デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
8款 陽明学会
■綱文

第41巻 p.253-259(DK410066k) ページ画像

昭和6年12月14日(1931年)

是日、当会主催「青淵先生追悼会」、渋沢事務所ニ於テ開催セラル。


■資料

竜門雑誌 第五一九号・第一五五―一六〇頁 昭和六年一二月 陽明会催青淵先生追悼会(DK410066k-0001)
第41巻 p.253-256 ページ画像

竜門雑誌 第五一九号・第一五五―一六〇頁 昭和六年一二月
    陽明会催青淵先生追悼会
      (十二月十四日午後一時より渋沢事務所に於て)
 陽明会の青淵先生追悼会は十二月十四日午後一時半より渋沢事務所に於て催さる。会員四十名参集、先づ壁間に掲げたる先生の肖像に向つて一拝したる後、東正堂氏立つて次の祭文を読まる。
 維昭和六年十二月十四日、某等同志諸子と相謀り、玆に吾青淵渋沢翁老先生追悼会を挙行するに際しては、某先きに已に告別文として翁の霊前に呈したる一篇あれば、今重ねて其辞を誦して、某追悼の意を明にせんとす、其辞に曰く、蓋し惟みるに、翁の志の事業の天下国家の上にある、殊に明治維新以後実業界の大恩人として、偉大なる功績を留められたるは、天下知らざるものなき所にして、今更某の喋喋を要せざるも、独吾陽明学と翁との関係に於て、此の告別に際し聊か一言の辞を呈し、以て某が満腔の沈痛なる誠意を告げんとす、
 顧るに吾皇国は維新の隆運により国勢の勃興に冲天の形勢ありとは謂へ、人心は却て已に早くも怠慢の気風を生じ、根本の精神復た前日の如くならざるを見るは窃に杞憂に堪へざるものあり、於是乎曩に某も亦自ら其力をも顧みず、特に窮山の中より出て一箇陽明学会を輦轂の下に設立し、極力斯学を主張し、聊之に因て世道人心の万分に裨益するあらんと企てたるは、時正に明治四十一年なり、然れども何分にも某が如き元是陋郷の一書生、徒に志あるも力足らず、何とする事もならざりしが、幸にも吾翁青淵老先生の厚き同情を辱ふし、是より以来或は講会又は雑誌の刊行など、翁は恒に斯会の評議員として其力を添へられ、大正十一年よりは特に陽明全書講読会を翁の邸に開くことゝなれり、即ち今の陽明会凡そ如此して以て今日に至る、殆んど四十年、何分にも某等学問短浅知徳共に乏しく、区々たる努力果して何等国家に貢献せしかを知らず、先年某も一病以来陽明学会も再起の望なく、世は益々文明に進むかの如きも、是其外形のみ、人心日に壊れ風俗月に降り、今や滔々たる世界の悪思潮は滂沛として襲ひ来り、吾神聖無比の日本固有の道徳を挙げて没滅に帰極せんとするの感あり、聖学難明世運難挽とは古来の同慨する所とは謂ふも、当今時乃ち吾翁青淵老先生の如きものを失ふは、
 - 第41巻 p.254 -ページ画像 
為道為国何よりの不幸と謂はざるべからず、某も亦已に老ひて力足らず、徒に仰屋で嘆息の外なし、猶思ふに翁の身は今玆に終焉すと雖も、翁の精神は翁の志と共に長く生存して幽明の別あるを見ず、伏して願くは冥々の中よく天下の人心を指導して、以て永く吾国家の守護神となられんことを是祈る
  昭和六年十二月十四日
              陽明学会 東敬治 拝具
祭文の朗読了りて、参列者順次に肖像の前に到りて稽首礼拝す。次に米沢逸三・高島愿・垂井明平・益田王寿の諸氏次の挽詩を供して各朗吟される。
      悼渋沢子爵
 粋然至正更無私。尽国勲労天地知。范蠡去官論貨殖。孟軻求道張綱維。民心善導終身業。財界扶持百世師。飛鳥山頭秋寂寂。喪斯賢哲万人悲。
                     米津逸三拝《(マヽ)》
        ○
      奉挽青淵子爵渋沢先生
 理財経世済時功。遺業千秋恵化崇。心学聖賢誠意足。斯人去後有誰同。
                曾川 高島愿 拝草
        ○
      挽渋沢翁(次故人韻)
 修養深宏福徳全。位階勲爵更超然。遐齢九十新加二。可惜昊天不仮年。
                   蒲堂 垂井明平
        ○
      弔青淵居士
 噫青淵大士。雨暗晩秋天。遽駭梁摧響。涙漓仏位前。
      同偈
 諸行無常。名利皆空。煩悩滅却。火亦清風。
                      多門王寿
次に追悼演説となり、先づ東正堂氏立ちて
 『余は同郷人島田蕃根翁の紹介にて始めて先生に面謁せり。先生は余が国学雑誌の発展の為に陽明学会を起すに当り大に力を添へられたり。爾来四十年に近き長年月の間終始渝らず多大の援助を蒙りしが、先生は論語は幼年以来熟読せられたるも陽明学は全く門外漢なり。されば今陽明学会の事業を援助するは決して足下の為にするに非ず。皆自らの修養に資する為なり。但陽明学は如何にも結構なる学問なれ共、最早自分は年老ひたれば之を実地に行はん余年なしと言はれたりしが、其後の年月は随分長かりき。先生は論語に於ては旧説と異り、義利合一を唱道せられしが、是は陽明の知行一説と一致せる説なり。先生が野に下らるゝ時、親友玉乃世履は、商業を卑み堅く之を止めしが、先生は一大活眼を持し、論語をもつて商業を営むべしとて断然初志を達せられたり』
 - 第41巻 p.255 -ページ画像 
東氏の追悼講演が終るや、会員一同記念写真を撮影し、次に山田済斉氏立ちて
 『余は先生の令息篤二君の青年時代穂積家にて一年余り御教導したることあり、その時はたゞ一二度先生に面謁したるのみなりしが、昭和二年に九州より上京の後東氏の病気を承けて此会に講義し来れり。先生が我々如きものゝ講義を聞かれて何程の益を得られしや窃に恐懼する所なり。されど先生は一度始めたる事は決して中止せられざる性質なれば今日まで残続せられたるなり。先生は陽明先生は学者にして政治家たり、道徳家たり、如何にして此の如きの境に至られしやと毎々いはれたり。先生は実に九十二歳の今日迄修養せられしなり。先生の青年時代の作なる「巡信紀詩」などを見るに、実に立派なる作者なり、余は思ふ、先生にして漢学者となられたらば第一等の学者たりしならん。英傑は何をさせても全きものなり。
 論語算盤説は、福島甲子三氏が先生に進呈せる書画帖の中にある、小山正太郎画伯の筆になれる絹帽と太刀、論語と算盤との図を見て旧師三島中洲翁の作れる所にして、これより所謂論語算盤説有名となれり。先生の論語行者たる事は恐らくは日蓮の法華行者以上なるべし。余が前年面謁したる時、その数年前田舎より進呈したる「陽明学」を手にしつゝ話されたり。数年前田舎の一書生より呈したる小冊子をも捨置かれざる情義には深く感激したり。
 嘗て余の郷里の鉄道に余の王父方谷の名を取りたる方谷駅を設けたしとの議ありし時、先生は「私が運動して上げませうか」と繰返し繰返し言はれたり。先生はかゝる些事までも世の為に尽さんとせられしなり。先生の親切は実に人間以上なり。
 臨終の前実業家たちに伝へしめられたる御詞は古今一品なり「死んでも他人行儀にして呉れるな」とは、如何にも温き言にして到底常人の言ひ得ざる所なり。
 御沙汰書に宣せられたる「社会人ノ儀型」とは新らしき弔詞なるが先生にして始めて当らるべきものなり。論語に長沮桀溺子路に対ひて孔子を誹れる時、孔子は「鳥獣には与に群を同うすべからず、吾れ斯人の徒と与にするに非ずして誰と与にかせん、天下道あらば丘与に易へじ」と言はれたりとあり、されば孔子こそ社会人といふべけれ、而して孔子以後王陽明の外先生に於て始めてこれを見る。先生は誠に神格を備へたる人也、神人といふべし、我が陽明会が此の如き大人格者と結縁を得たるは非常の光栄なり。願はくは将来永く此会を存続したし。』
山田氏の長い講演が済むや、柴田甚五郎氏(東洋大学教授)立ちて
 『先生は前年藤樹先生の神社奉祀、書院の保存、伝記編纂の為に精神的にも物質的にも多大の援助を与へられたり。藤樹先生の学徳発揮の為に東京に講演会を開きたる時、先生は多忙の為自ら出席難きも自動車を提供すべければ、自由に使用せよといはれたり。先生は「藤樹先生は穏健にして実行を貴ばれたり、これ学ぶべき点なり」といはれたり。』
次に秋月左都夫氏立ちて
 - 第41巻 p.256 -ページ画像 
 『余は明治二十何年かに朝鮮にて始めて先生に面謁せり、当時馬山浦其他二・三港を開けるにつき、余は先生に対ひて何れ第一銀行はその地に支店を設けらるべし、今より其地所を求め置かれては如何といひしに、先生は「尚早し、必要に応じて求むべし、今地価安しとて渋沢が思はく買をなすべきにあらず」といはれたり。
 先生は初め鉄道敷設を好まれず、鉄道は金と技師とさへあれば何時にても出来るものなりといはれしが、後にその然らざるを知りて自ら京釜鉄道を敷設せらるゝに至りしなり、京仁鉄道の特権を米人より買はれし時も、その利益なきことは内外人ともに認むる所なりしかば、余はその事をいひ言でたるに、先生はそは自分も十分承知し居れりといはれたり、以て先生の行止の一に公益公利に在りしを察すべし。
 先生は性質極めて温厚なれども、実地は十分に備へられたり、頗る我慢強き人なり、国際聯盟協会に於ても閑人の余等よりも、多忙なる先生の方が遥に勉強せられたり、大倉喜八郎男嘗ていへらく「渋沢は仕事がすきなり、若し彼を罰せんとせば仕事を禁ずるが第一なり」と。』
小池重氏曰く
 『余は医師として、先生の如き精神的にも肉体的にも強健なる人の身体を診断し医学上の参考に資せんと致し、その健康診断を許されんことを請ひて快諾を得たれば、一日飛鳥山の御邸に詣りて診察せり、時に先生は八十六歳なりしが、其結果肺気腫あるを認めたり、又耳には耳垢の一杯に詰まれるを見たり、余は何か自覚症状なきかと伺ひたるに、近頃耳が少し遠くなれりといはれたり、これは老人として已むを得ざる所なれども、耳垢の為もあるべく、肺気腫は持病の喘患の影響もあるべしと思へり、余は又健康と性慾とは相関聯するものなりその点は如何と伺ひしに、先生は率直に性慾は八十三歳までありしも、其後はなしと答へられしが、此点は増田明六氏より発表を止められたれば今日まで何人にも語らざりしが、最早其要なかるべきにより始めて此席にて発表するなり。否先生の偉大る健康を讚美するものなり。』
かくて山田氏の勧めによりて酒巻幾三郎氏起ちて、渋沢家執事として八年間先生に近侍したる所感を述べ、了りて一同折詰を開きてこゝに追悼会を閉ぢ、引続き今後本会を継続する方法に就て会員の協議会を開き、六時頃に至りて散会したり。



〔参考〕陽明学 第七〇号・第二四―二五頁 大正三年八月 道徳的実業家 東履吉 投稿(DK410066k-0002)
第41巻 p.256-257 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕二松 第七号渋沢青淵先生追悼号・第一頁 昭和六年一二月 噫青淵先生 校長 山田準(DK410066k-0003)
第41巻 p.257-258 ページ画像

二松 第七号渋沢青淵先生追悼号・第一頁 昭和六年一二月
    噫青淵先生          校長 山田準
○上略
噫、青淵先生、先生は何れの方面から仰いでも偉大であるが、自分が
 - 第41巻 p.258 -ページ画像 
最も偉大に感ずるは先生が論語の行者として生れて来られたかと思ふ点である。和漢古今論語を尊信実行した人として先生は誰にも譲らぬ我伊藤仁斎は論語を「最上至極宇宙第一書」と尊重せるが、実行の点は先生に及ばぬ。従つて先生は論語に一致した人格者として幕末より明治・大正・昭和の御代に渉り大なる存在であつた。
○下略



〔参考〕渋沢栄一翁 白石喜太郎著 第六〇一―六〇二頁 昭和八年一二月刊(DK410066k-0004)
第41巻 p.258 ページ画像

渋沢栄一翁 白石喜太郎著 第六〇一―六〇二頁 昭和八年一二月刊
 ○第四篇 八、漢学
    その四、陽明学会
○上略 陽明学会の関係を辿つて来て記さねばならないのは、陽明全書講読会のことである。王陽明に就て知ること少きを遺憾とした子爵は、支那の知人より陽明全集を贈られるや、東氏に嘱して、返り点・捨仮名・註釈・講義を附せしめたことがある。大部のもので、普通では読んで見ようとの気も起らぬほどである。然るに好学進徳の念厚き子爵は繁劇の間を割いて之を読まうとした。そして恐らく之が機縁となつたであらうと思はれるが、大正十一年から特に子爵の希望によつて、曖依村荘に於て、又渋沢事務所に於て、陽明全集講読会、後に省略して陽明会と称した特殊の会が催された。講師は初め東氏、後に山田準氏が引受け、毎月二回、第二・第四の土曜日が会日であつた。
 嘗て東洋生命保険会社社長木村雄次氏が『多くの人々が言ふやうに我が青淵先生にとつては、実践価値のない観念遊戯にしか過ぎない哲学や宗教やは、秋の団扇にも増して無用なものであつた。だから先生は老荘の哲学を指し、成程あゝした風に考へれば、それはさうも考へられもしようが、偖て其の考を実際に当て嵌めようとすれば、どうする事も出来ぬ空の話に過ぎないと云はれてゐるし、のみならず先生は中庸をも哲学臭しとして宗とせず、大学でさへも、あれは治国平天下を教へる政治家の為の書で、実業家には不向として取られず、論語こそ修身斉家の規矩として、実業家の実用書とすべきだと云つて、九十になつても、王陽明学派の先生から論語の講義を聴いてゐられたのである。私は先生が論語を講義されたと云ふ事よりも、「朝に道を聞きて夕に死すとも可なり」として、此の講義を聴かれた御態度こそ、学ぶべきと云ふよりは、寧ろ神らしい事として崇敬せねばならぬ事とさへ感ずる。』と記したのは、この陽明会のことである。『神らしい事』であるかどうかは考へねばならないが、子爵が『朝に道を聞きて夕に死すとも可なり』として精進してゐたと見ることは全然同感である。陽明学のことのみでない。漢学のみでない、社会事業にしても、教育事業にしても、国際関係にしても、生ある限り、聞き、知り、努力せんとした為め、普通では考へることも出来ない程のことを為し遂げたのである。子爵の態度に就ての木村氏の記述は、唯単に陽明会のことに制限せず、全体的に視た子爵の態度に就てとすれば当つて居ると言はねばならない。



〔参考〕山田準談話筆記(DK410066k-0005)
第41巻 p.258-259 ページ画像

山田準談話筆記            (財団法人竜門社所蔵)
 - 第41巻 p.259 -ページ画像 
               昭和十二年十一月十六日 於麹町三番町二松学舎内 山田氏宅 松平孝聴取
    陽明会に就て
 私は三島毅先生の二松学舎に長く関係し、明治三十二年第五高等学校に赴任し、更に同三十四年には第七高等学校に転任しました。その頃から東敬治さんと文通を始め、明治三十七・八年の頃東さんと面識を得て交際を続けてゐました。私が陽明学会員になつたのは此の頃で地方にあつて雑誌の原稿を出してました。
 右の会は私の在京中から青淵先生の奨励を受け、種々援助をして頂いた。爾来鹿児島に居ましたので其の間の事情はよく知りません。
 処が昭和二年正月に第七高等学校を辞して此の二松学舎の学長となつて来た。其の当時は雑誌「陽明学」も衰運にあつた。然し青淵先生を中心とする陽明会は続いてゐた。此の会は聞く処に依ると先生が王陽明全集を読み度いと云ふので、東敬治さんが二・三の同志と毎月定められた日に飛鳥山の御邸で先生の為に全集を読んで続けてゐたが、其の後兜町の事務所で月二回之を開いて色々の研究をしてたそうです私が上京した時には更に丸の内の事務所に移つて会が開かれて居り、私も先生や東氏のすゝめで毎回必ず出席した。
 どんな会かと申ますと、王陽明の年譜を東氏が読み乍ら解釈し、之が終ると私及他の人が講話し更に時に依ると青淵先生が感想談をなされた。先生は御多忙に不拘大抵出席され。晩年は毎月二回を一回に減じてゐた。会する者十四・五名で、秋月左都夫氏、奥宮慥斎氏の子息正治氏を始め紳士方が主でありました。講話の度に先生の御親切で速記をとり、或る時は之を印刷に附して会員に配つて居つた。そして聴講を人々にすゝめてをられた。
 先生は常に「維新以来世を憂ひ道を憂ひ空言を賤み実行を尊ぶ」と云ふ事に精神を傾けてをられたが、それが丁度陽明学の思想に一致してるので大いに共鳴されたのである。私共は傍から見て居て、あれ程の御多忙中をよく毎回出席されるものだと不思議に思ふ位だつた、それでも最後の一両年は欠席も殖え、遂に惜しい哉先生の最後に逢ふことゝなつた。
 扨、此の会は最初名称が無くて、何時の間にか名がついた。陽明学会は東氏が天下に呼びかけたもので、陽明会は先生の手許に出来て何時とはなく会名がついた。先生の歿後は渋沢事務所が狭いので麻布の増島六一氏方で引続き行つてゐる。
 雑誌「陽明学」は先生の莫大なる援助に依り一時は各方面に呼かけ目覚しい活躍もしたが、昭和二・三年頃となつては頗る衰へ、東氏が病身で一応郷里に引上げると共に雑誌は廃刊とし、此の時に陽明会は主として私が継続するやうにと、先生と東氏から話があつたので微力乍らつくしました。その後一年余にして東氏も再び上京し、それ以来は両人で此の会を行つて来たが、今日では先生世を去り、東氏又続き同志の減るのは淋しい限りである。