本から謂ふと、満洲は商売上の利害許りではない殆ど国命の繋がる所と感ずるのは無理からぬ事である。其の差別の有る処を察すれば、自ら苦情物議が無くなる訳であると斯う言はれた。是れは大いに我心を得た答であつて、亜米利加人に夫れ丈けの諒恕があれば物議の起らう筈がないと云つて、互に釈然たる談話をしたが、是れも併せて御参考までに申して置くと述べた所が、エリオツト博士は夫れに対してジヨルダン博士やホルト氏程満足なる答をして呉れなかつた。日本政府及其他の人々の心配なさるのは御尤もです。加州の労働者が競争上賃銀が安くて能く働く日本の労働者を排斥すると云ふことは、決して道理とは思はない。併し下級の人の多数の希望は到底抑圧は出来ぬものである、目下の処では日本政府に於ても大いに警戒を加へて移民を制限して居らるゝやうに見える。今日の姿であれば、縦令ひ多少の物議があつても少しも意に介するに足らない。左らば是れから先き彼等が日本労働者を排斥するのは道理でないからして、両国政府が申し合せて、ずんずん移民の這入り得るやうに門戸を開放するが宜いかと云ふことに就ては、私は今日の処満足なるお答へが出来ぬと斯う云はれた。
夫れから満洲の事に就ては所謂機会均等・門戸開放と云ふことは、亜米利加人の最も熱心に希望する所であるから、若し其主義に多少の障碍があるとすれば亜米利加人は同意しないだらう、又私も夫れは宜しくないと思ふ。併し日本は現に満洲に於て特種の権利を持つて居る。即ち南満洲鉄道を持つて居る、又政治上に於ても便宜を有して居る、此二つはドウしても日本人は亜米利加人より余計に都合を得る訳である。夫れをしも嫉妬して悪いとは言ふまいけれども、尚ほ更に若し日本の当局者が機会均等を欠くやうな仕向けをするならば、是れは亜米利加人が承知せぬと云ふことに為るだらう。成程亜米利加と日本とは満洲に於ける関係が違ふと、紐育の人が言ふたことは如何さま尤もと思ふが、併し亜米利加の商売人から見て機会均等に欠くる処ありとすれば、決して黙々として居はすまいと思ふ。私が満洲地方旅行の際に亜米利加の商人から満洲に於ける日本政庁の扱ひ方が宜くないとか、或は鉄道が不親切であるとか云ふ苦情を聞きました。依て私は答へて
 - 第35巻 p.480 -ページ画像 
左様に唯誹ることはいかぬ、何の箇条が不都合である、何の事柄が不公平である、偏頗であると云ふか、それを明瞭に説明せられよと反問したけれども、其反問に対しては、具体的に斯く斯くと答へをせなんだ。只継子扱ひにされると云ふ感じが甚だ強いやうに思はれた。若しも日本が何処までも機会均等主義を堅く守ると云ふことを亜米利加人が能く呑込むやうになれば、左様な物議は段々消滅するだらう、と云ふ言葉の中に、満洲に於ける日本の立場は今の処では永久的でない、併し日本の多数の人々は之を永久的にしたいと欲するだらう、其事に対しては亜米利加人は決して非難はすまいけれども、併しながら其の為に機会均等を欠くやうな事があると、亜米利加人は承知しないぞと云ふ意味を含まれて居たやうに聞えた、大要右のやうな談話で大分時間が長くなつたから、日米関係問題は是れで止めませうと云つて、次の問題に移りました。
扨てもう一つ問題を変へて御意見をお聞き申したいと思ふのは、過日王子の拙宅で一寸端緒を聞いて置きましたが、果して今日の思想界を帰一することを得るや否やの問題であります。日本の思想界を支配して居る所の宗教と申すべきものは先づ神道・仏教・耶蘇教の三種であります。神道は往古より伝来する国教ともいふべきものである。又仏教は千有余年以前から這入つたもので然かも三者中最も多数の人民に広く伝播して居ると云つて宜い、而して其宗旨各派に岐れて居つて其教ゆる所の主義が甚だしきは氷炭相容れずと云ふ迄に違ふのもある。又小さい範囲ではあるけれども別に儒教と云ふものがある。是れは所謂東洋道徳であつて、昔時支那の聖人と云ふやうな人の言つた事を主義としたもので、修身斉家治国平天下、凡そ人たるものは斯く為さねばならぬ、事物は斯く処理せねばならぬと極く現世的に教へたものである。又明治維新以降耶蘇教が這入つて来たので追々に信仰の範囲も広く為りつゝある。左様に思想界を支配する所の宗教が各種ある所へ搗てゝ加へて近来各種の神学《(マヽ)》が進歩し、殊に進化論抔と云ふ一種の新学説が行はれて、宗教上の霊的観念もしくは迷信的信仰の如きものは追々と消滅すべき傾向が見える。甚だしきは或る論者抔は説を為して迷信的信仰は一切無要なり、唯物に限るといふ所謂唯物主義を唱ふるやうな訳で、我邦目今の思想界は実に錯乱の状態である。私自身は勿論学者ではない。唯聊か儒教なるものを浅薄に攻究し、自ら実業家を以て任じて居るに過ぎないが、此処に列席して居る中には私以外に実業家もあり、又政治家もあり或は学者もある。是等の人々が相会して協議した趣意と云ふものは、前に申す如く、今日一般の精神界が非常に錯雑して居るから、之を一に帰せしむると云ふことは出来ぬものか縦令他日新に一大宗教を造ると云ふことは成し得られぬまでも、思想界を一致して、所謂迷信的或は奇蹟と云ふやうな不思議の事を取除いて、人間の世に立つべき道理は此処であると云ふ真諦を攻究し得たならば、則ち全体の人が我々の信仰し遵奉すべき趣旨は是れなる哉と帰一するであらう、それが終に一大宗教になりはせぬか、但し宗教になるとならぬとは第二に措いて、さう云ふ攻究をする必要があるだらうと云ふのが、此帰一協会の起つた所以である、換言すれば今日の哲理
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にも合致し、総ての科学にも適応して道理正しく信仰し得る所のものを攻索し、吾人をして適従する所を知らしめたいと云ふ趣意で帰一協会を起した訳であります。併し其発起人には実業家もあれば学者もあり又宗教家もありて、学術上或は信仰上其立論に多少の差があるか知れぬ。若し銘々に自分は斯う云ふ観念から帰一協会の設立を必要と思つたと言はしめたならば、私が今申したと一致するかドウか解らぬが大体の趣意は只今申し述べたやうな次第である、之れに対して貴下はドウお考へなさるかと問ひを懸けた。客月末王子の自邸で一寸話し掛けた時に、博士は左様な重大なる問題は容易に解決の付くものではない。元来私は宗教家であるが、私の奉じて居る宗教は欧羅巴、亜米利加中で誠に勢力の乏しい仲間の少いものでありますから、其積りで聞いて貰ひたい。且つ私が曾て宗教問題に就いて述べた説を一覧なされたと云はれたが、如何にも意見を述べた覚えがありますけれども、是れは所謂抽象的に申したので、果して今貴下方の企てたやうな帰一協会を作るが必要であると云ふ意味で述べたのではない。単に終局は斯くなるであらうと云ふ意念を述べたに過ぎぬのでありますと言つて居られた。夫れから今の私の問に対して博士は頻に沈吟して暫く考へて居られたが、やがて口を開いて、大体の趣意は能く了解しました。斯かる大問題に対して卒爾にお答へすると云ふことは余程困難で御座ります。惟ふに諸君の最後の希望は段々と研究して後、終に一の宗教の如くにしたいと云ふ意味を含んで居るやうに聞取りましたが、其処に至ると私には適切なるお答へは申上げられない。併し御説の如く、追追学術の進歩するに従つて人の思想が種々に変化し錯雑して来る。斯る時代に於て旧道徳が果して思想界を支配するに足る力あるや否やは疑はしい。故に今日に於て人たるものは斯うなくてはならぬ。終始服膺し履行すべき道理は斯くあるべきものと、之を一に帰せしむる道を主眼として講究すると云ふことは、何時の時代に於ても必要なる事で誰にでも少しも非難することは出来ないが。諸君は夫れ丈けに止めるか、更に進んで独り日本と云はず、国際的の宗教として世界の人々に奉じさせたいと云ふならば、夫が果して目的を達し得られるかは即答がし憎い。併し玆に一つ申上げたい事がある。蓋し宗教と云ふものは其揆を父子間の孝行心に発するものである。換言すれば孝道と云ふものは唯人の義務的観念とか或は報酬的行為とか云ふものでなくして、一種の信仰的意念より発動するもので、夫れが軈て真の宗教になり、大なる信仰心になるのである、故に此宗教と云ふものに就ては、唯道理の上に於て是れが一番善いと極まり切つた丈けのものでは、如何に善いものでも、屹度宗教になるとは言へない。如何に道理と思つても中心の承知せぬことがある。自然に人心が其処に趨いて、其教へを奉ずると云ふ意念が生じて来るものが即ち宗教心で、夫れは猶ほ孝道の如く親に対して孝行を尽すと云ふことは争ふ可らざる生物自然の道理で、其道理が軈て宗教の基礎になると斯う答へました。
談話は斯に至りて最早午後の六時になつた。三時間も問答を継続して時間も迫つて来たからと注意されて、終に此対話を止めて仕舞つた。エリオツト博士との談話は以上二様の問題にして、共に胸襟を開きて
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遠慮なく意見を交換したと思ふが、就中其談話中で私が一番心を留めて更に攻究して見たいと思つた事が一つある。それは宗教は孝道が基礎を成すと云ふ答へは是迄に一向聞かぬ言葉で、如何なる意味であらうか未だ十分に解釈し切れないで居ります。丁度其時通訳をしたのが姉崎博士であつて、此間私が負傷した時に見舞に来て呉れたから「実は彼の時もう一度押返して叮嚀に聞いて見たいと思ふたけれども、時間が迫つたから終に言出さなんだが、姉崎氏はドウ解釈されたか」と質問すると、同氏も同じく疑問として居られた、そこで余と姉崎氏と共に其解釈に就て色々と討議して見たが、姉崎氏は少し附会的に解釈すると、耶蘇教では上帝《ゴツド》を指して天の父と云ふ、左すれば此世の人は親子の関係を持つとも見られる。故に孝道を以て宗教の基礎とするといふ説なるべしと言はれた、併し天の父に向つて孝道を尽すと云ふことでは充分なる意味を成さぬ。依て私の解釈する所では孝行と云ふものは元来報酬的でない、親の恩を受けたから之れに報ひねばならぬと云ふのは是れは報酬的である、又人は斯くせねばならぬと云ふのは、一の教へから生ずる務めで、所謂義務と云ふべきものである、報酬的義務的に尽すのは真誠の孝行ではない。自然に生を享けた其関係からして子たる者が只何心なく親の心を安んじたい。親の命に背いてはならぬ、親の心を煩はし又は苦めるやうな事をしては済まない、親と云ふものは真実に敬愛せねばならぬと云ふ観念は、子たる者には先天的に備つて居るのである。稀れには外物の障碍の為めにさう云ふ観念を失ふ者も往々あるけれども、夫れは例外で、恰も見ず知らずの子供が井に陥らんとするを見れば、人として怵愓惻隠の心なきものはない。言はず語らず之を助けて遣らねばならぬと云ふ念が起る、又、不幸な境遇に陥つた人を見ると、嗚呼気の毒だ、ドウかして遣りたいと云ふ情が生ずると同じく、孝心は先天的自然の性である。即ち父子の関係は恩になつたから其恩に報ゆるとか、道理上の義務として之を行ふと云ふやうな勘定以外に、人の性情が自然に其処に趨くと云ふのが即ち一の信仰である。此信仰の広く進んで行くのを儒教で言へば天、神道で言へば神、耶蘇で言へばゴツドとなると云ふ意味で、宗教は子の親に対する孝道から其端を発したものであると言ふたのではあるまいか果して然らば儒教に所謂孝道と其言ひ方は多少違ふけれども、詰り落ち行く所は同じである「身体髪膚受之父母不敢毀傷孝之始也。立身行道揚名於後世以顕父母孝之終也。」
孝経に斯様に書いてある、之を信じて行へば即ち一の信仰となるのである、更に之を推拡めて天に事ふとか神に奉するとかいふならば、即ち立派な宗教になる訳ではないか、是を以て孝道は宗教の基なりと云はれたのではあるまいか、兎に角、此言葉は意味深遠で、従来宗教談に未だ曾て聞いた事のない説であります。
   ○エリオツトハ明治三十八年(一九〇五年)サン・フランシスコニ於ケルサン・フランシスコ労働協議会ガ排日運動ヲ起スニ方リ、之ニ反対ノ意見ヲ発表セル由左ノ書ニ掲ゲタリ。
    「人種問題研究」第九四頁(大正一四年二月刊)
   ○大正二年カリフォルニア州排日土地法ノ通過後、エリオツトハThe Out
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look 及ビ The North American Review ニ其所見ヲ発表セリ。(「日米外交史」第二六七頁・昭和七年二月刊)
   ○大正九年ニ至リ「ニューヨーク・タイムズ」ハ八月二十二日号ニエリオツトノ日米親善論ノ談話ヲ掲ゲ日本ニ対スルアメリカ人ノ誤解ヲ指摘セリ。



〔参考〕日米外交史 川島伊佐美著 第一三三―一三七頁昭和七年二月刊(DK350063k-0004)
第35巻 p.483-485 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕(阪谷芳郎) 大日本平和協会日記 明治四五年(DK350063k-0005)
第35巻 p.485 ページ画像

(阪谷芳郎) 大日本平和協会日記 明治四五年
                  (阪谷子爵家所蔵)
(タイプ)
    平和運動の今昔
○上略
 明治四十五年六月、カーネギー財団よりエリオツト博士来朝し、大日本平和協会、在日米人平和協会、国際平和義会(後の国際平和協会にして蜂須賀侯の会長たるものか)は聯合して同博士講演会を開きたるが、博士はカーネギー財団の平和運動方針に就て講演し、
 第一 国際間の法律を研究すること
 第二 戦争が経済上に及す種々なる影響を研究すること
 第三 教育と国際の交誼を進むること
を以てした。これが我国平和運動の方針として参考とされたことは言ふまでもない。○下略
   ○右ハ後年ニ於イテ表題ノモトニ綴リシモノヲ印書シテ是年ノ日記ニ貼込ミタルモノノ如シ。