デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
7節 其他ノ資料
4款 慶弔
■綱文

第40巻 p.547-548(DK400171k) ページ画像

大正7年10月1日(1918年)

是日栄一等、発起人総代トナリテ、芝区愛宕下青松寺ニ於テ、中華民国人湯化竜追弔会ヲ催ス。栄一病気ノタメ出席セズ。


■資料

竜門雑誌 第三六五号・第七八―七九頁大正七年一〇月 ○故湯化竜氏追弔会(DK400171k-0001)
第40巻 p.547-548 ページ画像

竜門雑誌  第三六五号・第七八―七九頁大正七年一〇月
○故湯化竜氏追弔会 支那屈指の政客として曩に内務総長の顕職を占め、今春本邦に渡来して、朝野多数の政客並に青淵先生其他の実業家諸氏と親しく政治経済に関する意見を交換し、次で六月五日米国に渡航せる湯化竜氏は、九月一日夜加奈太ヴヰクトリヤに於て在留支那人の歓迎会に臨席すべく、旅宿を出でゝ赴く途上、同地在留の政治狂たる一支那人の為めに、短銃を以て狙撃せられ、終に街頭の露と消えたり。依つて其遺骨は十月二日未明、予定より一日遅れて横浜に入港せる加茂丸にて本邦に立寄ることゝなりたるより、故人と生前の知人たる本邦朝野多数の名士は、玆に盛大なる故人の追悼会を営みて、聊か其霊を慰めんと、青淵先生・犬養毅氏等発起人となり、左の如き広告文を広く都下の各新聞に掲載して、日華両国同志の参会に便せり。
即ち
 粛啓、先般来欧米出遊中の湯化竜君が加奈太ビクトリヤにて不測の難に遭はれ候事、東亜大局の為痛嘆の至りに不堪候、就ては十月一日横浜着の加茂丸にて同氏を迎へ候間、日華両国の同志哀悼の意を表し度追弔会相催候間、同日午後二時芝青松寺に御参会被下度、此段御案内申上候 敬具
                 発起人総代
                     渋沢栄一
                     犬養毅
                     大岡育造
                     山本達雄
                     林権助
                     章宗祥
 - 第40巻 p.548 -ページ画像 
                     林長民
 斯くて同日午後二時より芝青松寺に於て追弔会を営みたるが、故人の遺骨は支那風の棺にて陸揚困難なるより、其儘船中に安置し、故人が加奈太にて撮影せる写真を霊位として荘厳なる法要を執行したるが当日の来会者は朝野の政治家・実業家等約五百余名、読経行道の厳修に次ぎ、大岡・山本両氏の弔詞朗読、章公使の遺族に代りて沈痛なる挨拶等あり、最後に犬養毅氏は発起人を代表して一場の挨拶を述べ、終つて来会者一同の焼香に移り、其散会したるは四時過なりきと云ふ
 因に青淵先生は当日風邪引籠中にて臨席せられざりしと。



〔参考〕竜門雑誌 第三六一号・第八六頁大正七年六月 ○湯化竜氏招待会(DK400171k-0002)
第40巻 p.548 ページ画像

竜門雑誌  第三六一号・第八六頁大正七年六月
○湯化竜氏招待会 五月廿日青淵先生には、過般来朝せる支那知名の士湯化竜氏及林長民氏の為め、同日午後五時より飛鳥山曖依村荘に於て懇篤なる招待会を催されたるが、尚ほ陪賓として章駐日支那公使を始め、荘景珂・王鴻年・郭左淇、及び近藤男・浅野・古市・小田切・水町・山成其他の諸氏を招待あり、主客交歓の裡に散会せる由。