デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
8款 陽明学会
■綱文

第41巻 p.227-237(DK410062k) ページ画像

昭和2年4月23日(1927年)

是日、関東大震火災ノ為メ中絶セル、当会ノ陽明全書講読会ヲ、渋沢事務所ニ於テ再開ス。爾後概ネ毎月二回開催セラル。


■資料

(三谷仲之助) 書翰 渋沢栄一宛 (大正一五年)三月一五日(DK410062k-0001)
第41巻 p.227-228 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
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(東敬治) 書翰 渋沢栄一宛 (大正一五年)九月二六日(DK410062k-0002)
第41巻 p.228 ページ画像

(東敬治) 書翰 渋沢栄一宛 (大正一五年)九月二六日
                     (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、朝夕少々秋冷之気味有之候処、今年殊外残暑甚敷、御老体何も御障無之候哉御見舞申上候、私も例年之通旅行此節帰京仕居候得とも暑気ニ中リ候ニ様ニて余りニ外出も不致、随て御見舞ニも罷出不申失敬仕居候
昨年例之王文成年譜講義ハ、貴処図書館ニて可申上様御始被下様承置候処、昨年中ニハ御申越無之空しく経過仕、今年ハ已ニ半年を過候処そろそろ秋気凌能相成候得ハ、追々御始可相成かと存おり申候、御都合ニより日時御極御申越可被下候
猶其内御伺も可申上候、先ハ御見舞迄 草々頓首
  九月二十六日
                        敬治
    渋沢青淵老台
            執事


(東敬治) 書翰 渋沢栄一宛 (昭和二年)三月三〇日(DK410062k-0003)
第41巻 p.228 ページ画像

(東敬治) 書翰 渋沢栄一宛 (昭和二年)三月三〇日
                     (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、先日御談合申上候陽明学講義之件ニ付、今日麹町の御事務処方より、貴家秘書役の御方を以て来書有之、日曜ハ場処ニ故障有之土曜日の午後二時若しくハ三時始めとしてハ如何との事承知仕候、然ハ拙生方ニ於て土曜日ニて宜敷、月一回とせば其第何番の土曜日たるを御定被下度奉願候、山田・塩見二氏を其内ニ加ふる事是亦別して好都合かと存じ候、山田方ハ今日も対面之機会有之、略其事を伝へおき可申候へとも、改めて御方よりも御申伝可被下候、塩見氏ハ回顧するに已ニ二十四・五年前、陽明学会の前身王学会と称する最初ニ於て、一回之講演をせしめたること有之計りニて、未た深交ともまいらさるニより、是方へハ御方よりまつ御伝被下候てのちニ、拙生方より依頼申伝可申事宜敷かと存候
右それそれ御極め被下候上、更ニ御通知を奉待候 不乙
  三月三十日
                        敬治
    渋沢子爵様
          御執事
 尚時間ハ午後二時開始とする事便利かと存候、夕食頃まてにハ散会として三人も何か講説するとせば、少しも早く始ねハなるましとのゆへニ御座候


(東敬治) 書翰 渋沢栄一宛 (昭和二年)四月七日(DK410062k-0004)
第41巻 p.228-229 ページ画像

(東敬治) 書翰 渋沢栄一宛 (昭和二年)四月七日
                    (渋沢子爵家所蔵)
四日附の御短信拝見仕候、然ハ今月の陽明全書講読会ハ本月二十三日
 - 第41巻 p.229 -ページ画像 
の土曜と決定可仕事承知仕候、凡そ当日より十日計前ニ処々会衆之心当へ通知仕候積ニ御座候、久敷廃絶之事ゆへ如何計の会衆有之候哉分不申、因之是迄毎度通知を発する約あるものゝ控を取調候ヘハ、死亡又ハ移住なとにて、従来の半数も其人の残るもの無之有様ニ御座候、此ニ従来通知ニ用いたる葉書少々残百枚有之、これニ此度再興之義を書添、新旧人取交へて兎角それだけの葉書を以通知可申試と存候、恐くハ唯会者之小数ニ当惑矘然たる事なるべしと推察仕候間、その段ハ事も御承知之上ニ御出席可被下候、葉書別紙を御覧ニ入れ候
次雑誌永続之事ニ付てハ今日急ニ基本金を取立なと六ケ敷事と存じ候ヘハ、手短てなしやすき方ニ申上候時ハ、唯々毎月二百円計りの金を誰人何法ニよりても出してもろふへき御世話相成候得ハ、一先永続ハ出来可申候、それも先ハ現今の通りのまゝの諸体としての事ニ御座候余ハ猶拝眉可申上候
  四月七日                  敬治
    渋沢栄一老台
          閣下
   ○別紙葉書略ス。


集会日時通知表 昭和二年(DK410062k-0005)
第41巻 p.229 ページ画像

集会日時通知表 昭和二年 (渋沢子爵家所蔵)
四月廿三日 土 午後 二時 陽明会ノ件(事務所)


陽明学 第一九一号・第九―一二頁 昭和二年六月 陽明全書講読会年譜講義(雑誌第百六十九号より続く)(DK410062k-0006)
第41巻 p.229-232 ページ画像

陽明学 第一九一号・第九―一二頁 昭和二年六月
    陽明全書講読会年譜講義
          (雑誌第百六十九号より続く)
      四月二十三日(第四土曜麹町区永楽町一仲二十八号館渋沢事務所にて)
                      正堂講述
  陽明全書講読会は大正十一年の五月十四日より、子爵渋沢翁の冀望により、吾陽明学会の一部事業として開き(雑誌第百五拾六号に渋沢翁開会辞を載す)来りたるの所。十二年七月七日の第十席を了して後。其九月一日の大震災により、爾来全く中絶となりおるものを、今回再興の運となり。講本も是迄全書兪本により他を参考して講ずるものをも亦都合上全書王本に改めたるも誌上へは猶旧号を追て登載す。読者は宜しく其心して見られたし。
正徳十四年。巳卯。先生四十八歳。
 六月奉勅勘処福建叛軍。十五日丙子至豊城。聞宸濠反。遂返吉安。起義兵。云々 陽明先生が世に立ての事功を三征となし。一は南贛勦賊、二は江西擒濠、三は思田平賊、と分るのであるが。南贛の事は已に略講じておるゆへ、此よりは江西擒濠の事になる。此時先生は南贛の事が一先づ落着なしたるがゆへ、頻に上疏帰郷省親を乞ふておらるゝも未だ其允許もなきの中に、福建即ち其隣省に叛軍の事あり。最も此れはさしたる事件とする程のものに非るも、特に先生をして其小事件の叛軍を勘処せよとの詔勅を先生に降される事にせるは、全く其時の兵部尚書王晋渓瓊の計らひし深慮に出づとせる所以は、蓋し前嘗ても講じたる如く、先生が南贛勦賊の成功も晋渓の
 - 第41巻 p.230 -ページ画像 
力によりて。全く晋渓が大責任を以て、所謂便宜行事の特権を先生に予へたるによる。先生は因て其特権を運用して、凡そ其勦賊の一件に関するものは政事武事官吏将校の別なく、悉く其便宜の儘に命令役使する事を得て、何等牽制障碍するものなく、成功を容易に収得せしものなるが、但其特権の証たる令旗令牌などは其事畢れば皆之を上納返却するを法とするものなり。然るを晋渓は此時寧王宸濠の叛形已熟して、今にも爆発すべきを察し。固り先生の技倆をも信頼し。如何にもして先生を其近地、且つ其上游におきて、以て闇に寧王の変に備んとするに就て。幸近所に叛軍あるにより。其に先生を赴けしむれば、便宜行事の権も猶前件の附帯として、亦以て其儘に収納せなくて可なり。果哉先生は徃て豊城に至りしとき。忽に寧王の叛旗を挙ぐる事となり。先生は中途吉安に返り、吉安に於て神速義兵を起し、官民に号令して遂に能く擒濠の大功を遂られたのである。当時此に其手中に握れる便宜行事の特許あるを以て、余程の其運用に値なしたのである。此れ固り先生の雄材大略臨変出奇以て其勝を制せられたるに因ると雖も。上に王晋渓が危難の機を未然に察し、先生と自然に両心相照黙に相契るものあるに非れば、此の事の神速なるかくまでによく成功は六ケ敷かるべし。元来明は、太祖朱元璋が布衣より起り、胡元を攘ふて天下を統一せしは。遥に漢高祖と符を合し遂に彼の唐宋の奸謀詐術を以て天下を取りたるの比に非ずして、大に漢人種の意気を旺盛ならしめたるは、英主と謂ふべきであるが、不幸にして懿文太子の早世して、建文か太孫を以て太祖に承くるに至り。太祖の第四子燕王棣が遂に挙兵建文を攻滅して其位を奪ひて、此が即ち成祖と称し。此より以後明代を通じて、皆成祖の子孫が其業を続けたるなどは、叛王としては能くも成功せるものである。然ども最初の其祖の貽謀が已に此の如くなるが故に。成祖の次子漢王高煦が謀叛を以て誅せらるを始めとして、歴代親藩即ち皇族の藩王は、皆々凱偸の意なきはなしとも謂ふて宜しい。而して此の寧王宸濠の祖寧献王は、成祖燕王とは兄弟にして、共に太祖を輔翼して。当時已に燕王能く戦ひ寧王能謀るとの称もありたる程にて。燕王の叛旗を挙ぐるの時は、計謀を以て巧みに寧王を誘ひ是必にも其叛に与するの已むなきに至らしめたる様子にて。燕王成功の後は、寧王蓋し其心中に燕王は甘く我を誘ふて成功せしものと侮りおりしと見へ。寧王も随分我儘なる行事多くして、成祖も大部困りたるかの如し。かゝる王家の孫に宸濠の如きものゝ出るは怪しむに足らず。張本全書年譜中にも、寧藩世蓄異志とあるは、さもあらんも。先づ宸濠の親父康王まではさしたる大悪はなかりしが。濠が生れしときに悪夢に感じたこともありて、之を悪むと共に濠が淫行が募るなどより、康王が臨終にも入訣せしめざるに至るを以て見れば。濠は元是頑愚のものにて到底之を以て其が遠く成祖の如き成功の望むべきに非るも。而も其年譜にも通書史歌詞とあれば、相応読書も出来詩文も作りたるものと見ゆ。因て宸濠は其内行は、さんざんのものなるも。一面篤行を装ひ虚誉を博し、幸ひ時の天子武宗が子なく、後継定らざるを好機乗づべしとなし。盛に金銭を蒔散ん
 - 第41巻 p.231 -ページ画像 
じて、以て諸の貴幸を買収し。窃に諸学生又は諸有司より己の孝行を推頌せしめて、天嗣の自然己が身に振向くことを計画せるは。丁度漢王莾が天下郡守を挙て己を称賛せしめて、以て自然に己が天位を奪ふの素地を作るの故智を学べるものにして。朝廷の大臣たる陸完が如きも、皆之に附し致仕李士実安成挙人劉養正など苟も世に才名あるものをば。濠皆深く結んで以て其腹心となし。陰に時の大盗閔念四凌十一等を使嗾し四出劫掠せしめて、軍資を作り、追て時機を待て発せんとせるは、亦巧妙なる賊謀に非とせず。然而して明室の運命未だ尽ず。追々其不臣姦謀を発して上告するものあり。朝廷の上にも亦王晋渓の如き夙に其奸を察するものが、兵部尚書たる事となり。濠が必反を度り、厳に軍律を粛振し、諸司を督責して、捕盗の事を急速ならしめしたるもあり、朝廷の上にも、已に紛々の論議も生ずるに至り。武宗も遂に其戚臣駙馬都尉崔元を遣して、寧王を戒飭する事とせるは。往時趙王を戒飭せし故事に従ふものにして蓋し之を戒飭しておくまでの意なるものなるを。寧王より遣て武宗嬖臣の家に伏慝しおきたる間諜が、其議を聞て、急に身を脱して、寧王濠の下に報じたるにより。濠は驚きて、此必らず昔日蔡震が荊藩を擒獲せる故事を用ゆるものとなし。全く趙王戒飭の事に思附ざりしは亦其天の其鑑を奪ひて、自ら其亡滅を速ならしめたるものである。ケ様にして寧王は急に叛逆を決するに至る。それが恰も寧王生日に其近地諸官吏は寧府に参賀賜宴の事ありたるの夜に其諜報を得て、其翌朝に前日の御礼として参集せるものを劫かし大事を挙げたるものにして。此時陽明先生は正に豊城に迄至られたるの日にして、若し数日前に寧府に至近なる豊城に至らしむれば、必ずや諸有司と同じく寧府に伺候せざるを得ざるのを。終に其の到着が一日の遅かりしが為め、殆んど危機一髪の難を免て、彼孫燧許逵と同様の虐殺を脱せるのみならず。直ちに引返して吉安に至り義兵を挙げ、遂に擒濠の功をなせるは。亦先生の高運にして、天意の未だ明室を亡さゞるのゆへとするの外なし。勿論先生は兼てより寧王の必叛をば知ると雖も。必ずや其爆発の日時までをば予知せざる事と思ふ。然るを先生が福建叛軍勘処に向われたるの途中より、何か印信の如きもの失念せしとて、人を返して取来らしめて、態と数日を猶予して、危難の日を外づしたるものとせる説もあるも。此れは所謂事後の議論にして、取る可きの説に非ずと予は窃に思居るものである。扨又此の先生が豊城より変を聞きて、引返して吉安に至りて、直によく此の倉卒に処して妙に奇謀を出されたる事に就きては。李卓吾の説がある。曰く、
  濠既殺害守臣。劫諸司。拠上游。号兵十万。奪運船。順流欲下時非先生百計用間疑阻不三日。至金陵。不半月日抵燕市矣。危哉。先生之功莫大於是。当先生聞変時。即返舟。値南風急。舟弗得逆乃焚香告天曰。天若哀憫生霊。許我匡扶社稷。願即返風。須臾而風止。北帆尽起。亦可見先生之一念固已上通於天矣。
 此言の前半は、実に間然の所なし。先生が倉卒奇計を出されたるは唯其用間一着の妙に其時の機宜に中るに因る。此時に在りて、これ
 - 第41巻 p.232 -ページ画像 
あるにより、寧王の疑阻三日を得て。外は以て其迅雷的上京の危急を挫き。遠くは以て上都の諸方に防守の余裕を得さしめ。而して近くは自己勤王の師の徴集を得。而して其一たび足を挙ぐを見るや直に其省城の根拠を襲うを得。皆其用間一着中に在て便宜を得るものである。故に唯此用間の策当りて寧王の敗亡は已に此時に決せるものとして宜しい。後半先生の一念風を返すの説は固亦其理もあるべきも。若し天先生に此風を仮さゞれば、先生は遂に坐して彼が捕縛殺害に就くか。此宜しく我等後学の深思して研究すべき所である。


集会日時通知表 昭和二年(DK410062k-0007)
第41巻 p.232 ページ画像

集会日時通知表 昭和二年       (渋沢子爵家所蔵)
五月十四日 土 午後二時 陽明学会(事務所)
   ○中略。
五月廿八日 土 午後二時 陽明学会(事務所)


陽明学 第一九二号・第九―一二頁 昭和二年八月 陽明全書講読会年譜講義(承前)(DK410062k-0008)
第41巻 p.232-235 ページ画像

陽明学 第一九二号・第九―一二頁 昭和二年八月
    陽明全書講読会年譜講義(承前)
      (五月十四日(第二土曜)同二十八日(第四土曜)麹町区永楽町一ノ仲二十八号館渋沢事務所にて)
                      正堂講義
壬午再告変云々。此れは先生が此際の事ゆへ中途に其飛報を阻みて上達せさるものもあるを慮りてのことなるが。予は先生の行事を調て、大抵は其万一の違算を慮りて、二重三重に其増をかけて、而も却て其最初第一著をもて成功しておらるゝを見る。慎の至りである。また此飛報の上達の遅速は、非常の其成敗に関係せる事は何人も了得する所である。六月二十二日参政季斅。同南昌府学教授趙承芳将校二十人齎偽檄云々。先生即固封以進。其疏剴切。蓋欲因是以感動武皇。而孰知即有諫止親征之疏哉云々。元来此の季斅と云ふは、先生が近き先年に南贛の賊を平げられたる時は、季斅は先生の下に属し相応に働きたる人にして。季斅はこの功により、江西府の参政に栄進せる人なるも。忽ちに宸濠の叛に逢ひ。決死殉節の勇なく、賊党二十有二人の劫持となり。心ならずも偽檄を齎して、此に至るものである。外は楊璋と云ふがあるが、此も南贛の時は先生の機密に参し、此時先生の奇功は大抵は皆楊璋の立案献策によるものなるも、此も季斅の如く失節の徒となり辱を取りたるものである。因之て人は如何に知勇あるも、学問の素養によりて錬胆の功夫なきものは、思わぬ辱を取り、万事瓦解と云ふの地に陥ることあるを思ねばならぬものである。而して先生が其偽檄を上るに就いて、極言君主に諫むるの時はこゝぞとして、殊に剴切に申されたるは、所謂納薬自牖の法をとられしものであるも。それが又遂に空言に止りて、又々親征を諫止するの疏を草せねばならぬこととなるは。固り武宗も其最初に寧王の叛を聞しときは、それは随分驚愕せしならんも、先生の賊を破るが余りに神速なりしがため、却て武宗の懲瘡を深からしめざるによるか。此れ殆んど先生意料の外なるべし。故に云、甚哉乱朝之難也、是実に万古人世の同嘆である。
甲辰義兵発吉安云々。辛亥抜南昌より甲寅始接戦云々。丁已獲宸濠樵
 - 第41巻 p.233 -ページ画像 
舎。江西平云々。吉安知府伍文定云々。当功第一に至るは。先づ此回先生江西叛王の居城の攻めかゝられたるより、其一件の平きたる此時の功吉安の知府伍文定第一とせしまで、ごくごく要約の所だけをつまみて記したるものである。此等の中に就きて我等の着目すべき所は、先生かくも此の大賊を容易に平定せるは、寧王の叛としるや、先生は其機を外さずいちはやくも先づ其反間の謀を放つて、彼が急に疑心を生ずることとならしめたるに在り。これがため彼安慶の如きも多少防禦の準備を整うるを得て、寧王の南下を緩にし内は我兵の集まるを得る。彼が我策の徒に虚設たるに過ぎさるを勘破して然後に決意発足するの時は、正に我準備略成るの時である。故に此の条下に、初会兵樟樹。皆以安慶囲急。宜引兵赴救。先生曰。今南康九江皆為賊拠。我兵若越二城趨安慶。賊必回軍死闘。是我腹背受敵也。若先破南昌。賊失内拠。勢必帰援。如此則安慶之囲自解而賊成擒矣とあるは、此実に先生の胸中に成算ありて先生が如何に確たる信念の上に立て事に臨みしかを知るものにして、所謂名将は先勝而後戦ふものである。次に銭徳洪が竜光に聞たる先生が張疑行間の事を挙げたるを見るに。此時竜光が先生か疑を設らるる所のその方法も余り児戯に似たるの如くにして直ぐに其虚搆たる事の暴露すべしとして問ふて云、それで事が済ましようかと。先生は其事の済否は寧ろ第二として、先づ彼が疑ふか否かをいへと云へと。竜光曰く、それは聊疑ふ事は蓋し免れざるべしと。先生曰、但得渠一疑は我事済ると。ケ様に先生は唯渠が一疑を得ば、其張疑の事の虚搆がすぐに暴露するとも我事済るとゆわれたるのであるが。蓋し先生が謀によりて僅々渠が出発を三日遅れしめたるため、安慶も堅守を遂げ、我も義兵を集めるを得、而してよく寧王居城の根拠を一息の間に撃破するを得て、寧王の根拠を慮りて回軍して殺到したるの時は、城已に陥りて、当惑失胆する所を先生は軍を進めて之を翻陽湖に逆撃し三日三夜の大激戦をなして、悉く寧王以下諸主謀の賊臣をまで捕縛して大勝を奏せられたるものであるが。此の先生が南昌の城を抜かるるには先生は随分の苦心である。丁度近年我日露戦役に乃木将軍が旅順攻撃に於るが如く必ず露国艦隊の到着せざるの間に於て陥落を期せざるときは、勝敗興亡の決は猶未知の事たるものゝ如く先生が南昌攻城も其城の未だ陥落せざるが中に寧王の軍が殺到したならば、正に先生が先きに南康九江は今賊有となりおるがゆへ、その賊有の二城を踰へ安慶の拯にかかつたならば、安慶の拯は夢々出来ぬのみならず、却て我軍の腹背に敵を受て自滅に至るべしとせしものゝ如く。唯南昌の陥落が出来ぬ計りか、却我の腹背に挟撃を招き自滅を取ることなれば是非共に寸刻も速に其城を取らねばならぬことなり。此れがためには乃木将軍も余程の犠牲者を出されたであるが、先生の苦心察すべし。何と云ふても、一時義勇兵の如きは、平生の訓練なき寧ろ烏合の兵たるに過ぎざるものゝ、且つは寡兵を以て、南昌の如き堅城を一息の中に破るには、余程の死力を出さしむるに非ればかなわぬ事である。それには大に軍規の粛振と云ふことをせねばならぬ。因て此には今此下に先生が樟樹鎮に誓師の事をなされたるの時を記してある。誓師之日斬失律者以殉。軍士股栗。不敢仰視。と是れである。最
 - 第41巻 p.234 -ページ画像 
もそれは古来名将が軍規を粛振するためには其臨戦最初に往々箇様の事をなす。司馬穣苴が斉景公の寵臣荘賈を斬り、孫武が呉王闔廬の二姫を斬るが如き、皆然らざるはなきものなるが、先生も亦此失律者を斬て軍中に殉へしがため、一軍皆大に身を震わせて恐をなし、以て軍規の振粛となり、一号令の下直ちに其南昌の城門を斫つて奇捷を奏したるのである。而して又記てある後にて聞けば其は本統の我軍中失律者には非らずして、前に季斅の如く齎檄し来りたる賊党を入牢せしめおきたるものを以て、失律者として斬殺し、以て軍規振粛の用に供せしものなりと云へり。此れがまた先生の所謂仁且智ともゆふべき所にして。若しも我軍中の人を用ひたるとせんか、万一他の同朋なとに同情者もありて異論も起ることなきを保たざるを。如此の見も知らぬ賊徒なるを以てせば、唯其軍規振粛だけを得、後難の慮りもなく、此併し抑々先生が司馬孫子以上に兵謀智計の運用を得ておらる所である。近く維新の際に見るも、各藩共にそれぞれ両党相争ふて互に相殺すの事なきはなかりしに。我先子沢瀉翁が其岩国藩中に於て勤王論者として随分騒動もなし、其ためには同志栗栖天山先生の如き自殺者をば出ししも、未だ人を殺すには至らずして其志を貫くことに務めたりとして其苦心を談ぜしことのありしが。後予は楠本碩水翁と談し偶々其事に及びしとき、翁は曰く。それは殺す積であるべしと、何も其を意を用ひしかの如くに思ふは、予の後難を恐る身慾よりかゝる談をなすには非ると聞取れしかの如くなりしが。予は何も人を殺すが妙でもあるまいと思ふ。固りおんつまりには我大計の妨げともなれば人を殺すに至るは免れざることあらん、なれども殺さで大計も遂げらるればそれが仁智大人の妙用であらふ。碩水翁は程朱殊に崎門の学である。此に又講論すべきは安慶の城守である。かの寧王が一たび其南昌を発して直ちに将に南京を陥れんとして、流に順し洪水決河の勢もて行くの途中を安慶で喰止ておるの間に、先生が後より興て其根拠の南昌を覆へされたので。安慶と先生は丁度犄觕の勢で安慶か之を觕り先生が之を犄りて、共に一奔牛を斃したるの感もあるので。或は寧王の叛を平げたるは寧ろ其の功を以て其時の安慶を守た楊鋭に推さねばならぬものなるを。たゞ先生計りの功の如くに云ふは事実を顛倒せる論であるとなし。因て安慶は本邦で云へば楠正成の金剛山の落ざるの間で、新田義貞の如きが鎌倉の根拠地を襲破する事を得るに比し、因て先生の功が義貞であるとするもあるが、それは極めて曲論である。楊鋭の楠公にも似ずして、先生が又義貞でもなきは、何人も了得する。その大小主客軽重最早論題にも当らざる事なるが。但予は他書に於て楊鋭は安慶を守りたる状態を見るに、彷彿として楠公赤阪城守の態にもよく似て、其よく寡兵を以て孤城を守り、奇謀横出してよく寧王を喰止めて所謂頓兵於堅城之下したるは、楊鋭の功も亦歿せられぬものがあると思ふ。夫れ然れば当時楊鋭なければ先生の功は就るを得ざるか。曰く否陽明先生は其間又別軍をして九江南康をとらしめておらるゝ、曰く九江不破則湖無外援。南康不復則我難後躡と。九江を破て湖兵の外より来援の路を開き南康を復し寧王南京に走るの後を追躡するに、後顧の憂を無しておくべしせらるゝを見ると。先生は到底安慶の守を頼に
 - 第41巻 p.235 -ページ画像 
もせず。翻陽の一戦で埒明ぬときは猶どこまでも制勝の道は幾重も用意しておらるゝ様子が見へる。予が陽明先生の事を成すは一・二の策を頼みにはしておられず、必らずや二重も三重も其用意があるので、それが所謂名将は万敗れざるの地に立つとも謂べきものである。又吉安知府伍文定が当功第一と云を以て、伍文定が徒に勢位を以て陽明先生を戴きて事をなしたる迄にて其実は文定が何もなしたるものにして陽明先生は文定に用られたるものにして文定を用ひたるに非らずとするものもあるも、此はまた最も顛倒の甚しき議論にして論ずるに足らず、予謂ふ此等の議論は凡そ皆ためにするあつて言ふものにして、先生が赫々の光を忌み少しにても其功名を傷けんと計るものゝ戯論に過ぎずして、適に以て其量を知ざるものにして識者の笑を後人に取る計であるのみ。


集会日時通知表 昭和二年(DK410062k-0009)
第41巻 p.235 ページ画像

集会日時通知表 昭和二年         (渋沢子爵家所蔵)
六月十一日 土 午後二時 陽明学会講義会(事務所)
   ○中略。
六月廿五日 土 午後二時 陽明学会講義会(事務所)
   ○中略。
七月九日 土 午後二時 陽明学会講義会(事務所)


陽明学 第一九三号・第七―一〇頁 昭和二年一〇月 陽明全書講読会年譜講義(承前)(DK410062k-0010)
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陽明学 第一九三号・第七―一〇頁 昭和二年一〇月
    陽明全書講読会年譜講義(承前)
      (六月十一日(第二土曜)同二十八日(第四土曜)七月九日(第二土曜)麹町区永楽町一仲二十八号館渋沢事務所に於て)
                      正堂講義
八月疏諫親征
 是時兵部会議。武宗詔曰。不必命将。朕当親率六師奉天征討云々。雖捷音久上不発云々。此雖捷音久上不発と云ふに意味あり。蓋し寧王の暴発当時は、朝廷の震駭、固り一通の事にはあらざれども。忽に先生の捷音至るによりて、已に軽忽の心を生じ、以て武宗の傲漫心と相和して、遂に其親征の事を云々するに至れるものである。
 是月疏免云々。及便道省葬。前後九上。於是再乞不允懇切言於王晋渓云々。此の便道帰て省葬せんと欲して前後九回迄も上疏せしも、其意を得ざりしがため、遂に此情を以て晋渓に訴へて、其我意を察して我願ふ所に協力を請ひしものであるが。元来先生は幼にして其母を喪ひ祖母岑夫人の鞠育によりて生長せしにより、其南贛の時より祖母の老病を聴き生前一たび面別せんとして、彼是前後九回迄も上疏帰を乞ふは其情に於て万已を得ざるにもよる。然ども此時南贛兵事正に急に、且つ寧王の叛情亦已に慮るべきものあれば、晋渓の先生を抑制して其請を取次ざるも、晋渓として亦其当然の処置なるべし。而して先生の別に与晋渓書の先後共十五首の多に至る所以は先生が特に晋渓に感ぜるに因るものにして、先生の功は全く晋渓の力に藉るを以て、先生特に之に感ずることの深きによる。そは次下王宗沐銭徳洪などの所論に精詳せる通りである。其晋渓の力を出し
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て先生の為め尽したるは、亦唯所謂先生が便宜行事の特権を請われたるの一事に其力を尽したるの事である。
 顧ふに此の便宜行事の特権と云は。先生が初め南贛に在つて、申明賞罰の疏を上られて其書中の重要条件となりをるのであるが、かゝる特権は実は希有の異例にして、先生も頗ぶる其言をなすに憚り、首に大明律内の条項に拠るを明らかにし、且つは都御史周南の旧例に拠りて言をなしてある所以で、其勢の必らず先生が越爼専権の世忌を招くを恐れられしによる。且又明律周南の旧例も、亦唯其行師の時に臨み軍前に賞罰をなすを許すと云ふ迄にして、事了れば其証拠物たる旗牌は直ちに納附する筈のものであるも、然ども先生は之を証拠にとりて、これなければ主将に権力なくして到底以て其事をなし難しとせるものである。其時王晋渓は正に兵部尚書に在て大に之を然りとなし、群議を排して、執奏入朝し。先生の請わるゝ所は悉く勅許を降さるゝこととなすのみならず、遂に其のため旗牌の八面を欽給する事に取計らひ。八面の旗牌は其用大に弘く、権力の及ぶ処、徒に軍前少々の賞罰に止まらざるものありて。其上通例大監の監軍あるをも廃止したるを以て。先生は之に因て内に毫も牽制の煩なく、以て充分に其材力を展ふるを得。因て先生は之を以て已に南贛の諸賊を破り、又寧王の叛乱を平げて余裕あることゝなるものなれば、先生の晋渓に感ずるや深きも固り其当然である。其れに何ぞや此に論者の説ありて、或云。先生の晋渓に於て特書十五首の多きに上るありて、一書一言其の他の人に及ざるは先生の過失である当時晋渓が如何に先生に力を入るゝも、其他内閣諸人の同意を得ざれば、晋渓も容易に其意を行うこと難し。而も先生の一言他に及ざるがため、平生晋渓と相善からざるもの娼嫉となり。先生の大功終に成りて讒謗随て生じ先生も殆んど免れ難きに至りしは、亦一は其初先生の此に対する態度の偏頗に起因するものであると。然ども予は謂ふ先生の集中此時已に与当道書も与楊遽庵の書もあり、一も其他に及ばずとはなすべからず。特に晋渓との感深きに如かざる計りである。或説何ぞ取るに足らん。
 九月壬寅献俘銭塘云々。此の俘と云ふは先きに翻陽湖の一戦に寧王以下を捕虜とせられたるものをゆふのであるが。此時先生の捷音久しく上られてあるにも拘らず、武宗左右の奸小張忠許泰等の如きは抑へて敢て之を取次ず、武宗亦驕主にして親征などゝゆふを以て、忠泰等また従て其を煽ちて以て其奸謀をなさんとするものにして、窃に相議して再び寧王を以て翻陽湖中に縦ち、武宗親らともに交戦するを俟ちて、而後に凱旋せんとの意あるを以て。先生の正に献俘と唱て寧王は已に捕虜とせるを明かにし、已に親征の用なきを示さるゝにより、忠泰等は連に人を遣し追て広信と云ふ所まで至りて、其捕虜は我等に於て受取るべしと謂ふは、其意測られず。若しも再び之を湖中に縦ちどもなしたらんか、天下の大乱も亦測るべからざれば先生断じて此に渡さず、進て玉山草萍駅に至り纔に宦者張永に遇て其俘を引渡し、自は病と称し西湖浄悲寺に静養せるものゝ如くにして、以て其時形勢の成行を観察せしが、張永も深く先生に同情
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をなし、是より以後は張永は陰に陽に先生のために尽力を憚らず、先生も先きの捷音の疏文首句を改正し、此度の成功は威武大将軍即ち武宗陛下より以下張忠許泰などの内旨によりて此の奏功を得と云ふが如になして、以て其功を彼等にも頒つことゝなして纔に其局を片附、事変を誘発せしめぬことゝなしゝものであるが、此れは実に先生に於て其の煩寃の極である事である。先生の一心唯々国のために身を忘れ一点の利害声名などに心なきものに非れば到底出来得ぬことである。後人先生は宸濠を擒にするに労せずして、却て戦捷後忠泰の讒に苦めりと云ふは最の事である。
 古来宦者に善者鮮し。古今を通して寺人勃鞮後唐張承業くらいのものである。張永をして若し尋常の宦者ならしめんには、已に群奸の中に伍してもおるし、之に其大切なる捕虜を引渡さるゝは実に危嶮の極である。先生は何によりて其必らず其信頼すべきものなるを知りて、而して其人がまた案に違はずよくも古今間出の宦者となり、始終先生の味方となりしは不思議である。蓋し張永は其先きに楊一清と心を協へて瀋藩の逆謀を挫き、併て時の権奸劉瑾をも去りたることもありて、且つ一清は先生は嘗て其先考竜山公の墓銘をも作らしめられたるの人なれば、先生已に此によりて以て張永を知り、張永も亦大賢先生如きものゝ一顧を得て、大に其志を起し、歴世宦者の旧套を脱出するに至れるものか。全体古来宦者に小人多きも、亦世の君子の余りに其人を擯斥するより自棄自暴の心自然に其人を悪に駆る事となりし勢もあるべし。彼の王竜渓の中宦論を作るが如きは頗ぶるよく先生の作用を学びたるものと謂ふべくして、而して張居正の宦者馮保に結て高拱を排したるは則ち亦其を学ぶに意あつて而も却て其の此に学ばん欲して過るものか。凡そ此等の処後学の猶最もよく研究しおくべきの所である。
 又先生集中を見るに献俘掲帖と云を載するものがあるが、先生が献俘として進行せる途中、賊党屈指の李士実劉養正王春の如きは、皆発病医治するも痊えずして死亡し、当日先生の親しく引渡されし所のものは則ち寧王宸濠及び劉吉等数人耳矣である。蓋し彼等は一旦は大逆の徒となりしも遂い良心の呵責に堪へざりしものか。