デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
3節 国際団体及ビ親善事業
13款 社団法人国際聯盟協会
■綱文

第37巻 p.368-383(DK370094k) ページ画像

昭和7年11月11日(1932年)

是日、栄一ノ一周忌ニ際シテ、当協会及ビ東京市共同主催「平和記念と渋沢翁追憶の夕べ」、日本工業倶楽部ニ開カル。当協会会長石井菊次郎、日本女子大学校長井上秀子及ビ東京帝国大学教授穂積重遠講演ヲナス。


■資料

平和記念日と渋沢翁追憶の夕べ(DK370094k-0001)
第37巻 p.368 ページ画像

平和記念日と渋沢翁追憶夕べ           (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
    十一月十一日
     平和記念日と渋沢翁追憶の夕べ
                   於丸ノ内日本工業倶楽部
                     (午後六時より)
  ……プログラム……
一、講演
 一、平和記念日に際して 国際聯盟協会会長 子爵 石井菊次郎氏
 一、女子教育に尽された翁の生涯 井上秀子氏
 一、渋沢翁の追憶 市長 永田秀次郎氏
 一、米国に於ける渋沢翁 男爵 穂積重遠氏
二、昔楽
 1、六段 箏 宮城道雄氏 箏 牧瀬喜代子嬢
 2、宮城道雄氏作曲桜変奏曲 第一箏 宮城道雄氏 第二箏 牧瀬喜代子嬢 十七絃 小橋幹子嬢
三、平和記念日に就て…………故渋沢子爵吹込レコード
四、映画
 1、国際聯盟臨時総会(日支問題上提)の光景(封切)……一巻
 2、渋沢子爵の面影………………………………………………二巻
 入場歓迎             主催   国際聯盟協会
                       東京市


社団法人国際聯盟協会会務報告 昭和七年度 同協会編 昭和八年五月刊(DK370094k-0002)
第37巻 p.368-369 ページ画像

社団法人国際聯盟協会会務報告 昭和七年度 同協会編
 - 第37巻 p.369 -ページ画像 
                        昭和八年五月刊
    ○平和記念日
平和記念日と渋沢翁追憶の夕べ
 十一月十一日午後六時より日本工業倶楽部に於て、本協会創立の父前会長渋沢子爵逝いて一周年、十一月十一日は御命日に当るので、当日を「平和記念日と渋沢翁追憶の夕べ」とし、東京市と共同主催にて開く、次第左の如し。
 講演「平和記念日に際して」 石井会長
   「女子教育に尽された翁の生涯」 井上秀子氏
   「米国に於ける渋沢翁」 穂積理事
 音楽(宮城道雄氏、牧瀬喜代子嬢、小橋幹子嬢等の箏絃の奏曲あり)、映画(国際聯盟臨時総会==日支問題上提==の光景、渋沢子爵の面影)、レコード(渋沢翁の平和記念日に於ける放送)等の催物あり、盛会裏に終る。


「平和記念日と渋沢翁追憶の夕べ」講演速記集 【平和記念日に際して/石井菊次郎 ; 女子教育に尽された翁の生涯 井上秀子】(DK370094k-0003)
第37巻 p.369-383 ページ画像

「平和記念日と渋沢翁追憶の夕べ」講演速記集 (社団法人日本国際協会所蔵)
    平和記念日に際して
               国際聯盟協会会長 子爵 石井菊次郎
 諸君、本日は平和の記念日でありまして、世界大戦以来誠に思出深い日に当ります。之に加へまして、故渋沢子爵の薨去せられて早くも一周年となりまして、彼れと云ひ是れと云ひ、この国際練盟協会に取りましては感慨無量でございます。この機会に国際聯盟協会が東京市と共に、今夕渋沢子爵追憶の夕を催しまして、私に何か意見を述べよといふ注意がありました。私は渋沢子爵を追憶し、兼ねてこの時局に付きまして、聊か所見を申し上げたいと存じます。
 渋沢子爵の永年に亘る、国家に対する事業といふものは、是は仲々一朝一夕に述べ尽し得るところではございませぬ。私が主として念頭に浮ぶところは、渋沢子爵の後半分である。今から三十四・五年前のことであります。私は渋沢子爵の還暦の祝に招かれまして出ましたところが、その時に渋沢子爵の演説がありまして、これ迄は実業界に尽したが、これより漸次に実業界に於ける事業を幾分か縮めて、さうして社会事業・公益事業に当りたいといふ、渋沢子爵の御決心のところを示されたのであります。果せる哉、渋沢子爵はそれより専ら社会事業・公益事業に尽されたのでありますが、私が国家有事の際に、殊に渋沢子爵を想ひ起すのはこの子爵の後半期であります。
 それで先づそれ以後に於て、渋沢子爵の対外事業を始められたのは(事業と申しては語弊があるか知りませぬが)、対外外交のことに非常に意を用ひられたのでありまして、その当時私は外務省に通商局長を勤めて居りまして、対米外交、又移民問題に胚胎する日米の関係のことに、深き関心を持ち責任を持つて居りましたから、渋沢子爵とはこの対米問題に付て憂ひを共にし、又努力をするの機会があつたのであります。で、皆さん既に渋沢子爵が米国に於て活動し、日本にも於ても日米問題に奮闘された、その一斑は御承知だらうと思ひますからこれも私は深く入いることはしませぬ。が、兎に角日本が外国に向つ
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て、国民外交といふものを始めたのは、渋沢子爵が先づその嚆矢である、その端を切られたものである、而もその国民外交の第一の幕としては対米、これは今日まで甚だ有益なる結果を残して居るのである。米国の官民、実業社会、政治家等に於て渋沢子爵を知らぬものはないのであります。何か日本に対する悪口讒謗の宣伝がありまするといふと、亜米利加の渋沢子爵の友達は、渋沢子爵の同胞なる日本人がさういふことをすることはないといふことを言うて、日本人に今以て信用を繋いでゐるのは、その端は渋沢子爵が開かれたのである。これは日米関係に於ける渋沢子爵の功績。余り外観には顕著に現れては居りませぬが、その実質は極めて有効にして、而も永続性のある効果を収めて居る。
 これより先、渋沢子爵が実業社会に没頭して居られた時、即ち日韓合併の行はれる前であります。当時子爵は日韓貿易、韓国に於ける日本人の経営産業及び金融、第一銀行の支店を各所に設けて、これ等の事業に向つて非常に努力せられた。独り第一銀行の繁栄を来したのみならず、その当時に於ける、韓国に於ける金融事業、又日韓合併後に於ける金融上の成功といふものは、既に日韓合併前に於ける渋沢子爵の事業が、大いに与つて力あつたのであります。源泉を求めれば、渋沢子爵の対外事業は、先づ韓国にあり、米国は第二段であつたのであります。
 子爵は又米国との国民外交を以て足れりとせずして、次に支那との関係を密接にし、又之を拡張するといふことに努力されたのであります。この点に於ても渋沢子爵の功労といふものは埋没し得べからざるものがある。今日有力なる会社の中で、日支共存共栄の目的を以て、渋沢子爵が斡旋せられて出来た会社は幾つもまだ残つて居る。渋沢子爵の事業は韓国に始まり米国に次いで、第三には支那に及んだ。しかし渋沢子爵はまだ之を以て満足しないのである。
 最後に老後まで最も奮闘したものは、世界の平和といふことであります。即ち国際聯盟協会を渋沢子爵の主唱によつて設立しましたのが今から十一年前のことである。即ち渋沢子爵は実業界にある時、既に日韓の関係に重大な影響を及ぼす程の活動をせられた。次に米国・支那、更に進んで最後は世界平和に向つて、非常に努力をされたのである。私は我々同胞の中に一個人として、渋沢子爵位に奮闘努力され、又渋沢子爵位に事業が着々成功されて、その余恵を爾後長く我同胞に残したといふ人は、他に例を求めて之を得ないのであります。実に私は日本の国宝であつたと思ふのであります。今日の時局が、渋沢子爵が存命して居られたならば、さぞ我々に向つて前途に光明を与へる程の努力、又御心配もあつたらうと思ひます。
 今日の時局といふものは、御承知の通り満洲問題であります。今や世界は万国を通じて辛辣なる不景気に捕はれて居るのであります。搗てて加へて、我国は日支紛争、特に満洲問題といふものを控へて居る而もこの問題は、初めは日支紛争に止つて居りましたが、その後発展の跡を訪ねて見まするといふと、今や日本対国際聯盟たるの観を呈して来たのであります。或る意味に於ては日本は只今は殆ど世界の大部
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分を向ふに廻して、今是非曲直を争つて居るといふ有様であります。国民が世界各国の人々共に、辛辣なる不景気に襲はれて居るこの時は各国何れも国際間の時局は、動々もすると動揺する時である。況んや重大なる問題が之に加はりますると、冷静慎重に、行動は頗る考慮を要するものがある。この冷静慎重なる態度といふのは、独り我々日本人の努むべき所ではない。この重大なる時局に対しては、世界各国の国民及び国際的に冷静ならざるべからず、慎重ならざるべからず、こと程左様に今日の時局は重大であります。
 そこで、この日本対国際聯盟といふ、玆に時局がありまして、この時局に於て日本は、諸君御存知の通り、既に満洲国を正式に承認したのであります。この決心をして正式に承認をしたこの態度からは、後へ引けない場合にあるのであります。一方国際聯盟の方はどうであるか。国際聯盟は満洲に於ける我軍の行動を、聯盟規約の条文と之を調和することに非常に苦しんで居りまして、今以て調和点を見出し得なかつたのであります。そこでこれを見出さなければ、国際聯盟の方では、世間ががやがや言ふところの、日本の行動は聯盟規約違反、斯う言はざるを得ざる立場にあるだらうと思ふ。さうなれば国際聯盟も世間に対する聯盟の威厳を維持し、聯盟規約の尊厳を維持するが為に、どうしても日本と正面衝突をしなければならぬ。斯う言つたやうな訳で、日本対国際聯盟はこの事態の進行上ちよつと引くに引かれないやうな場合に立至つて居る。一歩誤まれば直ぐ衝突、危機一髪といふのは先づこのことだらうと思ふのであります。
 或る者はこの時局に直面して、時局は既に脱し得べからざるの行詰りまで到つて居る、斯う考へる人も少くないのであります。私はこの悲観説は持たぬのであります。私はまだまだこの問題は、日本に満足を与へつゝ、他方国際聯盟の威厳を損することなくして、解決するの余地がある。而もその余地は国際聯盟の前に示されつゝあると私は考へて居る。これは結果を前に申上げたのである。何故に私はさう考へるかといふことを、是から少し申上げて見ませう。
 先づこの頃新聞に謳はれるところのリツトン委員会の報告、このことを頗る深く論及しなくちやならぬと思ふ。しかし此処では余り深く論及する時間がありませぬから、要領を申上げますが、このリツトン委員会報告書、これは多岐に亘り浩瀚にして、通覧するのにも頗る多くの時間を要するのでありますが、之をよく玩味して見るといふと、その中に二つの重要な点が際立つて見えるのであります。二つの重要な点とは何であるかといふと、第一点は満洲問題は、予め妥協の手段を尽さずして戦争行為に出でたるが如き問題に非ず、又一国の軍隊が国境を越えて、他の領土を侵略したるが如き簡単なる問題に非ず、斯う云ふ一つの結論をなして居るのであります。重大なる結論。もう一つは、満洲独立国は満蒙住民の意志に非ずといふ断論を下して居る。これも頗る重大なる結論。この二点について私は諸君に御清聴を請ひたいのである。
 第一、昨年から国際聯盟理事会に於て、帝国代表が有ゆる努力を尽して主張したところはどこであるかといふと、満洲に於ける我軍の行
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動、予め妥協の手段を尽さずして戦争行為に出づるが如き行動ではない。我権益の擁護上已むことを得ずして、自衛の方法を講じたに過ぎない。あれは戦争でないのである。これが日本の主張であります。国際聯盟に代表されたる各国の代表、殊に支那の主張。これが誠に俗の耳に入り易い主張。即ち日本は突然昨年の九月十八日に兵戈を挙げて支那を襲うた。満洲至る所に攻撃を加へた。即ち支那の領土を犯した東洋の事情を知らないものからは、この支那の訴へといふものは耳に入いり易い。成程昨年の九月十八日午後十時半迄は静かだつた。十時半を打つとぴしぴし始めて、その翌日から満洲は瞬く間に日本軍の行動によつて、支那の張学良の行動といふものは痕跡を認めない程になつたのだから、外国人には領土侵略と見えるのである。それが支那の主張である。斯う見えさへしなければ外国は日本の行動について少しも異議はない。兎に角さう見た以上は、聯盟規約の条文の、国と国との間に争ひが起れば、戦争に訴へる前に先づ総ての妥協手段を尽すべし、之を尽さずして戦争行為に出づるものは規約違反だといふ条文があるのでありますから、その条文に照して日本は規約違反ではないかと、昨年の暮から今年の六月迄の争ひの点は玆であつたのである。ところがリツトン委員会の報告はどうであるか。この満洲問題は日本の軍隊が予め妥協の手段を尽さずして、戦争行為に出でたる問題に非ずと言つたのである。丁度日本の代表が昨年来、幾度か繰り返して主張した所を、殆ど完全に裏書して居るのであります。それで国際聯盟に於ける支那以外の代表者は、あのリツトン委員会の報告を何と読んだであらうか、尚ほ読みつゝあるか。これが正に問題である。これは日本に取つては、リツトン委員会は軍配団扇を最も明かに日本の方へ上げて居るのであります。私から見れば、昨年以来聯盟に於ける日支紛争、満洲問題に於ける日本の主張は、既に十二分の勝をリツトン委員会の報告で得てゐるやうに思ふ。要点はですよ。仔細の点は暫く措いて、その要点は尽く日本の主張を容れて居るのである。ところがどういふ訳であるか、日本の新聞雑誌等に、このリツトン委員会の報告について、色々の批評が載つて居りますが、最も重要にして、我々が双手を挙げて賛成し、最も深く満足すべき点はどうもどこにも見えなかつた。この第一の論断たる、日本の昨年以来の日本軍の行動を、聯盟規約違反視しないこの一点。この点は日本の主張その儘を採用したと同じところの結果を得たもので、この論断は最も貴重である。最早この結論を前にして、今まで非常に苦心して居つたところの日本軍隊の行動を以て、聯盟規約違反呼ばはりする余地がなくなつて来た。従つて国際聯盟はこのリツトン委員会の報告を熟読玩味すれば、昨年以来の日支紛争といふものは、その要点は既に事実上異議なき迄に、日本に好都合な判決を下さざるを得ないことになつて来たのであります。
 第二の論結、即ち満洲国は満蒙住民の意思に非ずといふ断論、これは又第一の結論とは打つて変つて、驚くべき結論である。まあ我々日本人から見れば、別に新しいことではなくして、諸君素より御承知の通りでありますが、この満洲は所謂愛親覚羅発祥の地である。愛親覚羅は支那本部を征服して之に君臨した時に、支那十八省の要所々々に
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満洲兵を駐在せしめ、その治安を維持して居つたが、政治そのものは文治、文を以て治めて居つた、之に反して満蒙は愛親覚羅から見ればそこが発祥の地、自分の出た所である。これは丸で十八省とは違つた政治をして居つた。即ち軍制を布いて居る。それで同じ愛親覚羅の統治下に於ける大清国(大清国といふのは愛親覚羅、即ち満朝から見た言葉であります)といふものは、事実は一方に支那本部、即ち支那十八省あり、一方に満蒙がある。十八省は愛親覚羅が力で取つた土地であり、一方は自分が生れた土地。先づ徳川家康から見れば三河といふやうな、自分の発祥の地である。そこで政治も尽く違ふ。片方は文で治めれば片方は武で治める。満洲人と支那人との間には結婚を禁じたのである。我満蒙の人は我れに征服されたる支那人のやうな弱い人間になつてはいかぬ。之が為に結婚を禁じて居る。又満洲は満蒙人に限られたる一つの楽境・楽土である。支那人は之に移住してはならぬ、即ち封禁の地としたのである。これはまあ俺の私有物と申しませうか満洲はさういう風な考の下に、愛親覚羅が統御して来た地であります仮令支那が満洲を取つても、満蒙は支那の領土に非ざると同時に、支那本部も亦満蒙の領土ではない。詰り愛親覚羅の領土であるけれども満蒙の領土とはまあ言へますまい。併し強ひて言へば、愛親覚羅発祥の地が満蒙といふ方が、歴史上には事実近いのであります。けれどもその裁判を受けまする必要はない。兎に角支那本部と満蒙といふものは、全く独立した二つの存在であつて、唯この二つを結び付けるといふのではないが、この二つの間に跨がつてゐるものは即ち愛親覚羅である。愛親覚羅の片方の足の下には満蒙があり、片方の足の下には十八省がある。それでこの満蒙と十八省の間といふものは没交渉と云つていゝのであります。丁度世界大戦前の墺太利と匈牙利と、これは全く別国であります。ところがハツプスブルク家の王様が両方の王様になつた、そこで共同の皇帝を載くという縁故がある。その縁故を破れば墺太利と匈牙利は全く別箇である。この例によく似て居る。この歴史は我々には明かな話でありますが、どうも欧米人には解らない。今から二十一年前宣統帝の宣統八年(明治四十四年)に支那に革命が起りまして、支那は共和国となつたのであります。共和国は宣統帝を幽閉し、満蒙を以て中華民国の領土の一部だとして、之を取扱つたのであります。これが恐らく歴史の事実に反したことで、今言うた通り、所謂中華民国と満蒙といふものは、個々別々独立な存在であつたものを、その愛親覚羅の後裔の宣統帝を追ひ出して共和国となると同時に満洲は中国の一部なりと称した。これはどうも歴史的に根拠のない話である。ところがこの根拠のないことが、又欧米人には解らなかつたのであります。支那では満洲人は勿論支那人でも、苟くも愛親覚羅歴代帝王の粟を食まぬものはない。而して忠君の念を頭にして居つたものは、この十八省の支那本部に革命を起して、一挙にして満洲を中国の領土に編入したといふことは、これは歴史を無視した一つの横暴なる支那が、満洲を横取りしたのである。何等歴史的根拠もないところである。そこで忠君の念のある支那人、満洲人は素より、如何に宣統帝を遇するの余りに惨酷なる、又満蒙を合併するの暴挙なる、憤慨を
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禁じ得なかつたのである。所謂後に起つた復辟運動、あれは之を坐視するに忍びずして起したのである。兎に角一旦廃止された宣統帝を又も北京へ迎へ、皇帝と仰いで復辟の実を挙げたのであります。この問題の如きは、我等より見れば当然過ぎる程当然なことである。が、欧米人はどう之を見るか。北京に又内乱が起つた、共和国が出来る騒ぎだ、内乱の起るのは当然だ位に、殆と雲煙過眼視して居つたのであります。今申上げたリツトン委員会報告の第二の結論、これが今申上げた歴史の事実を全く無視したものである。満洲と支那本部との関係は墺太利と匈牙利との関係と同じものである。又満洲から出た愛親覚羅は一方に於ては支那本部を力で以て征服して置きながら、満蒙は別の存在として之に軍制を布き、雑婚を禁じ、支那人の満蒙移住を禁じたといふ、この独立の存在、之を看却して居るのである。これはもうあのリツトン委員会の報告の根拠のないことを説き破ることは、余り難かしいことぢやない。
 そこで今度のゼネバに於ける聯盟理事会、及び総会に於ける事業は何であるか。そのリツトン委員会報告の第一点に於ては、既に日本は昨年以来の主張は通つたのである。残るは満洲国といふものが満洲住民の意思に非ずといふこと。この論断を破れば、日本代表の意見は果せるものである。一体この満洲国が、満蒙住民の意思に出でたるものなるや否やといふ問題は、本来から言へば、日本は之に当るべき地位ぢやないのである。日本は之を正当なる政府と認めたから正式承認を与へたのである。何故に与へたかといふ証拠は、これは聯盟の前で説明して然るべきものである。満洲国が自ら出て、俺は民意によつて立てたる国であるといふことを、聯盟と争ふのが本来の筋合である。けれども御承知の通り満洲国は、未だ聯盟に代表される他の国からは承認せられて居らぬのである。従つて満洲国の設立の理由を説明するの任務は、その同盟国たる日本の任務となつて来たのである。そこで日本の代表は、この第二の論断に対しては、歴史的に根拠のないといふことを指摘して、さうして聯盟の諒解を得れば、聯盟といふものは偽りなき歴史上の説明の前には、安んじて日本の主張を容れていゝ。満洲国を快く独立国と認めるのに、私は躊躇しないだらうと思ふ。躊躇しない迄に明瞭に説明することが、日本代表の義務、任務だらうと思ふ。
 繰返して申しますれば、満洲問題に関する昨年以来の争議は事実上既に解けた。即ち日本は妥協の手段を尽さずして軍事行動に出でたものではない。之が一方に於て決まり、他方に於て満洲国は民族自決に出でたる独立国である。これが認められれば問題は全部解決なんである。そこで国際聯盟といふものは、リツトン委員会で有難い解決方法を示された。昨年以来心配して居つた所の、日本の行動は聯盟規約違反なりといふこと、それはさういふものではない、聯盟は安んじて日本の主張を容れるだけの根拠を提供したのである。第二は新たに日本の代表から十分に説明をすれば、成程これは満蒙民族の意思に非ずとリツトン委員会は言うたが、日本から聞いて見ればこれは大いに根拠を有する、即ち民族自決に出でたる独立国であるといふのである。之
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で満洲問題を解決する外には方法はないのである。ところがこの問題を斯くの如く解決するといふことは、聯盟は良心に問うて見て少しもやましい所がなくて、この調停解決が出来るだらうと私は思ふ。私は先刻の日本対聯盟の関係は、殆ど脱すべからざる行詰り迄に達して居るといふ悲観説は組しない。聯盟は日本に満足を与へつゝ、而も聯盟の威厳を損することなく、本件を解決するの方法が、目前に示されつつあるといふことを申上げたのは、これが為であります。私は我代表が適当なる説明を与へて、第一点はリツトン委員会の報告の通り、第二点は我代表の十分なる説明によつて、この問題が円満に解決せられることを希望するのみならず、期待して居るのである。そこで先づ私は現時局か、日本国民の満足し得べき程度に解決し、而して聯盟は之が為に威厳を損するかといふと、これはちつとも損しない。一つはリットン委員会報告の結論をその儘採用し、他の点は日支紛争に於ける当事国の一方たる、日本代表の極く明晰なる説明によつて、之に解決を与へて行く。斯うなれば聯盟の威厳の損しようがないのである。認識不足といふことは、これは神ならぬ身の誰でも時々はあり勝のものである。之が為に鼎の軽重を問はれる筈はないのである。日本から認識不足の点を指摘して、之を明かに証拠立てたならば、それによつて自分の認識不足を補充すれば、もうそれ以上望まない。それ以上を望めば望む方が無理である。但しその認識不足の理由を指摘されながら尚ほ頑迷にもその非を遂げんとすれば、玆に初めて国際聯盟の威厳問題が起つて来るのである。私はその非を遂げんとする如き考へが、聯盟側にあらうとは考へられない。即ちこの問題は先程言うた通りの経路を辿つて、満足し得べき程度の解決が出来るのではないかと、まあ楽観的の考を持つて居るのであります。
 そこで、我々国際聯盟協会の会員と致しましては、今回の事件の満足なる解決だけで、満足することは出来ないのであります。今回事件の起つたのを好機として、将来世界に類似の事件の起らぬだけに、聯盟規約を改正して、その改良されたる聯盟規約を以て、将来世界平和の樹立に向つて、国際聯盟が努力しなければならぬと思ふのであります。又聯盟をして聯盟規約の不備に目覚めて、之が改良に着手せしめるといふことは、我日本の義務だらうと思ふ。何をか現行聯盟規約に於ける不備と言ふか。その不備の点を簡略に申上げると二点あります一つは国家自衛権といふことに付いて、国際聯盟規約に何等の規約がないのであります。聯盟規約の起草者は、国家自衛権といふものはこれは当然のことであるが、わざわざ条文に現す必要もないと思つたかも知れない。ところが実際に於ては、聯盟規約に於て国家自衛権のことが謳つてないが為に、案外の事件が発生する。世界平和は之が為に動揺を来す。又規約の起草者は斯う考へて居つたらしいのである。兎に角進んで軍事行動を執り、侵略行動をするものは、何といつても強国、即ち大国が弱国若くは小国に向つて仕向けられるのである。この強国又は大国の侵略行動さへ制限して置けば、もう世界は忽ち平和だ斯う考へたらうと思ふ。焉んぞ知らん、事実は全く反対である。弱国小国が威張り出して強国は受身になつた。国の強弱大小を問はず、各
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国均等、各国対等、民族自決といふ声が国際聯盟と共に出て来た。そこで今まで雌伏して居つた弱国は俄かに付け上がつて、利権恢復論、不対等条約廃棄論といふやうな形を以て、弱国側からどんどん侵略的の行動を執るやうになつて来た。却つて強国が受身になつたのである正当防衛といふことは、弱国から侵略を受け脅迫を受けた強国が取るやうになつて来た。これは国際聯盟規約の起草者、曾つて夢にも思はなかつた現象である。この夢にも思はなかつた現象が今起つて来たのである。支那に英吉利が出兵したの、又日本が山東に出兵したの、満洲に出兵したのと、騒ぎ立てるのである。斯くの如く支那が民族自決論に中毒して、不対等条約の一方的破棄と、今迄の不利益不名誉なる地位から脱して、所謂対等の地位に進まう。それで対手国の同意と不同意とを問はず、一躍して同等の位置に進まうといふのが支那の希望である。その希望には素より一部同情すべき点はありますが、その方法が同情し得ない方法である。何故に斯くの如き大胆なる行動に出でたかといふと、聯盟規約に自衛権のことを何にも書いてない、これが原因である。
 もう一つの欠陥がある。それはボイコツト(不買同盟)である。このボイコツトに関することも、聯盟規約に何にもない。それから経済絶交。これはボイコツトを一段進んで、国民と国民との経済関係を断絶してしまふ。このことに付ても聯盟規約に何事もないのである。これが一つの欠陥。抑々歴史あつて以来、国と国との戦争は何千何万あつたか判らないが、その原因を調べて御覧なさい。直接間接必ずその原因は経済関係にあるのである。昔墺戦争の起つたのが矢張りそれである。プロシヤといふ所は地味は非常にいゝし地下には鉱石に富んで居る、あの地方を取れば欧洲に覇を唱へることが出来るといふやうな一方の野心が原因になつて居る。総て戦争なるものは近寄つて調べて見ると経済問題が原因である。ところが、この経済問題が戦争の殆ど唯一の原因なりとすれば、国民と国民との間の経済関係の断絶といふものは、即ち戦争でなければならぬ。之を戦争と言はなければ何と言はうか。これが国際聯盟出来て以来、世界大戦以後に於ける国際関係に、最も頻繁に大動揺を来たした原因である。このボイコツト乃至経済絶交の本家本元にして、又世界で一番独特の長所とされて居るのは不幸にして隣邦支那である。初め支那は亜米利加に対し、次で英吉利その他の国に対して、所謂不買同盟により排外運動をやつたのであります。段々多年の経験及び熟練によつて、殊に我国に対してはもう斯ういふ仮面は冠らない、不買同盟といふやうなまだらこしいことを言はないで、直接に経済絶交といつて来た。経済断交といふ恐しいやつこの支那人の態度を冷静に見て、之を春秋の筆法で言へば、支那国民は日本国民に向つて、少し手続の変つた、新式な宣戦を布告して来たのである。昔は国家と国家との修交条約といふものは、帝王と帝王との修交であると言つて居たが、今日は国民と国民、所謂国民外交の世の中になつて居る。この国民と国民との間の経済断交といふのは、正に前申す通りである。この経済断交を日本国民に向つて、年来布告しつゝ来たのであります。これは自尊心のある国民としては、無限に之
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を寛容して居ることは出来る性質のものでない。若しこの経済絶交を受けた方の国の人の勘忍袋の緒が切れて、戦争となつたらどうでありませう。その戦争を起したものは、この経済絶交で戦を挑んで来た方でありませうか。即挑戦国でありませうか、被挑戦国でありませうかこれは言はずとも知れたことである。この点に関してリツトン委員会の報告は、これは頗る面白い。ボイコツトは国際関係を危殆に陥らしむる憂ひがあるから、これはやめなくちやならぬといふことは書いてある。之を禁止せよ、経済断交をした国はこれは一つの戦争行為と見做すといふ考へは、リツトン報告には書いてない。聯盟規約を改正しないで、今のリツトン委員会の言うた位に、唯あれは面白くないことだから止めなければならぬものだ位の、生ぬるいことであれば、将来の禍根は正にこの点から出るのである。で、私はリツトン委員会の連中が日本へ来た時分に、先づその初めの日に、これは戦争行為であるといふことを、私は委員会の人を集めて演説したことがあるのであります。委員会の意思は根本に於いては、戦争行為だといふことを説いてあるけれども、あの報告書を見るといふと、まだ極めて微温的のものである。あれでは将来の国際平和といふものは期待出来ない。即ち将来は経済絶交といふものは一つの戦争行為と見なければならぬ。之を為したものに向つては、之を受けた方から敵対しても宜しいといふ一つの箇条があるならば、世界至る処ボイコツト、経済絶交といふものが流行することにならない。之が流行しては世界の安寧、世界の平和といふものは、とても維持することは出来ないのであります。私は既往のことは、日支紛争も満蒙問題も、一通り満足し得べき程度に解決するとして、将来世界の平和といふものが健全な発達を遂げしめんとすれば、是非とも私が只今申上げた、第一の自衛権といふことを聯盟規約に謳つて、余り強国に対して我儘なことをさせない。若しすれば自衛権の発動をするといふこと、怖さを持たせなければならぬ。一つはボイコツト、又ボイコツトのみならず経済絶交、之を濫用すると国際聯盟から戦争行為と見られるといふ、この二つの今までの欠陥を補充して、この二つの改良をすれば、その改良されたる規約を以て前途邁進するやうになれば、私は国際聯盟が完全な発達を遂げて、世界平和樹立の大任を全うし得るやうになるだらうと思ふのであります。以上は日支紛争の平和的解決及び国際聯盟の負うて居る、世界の平和樹立といふ見地から、聊か研究した点を申上げたのであります。
 眼を転じて極東亜細亜の平和といふ点から論じて見ても、同じ結論に達するのであります。何というてもこれは日本と支那と共存共栄しなければ、目的を達することは出来ませぬ。即ち早くこの実情を覚つて日支共存共栄して、而して新たに起りたる満洲国と融和して、それで日支満三国が大いに諒解し協力し和合した上に於て、初めて東洋将来の平和と安全といふものが、期待することが出来るやうにならうと思ふのであります。若し不幸にして隣邦支那が、この我々が進むべき唯一の方針を諒解することが出来ず、目前の面目観にのみ捕はれて、或は日本に抵抗し或は満洲国を弾圧するといふ不可能を続けて行くならば、支那は四百余洲を駆つて殆ど土崩瓦解の巷に投ずるものである
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支那が斯かる酸鼻の境遇に陥るといふことは、極東亜細亜の為に最も寒心に堪へない。で、私は結論として日支満三国に於ける協力及び和合といふものは、極東亜細亜の自力を以て更生し得べき唯一の方法であるといふことを以て、今日の講演を終りたいと存じます。(終)
    女子教育に尽された翁の生涯
                      井上秀子
 平和記念日にして、而も最も思出深い渋沢子爵の一周忌に相当いたして居りますその時に当りまして、私は女子教育事業を通しまして、渋沢子爵に親しみを持つことの出来ました光栄を荷つて居りまする関係から、今夕は子爵と女子教育に付きましての関係を、申述べます機会を与へられましたことは、私の最も光栄と致します所であり、又最も感謝いたします所でございます。子爵が天保の十一年二月御生れになりましてから、昨年の今月今日今朝までの 子爵の九十二年の間の長い御生涯に亘りまして、一度は皆さん御承知の通り官界に身を投ぜられましたが、感ずる所がおありになつて、実業界に御立ちになりましたその間に、これは私が申上げる迄もなく、総ての会社銀行その他色々の実業方面のことの創立と言へば、殆ど渋沢子爵の手を煩さないものはないといふ程に、多数のものにその中心として御活動になりました。その外に教育事業と言ひ或は社会事業と申せ、或は国際間のことに対しましても、多大の力をお注ぎになりまして、非常に御多忙の御生涯でありましたやうに存ぜられますのでありまして、お近に始終お出でになります方から伺ひますといふと、子爵の御生涯に御関係になりましたお仕事は五百もあつたやうに承つて居ります。御高齢に達せられました時に、実業界を御引退になりましても、尚ほ時々社会事業とか教育事業とか、その他色々のことを矢張り子爵に持ちかけまして、御逝去になりますその時にも、何百といふ事業に御関係になつたやうに伺つて居るのでございますが、左様に多忙な御生涯でございましたが、その間女子教育に御関係になりましたことに付きましては、余りこれは世間でも知られて居ないかのやうに私は存じて居ります。色々子爵のことに付きまして、書かれましたものを拝見いたしましても、女子教育にお係はりになりましたことに付いては、余り書かれてないのでありますから、これは一般の方が余り御承知でなかつたのではないかと思ふのであります。
 子爵が女子教育にお手をお染めになりましたのは明治十八年、明治女学校の創立に際しまして、非常に御尽力がありました。同じ年に矢張り女子共立職業学校といふ学校に対しましても、その創立に当りまして資金を集めたりすることに対しまして、非常にお力添ひがあつたやうに承つて居ります。その次の年即ち明治十九年に、伊藤公が条約改正をしなければならぬ、それに致しましてももう少し女子の地位を高めなければ、条約を改正することが出来ないといふやうなお考への下に、女子教育奨励会といふものを始めようといふ議がありまして、そこで渋沢子爵は矢張りその議に参加をされまして、さうしてお金を集めることにお携はりになりまして、その目的を達せられまして、さ
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うして北白川宮殿下を総裁に推戴いたしまして発会されましたのでありました。さうして子爵は評議員とし、或は会計監督となられましてさうしてその事業に御携はりになりましたが、その女子教育奨励会なるものは何か仔細がありまして、やめなければならぬといふやうなことになりましたが、既に今日ずつと続いて栄えてお出でになります所の、虎の門の女学館といふやうなものが、子爵などのお力によりまして、さうしてこの女子教育奨励会の御陣容としてそこに成立ちましてさうして今日に至りましたのであります。さうして子爵はずつと評議員のやうな格で、女学館にはお尽しになつたのでありますが、その後校長さんが段々とお替りになりまして、最近神田さんがお亡くなりになりましたその後をお引受になつて、さうしてこの女学館の館長として、最後まで丁度昨年までお尽しになられましたのでございます。
 それから私は日本女子大学のものでございますが、日本女子大学、即ち女子の高等教育といふものに付て、渋沢子爵がお携はりになりましたのは明治二十九年でございますやうであります。その時に丁度私どもの学校の創立者であります成瀬校長が米国に留学を致し、さうして米国の女子高等教育の研究を致しましてこちらに帰り、どうしても日本に女子大学校を創立いたさなければならぬといふやうな意見を以ちまして、当時の朝野の名士を歴訪いたして居りましたのでございます。その時に渋沢子爵に初めてお目にかゝりまして、さうしてこの女子高等教育機関と致しまして、女子大学校を日本に建てなければならぬといふことを、子爵にお諮りを致しまして、さうして子爵に御援助を願ひましたところが、子爵はその時には中々お受けがなかつたやうでありまして、殊に色々お忙はしい折柄でありましたので、お断りになつたやうでありますが、度々私共の成瀬校長が懇願を致しまして、さうして到頭承諾を戴きまして、その翌年三十年の四月に、帝国ホテルに於きまして発起人総会が開かれ、そこには元の大隈侯爵或は峰須賀侯、その他沢山の有名な方々と一緒に、子爵もお出になり、それから直ちに資金の募集にかゝりまして、さうして一方にはこの女子大学校の建設に向ひましたのでありますが、子爵には又創立委員として又建築委員として、或は会計監督のやうなお役目をお持ち戴きまして、さうしてこの女子大学校の創立に関しましては、一通りならぬお力添を戴いたのでございます。そのお力添に依りまして幸ひに女子大学校は、明治三十四年四月に開校することが出来たのであります。その開校の時にも大隈侯爵、或は今日の西園寺公爵などが見えられ、渋沢子爵は矢張りわざわざ御出席になりまして、さうして開会の辞をお述べになつて居られるのでございます。それから今日に至ります迄の中で私共の学校は三十八年に財団法人になつて居ります。その財団法人になりまして以来、子爵は評議員とし又会計監督として、さうしてずつと多大の御尽力を戴いて居るのでございますが、斯ういふ私立学校のことでございまするし、殊に女子の学校でありますから、中々資金も欠乏いたして居りました所を、子爵は御自身の資力を割いて戴きまして、多大の御寄附を戴いて居りますることは、勿論のことでございますが、そればかりではございませぬ。子爵の非常に力を添へて戴いて
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居るのでございます。私共の校長の成瀬といふ人は女子高等教育に対しましては、どちらかと申しますと進歩主義の方であつたやうに思ひます。従つてその考へて居りまする所の理想は随分高い。さうして又その時代の傾きと致しましては、女子の教育に対しましては可なり保守主義の主張もあつたのでございますが、それで可なり誤解を受けて居りますることは夥しかつたのであります。今日では皆さんからも相当認められて居りますが、当時に於きましては色々の誤解を受けて、さうしてその事業を発展、或は拡張するといふことは可なり困難であつたのでございます。渋沢子爵は御承知の通り、非常に常識のある方又非常に円満であり、穏健着実の御思想を持つて居られたのでございますから、その時に、その常識的の円満さを以て、さうして我々の校長でございます成瀬先生をお助け下さいまして、そのお力によりまして、唯単に渋沢子爵の世の中から受けて居られますところの御信頼が矢張り我々の学校にもその信頼を添へまして、一般の方から我々の学校が信頼を受けるといふことになりましたことは無論のことであります。そればかりではございませぬ。教育の主義主張或は教育方法等に於きましても、その穏健な、常識のありまするところのお考へを以て色々かけ離れたやうな考へを持つて居りまする人の思想を、段々と緩和せられまして、さうして私共の学校は校運が益々隆盛に赴いて、今日の結果を見ることが出来るやうになつて居るのでございます。斯ういふ点から考へて見ますと、実は私共は唯々子爵の御恩に対しましては、何とも拙ない言葉で申上げることの出来ない恩恵に浴して居るものでございます。若し私共の学校に渋沢子爵のやうな方の御援助がありませぬでしたならば、日本女子大学といふものは、今日のやうな隆盛を見ることは出来なかつたのではないかと考へられるのでございます。若し女子大学が不幸にしてこれが頓挫を来して、途中で倒れて居るといふことでありましたならば、日本の今日の女子教育の隆盛は到底見ることが出来なかつたらうと思ふのであります。その点から考へまして、私共は自分の学校を非常にお助け戴いた所の方に対しまして恩恵を感ずるといふばかりでございませぬ。私は日本の女子と致しまして、又日本の女子教育家の一人と致しまして、子爵に負ふ所が非常に多いといふことを考へまして、実に感慨無量でありますし、又感謝の念を禁ずることが出来ないものでございます。
 今申上げましたやうに、非常にお尽し戴きましたが、皆さんが御覧になりますと、それは通り一遍の御助力であつたらうといふやうに、お考へ戴くか知りませぬが、私共はさういふ風に考へないのであります。これは命を賭けられ、或は子爵の御精神を賭けられての非常なる御助力であつたといふやうに、私共は考へて居るのであります。何故さういふ風に申上げられるかと申しますと、私共の学校が開校いたしましてから今日に至りまする迄、玆二・三年は仲々お出を願ふことが出来なかつたのでありますけれども、私共の学校に於ける卒業式といひ、或は記念日といひ、或は評議員会といひ、度々会合がございましたが、斯ういふお忙はしい方が一度として御欠席になつたといふことはないのでございまして、もう学校に居りまする職員も生徒も、何だ
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かお父さんの顔を見上げますやうな感じを以て、非常な親しみを以てお迎ひを申し、又御訓戒を戴いて居るのでございまして、殊に昨年四月になりまして、私共の学校では一大厄事に遭遇いたしました。と申しますのは色々の関係から致しまして前校長の麻生正蔵氏がどうしても校長の職を辞するといふことになりまして、後の校長は誰になつて戴かうといふことで、評議員の方ではあなたおなり下さい、こなたおなり下さいといふ風に、大分校長の盥廻しを致しましたのでありますが、どうもどなたもお引受なくて、さうかといつて麻生校長も、辞して居られるといふやうな状態で、実は一時混乱状態に陥つたことがあるのであります。その時に評議員のある方が、どうしてもこれは渋沢子爵に一つお願ひをして、さうして一時先づ校長の職をお預り願はなければ、到底治まるものでないといふ風に考へられまして、さうして子爵にそのことをお願ひ申上げたのであります。ところが、子爵の御一家御親戚では皆さん御反対で、それはさうであつたらうと思ひますもうその時は九十二にもおなりになつて居つて、総ての関係から申せば、一日でも長く子爵の御生命を保たせなければならぬ。日本国民と致しましては、国の宝であるといふやうなことを考へて居りまするそれ程貴い方を、女子大学の校長になつて戴きたいといふことを申上げたのでございますから、御親戚の方はそれはいけない、さういふことは反対だといふ訳で、全部が御反対のやうでございまして、どうもその時には私共困りましたが、或る方から使が来られまして、さうして渋沢子爵が校長の職をお引受になるかも知れない、然しお引受になつても、お前は校長に出て来て戴きたい、今日は女子大学の卒業式だから出て来て戴きたいといふやうなことを申上げてはいけない、子爵はあゝいふ方であるから、大方女子大学にいらつしやりたいといふやうなお積りはおありになるけれども、そこでお前がお出願ひたいといふことを申上げると、必ずお出になる。お出になるとお疲れが出てお躯にさはるやうなことになるから、若し之をお引受になつても、お前はお出でを戴きたいといふことを願つてはいけないといふやうな、まあ子爵家から宣告を受けたやうな訳でございます。それで子爵はそんなに女子大学が困るなら、さうして自分が行つて治まるならばなつてやらうといふお言葉でございました。さういふ御親切なお考へから、昨年は遂に校長におなりになりまして、私はその時に校務を執つて居りましたやうな関係を持つて居りましたので、先づその事を一つ御覧戴きましたが、子爵は心から女子教育のことを援助して下さいまして、さうして子爵の御事業の如き思召しで、助けて戴いたことは御解りになつて戴くことが出来るだらうと思ふのであります。
 もう一つ私始終聞いて居りましたことを申上げたいと思ひますが、皆さん御承知のやうに、千九百二十四年亜米利加で排日移民法が可決されました時に、子爵は非常に遺憾の意を表され、当時確か八十五か幾つかの御高齢であつたと思ひますが、若し必要とあれば、それが為にわざわざ亜米利加にお出になつてもいゝ、必要とあれば、何時でも出かけて行つて緩和したいといふことを、お考へになつて居つたといふことは、皆さん御承知の通りであります。○アメリカ合衆国一九二四年移民法ニ関スル資料ハ本資料
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第三十四・五巻所収「日米関係委員会」ニ収ム。丁度その時に予ねてから親しくしてお出になりました所のハーバート大学の元の校長のエリオツト博士に、子爵がお手紙を出されたといふことを承つて居るのであります。お書きになりましたことは、かねがねから色々御心配を願つて居るが、どうも今回のやうな、移民法が通過いたしましては、実に不都合であるといふ風なことでありまして、エリオツト博士に之を出された。ところがエリオツト博士から返事が参りました。その御返事を度々承つて居るのであります。それは斯ういふことが書かれて居る。凡そ国と国とが交際をするとか、親しい所の関係を保つて行かうとするならば、どうしても風俗人情或は教育、すべてのことが略々同一の程度になつて居らなければならぬ。同一の程度に教育が進んで居り、総てのことが進んで居つて初めて、国際関係といふものが円満に行くのだ、さうして本当に親善を増して行くことが出来る。然るに貴方の国は、外のことは別として、女子教育といふものを考へて御覧なさい。貴方の国の女子教育は、亜米利加に比べて非常に遅れて居る。さういふ遅れを取つて居るやうなことでは、どうしても対等の関係を取つて、対等に親しくなつて行くことは出来ない。そこに理由があるといふことをお考へになつて戴きたいといふ返事がございました。その返事につきまして渋沢子爵はいつでも斯ういふことを言つて居られた。であるから国際親善を図つて行かうとしても、又国と国とが対等の条約を結んで対等に附合つて行かうとしても、これは女子教育が進んで居なければどうしても出来ないのではないか。さういふことから考へて見れば、女子大学は自重して教育をしつかりやらなければならぬ。それから更に進みまして、私共の学校は成瀬校長が女子大学実現といふことを考へて居りました折柄、子爵も女子大学はどうしても本当の意味に於ける女子大学となさなければならぬ。又なすべき責任は自分たちが背負つて居るといふ御言葉を、始終戴いて居りましたのでございまして、色々さういふ子爵にお尽し戴きましたことを考へて見ますといふと、女子が国民の母であるから、女子を十分力あるものにしなければならぬとか、或は又国民の半数を女子が占めて居るから、女子の力が進み人格が進まなければ、社会国家の繁栄幸福を来すことが出来ないといふやうな所からも、女子教育に非常にお力を致されたのであらうと考へますが唯単にそればかりでなく更に進みまして、今申上げたやうなことを材料と致しまして憶測いたして見ますと、矢張り女子は母性を持つて居る、その母性を段々拡大して参りますれば、勿論自分の産みました所の子供に対しましては母親でありますが、矢張りそれを拡大して来れば国民の母である。国民の母を更に拡大して来ますれば民族の母であり、又世界人類の母である。その世界人類の母であつて、種族を保存する所の責任を、女子が持つて居るといふやうな立場から考へて見れば、どうしても女子は平和を招来するといふことに付て力を致し、或は国際親善に対しまして十分に力を添へることが出来るやうな女子が出来なければならぬといふやうな、実に高い又深い所の御思慮であり又御信仰から、私共の学校殊に女子の高等教育に力を入れられて、さうして我々を奨励して戴きましたものと、私共は察して居りますので
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ございます。
 まだ申上げたいこともあるやうでござますが、御約束の時間が参りましたから、唯一言だけ申上げて、渋沢子爵を偲ぶことに致します。
                            (終)
   ○永田東京市長ハ病気欠席ノタメ講演ナシ。
   ○穂積重遠ノ講演ハ「竜門雑誌」第五三〇号(昭和七年十一月)ニ掲載セラル。本資料第三十三巻所収「第三回米国行」大正五年一月十四日ノ条ニ収ム。