デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
3款 財団法人斯文会
■綱文

第41巻 p.15-31(DK410007k) ページ画像

大正7年10月29日(1918年)

是ヨリ先、栄一ノ顧問タリシ社団法人斯文学会拡張ノ議起リ、栄一、芳川顕正・清浦奎吾・金子堅太郎・末松謙澄・阪谷芳郎ト共ニ之ニ参与ス。是日、斯文学会、研経会・東亜学術研究会・漢文学会ヲ合併シテ、新ニ財団法人斯文会ヲ組織ス。栄一顧問ニ挙ゲラル。

翌八年九月孔子祭典会ヲ、十二月孔子教会ヲ併合ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四五年(DK410007k-0001)
第41巻 p.15 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四五年         (渋沢子爵家所蔵)
六月十六日 晴 暑
○上略 午前十一時斯文学会ニ抵リ、其存廃ニ付会員ノ評議ニ参加ス、股野・石黒氏等ヨリ説明アリ、末松・金子・平田・小松原、阪谷・三島ノ諸氏来会各意見ヲ述フ、余ハ聖堂保存ニ関シ数年前ヨリ企図セシ顛末ヲ陳フ、午飧ヲ畢リテ散会ス○下略
六月十七日 雨 暑
○上略 午前十時文部省ニ抵リ福原次官ニ面会シテ、聖堂保存ノ事ニ付昨日斯文学会ニ於ル協議ノ次第ト余ノ意見トヲ以テ、本省ノ詮議ヲ委托ス○下略


青淵先生公私履歴台帳(DK410007k-0002)
第41巻 p.15 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳            (渋沢子爵家所蔵)
斯文学会顧問           (大正)六年六月
   ○栄一ガ当学会顧問タリシ資料他ニ無シ。右年月ハ恐ラク栄一外数名ガ当学会拡張ニ就イテ相談シタル年月次ナルベシ。


各個別青淵先生関係事業年表(DK410007k-0003)
第41巻 p.15 ページ画像

各個別青淵先生関係事業年表         (渋沢子爵家所蔵)
    斯文会
 大正七年十月二十九日
財団法人斯文会ト改メラル、青淵先生ハ会ノ顧問ニ推サル


斯文学会報告書 第一号・第一―三丁 明治一四年一一月刊(DK410007k-0004)
第41巻 p.15-16 ページ画像

斯文学会報告書 第一号・第一―三丁 明治一四年一一月刊 (渋沢子爵家所蔵)
    斯文学会開設告文
本邦文物備具シ風俗醇厚ニシテ夙ニ君子国ノ称ヲ得ルモノハ、固有ノ美ニ基ツキ太古ノ風ニ原スト雖トモ、抑亦支那ノ文学蚤ク伝ハリ、所謂道徳仁義ノ説、制度典章ノ儀、歴朝之ヲ采択シ挙世之ヲ崇尚スルノ故ニ由ラスンハアラス、是ヲ以テ朝野盛ニ学黌ヲ興シ、上下専ラ礼義ヲ修メ、政刑民彜率子此道斯文ニ資セサルハナシ、外交始テ開ケ世態漸ク遷リ、太政維新百度一変スルニ及ヒテ、人々競フテ欧米ノ学ヲ講シ、戸々争フテ英仏ノ書ヲ誦シ、駸々乎トシテ将ニ開明ノ域ニ進マン
 - 第41巻 p.16 -ページ画像 
トス、而シテ世ノ漢学者流依然トシテ時務ニ通セス尊大自ラ居リ、徒ニ虚文ヲ玩テ実益ヲ図ラス、是ニ於テヤ青衿子弟往々存養素ナク奔競風ヲ成シ、礼義ヲ修ムルモノハ指シテ迂濶トナシ、廉恥ヲ励ムモノハ目シテ固陋トナシ、殆ト実践ノ学経国ノ文ヲ棄テ之ヲ土芥視スルニ至ル、吁其レ亦甚シ、今ニシテ之ヲ矯救セスンハ老宿ノ儒漸ク凋落シ斯文ノ運愈衰頽シテ啻ニ風教ヲ持スル能ハサルノミナラス、併セテ固有ノ美ヲ喪ハムコトヲ恐ル、我輩探ク此ニ慨スル所アリ、乃チ斯文学会ヲ創メ、遍ク同志諸賢ト謀リ此道ヲ振張シ斯文ヲ興隆シ以テ時弊ヲ匡済セントス、固ヨリ古ニ泥ミ今ニ反シ徒ラニ迂濶ノ途ニ出ルニ非ス、又此ヲ崇ミ彼ヲ卑ミ偏ニ固陋ノ域ニ安スルニ非ス、惟我邦礼義廉恥ノ教、彼欧米開物成務ノ学ト並行ハレテ相悖ラス、衆美駢進シ群賢輩出シ、以テ明治ノ太平ヲ翼賛裨補センコトヲ望ムノミ、其方法規則ノ詳ナル如キハ、発会ノ後博ク諸賢ノ集議ヲ請ヒ、委員ヲ公選シテ之ヲ草定スヘシ、今本年四月ヲ以テ定テ会期トナス、想フニ四方ノ諸賢我輩ト其志ヲ同フスル者必ス多カラン、苟モ同志ノ諸賢ハ遐邇ヲ問ハス朝野ヲ論セス、発会ノ期ニ先タチ其姓名住所ヲ報道センコトヲ請フ、会前通名ノ諸賢ハ之ヲ首唱者ニ列シ其姓名ヲ頒告スヘシ、嗚呼我協同ノ諸賢相率ヒ相扶ケテ此盛挙ヲ賛成シ、衆思ヲ集メ群力ヲ併セ以テ斯文ノ興隆ヲ致サハ、其レ君子国ノ称ニ背カサルニ庶幾カランカ
附告
一毎歳大会一次、毎月小会数次、以テ学務ヲ商議シ文事ヲ講究スヘシ
一大ニ校舎ヲ興シ、広ク老宿ヲ聘シ、専ラ和漢ノ学ヲ修メ、兼テ欧米ノ美ヲ収メ、以テ子弟ヲ教育シ英俊ヲ養成シ、其資力ノ増進スルニ従ヒ益之ヲ普及スルコトヲ務ムヘシ
一風教ヲ維持シ廉恥ヲ磨励スルヲ以テ緊要トス、故ニ校舎ノ規則ヲ厳ニシ生徒ノ品行ヲ律スヘシ
一会員ノ編著詩文ヲ評訂刊行シ、或ハ古今ヲ稽ヘ事物ノ原委ヲ考証シ逐次雑誌トシテ刊行スヘシ
一会見ハ一人一月金弐十銭ヲ納レ以テ資金ニ充ツヘシ
 一人ニシテ数人ノ額ヲ併セ納ルヽハ固ヨリ妨ケス
一資金ヲ会員ヨリ収メ又ハ会員《(費カ)》ヲ支弁スル等、出納一切ノ事務ハ之ヲ某銀行ニ托シ、時々其決算明細表ヲ公告スヘシ
一姓名ヲ報道スルハ五厘ノ証券界紙ニ姓名住所ヲ書シ実印ヲ押シ、東京日本橋西河岸町十二番地斯文学会仮局ニ郵送アルヘシ
一会員ノ姓名ハ報道ニ随テ姓名簿ニ登録シ、逐次之ヲ頒告スヘシ
  明治十三年庚辰春二月


斯文 第七編第二号・第二二―二四頁 大正一四年四月 財団法人 斯文会沿革略(DK410007k-0005)
第41巻 p.16-17 ページ画像

斯文 第七編第二号・第二二―二四頁 大正一四年四月
    財団法人 斯文会沿革略
      斯文学会時代
明治十三年、岩倉右大臣欧洲より帰朝し、儒教により堅実なる思想を養成し、以て国家の基礎を鞏固ならしめんとし、股野琢・谷干城・重野安繹・川田剛の諸氏と相謀り斯文学会を創立す。六月六日発会式当日宮内省より金千円御下賜の沙汰あり。
 - 第41巻 p.17 -ページ画像 
十四年三月、開講。五月、有栖川宮殿下を会長に奉戴す。
十六年二月、聖諭の大旨を添へ幼学綱要御下賜。四月、此年より十箇年年金二千四百円御下賜。谷干城氏副会長となる。
十九年一月、会長有栖川宮殿下御薨去。三月、佐野常民氏副会長代理となる。
二十年三月、神田錦町に校舎新築。
四十三年十二月、日講中止。其後谷会長・重野会長相ついで薨ず。
大正五年、第一回夏季講習会を開く。
      本会成立以後
七年四月、従来の社団法人斯文学会を解散し、新に財団法人斯文会を設立することに決し、大体其主義目的を一にせる研経会・東亜学術研究会及び漢文学会と合同し、一致協力、益々儒道を主として、東亜の学術を闡明し、以て明治天皇の教育に関する勅語の聖旨を翼賛し、我国体の精華を発揮せんとす。□《(欠字)》月、本会成立、会長は小松原英太郎氏副会長は股野琢とす。
八年八月、本会第一回夏季講習会開催。九月、孔子祭典会本会に併合す。十二月、小松原会長薨去。
九年四月、本会第一回孔子祭を執行し、是より年々恒例とす。十一月朝鮮儒林観光団湯島聖堂参拝、本会之を接待す。是より後朝鮮儒林其他有志者の聖堂参拝少からず、儒道振興、内鮮融和の一助となる。十二月、孔子教会、本会に併合す。
十年二月、中学校及び師範学校漢文科教員に文部当局者漢文科依然存続言明ありしことを通牒す。十月、股野琢副会長薨去。十二月、服部宇之吉氏本会総務となり、渋沢子爵・阪谷男爵・井上博士三氏副会長となる。
十一年三月、徳川公爵会長に推薦就任。四月、支那文化十回講義開講。
五月二十七日、本会基金御補助として金三万円御下賜の恩命を拝す。
十月二十九日、孔子二千四百年追遠紀念祭執行、閑院宮・山階宮・賀陽宮三殿下台臨、非常に盛会なり。
十二年六月、尚歯会を開き、九十歳の男爵細川潤次郎氏、八十四歳の渋沢副会長以下七十歳以上の本会役員を招待す。九月一日、大震火災により湯島聖堂及び本会事務所焼失す。十一月、湯島聖堂再建を計画す。
十三年四月、□《(欠字)》五回孔子祭を湯島仮聖堂に執行す。


斯文 第一編第一号・第一〇八頁 大正八年二月 一斯文会成立以前の諸会の概況 斯文学会の沿革(DK410007k-0006)
第41巻 p.17-18 ページ画像

斯文 第一編第一号・第一〇八頁 大正八年二月
    一斯文会成立以前の諸会の概況
      ○斯文学会の沿革
○上略
 然るに近年に至り、人心の帰嚮上大に憂慮すべき兆候を呈し来りしを以て、股野副会長は芳川・清浦・金子・末松・渋沢・阪谷の諸名士を本会に招請して、斯文学会発展及人心匡正の意見を聴く事再三にして、遂に今回の拡張を立案するに至れり。拡張の第一着手として小松原枢密顧問官を会長に仰ぎ、社団法人たりし斯文学会を解散し、其の
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財産全部を以て、新に財団法人斯文会を興立し、従来の財産以外に二十万円以上の基金を作り、以て大に思想学術の方面に努力貢献し、岩倉右大臣が斯文学会を設立せられたる精神を発揮せんとす○下略


斯文六十年史 斯文会編 第三一六―三二二頁 昭和四年四月刊(DK410007k-0007)
第41巻 p.18-21 ページ画像

斯文六十年史 斯文会編 第三一六―三二二頁 昭和四年四月刊
    第三十六章 斯文会
大正七年九月、斯文学会は一時解散して、更に研経会・東亜学術研究会・漢文学会を合併して、新に財団法人斯文会を組織せり。其の目的は、儒道を主として、東亜の学術を闡明し、以て明治天皇の教育に関する勅語の聖旨を翼賛し、我国体の精華を発揮するに在り。此の精神を以て、趣意書を起草し、寄附行為を制定し、役員を選定せり。
      斯文会趣意書
 東西の交通盛に開け、欧人の勢力東漸するや、亜細亜の諸邦は、或は其独立を脅され、或は其領土を奪はれしもの、一にして足らず。独吾が日本帝国は、巍然として其間に卓立し、万世不易の皇室を奉戴し、金甌無欠の国体を維持するのみならず、更に益発展伸張の勢あるは何ぞや、蓋維新以来、上下一致、我が国体の精華を基礎とし広く知識を世界に求め、務めて旧来の陋習を革め、以て経綸を行ひたればなり。然れども採長補短の余勢、時に中正を失し、或は枉をを[衍字]矯めて直に過ぐるものあり。動もすれば、徒に重きを物質的文明に置き、精神的文明を軽んずる傾向なしとせず。是れを以て国民の知識技能は長足の進歩をなし、利用厚生の事業亦大に興れりと雖も古来の道徳信念に至りては漸く浅弱となり、往々動揺の兆を見る。加ふるに、故を厭ひ新を喜ぶの常情に乗じ、好みて詭激の言説を唱へて、我が思想界を攪乱せんとする者なきにあらず。是れ寔に識者の憂慮警戒すべき秋なりとす。
 それ狂瀾を既倒に廻すは、固より易きにあらずと雖も、蔓草を末長に除くは、必ずしも難しとなさず、幸に我が建国以来の良風美俗は猶郷閭の間に存するものあり。慨世憂国の士にして、中流の砥柱を以て自ら任ずる者、亦決して少しとなさず。今に及びて同憂の士、心を一にし力を戮せて、玆に一大団結をなし、以て吾が邦固有の道徳を講明し、これが宣伝普及を図らば、その世道人心を未墜に済ふの功、豈期し難からんや。
 恭しく惟みるに、明治天皇の教育勅語に宣示し給ふ所は、即ち吾が邦固有の道徳にして、皇祖皇宗の遺訓に淵源せりと雖も、亦殆儒道の精神と符節を合せたるが如し。蓋し列聖夙に儒道を採りて、修斉の具、治平の法となし給ひしかば、その我が徳教と融合渾化せるは固よりその所なりとす。是れを以て教育勅語の聖旨は、儒道を藉りて益闡明せらる可く、儒道の本義は、教育勅語によりて益権威を加ふ可し、これ我が同志相謀り、同憂相会し、大に儒道を振起し、以て教育勅語の聖旨を宣揚せんことを期する所以なり。
 今を距ること四十年前、朝野の諸名士、斯文学会を設立し、儒道を主として、風教を維持せんとするや、先帝特に内帑の金を賜ひ、嘉奨の聖眷を垂れ給へり。然るに年を経るに随ひ、耆宿凋落し、事業
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衰微し、且今日より之を観れば規摸狭小にして、時勢の要求に応ずるに足らず。識者常に之を遺憾とせり。因て玆に該学会の組織を変更し、新に本会を興して、その事業を継承し、更に改新拡張を図り以て上は先帝の聖眷に奉答し、下は前輩の素志を紹成せんとす。
 顧ふに、現時世界の大戦乱は、有史以来未だ曾て見ざる所にして、各方面に甚大の変動を及ぼすべきは言を待たず。特にその思想界に於ける影響に至りては、識者の予め深く考慮を要すべき所とす。この時に方り、本会は朝野諸彦の賛助により、儒道を以て本邦固有の道徳を鼓吹し、精神的文明の振興に努め、彼の利用厚生に関係ある物質的文明の発達と相伴ふを得しめんとす。果して此くの如くなるを得ば、永く国運の隆昌を増進し、戦後の世界に、万邦に卓越せる我が国体の光輝を発揚するに足らん。
  大正七年九月                斯文会
会の役員として、総裁・顧問・会長・副会長・会幹・部長・監事・常議員・委員・書記を置き、左の人を選任せり。
 顧問、伯爵芳川顕正・子爵金子堅太郎・子爵清浦奎吾・子爵杉孫七郎・子爵末松謙澄・男爵石黒忠悳・男爵細川潤次郎・男爵牧野伸顕・男爵渋沢栄一・三島毅
 会長、小松原英太郎
 副会長、股野琢
 会幹、安井小太郎・工藤一記
 部長、教化部長服部宇之吉・研究部長市村瓚次郎・祭典部長嘉納治五郎・編輯部長林泰輔
 監事、男爵阪谷芳郎・早川千吉郎
 常議員、西村時彦・細田謙蔵・岡田正之・小柳司気太・狩野直喜・高橋作衛・土屋弘・中村久四郎・宇野哲人・井上哲次郎・大野太衛・大沢真吉・松本豊多・牧野謙次郎・小牧昌業・児島献吉郎・三宅米吉・三島復・塩谷温・島田鈞一
 委員、塩谷温・諸橋轍次・松本洪以上教化部、宇野哲人・飯島忠夫・前川三郎以上研究部、中村久四郎・山口察常・高成田忠風・竹田復以上編輯部、三宅米吉・細田謙蔵・神谷初之助以上祭典部
 書記、山本邦彦
会の事業は之を五部に分ちて、其の管掌事項を定めたり。
 一、本部 会の枢機を掌り、庶務会計を処理す。
 二、教化部 講義・講演、其他斯道の宣伝に関する事項を掌る。
 三、研究部 学術の研究、及学資の補給、学生の養成等に関する事項を掌る。
 四、祭典部 先聖の祭祀、聖廟及一切の附属建物、並附属物の保管維持等に関する事項を掌る。
 五、編輯部 雑誌其の他必要なる図書の編輯、及発行等に関する事項を掌る。
大正八年二月、機関雑誌として斯文第一号を発行し、爾後隔月刊行となす。九月、孔子祭典会を合併して、其の事業を継承し、九年四月斯文会第一回の釈奠を挙行し、爾後年々之を挙行せり、十二月孔子教会
 - 第41巻 p.20 -ページ画像 
を合併す。孔子教会は、明治四十一年五月二十七日、市村瓚次郎・戸川安宅・矢野恒太・候爵大隈重信・島田三郎等の創立せし所にして、孔子を中心とし、論語を経典とし、二十世紀の思潮精神を以て解釈の根本となし、儒教の新生面を開き、以て現代の風教を振粛するを以て目的とし、其の方法として論語輪講、公開講演、出張伝道をなして此の時に至れり。会員は約百名あり。会の発起人として尽力したる人々は、市村瓚次郎・戸川安宅・侯爵大隈重信・川合信水・高島平三郎・中野勝生・村上俊蔵・村岡素一郎・山本邦之助・矢野恒太・松村介石小柳司気太・荒木真弓・青柳篤恒・三宅雄二郎・島田三郎・広部精にして、評議員たりし人は、井上哲次郎・市村瓚次郎・池辺吉太郎・服部宇之吉・早川千吉郎・服部金太郎・萩野由之・星野恒・侯爵大隈重信・大村彦太郎・男爵小沢武雄・男爵加藤弘之・柿沼谷雄・高島平三郎・山口宗義・松村介石・三宅雄二郎・三宅秀・子爵渋沢栄一・重野安繹・島田三郎・広部精・男爵森村市左衛門。又常務委員として尽力したるは市村瓚次郎・戸川安宅・矢野恒太・松井廉なり。八年十二月会長小松原英太郎薨じ、十年十月副会長股野琢薨じたるを以て、子爵渋沢栄一・男爵阪谷芳郎・井上哲次郎を副会長とし、服部宇之吉を総務となし、翌十一年三月公爵徳川家達を推薦して会長と為す。同年十月二十九日、孔子卒後二千四百年追遠記念祭を挙行す。事は別項に詳なり。十二年六月、始めて尚歯会を華族会館に開き、斯文会役員中の七十歳以上の高齢者を招待す。此より敬老会各地に起りて、人々老人の尊敬すべき所以を知る。九月一日、東京に大震火災ありて、斯文会事務所、湯島の聖堂共に類焼す。寛政十一年改築の聖堂は、唯入徳門と水屋を残せるのみにて、孔子四配の像を始めとして、殿舎全部灰燼に帰したり。十一月聖堂の旧址に、亜鉛葺の仮殿、及び仮事務所を建設して、十三年四月より釈奠を此に挙行せり。仮聖堂の成るや、之に祭るべき聖像につきて、適当なるものを得難く、百方苦心せしが、事天聴に達して、四月二十六日会長公爵徳川家達を宮中に召して、御物孔子像一躯を下賜して、之を奉祀せしめ給ふ。此の聖像は朱舜水の将来する所にして、舜水之を柳河藩儒安東省庵に贈り、後故有りて同藩出身の子爵曾我祐準に帰す。曾我祐準は、大正天皇に東宮に伝たりし時之を献上して、聖学啓沃の一端に供へ奉りしものなり。此に於いて聖堂復興の議起り、聖堂復興期成会の創立を見るに至れり。事其の項中に詳なり。十三年五月二十八日斯文会支部を長岡に設置す。十四年四月、山口察常・平野彦次郎・石塚好忠の三委員に依嘱したる、漢字調査報告書成りたるを以て、直に之を印行せり。十五年三月十五日、斯文会支部を熊本に設置す。四月、理事福島甲子三の用途指定寄附金を以て孔子頌徳歌を懸賞募集し、一等入選の者を以て頌徳歌と定む。又之を全国小学校唱歌用歌詞に採用せんことを文部省に出願して其の認可を得たり。其の歌詞左の如し。
  孔子頌徳の歌              下平末蔵
 (一)泰山万古雲に立ち、泗川千歳水あせず、孔子の偉業盛徳は、山河と共に尽きせじな。
 (二)孝弟忠信百行を、貫く道は一つにて、修身斉家万民を、導く
 - 第41巻 p.21 -ページ画像 
本は仁にあり。
 (三)伝へし道は敷島の、大和心を潤して、色香も妙《タヘ》に咲き出でし御国の精華《ハナ》ぞ美しき。
 (四)湯島の岡にそびえたつ、大成殿の中《ウチ》よりぞ、人の幸福世の中の、平和の光輝かむ。
大正十五年七月以後は、機関雑誌斯文を改めて月刊と為す。昭和三年一月、寄附行為を改めて教育部を新設し、漢文教育の振興、及漢文教授の研究に関する事項を掌ることと為す。又昭和二年三月以来、委員を置きて研究起草せる国訳論語は、此年三月に至り稿本脱稿せるを以て、竜門社に於いて出版せり。十一月に至り、明年の創立五十年記念式の記念として、斯文六十年史を編纂出版することゝなり、其の編纂を安井小太郎、中山久四郎、前川三郎に依嘱せり。終に昭和三年末に於ける斯文会役員は左の如し。
 公爵徳川家達会長、子爵渋沢栄一・男爵阪谷芳郎以上副会長、公爵近衛文麿・侯爵蜂須賀正韶・侯爵細川護立・伯爵徳川達孝・伯爵松平直亮・伯爵牧野伸顕・子爵清浦奎吾・子爵金子堅太郎・子爵石黒忠悳・子爵入江為守・男爵平山成信・江木千之・一木喜徳郎・岡田良平以上顧問、服部宇之吉総務、中山久四郎、福島甲子三以上会幹、宇野哲人・島田鈞一・三宅米吉・塩谷温以上部長、市村瓚次郎、安井小太郎、工藤一記以上参与、矢野恒太・内藤久寛以上監事、伊東忠太・池田四郎次郎・飯島忠夫・内野台嶺・加藤虎之亮・桑原隲蔵・黒板勝美・児島献吉郎・佐久節・高成田忠風・花岡敏夫・平田盛胤・平野彦次郎・細田謙蔵・牧野謙次郎・松本洪・前川三郎・諸橋轍次・山口察常・山田準・吉田静致・頼成一・井上哲次郎・小柳司気太以上常議員、山口察常・高成田忠風・平野彦次郎・加藤虎之亮・諸橋轍次・内野台嶺・石塚好忠・寺田范三・飯島忠夫・前川三郎・内藤政太郎・北浦藤郎・細田謙蔵・佐久節・頼成一・辛島驍・林秀一・上田喜太郎・勝又憲治郎以上委員、川上栄一編輯員、山本邦彦・三沢安一・大塚要造以上書記
   ○研経会・東亜学術研究会・漢文学会ニ就イテハ「斯文六十年史」(斯文会発行)ヲ参照。


渋沢子爵ト財団法人斯文会 斯文会編(DK410007k-0008)
第41巻 p.21-22 ページ画像

渋沢子爵ト財団法人斯文会 斯文会編 (渋沢子爵家所蔵)
    渋沢子爵ト財団法人斯文会
財団法人斯文会ハ、社団法人斯文学会ノ資産及ビ事業ヲ継承シ、更ニ資産ヲ増加シ事業ヲ拡張シ、漢学ニ関スル数種ノ会及ビ孔子祭典会ヲ併合シタルモノナリ、斯文学会ハ明治十三年六月六日ノ創立ニ係リ、当時上下挙ツテ欧米文明ニ心酔シ我ガ固有ノ徳教ヲ廃棄セントスル傾向アルヲ慨シテ、時ノ右大臣岩倉具視公ガ、故谷干城君・故重野安繹君等ヲ愆慂シ、主トシテ有名ナル漢学者ヲ網羅シテ組織セシメタルモノナリ、其成ルヤ有栖川熾仁親王ヲ総裁ニ戴キ、宮廷ノ特別ナル庇護ヲ受ケ、学校ヲ経営シ生徒ヲ養成シ講義録等ヲ発行セリ、其後国粋保存ノ大切ナルコト上下ニ徹底シ、斯文学会設立ノ目的達成セラレタルノ観アリ、且耆宿漸ク凋落セルモ肯テ後継者ヲ挙ゲザリシ為メ、斯文学会ノ事業久シク中止ノ有様トナレリ、大正五年事業振興ノ議起リ、
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新タニ数名ノ学者ヲ幹部ニ加ヘ、其手ニ依リテ振興ノ案ヲ立テ、七年十月二十九日財団法人斯文会ト改メ規模ヲ拡張セリ、此時ニ子爵ハ顧問ニ挙ゲラレ、会長故小松原英太郎君ヲ助ケテ基本金募集其他会務ノ進展ニ尽サレタルトコロ甚タ多シ、後小松原会長ノ薨セラルルヤ十年十二月十七日副会長トナレリ、尋イデ公爵徳川家達者ノ会長ノ任ニ就カルルニ至リシハ、子爵ノ斡旋ノ力多キニ居ル、斯文会ハ現ニ基本金トシテ御下賜金参万円ノ他ニ金弐拾万円ヲ有シ、講演・講義等ヲ行ヒ雑誌「斯文」其他有用ノ図書ヲ発行シ、毎年四月孔子祭典ヲ挙行ス、本部ヲ東京湯島聖堂構内ニ設ケ、長岡市及ビ熊本市ニ各々支部ヲ置キ全国ニ亘リ約二千名ノ会員ヲ有ス、徳川公会長タリ、子爵副会長タル外男爵阪谷芳郎君亦副会長外ニ副会長一名欠員タリ、東京帝国大学名誉教授服部宇之吉君・東京高等師範学校長三宅米吉君・東京帝国大学教授宇野哲人君・同塩谷温君・東京高等師範学校教授中村久四郎君・第一高等学校教授島田鈞一君・福島甲子三君理事タリ、大正十二年関東大震火災ノ為メ聖堂ノ炎上スルヤ、斯文会ハ文部省ニ交渉シ仮聖堂ヲ建テテ之ヲ献納シ、更ニ其保管ノ委託ヲ受ケ居レリ
明治四十年有志者ノ孔子祭典会ヲ起スヤ、子爵ハ初ヨリ委員トシテ尽力セラレ、後同会ノ斯文会ニ併合セラレ、斯文会ニ於テ孔子祭典ヲ挙行スルコトトナルヤ、子爵ハ病気等已ムヲ得ザル事故アラザル限リ必ズ祭典ニ参列セラレ、現ニ又聖堂復興期成会副会長トシテ尽力セラレツツアリ
   ○右書封入ノ封筒ニ左ノ如ク記入サル。
    「『渋沢子爵と斯文会』の記録は斯文会の山本邦彦氏の草案に基き、服部宇之吉博士添削されたるものである。」


斯文 第一編第一号・第一一一―一一四頁 大正八年二月 ○財団法人斯文会寄附行為(DK410007k-0009)
第41巻 p.22-25 ページ画像

斯文 第一編第一号・第一一一―一一四頁 大正八年二月
    ○財団法人斯文会寄附行為
      第一章 目的
第一条 本財団ノ目的ハ、儒道ヲ主トシテ東亜ノ学術ヲ闡明シ、以テ明治天皇ノ教育ニ関スル勅語ノ趣旨ヲ翼賛シ、我ガ国体ノ精華ヲ発揮スルニアリ
      第二章 名称及事務所
第二条 本財団ハ財団法人斯文会ト称ス
第三条 本財団ノ事務所ハ東京市神田区錦町壱丁目拾八番地ニ置ク
      第三章 事業
第四条 本財団ノ事業ハ斯道ノ宣伝、学術ノ研究及学資ノ補給、学生ノ養成、先聖ノ祭祀、湯島聖廟ノ保管維持、雑誌其他必要ナル図書ノ編輯発行等ヲ為スニアリ
      第四章 資産
第五条 本財団ノ資産ハ、別紙財産目録ノ通元社団法人斯文学会ヨリ寄附セル財産トス
第六条 前条ノ財産中、有価証券及ヒ不動産ヲ以テ本財団ノ基本財産トス
 他ノ財産ニシテ常議員会ノ議決ヲ経タルモノ、及指定寄附財産ハ之
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ヲ基本財産ニ加フ
 基本財産ノ内有価証券ハ其設定当時ノ時価ニ依リ、不動産ハ同シク管轄登記所ノ課税標準額ニ依リ其価格ヲ計算ス、但シ本財団ノ購入ニ係ルモノハ其購入価格ニ依ル
 基本財産ノ一部ヲ変更又ハ廃止セントスルトキハ、常議員会ニ於テ全員ノ四分ノ三以上ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス
第七条 本財団ノ経費ハ資産ヨリ生スル果実、会見ノ醵出金及其他ノ収入ニシテ、基本財産ニ組入レサルモノヲ以テ之ヲ支弁ス
第八条 有価証券ハ其保管ヲ日本銀行ニ委託スヘシ
 前項以外ノ資産ノ管理及会計整理ノ方法ハ別ニ定ムル会計規則ニ依ル
第九条 本財団ノ会計年度ハ暦年ニ依ル
      第五章 事業ノ分担
第十条 本財団ノ事業ヲ施行スル為メ左ノ各部ヲ置ク
 一 本部
   本財団ノ枢機ヲ掌リ庶務会計ヲ処理ス
 二 教化部
   講義・講演、其他斯道ノ宣伝ニ関スル事項ヲ掌ル
 三 研究部
   学術ノ研究及学資ノ補給、学生ノ養成等ニ関スル事項ヲ掌ル
 四 祭典部
   先聖ノ祭祀、聖廟及一切ノ附属建物並附属物ノ保管維持等ニ関スル事項ヲ掌ル
 五 編輯部
   雑誌其他必要ナル図書ノ編輯及発行等ニ関スル事項ヲ掌ル
      第六章 職員及会議
第十一条 本財団ニ左ノ職員ヲ置ク
  総裁 一名   顧問  若干名
  会長 一名   副会長 一名
  会幹 二名   部長  四名
  監事 二名   常議員 二十名乃至三十名
  書記 若干名
第十二条 総裁ハ常議員ノ協賛ヲ経テ会長之ヲ推戴ス
第十三条 顧問ハ常議員会ノ協賛ヲ経テ会長之ヲ委嘱ス
第十四条 会長・副会長・会幹・部長及監事ハ常議員会ニ於テ互選ニ依リ之ヲ定ム、但シ本部ノ部長ハ副会長之ヲ兼ヌルモノトス
第十五条 会長・副会長・会幹及部長ヲ以テ理事トス
第十六条 会長ハ本財団ヲ代表シ、財団ノ常務ハ之ヲ専決シ、其他ノ事務ニ付テハ理事ノ過半数ノ決議ニ依ル
第十七条 会長事故アルトキハ副会長之ヲ代理ス
 会長・副会長共ニ事故アルトキハ、理事ノ決議ニ依リ理事中ヨリ臨時其代理者ヲ定ム
第十八条 理事ノ任期ハ三年、監事ノ任期ハ四年トス、但シ再選セラルルヲ妨ケス
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第十九条 理事又ハ監事ニ欠員ヲ生シタルトキハ之ヲ補欠スヘシ
 補欠ノ理事又ハ監事ノ任期ハ前任者ノ残任期間トス
第二十条 会幹ハ本部ニ属シ、庶務会計ニ関スル事項ヲ分掌ス
第二十一条 部長ハ各部ニ関スル事務ヲ掌理ス
第二十二条 監事ハ会計ニ属スル事項ヲ監督ス
第二十三条 常議員ハ特別会員ノ互選ニ依リ之ヲ定ム
第二十四条 常議員ノ任期ハ六年トシ、三年毎ニ半数ヲ改選ス、但シ再選セラルルヲ妨ケス
 常議員ニ欠員ヲ生シタルトキハ補欠選挙ヲ行フヘシ
 補欠常議員ノ任期ハ前任者ノ残任期間トス
第二十五条 会長ハ毎年二回常議員会ヲ招集スヘシ
第二十六条 会長又ハ監事ハ必要ト認メタルトキハ臨時常議員会ヲ招集スルコトヲ得
 常議員三分ノ一以上ヨリ会議ノ目的タル事項ヲ示シテ請求ヲナシタルトキハ、会長ハ遅滞ナク常議員会ヲ招集スヘシ
第二十七条 常議員会ハ其過半数出席スルニアラサレハ開会スルコトヲ得ス
 常議員会ノ議事ハ出席者ノ多数決ニ依リ之ヲ定ム、可否同数ナルトキハ議長之ヲ決ス
 会長ハ常議員会ノ議長トナリ、議事ヲ整理ス
第二十八条 緊急已ムヲ得サル必要アルトキハ、常議員会ノ開催ニ代ヘテ書面ヲ以テ議案ニ対スル表決ヲナサシムルコトヲ得、此場合ニ於テハ表決ヲナシタル常議員ノ過半数ヲ以テ議事ヲ決ス、可否同数ナルトキハ会長之ヲ決ス
第二十九条 左ノ事項ニ付テハ理事ハ常議員会ノ議決ヲ経テ之ヲ処理スヘシ
 一 資産ニ関スル重要ナル事項
 二 経費ノ予算及決算
 三 其他特ニ重要ナル事項
第三十条 理事ハ其執行シタル重要ナル事務ニ付常議員会ニ之ヲ報告スヘシ
 理事ハ財産目録及前年度ノ決算表ヲ編成シ、上半期ニ於ケル常議員会ニ報告スヘシ
第三十一条 書記ハ会長之ヲ任免ス
第三十二条 本財団ノ会計規則其他会務ヲ執行スルニ必要ナル重要ノ諸規程ハ、常議員会ノ議決ヲ経テ之ヲ定ム
      第七章 会費
第三十三条 本財団ニ左ノ会員ヲ置ク
 一 名誉会員
 一 特別会員
 一 賛助会員
第三十四条 名誉会員ハ常議員会ノ協賛ヲ経テ会長之ヲ推薦ス
第三十五条 特別会見ハ左ノ各号ノ一ニ該当スル者ヲ以テ之ニ充ツ
 一 元社団法人斯文学会特別会員タリシ者
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 二 本財団ニ功労アリ常議員会ノ認定ヲ経タル者
 三 特別会員五名以上ノ推薦ニ依リ常議員会ノ認定ヲ経タル者
第三十六条 賛助会員ハ本財団ノ目的事業ヲ賛助シ、本財団ノ承認ヲ経タルモノトス
第三十七条 特別会員及賛助会員ハ本財団事業遂行ノ費用ヲ補フ為メ毎年金壱円五拾銭宛ヲ醵出スルヲ要ス、但シ一時ニ金参拾円以上ヲ納メタル者ハ年醵金ヲ要セス
第三十八条 会員ハ本財団発行ノ雑誌ノ配付ヲ無償ニテ受クルモノトス
第三十九条 会員ニシテ脱退セントスルトキハ本財団ニ届出ツヘシ
第四十条 会員ニシテ本財団ノ体面ヲ虧損スヘキ行為アル者、又ハ会員タルノ義務ヲ怠リタル者ハ常議員会ノ決議ヲ経テ除名スルコトアルヘシ
        第八章 雑則
第四十一条 第一条及第二条ヲ除ク外、将来本財団ノ寄附行為ヲ変更スルノ必要アルトキハ、常議員会ニ於テ全員ノ四分ノ三以上ノ同意ニ依リ主務官庁ノ認可ヲ受ケ之ヲ変更スルコトヲ得、但シ事務所ヲ移転スル場合ニ於テハ、第二十七条第一項及第二項ノ規定ニ依ル


斯文 第一編第五号・第七八頁 大正八年一〇月 ○孔子祭典会合併(DK410007k-0010)
第41巻 p.25 ページ画像

斯文 第一編第五号・第七八頁 大正八年一〇月
    ○孔子祭典会合併
 九月十五日孔子祭典会合併の件を、小松原会長及嘉納祭典部長より同会員に報告せり。又同会評議員諸氏を本会特別会員に推薦したり。
   ○孔子祭典会ニ就イテハ本資料第二十六巻並ニ本巻所収「孔子祭典会」参照。



〔参考〕斯文 第三編第二号・第七六―七八頁 大正一〇年四月 ○孔子教会臨時総会(DK410007k-0011)
第41巻 p.25-28 ページ画像

斯文 第三編第二号・第七六―七八頁 大正一〇年四月
    ○孔子教会臨時総会
大正九年十二月二十三日麹町区有楽町生命保険会社協会に於て孔子教会臨時総会を開く、中村久四郎君・村岡素一郎君・牧恒三郎君・相良常雄君・宮崎政光君・市村瓚次郎君・松井廉君・矢野恒太君・石川善太郎君・書記富長久郎出席、此の外書面にて賛成の意思を申越されたる方々は、井上哲次郎君・石川小一郎君・服部宇之吉君・服部金太郎君・早川千吉郎君・萩野由之君・石川安宅君・岡野義三郎君・永井碌君・村上広治君・小柳司気太君・三上七十郎君の十二名である。
矢野恒太君。明治四十一年より今日に至る過去十数年間に亘る孔子教会の歴史を叙述せられ、曰く、論語の輪講も兎に角八十九回の講莚を重ね、一巡講了したのですが、始めの盛会なりしに引きかへ、仕舞際には会員の来会せらるゝ方も次第に減少し、僅々三・四名の御出席を見る位にて、其他は皆通り懸りの聴講者と云ふ有様で、是も段々小人数となりました、輪講が一巡終結した其後は、更に常務委員の市村君松井君に交代若くは継続して御講義を願ふ筈でありましたが、色々の都合で其儘となつて居ります、今晩の議題になつて居る斯文会の事は市村君・松井君の方が御精いのでありますが、つまり同じ目的の会が幾つにも小さく分れて働くよりも、之を一つに纏めて其力を強大にし
 - 第41巻 p.26 -ページ画像 
た方が、事業を遂行する上に便宜で且有効であると信じます、斯文会の方には雑誌も発刊せられ、講演会やら何やら夫子の道を宣伝するに相当の機関が設備されて、今回更に大発展の計画中でありますから、彼の孔子祭典会も既に同会へ合併し、今回また孔子教会を合併したいと云ふ希望がありました、我々の主義目的を宣伝する有力なる機関として、斯文会の方に合併して、一層活動力を大にした方が宜しいかと存じます、皆様の御意見のある処を充分に伺いたいのです。
市村瓚次郎君。斯文会の起源は随分古いことで、此処に御出の松井君は其第一期の御卒業者であります、会長は目下の処前小松原会長薨去の後、未定の儘になつて居りますが、何れ相当の方へ御依頼することになつて居ります、大体教化・研究・祭典・編輯等の各部に分ちて事業を分担することになつて居ります、各部には部長がありまして、夫夫担任の仕事を分掌せられて居ります、今回基本金二十万円を醵集しまして大々活躍を試みる筈です、渋沢子等が此の基金の方は専ら御尽力になつて居ります、そして御自分よりは一万円御寄附になりました岩崎男爵家よりも五万円丈、年賦御寄附の事になつて居ります、弥々基金が予定に達しますれば、今の湯島の聖堂を無償にて文部省より下附せらるゝ内諾を得て居ります、此処を斯文会の根拠、即ち孔子教の本山にする筈であります、曩に合併せられました孔子祭典会は、祭典部にて其事業を継続し、孔子教会の事業は教化・研究の両部に移します考であります、故に仮令孔子教会と云ふ名義は無くなりましても、其事業は永久に同会に於て継承されるので、双方合併した方が宜しいかと思ひます。
宮崎政光君・相良常雄君・牧恒三郎君・松井廉君の賛成意見あり。村岡素一郎君。孔子教会を斯文会に合併の件に付、只今常務委員各位の御説明を聴取しました、実は反対意見も御座いますが、大勢は略ぼ予定して動かぬ者と存じますから、私も余儀なく同意を表し、速に本件の結了を告げたいと思ひますに付、聊か善後策として保留を願ひたく卑見を陳べる次第であります。
一体私は、孔子教会は従来の儘維持せられた方が、世道人心の為少なからぬ裨益が伴ふ事かと思つて居ます、其の訳は申す迄もなく社会の全組織に差別階級の存在するは自然の大法則でありまして、此の各階級に於ける地盤其のものたるや未来永劫断じて潰滅するものではありません、併し乍ら其の内容の幾分は明治維新以来交互移動し、彼此上下し、今猶ほ潜移黙運しつゝあります、何を苦んで憖に其が全体を打破し、一律平等ならしめんとするか、這は畢竟無知軽躁なる挙と喝破したいと思ひます、要するに私は何処迄も階級は階級として安定せしめ、而して各階級の分子に精神的の安寧福祉を感得せしむるが、教化事業の本旨であらねばならないと信ずるのであります、想ふに斯文会は知らず識らず単に中層以上の学問・文芸の具に供せらるる傾向が見えますが、是も必要欠くべからざる機関であり、又孔子教会の如く市塵熱閙の間にありて卑近通俗に斯道を宣伝せられる事は、更に必要と存じます。
蓋本会は此の必要に応じて成立したものと信じますが、此の二つの会
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が両両相対して歩趨しなければならないので、もし然らざれは文化は跛者的となつて顛仆するに相違ありません。
私は本会会員にして、又斯文会会員でもありますから、何れに偏私する考は毛頭ありません、唯両会並立して上下階級に斯道を宣伝せられる事を予期し居たる際、合併の事になつたは本会の為に愛惜に堪へない次第であります。然し大勢は動すべからず、唯斯文会が本会の趣旨を継続し、上下両方面に向つて斯道の普及に尽瘁される事を懇嘱して止まないのであります、此に合併決議の席上に於て斯文会に対する希望を保留し、又謹で幹部各位が積年の労を謝します。
中村久四郎君。合併のことに付きましては私も賛成致します、併し只今村岡君の御演説により不斗思ひ付きましたのは、多年風雨寒暑の別なく殆ど献身的に本会の為めには尽瘁下さいました常務委員諸君の崇高なる御煩労に対し、甚だ失礼の様ではありますが、本会の名を以て何等かの形式により謝恩の意を表明して、有終の美をなしたいと思ひますが、如何でありませうか。
矢野恒太君。御両君を差置て甚だ差出ケましき次第ではありますが御芳志は誠に感謝に堪へませぬ、併し孔子教会が此儘解体して名実共無くなつてしまふと云ふ訳ではなくて其事業は矢張り斯文会によつて継続され、私共も今後は其の方で道の為め尽します考へでありますのと斯文会の方でも只今市村君の御話の様に基金醵集中でありますから少しにても多く同会へおみやげを持つて行きたい、同会のため少しでも裨益になる方法を取りたい、そうした方が宜しくはありませんか。
松井廉君。至極御尤の次第で賛成致します。
市村瓚次郎君。私も同意見であります。
矢野恒太君。斯文会へ合併の件は別に御異見がない様でありますから合併の事に決定致します、会計の事は別表の通りで、唯今会の財産としては預金現金を合せて六百五拾四円五拾七銭を有して居りますが、此の中で会を閉鎖するに当りて書記の手当其他の費用を要しますから之は幹事へ御一任を願ひます、而して残る所のものは斯文会の方へ引継ぐことに御承知を願ひます。
満場異議なし
      会計 自明治四一年五月(発起)至大正十年一月(閉鎖)

 年度       収入     支出        年末現在高
          円       円           円
明治四十一年 一五二・七七〇 一一〇・五九〇      四二・一八〇
明治四十二年 二六八・〇四〇 七九一・七七〇《(二)》  一八・四五〇
明治四十三年  六二・〇〇〇  五五・一二〇      二五・三三〇
明治四十四年 一〇四・〇〇〇  四〇・七〇〇      八八・六三〇
明治四十五年 一八五・二八〇  四六・九〇〇     二二七・〇一〇
大正二年   一七八・五三〇  九六・八二〇     三〇八・七二〇
大正三年   一三九・〇一〇  五三・四四〇     三九四・二九〇
大正四年   一一三・九一〇  四八・二五〇     四五九・九五〇
大正五年   一〇八・一三〇  五〇・五八〇     五一七・五〇〇
大正六年   一〇八・六八〇  五六・〇四〇     五七〇・一四〇
大正七年    九八・四八〇  五五・四三〇     六一三・一九〇
 - 第41巻 p.28 -ページ画像 
大正八年    八八・〇九〇  三〇・〇〇〇     六七一・二八〇
大正九年    八二・四三〇  九九・一四〇     六五四・五七〇
大正十年     五・九三〇 一〇四・六二〇     五五五・八八〇

  金五百五拾五円八拾八銭也 資産総高斯文会へ引継
 右之通に候也             元孔子教会常務委員



〔参考〕斯文 第二編第一号・第七二頁 大正九年二月 ○小松原会長薨去(DK410007k-0012)
第41巻 p.28 ページ画像

斯文 第二編第一号・第七二頁 大正九年二月
    ○小松原会長薨去
 本会々長従二位勲一等小松原英太郎君は、十二月十九日より流行性感冒に罹り同月廿六日午前十一時薨去せらる、因て賻賵及左の弔詞を贈呈したり。
 財団法人斯文会々長小松原君。天資重厚。識見高邁。嘗掌文政。
 竭力教育。講究皇典。振作斯文。大補風教。世猶望其簟竭一朝溘亡。幽明殊界。痛惜曷巳。玆奠蘋繁之資。聊表哀悼之意。
  大正八年十二月二十九日
           財団法人斯文会副会長 股野琢



〔参考〕近世日本の儒学 徳川公継宗七十年祝賀記念会編 前付第一―九頁 昭和一四年八月刊 【徳川公爵と斯文会 服部宇之吉】(DK410007k-0013)
第41巻 p.28-31 ページ画像

近世日本の儒学 徳川公継宗七十年祝賀記念会編
                     前付第一―九頁 昭和一四年八月刊
    徳川公爵と斯文会
                     服部宇之吉
 吾が財団法人斯文会は社団法人斯文学会の事業を継承し之を発展せしめたものである。抑々斯文学会は明治十三年二月、右大臣岩倉具視公が儒教に依つて堅実なる思想を養成し、以て国基を鞏固ならしむるに資せんとて、陸軍中将谷干城・文学博士重野安繹氏等に勧めて組織されたものである(日本儒学年表参照)。
 当時 明治天皇五箇条の御誓文に「智識ヲ世界ニ求メ」とあり又「旧来ノ陋習ヲ破リ」と仰せられた御趣意を穿き違へたものが有り、外国のものは何でも皆宜しい、日本のものは皆旧弊頑固であるといふので、旧弊頑固を一掃し文明開化を樹立しようとした。所謂旧弊頑固の中には確かに旧弊頑固のものもあつたが、国体を明徴にすべきものも亦た少くなかつた。又所謂文明開化の中には我が国体と相容れない国民道徳と一致しないものがあり、此等は厳密なる検討を経て然る後に取捨を決すべきものであつた。然るに左様なる検討を行はずして一概に取捨せんとして、我が国固有の道徳も之を視ること猶弊履を捨つるが如く、名教将に地に払はんとするを慨し、岩倉右大臣が谷・重野氏等に意を示し、其の意を奉じて時の学者其の他諸方面の人士を翕合して組織したものが斯文学会である。創立に際し、朝廷に於ても之に重きを置かせられ、翌十四年五月一品宮熾仁親王を会長に仰ぎ奉ることを許され、又学舎を経営することを聞こし召されて、十ケ年間毎年金二千四百円余を下賜せられたる外、麹町宝田町所在の官営建物を貸下げられ、発会式に当つては特別の御思召を以て別に資金として金一千円を下附せられたる等、上の御保護の厚きものがあつた。
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 斯文学会は斯くの如く学校を経営し、人材を養成し、以て 聖恩に奉答せんと期して居つたが、耆宿年と共に凋落したるも後継者養成の法も講じ難く、且多年の問題なりし名教に関する大題目は教育に関する 勅語の渙発と共に解決せられた。玆に人心稍々緊張を欠くと同時に一方には不平等条約打破、治外法権の撤去等の問題に対し、我国も欧米と同一の程度迄進み風俗習慣も一変したことを示さんとして鹿鳴館舞踏・仮装行列・バザー等の流行となり、欧米心酔の風従前よりも却つて激しきを加へた。此の間に処して斯文学会の老先生は実に孤軍奮闘されたのである。
 然し、後継者を養成せざる斯文学会は其の運命風前の灯の如くであつた。此の際渋沢栄一氏は文部省に対し、聖堂を物置同然にして置くことは不都合であると責められたことがあつた。其れは多分明治二十四・五年の頃と記憶する、或る会合の席上で渋沢子は時の文部次官牧野伸顕氏に向つて云はれたことであつた。ところが文部省は渋沢子に対し、財政の関係上手を付け難し、君の手に依つて若干の資金を調達し得るならば、聖堂の保管を斯文学会に委託するも可なり、との言質を与へた。渋沢翁は退いて斯文学会の諸老に謀つたが、何等成案を得るところなく、事は其儘停頓した。明治四十三・四年の頃に至つて、斯文学会幹部に於て、斯文学会の財産を挙げて東京帝国大学に寄附し文科大学内に儒学科の設定を請はんとするの議起り、斯文学会関係者及渋沢翁・金子子爵等を招き相談をしたところ、話が一向纏らずして散会し、寄附問題は自然消滅となつた。其の際に斯文学会と略々目的を同じうする一つの新しき会を組織し、斯文学会の財産(神田区錦町所在の地所・同地上造営物及有価証券等)を挙げて之に寄附し、更に規模の拡張を図り、大いに雄飛せんことを画策した。右画策に与りたる者は主として東京在住の学者にして寄附行為の改正案の作成等著々準備をした。主として此の画策に参じたのは工藤一記・市村瓚次郎・安井小太郎・島田鈞一の諸君と余及他の有志諸氏であつた。之に関して第一に起つたのは会長選任の問題であつたが、中々選定難で久しく停滞の形に在つた。
 大正五年、余が米国より帰朝して後であつた、長い間熟考協議した結果として、前文部大臣枢府顧問官小松原英太郎翁に新に創立さるべき斯文学会会長の白羽の矢か立つた。人物といひ、学識といひ、更新すべき斯文会の会長として最も適当であると衆議一決し、将来斯文会の幹部たるべき主なるものは同氏を訪問して懇願したところ、快く引受けられたので、一同は安心して著々斯文会創立の準備に掛つた。其れには先づ第一に社団法人斯文学会の解散を決行せねはならぬ。然る処、誰が会員であるかすらも分らぬ状態なので、止むを得ず新聞に広告して総会を開催したが、二三人の出席があつたばかりで解散は法の如く決行された。其処で斯文学会を中核とし、更に東亜学術研究会・漢文学会・研経会をも併せて新しい財団法人斯文会が設立され、小松原氏会長と為り、斯文学会の事業及財産を継承して活動を開始した。
時に大正七年九月である。小松原会長は熱心に事に当り、三井・岩崎両家等へは自ら出掛けられて後援を懇望された。かやうにして斯文会
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は基礎漸次固くなり、翌八年二月始めて機関誌として斯文が発刊され更に其の九月には孔子祭典会を併せて斯文会祭典部と為した。現に斯文会の中堅や幹部として活動してゐられる人々には此のやうな浅からぬ関係を持つ人が少くない(斯文六十年史参照)。而して小松原氏は斯文会所有の地所家屋等を合算して委嘱資金二十万円に達すると共に文部省より聖堂保管の委託を受けようと決心された際、翌八年十二月病の為めに不帰の客となられたのは洵に惜しむべきことである。
 此れは、後年に知り得たことであるが、小松原氏が熱心に事に当られたのには自ら別に理由があつたのである。それは曾つて余が国学院大学長在任中のときの事であつた。或日皇典講究所長江木千之氏等と会談の際、江木氏から枢密院内三四の同僚と談し合つた結果、今日の如く思想混乱・暴論跋扈の時に在つて、深く且固く東洋固有の道徳に立脚した思想を確立し以て世道人心を匡正せねばならぬ、それには皇典講究所及斯文会の如きものを確と掌握維持することが必要である、我々は此れに拠つて国を救はねばならぬとかねて申し合せて居るといふ話があつた。余は之を聞いて小松原氏の斯文会に対する熱誠も斯様な信念に本づくものであるかといふことを知つた。爾来此の事は誰にも話した事がないか、今此に始めて発表する。
 斯くの如くして斯文会は折角得た名会長を失ひ会員一同大いに憂慮した。会長後任を色々物色して見たが一長一短中々其の人を得難い。殊に従来本会に関係の薄い方に急に頼んだのでは仮令承諾を得るにしても果して熱心に事に当られるや否や、気遣はれる。又、久しい関係を持つて居られる方は何れも忙しい方々で容易に承諾を得られさうにもない、此様に色々と苦心協議した結果、歯・徳及本会に対する関係の上から、枢密顧問官子爵清浦奎吾氏に御願しようといふことになつた。更に、もう一人別に此の方ならば最上と衆論一致して居る方があつたが、到底御引受けがあるまいといふので、清浦子爵に交渉することに決めた。そこで直ちに、余は斯文会会長問題について終始心配せられた男爵渋沢栄一翁の、熱誠をこめた懇篤なる紹介状を携へて斯文会を代表して(或は工藤一記氏と同行したやうにも思ふ)清浦子爵を訪問して懇願したところ、子爵は枢密顧問官として専心御上の為め御奉公せねはならぬので、一切の会と関係することは出来ない、自分が今一つ丈け甚だ心苦しい乍ら引受けて居る会があるか、自分がやめると会が潰れるといふので適当な人が見付かる迄引受けて居るやうな次第で、折角のこと乍ら御断りする外はないといふことで謝絶された。其処で余は又渋沢男爵に相談を持込んだが、男爵も判断に苦しまれ、暫く待つて呉れといふことであつた。ところが遂に徳川家達公を煩すことにしようといふことになり、渋沢翁から紹介状を渡された。此の御方は前にもう一人これならば最上といふ方があるといつた其の御方である。徳川家との関係並々ならぬ渋沢男爵の紹介のことであるから徳川公爵は必ず御引受け下さるであらうと思つて喜び勇んで余は斯文会を代表して渋沢男爵の紹介状を携へて御尋ねした。徳川公は我々の願を聴きとられ、渋沢男爵の紹介状を御覧になつた。さて如何なる御返事があるかと気が気でなかつた。御待ち申して居ると徳川公爵は口
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を開かれ、御趣意はよく分りました、早速御返事するとよいのだが何分最近に海外へ出張すべき為め用務多端であるので、速答致し兼ねる何れ海外出張から帰つた上で御返事をしますからそれ迄御待ち下さいといふ御返事であつた。我々は窃かに此の御返事ならば御帰りの後に御断りになることはあるまいと信じて、喜んで引下つた。其の後余が華族会館で御目にかかつた時、余の方からは何も申さないのに公爵閣下の方から、先日のことは帰つたら確かに御返事しますと念を押された。我々はよき御返事を期待しつゝ待ち申上げたのであつた。軈て御帰朝になるや余を御呼びになつて先般約束の斯文会長を御引受けするとの御返事を賜つた。余等は感喜して引下り、早速法の如く手続をして此に大正十一年三月徳川公爵は斯文会会長に御就任になつた。
○下略