デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
3款 財団法人斯文会
■綱文

第41巻 p.54-61(DK410017k) ページ画像

大正12年6月10日(1923年)

是日、当会主催尚歯会、東京銀行倶楽部ニ開カル。栄一、正賓ノ一人トシテ出席シ、挨拶ヲ述ブ。


■資料

斯文 第五編第四号・第六七―六八頁 大正一二年八月 本部委員会(DK410017k-0001)
第41巻 p.54-55 ページ画像

斯文 第五編第四号・第六七―六八頁 大正一二年八月
    ○本部委員会
 - 第41巻 p.55 -ページ画像 
 六月七日午後四時より本会事務所に於て本部委員会を開き、総務・会幹・委員等全部出席し、本月十日開催すべき尚歯会に関する諸般の準備を協議せり。


集会日時通知表 大正一二年(DK410017k-0002)
第41巻 p.55 ページ画像

集会日時通知表 大正一二年        (渋沢子爵家所蔵)
六月十日 日 午後三時 斯文会主催尚歯会(銀行クラブ)


竜門雑誌 第四二一号・第六四頁 大正一二年六月 ○敬老の雅会(DK410017k-0003)
第41巻 p.55 ページ画像

竜門雑誌 第四二一号・第六四頁 大正一二年六月
○敬老の雅会 財団法人斯文会にては、六月十日午後三時より東京銀行倶楽部に於て、同会新旧役員の内、古稀以上に達せる細川潤次郎男(九〇)青淵先生(八四)土屋弘翁(八三)石黒忠悳子(七九)松本豊多翁(七七)清浦奎吾子(七四)等十氏を招待して、第一回尚歯会を催し、徳川家達公・徳川達孝伯・阪谷男、服部・宇野・萩野・塩谷・市村諸博士、和田豊治氏等七十余名出席の上、先づ会長徳川公の祝辞朗読に次ぎ細川男及び青淵先生の挨拶あり、終つて記念の銅爵(雀を形取りたる支那古代の盃に摸せるもの)を贈与し、尚ほ記念の撮影ありて宴会に移り、主客和気靄々裡に午後七時散会せる由。


中外商業新報 第一三三八七号 大正一二年六月一一日 祝はれた……斯文会の十老 青銅の爵を手にして嬉しげに而かも元気な顔(DK410017k-0004)
第41巻 p.55-56 ページ画像

中外商業新報 第一三三八七号 大正一二年六月一一日
    祝はれた……斯文会の十老
      青銅の爵を手にして嬉
      しげに而かも元気な顔
「いやお目出度う」「ようこそ」と、一番遅れて来た九十歳の高齢者細川潤次郎男に、会長の徳川家達公やお先に来た渋沢青淵子や清浦子等が喜びに満ちた面持で挨拶する、真紅の薔薇を胸間に附した細川男も嬉し気に見える、耆宿尊崇の意味で十日午後四時から丸の内の銀行倶楽部で開かれた斯文会が新旧役員中から古稀以上に達した十名の人達を寿く尚歯の集ゐの場面である、尚歯会正賓として招かれたのは細川潤次郎男(九〇)の最高を始めとして、渋沢栄一氏(八四)土屋弘氏(八三)石黒忠悳子(七九)松本豊多氏(七七)清浦奎吾子(七四)大野太衛氏(七四)金子堅太郎子(七一)工藤一記氏(七一)平山成信氏(七〇)の十氏で、金子子と大野氏は旅行中で欠席した、一番若い平山さんも、フロツクの清浦枢相も今日は珍らしく笑顔を見せて莫迦に御機嫌がいゝ、卓上の紙に細川翁が「長生殿裏春秋富不老門前日月遅」と筆を走らす、清浦さんが「傾昼丹葵一片心」、白髪の平山さんが「七十空驚白髪多」、青淵翁が「事多歳月促」とそれぞれ一句筆を揮ふ、斯文会長徳川家達公が祝辞を述べると、八氏を代表して細川男が令息に付き添はれて答辞を述べ昔は姥捨山もあつて老人を虐待したものである」と感慨無量、渋沢子が起つて「今は古いものを捨てゝ新しがる世の中で或る意味に於て世間から疎んぜられて居るが、老人は大いに尊ばねばならないものである、然し老人自身も省りみて世間から嫌はれぬやうにしなければならない」と年はとつても声はなかなか大きい、土屋弘氏の追懐談がありて、徳川会長の手から記念品として昔支那で使はれた爵(盃)を青銅で模造したものを贈つた、それから階上で記念撮影をして祝宴に入り
 - 第41巻 p.56 -ページ画像 
徳川公・細川男・清浦子の思ひ出話があつたが、何れも元気一抔で会員を驚かした、最後に塩谷博士の詩吟があつて七時お開きとなつた、集つた主なる人は徳川達孝伯・阪谷男・和田豊治・服部宇之吉博士、頼山陽の孫に当る頼成一子、福島甲子三氏、其他実業家・学者等百余名で盛んな会であつた


斯文 第五編第四号・第六八―七五頁 大正一二年八月 尚歯会記事(DK410017k-0005)
第41巻 p.56-61 ページ画像

斯文 第五編第四号・第六八―七五頁 大正一二年八月
    ○尚歯会記事
 故きを棄てゝ新しきをのみ追ふは、実に現今の風潮なり。この風潮につれ自然に敬長の美風失はれ、我国古来の良俗にして且つ儒教の要道たる敬老尚歯の事も今や殆んど顧みられざるに至れり。試みに日常の新聞紙を一瞥せよ、日として不敬老不尚歯の記事あらざるなし。世道人心の頽廃浩歎すべきものあり。我斯文会は此に鑑みる所あり、胥謀りて尚歯会を興して聊か風潮の一助となさんとし、其の第一回を六月十日午後三時丸ノ内銀行倶楽部に開催するに至れり。当日招待せし正賓は左の如し。
  男爵 細川潤次郎君(九十歳)
  子爵 渋沢栄一君(八十四歳)
     土屋弘君(八十三歳)
  子爵 石黒忠悳君(七十九歳)
     松本豊多君(七十七歳)
  子爵 清浦奎吾君(七十四歳)
     大野太衛君(七十四歳)……欠席
  子爵 金子堅太郎君(七十一歳)……欠席
     工藤一記君(七十一歳)
     平山成信君(七十歳)
 定刻前会員続々参集し、先づ玄関脇にて記念の署名をなす、倶楽部階下の大広間に一同会合、其席上徳川会長の委嘱によりて正賓諸老の寄せ書あり、曰く。
  長生殿裏春秋富不老門前日月遅 十洲
  恩光照四海誰不浴春風 弘
  一事無成 工藤一記
  七十七年雨露恩 豊多
  事多歳月促 渋沢栄一
  七十空驚白髪多 平山成信
  傾尽丹葵一片心 七十四叟奎吾
  大正十二年六月十日於敬老会 七十九況翁
開会の振鈴は和らかに響けり。劈頭服部本会総務より左の如き報告あり。
 尚歯会が開かるゝに至つた報告を開会以前に一寸申述べます。御存知の通り目下の時勢は転々として悪い方面に向ひつゝあつて殆んど其の底止する所を知らない。殊に日本古来の美風にして、且つ儒教精神の美しき発露である敬老尚歯の事は愈々廃れて顧みられないのは痛歎に堪えない次第である。此時に当つて此会を催すことは非常
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に意味のある事と確信致します。それで此会を催しますことに相談が纏つた訳でございますが、さてお招きする方々を如何なる範囲になすべきかに就いて色々と考慮を費やしましたが、既に開会の時期も迫つてゐて、充分の時間もありませんでしたので、結局本年だけは七十以上の御方で、現在本会の役員であるお方と、嘗て役員であつたお方とをお招きすることに定めましたのであります。今後此会は毎年催したいと存じてゐます。来年からは七十・八十・九十・百といふ齢になられたお方をお招きしたいと存じてゐます。
服部総務の事務的報告に次いで徳川会長の祝辞あり。
      祝辞
 今日は斯文会に於きまして諸先生を御招待申して、尚歯会を催しましたところ、御老体をも厭はせられず、御光臨の栄を賜はりました事は、我々発起者の深く光栄とする所で御座います。一同に代り篤く御礼を申し上げます。
 昔は我国にても敬老尚歯の催は諸所に行はれ、老人尊敬の風盛であり、為に風俗も醇厚であつたことは、今猶ほ我々の耳に残つて居り又現に宮中に於かせられては、今日でも八十歳以上の有爵者に対しては特別の御待遇を賜はり居るので御座います。然るに世の中は追追物質主義に傾いて参り、老人を粗末にする様な風儀に変つて行きはしないかと思はれます。一体野蛮時代には老人は邪魔物扱にされたのが、文明の進むに随ひ老人を大切にすることになつたものと思はれます。東洋の道徳特に儒教に於て老人を敬するの教を重んずると云ふことは、其の文化の進歩せることを証する所以にして、今日文化生活を高唱する人々は、須らく此辺の事に深く思ひを致すべきである。我々儒教を主として世道人心を維持振作せんとする者は、世人相率ゐて文化の名の下に野蛮に帰らんとするを見ては黙止することは出来ませぬ。此れ本会が尚歯会を催すことになりました所以で御座います。
 抑々老人と壮者との関係は、先輩と後輩との関係であり、先輩が各種の方面に於て拮据経営せられたればこそ、後輩が其の経験に鑑み其の諸業を紹ぎて、力を展ばす事が出来るのでありまして、恰も父と子、先生と弟子との関係と異なる所なきものと信ぜられます。然れば已に老衰して為すこと有る能はざる人に対しても、十分之を尊敬して謝恩の意を表さなければならないので御座います。況や今日御招待申上げました方々は、世に珍らしき高寿に躋らせられたる方も御座いますが、何れの方も今猶ほ国家社会の為に奪闘尽瘁せられ殊に本会の為に常に指導誘掖の労を賜はり居るに対しては、我々は深き敬意を表さねはならぬ。其れ故に爰に世人に敬老尚歯の美範を示すと共に、本会として多年の指導を感謝する為に、此の会を催しましたので御座います。只今老先生各位に印しばかりの記念品を呈上致したいと存じます。御受領下さらば本会の光栄とする所で御座います。終に臨みまして諸先生の益々御康寧にして、国家社会の為に御尽力あらむことを祈り、併せて長く本会の為に指導を賜はらむことを願ひます。
 - 第41巻 p.58 -ページ画像 
  大正十二年六月十日
            財団法人 斯文会会長 公爵 徳川家達
当日の正賓を代表し、細川男爵起立して答辞を述ぶ。
 敬老尚歯のことは昔から随分と行はれて、これは誠に美しい風俗であつたが、段々洋学が勃興して、今では中々其のやうな事は耳にせぬやうになつた。此節はその洋学から来た文化生活といふことが大層流行してゐますが、これは礼には当らぬさうである。此礼といふものは文明の進むにつれて発達したもので、野蛮時代にはない、従つて大昔の人間には礼といふものが欠けてゐる。今日お催し下すつたこの敬老尚歯の会は立派な礼であつて文明人の特権であります。我国に昔姥捨山といふのがあつて、老人を其処に捨てるといふのであるが、併し儒教が盛んになつてからは、そんなことをするものはない。これに似た話は西洋にもあるさうだが、これは実に野蛮な話で人智の発達したものゝする事でない、礼に反するからである。所が只今では其の文化生活とやらが盛んになつて、昔の礼のない野蛮時代に逆行するのではないかと思はれるふしがある。これは誠に歎かはしいことである。此時に当りて、斯文会で吾々老人を御招待下され、かくも盛大にお集り下すつたことは寔に今の時勢の上から申しましても大に有意義のことで、又吾々老人共も感謝に堪えない次第であります。私が代表して厚く御礼を申上ます。
渋沢子爵は細川男に次いで、元気よく起立し、満堂を圧するが如き豊富なる声量にて左の挨拶を述ぶ。
 今の世界は現在未来を追ふに汲々として、過去の事は一切関まひつけぬといふのが、動かすべからざる事実である。所がその現在未来は即ち過去の延長であつて、現在及び未来をよくするには其の過程であつた過去の経験を除外することは出来ぬ、実際今の人には空想的な未来があるばかりで、過去に関心を置くやうなことは殆んどない。従つて過去の経験に富んでゐる吾々老人が、どんなに多くの尊いものを所持してゐるかに就いても顧みないのである。勿論只今徳川会長の仰せのやうに、朝廷には敬老の儀式はありますが、以上述べた事が時代の趨勢であつて見ると、泣いても吠えても致方のないことである。併し一面老人も考へねばならぬことゝ思ふ。実際現代の老人は無気力である。時代に醒めてゐない。古来陋習を墨守し過ぎる傾向がある。そして年を取ると俺は老人だからといふやうな事をいつて逃げようとする。これでは棄老されるやうになるのであつて、此処は吾々老人は大に考へねばならぬ事だらうと思ふ。吾々老人も社会から葬られないやうに、自己の存在を主張し、自己を尊敬し、大に活動して若い者に負けぬやうに、時勢の推移と共に進展して行かねばならぬと思ふ。今日の此会をお開き下すつた事に対して私は深甚の謝意を表し、聊か愚見を披瀝する次第である。
と万丈の気焔を揚げ、実に壮者を凌ぐの概あり。次いで土屋弘君起立して、余は姥捨山とは反対の事実の日本にある事を紹介せんとて、別項雑録欄に掲載の城ノ崎養老会の記録を朗読す。音吐朗々、まさに渋沢子と相伯仲し、会衆をして驚嘆せしむ。次いで徳川会長より正賓の
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方々へ当日の記念品を夫々贈呈し、祝賀の式を一と先づ閉づ。
    当日贈呈の記念品
  爵(青銅製)高サ四寸三分、両耳三足
                新田大碧製
会衆は諸老を相擁して、別室に移り、巻頭掲載の記念撮影をなし、ついで階上大広間に於て祝宴を開く。デザートコースに入るや、徳川会長の声に一同起立して諸老の健康を祝して乾盃す。細川男爵の謝辞並びに斯文会に対する献酬あり、会長再起列席の諸君の健康を祝し、終つて村山東京朝日新聞社長の挨拶あり、曰く。
 尚歯会には以前にも屡々招かれたれとも、今日此席に列して非常に驚きしは招待されし方々が斯く迄元気であることである。これは一つに諸老の平素の御鍛錬の結果と存じ大に欣快とする所である。
次いで塩谷博士起立す。博士は席上即賦の左の一篇を、天成の美音を以て一揚一抑、吟誦し去る。満堂粛として耳を傾く。
 薫風吹暖雨晴天。緑樹陰濃魚躍淵。霜鬢朱顔迎碩老。
 氷清玉潤会群賢。成功立徳輿望重。績学種文晩節堅。
 喜得今宵陪寿宴。奉觴恭賦九如篇。
    斯文会尚歯席上恭賦
                     節山学人
平山成信君之に唱和して、
 和気如春酒満樽。華灯照酔已黄昏。揚文結社群英集。
 尚歯開筵古道存。堪歎人情只趨末。偏憂文化未窮源。
 古稀何用説吾老。九秩仙翁笑語温。
    斯文会尚歯会              竹渓
猶ほ土屋弘君も亦席上左の詩を賦す。
  大正十二年六月十日。斯文会開敬老寿筵於郭内大楼。被寵招者十人。博士学士等参会者数十名。為近来盛事。予亦与焉。席上賦長律一篇。記実況。以呈会長徳川公閣下。
 高楼此日寿筵開。伴得群賢信楽哉。耆宿縦談伝偉業。
 俊髦博識認雄才。窓頭望遠風光豁。欄角雲帰夕照催。
 為是主人能養老。宴酣時見玉山頽。
               八十三齢 土屋弘 初稿
之に次いで清浦子爵は一場の懐旧談を試む。
 今は若い者の世界で、吾々老人は婚姻の席上のみで調法がられてゐるが、併し老人には老人で尊い経験がある。私は決して自慢するのではないが、私が今日現地位を得るに至つたのは如何なる故であるかを回想して見て、少し懐旧談を申述べて見たいと思ふ。私は官途に就いて五十年の歳月を経たのであるが、今日から考へて見て最も心に銘じてゐることは四恩である。尤も私の四恩は重盛のいつた四恩とは違つてゐるが、この四恩によつて、私は現今のやうな身分になれたのだと熟々感じてゐるのである。でこの四恩は何かといふと第一には親の恩、第二には先輩の恩、第三には朋友の恩、第四に時世の恩である。
 第一に親の恩といふものは中々数へ切れるものではないが、取り分
 - 第41巻 p.60 -ページ画像 
け有難く思つてゐる事がある。それは私の生家は左程貧には非るも富めるには非ず、六人兄弟の第五男なる私が学問する時には私の家は余程困つてゐたのである。併し私の両親は相当の教育を施して呉れて今日ある下地を作つて呉れたのであつて、これは誠に有難い親の恩である。勿論私は遺産抔は貰はぬが、此の健康体を貰らつた事は大なる遺産である。官に就いて以来病気といふものをした事がない、加之私が警保局長時代には不眠不休、人一倍の勉強をしたが、決して身体に障るやうな事はなかつたのである。これは親から貰らつた健康体のお蔭であつて、何より有難い親の恩である。
 第二に先輩の恩であるが、私は若い頃随分短気な負けず嫌ひな男であつた。其れが為めに屡々失策をした。明治十四年だつたが元老院会議の時、私は説明委員として列席した事があつた。其席上私は某元老院議官が癪に触つて、不敬な語気を漏らした事がある。友人の温かき忠告により、私は元老院議長に陳謝して私の一生の危機は無事に納まつた訳であるが、其後、時の議官であつた私の最も尊敬し師父の如く事へてゐた、島津藩の君子水本といふ人から呼ばれて、短気は我儘より起る、愛矯ある者が立身するといふ二つの事を教へられた。これから私は大に悟つて修養した結具、後には七面倒な事が起ると直ぐ「清浦に持つて行つて裁いて貰らへ」といふ風に調法がられる程圭角のない人間になつたのである。これは慥しかに先輩の恩である。
 第三に朋友の恩であるが、朋友は頼もしいものである。兄弟に話さぬ事も朋友には話すものであるが、私に刎頸の友は三四ある。私が嘗て平山町に家を建てゝ友人を招んで御馳走した事がある。其時某友人は一向よろこばないで非常に苦言を呉れたのである。私の今日あるは全く親友益友の助け多きに居るのである。
 第四は時世の恩であるが、私は非常にいゝ時に生れたのである。維新といふ絶好の機会に遭遇したから、私は今日あり得た訳で、此維新なかりせば、私は一村夫子に終つた事と思ふ。それに又一方世の中はドンドン進化してゐて、私は常にそれに遅れまい、一歩先きに出やう出やうと努めたので、今日あり得たと思ふ。慥かに此の時勢が私の知能を開発して呉れたのである。
 私は以上の四恩を深く肝に銘じてゐるが、恩あれば其処に謝恩といふことがなくてはならぬ。第一には暴飲暴食をつゝしみ、父母より貰らつた健康体を維持して行く、これが親に報いる道であると心掛けてゐる。第二には短気を直ほして先輩の恩に報いる。第三に朋友の忠言を守る。第四に進化する時世に順応して世の為めになるやうにするといふ風にして今日迄来た次第である。今日尚歯会をお開き下すつて私は非常に感謝してゐる。其の御礼のかはりに懐旧談を試みて嘸ぞお聴き辛らかつた事と思ふが、何分の御寛恕を請ふ。
此の興味ある懐旧談に次いで菅原良三郎君起つて、我国の思想は諸種の方面に根柢を有し居れども、徳川三百年は儒教を以て立ちし時代にして、其思潮は愈々堅実化されたるを信ず。故に其堅実なる儒教精神を鼓吹する斯文会の益々発展せん事を切望して已まざるなりと説く。
 - 第41巻 p.61 -ページ画像 
 あゝ老いたる人も壮き人も此の尊き歓楽に酔ひて時の移るを知らざりしが、斯くては何時果つべしとも思はれず、さるにても老いたる人の身に障りありてはと、壮き人に測隠の心萌して、口惜しけれども散会とはなりぬ。時に午後七時過なりき。
   ○尚歯会ハ爾後毎年催サレタレド、栄一ハ大正十三年ト是年ノミ列席ス。本款大正十三年十一月二日ノ条参照。



〔参考〕斯文 第一三編第一〇号・広告 昭和六年一〇月 尚歯会招待者内規(DK410017k-0006)
第41巻 p.61 ページ画像

斯文 第一三編第一〇号・広告 昭和六年一〇月
    尚歯会招待者内規
一、尚歯会に招待すべきものは満七十歳以上にして、左の範囲のものに限る
  イ、本会役員
  ロ、引続三ケ年以上本会々員たるもの
  ハ、漢学に対し特に功労顕著にして理事会の推薦せるもの
二、当該年度に於て七十歳・八十歳又は九十歳に達するものを正賓とす
  但入会後未だ三年に満たずして七十歳・八十歳又は九十歳に達したるものは、其の三年に満ちた後に於て之を正賓とす
三、正賓には記念品を呈す
  但本会役員には特別記念品を呈す
                      財団法人 斯文会



〔参考〕集会日時通知表 大正一二年(DK410017k-0007)
第41巻 p.61 ページ画像

集会日時通知表 大正一二年       (渋沢子爵家所蔵)
七月二十日 金 午後二時 斯文会理事会(華族会館)



〔参考〕斯文 第五編第四号・第七七頁 大正一二年八月 ○重要事項協議会(DK410017k-0008)
第41巻 p.61 ページ画像

斯文 第五編第四号・第七七頁 大正一二年八月
    ○重要事項協議会
 七月二十日午後二時より、華族会館に於て会長・副会長・顧問・監事等の臨席を請ひ、理事・参与等之に参加し、本会の将来に関する重要事項に対し協議を為せり。