デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
6節 国際災害援助
9款 関東大震災ニ対スル外国ノ援助
■綱文

第40巻 p.296-303(DK400092k) ページ画像

昭和5年2月5日(1930年)

是ヨリ先、時事新報社ニ於テ、大正十二年関東大震火災当時ニ於ケルアメリカ合衆国人ノ厚情ニ対シ、女性遣米答礼使派遣ノ計画アリ。是日栄一、託サレテ其銓衡委員トナル。

右答礼使ハ三月十八日出発、五月三十一日帰国ス。


■資料

時事新報 第一六七四四号昭和五年一月二五日 遣米答礼使 我が代表的女性を送る(DK400092k-0001)
第40巻 p.296-297 ページ画像

時事新報  第一六七四四号昭和五年一月二五日
    遣米答礼使
 - 第40巻 p.297 -ページ画像 
      我が代表的女性を送る
   米国を訪ふ
 帝都復興を祝ふの日、人々の直に回顧するのは大震火災であり、而して之と同時に回想するのは、その当時諸外国から寄せられた同情である、吾々は国民の感謝が、その日、暗涙と共に新たにされるであらう事を疑はない。忘恩は日本人の古来最も卑しむ所だからである。
 玆に於てか復興を記念するに当り、其実相を過去の同情者に報告すると共に、重ねて厚く感謝の意を表することは、国民の伝統的精神を示現するの道としても極めて適切であると信じ、本社は此機会に、海外の諸国に謝意を表明すると共に、就中最も関係の深い米国に対して特に答礼使を派遣するに決した。
   婦人の使節
 答礼使には我国の代表的女性を推薦する。品位・語学・社交――我が婦人の国際的立場は、世間の想像する所よりも遥に高く、吾々は其代表者に依て、此国民的使命の完全に果されることを疑はない。
 婦人代表の使命は、米国大統領、ウツヅ前大使、赤十字その他の団体並びに有力新聞社等を訪問して我が国民の謝意を朝野に告げ、且つ京浜の復興を具さに物語る記念の諸品を贈呈するに在る。
 代表の銓衡法は細目と共に近く発表するけれども、此計画が言論機関の携はる事業の中、最も有意義なるものゝ一つである事は、恐らく国民の等しく認めて其成功を希望される所であると信ずる。
  昭和五年一月              時事新報社


時事新報社遣米答礼使ニ関スル書類(DK400092k-0002)
第40巻 p.297-298 ページ画像

時事新報社遣米答礼使ニ関スル書類     (渋沢子爵家所蔵)
    趣旨と経過
帝都の復興事業はいよいよ来月を以て終りを告げ、記念すべき復興祭は同月廿六日、華々しく挙行せらるゝ、この時に際し人々の直ちに回顧するのは大震火災と災後八年の努力であると共に、回顧して特に感謝の念を禁じ得ざるものは、当時国境を絶して寄せられたる諸外国よりの同情と援助とである。帝都の復興を記念するに当り、その実相を大震災の同情者に報告し、且つ重ねて厚く感謝の意を表明するは、京浜両市民の尽すべき国際的礼儀であると同時に、また古来特に忘恩を卑しむわが国民の伝統的精神を示現する道である。本社は此機会に海外諸国に復興の完成を告げて謝意を表すると共に、就中最も関係の深い米国に対して特に答礼使を派遣するに決した。同時に答礼使としては微妙優雅なる心情を代表するものとして、この種の計画にその例を見ざる婦人を選ぶ事となつた。
二月初め本社は、先づ各国際親善団体、婦人教育機関及び社交団体等の快諾を得てこれを候補者の「推薦団体」となし、一方に徳川家達公幣原外務大臣・渋沢栄一子・鍋島侯母堂・中川復興局長官・堀切東京市長・有吉横浜市長・大谷嘉兵衛氏・門野本社取締役会長を委員に嘱して銓衡委員会を設け、十八才以上の婦人にして品位・教養・操行・容姿・身分・語学等を条件とし、各推薦団体及び一般より推挙した候補者につきその人選を依頼した。かくて銓衡委員会は去る十四日その
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第一回を帝国ホテルに開催、候補者五十数名の中より先づ十一名を予選し、次いで数名となし、その間ジヤパン・アドヴアタイザー主筆バイヤス氏によつて英語の試問を行ひ、いよいよ十九日帝国ホテルに再会の同委員会によつてさらに審査をなし、近日特派答礼使決定の発表を見る筈である


時事新報社遣米答礼使ニ関スル書類(DK400092k-0003)
第40巻 p.298-299 ページ画像

時事新報社遣米答礼使ニ関スル書類     (渋沢子爵家所蔵)
    時事新報社の「遣米答礼使」の件
昭和四年一月二十日頃同社経済部記者西野喜与作氏来訪之上、掲題之件に関し、代表者選定之銓衡委員を渋沢子爵にも御願致度に付、配慮を請ふ云々との話ありたるに付、大要左の返答をなしたり。
 御趣旨は誠に結構の事の様に思ひます。子爵も恐らく大賛成であらうと想ひます。然るに折悪しく本月十日頃から軽微の風邪の為め飛鳥山邸に引籠り静養して居るので御坐います。時々三十八度以上の発熱がありまして一同で頭をいためて居ります。然し大体に於て心配はない様子で御坐いますから左様御了承願ひたいと思ひますが、子爵の目下の禁物は考事と談話とで御坐います。そこで例へば、私が此問題で子爵に会ひますと、問題は頗る簡単であり、且つ子爵は喜ぶ筈で御座いますが、暫く御会ひしない私の顔を見て種々の他の問題を想起し夫から夫へと話が出て、後になつて疲労したり又発熱することでもあると大変で御坐いますので、入沢博士はじめ主治医たちから面会を禁ぜられて居ります。故に相談が出来ません。相談せずに私共で取計ふと云ふ事は致さぬのが子爵の方針で御坐いますから、それも出来ぬ次第で御坐います。で今暫く御猶予を願ふ外御坐いません。
西野氏は事情を諒とし帰社の上夫々相談すへき旨申残して退出せり。其後屡催促ありたるも、子爵の御容態一進一退の模様にて確答出来ず爾来遷延を重ね来れり。一日三十日夜愈紙上に発表の時期も迫りたれば何とか方法はなきやと西野氏より電話ありたるが、事情は依然として変化なかりし為め更に数日の猶予を頼み、且西野氏が元来明石照男氏よりの紹介にて面会したる人なることを想起したれば、明石氏に御相談すれば名案あるかも知れずと注意したり。
同月三十一日同族会(事務所に於て開会)之席上、明石氏より右に関する御談話あり、阪谷男爵の御意見にて「発表することは差支なきも目下交渉中であつて確定でない」と云ふ意味を加ふることにしたり。翌日森田経済部長に其旨通じたり。然るに昨四日明石氏に催促ありたる由にて、子爵の御病勢順調ならば簡単に申上くる様との電話ありたり。恰度入沢・林両氏御来診中なりしに付其事を諮りたるに、子爵に申上げても差支なしと快諾されたり。尤も其時(五時過)三十七度まで発熱せし為め、其時は申上ることを差控へ更めて今朝飛鳥山邸に出向き、御食事中の子爵に申上げ左の御答を得たり。
 時事新報に出て居るそうで自分も知つて居る。趣旨は至極結構であると思うて居る。東京其他震災被害地方の復興の為め米国が容易ならぬ好意を寄せたのに対し答礼すると云ふことは適当の計劃で大賛
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成である。こんなに考へて居るから銓考委員に加はることは喜んで承諾する。唯だ目下病気で、熱は左程でもないがどうも元気が出なくて困つて居る次第でもあり、且如何なる婦人が果して適当であるかに付ても一向知識もないから何にも御役に立たず、唯名前を出すに過ぎないと思ふから、此等を条件としてそれでよければ喜んで承諾すると云ふ事を申通じて置くようにしたい云々
右の通り御承諾を得たるに付き、早速事務所に引返し時事新報社に電話し森田経済部長に通じたり。明石氏には前述の関係も有之、電話を以て、又阪谷男爵・渋沢敬三氏は夫々別箇の用務にて事務所に立寄られたるに付、親しく大要を報告し置きたり。
  ○冒頭ノ「西野喜与作氏来訪」云々ハ渋沢事務所ニ来訪ノ意ニシテ、右ハ増田明六ノ筆記ナリ。


時事新報 第一六七五五号昭和五年二月五日 本社の『遣米答礼使』 銓衡委員を発表す 我が代表女性の候補者続出(DK400092k-0004)
第40巻 p.299 ページ画像

時事新報  第一六七五五号昭和五年二月五日
  本社の『遣米答礼使』
    銓衡委員を発表す
      我が代表女性の候補者続出
 忘恩ならぬ我が国民の心を代表して、帝都復興に際し、答礼使を米国に派する本社の計画――その答礼使に特に我が代表的婦人を選ぶ計画――は、既に推薦団体の成立、並びに個人推薦の増加と共に着々進捗を告げて居る。
而して選ばるゝ日本の対外的代表婦人二名は果して何人であらうか?教養・気品・社交・容姿・語学等の諸条件を兼ね具へて、我国民を恥かしめない女性を、多くの立派な候補者の中から選定する為に、次の諸名士が委員たるを快諾されたことを市民に発表し得るのは、本社の欣幸とする所である。尚ほ子爵渋沢栄一氏も、健康回復すれば委員に参加される筈である。


図表を画像で表示銓衡委員

      貴族院議長赤十字社々長  公爵徳川家達氏      外務大臣         男爵幣原喜重郎氏      婦人教育会々長        鍋島栄子氏 銓衡委員 復興局長官          中川望氏      東京市長           堀切善次郎氏      横浜市長           有吉忠一氏      本社取締役会長        門野幾之進氏 




  昭和五年二月              時事新報社


時事新報社遣米答礼使ニ関スル書類(DK400092k-0005)
第40巻 p.299-300 ページ画像

時事新報社遣米答礼使ニ関スル書類     (渋沢子爵家所蔵)
謹啓、益々御清栄之段奉慶賀候、陳者今般当社が企図せる遣米答礼使之計画ニ関してハ早速其銓衡委員たることを御許諾被下、誠ニ当社之光栄とする処ニ御座候
就而来る二月十四日(金曜日)正午より、麹町区内山下町帝国ホテルに於て該銓衡委員会第一回会合を兼ね粗餐差上度候間、御多用中甚だ恐れ入り候へども何卒御繰合せの上御出席之栄を賜り度、此段御案内
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申上度如此御座候 敬具
  昭和五年二月七日
                   時事新報社
                    取締役会長
                     門野幾之進
    渋沢栄一閣下


時事新報 第一六七五九号昭和五年二月九日 本社の『遣米答礼使』 銓衡委員の追加 我が婦人代表予選近づく(DK400092k-0006)
第40巻 p.300 ページ画像

時事新報  第一六七五九号昭和五年二月九日
  本社の『遣米答礼使』
    銓衡委員の追加
      我が婦人代表予選近づく
 震災当事の米国人の同情と援助とに感謝答礼する為め、復興記念祭を卜して我国の代表的婦人を米国に送る本社の計画は――美しい、優しい、而して教養ある多数の妙齢婦人の候補者続出と共に、今や予選の期に入らんとして居る。
 この時に当り、過日発表した有力なる銓衡委員、即ち、徳川公・幣原外相・鍋嶋侯爵母堂・堀切東京市長・有吉横浜市長・中川復興局長官・門野本社取締役会長の七氏の外に
                  子爵 渋沢栄一氏
                     大谷嘉兵衛氏
の二氏を銓衡委員の中に加へ得たことは、あらゆる意味に於て本社の満足禁じ得ない所であり、京浜市民側の代表の意味も完全に整ふことを信ずるのであります。
  昭和五年二月             時事新報社


時事新報 第一六七七五号昭和五年二月二五日 本社の『遣米答礼使』 婦人代表を発表す 市民の謝恩心を伝ふる優雅なる女性の選定(DK400092k-0007)
第40巻 p.300-301 ページ画像

時事新報  第一六七七五号昭和五年二月二五日
  本社の『遣米答礼使』
    婦人代表を発表す
      市民の謝恩心を伝ふる
        優雅なる女性の選定
○上略
 顧るに今月初頭、計画の発表と同時に、本社は先づ国際親善団体・婦人教育機関及び社交団体等の快諾を得て之を候補者の「推薦団体」となし、一方に、徳川家達公・幣原外務大臣・渋沢栄一子・鍋島侯母堂・中川復興局長官・堀切東京市長・有吉横浜市長・大谷嘉兵衛氏・門野本社取締役会長を委員に嘱して銓衡委員会を設け、十八歳以上の婦人にして品位・教養・操行・容姿・身分・語学等に遺憾なきを条件とし、各推薦団体及び一般より推挙した候補者に就き、その人選を依頼した。
 かくて銓衡委員会は去る十四日その第一回を帝国ホテルに開催、候補者五十名数の中より先づ十一名を予選し、更に十九日帝国ホテルに同委員会を再開し、尚ほ引続き厳査を重ねた結果、漸く満足なる選定に到達し得たものである。
○中略
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図表を画像で表示答礼使履歴

       蘆野きみ  明治三十五年五月二十九日生○中略 答礼使履歴 徳田純子  明治四十年一月十日生○中略       佐藤美子  明治四十二年八月十三日生○中略       松平佳子  明治四十四年十月十六日生○中略 




    答礼使の行程
      三月十八日に出発
選ばれたる婦人使節の一行は三月十八日横浜を出帆、乗船は特にダラー汽船のプレシデント・ピアスを選び、先づホノルルに寄港し、四月二日桑港に上陸、ロサンゼルス、ワシントン、フイラデルフイヤ、ニユーヨーク、ボストン、シカゴ、シアトル、ポートランド等の順序にて各地を廻り、二日乃至五日づつ滞在し五月十七日桑港解纜の日本郵船竜田丸に便乗、六月二日横浜に到着する。
斯くて滞米約五十日、フーバア大統領・クーリツヂ前大統領・ウツヅ前駐日大使・陸海軍卿・赤十字本社・救世軍本部等を始め、各地の市庁・商業会議所・有力新聞社・通信社及び日本人会等を歴訪して、震災当時受けたる同情と援助とに対し深厚なる謝意を表し、感謝状・記念写真帳其他を贈呈する。而してこれら公式の訪問には凡て日本服を用ひ、答礼の実を挙げると同時に、現代日本に於ける真の代表女性の面目を紹介する筈である。


時事新報社遣米答礼使ニ関スル書類(DK400092k-0008)
第40巻 p.301 ページ画像

時事新報社遣米答礼使ニ関スル書類    (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、時下益々御清栄奉慶賀候
陳者予て御配慮を煩はしたる遣米答礼使一行は、意想外の大成功を以て完全に其使命を果したる上、来る五月三十一日未明横浜着の竜田丸にて無事帰京致す可く同日午前十一時本社到着の予定に御坐候、就ては其際今度の計画関係者一同本社に参集して答礼使一行を歓迎し、其成功を祝したき希望に有之候間、御差支無之候はゞ何卒前記時刻に本社まで御来駕下され候はゞ幸甚に存じ奉り候
尚ほ来る六月四日午後二時半より日比谷公園なる東京市公会堂に於て遣米答礼使報告式相催す可く候間、同日には何卒御繰合はせ御臨席の栄を得度く、追て御案内申上ぐ可く候へども予め貴意を得度く不取敢御願まで如斯御座候 匆々敬具
  昭和五年五月廿九日
                時事新報社
                取締役会長 門野幾之進
    子爵 渋沢栄一殿


時事新報 第一六八七〇号昭和五年六月一日 本社遣米答礼使、けふ華々しく帰る 重き使命を果して美しく健やかに(DK400092k-0009)
第40巻 p.301-303 ページ画像

時事新報  第一六八七〇号昭和五年六月一日
  本社遣米答礼使、けふ華々しく帰る
    重き使命を果して
      美しく健やかに
帝都の復興祭と桜花に先だち、市民の心からなる感謝と復興の報告を齎して、遠く太平洋の彼方に使した本社の遣米答礼使、蘆野きみ・中
 - 第40巻 p.302 -ページ画像 
村桂子・徳田純子・佐藤美子・松平佳子の五嬢並にシヤプロン松平俊子夫人は答礼使事務長横山本社員に伴はれ、いよいよ卅一日早朝、日本郵船竜田丸にて横浜に入港、一同打揃つて目出度く故国の土を踏んだ。三月十八日、晴れの旅程に上つて以来七十有五日、その間布哇に最初の使命を果し、次で滞米五十日、華府に於てフーヴア大統領に謁し、またクーリツヂ前大統領並に震災当時の駐日大使ウツヅ氏、赤十字社長ペイン氏等を始め、各大都市を歴訪して各方面の代表人士と会見し、八千三百余哩の沿道を中心に全米に漲る白熱的歓迎を受けつゝその旅程を滞りなく遂行した一行は、今日こそその成功と二月半の労に対する新たなる感謝をこめた満都の歓呼と、輝かしい初夏の青葉に迎へられて華々しく帰朝したのである、横浜埠頭に、東京駅頭に、さては両市内の沿道に、この国民的大使命を果した美しい一行を迎へる人出は波と寄せ、万歳の声は嵐の如く天地を揺がせ、その盛観、出発の際の華やかさにも増して一行の成功を祝福するに相応しい情景であつた
    おゝ我等が答礼使よ
      沸きかへる横浜の歓迎
栄ある答礼使の帰朝を迎へたこの朝の横浜港はうす絹の如く水陸を包んだ朝靄の中から静かに明け放れた、海上を渡る爽かな微風、夢の如く浮ぶ富士の雪線、まことに長途の国民的使命を全うした若き、婦人答礼使を迎へるにふさはしい初夏の朝である、午前五時半―水天髣髴たる靄の彼方に巨大な船影がかすかににじみ出した、竜田丸である、横浜船舶信号所ではこの時先づ
 「大任を全うされ無事帰朝を祝す」
と次で
 「歓迎す」
と信号を掲げた、しかし海上を遮る靄はこの信号を同船に達せしめぬものゝ如く船は応答なく次第に進んで来た、出迎への本社員並に撮影班は水上署のランチに便乗して既に港外さして纜を解いた、近づいて港外に仮泊した同船間近に到れば、甲板上に見よ、前後二ケ月半に亘る国民的大使命を終へてけふしもその成功を故国に齎す答礼使諸嬢の顔が微笑してゐるではないか
 「中村さんだ」、「佐藤さんだ」、「その次が松平さん」、「蘆野さんもゐる、松平夫人も―」そして「横山事務長が帽子を振つてゐる」
        ○
ランチから打振る帽子と船上のハンカチと手と、盛んに挨拶を交しつつ、ランチが船体に横付けされると出迎への一同は船上に駈け上り、待ち受けた一行と期せずして固い握手
 「おめでたう」「御苦労様」
        ○
見れば佐藤さんと徳田さんはうす緑、松平さんは紫、中村さんは薄紫蘆野さんは水色、とりどりの色を主とした初夏にふさわしい訪問着の美しい装ひ、たゞ誰の顔にも二ケ月の長旅と殊に汐風に吹かれたゝめの日やけが幾分見られはするが元気は何れもはち切れる許り
 - 第40巻 p.303 -ページ画像 
        ○
花に先立つて鹿嶋立してから青葉に帰るその七十五日、いまこそまのあたり見る故国の姿よ、答礼使の眼頭にはいさゝかながらの露が宿るその間にも各新聞社の写真班の包囲攻撃やら、記者諸君との会見やら乗客との別れの挨拶、一同は感激の渦に巻かれつゝ、やがて嚠喨たるマレーイン・バンドの奏楽裡に四号岸壁に纜を結んだ
        ○
岸壁中央に飾られた日米の大国旗と本社旗を中心にして歓迎の人の波は厚い層をなして居る、爛漫たる花のやうに小旗がゆれて歓迎の声が雨のやうに陸から船へ、船から陸へと綾をなす、かくて歓迎の群はAデツキめがけて雪崩のやうに乗込んで来た、本社旗が旗波の上を泳ぐ胸に徽章をつけた親族の人々が答礼使を囲む、次いで山県知事夫人・有吉市長夫妻・大西田村両助役夫妻・平沼市会議長・答礼使銓衡委員大谷嘉兵衛氏・伊藤・神吉本社重役等名士の公式会見が歓呼の花束に包まれつゝ交はされた
        ○
陸上からは小学校生徒の小旗の波と共に万歳の声が華やかに湧く、これに答へる答礼使の姿、埠頭を廻つて竜田丸Aデツキは文字通り歓迎の花畑と化し、答礼使の凱旋に相応しい状景が絵巻物のやうに繰拡げられた
        ○
次いで一行は甲板に於て、若尾小百合(一一)須藤光代(一一)斎藤登代子(一一)楠沼喜美子(一〇)高梨米子(八)のかあいゝ五人の横浜市代表が、美しい振袖姿で夫々歓迎の花束を捧げるのを受けたがこの美しい情景には有吉市長をはじめ一同拍手鳴も止まなかつた
        ○
斯て約二時間歓迎の波に揺られて船中に過した一行は、テイー・ルームに於て茶話会を催した後午前九時半退船、岸壁に整列する横浜女学校生徒五百名の打振る歓迎旗と万歳の声に心から答礼しながら埠頭外に出で自動車上の人となる、本社重役の自動車を先頭に二番蘆野嬢・中村嬢、三番徳田嬢、佐藤嬢、四番松平夫人・松平嬢、次で横山事務長続き本社員之に従つて横浜駅に向ひ市民の歓呼を受けて十時廿二分東京に向つた(横浜電話)