デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
6節 国際災害援助
8款 中華民国水災同情会
■綱文

第40巻 p.72-96(DK400013k) ページ画像

昭和6年8月24日(1931年)

是年七・八両月ニ亘リ中華民国ニ洪水アリ、惨害甚シク饑民一千万人ト称セラル。栄一等相謀リ、是日、当会ヲ設立シ、栄一会長トナル。次イデ九月六日、栄一飛鳥山邸ノ病床ヨリラジオヲ通ジテ義捐金募集ノ演説ヲ放送ス。


■資料

青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第二五頁 昭和六年一二月刊(DK400013k-0001)
第40巻 p.72 ページ画像

青淵先生職任年表 (未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編
                竜門雑誌第五一九号別刷・第二五頁 昭和六年一二月刊
    昭和年代
 年 月
 六 一〇 ―中華民国水災同情会々長―昭六・一一。
   ○右ニ就任ヲ十月トセルハ何ニ依レルカ未詳。


中華民国水災同情会書類(DK400013k-0002)
第40巻 p.72-76 ページ画像

中華民国水災同情会書類         (渋沢子爵家所蔵)
                  (ゴム印)
                  昭和六年九月五日
               中華民国水災同情会
(別筆)
昭和六年  本会設立以来ノ経過概要
八月二十四日 政府側ト民間各団体代表者ハ首相官邸ニ参集シ、中華民国水害見舞ニ関シ、協議ノ結果「中華民国水災同情会」ヲ設立シ、事務所ヲ日本商工会議所内ニ置クコトトシタリ
八月二十五日 本会組織義捐金募集方法其他決定ノ為メ、東京商工会議所ニ於テ協議会ヲ開催シ、正副委員長・委員・幹事等ヲ決定シタリ
       天皇陛下御下賜金十万円拝受、直チニ重光上海領事宛電送、水災救済委員会宋委員長ニ贈与方依頼セリ
八月二十六日 第一回幹事会ヲ開催シ、義捐募集ニ関スル実行方法ヲ協議シタリ
八月二十七日 第一回委員会ヲ開催シ義捐金額其他ニ関シ協議シタリ都下有力実業家ノ参集ヲ乞ヒ、義捐寄附方ニ関シ懇談ヲ重ネタリ
       東京・大阪両市ニ於ケル十六新聞社朝刊ニ義金募集ノ広告ヲ掲載セリ
八月二十八日 本会ノ活動状況見学ノ為メ、中華留日基督教青年会総幹事馬伯援氏来訪セラル
八月二十九日 中華民国臨時代理公使江洪杰氏来訪セラレ、国民政府ヲ代表シテ今回ノ義金募集ニ関シ、深甚ノ謝意ヲ表セラル
 - 第40巻 p.73 -ページ画像 
八月三十一日 第一回常任委員会ヲ開催シ、義捐金処分方法ニ関シ協議シタリ
       東京、大阪両市ニ於ケル十四新聞社朝刊ニ第一回寄附者氏名ヲ公告セリ
○下略

(印刷物)
    中華民国水災義捐金募集趣意書
今夏中華民国ニ於ケル洪水ノ惨害ハ、現在迄ニ判明セル報道ニ拠レバ浸水面積略我ガ日本本土ノ広サニ亘リ、飢餓ニ瀕セル災民ハ一千万人ニ上ルト伝ヘラレ、実ニ過去一世紀ノ記録ニ見ザル所ニシテ、被害地ノ実況ハ悲惨ノ光景酸鼻ヲ極ムルモノアリ
惟フニ隣邦国民ハ頻年兵乱ノ余殃ニ悩サレ、今又此ノ天災ニ遇フ
吾人ハ人道ノ本義ニ考ヘ、善隣ノ交誼ニ鑑ミ、之ヲ黙視スルニ忍ビズ玆ニ汎ク天下ノ仁人ニ訴ヘ、普ク義捐ヲ募ラントス、冀クバ奮テ賛同セラレンコトヲ
 一、義捐金ハ金壱円以上トス
 一、義捐金ノ締切ハ九月廿五日
 一、義捐金ハ会ニ於テ適当ノ方法ニ依リ処分スル事
        東京市麹町区丸ノ内三丁目十四番地
 一、払込場所   日本商工会議所(振替口座東京七三七七〇番)
        大阪市北区堂島浜通二丁目十二番地
        大阪商工会議所(振替口座大阪 八六六〇番)
  昭和六年八月二十五日
              中華民国水災同情会
                会長  子爵 渋沢栄一
                委員長 男爵 郷誠之助

(印刷物)
                   (ゴム印)
                   昭和六年九月五日
拝啓、愈々御清栄之段奉賀候、陳者中華民国に於ける水害は其の惨状酸鼻を極め、善隣の誼として之を黙視するに不忍の情有之、旁々過般の大震火災に際しては民国より多大なる救援を受けたるの前例も有之ことに候得ば、玆に本会の設立を見、水害義捐金の募集に当ることゝ相成候、就ては御懇談を相煩度儀有之候に付き御繁用中寔に恐縮に御座候得共、本月二十七日午後三時東京商工会議所に御来臨被下度、此段御依頼申上候 敬具
  昭和六年八月二十六日
              中華民国水災同情会
                会長  子爵 渋沢栄一
                委員長 男爵 郷誠之助

(印刷物)
                   (ゴム印)
                   昭和六年九月壱日
 - 第40巻 p.74 -ページ画像 
    中華民国水災同情会委員長
      男爵郷誠之助君ノ挨拶要旨
             (昭和六年八月二十七日日本商工会議所ニ於テ開催セラレタル懇談会席上ニ於テ)
今回ノ中華民国ニ於ケル水害ハ、湖北・湖南・江西・安徽・江蘇ノ五省ニ亘リ、其ノ浸水面積ハ略我ガ日本本土位ノ広サニ及ビ、罹災者ノ数ハ実ニ一千万人ノ多キニ達シテオルト報道セラレテオリマス。此ノ事実ハ隣邦ニ於ケル今回ノ天災ガ、如何ニ其ノ範囲広大ニシテ、且ツ又、其ノ災禍ガ如何ニ酸鼻ヲ極メテオルカヲ示スモノデアリマシテ、隣接ノ友邦トシテ座視スルニ忍ビズ、洵ニ同情ノ念ヲ禁ジ得ザルトコロデアリマス、申ス迄モナク、中華民国ハ我ガ国ト同文同種ノ国デアリマシテ、政治経済上ノ関係ハ最モ密接ニシテ、相依リ相援ケ、相互ニ提携シテ、其ノ共存共栄ヲ図ルコトガ最モ必要デアル関係ニ在リマス。況ハンヤ過般ノ大震火災ニ際シテハ、日貨排斥ノ声熾烈ナル折カラナルニモ拘ハラズ、之ヲ中止シ更ニ防穀令ヲ廃止シ、我ガ国ニ対スル同情翕然トシテ集リ、立チドコロニ約二百六十万円ニ達スル義捐ヲ寄セラレマシタコトヲ想起スレバ、此ノ際、速カニ災害救済ノ途ヲ講ゼネバナラヌコトハ申ス迄モナイコトデ、殊ニ中華民国ノ国情ハ棊年内乱ニ次グニ内乱ヲ以テシ、国民ハ疲弊困憊其ノ極ニ達シテオル様ナ状態デアリマスカラ、今回ノ災難ニ依ツテ蒙ル苦痛モ一層甚シキモノガアル様ニ思ハレマス。
斯ノ如キ隣邦国民ノ難苦ヲ一刻モ速カニ救援スルコトハ、人道ノ大義ニシテ、且ツ又、善隣ノ友誼デモアルノデアリマス。
畏レ多クモ
聖上陛下ニハ、隣邦稀有ノ惨状ヲ聴シ召サレテ痛ク御軫念遊バサレ、巨額ノ御内帑金ヲ下賜アラセラレ、罹災中華民国人並ニ在留邦人ヲ御救恤アラセラレタルコトハ、広大無辺ナル御聖旨ノ程モ拝セラレ、転タ恐懼ニ堪ヘナイトコロデアリマス。隣邦救援ノ為メニ起タネバナラヌコトヲ痛感致シマシタ民間ノ有力ナル諸団体ハ、玆ニ協力一致シテ水災救賑ノ為メニ中華民国水災同情会ヲ設置シ、広ク水災義捐金ノ募集ニ当ルコトヽナツタ次第デアリマス。幸ヒ、各位ニ於テハ本会ノ趣旨ニ賛同致サレ、出来得ル限リノ応募アランコトヲ切ニ希望シテ已マナイモノデアリマス。

(印刷物)
拝啓、残暑之候愈々御清栄之段奉賀候、陳者今夏中華民国に於ける大水災害は其の浸水面積略我が日本本土の広さに亘り、惨害の甚大なること実に過去一世紀に見ざる所にして、悲惨の情況は洵に同情に堪へざるもの有之候、玆に於て曩に全国諸団体相集り、別紙の如き趣旨に依り中華民国水災同情会の成立を見たるは機宜を得たる処置と存候、顧るに彼の関東大震災当時、吾が友邦中華国民が多大の同情を以て約二百六十万円の巨額の義捐金を寄せられたことを想起すれば、善隣の交誼に鑑み今回の天災に際して之に劣らざる同情を可致と存候、就ては当商工会議所に於ては右同情会の趣旨に賛同し、汎く義捐金を募集致すことに相成候間、何卒左記御含みの上奮て御賛同被成下度、此段
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御依頼旁々得貴意候 敬具
  昭和六年八月二十七日 東京商工会議所
               会頭 男爵 郷誠之助
    (宛名手書)
    渋沢同族株式会社
           御中
      記
一、義捐金は当商工会議所に於て取纏めの上中華民国水災同情会に提供す
一、払込場所 東京市麹町区丸ノ内三ノ一四
         東京商工会議所(振替口座東京一六七九一)
一、義捐金は金壱円以上とす
一、義捐金の申込期日は九月二十五日とす
      以上

(印刷物)
             (別筆)
             昭和六、九、二、
             子爵名義ニテ金参千円
             阪谷・武之助・正雄・秀雄・明石・穂積
             右名義ニテ金六百円申込済
拝啓、愈御清栄奉賀候、陳者今回中華民国に於ける水害は、湖北・湖南・江西・安徽・江蘇の五省に亘り其の浸水面積略我日本本土に比すべく、罹災者の数実に一千万人の多きに達し居る趣報道致され居候、此の事実は隣邦に於ける今回の天災が如何に範囲広大にして且つ酸鼻を極め居るかを示すものに有之、隣接の友邦として洵に座視するに忍びざる所に御座候、申す迄もなく中華民国は我が国と同文同種の国、政治経済上の関係に至りては最も密接にして、相倚り相援け相互に提携して其の共存共栄を図ること最も緊要なるもの有之候、況んや過般の関東大震火災に際しては日貨排斥の声熾烈なる折柄にも拘はらず、其の運動を中止すると共に防穀令を廃止し且約二百六十万円に達する金円及物資の義捐を寄せられ候ことは、吾人の記憶に今尚新なる所に有之、斯の如き隣邦国民の難苦を救援するは人道の大義にして、且又善隣の責務たりと信じ候、今般東西実業団体聯合して中華民国水災同情会を発起し、該会は既に組織成り政府及有力なる民間実業団体及新聞通信社団の援助を得て、目下義捐金の募集に尽力せられ居り候、何れ同会よりも直接依願可有之とは存じ候へ共会員各位に於かれては、右同情会の趣旨に御賛同を賜ひ出来得る限り多額の御応募あられん事を偏に奉冀上候、右得貴意度候 草々敬具
  昭和六年八月廿九日        日華実業協会
                   日本経済聯盟会
                   日本工業倶楽部
    会員各位
 追て同情会の趣意書・申込書其の他同封致し置候間御一覧賜り度、尚義捐金は直接同会へ御申込有之か、又は当方団体に於て御取次申
 - 第40巻 p.76 -ページ画像 
上候ても宜しく候


東京朝日新聞 第一六二七九号 昭和六年八月二五日 「中国水災同情会」生れ友邦への義金を募る 首相官邸官民の集ひ(DK400013k-0003)
第40巻 p.76 ページ画像

東京朝日新聞 第一六二七九号 昭和六年八月二五日
  「中国水災同情会」生れ
    友邦への義金を募る
      首相官邸官民の集ひ
今回の中華民国揚子江沿岸の大水害に対し、かねて聖上陛下には金十万円の御見舞金を御贈与遊ばされたが、政府もいよいよ起つて友邦罹災民の救援に尽すことになり、若槻首相は二十四日午後三時から永田町官邸に財界有力団体、新聞、通信社等の代表者三十余名の参集をこひ、懇談を遂げ根本方針を決定した
〔政府側〕は若槻首相・幣原外相・井上蔵相・安達内相・町田農相・小泉逓相・原拓相・桜内商相の閣僚
〔民間側〕日本工業クラブ・日華実業協会・日本商工会議所・大日本紡績聯合会・在華日本紡績聯合会・日華経済協会・同仁会・日本赤十字社・東亜同文会・日華学会・愛国婦人会・東京大阪各新聞通信社、其他の各代表者出席
冒頭若槻首相からあいさつあり、幣原外相は民国水害の実情を詳細説明した後、児玉正金銀行頭取を議長に推し協議に入つた結果、救援会の名称を「中華民国水災同情会」とし、発起人団体として日本工業クラブ・日華実業協会・日本商工会議所・大日本紡績聯合会・在華日本紡績聯合会・日華経済協会・同仁会・日本赤十字社・東亜同文会・日華学会・愛国婦人会・各新聞通信社等をあげ、会長には渋沢子、委員長郷誠之助男、副委員長児玉正金頭取、同大日本紡績聯合会長阿部房次郎の両氏を推し、事務所を日本商工会議所に置く事に決定、委員並に幹事は廿五日に決定発表する事になり、同五時懇談会を終つた、尚同会成立の上は御贈与金は同会の手を経て友邦罹災民に贈らるゝ模様である
    趣意書
発起人団体(各新聞社を除く)代表者によつて決定された趣意書は左の如くである
○下略


竜門雑誌 第五一七号・第八四頁 昭和六年一〇月 青淵先生動静大要(DK400013k-0004)
第40巻 p.76 ページ画像

竜門雑誌 第五一七号・第八四頁 昭和六年一〇月
    青淵先生動静大要
      九月中
六日 中華民国水災同情会長として午後六時三十分よりラヂオにより「中華民国の水害に就て」と題せらるゝ講演を曖依村荘より全国に放送せらる。


中外商業新報 第一六三七七号 昭和六年九月六日 渋沢老子爵全国民に呼びかく 初めてマイクロホンに向つて 明日隣邦水災に就て(DK400013k-0005)
第40巻 p.76-77 ページ画像

中外商業新報 第一六三七七号 昭和六年九月六日
  渋沢老子爵全国民に呼びかく
    初めてマイクロホンに向つて
      明日隣邦水災に就て
 - 第40巻 p.77 -ページ画像 
中華民国水災同情会副委員長児玉謙次氏は、五日午前中同会長渋沢子爵を市外滝野川の本邸に訪ひ、同会発動以来の諸般の事項につき、つぶさに報告し今後の方針についても種々懇談の結果、同子爵は隣邦の水災につきなほ一層国民の同情を大にするため、ラヂオによつて全国民に呼びかけることゝなつた、これについてはすでに中央放送局との交渉も了へ「中華民国水害について」と題して六日午後六時全国に中継放送のはずで、同子爵は九十三才《(二)》の老体であり、それに昨今多少健康を損じてゐるので放送設備は同子爵邸に据付けを終つた、ちなみに渋沢子爵がマイクロホーンに向ふのはこれがはじめてゞある
   ○記事中、栄一初放送ハ誤リ。


中外商業新報 第一六三七八号 昭和六年九月七日 マイクを前の渋沢老子爵 九十二翁とは見えない力強さ 諄々として隣邦の水災救済を説く 渋沢さんの初放送(DK400013k-0006)
第40巻 p.77-78 ページ画像

中外商業新報 第一六三七八号 昭和六年九月七日
  マイクを前の渋沢老子爵
    九十二翁とは見えない力強さ
      諄々として隣邦の水災救済を説く
        渋沢さんの初放送
中華民国の水災救援のために出来た水災同情会長たる子爵渋沢栄一氏は、六日午後六時半から病躯を押して、九十二才の高齢をもつてマイクロフオンの前に立ち、隣邦災害の救援のために感銘深い一場の講演を行つた、其日AKでは老子爵の義心に感じて特に早朝から技術者を派して、マイクロフオンを子爵私邸の応接室に移動するといふ放送局始めて以来の
 特例 を作つた、久し振りで病室を出た老子爵は風呂に入りサッパリとした気分で応接間に現れ、マイク前の安楽椅子につくり定刻六時卅分スイッチを入れ松田アナウンサーの
 「子爵渋沢栄一氏を御紹介いたします」
と緊張した紹介が終るとすぐ
 「只今御紹介を受けました渋沢栄一であります……」
と九十二翁の日本最初の高齢者の声が力強くマイクの中に吸はれて行く、同時刻スピーカーの前に立てば病後九十二歳の老齢とはみえぬ力強い声が響いて来る、初めてとはみえぬ落ついた口調で一語一語強く自分が同情会長を引き受けるに至つた理由を説明し
 「隣邦の救援をすゝめる本人が辞退してゐる様ではよろしくないと思つて病躯をおして曲げて会長となつたことを社会から知つて貰ひたいのと、民国の人にもそれだけやつてゐるかといふことを知つて貰ひたいのです」
と述べ、支那と日本の古い友情的関係、震災の時の同国の友情を説き漢口を中心とする災害地の窮状を説明するあたり、じゆんじゆんとして孫に教へる様に
 情味 のこもつたもので、それでも流石に一句々々の終りにスーと吸ふ呼吸の音が痛々しい感を与へたが、最後に
 「友情のみならず、かゝる挙は人道上からみてなさねばならないことであります」
と一段と声を激ましての一語は聞くものに強い感銘を与へた、たつぷ
 - 第40巻 p.78 -ページ画像 
り卅分の講演を終つた翁は七時スイッチが切られると、心配して身近くかけよつた家人を省みて少しの疲労もみせず、紅茶をすゝつて愉快げに歓談を混へてゐた


中華民国の水害について 【昭和六年九月六日午後六時半ラヂオ放送 中華民国水災同情会 会長 子爵 渋沢栄一】(DK400013k-0007)
第40巻 p.78 ページ画像

中華民国の水害について         (渋沢子爵家所蔵)
         昭和六年九月六日午後六時半ラヂオ放送
             中華民国水災同情会
                 会長 子爵 渋沢栄一
中華民国に於ける今回の水災に就きましては、曩に自分の仲間の者が発起となり中華民国水災同情会を組織して、広く全国的に義捐金を募集中でありまして、已に義捐金の一部を以つて近く必要なる物資を満載して、船を一隻仕立てて罹災地に送ることゝなり、同時に慰問の使節を派遣することに夫々準備中であります。
自分は同情会の会長に推されましたが、老衰して居る上に近頃は時々発熱して病床に就いております次第で、斯かる事柄には率先して賛同することは勿論でありますが、老衰の身で会長の職責を尽くすことが出来ないのを非常に遺憾と思つて居ります。殊に今日は放送局より自宅に設備を装置して頂いて、御好意を深く感謝して居ります、今回の中華民国に於ける水災は其の範囲非常に広汎に亘り、其の内最も被害の甚しいのは揚子江沿岸の湖北・湖南・江西・安徽・江蘇の五省で、其の面積は凡そ我が日本本土の広さに等しく、罹災者の数は少くも一千万人に達して居るとの事であります。
罹災者の数は今日尚的確に判明致しませぬが、比較的取調への進み居る漢口を中心とする都市地方は、差当り救恤を要するもの五十万人で溺死者の数は三千名に上り、其の上病死者や餓死する者日々相当の数に上りつつあると云ふ事であります。誠に同情に堪えない次第であります。曩に我 皇室より多額の御内帑金を民国へ御贈与になりました事は、已に皆様御承知の通りであります。
先年の関東大震災に対して民国より多大の同情を我か国に寄せられ、当時金品にて約二百五十余万円の贈与を受けたとの事であります。当時之れ丈の同情を寄せられたからと云ふ訳ではありませんが、かゝる隣国の厄災に対して同情を表し慰問することは、人情として又人道の上からは申す迄もない事であり、況んや民国と吾が国との関係から申しても蓋し当然の事と思ひます。他より恩誼を受けて知らぬ顔をして居ると云ふ事は人道上からも許すこと出来ないのであります。自分が老衰して、加ふるに病躯を推して仲間の者とかゝる会を組織しましたはかゝる考へからであります。
   ○右ニ引用シタル栄一ノ演説ハ、中華民国水災同情会ノ作製セル原稿ニシテ実際ノ演説トハ異ル所アリ。(高田利吉談)


中外商業新報 第一六三八二号 昭和六年九月一一日 涙ぐましい水災への同情 渋沢会長の放送に感激 同情会への大口小口の寄附(DK400013k-0008)
第40巻 p.78-79 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

竜門雑誌 第五一六号・第一―七頁 昭和六年九月 中華民国の水害と日支の経済提携 青淵先生(DK400013k-0009)
第40巻 p.79-83 ページ画像

竜門雑誌 第五一六号・第一―七頁 昭和六年九月
    中華民国の水害と日支の経済提携
                      青淵先生
 支那に対しては、年古くから相当な考へを持ち、いろいろの事柄にも接して来たが、総て意の如くならず、今日に於ても尚ほ順序立たない有様である。今回の水害に対しても非常に気の毒に感じ、九十二歳の老躯而も病中であるにも拘らず、中華民国水災同情会の会長といふ名を戴いて居る関係から、去る六日の夜マイクロホンを此の応接室に据付けてもらつて、ラヂオにより全日本の国民に訴へたのである。即
 - 第40巻 p.80 -ページ画像 
ち『中華民国の水害の範囲は恰度日本の本土の広さに及び、その罹災の人口は一千万人といふ甚だしさである、故にこれを救ふことは人類としての義務であつて、大正十二年の震災に我国が多大の救助を受けたその返礼をすると云ふやうな意味でなく、人道の大義からまた隣邦に対する友誼からさうしなければならぬ、自分が老人のくせに皆さんに呼びかけるのは総て右の如き意味からである』と云ふ要旨を三十分ばかり話したのである。これに依つて我が国民が一人でも多く、民国のこの天災に同情を寄せるならば、その放送の目的は達せられる訳である。
 偖て私は特に深い学問をしたのではないが、少年の頃から学んだことは悉く支那伝来の学問であつて、尭舜の教へにしても、孔孟の道にしても皆さうであつた。日本は支那に何くれとなく学んだのであつて単に道義上のみならず、知識に於ても、その昔から支那は日本の先進国であつた。されば為政者の地位にある人も国民も共々に、従来その好しと考へられる点は取入れて、聊かも恥とするに及ばなかつた、のみならず出来るだけこれに学ぶと云ふ風であつたのである。然るに明治以後に於ける我国各方面の発展は漸く支那を師とするに及ばぬやうになり、寧ろ競争的な状態に置かれるに到つたから、私なども両国間のことを心配して居た処、遂に明治二十七年日支間に戦端を開くが如き不祥事を出現する結果となつた。誠に孔孟の教を奉ずる両国が相争ふに及んだことには、いろいろな事情もあつたのであるが、一方が間違つて進めば、どうしても終極の手段として力を持つて争はなければならなくなる。故に孔夫子の教を奉ずる私としては二十七・八年戦争で日本が大勝利を得ることが、広く人類の徳義上から、また日本人の精神上の将来のためによいかどうか、疑問であるとして居た程である従つて例の戦争直後に起つた三国干渉の如きは、勿論日本としては恥辱であるけれども、大国たる清国を相手として戦争に勝つた血気旺んな時代としては、よく忍耐する観念とならしめられた一の教訓であつた位にさへ考へたのである。その後両国の間の親善に就ては常に心掛け、屡々意見の交換を行ひ、相ともに理解する工風をつけたいものであると思つて居た。そしてどうしても両国の経済関係を一部の人々の働きにまかせて置くと、相競ふことになり、結局に於て相争ふやうなことにならぬとも図られないから、何処までも人道上から相互ひに相当の考慮を常に払つて、衝突までに到らないでするやうにしなければならぬと考へて居た。
 私が直接支那に関係したのは、明治政府を辞し第一国立銀行の経営に当つてからで、折もあれば支那との経済的関係を密接に結びたいとその時期の到るのを待つて居た。すると明治十二年、西南戦争の後であつたと思ふ。時の大蔵卿大隈さんからの話で、支那へ金を貸しに渡航したことがある。大隈さんも予て日支の関係が親善になるやうにと心配されて居たから、陝西・甘粛の地方が饑饉であつたので、支那の有力者左宗棠と契約し、その危急を救ふため、第一銀行から金を二百五十万両貸す、又物資を三井物産から売ることにした。そのもとの起りと云ふのは常々支那に往来して居た陸軍大佐福原和勝と云ふ人があ
 - 第40巻 p.81 -ページ画像 
り、どう云ふ縁故からであつたか、この事件の仲介者となり、政府を動かしたらしいので、此処に第一銀行が金の貸主となり、その筋の援助を得て物資を輸送するため三井物産の益田孝さん、それから福原大佐、及び銀行局も関係があると云ふので、局長の岩崎小二郎さん、それに私の一行で上海へ渡航した。今日でこそ二百五十万両と云へば大した金額ではないやうに思はれるけれども、当時にあつては斯様な金額は滅多に動かし得ないもので、これを貸すと云ふには大きな度胸を要することであつた、蓋し、大隈さんの太ツ腹と、第一国立銀行の伸展が著しかつたからである、そしてこれは先づ約束により約百万円ばかりの石炭・穀類などを物産会社の手から送つたが、どうした訳であるのか、後の約束は完全に履行せられず、彼の方の都合で違約となつたから、その違反に対して、三万両か五万両かを提供せしめたことがある。
 兎に角それ以来私は平素から注意して、支那に対し今少しく親しくするやうにしたい、またそれを継続的たらしめたいと考へて居た、処が恰度桂内閣の時支那の産業を開発せしめると云ふ目的で東亜興業株式会社が成立したので、私も応分の出資をする外、事務的の方にも引続いて関係したのである。併しその後平常の事業が意の如くならなかつた。また支那が民国になつた時、中日実業株式会社が日支の合弁によつて設立された。恰も此の会社の設立される前、民国になつてから間もなくであつた、彼の革命の大立物孫逸仙氏が来られた、その時私は此人ならば意志を大いに通じて、日支両国の経済提携を進めることが出来るであらうと考へ、会見の上胸襟を開いて経済上の聯絡をつけやうと、『貴方は袁世凱と共に民国の首脳の地位に立つて居らるゝのであるから、両者が政治上で相争へばその統一は忽ち破れるだらう、だから政治のことは袁にまかせて置いて、貴方は鉄道の総督でもあるから、経済の方面を分担することにして、之に力を尽された方がよいであらう、実際袁と政治上で勢力争ひをすることは所謂両雄並び立たず、と云ふ結果になり、昔の三国時代の如く、結局支那一国の統制がとれないで二つにも三つにも分れるやうなことになるだらう。是非これを避けねばならないから、経済上に勢力のあるのを幸として、その発展開拓のため日本と手を握り合つて行かうではないか、私も出来るだけは尽力するであらう、申すまでもないが日支の経済提携は支那から原料を提供し、日本は資本を投じ、道理正しくして、これを私しやうとしないで経営して行くならば、天然の宝が人の世を益することは少くあるまい。幸に日本には人手もある、貴国には原料物資が豊富であると云ふ長所を持ち合つて居るのだから好都合である』などゝ叮寧に談じたので、三民主義を称へて居た孫文氏も『大いによいと考へるたゞ鉄道の総督も申合せでやつて居るので、政治的に特に袁と仕事を分担して居る訳ではない、と云つて表面相争つて居るのでは勿論ない御忠告は至極御尤もと思はれるから、経済的の方面に力を入れませう従つて是非何かにつけて御教を受けたい』と答へたから、これでこそ愈々日支の経済提携が物になると思つたのである。処が孫と袁とは前前から余り仲のよい方でなかつたのに、孫が日本へ来て私達と斯うし
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た談合をして居る間に、北京にあつて孫派の有力な政治家宋教仁を暗殺した、そのことが孫文氏が帰国の途、長崎で判明したさうで、孫から私宛に『経済提携に力を尽すと云ふことを御約束したが、袁のやり方が余りであるから、共に政府を維持して行くことは出来ない、勢ひ遺憾ながら御約束のやうにする訳に行かないことになつた』旨の手紙が来た、この手紙が今も残つて居ると実に好記念物であるが、大正十二年の震災の時焼けてしまつたのは惜しい、真実孫は私の念を入れた説に心服して居たのに、袁のやり方が甚だよくなかつたため、遂に両者相争ふことになり、結局孫は中央政府から追はれるやうになつたのである。その時の通訳は現に国民政府で重要な地位に在る戴天仇氏であつた。斯様にして此の提携説は成立しなかつたが、其後同じ目的で袁との間に成り立つたのが、即ち中日実業株式会社である。
 然し此の中日実業会社も東亜興業会社とさして変りなく、思ふやうな効果も挙げられない、思ふに俄か設けの事業とて、日本も本当に力の入れ方が足らず、此の様な結果になつて来たのであらう。実際日支の間は経済的に接触して行く資格が双方に充分あるに拘らず、その提携が成らぬと云ふのは、実に遺憾極まる次第で、こうして考へて居ると、老人の自分にもやれさうにさへ思はれる。そして何時でも此の私の意念を人に談ずると、誰でも『御尤も』と、その場に応じた挨拶をするのみで、両国民共に適当な機会に働きかけることをしない。またたまたま此事を論ずる人は、多く政治上から相手を誹謗するのが落であるが如き、実に残念千万で、長い間の支那に対する私の思ひ入れを話すと、結局愚痴をこぼすことになるのである。
 然らば将来はどう成るであらうか。過去の有様では日支間の接触は失敗に終つた。しかし今後どうしても親善を進め経済提携を為すことが出来ないと云へないのであつて、中には個人的に相寄る性質の者も少くない。思ふに斯様な結果になつて居るのは、人と人との関係が円満に行かぬのが原因で、お互ひに疑ひがあるからであり、また第三者で水をさすものがあつたりするのもそれを妨げる一因であらう。其処で私としては、日本の資本と知識とを支那に輸出し、その資源を開発する制度をしつくり固め、確実なものに成立たせたいと思ふのであるが、果してそのことは不可能であらうか、或は可能なものであるのを成さしめ得ないのではあるまいか。
 私の支那の人達に会見した印象を忌憚なく述べると、他人のみ悪しざまに云ふやうに聞へるか知らぬが、一般にしつくり落ちついて居ないやうで、来る人も来る人も、自己の働きのみ主張する傾があり、此方と同じ思案で順序を追ふて話を進めてくれる人が頗る稀なやうである。併し一面から云へば此方も悪い、彼の中日実業会社の如きも、一時は相当に事業が進んで居たやうであるから、私などが身を打ち込んでやつて見たならば、も少しどうにか成つて居たのではあるまいかと思ふ。其後上海の虞洽卿氏などは『一千万円位の会社によつて、支那の経済的開発をやりたい、是非渋沢さんの事業として、これを進められたい、そして広くあれもこれもと云ふ風に手を出さず、或る一つの鉱業なら鉱業を開発したいものである』と云ひ、先般も『自分は民国
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の政府を慫慂するから、日本でも政府を動かすやうにして欲しい』と云つて来て居るが、何かの機会がなくては、急には成立ちさうにもない。従つて私はさうした会社を組織するにしても、しつかりした相手を見つけ、資本を集めたら鉱業なり、鉄道なり、基礎だつた事業によつて、相互の安心出来るやうな地歩の上に聯絡をつける必要があると思ふ。
 要するに両国民同志の利害が相等しくならねば、真の経済提携は困難であらう。但し申し方は頗る古いが、同文同人種の国柄として、日支の利害は同一である筈であるのに、左様に思慮しない処に誤つた考へがあると思はれる、故に今回の水害の如きには何処までも同情して救援に赴かねばならぬのである。                 (九月九日談話)


中華民国水災の概況 中華民国水災同情会編 第一―八頁 昭和六年八月刊(DK400013k-0010)
第40巻 p.83-91 ページ画像

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故子爵渋沢栄一翁追悼講演録 協調会編 第一七頁 昭和七年四月刊 【渋沢翁と社会事業 清浦奎吾】(DK400013k-0011)
第40巻 p.91 ページ画像

故子爵渋沢栄一翁追悼講演録 協調会編 第一七頁 昭和七年四月刊
    渋沢翁と社会事業
                      清浦奎吾
○上略
 先頃支那漢口方面に於ける、洪水氾濫の為め、民衆飢寒の苦境に彷徨しつゝある惨状の伝はるや、翁は既に衰弱して静養し居らるゝに拘はらず、人道上黙視すべからずとし、且善隣の交誼を重んぜられ、自ら起ちて救恤の趣意書を宣伝せられ、或は宣伝放送の労を取られたるは、諸君の耳に猶ほ新なる所、これ蓋し最後の公けにせられたる声ならむ。其の仁慈惻隠の情は死に至る迄少しも渝はらざりし、これ翁の天性の然らしむる所、敬服の外はありませぬ。○下略



〔参考〕斯文 第一三編第一〇号・第四―一四頁 昭和六年一〇月 善鄰の友誼 渋沢子爵のラヂオ放送 塩谷温(DK400013k-0012)
第40巻 p.91-96 ページ画像

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