デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
6款 曲阜孔子廟参拝
■綱文

第41巻 p.145-154(DK410049k) ページ画像

大正3年5月28日(1914年)

是月二日、栄一、孔子廟参拝及ビ中華民国視察ノ目的ヲ以テ東京ヲ発シ、上海・杭州・南京・漢口・北京ヲ巡廻シテ、二十七日天津ニ至レルモ、健康ヲ害シ、是日、遂ニ宿願ノ山東省曲阜ノ孔子廟参拝ヲ中止シ、帰国ト決ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正三年(DK410049k-0001)
第41巻 p.145 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正三年         (渋沢子爵家所蔵)
五月二十八日 風強ク炎熱焃カ如シ、終日濛々トシテ咫尺ヲ弁セス
昨夜ヨリ熱気アリ、且疲労甚タシ、朝来起床セシモ洗面後直ニ臥牀静養ス、朝飧後馬越・尾高・明石氏等来リテ、向後ノ行程ヲ変更シ、曲阜行ヲ中止シ、此地ヨリ直ニ大連ニ渡航シ、更ニ日清汽船ノ郵船ヲ以テ門司ニ向フニ《(マヽ)》帰途ニ就ク事ヲ発議ス、唯此行ノ曲阜参拝ヲ以テ一ノ主眼トセシヲ変スルハ忍ヒ難キノ想アリト云トモ、万一済南又ハ曲阜行ノ途中不便ノ地ニ於テ病痾更ニ重キヲ加フトキハ、一同ノ困難名状スヘカラサルモノアリ、依テ諸氏ノ忠言ニ従ヒ、旅程ノ変更ニ同意シ直ニ其実行ニ尽力スル事ト定ム○下略
五月二十九日 朝来冷気且風少シク減シテ、又昨日ノ暴風酷暑ニ似ス気候ノ変化殊ニ甚シ
午前六時一旦起床、洗面セシモ疲労多クシテ褥中ニ静養ス、当地ニ於テ入手セル故郷ノ書信ヲ一読シ、其送リ来レル書冊ヲ読ム、曾テ予定セル曲阜ナル聖廟参拝ノ事ハ病ノ為メ果ス能ハサルニ付、明日開帆ノ独乙郵船ニテ先ツ大連ニ渡航シ、更ニ日清汽船ノ嘉宜丸《(義)》ニ搭シテ直ニ門司ニ航スル事ト定メ、曲阜行中止ニ付テハ北京官憲ノ諸向及曲阜ナル衍聖公等ヘ詳細ノ電報ヲ為シ、一方大連ナル本邦各方面ヘモ其旨ヲ通知スル等、電信郵便等ニテ明石・増田等特ニ奔走セリ、又昨日当地都督及商務総会ノ歓迎会ヲ断リタル挨拶、其他種々ノ答礼又ハ照会ノ為メ各員一同必死尽力セリ、午前ヨリ熱度ハ大ニ減スレトモ、腹部ニ故障アリテ褥ヲ離ルヽ能ハス、臥牀中馬越氏其他ト種々ノ協議ヲ為ス旦昨夜北京ニ於テ山座公使俄然逝去ノ報アリ、一行驚愕ヲ極ム、夕方朱都督ヨリ贈物アリ、依テ謝状ヲ発ス
(欄外)
  曲阜行ニ付テハ上海白岩氏ト口的アルニ付電報シテ中止ヲ通知ス尾崎氏来リテ中日会社ノ事ヲ協議ス
   ○本資料第三十二巻所収「中国行」大正三年五月二十五日ノ条参照。


禹域従観日記 初稿・下篇第一四七―一四八丁(DK410049k-0002)
第41巻 p.145-146 ページ画像

禹域従観日記 初稿・下篇第一四七―一四八丁
                    (渋沢子爵家所蔵)
廿八日○大正三年五月 晴 男爵静養客舎にあり、一切招宴を辞す、但経過良
 - 第41巻 p.146 -ページ画像 
好、同仁病院より看護婦一名を雇ふ、午前九時山座公使昨夜俄に薨去の訃到り一同驚愕す
廿九日晴 男爵違和回復に赴く、然れとも気候不良なるを以て、曲阜拝廟の行を止め、明日出発帰路に就くへき準備を為す、男爵詩あり曰く「老脚何時能躋攀、客窓無物慰衰顔、違和難浴洙川水、照帖閑披望泰山」其素望を中止するの憾は、余殊に深く之を推知し、亦随て済南の天を望ミて帰哉の歎を発せむとす、男爵此回の支那旅行は記首に於て表示する如く、第一探勝、第二聖廟拝礼、第三中日実業会社成立の謝意を表するに在りて、第一・第三は已に其目的を達し、今や第二の行に就かむとするに当り、違和静養に就き、幸にして軽症已に愈ゆといへとも、気候険にして、早く溽暑を催ふし、風塵日に起り、所謂黄塵万丈にして日色為めに黯淡たり、且曲阜は気候更に悪しく、客舎亦設備を欠き、寝具食料に至るまで携帯するを要し、其不便なるのミならす、違和善後の衛生に害あるを以て、男爵は限りなき遺憾を抱き、他日の再挙を期して、明日此を去りて帰東すへき事に決定せり、先是支那政府は当路有司に命し、天津より済南に至る汽車特別の便を計り又曲阜の衍聖公に打電して、拝廟に関する便宜法を取り、特別の待遇に注意せしめ、照料至らさる所なしといふを得へし、彼我官商此報を聞くや、共に其曲阜行の中止を遺憾とし、殊に天津都督朱家宝は贐儀として、孔林聖廟及泰山諸勝景の照帖及花瓶刺繍双額を贈らる、是に於て男爵は、其帖を展き、真境当前の感に堪へす、一詩自ら成る、曰く○「曰く」ニ続キテ前掲ノ詩ヲ記シテ塗抹シアリ
○下略


竜門雑誌 第三三六号・第一一三頁大正五年五月 渋沢男爵支那漫中の演説及び談話の梗概(DK410049k-0003)
第41巻 p.146-147 ページ画像

竜門雑誌 第三三六号・第一一三頁大正五年五月
    渋沢男爵支那漫中の演説及び談話の梗概
○上略
 天津第一日
  五月二十七日 水曜日
午前九時北京を辞し正午天津に着す、一時総領事館の午餐に招待せられしが別に演説はなかりき、宴終りて直ちに都督朱家宝忌引の故を以て陸参謀を訪問す、参謀の日支実業の聯絡を説きたるに対し、男爵は中日実業会社の件を述べて日本への来遊を慫慂せらる、次に警察署長揚以徳氏を訪問す、氏が国家の隆盛は実業の発達に待たざる可からざること、自己は身官吏なるも他方実業に関係する次第を陳述したりしが、男爵は猶袁総統の意の存する所亦実業の進歩にあることを話されたり、旅館に帰来程なく参謀等の答礼あり、男爵は頭痛を病むと言はれつゝ押して面接せられしが、客の去りたる後堪へ難しとて此夜の日本人倶楽部の歓迎会を謝絶して就床せられぬ、馬越氏以下出席、十時帰来、一同男爵の病に付て心痛すること限りなし
 天津滞留
  五月二十八日 木曜日
炎熱蒸すが如く窯中に座すとはかゝることをか云ふらん、男爵の病左まで恐るべきことなしとの診察なれど、異郷のことゝて一同憂慮せざ
 - 第41巻 p.147 -ページ画像 
るを得ず、此日も総ての宴会を断りて終日病床にあり、夜に入りて馬越・尾高の二氏と小生とは協議を凝らしたる末、この儘御帰朝ありて聖廟の参拝は他日機を見て再遊実行せらるべき旨を忠告せしに、男爵は床の上に起きて傾聴し暫く瞑想せられしが『折角諸君の左程に心配せらるゝの厚情に応じ、断然意を決して旅行を中止し、海路馬関に向ふべし』と断言せられたり、此瞬時の胸中如何なりしか、如何に決断力に富まるゝ男爵とても嘸かし残念なりとの念慮止むる能はざるものありしならん○下略
   ○右ハ随行員明石照男ノ記スルモノナリ。


竜門雑誌 第三一三号・第六五頁大正三年六月 ○青淵先生支那旅行消息(DK410049k-0004)
第41巻 p.147 ページ画像

竜門雑誌 第三一三号・第六五頁大正三年六月
    ○青淵先生支那旅行消息
△渋沢男帰途に尾く(五月二十八日天津発電大阪朝日着電)渋沢男は疲労の為二十七日夕来稍発熱し、旅館に引籠り静養中にて、軽症なれど万一を気遣ひ三十日天津発、来月二日大連より嘉義丸にて帰朝のことに決し、曲阜行は今秋又は来春出直すべしと
△渋沢男二日出発(五月三十一日大連発電大阪朝日着電)渋沢男・馬越氏一行は三十一日午後一時半西江号にて天津より到着、渋沢男は健康回復せるも今明日中当地にて静養し、二日出帆の汽船にて帰朝すべし
△渋沢男の談話(五月三十一日大連発電時事新報着電)渋沢男は往訪の記者に語りて曰く
 余が今回の旅行は第一に山東省曲阜に孔子廟を、済南府に孟子廟を拝するにありしも、二十一日天津《(七カ)》にて微恙に罹りたるのみか、九十度以上の炎天の為め止むなく中止せるは遺感なりき、更に再遊を期せんとす○下略


竜門雑誌 第三二〇号・第五三―六二頁大正四年一月 ○泰山と曲阜 白岩竜平(DK410049k-0005)
第41巻 p.147-154 ページ画像

竜門雑誌 第三二〇号・第五三―六二頁大正四年一月
    ○泰山と曲阜
                      白岩竜平
  ○青淵先生緒言
 本年五月、私が支那旅行をしたのは二つの方面に目的を有した訳であつた。其一は、昨年組織した所の中日実業会社と云ふものをして、現在の支那政府の誤解を釈かしめて、折角立てた会社の事業の発展を遂げさせたいといふ念慮を以て、創立者の責任として、敢て会社の委託を受けた訳ではないけれども、北京政府及び各地方の当業者に向つて或は説明し或は弁解する為めであつた、他の一つの目的は古い希望を持つて居た事である、元来私は少年時代からして聊か漢籍を読み経書に依つて教育を受けた、殊に孔子の教旨を以て安心立命として居るからして、其本源たる孔子の廟を参拝することは此度の旅行に於ける此上もない楽みであり、平生の宿志を果たす事であると思つた。
 五月二日に東京を出立して馬関に帰着したのが六月二日であつたけれども、更に内地の各地を旅行して東京に帰つたのは六月十五日で、通計一月半を費やしたが不幸にして天津に着した時に病気に罹つた。夫れが為めに一半の目的たる孔子廟参拝と云ふことを遂げ得ずに仕舞つた。但し一半の目的たる中日実業会社の事に就ては其効果如何は私
 - 第41巻 p.148 -ページ画像 
には知り兼ねるけれども、自分の尽す可しと思ふ丈けの事は北京は勿論他の各地に於ても、相当なる官民の有力者に逢つて情意を通じ、現在将来の事柄に就て委しく説明を与へて、稍々其緒に就くやうになつたと思ふて喜んで居る。唯比較的寧ろ重い希望と謂ふべき孔子廟に参拝の出来なかつたのを頗る遺憾に思ふ。五月の初旬上海にて白岩竜平君と会せし際に、月末即ち二十七八日頃には天津に着するやうな都合だらうと予想したから、白岩君も漢学者で時代は違ふても所謂趣味を同ふする人であるから、是非相与に泰山に登り曲阜を参拝しやうと約して居つた。然るに私は天津にて病気になつたから止むを得ず其事を同君に電報したにも拘はらず、白岩君は奮発して渋沢が病気で参拝が出来ぬなら自分丈けでも曲阜一覧を遂げやうと云つて、其旅行を果して呉れた。而して其泰山曲阜の旅行記が「心の花」と云ふ雑誌に記載されて、先頃私は佐々木信綱君の厚意によりてこれを一覧して、白岩君の友情に厚い事、又斯くの如く鄭寧に各勝地を探られた事を感謝するのである。曲阜に於る孔子廟の状態又泰山一体の模様は、天津で愈愈曲阜参拝を中止した時に写真帖で観望して、或は羨み或は歎じて居た丈けであつたが、今此の白岩君の旅行記を熟読するに及むで更に其感を深ふし、自身其地に遊んだやうな想ひを為す。唯憾むらくは、泰山の山上にまで支那の官憲から特に人を備へて天幕を張り、私の行を待合はされた趣きであるに、其本人が病の為めに遂に行くことの出来なかつたのは、玆に其厚意を謝すると与に呉々も残念千万である。
 又白岩君は曲阜に於て孔夫子の後裔たる孔令貽公にも逢はれたとの事なるが、孔令貽公には私が行くことを聞かれて、其旅行中にも拘はらず力めて帰宅されて待受けられたと云ふことであつたが、私が往訪してこれと款話し得られなむだのを深く遺憾とする。
 白岩君の紀行に依つて聖廟の形状なり曲阜の概況なりを観察すると写真で見たよりも尚ほ荘厳の様が偲ばれて、如何にも孔子教なるものが現在に於ても深く人心に留つて居ることが明確にして喜びに堪えない。今日支那官民一般の風習から想見すると、実は孔子を左様に尊敬すべき資格を持つて居るとは思はれない。政治上なり社会上なり随分孔子教に反対する行動が多い。人情風俗、総じて仁義道徳を重んずるとはどうしても言ひ得られない。此点に就ては或は嫌ふべき事柄も多多あるけれども、善事は何処何時も善事として伝はるものと見え、支那の孔子に於ける縦令其政体風俗が前に述べたる如く仁義道徳に適合せぬにもせよ、仁義道徳を重んずると云ふことは形式上たりとも今日尚ほ存続する所を見ると、孟子の所謂人の性は善なりとは実に千古不易の教訓と云つて差支ない。論語の中にも孔子の徳を種々に形容して生民あつて以来未だ孔子の如き者あらずとか、或は其徳天地に配するとか讚美褒賞の言葉が多々あるが、蓋し其文章の勢で少し褒め過ぎると云ふ人もあるべけれども、私は今日にして始めて孔子の徳の崇いと云ふことが能く分かるのであると思ふ。蓋し支那に於ては聖人と唱へられた人は孔子以上幾らもある。例へば唐虞三代の君とか、或は殷の湯王、周の文王武王とか、要するに先生と唱ふる人々は勿論徳も厚く位も高かつた、けれども今日に至るまで其遺族現存し且つ一般の国民
 - 第41巻 p.149 -ページ画像 
に仁義道徳の標本と仰がるゝは、其位も高からず其富も天下を保つと云ふことの出来得なんだ所の孔子に於て始めて之を見る、数千年の後に於て斯くの如き尊敬を一般から受けると云ふことは、或は孔子が其位に居らず其富を為さゞりしと云ふことが、寧ろ其徳を千万年に伝ふべき価値を成したものであるとも思はれるのである。右の聖賢の言に官位又は富と云ふものは現世に於て其勢力を揮摧し其光輝を発揚するに過ぎないが、仁義道徳はこれに反して身後に於て其効果を顕すものであると言はれたが、私は今日孔子の廟に就て其事の愆たざるを知り得たのである。我帝国は此道徳教に於ては支那から習ふたのであるけれども、幸に其骨髄は今日我国に存して居ると云つても宜いやうに思はれる。どうぞ斯くの如き貴い教旨は尚ほ将来に推尊し且つ益々拡張して行きたいと思ふ。唯恐るべきは今日の学問が知識を進めると同時に道徳を修むると云ふことが至つて少なくして、智は富みても徳は却て貧しきの嫌ひがあるのは教育の弊風であつて、私の大に之を憂へて居る所であるが、併しながら今日の識者が早く之に注意して充分に之を矯正し、各人の良知能を鼓吹して勉めて其過失を避けるやうにしたならば、人道の地に墜ちるやうな事はなからうと思ふのであるから、吾れ人与に玆に心して道義心の保存し得られるやうにしたい。今白岩君の紀行を読みて、自分が実地探険の出来なかつたのを遺憾に思ふと同時に、聊か感想を述べて置く次第である。
        *    *
 泰山は支那第一の名山である。海抜五千尺、其高さに於ては左程ではないが、支那の古代文明が黄河の沿岸に発達したる関係より、歴朝の帝王御代の太平を告げて皆この山に登つた。一つは孔子もこの山の近くに生れ、この山に登つて、天下小なりとしたといふ為に、後世満天下の読書子をして渇仰せしめた。山は全山殆ど石のかたまりで、所謂る維石巌々といふ形である。其間に、檜・柏・松樹の類が処々に点綴されて居る。山麓より絶頂まで石階が敷きつめて、幅三間乃至五間の可なり立派なものである。旅行者は轎子で登る。二人四人八人までを要する。石段の数が三万八千三百あると轎天が云つた。絶頂では余は八人でかつがれた。勾配の急なる為、轎夫は前の者は攀ぢるのである。後者は押上げるといふ形だ。七合以上は廻馬嶺といひ、目がくらむ様だ。五大夫の松だといふのがある。秦の始皇が暴風を避けた処である。今に其松が臥竜松とでもいひそうな姿で青青として居る。道の両側は文字を刻んである巌を以て満たされてる。其文字は一間余の大文字もあれば、掌大の正楷にて文章を刻んだのもある。古きものは大抵磨滅して見えぬ、全く磨滅したるものゝ上には更に後人が彫りつけて居る。おそらく一つの巌の上にいく度か磨滅しては彫りつけられたのであらう。遠方より向ふの山の端にある大きな断崖に刻んだ字を望むと、磨かれたる平面の部分が恰も畑の様に見える。漢の武帝唐の太宗等の残せし記念である。康熙・乾隆の建てた新らしい碑は猶立派に保存されてある。此等の石と文字が先づこの山の価値である。考古学者が研究に屈竟の史料であらう。山の向ふに不思議な岩があつて直立して居る。五丈余の高き岩が柱の如く衝立つて居る。其上に平面な大
 - 第41巻 p.150 -ページ画像 
石が帽子の如くに置かれてある。轎夫のいふには、乾隆帝が山に登られた時侍臣を顧みて、誰かある、かの岩の柱の上に石の冠をきせよといはれた。侍臣が畏こまりて人夫を集めて其れを置いたのだといふ。奇観の一つである。
 絶頂までは轎子にて五時間半かゝる。九合目まで登つた時少々弱つた。同行者に励まされて勇気を出した。八人で押上げられた。自分は思つた。同行の筈なりし渋沢男が来られたら、暑さといひつかれで、如何に困難せられる事であらう。来られなかつたのは仕合せであつたと。余が登つたのは五月三十日であつたが、日中九十四度といふ暑気であつた。同行は社員の谷田部君一人である。谷田部君は素人写真の名手である。いたる処レンズにいれる。五大夫の松も、廻馬嶺の石門も、山上の道士も、余等の乗れる異様なる山轎子も。
 孔子天下を小なりとした処に碑が立てある。此処より下界を見下して、何だか偉くなつた様な心持もする。又其時の天下の小さかつた事も思はれる。周の都、魯の都、支那文明の中心は此眼界に局限されてたのである。自分が碑の横に立つてぼんやりして居た処を、谷田部君が写してしまつた。気がついた時夕陽は蒼然として遠く斉魯の野を襲つて居た。
 見物はこの碑の外に、今一つ有名なる秦始皇無字の碑がある。やはり山の上の二丁ばかりの平原に建ててある。孔子の碑とは少し隔たつて居る。高さは三丈余、幅は其四分の一、厚さは約三尺、色は微黄である。これはもと文字の有つたものであるが磨滅したのであるといふ説と、最初から無字のものだといふ説と、学者間でやかましい。季斯が二十九字の篆書丈は今に伝はつて居る。
 伏羲神農も、尭舜二帝も、春秋戦国の諸王も、当時既に七十二の帝王がこの山に登つて祭をしたといふ、所謂封禅である。天下を取つて四海太平を告ぐるといふ帝王最得意の幕である。斉の桓公と管仲とが未だ泰山に上るのは早い、否最早天下は泰平だと君は勇み臣は止めたといふのも此山である。
 山の上に堂がある。其下に無人の亭がある。今日は多くの人夫が集まつて赤い幔幕を張り廻し、卓を幾つも置いて忙しそうに見えた。轎夫が謂ふには明日は日本の資産家が来る。大名望家が来るといふ、其為に用意せられつゝあるのだと知つた。山の下から何十人前かの料理を持ち上げるのである。自分はあまり気の毒になつて中止になつた渋沢男一行の事を談り得なかつた。轎夫は又いふ。明日はおかみのふれで仲間は皆今晩中に山を下らねばならぬ。全体で轎子が二十五台で轎夫が百人ある。其れを全部召集せられるのだと。やはり男一行の為であるらしい。
 旅行者の中には、山の上に宿泊して日の出を見て下る習慣がある。登山者には婦人あり小供あり。山の下より上まで一切轎子で行ける為に、容易といへば容易である。重なる支度所が三四ケ所有つて、轎夫は休みつゝ登る。余等も登りの時山の中腹なる第二の支度所で弁当を開いた。四月と十月は山登りの期節であるといふ。四月前後は最も多く、湖北・河南の地方よりも来る。多い日には一日の登山者三、四千
 - 第41巻 p.151 -ページ画像 
人に達するといふことである。無論其れ等は徒歩で、我が行者の如きものである。
 自分等と行き違つた外国人の登山者はこの日四組程あつた。婦人も其中にあつた。三組までは今夕山上に宿泊して日の出を見て下る人達である。天幕を用意して持たせて居た。特に面白く感じたのは此高上の上に住める只一人の道士であつた。骨格たくましき五十ばかりの男である。二十五年玆に住むといふ。飲食風雨の事を問へば多く答へず霞を餐すれば足ると答へた。仙人を学びつゝあるのであらう、物を贈らんとしても受けない、支那の寺院に多く見受ける俗僧とは大分かはつて見えた。
 津浦鉄道の停車場泰安府より、将に上らんとする山を見た時は左程にも思はなかつたが、山上より瞰めた時には、さすがは名山だと感じた。東北の方は見渡す限り山又山で海につゞいて居る。其連山が如何にも泰山を中心として拝跪して居る様に見える。西南の方は比較的平地が多い。斉魯の二国に跨りて歴史の光を添へ、何となく崇高に感じるのも偶然ではない。我軍の最近に占領した済南府は泰安府の次の駅で、汽車で二時間半かゝる。我軍将士もひまを得てこの山に登るのもよい事ではあるまいか。
 泰山誌の中物産の部にある一・二節を述べると、泰山の上には玉多し、其下には金多し、貞木(一名は冬青といふ)多く、穀には黍・稷・麦・菽・粟・葛・胡麻及び薏莎仁あり、蔬には菲菘即ち白菜、蕃薯即ち紅芋、菠䔖・豆莢・葫蘆・茄子・糸瓜・王瓜・冬瓜・瓜南・蘿蔔・山薬・葱蒜等あり、其野生のものには薺荼・藜藿・遽芹・黄花菜即ち鹿葱は珍美天下に称せらるとあり。この中白菜は近年我国に移植せられて、吾人日常の食膳にのぼれるもの、又落花生は今欧洲に輸出せらるゝ支那貿易の重要品となつて居る。旅行者にして季節に青島の碼頭を見舞ふて広大なる倉庫が角から角まで落花生を以て満たされて居るに驚かぬ者はあるまい。
 又同し泰山誌に記せる木・花・果物につき序ながら少し述よう。木には松・柏・檜・桂・椿・樗・梧・桐・楸即ち梓樹・槐・楡・楊・柳(楊には白楊・青楊・叔楊の三種あり)(柳には垂糸・金線・三春の別あり)桑・柘・檞・荊・竹棠・檉・樟・椒・楓・白蝋・榕・楮等を産すとある。
 花には牡丹・芍薬・紫薇・凌霄・夜合・辛夷・長春・麗春・桅子・玉簪・萱葵・臘梅・薔薇・鶏冠・罌粟・山丹・月季・蘭蕙・茨菰・石竹・蓮菊・桃・碧桃・杏・木槿・石榴・丁香・夾竹桃・鳳仙・剪秋羅・十姉妹・海棠・素馨・美人蕊・雅来紅・蔦蘊等あり。
また果には梨・栗・棗・柿・梅・杏・桃・李・石榴・銀杏・桜桃・林檎・核桃・葡萄・文官果・棠棣・木瓜・無花果等あり。山東は由来果物を以て支那四百余州に鳴る。就中葡萄は提灯形をなし、味の甘美なる、福建の茘枝と共に菓中の王と称へられ、貴人の食膳欠くべからざるものとなつて居る。
 曲阜は県の名、今は津浦鉄道の停車場が出来た。泰安府より一時間南に下りて下車する。急行列車はとまらぬ。旅行者は南京よりするも
 - 第41巻 p.152 -ページ画像 
青島又は天津よりするも共に前の急行列車停車駅にて乗換を要する、駅は県城(孔子の廟の在る処)を距る日本の二里半程ありて、野原の中だから宿屋もなければ茶屋もない。余等は見物を終りて次の急行を待つ間、午後八時から午前二時迄何等設備のない停車場の一室にかり寝した。聖人の墓に参るのだから其れ位の辛棒は当然かも知れぬ。駅から孔廟指して驢馬に引かせた車に乗つた。茫々たる平野満天の砂塵につゝまれ、忽にして着物も顔も黄色になつてしまつた。あじろの屋根が低い為に車のゆれる度に頭を打つ事がひどい。堤を越す度に泣きたくなる。暑さと塵で泰山に登るよりも苦しい。泗水を渡つた。車の儘で渡るのである。尤も水は車の輪の半を没する程しか無い。例の濁水である。これが聖人の清い教の源、泗水の流かと驚ろかされた。少いこの流も雨が降ると行通遮断だ。橋が無いからである。現に自分等の後に玆処に遊んだ勝田主計君の一行は、思はぬ俄雨の為に交通困難となつたと聞いた。
 さて二里余の道を三時間かゝつて済南府を出たのが朝の八時、汽車と驢車とで孔廟に着いたのは午後の二時過であつた。案内者に勧めらるゝまゝ先づ参拝したのは孔林一名聖林即ち孔子の墓である。日比谷公園を二倍大とおぼゆる平地の周囲に高き練塀が築いてある。遠くから見た時は城壁の様であつた。孔子を初め子孫七十余代の墓がこの中にあるのである。余等はこれを一巡して携へたる日本酒を墓前に捧げて礼拝した。大成至聖文宣王墓の八字は五寸大の篆隷で正面の石の表に刻まれてある。石は幾たびか改修せられて、今のは明代のものだといふ。
 孔子歿後二千年、碑石は幾度か改修されたとはいへ陵墓は儼然たるもの、蓋し二十四代の興亡如何なる名君英雄も、五百年を過ぐれば大抵其墳墓を見出す能はざる程に乱離の絶間なき支那に於て、さすがは聖人の徳と今更の如く感じた。云ふまでもなく古来孔子に反対した帝王は、秦の始皇を唯一の例外として他に一人もない。否、孔教を認めずしては王者たるを得ぬのである。故に聖廟は先づ我国の伊勢大廟といふ格なので、唐宋元明より清朝となり、近くは一変して共和制を採りたる今日に於てすら、仮令ば歴朝政府は我朝の幕府の如きもの、孔子は支那の歴史を通じての思想上絶対君主の位置である。
 稍驚いたのは顔回の廟で、孔林より約半里の処、陋巷の故里陋巷の井を中にして堂々たる廟宇建立せられ、其広大なること金碧燦爛たる事に於て恐らく孔子以上ではないかと思はれた。かつては陋巷に住み一箪の食一瓢の飲に甘んじたるに、身後百代に祭られ斯の如く尊崇せられたるは真に徳の高きが為か。廟前に白皮の松がある。千年以上の老木で三人でやうやくかゝへられる程の大樹である。白皮の松は余が仮につけた名で木の皮が白くて美しい。是はたぐひ稀なるものゝ由で参拝者は皆其皮を一枚づゝ記念に持て帰るさうである。
 御像は木ぼりの八尺位の立像である。衣冠堂々として温乎たる其風貌親しむべきだ。ちよいと考へると顔回は屈原と似かよふて、鬚髯ぼうぼうの汚くるしい顔をした人の様だか、この御像で見ると中々美男子である。そして福々しい。同行の谷田部君が薄暗い御堂の中でたく
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みに撮影したのは絶好な土産だ。顔回の写真が日本に渡来したのは恐らくこれが始めてゞあらう。
 孔廟は顔回廟より十丁計り隔つて居る。曲阜県城は城として大きな方ではないけれども、其四方の一は全く孔廟敷地として占められて、随分広大なる廟所である。入口の門の右に聖府と称し、孔子七十六代の孫孔令貽君が侯爵でひかへて居られる。刺を通じて面会を求めた。此行余の目的は、岳父西薇山翁の遺稿新たに出版されたのを持つて孔廟に捧げたいのが主であつた。翁は備前閑谷黌の長として、心血を青年教育に尽し、閑谷黌の創設者新太郎少将熊沢蕃山の遺徳を紹述するを自らの任とし、毎朝早起して親しく黌の東門内に祭れる聖廟を掃ふこと二十年一日の如かりし人である。遺稿の文字も字々孔孟の教道徳の旨ならざるはなしで、又壮歳支那に志あり、明治の初年再び南北支那に渡られたるも、病の為に意を得ず、後半生育英の間も亦支那のみを説きたる人なれば、せめてはこの書を聖廟に納めんとは余の願であつた。
 孔侯年歯四十に近く豊頰にして寛裕、欣然として薇山遺稿一部を受け、これを家廟に納められた。余は言ひ得ぬ一種の感じがした。或は故人薇山翁も共に此処に来たのではあるまいかと思つた。同公の案内で参詣したが、孔廟はさすがにたいしたもので、各地方に在る夫子廟とは大に異り、先の顔廟などはそばにもよれぬ。本堂を大成殿といひ直径二尺五寸高二丈余の大理石の丸柱十二本を前列とし、之にことごとく竜を彫刻してある。中々壮大なものである。「徳参天地」。「生民以来未曾有也」等の額がかけてある。背面の廻廊には孔子の一代記が画かれてそれが順々に石にゑりつけてある。大成殿に対したる前面の広庭には、古来帝王の参拝者いづれも石を勒して孔子の徳を称へたのが殆ど無数といふてもよい程行列して居る。中には一つの石碑の為に一亭をつくり一宇を設けてある。其旧きものゝ内には漢魏時代の碑が見えた。考古学者が一々これを検分したならば興味ある事であらうと思つた。但し一順見て行く丈けでも中々時間がかゝり余等はたゞ早々に通り過ぐる外なかつた。
 いひ残したが孔林にて見のがすべからざるものは子貢の盧である。御墓のすぐ左に小さい小屋がある。三年の間こゝに籠つたといふ。今一つは楷樹といつて孔子の墓前に七十の弟子が一木づゝ植ゑたのに、子貢の植ゑたといふかの楷樹だけ今に伝はつて居る。石垣の中に化石の如き根のみ残つてそれから芽が生て居るのは不思議だ。前の小屋は後世いく度か建て直したものに相違ないが、この木ばかりはお墓とゝもに其当時からのものらしい。
 孔令貽公の談られる処によると、公が北京から三日ばかり前に帰つたのは渋沢男の参詣があると聞いた為らしく聞えた。自分は男の健康上支障の出来た為に、天津より帰国された事を告げた。而して男の残念に思はれた心事を忖度して併せて其意を告げた。駅にて談るをきくに、曲阜停車場の出来てより、外国人の参拝者日々に十を以て数ふるの有様である、日本人も少からぬといふ。顔子廟にて泰山で逢つた米国人の一組に再会した。彼等が見物に時を費して丁寧なる事余等以上
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に趣味を持つてるかと思はれた。此駅では新たにステイシヨン・ホテルを建てる計画がある。そうして日本館も特別に設けるといふ。将来は津浦線中最も多く外客を引く、繁昌な駅とならうとの見込だそうである。


竜門雑誌 第四八一号・第一八八頁昭和三年一〇月 青淵先生と支那 白岩竜平(DK410049k-0006)
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竜門雑誌 第四八一号・第一八八頁昭和三年一〇月
    青淵先生と支那
                      白岩竜平
○上略
 大正三年子爵は革命後の支那を訪問された、一般視察の御旅行ではあつたが、泰山に上り、曲阜に孔子の廟を訪はれる事は、云ふ迄もなく子爵の宿願であつた。然るに天津で病に罹かられ、中止の已むなきに至つた事は、子爵許りではなく一行の人竜門社関係の人々も共に遺憾に思つた、といふのは子爵と論語、論語と算盤、道徳と経済、日本人で是程迄に論語を己れに体現し、論語を現代化し実務化し、論語に新たな生命と信仰を与へ、且つ広めしめたものは日本開闢以来の第一人者であり、孔門七十子の上座に就かるべき子爵の折角の孔廟参拝が中途病気で引返されたことは何といふ天意であらう。私は当時先発して済南で御待して居たが、代拝の意味で独り孔廟に詣り其旨を告げたのであつた。○下略