デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
8款 陽明学会
■綱文

第41巻 p.253-259(DK410066k) ページ画像

昭和6年12月14日(1931年)

是日、当会主催「青淵先生追悼会」、渋沢事務所ニ於テ開催セラル。


■資料

竜門雑誌 第五一九号・第一五五―一六〇頁 昭和六年一二月 陽明会催青淵先生追悼会(DK410066k-0001)
第41巻 p.253-256 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕陽明学 第七〇号・第二四―二五頁 大正三年八月 道徳的実業家 東履吉 投稿(DK410066k-0002)
第41巻 p.256-257 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕二松 第七号渋沢青淵先生追悼号・第一頁 昭和六年一二月 噫青淵先生 校長 山田準(DK410066k-0003)
第41巻 p.257-258 ページ画像

二松 第七号渋沢青淵先生追悼号・第一頁 昭和六年一二月
    噫青淵先生          校長 山田準
○上略
噫、青淵先生、先生は何れの方面から仰いでも偉大であるが、自分が
 - 第41巻 p.258 -ページ画像 
最も偉大に感ずるは先生が論語の行者として生れて来られたかと思ふ点である。和漢古今論語を尊信実行した人として先生は誰にも譲らぬ我伊藤仁斎は論語を「最上至極宇宙第一書」と尊重せるが、実行の点は先生に及ばぬ。従つて先生は論語に一致した人格者として幕末より明治・大正・昭和の御代に渉り大なる存在であつた。
○下略



〔参考〕渋沢栄一翁 白石喜太郎著 第六〇一―六〇二頁 昭和八年一二月刊(DK410066k-0004)
第41巻 p.258 ページ画像

渋沢栄一翁 白石喜太郎著 第六〇一―六〇二頁 昭和八年一二月刊
 ○第四篇 八、漢学
    その四、陽明学会
○上略 陽明学会の関係を辿つて来て記さねばならないのは、陽明全書講読会のことである。王陽明に就て知ること少きを遺憾とした子爵は、支那の知人より陽明全集を贈られるや、東氏に嘱して、返り点・捨仮名・註釈・講義を附せしめたことがある。大部のもので、普通では読んで見ようとの気も起らぬほどである。然るに好学進徳の念厚き子爵は繁劇の間を割いて之を読まうとした。そして恐らく之が機縁となつたであらうと思はれるが、大正十一年から特に子爵の希望によつて、曖依村荘に於て、又渋沢事務所に於て、陽明全集講読会、後に省略して陽明会と称した特殊の会が催された。講師は初め東氏、後に山田準氏が引受け、毎月二回、第二・第四の土曜日が会日であつた。
 嘗て東洋生命保険会社社長木村雄次氏が『多くの人々が言ふやうに我が青淵先生にとつては、実践価値のない観念遊戯にしか過ぎない哲学や宗教やは、秋の団扇にも増して無用なものであつた。だから先生は老荘の哲学を指し、成程あゝした風に考へれば、それはさうも考へられもしようが、偖て其の考を実際に当て嵌めようとすれば、どうする事も出来ぬ空の話に過ぎないと云はれてゐるし、のみならず先生は中庸をも哲学臭しとして宗とせず、大学でさへも、あれは治国平天下を教へる政治家の為の書で、実業家には不向として取られず、論語こそ修身斉家の規矩として、実業家の実用書とすべきだと云つて、九十になつても、王陽明学派の先生から論語の講義を聴いてゐられたのである。私は先生が論語を講義されたと云ふ事よりも、「朝に道を聞きて夕に死すとも可なり」として、此の講義を聴かれた御態度こそ、学ぶべきと云ふよりは、寧ろ神らしい事として崇敬せねばならぬ事とさへ感ずる。』と記したのは、この陽明会のことである。『神らしい事』であるかどうかは考へねばならないが、子爵が『朝に道を聞きて夕に死すとも可なり』として精進してゐたと見ることは全然同感である。陽明学のことのみでない。漢学のみでない、社会事業にしても、教育事業にしても、国際関係にしても、生ある限り、聞き、知り、努力せんとした為め、普通では考へることも出来ない程のことを為し遂げたのである。子爵の態度に就ての木村氏の記述は、唯単に陽明会のことに制限せず、全体的に視た子爵の態度に就てとすれば当つて居ると言はねばならない。



〔参考〕山田準談話筆記(DK410066k-0005)
第41巻 p.258-259 ページ画像

山田準談話筆記            (財団法人竜門社所蔵)
 - 第41巻 p.259 -ページ画像 
               昭和十二年十一月十六日 於麹町三番町二松学舎内 山田氏宅 松平孝聴取
    陽明会に就て
 私は三島毅先生の二松学舎に長く関係し、明治三十二年第五高等学校に赴任し、更に同三十四年には第七高等学校に転任しました。その頃から東敬治さんと文通を始め、明治三十七・八年の頃東さんと面識を得て交際を続けてゐました。私が陽明学会員になつたのは此の頃で地方にあつて雑誌の原稿を出してました。
 右の会は私の在京中から青淵先生の奨励を受け、種々援助をして頂いた。爾来鹿児島に居ましたので其の間の事情はよく知りません。
 処が昭和二年正月に第七高等学校を辞して此の二松学舎の学長となつて来た。其の当時は雑誌「陽明学」も衰運にあつた。然し青淵先生を中心とする陽明会は続いてゐた。此の会は聞く処に依ると先生が王陽明全集を読み度いと云ふので、東敬治さんが二・三の同志と毎月定められた日に飛鳥山の御邸で先生の為に全集を読んで続けてゐたが、其の後兜町の事務所で月二回之を開いて色々の研究をしてたそうです私が上京した時には更に丸の内の事務所に移つて会が開かれて居り、私も先生や東氏のすゝめで毎回必ず出席した。
 どんな会かと申ますと、王陽明の年譜を東氏が読み乍ら解釈し、之が終ると私及他の人が講話し更に時に依ると青淵先生が感想談をなされた。先生は御多忙に不拘大抵出席され。晩年は毎月二回を一回に減じてゐた。会する者十四・五名で、秋月左都夫氏、奥宮慥斎氏の子息正治氏を始め紳士方が主でありました。講話の度に先生の御親切で速記をとり、或る時は之を印刷に附して会員に配つて居つた。そして聴講を人々にすゝめてをられた。
 先生は常に「維新以来世を憂ひ道を憂ひ空言を賤み実行を尊ぶ」と云ふ事に精神を傾けてをられたが、それが丁度陽明学の思想に一致してるので大いに共鳴されたのである。私共は傍から見て居て、あれ程の御多忙中をよく毎回出席されるものだと不思議に思ふ位だつた、それでも最後の一両年は欠席も殖え、遂に惜しい哉先生の最後に逢ふことゝなつた。
 扨、此の会は最初名称が無くて、何時の間にか名がついた。陽明学会は東氏が天下に呼びかけたもので、陽明会は先生の手許に出来て何時とはなく会名がついた。先生の歿後は渋沢事務所が狭いので麻布の増島六一氏方で引続き行つてゐる。
 雑誌「陽明学」は先生の莫大なる援助に依り一時は各方面に呼かけ目覚しい活躍もしたが、昭和二・三年頃となつては頗る衰へ、東氏が病身で一応郷里に引上げると共に雑誌は廃刊とし、此の時に陽明会は主として私が継続するやうにと、先生と東氏から話があつたので微力乍らつくしました。その後一年余にして東氏も再び上京し、それ以来は両人で此の会を行つて来たが、今日では先生世を去り、東氏又続き同志の減るのは淋しい限りである。