デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
6節 国際災害援助
8款 中華民国水災同情会
■綱文

第40巻 p.72-96(DK400013k) ページ画像

昭和6年8月24日(1931年)

是年七・八両月ニ亘リ中華民国ニ洪水アリ、惨害甚シク饑民一千万人ト称セラル。栄一等相謀リ、是日、当会ヲ設立シ、栄一会長トナル。次イデ九月六日、栄一飛鳥山邸ノ病床ヨリラジオヲ通ジテ義捐金募集ノ演説ヲ放送ス。


■資料

青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第二五頁 昭和六年一二月刊(DK400013k-0001)
第40巻 p.72 ページ画像

青淵先生職任年表 (未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編
                竜門雑誌第五一九号別刷・第二五頁 昭和六年一二月刊
    昭和年代
 年 月
 六 一〇 ―中華民国水災同情会々長―昭六・一一。
   ○右ニ就任ヲ十月トセルハ何ニ依レルカ未詳。


中華民国水災同情会書類(DK400013k-0002)
第40巻 p.72-76 ページ画像

中華民国水災同情会書類         (渋沢子爵家所蔵)
                  (ゴム印)
                  昭和六年九月五日
               中華民国水災同情会
(別筆)
昭和六年  本会設立以来ノ経過概要
八月二十四日 政府側ト民間各団体代表者ハ首相官邸ニ参集シ、中華民国水害見舞ニ関シ、協議ノ結果「中華民国水災同情会」ヲ設立シ、事務所ヲ日本商工会議所内ニ置クコトトシタリ
八月二十五日 本会組織義捐金募集方法其他決定ノ為メ、東京商工会議所ニ於テ協議会ヲ開催シ、正副委員長・委員・幹事等ヲ決定シタリ
       天皇陛下御下賜金十万円拝受、直チニ重光上海領事宛電送、水災救済委員会宋委員長ニ贈与方依頼セリ
八月二十六日 第一回幹事会ヲ開催シ、義捐募集ニ関スル実行方法ヲ協議シタリ
八月二十七日 第一回委員会ヲ開催シ義捐金額其他ニ関シ協議シタリ都下有力実業家ノ参集ヲ乞ヒ、義捐寄附方ニ関シ懇談ヲ重ネタリ
       東京・大阪両市ニ於ケル十六新聞社朝刊ニ義金募集ノ広告ヲ掲載セリ
八月二十八日 本会ノ活動状況見学ノ為メ、中華留日基督教青年会総幹事馬伯援氏来訪セラル
八月二十九日 中華民国臨時代理公使江洪杰氏来訪セラレ、国民政府ヲ代表シテ今回ノ義金募集ニ関シ、深甚ノ謝意ヲ表セラル
 - 第40巻 p.73 -ページ画像 
八月三十一日 第一回常任委員会ヲ開催シ、義捐金処分方法ニ関シ協議シタリ
       東京、大阪両市ニ於ケル十四新聞社朝刊ニ第一回寄附者氏名ヲ公告セリ
○下略

(印刷物)
    中華民国水災義捐金募集趣意書
今夏中華民国ニ於ケル洪水ノ惨害ハ、現在迄ニ判明セル報道ニ拠レバ浸水面積略我ガ日本本土ノ広サニ亘リ、飢餓ニ瀕セル災民ハ一千万人ニ上ルト伝ヘラレ、実ニ過去一世紀ノ記録ニ見ザル所ニシテ、被害地ノ実況ハ悲惨ノ光景酸鼻ヲ極ムルモノアリ
惟フニ隣邦国民ハ頻年兵乱ノ余殃ニ悩サレ、今又此ノ天災ニ遇フ
吾人ハ人道ノ本義ニ考ヘ、善隣ノ交誼ニ鑑ミ、之ヲ黙視スルニ忍ビズ玆ニ汎ク天下ノ仁人ニ訴ヘ、普ク義捐ヲ募ラントス、冀クバ奮テ賛同セラレンコトヲ
 一、義捐金ハ金壱円以上トス
 一、義捐金ノ締切ハ九月廿五日
 一、義捐金ハ会ニ於テ適当ノ方法ニ依リ処分スル事
        東京市麹町区丸ノ内三丁目十四番地
 一、払込場所   日本商工会議所(振替口座東京七三七七〇番)
        大阪市北区堂島浜通二丁目十二番地
        大阪商工会議所(振替口座大阪 八六六〇番)
  昭和六年八月二十五日
              中華民国水災同情会
                会長  子爵 渋沢栄一
                委員長 男爵 郷誠之助

(印刷物)
                   (ゴム印)
                   昭和六年九月五日
拝啓、愈々御清栄之段奉賀候、陳者中華民国に於ける水害は其の惨状酸鼻を極め、善隣の誼として之を黙視するに不忍の情有之、旁々過般の大震火災に際しては民国より多大なる救援を受けたるの前例も有之ことに候得ば、玆に本会の設立を見、水害義捐金の募集に当ることゝ相成候、就ては御懇談を相煩度儀有之候に付き御繁用中寔に恐縮に御座候得共、本月二十七日午後三時東京商工会議所に御来臨被下度、此段御依頼申上候 敬具
  昭和六年八月二十六日
              中華民国水災同情会
                会長  子爵 渋沢栄一
                委員長 男爵 郷誠之助

(印刷物)
                   (ゴム印)
                   昭和六年九月壱日
 - 第40巻 p.74 -ページ画像 
    中華民国水災同情会委員長
      男爵郷誠之助君ノ挨拶要旨
             (昭和六年八月二十七日日本商工会議所ニ於テ開催セラレタル懇談会席上ニ於テ)
今回ノ中華民国ニ於ケル水害ハ、湖北・湖南・江西・安徽・江蘇ノ五省ニ亘リ、其ノ浸水面積ハ略我ガ日本本土位ノ広サニ及ビ、罹災者ノ数ハ実ニ一千万人ノ多キニ達シテオルト報道セラレテオリマス。此ノ事実ハ隣邦ニ於ケル今回ノ天災ガ、如何ニ其ノ範囲広大ニシテ、且ツ又、其ノ災禍ガ如何ニ酸鼻ヲ極メテオルカヲ示スモノデアリマシテ、隣接ノ友邦トシテ座視スルニ忍ビズ、洵ニ同情ノ念ヲ禁ジ得ザルトコロデアリマス、申ス迄モナク、中華民国ハ我ガ国ト同文同種ノ国デアリマシテ、政治経済上ノ関係ハ最モ密接ニシテ、相依リ相援ケ、相互ニ提携シテ、其ノ共存共栄ヲ図ルコトガ最モ必要デアル関係ニ在リマス。況ハンヤ過般ノ大震火災ニ際シテハ、日貨排斥ノ声熾烈ナル折カラナルニモ拘ハラズ、之ヲ中止シ更ニ防穀令ヲ廃止シ、我ガ国ニ対スル同情翕然トシテ集リ、立チドコロニ約二百六十万円ニ達スル義捐ヲ寄セラレマシタコトヲ想起スレバ、此ノ際、速カニ災害救済ノ途ヲ講ゼネバナラヌコトハ申ス迄モナイコトデ、殊ニ中華民国ノ国情ハ棊年内乱ニ次グニ内乱ヲ以テシ、国民ハ疲弊困憊其ノ極ニ達シテオル様ナ状態デアリマスカラ、今回ノ災難ニ依ツテ蒙ル苦痛モ一層甚シキモノガアル様ニ思ハレマス。
斯ノ如キ隣邦国民ノ難苦ヲ一刻モ速カニ救援スルコトハ、人道ノ大義ニシテ、且ツ又、善隣ノ友誼デモアルノデアリマス。
畏レ多クモ
聖上陛下ニハ、隣邦稀有ノ惨状ヲ聴シ召サレテ痛ク御軫念遊バサレ、巨額ノ御内帑金ヲ下賜アラセラレ、罹災中華民国人並ニ在留邦人ヲ御救恤アラセラレタルコトハ、広大無辺ナル御聖旨ノ程モ拝セラレ、転タ恐懼ニ堪ヘナイトコロデアリマス。隣邦救援ノ為メニ起タネバナラヌコトヲ痛感致シマシタ民間ノ有力ナル諸団体ハ、玆ニ協力一致シテ水災救賑ノ為メニ中華民国水災同情会ヲ設置シ、広ク水災義捐金ノ募集ニ当ルコトヽナツタ次第デアリマス。幸ヒ、各位ニ於テハ本会ノ趣旨ニ賛同致サレ、出来得ル限リノ応募アランコトヲ切ニ希望シテ已マナイモノデアリマス。

(印刷物)
拝啓、残暑之候愈々御清栄之段奉賀候、陳者今夏中華民国に於ける大水災害は其の浸水面積略我が日本本土の広さに亘り、惨害の甚大なること実に過去一世紀に見ざる所にして、悲惨の情況は洵に同情に堪へざるもの有之候、玆に於て曩に全国諸団体相集り、別紙の如き趣旨に依り中華民国水災同情会の成立を見たるは機宜を得たる処置と存候、顧るに彼の関東大震災当時、吾が友邦中華国民が多大の同情を以て約二百六十万円の巨額の義捐金を寄せられたことを想起すれば、善隣の交誼に鑑み今回の天災に際して之に劣らざる同情を可致と存候、就ては当商工会議所に於ては右同情会の趣旨に賛同し、汎く義捐金を募集致すことに相成候間、何卒左記御含みの上奮て御賛同被成下度、此段
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御依頼旁々得貴意候 敬具
  昭和六年八月二十七日 東京商工会議所
               会頭 男爵 郷誠之助
    (宛名手書)
    渋沢同族株式会社
           御中
      記
一、義捐金は当商工会議所に於て取纏めの上中華民国水災同情会に提供す
一、払込場所 東京市麹町区丸ノ内三ノ一四
         東京商工会議所(振替口座東京一六七九一)
一、義捐金は金壱円以上とす
一、義捐金の申込期日は九月二十五日とす
      以上

(印刷物)
             (別筆)
             昭和六、九、二、
             子爵名義ニテ金参千円
             阪谷・武之助・正雄・秀雄・明石・穂積
             右名義ニテ金六百円申込済
拝啓、愈御清栄奉賀候、陳者今回中華民国に於ける水害は、湖北・湖南・江西・安徽・江蘇の五省に亘り其の浸水面積略我日本本土に比すべく、罹災者の数実に一千万人の多きに達し居る趣報道致され居候、此の事実は隣邦に於ける今回の天災が如何に範囲広大にして且つ酸鼻を極め居るかを示すものに有之、隣接の友邦として洵に座視するに忍びざる所に御座候、申す迄もなく中華民国は我が国と同文同種の国、政治経済上の関係に至りては最も密接にして、相倚り相援け相互に提携して其の共存共栄を図ること最も緊要なるもの有之候、況んや過般の関東大震火災に際しては日貨排斥の声熾烈なる折柄にも拘はらず、其の運動を中止すると共に防穀令を廃止し且約二百六十万円に達する金円及物資の義捐を寄せられ候ことは、吾人の記憶に今尚新なる所に有之、斯の如き隣邦国民の難苦を救援するは人道の大義にして、且又善隣の責務たりと信じ候、今般東西実業団体聯合して中華民国水災同情会を発起し、該会は既に組織成り政府及有力なる民間実業団体及新聞通信社団の援助を得て、目下義捐金の募集に尽力せられ居り候、何れ同会よりも直接依願可有之とは存じ候へ共会員各位に於かれては、右同情会の趣旨に御賛同を賜ひ出来得る限り多額の御応募あられん事を偏に奉冀上候、右得貴意度候 草々敬具
  昭和六年八月廿九日        日華実業協会
                   日本経済聯盟会
                   日本工業倶楽部
    会員各位
 追て同情会の趣意書・申込書其の他同封致し置候間御一覧賜り度、尚義捐金は直接同会へ御申込有之か、又は当方団体に於て御取次申
 - 第40巻 p.76 -ページ画像 
上候ても宜しく候


東京朝日新聞 第一六二七九号 昭和六年八月二五日 「中国水災同情会」生れ友邦への義金を募る 首相官邸官民の集ひ(DK400013k-0003)
第40巻 p.76 ページ画像

東京朝日新聞 第一六二七九号 昭和六年八月二五日
  「中国水災同情会」生れ
    友邦への義金を募る
      首相官邸官民の集ひ
今回の中華民国揚子江沿岸の大水害に対し、かねて聖上陛下には金十万円の御見舞金を御贈与遊ばされたが、政府もいよいよ起つて友邦罹災民の救援に尽すことになり、若槻首相は二十四日午後三時から永田町官邸に財界有力団体、新聞、通信社等の代表者三十余名の参集をこひ、懇談を遂げ根本方針を決定した
〔政府側〕は若槻首相・幣原外相・井上蔵相・安達内相・町田農相・小泉逓相・原拓相・桜内商相の閣僚
〔民間側〕日本工業クラブ・日華実業協会・日本商工会議所・大日本紡績聯合会・在華日本紡績聯合会・日華経済協会・同仁会・日本赤十字社・東亜同文会・日華学会・愛国婦人会・東京大阪各新聞通信社、其他の各代表者出席
冒頭若槻首相からあいさつあり、幣原外相は民国水害の実情を詳細説明した後、児玉正金銀行頭取を議長に推し協議に入つた結果、救援会の名称を「中華民国水災同情会」とし、発起人団体として日本工業クラブ・日華実業協会・日本商工会議所・大日本紡績聯合会・在華日本紡績聯合会・日華経済協会・同仁会・日本赤十字社・東亜同文会・日華学会・愛国婦人会・各新聞通信社等をあげ、会長には渋沢子、委員長郷誠之助男、副委員長児玉正金頭取、同大日本紡績聯合会長阿部房次郎の両氏を推し、事務所を日本商工会議所に置く事に決定、委員並に幹事は廿五日に決定発表する事になり、同五時懇談会を終つた、尚同会成立の上は御贈与金は同会の手を経て友邦罹災民に贈らるゝ模様である
    趣意書
発起人団体(各新聞社を除く)代表者によつて決定された趣意書は左の如くである
○下略


竜門雑誌 第五一七号・第八四頁 昭和六年一〇月 青淵先生動静大要(DK400013k-0004)
第40巻 p.76 ページ画像

竜門雑誌 第五一七号・第八四頁 昭和六年一〇月
    青淵先生動静大要
      九月中
六日 中華民国水災同情会長として午後六時三十分よりラヂオにより「中華民国の水害に就て」と題せらるゝ講演を曖依村荘より全国に放送せらる。


中外商業新報 第一六三七七号 昭和六年九月六日 渋沢老子爵全国民に呼びかく 初めてマイクロホンに向つて 明日隣邦水災に就て(DK400013k-0005)
第40巻 p.76-77 ページ画像

中外商業新報 第一六三七七号 昭和六年九月六日
  渋沢老子爵全国民に呼びかく
    初めてマイクロホンに向つて
      明日隣邦水災に就て
 - 第40巻 p.77 -ページ画像 
中華民国水災同情会副委員長児玉謙次氏は、五日午前中同会長渋沢子爵を市外滝野川の本邸に訪ひ、同会発動以来の諸般の事項につき、つぶさに報告し今後の方針についても種々懇談の結果、同子爵は隣邦の水災につきなほ一層国民の同情を大にするため、ラヂオによつて全国民に呼びかけることゝなつた、これについてはすでに中央放送局との交渉も了へ「中華民国水害について」と題して六日午後六時全国に中継放送のはずで、同子爵は九十三才《(二)》の老体であり、それに昨今多少健康を損じてゐるので放送設備は同子爵邸に据付けを終つた、ちなみに渋沢子爵がマイクロホーンに向ふのはこれがはじめてゞある
   ○記事中、栄一初放送ハ誤リ。


中外商業新報 第一六三七八号 昭和六年九月七日 マイクを前の渋沢老子爵 九十二翁とは見えない力強さ 諄々として隣邦の水災救済を説く 渋沢さんの初放送(DK400013k-0006)
第40巻 p.77-78 ページ画像

中外商業新報 第一六三七八号 昭和六年九月七日
  マイクを前の渋沢老子爵
    九十二翁とは見えない力強さ
      諄々として隣邦の水災救済を説く
        渋沢さんの初放送
中華民国の水災救援のために出来た水災同情会長たる子爵渋沢栄一氏は、六日午後六時半から病躯を押して、九十二才の高齢をもつてマイクロフオンの前に立ち、隣邦災害の救援のために感銘深い一場の講演を行つた、其日AKでは老子爵の義心に感じて特に早朝から技術者を派して、マイクロフオンを子爵私邸の応接室に移動するといふ放送局始めて以来の
 特例 を作つた、久し振りで病室を出た老子爵は風呂に入りサッパリとした気分で応接間に現れ、マイク前の安楽椅子につくり定刻六時卅分スイッチを入れ松田アナウンサーの
 「子爵渋沢栄一氏を御紹介いたします」
と緊張した紹介が終るとすぐ
 「只今御紹介を受けました渋沢栄一であります……」
と九十二翁の日本最初の高齢者の声が力強くマイクの中に吸はれて行く、同時刻スピーカーの前に立てば病後九十二歳の老齢とはみえぬ力強い声が響いて来る、初めてとはみえぬ落ついた口調で一語一語強く自分が同情会長を引き受けるに至つた理由を説明し
 「隣邦の救援をすゝめる本人が辞退してゐる様ではよろしくないと思つて病躯をおして曲げて会長となつたことを社会から知つて貰ひたいのと、民国の人にもそれだけやつてゐるかといふことを知つて貰ひたいのです」
と述べ、支那と日本の古い友情的関係、震災の時の同国の友情を説き漢口を中心とする災害地の窮状を説明するあたり、じゆんじゆんとして孫に教へる様に
 情味 のこもつたもので、それでも流石に一句々々の終りにスーと吸ふ呼吸の音が痛々しい感を与へたが、最後に
 「友情のみならず、かゝる挙は人道上からみてなさねばならないことであります」
と一段と声を激ましての一語は聞くものに強い感銘を与へた、たつぷ
 - 第40巻 p.78 -ページ画像 
り卅分の講演を終つた翁は七時スイッチが切られると、心配して身近くかけよつた家人を省みて少しの疲労もみせず、紅茶をすゝつて愉快げに歓談を混へてゐた


中華民国の水害について 【昭和六年九月六日午後六時半ラヂオ放送 中華民国水災同情会 会長 子爵 渋沢栄一】(DK400013k-0007)
第40巻 p.78 ページ画像

中華民国の水害について         (渋沢子爵家所蔵)
         昭和六年九月六日午後六時半ラヂオ放送
             中華民国水災同情会
                 会長 子爵 渋沢栄一
中華民国に於ける今回の水災に就きましては、曩に自分の仲間の者が発起となり中華民国水災同情会を組織して、広く全国的に義捐金を募集中でありまして、已に義捐金の一部を以つて近く必要なる物資を満載して、船を一隻仕立てて罹災地に送ることゝなり、同時に慰問の使節を派遣することに夫々準備中であります。
自分は同情会の会長に推されましたが、老衰して居る上に近頃は時々発熱して病床に就いております次第で、斯かる事柄には率先して賛同することは勿論でありますが、老衰の身で会長の職責を尽くすことが出来ないのを非常に遺憾と思つて居ります。殊に今日は放送局より自宅に設備を装置して頂いて、御好意を深く感謝して居ります、今回の中華民国に於ける水災は其の範囲非常に広汎に亘り、其の内最も被害の甚しいのは揚子江沿岸の湖北・湖南・江西・安徽・江蘇の五省で、其の面積は凡そ我が日本本土の広さに等しく、罹災者の数は少くも一千万人に達して居るとの事であります。
罹災者の数は今日尚的確に判明致しませぬが、比較的取調への進み居る漢口を中心とする都市地方は、差当り救恤を要するもの五十万人で溺死者の数は三千名に上り、其の上病死者や餓死する者日々相当の数に上りつつあると云ふ事であります。誠に同情に堪えない次第であります。曩に我 皇室より多額の御内帑金を民国へ御贈与になりました事は、已に皆様御承知の通りであります。
先年の関東大震災に対して民国より多大の同情を我か国に寄せられ、当時金品にて約二百五十余万円の贈与を受けたとの事であります。当時之れ丈の同情を寄せられたからと云ふ訳ではありませんが、かゝる隣国の厄災に対して同情を表し慰問することは、人情として又人道の上からは申す迄もない事であり、況んや民国と吾が国との関係から申しても蓋し当然の事と思ひます。他より恩誼を受けて知らぬ顔をして居ると云ふ事は人道上からも許すこと出来ないのであります。自分が老衰して、加ふるに病躯を推して仲間の者とかゝる会を組織しましたはかゝる考へからであります。
   ○右ニ引用シタル栄一ノ演説ハ、中華民国水災同情会ノ作製セル原稿ニシテ実際ノ演説トハ異ル所アリ。(高田利吉談)


中外商業新報 第一六三八二号 昭和六年九月一一日 涙ぐましい水災への同情 渋沢会長の放送に感激 同情会への大口小口の寄附(DK400013k-0008)
第40巻 p.78-79 ページ画像

中外商業新報 第一六三八二号 昭和六年九月一一日
  涙ぐましい水災への同情
    渋沢会長の放送に感激
      同情会への大口小口の寄附
 - 第40巻 p.79 -ページ画像 
九日から十日にかけて中華民国水災同情会に宛て、左の義捐金申込があつた
 金一万円  日本郵船会社
       近海郵船会社
 金五千円  男爵古川虎之助
 金一千円  野田醤油茂木一家
 金一千円  清水組清水釘吉
 金五百円  田中銀之助
これ等連日大口の寄附金申込の外に、あどけない小学児童や小家庭の主婦さんたちから五十銭・一円といふ零細な義捐に涙ぐましい手紙を添へて送り届て来るが、十日朝届いた左の二通の如き同情会事務所の連中もホロリとさせられた
      ○
 妾はまことに賤しい一職人の妻でございまして、渋沢様などに申上るのは畏多いことでございますが、先夜のラヂオで支那水害の話を細かに承り一言一句胸を打ち、いつの間にか涙が出てをるのを子供に見られ「お母ちやん何故泣くの」と問はれて面喰ひましたが、あのお話を聴いてどうして泣かずにゐられませう、何処かへ仲間に入れて頂き心ばかりのことを致したいと心待ちしてゐましたが、何処からも何のお話もなく、こんな時こそ町会や青年会の方々が先に立つて御心配下さつたらと思ひました、新聞紙上で同情会といふものを知り、その会長様がかねてお徳の高い子爵様と承知致しまして失礼ながら一寸私の心持だけを申上げ、ほんのわづかばかりでお恥かしい次第でございますが、貧者の一灯としてお納め下さいませ
                      巣鴨堀の内一女
      ○
 関東大震災の時は支那を始め全世界から多大の慰問品を受けてをりながら、今度の支那水害に対するわが国民の誠意のないことはなんとしたことでせう、こんなことで日支間の真円満、全人類の平和なぞといふことは到底望まれません、私共は小さい自己本位の島国根性を捨てゝしまつて、神の御計画にある全人類宇宙の救ひへ眼を向けて進まねばなりません、これは甚だ些少ではありますが、私の微志を隣国の気の毒な人方に捧げればそれでいゝのです。
                  宇都宮在の一農青年より


竜門雑誌 第五一六号・第一―七頁 昭和六年九月 中華民国の水害と日支の経済提携 青淵先生(DK400013k-0009)
第40巻 p.79-83 ページ画像

竜門雑誌 第五一六号・第一―七頁 昭和六年九月
    中華民国の水害と日支の経済提携
                      青淵先生
 支那に対しては、年古くから相当な考へを持ち、いろいろの事柄にも接して来たが、総て意の如くならず、今日に於ても尚ほ順序立たない有様である。今回の水害に対しても非常に気の毒に感じ、九十二歳の老躯而も病中であるにも拘らず、中華民国水災同情会の会長といふ名を戴いて居る関係から、去る六日の夜マイクロホンを此の応接室に据付けてもらつて、ラヂオにより全日本の国民に訴へたのである。即
 - 第40巻 p.80 -ページ画像 
ち『中華民国の水害の範囲は恰度日本の本土の広さに及び、その罹災の人口は一千万人といふ甚だしさである、故にこれを救ふことは人類としての義務であつて、大正十二年の震災に我国が多大の救助を受けたその返礼をすると云ふやうな意味でなく、人道の大義からまた隣邦に対する友誼からさうしなければならぬ、自分が老人のくせに皆さんに呼びかけるのは総て右の如き意味からである』と云ふ要旨を三十分ばかり話したのである。これに依つて我が国民が一人でも多く、民国のこの天災に同情を寄せるならば、その放送の目的は達せられる訳である。
 偖て私は特に深い学問をしたのではないが、少年の頃から学んだことは悉く支那伝来の学問であつて、尭舜の教へにしても、孔孟の道にしても皆さうであつた。日本は支那に何くれとなく学んだのであつて単に道義上のみならず、知識に於ても、その昔から支那は日本の先進国であつた。されば為政者の地位にある人も国民も共々に、従来その好しと考へられる点は取入れて、聊かも恥とするに及ばなかつた、のみならず出来るだけこれに学ぶと云ふ風であつたのである。然るに明治以後に於ける我国各方面の発展は漸く支那を師とするに及ばぬやうになり、寧ろ競争的な状態に置かれるに到つたから、私なども両国間のことを心配して居た処、遂に明治二十七年日支間に戦端を開くが如き不祥事を出現する結果となつた。誠に孔孟の教を奉ずる両国が相争ふに及んだことには、いろいろな事情もあつたのであるが、一方が間違つて進めば、どうしても終極の手段として力を持つて争はなければならなくなる。故に孔夫子の教を奉ずる私としては二十七・八年戦争で日本が大勝利を得ることが、広く人類の徳義上から、また日本人の精神上の将来のためによいかどうか、疑問であるとして居た程である従つて例の戦争直後に起つた三国干渉の如きは、勿論日本としては恥辱であるけれども、大国たる清国を相手として戦争に勝つた血気旺んな時代としては、よく忍耐する観念とならしめられた一の教訓であつた位にさへ考へたのである。その後両国の間の親善に就ては常に心掛け、屡々意見の交換を行ひ、相ともに理解する工風をつけたいものであると思つて居た。そしてどうしても両国の経済関係を一部の人々の働きにまかせて置くと、相競ふことになり、結局に於て相争ふやうなことにならぬとも図られないから、何処までも人道上から相互ひに相当の考慮を常に払つて、衝突までに到らないでするやうにしなければならぬと考へて居た。
 私が直接支那に関係したのは、明治政府を辞し第一国立銀行の経営に当つてからで、折もあれば支那との経済的関係を密接に結びたいとその時期の到るのを待つて居た。すると明治十二年、西南戦争の後であつたと思ふ。時の大蔵卿大隈さんからの話で、支那へ金を貸しに渡航したことがある。大隈さんも予て日支の関係が親善になるやうにと心配されて居たから、陝西・甘粛の地方が饑饉であつたので、支那の有力者左宗棠と契約し、その危急を救ふため、第一銀行から金を二百五十万両貸す、又物資を三井物産から売ることにした。そのもとの起りと云ふのは常々支那に往来して居た陸軍大佐福原和勝と云ふ人があ
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り、どう云ふ縁故からであつたか、この事件の仲介者となり、政府を動かしたらしいので、此処に第一銀行が金の貸主となり、その筋の援助を得て物資を輸送するため三井物産の益田孝さん、それから福原大佐、及び銀行局も関係があると云ふので、局長の岩崎小二郎さん、それに私の一行で上海へ渡航した。今日でこそ二百五十万両と云へば大した金額ではないやうに思はれるけれども、当時にあつては斯様な金額は滅多に動かし得ないもので、これを貸すと云ふには大きな度胸を要することであつた、蓋し、大隈さんの太ツ腹と、第一国立銀行の伸展が著しかつたからである、そしてこれは先づ約束により約百万円ばかりの石炭・穀類などを物産会社の手から送つたが、どうした訳であるのか、後の約束は完全に履行せられず、彼の方の都合で違約となつたから、その違反に対して、三万両か五万両かを提供せしめたことがある。
 兎に角それ以来私は平素から注意して、支那に対し今少しく親しくするやうにしたい、またそれを継続的たらしめたいと考へて居た、処が恰度桂内閣の時支那の産業を開発せしめると云ふ目的で東亜興業株式会社が成立したので、私も応分の出資をする外、事務的の方にも引続いて関係したのである。併しその後平常の事業が意の如くならなかつた。また支那が民国になつた時、中日実業株式会社が日支の合弁によつて設立された。恰も此の会社の設立される前、民国になつてから間もなくであつた、彼の革命の大立物孫逸仙氏が来られた、その時私は此人ならば意志を大いに通じて、日支両国の経済提携を進めることが出来るであらうと考へ、会見の上胸襟を開いて経済上の聯絡をつけやうと、『貴方は袁世凱と共に民国の首脳の地位に立つて居らるゝのであるから、両者が政治上で相争へばその統一は忽ち破れるだらう、だから政治のことは袁にまかせて置いて、貴方は鉄道の総督でもあるから、経済の方面を分担することにして、之に力を尽された方がよいであらう、実際袁と政治上で勢力争ひをすることは所謂両雄並び立たず、と云ふ結果になり、昔の三国時代の如く、結局支那一国の統制がとれないで二つにも三つにも分れるやうなことになるだらう。是非これを避けねばならないから、経済上に勢力のあるのを幸として、その発展開拓のため日本と手を握り合つて行かうではないか、私も出来るだけは尽力するであらう、申すまでもないが日支の経済提携は支那から原料を提供し、日本は資本を投じ、道理正しくして、これを私しやうとしないで経営して行くならば、天然の宝が人の世を益することは少くあるまい。幸に日本には人手もある、貴国には原料物資が豊富であると云ふ長所を持ち合つて居るのだから好都合である』などゝ叮寧に談じたので、三民主義を称へて居た孫文氏も『大いによいと考へるたゞ鉄道の総督も申合せでやつて居るので、政治的に特に袁と仕事を分担して居る訳ではない、と云つて表面相争つて居るのでは勿論ない御忠告は至極御尤もと思はれるから、経済的の方面に力を入れませう従つて是非何かにつけて御教を受けたい』と答へたから、これでこそ愈々日支の経済提携が物になると思つたのである。処が孫と袁とは前前から余り仲のよい方でなかつたのに、孫が日本へ来て私達と斯うし
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た談合をして居る間に、北京にあつて孫派の有力な政治家宋教仁を暗殺した、そのことが孫文氏が帰国の途、長崎で判明したさうで、孫から私宛に『経済提携に力を尽すと云ふことを御約束したが、袁のやり方が余りであるから、共に政府を維持して行くことは出来ない、勢ひ遺憾ながら御約束のやうにする訳に行かないことになつた』旨の手紙が来た、この手紙が今も残つて居ると実に好記念物であるが、大正十二年の震災の時焼けてしまつたのは惜しい、真実孫は私の念を入れた説に心服して居たのに、袁のやり方が甚だよくなかつたため、遂に両者相争ふことになり、結局孫は中央政府から追はれるやうになつたのである。その時の通訳は現に国民政府で重要な地位に在る戴天仇氏であつた。斯様にして此の提携説は成立しなかつたが、其後同じ目的で袁との間に成り立つたのが、即ち中日実業株式会社である。
 然し此の中日実業会社も東亜興業会社とさして変りなく、思ふやうな効果も挙げられない、思ふに俄か設けの事業とて、日本も本当に力の入れ方が足らず、此の様な結果になつて来たのであらう。実際日支の間は経済的に接触して行く資格が双方に充分あるに拘らず、その提携が成らぬと云ふのは、実に遺憾極まる次第で、こうして考へて居ると、老人の自分にもやれさうにさへ思はれる。そして何時でも此の私の意念を人に談ずると、誰でも『御尤も』と、その場に応じた挨拶をするのみで、両国民共に適当な機会に働きかけることをしない。またたまたま此事を論ずる人は、多く政治上から相手を誹謗するのが落であるが如き、実に残念千万で、長い間の支那に対する私の思ひ入れを話すと、結局愚痴をこぼすことになるのである。
 然らば将来はどう成るであらうか。過去の有様では日支間の接触は失敗に終つた。しかし今後どうしても親善を進め経済提携を為すことが出来ないと云へないのであつて、中には個人的に相寄る性質の者も少くない。思ふに斯様な結果になつて居るのは、人と人との関係が円満に行かぬのが原因で、お互ひに疑ひがあるからであり、また第三者で水をさすものがあつたりするのもそれを妨げる一因であらう。其処で私としては、日本の資本と知識とを支那に輸出し、その資源を開発する制度をしつくり固め、確実なものに成立たせたいと思ふのであるが、果してそのことは不可能であらうか、或は可能なものであるのを成さしめ得ないのではあるまいか。
 私の支那の人達に会見した印象を忌憚なく述べると、他人のみ悪しざまに云ふやうに聞へるか知らぬが、一般にしつくり落ちついて居ないやうで、来る人も来る人も、自己の働きのみ主張する傾があり、此方と同じ思案で順序を追ふて話を進めてくれる人が頗る稀なやうである。併し一面から云へば此方も悪い、彼の中日実業会社の如きも、一時は相当に事業が進んで居たやうであるから、私などが身を打ち込んでやつて見たならば、も少しどうにか成つて居たのではあるまいかと思ふ。其後上海の虞洽卿氏などは『一千万円位の会社によつて、支那の経済的開発をやりたい、是非渋沢さんの事業として、これを進められたい、そして広くあれもこれもと云ふ風に手を出さず、或る一つの鉱業なら鉱業を開発したいものである』と云ひ、先般も『自分は民国
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の政府を慫慂するから、日本でも政府を動かすやうにして欲しい』と云つて来て居るが、何かの機会がなくては、急には成立ちさうにもない。従つて私はさうした会社を組織するにしても、しつかりした相手を見つけ、資本を集めたら鉱業なり、鉄道なり、基礎だつた事業によつて、相互の安心出来るやうな地歩の上に聯絡をつける必要があると思ふ。
 要するに両国民同志の利害が相等しくならねば、真の経済提携は困難であらう。但し申し方は頗る古いが、同文同人種の国柄として、日支の利害は同一である筈であるのに、左様に思慮しない処に誤つた考へがあると思はれる、故に今回の水害の如きには何処までも同情して救援に赴かねばならぬのである。                 (九月九日談話)


中華民国水災の概況 中華民国水災同情会編 第一―八頁 昭和六年八月刊(DK400013k-0010)
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中華民国水災の概況 中華民国水災同情会編 第一―八頁 昭和六年八月刊
  (表紙第二頁)


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 〔お断り〕中華民国の水災に関しては、我が朝野共其詳細なる報道を待望しつゝあるも、未だ拠るべき資料なかりし所、適々「支那時報」九月一日号に掲載すべく、同社調査部に於て国民政府機関紙中央日報其の他を綜合調査せるものあるに依り、不取敢印行に附し参考に供することゝせり 



   中華民国水災の概況
                  支那時報調査部

図表を画像で表示中華民国水災の概況

 (編輯者より)揚子江の氾濫に伴ふ長江各省の水害は、八十年来未曾有の大惨劇を惹起し、国民政府も各省当局者より情勢報告の到着する毎に深憂の度を昂めつゝあるが、一方此の報に接したる我が朝野に於ては、予て之れが救済運動を起さんとしつゝありたる所、我が 聖上に於かせられては長江各省の水害惨状を聴召され、痛く御軫念あらせられ、八月二十一日在留邦人に対し、御内帑金一万円御下賜あらせらるゝと共に、中華民国水害罹災民に対し救恤の御思召を以て、特に金十万円御贈与あらせらるゝ旨仰せ出された。其の結果我が民間に於ては、日華実業協会其他対支関係各団体中心となり、我が一般国民の同情に訴へ中華民国罹災民救済運動を起すことゝなつたが、水災被害の状態は今尚ほ正□《(欠字)》なる発表なき為判然たらざるも、本社が国民政府機関紙中央日報其他より綜合したる所に依り其概況を示せば略ぼ左の如し。 



      一、支那各省水災の概況
本年初夏以来降り続きたる豪雨の為め、揚子江沿岸諸省を始めとし、南北支那各省に亘り、河水の大氾濫を惹起したが、殊に長江沿岸の湖北・湖南・江西・安徽・江蘇の五省に於ける河水の氾濫は、八十年未
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曾有の大水災となり、浸水面積五万九千方哩、被害人口三千四百万人被害耕地面積二千四百九十万畝、被害甚だしき県数百四十九県に達しその浸水面積は略ぼ我が日本本土が水に浸たされると同様の状態にして、被害戸数約四百万戸と註せられ、耕地の被害面積は支那全国耕地総面積の約一割七分に達している。支那側専門家の観測では農作物の被害は、秋稲の植付不能、貯蔵穀類の腐敗、その他財産等直接間接の被害総額二十億元に達し、地方購買力の回復には数ケ年を要すと見られてゐる。而して右諸省中その被害の最も甚だしきは武漢三鎮にして連日来の増水は七月二十六日以来遽かに増昂し、翌二十七日夕刻には租界下手の堤防決壊し、数百戸の部落は水中に没し、僅に平漢鉄路の引込線を以て食ひ止めたるも、二十八日午後三時に至り更に防堤数ケ所に決壊を生じ、濁流は遂に日本租界をも洗ふ状態となり、八月十日頃には水災避難民は漢口に於て十三万、武昌に於て七万、漢陽方面を合算すれば三十万以上に達し、其の内溺死者の数は武漢のみにても三千名以上に達する見込みである。事態既に斯くの如き惨状にあるに拘はらず、長江各地の増水は依然として減退の見込みなく、今尚各地より家屋の倒壊、人畜の死傷、作物の被害等の報告瀕々と相次ぎ其の真相未だ正確に判明せざるも、国民政府賑務委員会職員孫亜夫氏が中央播音台にて各省水災情勢に関し、一場の報告演説を為したるものを基礎とし、之れに各地支那新聞の情報を綜合して挙示すれば左の如し。
    二、各省水災被害の程度
 這回氾濫を起したる河川は、揚子江・淮河・黄河・珠江・松花江等にして、その為めに水害を被むれるものは湖南・湖北・安徽・河南・江蘇・江西・淅江・広東・福建・四川・河北・山東・遼寧・吉林・黒竜江・熱河等十六省に達するが、其内被害最も甚大なる湖北・湖南・江西・安徽・江蘇五省に於ける被害情況は大体次の如くである。
 湖北省――▽浸水面積 二万五千方哩▽被害人口 一千五百万人▽被害耕地面積 九百万畝(一畝我が二百五十歩)▽被害甚だしき県数 四十八県▽溺死者及圧死又は餓死 一万一千人▽総損害 五億以上。
 湖南省――▽浸水面積 八千五百方哩▽被害人口 三百万人▽被害耕地面積三百九十万畝▽被害甚だしき県数 二十県。
 江西省――▽浸水面積 四千方哩▽被害人口 二百万人▽被害耕地面積 二百五十万畝▽被害甚だしき県数 十五県。
 安徽省――▽浸水面積 一万三千方哩▽被害人口 七百万人▽被害耕地面積 四百五十万畝▽被害甚だしき県数 三十二県。
 江蘇省――▽浸水面積 八千五百方哩▽被害人口 七百万人▽被害耕地面積 五百万畝▽被害甚だしき県 三十一県。
 合計――▽浸水面積 五万九千方哩▽被害人口 三千四百万人▽被害耕地面積 二千四百九十万畝▽被害甚大県数 百四十九県。
 尚各省の概況を示せば左の如し。
◇安徽省 安徽省北部各県の水災は実に惨胆たるものあるも、特に淮河中流地方は陰雨連綿として止まず、為めに河水は漸次増漲して災害日に拡大しつゝある。滁県地方は滁河・大小沙河・瓦店河・清流
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河等の諸水が各丈余の増水を来し沿河附近二百余里に於ける田廬牲畜の淹没せるもの無数。特に賓滁河各岸は河水の増漲の為め堤防漸次決潰し、十余万畝の稲田は完全に汪洋たる水中に埋没した。此れが為め該県は省政府に呈報し救済方を懇請する所があつたので、省政府は取り敢へず救賑費一千元を支出する事となつた。又全椒県は豪雨連日の為め山海嘯起り、市街の水深五・六尺にも達し、鄭家橋石沛橋・白汪塘・小湖梢・赤鎮・三〓河・陳家浅・韋家湾・古河鎮等処の家屋は浸水し、田穀は淹没、家畜器物等は何れも押流せられ災民の圧死・溺死・餓死する者塁々として見るに忍びざる惨況である。そこで同県各界に於ては特に水災臨時救済会を組織して救済金を募集しつゝある。次に亳県であるが、本県は渦河の流域に位し、県内に河流縦横し、従来富庶の地方と称せられたるも、本年夏期に入りてより霖雨連綿たりし為め、各河水は暴漲し、田地は海と化し禾穀盧舎等は悉く漂没するに至つたので、同県長は省政府に災情を電稟したるにより、政府より救済金として一千元の支出があつた。太和県は亳県の南部にあり、茨河の流域に位すれども、先月より雹災に遭ひ、農作物の損失甚大にして、已に飢饉を予想されたるが、七月に入り豪雨降続き河水暴漲し、茨河谷河の水量は六・七尺に達し、両岸附近の地方は悉く沼沢と化し、農作物は殆ど埋没せらるゝに至つた。六安県は安徽省の西部にして河南省に隣接する地方にして、近年兵匪共匪の為め多大の損害を蒙りたるが、七月初旬より淫雨に遭ひ、北門城楼以西の城垣は水勢の為め六・七丈を崩壊し、四郷の水勢頗る甚大なるものあるを以て同県各法団は中央賑務委員会に救恤を請ひ、既に賑款三千元を受領し、他面六霍賑災委員会を組織して粥廠を設立し、施粥を実行しつゝある。霍山県は六安の南に位し、此れまた赤禍区域なれども、七月初旬より暴雨及山海嘯あり街巷の浸水数尺に及び、家屋の流失するもの数百間、田地の淹没するもの無数にして、溺死者八千人以上、損害三十万以上に達し、六十年来見ざる大洪水である。尚ほ此の他に水害に見舞はれ堤防の決壊したる地方は懐寧・望江・舒城・盧江・無為・東流・和県・含山当塗・蕪湖・合肥・桐城・貴池等の諸県が算へられてゐる。
◇湖南省 湖南省の水害中、最も深刻なる地方は沆水・澧水の流域たる常徳・南県・沅江・澧州・津市・漢寿・慈利等の諸県にして、其水災原因は、今年六月頃より多量の降雨あり、七月下旬に至り河川氾濫し荊河藕池口の水は急流となりしも出口し能はず、加ふるに上流に山海嘯起り沅水、澧水の水勢は俄然増漲を来せるに依る。斯くて常徳は河水氾濫して城内に奔入し来れるを以て、上下南門始め城門は何れも閉鎖して防水に務めたるも水勢の為に破壊され、市街は悉く沼沢と化し、大小河街一帯及び大平巻・興隆街・三援橋・池畔等の各処は何れも水に淹没され、県公安局の如きは水深数尺に及び高山巷交通飯店、中国旅社、及び県立女子中学校の三ケ処を臨時弁公所に当てゝゐる。尚ほ附近の駝鼓陣・脚盆障・中興駅・助善院・大汛洲・小汛洲・新安障等は農作物の稲麦は水中に淹没され、損失は約二億元と算せられる。又澧県は八月七日頃山海嘯の為め、忽ち
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水深数丈に上り、全城殆んど水中に埋没され、禾苗・糧食・性畜・家屋等の漂没するもの無数にして、溺死者数十人に達した。沅江も亦大雨の為めに増水し、加ふるに西水増漲し山海嘯となり、洞庭湖以南一帯の地方は悉く沢国と化し、居民は何れも船を浮べて居宅となしつゝある。又凄水・澧水の会流地たる永安渡は河水氾濫の為め一面汪洋たる湖沼と化し、城北の琵琶洲及び水面より三十余尺も高き段家洲・二十四都地坪等は河水にて何れも沼沢となつた。以上の各地は均しく湖南西部たる沅水・澧水の流域地方にして、此の外湖南南部たる回隣・五都の両鎮の被害甚大なるも、就中唐家渓・陶渓竜栖渓・柳楊渓・虎嘯渓・対口渓・渣滓渓等、沿岸数十里又は数百里の地方は何れも沼沢と化し、判明せる溺死者百余名、漂流家屋其他の物件無数算なしと云はる。
◇河南省 今年夏期に入りてより雨水遽に増大し、各県の水害は近数十年来未だ曾て見ざる深刻さを極めた。即ち舞陽県は六月二十八日頃より霖雨の為め山海嘯を生じ、澧河・泥河・沙河、灰河等の堤防は何れも数十丈又は数百丈の決壊を生じ、沿河村落・田地等は皆沢国となつたが、就中、最も甚だしきは第一区・斉礼郷・段荘郷・第二区・田荘郷・橋張郷・第六区・狄郷第・第七区沙灰等にして、民家の押流倒壊されしもの数千戸、溺死・家畜は枚挙に遑あらず、農作物も殆んど全滅にて三十年未曾有の水害である。上蔡県の淫雨は数旬に亘り黄埠・孝感・新堤・陳寨・汝墳・増福・陽邱・康寧・奎王里等の各地なる為め縦横数十里の間は全く沼沢と化し、田盧・人畜の被害は甚大である。杞県は六月二十四日午後四時より大なる者卵の如く、小なるは棗の如き降雹あり、同二十九日頃より豪雨となり、平原窪地等は深さ約五尺余の水沢と化し、土堤崩壊・堤門流失等の為め交通殆んど杜絶し、人畜作物の被害は殆んど無数である。禹県は六月二十三日午後八時より暴雨降雹等あり、西北より東南地方の作物は殆んど全滅し、城南半坡店一帯は其被害最も甚大である温県南浜の黄河は七月九日頃より増水し、平地の水深数尺、南北七八里、東西約三十余里に亘り沼沢と化し、穀物は悉く埋没し蘇荘一帯の村落も大部分水中に没し、目下尚ほ水勢の減退する模様なく、全県人民は頗る恐慌を来して居る、息県は六月十七日頃降雨に、雷電風雹を伴ひ、数日に亘りたる為め、淮河氾濫し、淮県東部二百余里は全く埋没し、城内外の家屋倒壊せるもの五百余軒を下らず、同県北部の滰河・澗河等は同時に暴漲し、四隣に氾濫したる為め全県の約十分の八は埋没し、溺死者多数に上る見込みである。新野県は西北にある自河・七里河等河幅狭少なる為め、降雨の為め増水したる水量氾濫し、東に向つて漢水に奔流し、同県の護城堤及び西門外の棚門は何れも決壊され、家屋・作物等は悉く水中に埋没した。鄧部県は南部なる刀河北部にある湍河等氾濫し此れ亦沿河地方上下百余里、縦横四十余里等は沼沢となり、家屋・樹木・家畜・穀物等の損害は約千万元以上であると。西華県を流るゝ沙河は連日の降雨により増水の為め、商堤防一ケ所、北堤防二ケ所決壊し、全県の約十分の九は完全に水中に埋没され、損害約数千万と称せられる。尚ほ
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此の外四平、葉県襄城・郾城・南召・扶溝・鄢陵等の各県は何れも河水氾濫、山海嘯等にて水中に埋没したる地方尠からず、損害額は未だ判明せざるも何れも数十年来稀に見る災害と称せらる。
◇江西省 本年五月項より大雨あり、贛江の水位は突然二丈有余に増漲し、沿江の大堤・洲口等は悉く崩壊し、水害を蒙れる田畑は数百万畝に達せるが、又鄱陽湖の水は外溢して其附近の千余里地方は埋没した。最も被害の甚大なるは湘口・鄱陽・星子等の諸県である。九江は江西省の極北部にして揚子江の南岸に位し、江を渡れば北岸は湖北省の黄梅・広済・蘄春等の諸県に接する輸出入港として商業上重要なる都市なれども、六月中旬長江及び贛江、贛陽湘等の増水に伴ひ全市の十分の七・八は水中に陥没し、市中の小巷は何れも小舟を以て交通し、商場の西頭に在る者は既に入水三・四尺に及び、東頭の水は其尺寸を計る事が出来ず、旅館等には小船にて室中に入る状況であるが、其後漸次増水して五尺を超へて居る。南潯鉄道の線路浸水は六・七寸に及ぶ。されど市街の建物は多く磚噂を以て建築されてゐる為め、未だ倒壊するものが無い。交通は水の深き所は船に乗り浅き所は自動車を通してゐるが、車が水中を走る様は恰も船の航行するが如き有様である。
◇江蘇省 江蘇省北部は淮河の下流に位し、毎年氾濫しつゝありたる所であるが、去る六月頃より連日の陰雨により、水勢頓に暴漲し清江・淮城・泗陽・塩城・高郵・宝応等の諸県は堤防相継いで崩壊し沿江一帯の江寧・六合・江浦・海門・南通・江都・鎮江・江陰等の諸県も亦江水の震蕩を受け、農作物は埋没し都市の浸水数尺に達し貧民は生計困難を訴へ、飢餓に瀕しつゝある。又太湖流域は江蘇省の産米地なるが、水災の為めに埋没し収穫は平年の十分の二・三位のものであらうと見られてゐる。南京は城南城北、及び下関方面に水勢暴漲し、特に下関の中山碼頭より挹江門一帯の水深は何れも膝を没し、中央党部牌楼、黄浦路等は胸部に達し、城南秦淮河両岸の住宅は何れも浸水した。又江寧地方法院監守所内は水深二尺に達し犯人の床舗は埋没したる為め軽犯人は保釈出獄を許し、重犯者は他に移して監禁するの方法を講じ、保釈者は已に百余人に達したと云ふ。又京滬鉄路の尭化門・和平門間は紫金山の山海嘯に依り破壊し鎮江宝蓋山の隧道は崩壊して暫く列車不通となつたが、七月二十六日より開通した。尚ほ上海江南門間、鎮江南京間の軌道は悉く水に淹没され、高資站の鉄道官舎の如きは水深六尺に達した。無錫は七月初旬より大雨あり、河水増漲して最低の田地は埋没したるが同十一日及び同二十二日には何れも大雷雨ありし為め、河水尺余続漲し第七区楊婆堤・会竜堤等の田地約二千五百畝は大半埋没し、第十五区東西華家堤、上・中・下堤、南北下堤、拓塘堤、東西九堤、李楊岸堤、地成堤等は何れも数ケ所決壊し、湖水に近き低地は皆絶望と伝へられる。水量は已に家屋に等しく家畜漂流するもの算なき有様である。上海は七月六日より雷電を伴ひたる豪雨連日降り続き閘北各馬路・虬江路・育嬰堂路・東西両辺・交通路新華里口等皆増水の漏口無き為め、局内水深一尺余に及び、即ち馬路両傍の顧客及び住
 - 第40巻 p.88 -ページ画像 
民は何れも牌門板を以て渡水する有様にて、其他麦根路・車站・太陽廟・錫金公所前面・共和新路等は皆沼沢と化した。尚ほ附近一帯の農民は、銅鑼を鳴して聚集し、農具を以て土堤を急築する等防水工事を為しつゝあれども、若し今後引続き降雨あらんか、忽ち右土堤は決壊せんとする形勢である。又呉淞附近各郷村中地勢低下せるものは悉く沢国となり、砲台湾一帯最も被害甚だし。稲田には尚ほ甚だしき影響なきも、棉田は已に莫大の損失に上る見込みである。崑山は七月二十日より降雨あり、二十三・四日頃が最も烈しかりしが、城内風車浜・東門外等に於て二十数戸に浸水、新馬路の一茅屋倒壊し、多数圧死した。
◇湖北省 武漢三鎮は本年初夏以来霖雨の為め各地に山海嘯あり、また上流地方よりの出水により、水標漸次高まり、七月二十八日頃に長江の水面は漢口日本租界よりも四呎以上増高したが、二十七日租界の下手に接せる堤防決壊し、附近一帯は湖沼と化し、数百戸の部落は水中に没し、僅に平漢鉄路の引込線で食ひ止つてゐたが、二十八日午後三時に至り数ケ所決壊し、濁流は日本租界を洗ひ始めた。八月に入りてよりは長江の奔流の増水停止する所を知らず、水標は十三日遂に五十一呎四に至り、日本租界は水面下実に五尺となり、若し堤防決壊せば租界内の各商店は全滅に瀕するので、居留邦人は必死の防水作業に従事し、又旧英国租界は支那当局で九日来人夫五千人を使用し、バンドに堤防を築き支那の農家で使用する水車三百台を備付け排水作業を開始した。又大智門車站及法租界一帯は雨水尺余に至り、続いて江漢関の溢出により、全市に氾濫して深きは四五尺浅きも一・二尺に達するに至つた。然るに八月十四日発聯合社電報に依れば、十三日夜来水勢愈々加はり、江岸一帯危険に迫れるを以て、日本民団は非常召集を行ひ、軍艦平戸・宇治より陸戦隊三百名の応援を得て非常警戒し、堤防の潰壊工事に腐心したるも、遂に三時頃三菱の社宅附近に直径三尺余の大穴を生じ、其所より地底を潜つて濁水湧出し初め、忽ち堰堤決潰して濁水滝の如く租界内に奔入し、居留民・海軍が必死となつて防水に努め辛ふじて堰止めたが、其の後幾許もなくして大決壊を起し、遂に漢口租界は水中に洗はれるゝに至つた。尚右の外堤防決壊の為め、水の為めに淹没したるは漹陽・漢川・漢陽・黄崗・雲夢・潜江・孝感・嘉魚等の諸県にして、連日降雨の為め水害を被つたのは松滋・咸寧・石首・応城・圻水・羅田等の諸県である。(武漢の惨状は次号詳報)
◇福建省 連日の陰雨により山海嘯となり、北部の浦城・崇安・邵武・光沢、西部の上杭、竜厳、長汀等の諸県惨害を被りつゝあるも、特に福州は閩江に臨めるため、災害深刻と見らる。而して福建に於ける洪水は閩江上流の延平地方より直下し来りたるものにして、到底人力にて防禁すること難く家屋倒壊、人畜の死傷等殆んど算なく損害は約数百万元に上る見込みである。
◇浙江省 西北部地方には太湖、及び銭塘江の貫流するあり、連日の出水にて湖水氾濫し、其附近たる嘉興・呉興・長興等の各県は一面汪洋たる沼沢と化し、農作物及び人家等は押流され惨澹たる情況で
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ある。特に嘉興地方は水深三尺余を増し、城内街道・孔子廟前等は潭水の合流にて上岸に溢れ、住戸を破壊して水中に陥没し、人畜の死傷も亦多数に上ると云ふ。湖州地方も亦水害の為め上海通ひの永順・永安両船は今尚停航しつゝある。又附近の農作物の被害も極めて莫大に上る見込みである。
◇河北省 永定・大清両河は夏期に入りてより増水し、両岸流域の居民は洪流の灌注を受け堤防多く決壊し、永清・固安・安次・宛平・武清等の諸県は最も被害が深刻にて、農作物・家屋・人畜等の損害は莫大である。
◇広東省 今年夏期に入るや東江・北江等の河水氾濫し、恵州・韻州・瓊州等の各地は被害甚大である。財物の損失約三千万元に達する見込である。
 尚農産物の被害に就いて、支那人当業者の観測並に調査を綜合するに米作の被害は、湖北・安徽の両省最も甚だしく、大体次ぎの如くであらうと見られてゐる。
 湖北省  四分作  湖南省  五分作
 江蘇省  七分作  安徽省  四分作
 江西省  六分作  浙江省  七分作
 支那米の作柄が前記の通りだとすれば、本年は最少限度三・四十万トンは輸入されるだらうと云はれてゐる。次に小麦は如何といふに、小麦は満洲及び北支那地方が豊作らしいので、長江流域の不作を補ひ支那全体として先づ平年作位だらうと楽観されてゐるが、然し奥地農家の売惜しみと外国小麦の暴落で本年度(昨年九月本年八月まで)は上海へ百万噸といふ未曾有の大量が輸入されてゐる。其の内訳は濠洲小麦七割、カナダ、アメリカ小麦二割といふ割合になつて居る、百万トンの中、六割は既に引渡し済みである。本年九月から向ふ一ケ年間にどれだけの小麦が輸入されるか、平年の輸入高たる三十万噸をいくら超過するか、当業者の間で問題になつてゐるやうである。又綿花は如何といふに、本年度植付反別が増加し、産額も増加を見込まれてゐたが、水害のため湖北省の綿花は四分作(収穫向百万ピクル)ぐらいらしい。地場消費を五十万ピクルとして、上海出廻りが五十万ピクルになるかどうか、水害の程度如何によつて違つてくる。本年の作柄を産地別にすると略ぼ左の如くである。
 湖北綿  四分作  太倉綿  六分作
 通州綿  六分作  上海綿  八分作
 山東綿や天津綿は平年作以上だと言はれてゐる。然し外国綿花の輸入高は昨年より少いことはあるまい。次に繭であるが、秋繭は江蘇桑畑が約六割、浙江が約四割水に浸かつてゐる。減水の時期次第であるが、若し桑樹の根が腐ることにでもなれば春繭への影響は相当大なるものがあらう。
      三、支那側の水災救済善後策
 今回の水災被害は全国的にして十六省の広汎なる範囲に亘り、その被害程度の莫大なること言を俟たざるも、未だ各地より報告に接せざるため詳細判明しないが、賑務委員会委員長許世英氏の観測する所に
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よれば、災民約五千万に達し、家屋人畜等に及ぼす直接損失は勿論、農作物等は殆んど全滅に帰したる地方も尠からず、従つて大飢饉が予想されて居る。之れに対する善後処置としては、差当り地方的には各地の慈善団体・社会救済機関・賑務委員会・各地方救済会等に於て、食料の配給・避難民の救護・負傷者の施療等を行ひつゝあるが、一方国民政府賑務委員会は各地の被害甚大なりとの報を得るや、直ちに許委員長を上海に急派し、国民政府の各重要人物を歴訪し、各地の災情を報告すると共に、(一)国民政府をして財政部に命じて速に多額の救済資金を支出せんことを呈請すること、(二)現金支出の困難なる場合は速に庫券を発行して銀行界より融通せられんことを請ふ、(三)各種附加税を続徴すること、(四)或は曩に徴収せる賑災附加税の支出を請ふ、(五)賑災公債一千万元の発行等の具体案を国民政府に呈出し大いに奔走する所があつた。玆に於て国民政府は八月四日の国務会議に於て、賑災公債一千万元の発行又は統税、塩税等より一・二千万元を融通することの原則を通過し、財政部をして救済基金を調達せしめつゝあつたが、大体の見込附いたので八月二十一日の国民政府会議で、民国二十年水災救恤公債一千万元発行の件を可決し、九月一日公布することゝなつた。尚右の外国民政府は応急対策として米国に対し長期貸付方法を以て、米国の過剰小麦三千万ブツシエル(一ブツシエルは二斗一合)を移入せんと交渉しつゝある。尚ほ国民政府賑務委員会に於ては上海各界人士を召集して救済策を考究した結果、銭新之・徐乾麟・陸伯鴻・秦潤卿・林康俣・虞洽卿・袁履灯・王暁籟・張群・張公権・黄涵之・史量才・聞蘭亭・王延松等三十余名の有力者を発起人として水災籌賑会を組織し、救済準備に着手すると共に、民国各方面の慈善団体を総動員し協力一致、之が救済運動に着手してゐる。
                     (八月十五日調査)
  (表紙第三頁)

図表を画像で表示中華民国水災義捐金募集趣意書

       中華民国水災義捐金募集趣意書  今夏中華民国ニ於ケル洪水ノ惨害ハ、現在迄ニ判明セル報道ニ拠レバ浸水面積略我ガ日本本土ノ広サニ亘リ、飢餓ニ瀕セル災民ハ一千万人ニ上ルト伝ヘラレ、実ニ過去一世紀ノ記録ニ見ザル所ニシテ、被害地ノ実況ハ悲惨ノ光景酸鼻ヲ極ムルモノアリ  惟フニ隣邦国民ハ頻年兵乱ノ余殃ニ悩サレ、今又此ノ天災ニ遇フ  吾人ハ人道ノ本義ニ考ヘ、善隣ノ交誼ニ鑑ミ之ヲ黙視スルニ忍ビズ、玆ニ汎ク天下ノ仁人ニ訴ヘ、普ク義捐ヲ募ラントス、冀クバ奮テ賛同セラレンコトヲ   一、義捐金ハ金壱円以上トス   一、義捐金ノ締切ハ九月廿五日   一、義捐金ハ会ニ於テ適当ノ方法ニ依リ処分スル事   一、払込場所 東京市麹町区丸ノ内三丁目十四番地            日本商工会議所(振替口座東京七三七七〇番)  以下p.91 ページ画像           大阪市北区堂島浜通二丁目十二番地            大阪商工会議所(振替口座大阪八六六〇番)    昭和六年八月二十五日             中華民国水災同情会              会長  子爵 渋沢栄一              委員長 男爵 郷誠之助 




故子爵渋沢栄一翁追悼講演録 協調会編 第一七頁 昭和七年四月刊 【渋沢翁と社会事業 清浦奎吾】(DK400013k-0011)
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故子爵渋沢栄一翁追悼講演録 協調会編 第一七頁 昭和七年四月刊
    渋沢翁と社会事業
                      清浦奎吾
○上略
 先頃支那漢口方面に於ける、洪水氾濫の為め、民衆飢寒の苦境に彷徨しつゝある惨状の伝はるや、翁は既に衰弱して静養し居らるゝに拘はらず、人道上黙視すべからずとし、且善隣の交誼を重んぜられ、自ら起ちて救恤の趣意書を宣伝せられ、或は宣伝放送の労を取られたるは、諸君の耳に猶ほ新なる所、これ蓋し最後の公けにせられたる声ならむ。其の仁慈惻隠の情は死に至る迄少しも渝はらざりし、これ翁の天性の然らしむる所、敬服の外はありませぬ。○下略



〔参考〕斯文 第一三編第一〇号・第四―一四頁 昭和六年一〇月 善鄰の友誼 渋沢子爵のラヂオ放送 塩谷温(DK400013k-0012)
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