デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
8款 陽明学会
■綱文

第41巻 p.171-178(DK410054k) ページ画像

明治44年10月22日(1911年)

是日、芝公園福住楼ニ於テ、当会秋季懇親会催サル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

陽明学 第三七号・第四二頁 明治四四年一一月 秋季懇親会(DK410054k-0001)
第41巻 p.171-172 ページ画像

陽明学 第三七号・第四二頁 明治四四年一一月
秋季懇親会 秋気も最早酣になり同志の親睦歓洽を謀るは方に此時に在るべきを以て、愈十月二十二日(日曜)を卜して、芝公園福住楼に集会することとなれり。先例により席上の揮毫も始まり、生出大癖、椎名仙州二氏の絵画は頗ぶる人目を惹けり。猶出品も多くありて、此等は皆悉く抽籖に付し会衆に頒ち、講談は大谷内越山氏、亦会員なり渋沢男の演説了りて(此演説筆記あり後号に出す)宴に移り、会衆の演説となり、小久保氏は其の青年時代大阪事件で入獄せるより、伝習録を読みて斯業に志す端緒を開きたる経歴の一斑を述べ、松浦氏は林子平を引きて今日の人心を拯ふは陽明学に限ることを述べて慨然たり。中井は世間から陽明学を謀反の学抔と云ふは以ての外なる非謗であるが、彼の英国ミルは論理経済学者である。其が自由党より保守党の馬鹿と罵つたを保守党が非常に怒つた時、ミルが其は保守が馬鹿ではないので馬鹿が保守党に入いたのだと云ふたが、此の論理法で云へば人が陽明学は謀反すると云ふも、決して陽明学が謀反人を出す学ではない。若しもこれありとすれば、それは謀反する奴が陽明学へ入いて居たのだ、と斯う見れば宜しいと述べて会衆を笑せ、小林氏は谷鉄臣翁が星巌の座下に於て、佐久間象山が星巌と談論せるを傍聴してより志を興して、遂に陽明学者となりし逸事を談じ、武田氏は其身の日蓮宗僧侶たる立場よ
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り、日蓮が嘗て法華経を口に読めども心に読まず、心に読めども身に読まずと云へる、此の実行主義が陽明学に一致する所から陽明学を研究することになりたると語り、其他もかはるがはる立つて簡短の所感を述べしも一々は此に記する能はず。午後二時より開会して皆十二分の歓を尽し夜八時散会せり。


竜門雑誌 第二八二号・第六〇頁 明治四四年一一月 ○陽明学会講演会(DK410054k-0002)
第41巻 p.172 ページ画像

竜門雑誌 第二八二号・第六〇頁 明治四四年一一月
○陽明学会講演会 陽明学会に於ては十月二十二日芝公園福住楼に於いて講演会を開き、青淵先生には同会の懇嘱に応じ、同日出席して一場の演説を為されたり。


陽明学 第四〇号・第六―一二頁 明治四五年二月 陽明学と身上話(懇親会演説) (男爵)渋沢栄一(DK410054k-0003)
第41巻 p.172-178 ページ画像

陽明学 第四〇号・第六―一二頁 明治四五年二月
    陽明学と身上話(懇親会演説)
                  (男爵)渋沢栄一
 今日の陽明学会に一言愚見を述べるやうにと、東先生から過日此会を開くに於て御勧めがございましたが、御引受け申上げる程の説を持つて居りませぬから少し躊躇は致しましたけれども、久しく御疎音を致しましたから今度は必ず此会に出ませうと云ふ事を受合つて置きました。然るに一両日来風邪気で甚だ弱つて居るから本日は御免を蒙らうと思ふたけれども、左まで打臥して居るのでもないのですから、此処が陽明学会の会員たる処だと思ふて勇気を鼓して来たのであります但し何も申上げるまでの意見もありませぬので御免を蒙りたいと思ひましたが、是非何か述べろと云ふ事で此処に立ちましたのであります申訳のやうでありますが何を申上げて宜いか少し困却致しますが、寧ろ私の身の上話を少々ばかり申上げて見やうと思ひます。
嘗て井上哲次郎君が或る席に於て、陽明学は謀叛人が生ずると言はれました。是は大に耳に障りましたから、会員の二・三の人と申し談じて井上博士に苦情を申込みました。あのやうな事を云はれては甚だ困る。而も其謀叛の事柄は最もいまいましい事であつたので、別して耳に障つたのであります。段々話して見ると、それは間違であるから取消すと言はれたに就て大きに安心しました。蓋し是は東君・菊地君抔とは其際色々と御話した事でありますから、諸君も或は御聴きになつたかも知れぬけれども、陽明先生の学を奉ずる人に悉くさうとは限りませぬけれども、兎角に穏和な人でない。平静な行動でないと云ふ事は或はあるかも知れませぬ。試みに二・三の人を挙げて見ましても、熊沢蕃山の如き、山鹿素行の如き、此人も陽明学に余程傾いて居つたかと思ふやうでございます。聖教要録などを見ると殆んど陽明学に似て居るかと思ひます。是もまだ熟読して見ませぬから決して聖教要録の真意が陽明学とどれ程相合ふと云ふ事は申上げられませぬけれども朱子学とはまるで反対して居る。論語子貢の問に如有博施於民而能済衆何如、可謂仁乎に対して孔子は「何事於仁必也聖乎、尭舜其猶病諸」と云ふてある。山鹿素行は此語を引いて朱子学を攻撃して居る。其事が当時の朱子学派の忌憚に触れて終に赤穂に御預けになつて、九年も浅野長直と云ふ人に厄介になつて居つたのです。而してさう九年居つ
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たのが、赤穂の士風を大に鼓舞したのであります。故に赤穂義士四十七人は、詰り山鹿素行の薫陶が与つて力ありと云ふて宜からうかと思ふのです。是は福本日南氏の元禄快挙録にも委しく出て居りますから諸君は御覧であつたらうと思ひます。もう一つは例の大塩平八郎である。是はなかなかの陽明学者であつた。其学の淵源はどの位深いと云ふ事は東君に問はなければ委しくは分りませぬけれども、決して山鹿や熊沢よりは一層陽明学には熟達してあつたやうに思ひます。而して其行動も随分過激であつたと評して宜いやうです。是等の事から推論すると、井上博士の陽明学は謀叛心が生じ易いと云ふ事を言はれたのは、多少無根拠の論でなかつたかも知れませぬのでありますから、陽明学を奉ずるお互は余程注意せぬければならぬと思ふのであります。
果して此処に御集りの方々に謀叛気があると云ふのではありませぬからそれは御安心下さるやうに願ひます。そこで私は陽明学を好むものである。但し其学は浅いが知行合一致良知抔と云ふ主義を奉ずる事は諸君に負けない積りである。而して私も一種の謀叛気とも言はれる程の蛮行を施さうと思ふた事のある一人である。故に熊沢なり、山鹿なり、大塩なりの往時を追想すると、其頃は陽明学は奉じなかつたが四十年の後に陽明学を奉ずる人になるのは、文久・慶応の昔に其萌芽があつたと東君から言はれるであらうと思ふのであります。是を以て私の身の上話を申上げたら、陽明学は兎角に負けぬ気の強いと云ふことになりはしないかと、他人から思はれるかも知れませぬ。元来私は東京から二十里計り隔つた深谷と申します中仙道に属して居ります宿駅があります。そこから北の方に一里余隔つた、今は八基村と云つて居る、昔は血洗島と云ふ小さい村の百姓に生れたものであります。農民の事でございますから、別に高尚の教育を受けると云ふ程の事もございませぬ。物心を覚えると鋤鍬を執るが本務である。併し幸に親が農業を丹精して稍家産があつたから、唯馬を牽くとか田を耕すとか云ふ計りではなく、幾らか字を習ひ書を読むと云ふ事を教へられる位であつたのです。私の旧郷里は農民中でも幾らか漢籍を読むと云ふ人があつて、四書五経それから歴史、文章に亘り段々読書を進めて行くと云ふ風でございました。私は十一・二の年から頗る小説稗史類が好きでございまして、殊に馬琴の小説は最も嗜む所でありました。経史類の書物はどうもむつかしうございますから能く解釈が出来ない。八犬伝とか弓張月抔は大抵分りますから別して面白く、始終読んで居りました、或は又日本外史・日本政記、文章では八大家文・文章軌範抔を読んで居りました。時には親が小言を言ふて、百姓がそんなものを読んではいかぬ、と云つて咎められた。勿論田舎稽古で所謂百姓読みではありましたけれども、兎に角好きであつたから曲りなりにも読み居りましたのでございます。私の生れた村方と四・五町隔つた処に、親類で且つ先輩で尾高藍香と云ふ人があつて、是れが漢籍を能く読んだからそれに就て学びまして、十六・七才の頃には書物を読んでは親に叱られ、又読んでは叱られ、書物を取上げると云つて厳しい譴責を受けた事もありました。其中に外国船の渡来で世の中が少し騒々しくなつて来た。私の十四の年が嘉永癸丑の年で、亜米利加からコンモンド・
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ペルリが浦賀に初めて来た年であります。私は子年の生れで丑の年でございますから、其翌年が安政元年と改元されたか再び米国のペルリ四艘の軍艦を率ゐて来て、是非共仮条約をしやうと云ふ厳しい談判になつて、世間が余程騒々しくなつて参りました。其頃先輩の尾高と云ふものが―私の十六・七の時でありますから十年長じて二十六・七でありましたが、同人が十四・五才からして水戸派の学問を好みまして老公の説は勿論藤田・会沢抔の説を聞きもし見もして居られた。殊に天保年度に水戸老公が鎧兜で調練を致した事がありましたが、それに因んで徳川の十二代将軍慎徳院も黄金ケ原で猪狩をされた。それも老公の勧めに依つて幕府がこれに倣ふたのであります。其前に水戸老公は頻りに武装をして調練をやられたのであります。それを尾高が見て参つて、独り文学上のみならずさう云ふ事を見たから、若い者は奮起せざるを得ぬ。処へ丁度外交と云ふ事が起つて参つた。其頃漢学を修める者は皆外交難を称へました。其時の幕府の執政は阿部伊勢守であつて、専ら外交に任じて居たけれども、烈公の企望はどうしても討払ひと云ふ事になるであらうと思ひきや、忽ち国書は受取る、条約を締結すると云ふ事になりましたから、烈公は承知しないで攘夷論を主張する、其主張が十分に行はれぬと云ふので世の中は種々に物議が多くなりました。それからして諸藩の人々も段々外交に就ては江戸に出て議論する者もあり、江戸の学者・議論家も始終幕政の日に非なる事を憂ひ、追々に攻撃の声が高くなつて参りました。私共学問の浅い人間はさう云ふ事を聞き及び見及びする事は日常ではなかつたけれど、尾高と云ふものが頻りに其事を話しまする所から、私も深く幕府の政の非なる事を憂ひ出しました。元来私の家は百姓でございまして、今は物産の模様が変つて参りましたから、私の郷里の地方にもさう云ふ農産はなくなりましたけれども、其頃私の郷里では藍玉を拵へる一つの産業がありました。それは一種の農間の副業であつて、それを紺屋に売つてそれから利益を得ると云ふ、一の製作品を諸方へ商ふのでありまして、是に私は興味を持つて居りました。良い品を製造して行けば紺屋で褒められる。他人のよりも良いといふて褒められゝは自分の名誉でもあり又利益にもなりますので、趣味を持つて営業し来つたのであります。又一方には養蚕が盛んな土地でありますから、蚕を飼つて蚕種を拵へてこれを地方に商つて歩いて居つた。是も其種が良いと云つて喜ばれるのは一つの名誉にもなり又利益にもなる。そこで前にも述べた攘夷論にかぶれるまで、さう云ふ営業に力を入れて居りましたさうして或る場合には学者や慷慨家にお仲間入りをしてはいかぬと親に叱られ、業務を丹精せねばならぬと思つて勉強する考にもなる、一方には国家が倒れはせぬかと云ふ事を学者・慷慨家が来て説かれると政治が悪いと云ふ事を又深く憂へる。殊に今でも能く記憶して居りますが、日本外史を読んで、但し外史と雖も審かに読み且つ味つたとまでは申されませぬが、私は近頃それに就て、白河楽翁松平定信と云ふ人の心事を追想し、あの人は実に国家の忠臣であつた、徳川家に在つて稀に見る処の人であつたと思ひます。外史の文章が何処で筆が止めてあるかと云ふと、十一代の将軍家斉即ち文恭院の極盛に於て筆を止
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めてある。「徳川氏の盛なる是に至つて其極に達す」と云ふ一句があつたと思ひます、文字は少々違つて居るかも知れませぬ。それが源平から徳川氏迄の歴史を説いて打止めになつて居る。私は其時分からして考を起したのは、どうも日本の国は特殊の国体で二千年にも近く天子が政事を親裁せられたるに、何故七百年前に武家が政事を執るやうになつたのであらうか、詰り文武・清和の頃合から泰平の余弊として政事が藤原氏に移り、藤原氏が政事を専らにした結果、到頭平氏に移り、清盛と云ふ人が擅に国権を濫りにして終に源平の乱が起るやうになつた。それから政治が武家に移つて行つた。是は蓋し時勢の変遷とは云ひながら、朝廷の政の悪かつたと云ふ事を鑑みなければならぬ。
而して北条・足利と伝はり終に天正の大乱となり、其結果豊臣秀吉が統一はしたけれども、十分に国家を持続する事は出来なかつたが、徳川氏に至つて終に天下を平定したのであります。要するに一つの摂政法で真正なる国家の政とは云へぬ。況んや武家政治の余弊として、或は徳川氏の政略として、謂ゆる世官世禄の法を設け、政事は僅かの譜代大名に取扱はせると云ふ制度を以つてやつて居つた。さうして列藩などは随分強い藩でも、徳川家の為めに屈従して二百年の泰平を致した。その泰平を致したのは勿論制度の宜しきを得たのでありませうけれども、併し一般に諸侯を弱くしたから其処に来たのだと斯う言はなければなりませぬ。是が国内だけならば宜いけれども、偖て外国との交際に果して伴れ合つて行けるかどうか、と云ふ事は少し心あるものは自ら其考が生じて来るのであります。水戸の烈公は帝室に対して幕府が崇敬を失ふ事を憂ひ、又一方には外国に対する処置に付て幕政を非難したのは、後から考へれば皆其当を得たとは思ひませぬけれども私共も其時には至極尤もである、幕政が日に宜しきを失ふと云ふ事に深く感じましたのです。そこで終に前に申したやうに、一身を農事に楽しむとか商売に励むとか云ふ念のある時は、多少其方に自らも進み人からも勧められ、親からも励まされたけれども、どうも此姿にて経過するならば、日本の国と云ふものが終に倒れはせぬかと云ふ深い感じを起した。それと同時に徳川家の世官世禄の法はどうしても廃めねばならぬ。平たく申せば討幕と云ふ観念が終に起つて来たのである。斯う云ふ感じが十七・八才から二十・二十二・三と年月を増す程一方の農商観念が薄くなつて、一方の慷慨心が強くなる。又其方の知人が増して来る、日一日と重ねて参つて、丁度忘れも致しませぬ文久三年の亥年です、私が数へ年二十四の時、どうも堪らなくなつて一つ一揆を起さうと云ふ企てを致したのであります。今考へるとそれは余程乱暴なのです。前にも申上げた通り馬琴の八犬伝を読んだ、里見義実が滝田の城を屠る時に、安房の国は日蓮宗が流行ると云ふので宗教を利用して民家に火を付けて人を集めて、それから相議らつて百姓姿に仮装して滝田の城に這入つて、当るを幸に斬り倒して到頭山下作左衛門を亡ぼしたとある。嘘か事実か知りませぬが、私共はさう云ふ事を事実にしたくてならなかつた。それまでに桜田で井伊掃部頭を殺した人もあつた。坂下に出て安藤対馬守を斬つた連中もありました。又等持院にて足利十三代の木像の首を斬つて暴したと云ふ事もありました。
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其他種々な事が段々に伝つて慷慨家・浪士と交際をした人は是は面白いと云ふので、一種の流行物のやうな塩梅になつて、より以上に面白い事はありはしないかと云ふ様な有様になつて来たのであります。其時自身等はどうも前のやうな事にては手温い、気の毒ではあるが外国人をエライ目に合せてやるが宜い、外国人に罪があるか無いか知らぬが、何しろ日本は弱いから窘めやうと云ふだけではある、而してこれに対して偸安姑息の幕吏が悪い、併し悪いけれども直ちに江戸に兵を挙げると云ふ事は出来ないから、先づ百姓一揆を起して、さうして近所の一城を屠つて、それから横浜に押し出す、さうして横浜を焼打をする、焼討が出来れば国家は混乱になる、そこで徳川氏は維持が出来なくなる、其間には自分等の義挙を賞讚して諸侯が応ずるかも知れぬ、もし諸侯の応ずるまでに至らぬで己れは陳勝・呉広となつて倒れるかも知れぬが、必ず後に次ぐものがあるに相違ない、故に成功すれば素より幸福であるが、又倒れても尚且つ本望である。成程百姓が一家を保つて居ると云ふ事は己れの家としては大事であつて、其家を滅すのは先祖に対しては詢に申訳がないけれども、其先祖も国民中の一人である。知らぬならそれまで、荀くもさう云ふ考の起つた以上は、どうも拠処ないから、俗に血祭りになると云ふ覚悟を以て国家に殉ずると云ふ暴挙を組立つて見やう、其頃の志士の挙動を見ると、水藩などは士が私の恨を報ゆると云ふ嫌が見えてならぬ。例へば桜田の十八人は義侠は義侠でもあらうなれども、兎に角彦根の大老が水戸老公に対しての暴悖な待遇をしたから、其復讐をしたやうに見えるが、吾々は何処に対しても何等の関係もないから、若し乱臣・賊子として大名にでもなりたいと云ふが如き野心を持つたと他人は疑はれるかも知れぬけれども、それは我精神を知らぬ人の批評であるから、今日の場合国家が大事と云ふならば、大なる変革を惹起すより外にはないと決心した、是は私一人の思案ではなかつたので、頭領は尾高藍香と云ふ男で、私共の主脳に居る一人であつた。夫れから種々に評議を重ねて丁度十一月二十三日が冬至であつた。冬至の夜を機として一陽来復を祝して暴挙を起さうと云ふのが、私が二十四の年の企てであつた。処が私共の仲間内で、一人京都に出して京都の模様を探知した、尾高藍香の弟に長七郎と云ふものがあつた。愈々暴挙を起すと確定しましたから、此長七郎は撃剣家で大変力の強い人であつたから、此人の同意を促す訳で態々人を京都に出して迎へたのであります。長七郎の帰郷したのが十月二十九日の夜です。(文久三年亥年)そこで我々の計画を長七郎に申すと、大反対であつた。元来此人は撃剣を能くして私共よりは多少文学もあつたので、私は始終力を添へて江戸に出して文武の終業を専らにして、さうして慷慨家若くは浪士などと交つて居りました。是が―江戸なり京都なりの様子を吾々に取次ぐ通信方でありました。先に京都の様子を調べるやうにと云つて出して置いて、其留守に今のやうな案が定まりましたから、必要の人ではあるし、是非帰つて貰はなければならぬと云ふので迎へにやつたが、帰つて来ると其意見は大反対であつた。長七郎のいふ処はそれは容易ならん事である。さう云ふ事をすると一族挙つて乱臣賊子として唯犬死をする訳になるから、私
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は其事を聞いてはさう云ふ暴挙は止めざるを得ない。命に代へても止めると云ふ。終に仲間同志の議論になつた、今も覚えて居ります、私は血眼になつて争つたのです。成敗を以て英雄を論ずる勿れと云ふ古言がある。成るばかりが英雄ではない、敗れるは覚悟の前である。百姓の子でありながら文学武術に斯の如く力を入れさせて居くと云ふのは、私の親やお前の兄が力を添へたのであるけれども、お互の間では吾々の通信者として共に今日迄やつて来たのではないか、のみならず既にお前は昨年児島恭助などに勧められて坂下の挙に出やうとした、それを吾々は止めたのである。桜田で井伊掃部頭を斬つたのさへ吾々は国家に対する真成の働きとは思はぬ。況んや坂下で安藤対馬守を斬つたとて何の効もない。そんな詰らない事で唯一介の士たるに甘んじてはいかぬと云つて其の時に止めたのである。それに関係して懸念があつたからして、京都まで逃がして、傍ら京都の形勢を調べたのである。然るに今度の挙を起すに当り単に成功ばかりを見てやると云ふのは甚だいかぬ、と云ふのが私の議論でありました。処が長七郎はどうしてもそれはならぬ。何の効能もない可惜人々を空しく命を捨てさせる事になるのであるからどうしても同意は出来ぬ、と云ふのが同人の反対意見でありました。段々論じた末に十津川の事が一番の例証になつて、藤本や松本の如き随分文字もあり人物も勝れて居つた人があつても、何の効能もなく殆んど賊士の如くにして倒れた。丁度倒れた直ぐ後の有様を見た尾高でありましたから、危殆の念が更に強かつたのであつたと思ひます。到頭其事は暴挙だ、行ふては良くないと云ふ事に一致して、折角企てた事は此処に於て止めると云ふことになりました。今日から考へて見ると、若しさう云ふ事を実行したならば五十年の昔私の身体は無くなつたでありませうから、此御話をする必要もなかつたかも知れませぬ。それから終に其事を止めるとして、自分等も大に懸念したのであります。それまでは行掛りの勢から六七十人の徒党を組んで居りましたから、それに対する武器の用意などもありましたが、併し関東には八州取締りと云ふものがあつた。既に夫等にも疑はれて居つたと云ふ事は私共も知つて居りました。処がさう云ふ企ての止んだ場合に余計に間違の生じ易いもので、他の例を以て是は度々実験したのであるから、愈々暴挙を止めると云ふ事に決したに就ては尾高藍香だけは妻子もある身体で、又年取つた母親もある。して見れば家を去る事も出来ないから、万一禍が来たら身に引受ける事にするお前方は家に居る事は好くなからうから早く去つて境遇を変へたが宜からうと一決したのであります。併し斯う云ふ事は親類にも談話は出来ぬ真の秘密行動であるから、父にも打明けて云ふ事は出来ないやうな訳で、終に京都見物・伊勢参宮と称へて十一月の始に故郷を出で、初めて百姓から変つて浪人に成つたと云ふのでございます。今のやうに一決しましたのも、平生漢学を修めて多少経書を読み、四書に於ては稍了解し得るだけに屡々読んだ。但し朱子の集註は何だか禅味を帯びて居りまして面白くありませぬ。孔子や孟子の意思は、朱子又は河南の程氏両夫子の遺徳説は真に其神髄を得たものではなからうか。蓋し孔孟の説は生気あるもので、禅宗の悟道の様なものではなからうと
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思はれて居つたのです。孔子の教旨と云ひ孟子の議論と云ひ、或る場合には過激に見える場合があります。日本人としては余り喋々と論じられませぬ事であるけれども、孟子が公孫丑の問に対して、残賊の人これを一夫といふ一夫紂を討ずるを聞く未だ君を弑するを聞かず、と云ふて実にハキハキと答へて居ります。あゝいふ意味は朱子学には殆どない。然し桜田の挙は法律に背くからと云ふて其志を非難する事は出来ませぬ。志が悪くば賊と云はなければなりませぬが、荀も上皇室を犯さぬ限りは、縦ひ長上でも若し不義の行があつたらば身を殺して仁を為さぬ事は、君子の為し兼ねる事であると云ふ様な解釈を始終持つて居つたのです。既に是ならば必ず行ふが宜い。蓋しそれが陽明学の知行合一と云ふ事に適応するや否やは知りませぬが、自分等の青年の頃合にはさう云ふ観念を持つて一身を持ち来つたのでございます。
夫故に今日から申せば己の境遇を過つたので、百姓の子に生れたら昔の通り百姓して居つたら、過も重ねなかつたかも知れませぬ、故に今日の身に変じたのを自分の誉れとも思ふては居りませぬけれども、青年の時に故郷を去つたと云ふのは右様な理由で拠所なく去らねばならぬと云ふ境遇に立至つたのでございます。続いて京都に参つて殆んど困難に陥つた場合には、或る知人があつて一橋公に奉公するやうになつた。それから欧羅巴に行きて、維新以後に日本に帰つた後の事は委しく申上げる必要はありませぬが、百姓に生れた者が一身を変化せしめたと云ふのは、今申上げるやうな行掛りでございまして、其行掛りの中には、前に申す幾らか陽明学に近付て居つたやうに思ひます。若し其頃陽明学を修めて居つたら、尚ほ且つ同様の行動を執つたであらうと思ひます。是から見ましても、後に陽明学会に加名したと云ふ事は私の性質が陽明学に因縁する所がありはしないかと思ふのであります。併し総ての学問に浅いのでありますから、諸君に愚見を申上げる程の蘊蓄はないのです。殊に陽明学会に這入つて会員とはなつて居りますけれども、毎月雑誌すら丁寧に読み得ぬ事でありますから、其文集とか伝記とかを明かにしたと云ふ事もございませぬから、陽明学と云つても僅かに知行合一と云ふ事より外は申上げ得られませぬ。只知つたら必ず行ふと云ふ事に就ては、陽明学が朱子学と大変違ふ所であると思ふ。而して或る場合には過激に走ると云ふ事は陽明学には無きを保んかと思ひます。井上博士が陽明学者は兎角謀叛人になると云つた言葉は、そこらを意味したのかも知れませぬ。併し井上君の陽明学者を非難したのは更に忌はしい言葉であつた為めに、井上君に取消を請求しましたけれども、限明学者の行動を数へ来ると、二・三の人は穏当でなかつたと云ふ事は過言ではないと思ひます。果して然らば、私は其頃は陽明学は奉ぜぬのでありましたが、後になつて奉ずる人となるべき要素があつたものと信じます。聊かそれに因んで居た自分の身の変化を御耳に入れたに過ぎぬのであります。(了)