デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
3節 国際団体及ビ親善事業
3款 日印協会
■綱文

第36巻 p.33-37(DK360017k) ページ画像

大正6年11月23日(1917年)

是日、当協会総会兼会頭大隈重信病気全快祝賀会、帝国ホテルニ開カル。栄一出席シテ祝賀ノ演説ヲ
 - 第36巻 p.34 -ページ画像 
ナス。


■資料

集会日時通知表 大正六年(DK360017k-0001)
第36巻 p.34 ページ画像

集会日時通知表 大正六年        (渋沢子爵家所蔵)
十一月廿三日 金 午後三時 日印協会総会及大隈侯全快祝賀会(帝国ホテル)


(日印協会) 参考書類 自大正一一年至昭和五年 【(写) 拝啓、時下秋冷之候愈御清適奉賀候、陳者来る十一月二十三日…】(DK360017k-0002)
第36巻 p.34 ページ画像

(日印協会) 参考書類 自大正一一年至昭和五年 (日印協会所蔵)
(写)
拝啓、時下秋冷之候愈御清適奉賀候、陳者来る十一月二十三日(金曜)午後二時より麹町区内山下町帝国ホテルに於て本会総会を開き、併せて会頭大隈侯爵全快祝賀会相催し、粗茗差上度候間御光臨被成下度、此段御案内申上候 敬具
  大正六年十一月十七日
                      日印協会
   追白 当日の御都合御一報願上候


日印協会会報 第二一号 大正七年一月 会務記事 日印協会総会兼会頭全快祝賀会(DK360017k-0003)
第36巻 p.34 ページ画像

日印協会会報 第二一号 大正七年一月
  会務記事
    ○日印協会総会兼会頭全快祝賀会
十一月二十三日午後二時、麹町区内山下町帝国ホテルに於て大正六年度本会総会を開き、兼ねて会頭大隈侯爵の病気全快祝賀会を催せり
 当日の出席者左の如し。
  浅野総一郎○以下百五十四名氏名略
 午後二時半副会頭神田男爵司会者席に着き、左の如き挨拶ありたり
○中略
 之に次で副島理事の大正五年度会務報告あり。会計報告は満場一致之を通過し、評議員の改選並に理事の互選は手続を省略して、大隈会頭に其指名を一任することに決し○中略 玆に総会議事を閉づ。
 小憩の後別席に移り、会頭全快祝賀の宴を開き、宴酣なる頃渋沢男爵には神田副会頭の紹介によりて起立し、会員一同を代表して会頭全快の祝辞を述べられ、之に対し大隈会頭は謝辞を兼ね大患後最初の演説を試みられ、来会者に多大の感動を与へたり。会頭の演説終るや、一同乾杯して侯爵の万歳を三唱し、次で日印協会の万歳を唱和せり。


日印協会会報 第二一号 大正七年一月 大隈会頭の全快を祝す(本会総会兼祝賀会席上に於て) 男爵 渋沢栄一(DK360017k-0004)
第36巻 p.34-37 ページ画像

日印協会会報 第二一号 大正七年一月
    大隈会頭の全快を祝す
     (本会総会兼祝賀会席上に於て)
                   男爵 渋沢栄一
 諸君、今日日印協会の総会を開くに当りまして、幸に会頭大隈侯爵には御健康が恢復せられ、玆に御臨場を得ました事は、諸君と共に深く歓喜に堪へぬのであります。私より御喜びの言葉を述べるやうにと副会頭・理事からの御委托でありますから、一言申述べようと思ひます。
 侯爵は各方面に種々なる御関係を有せられるから、其の現はされた
 - 第36巻 p.35 -ページ画像 
る功績は数多いのでございます。故に玆に侯爵の功績を叙するも或は日印協会が侯爵を私すると言はれるか知れませぬが、日印協会は実に侯爵に依つて、斯く盛大に発展したるものなれば、縦令範囲の広い侯爵たりとも、日印協会として、侯爵を私物顔に云々する事は、決して侯爵に対して礼儀を失ふものでもなく、又専横の行為と云ふ謗を受ける筈はないと思ひます。
 日印の関係及其貿易は年一年と進みまするが、今私は此貿易に付て古い昔を回想しますると、侯爵に負ふ所が非常に多いのであります。私は毎度此事を申しますけれども、幾度陳べましても其功績は決して減少致さんと思ひまするから、今日此席に於てもこれを申上げざるを得ないのであります。蓋し其の事は私も関係せし故に、或は自賛の嫌があるかも知れませぬが、私が自慢の意味でなくて、侯爵の御高配に預りし事を深く感佩して居るのであります。凡そ国際の貿易は唯論理のみではいけませぬ。学理も疎略にならぬが、種々の調査研究も必要である。而して其の事柄が事実に行はれなければならぬ。之を事実に現はすは当業者の力であるけれども、其事実を指示するのは、所謂先覚者を俟たなければならぬのであります。侯爵は即ち日印貿易に対する先覚者であつて、吾々が能く当時の事を記憶致して居るのであります。今日の日印貿易は追々と進歩して来ましたから、唯数種の主なる商品を以て論ずる訳に行かない。殊に実業界を退隠した私は、目下の情勢に暗いのでありますから、進歩の事実を詳細申上げる事は出来ませぬけれども、併し昔時を追懐すると先づ紡績、砂糖の二業に指を屈せなけばならぬのであります。而して其の二業務は全く侯爵の先見の明に依り、吾々も其指示に従つて奔走致しました事が漸く効果を結んだのであります。而して今日の当業者は皆其恩恵を蒙つて居ると云ふことは、争ふ可らざる事実と思ひます。日本に於ける紡績工業の初めは明治十三・四年頃でありました。斯く申す私も、今東洋紡績と称へて居る大阪紡績と三重紡績の両会社を合併したもので、其一方の大阪紡績会社は、明治十五年に私の首唱して開業したと記憶します。其の頃の棉花は日本の産出と支那からの輸入品とで、其の需要も次第に増加したが、余り棉の輸入を拡張すると云ふ考は、当業者にもなかつたのであります。故に工業が進歩すれば直に原料に差支を生ずる。是は如何にしたものかと云ふことが、日印貿易の発端で、棉の輸入に目を注いだのであります。慥か明治二十一年と覚えて居りますが、侯爵は外務当局に御在で遊ばした。当時私は棉と砂糖に付て日本の原料は不足であるといふ事を申上げた。元来私は侯爵から明治三年以降各方面に於て指導誘掖を受け、思ふ事は腹蔵なく申述べ、或場合には苦言を呈したこともあります。さう云ふ間柄でありましたから、他に棉花供給の方法がないと、我国の紡績事業の進歩はむづかしい、是は印度地方を調査するが必要と云ふ事を、外務大臣の官舎で御協議したと思ひます。然るに其調査も唯人を派出すると云ふ訳に行かない。第一に言語も通じない。着手の順序も知らない。是は是非とも政府の力を貸して下さらなければ、充分な事は出来ないと云ふので、佐野常樹といふ人を貸与せられた。此人は当時外務に居られたからであります。侯爵
 - 第36巻 p.36 -ページ画像 
もそれは宜からうが、誰か当業者を附随させて印度の実地を調査するがよいと言はれました。是が印度棉の輸入を開く初めであります。其当業者として佐野氏と同行したのは大阪の内外棉会社の川村氏○利兵衛でありました。此の二人が印度に行つて、孟買其他各方面の紡績事業を詳しく調べ、或はサスウン会社又はタータ会社其他の紡績工業は斯く斯くであると云ふ調査報告に依つて、其頃当業者は承知したのであります。而して棉の輸入の端緒は是に依りて開かれたのであります。佐野氏は更に進んで爪哇に行つて、砂糖の栽培及び其の製造を研究して帰られた。佐野氏が帰国早々紡績と製糖とに付て種々攻究して、紡績業は追々発展し、従つて印度棉の輸入も大分に進んで、明治二十五年頃には数万俵を輸入する程になりましたから、此に於て印度と日本の航路問題が起つたのであります。明治二十六年と記憶しますが、孟買のゼー・エン・タータ氏が日本に渡来されて、斯の如く、棉花の輸入が進んで来て、日印貿易の一端緒が開けたが、悲しいかな其運送船に困ると云ふことゝなつた。当時日印航路は全く彼阿の独占で、其他伊太利と墺地利の船会社があつて、三社合同して経営して居りましたから、其の運賃の如きは甚だ高い。故に折角印度の新原料を得ても、船賃の為めに其の効果がない、何とか方法はないかと云ふのが、第二に起つた問題で、終に孟買航路は、日本郵船会社とタータ氏との協同に依つて開かれまして、其後一時彼阿との大競争がありました。是等は悉く侯爵が御指図下すつたと云ふのではないが、其根本に於て、明治二十一年から教を受けた事は尠くないのであります。私は唯紡績と砂糖の事のみより存じませぬが、侯爵の先見の明に依つて印度貿易も追追に開かれた事は尠くないと思ひます。砂糖の如きも其後佐野氏が爪哇の実況に倣うて、大阪に製糖会社を起して、後に東京の製糖会社と合併しましたが、砂糖製造事業の日本に発達しましたのも、単に佐野氏の調べに依つてのみとは申しませぬが、蓋しそれが進歩の端緒を為したと云ふに躊躇を致しませぬ。而して其先覚者たる侯爵の指導に依つて、日印貿易が斯様に進歩しましたと存じ、私はこれを賞讚すると同時に、他の諸君に於ても種々の事柄に付て侯爵に申上げることも亦尠くなからうと思ひます。
 私は先般の侯爵の御病気には満場の諸君と共に実に痛心しました。私は八月の中旬に軽井沢に行きまして三日程滞留しましたが、其の二日間は侯爵の別邸に訪問して御目通りを致しました。其節は相変らず活溌の御談話を拝聴して其の御健康を喜んだのであります。然るに御帰京後突然の御発病と承りて憂慮措く能はざるのでありまして、申上げるも恐入つた次第でありますが、或は如何あらうかと三浦博士や青山博士の診断を伺ひましても、何やら安心の出来兼ねるやうに感じました。如何に平素御健康でも、御高齢であると只管憂慮したのであります。然るに追々御恢復の事を承りましても、尚もどうであらうかと御案じ申す中に、全く御快方なされまして、終に御病気前と御変りのない迄になられた。先頃私は他の要務に付て御病床に伺候して御様子を拝見しましたが、其時は未だ御元気全く恢復とは拝見し得られず、密に御本復を祈つたのであります。其後又他所で拝眉すると益々良好
 - 第36巻 p.37 -ページ画像 
で、今日は従前と少しも御変りがない、御容体も又御元気も全く御恢復と思ひます。是は諸君に於ても同じ喜びを以て御迎へなさるであらうと信じます。
 近来は青年を尊重する世の中で、これを第二の国民だと云ふ。如何にも第二の国民でありませう。或は第三の国民ともなれます。而して斯く申すと私も侯爵と同じく老齢であるから、或は我田引水の説と言はれるかも知れませぬが、独り青年のみを尊重すべきものではないと思ふ。勿論徒らに歳月を浪費したなら、老人とて何の価値もないと言はれても一言もないが、侯爵の如くに意義ある歳月を経過して、日印協会に対する関係が前に申上げる通りとすれば、歳月を長く利用する程社会に効果が多い。果して然らば、老人も貴ぶべきであると思ひます。青年を貴ぶのは其末永き歳月を能く利用するからである。然らば既に歳月を充分に利用した老人は尚貴い訳である。是は余り長く申すと、私も褒めてもらひたいと云ふことになりますから、老人の誇張は是れ位で止めますが、侯爵の御病気が御全快になつて、此席に御出で下すつて、後段に御演説のある事と思ひますから、私が諸君の代表として、侯爵の御平癒を祝する為め、日印協会会員一同と共に杯を挙げて侯爵の御健康を祝します。
   ○右英訳文ハJOURNAL OF THE INDO-JAPANESE ASSOCIATION No.22, April, 1918.ニ掲ゲラレタリ。


中外商業新報 第一一三六六号 大正六年一一月二四日 日印協会総会(DK360017k-0005)
第36巻 p.37 ページ画像

中外商業新報 第一一三六六号 大正六年一一月二四日
    ○日印協会総会
本邦及印度間の親善増進を目的とする日印協会は、二十三日午後一時より帝国ホテルに於て総会を開き、会頭大隈侯爵以下各会員出席、本年度事業報告及会計報告をなし、併せて今後の事業発展に就き協議をなす筈にて、尚引続き会頭大隈侯爵病気全快祝賀会を開き、席上渋沢男爵の挨拶に対し、大隈侯爵は謝辞を兼ね現下の経済界緊要問題に関する演説をなす由