デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.7

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
19款 栄一ノ論語ニ関スル講話
■綱文

第41巻 p.372-403(DK410091k) ページ画像

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■資料

竜門雑誌 第二四七号・第二六―三一頁 明治四一年一二月 ○論語に関する談話 青淵先生(DK410091k-0001)
第41巻 p.372-375 ページ画像

竜門雑誌  第二四七号・第二六―三一頁 明治四一年一二月
    ○論語に関する談話
                     青淵先生
 此篇は「渋沢男は論語を如何に研究し之によりて如何に修養し来りしか」と題し、本年十一月十五日発行の太平洋第七巻第二十六号に掲載せしものなり
記者は一日男を王子の邸に訪ひ、男が論語を愛読するに至りし動機因縁を問ひ、更らに実業家たる男の立場より特に之れを愛翫するはその如何なる点にあるか、男の青年時代より現代に至る思想及び境遇の変化につれて論語に対する考へは、如何に変はり来りしか、論語に依りて特に慰藉裨益に与づかりし事柄は如何。論語の教訓に対して若し不満を感ずる点ありとすれば如何なる点なるか、特にその経済思想及び宗教思想に対しては如何に考へらるゝか等に就いての談を聴かんことを請へり。男は之れに対して反覆叮嚀具さにその感想を語れり、立論引証極めて的確にして該博、記者は之れを記述して或は遺漏なきを得ざるを甚だ以て遺憾とす。(波多江生)
      △如何なる精神にて読むか
普通に学者が論語を読むのは、之れを考証的又は学理的に研究するのであつて、ドウも論語の精神に触れ、熟読翫味して其の精神を直ちに躬行しやうと云ふ方は疎かになつて居ることが多いやうに思ふが、予は及ばずながら孔子の言葉を日常実地に行ふて見る精神で、論語を読んで来たのである。一体予の生ひ立ちを云へば、最初は農民で、それから漢学書生となり、浪人となり、官吏となつたと云ふ経歴であつて維新の動乱の際には、時には慷慨悲歌の志士と交はつて、天下を覆へさうなどゝ企てゝ死生の場合に出入したことも度々であるから、若い時分には随分品行方正を欠いたと思はるゝ事もないではない、故に予の以前の経歴上の事までが、論語の教訓を実行して来たとは勿論云へないが、少くとも今日では家族の者に対するにも、公の事を処するにも、又は知人と交はるにも、必らず論語に頼つて行はないものは殆んどない。人に説諭するにしても斯様な場合に孔子は何う処したか、論語には何と言つてあるかと、皆な一々論語を根拠として説いて居る。
予は固より学者が論語を研究するやうに、考証的には読まない、唯だ論語の文字の上に孔子の精神の現はれたる処を忖度して読むのが、予が論語の読み方である。
      △考証的研究は無用
序でに意見として一言附け加へて置き度いのは、支那でも孔子時代には、学問と実際とが極めて密着して居つたもので、学問と云つても皆実学で、学理と行ひとに少しの区別もなかつた、所が宋の頃になつて
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一向世事に関係しない学者達が経学を祖述した結果は、論語を全く一種の文学宗教のやうにして仕舞つて、段々と派を生じ論を闘はすに至り、学問と実際との間隔が次第に生じて、遂に経書の考究は極めて高尚にして迂遠なるものと、一般に考へられるに到つた。蓋し孔子時代までは「有民人焉。有社稷焉。何必読書。然後為学」と云ひ、或は、「賢賢易色事父母。能竭其力事君能致其身。与朋友交。言而有信。雖曰未学吾必謂之学矣」と云ふやうに、学問と実際とに少しも区別がない。即ちその日その日にその人々の行ひを書いたのが論語である。所が後人は之れを誇張して一種の聖書のやうにして仕舞つて「仁」を説明しては「愛之理心之徳」と云ひ、或は「虚霊不昧」などゝ禅家の証のやうに説く様に成つた。けれども子貢が「如有博施於民。而能済衆。何如可謂仁乎」と問ひたるに対して、孔子は仁とはそんな六ケ敷い事ではない「夫仁者。己欲立而立人。己欲達而達人」と直接身に行ふ事だと教へて居らるゝが、これでこそ論語が日常の教訓として、尊き値打ちのある訳である。之れを聖書の如く取り扱つて考証的に研究するに至つては既に一種の弊に陥つたものだと思ふ。
      △論語を以て実業界を救はんとす
元来予の父は論語が好きで、而かも極く厳びしい人であつて予は子供の時から、少しの失策でもすれば、直ぐに論語を引き合ひに出されて叱り付けられたものである。それで其時から論語の事は頭に入つて居た、けれども廿五六の頃までは唯だ六ケ敷い本だと思つて読んだゞけ別にその教へを日常の行状に引付けやうと迄は考へなかつた。
壮年時代になつても、天下を覆へさうなどゝ乱暴な事を企てゝ居た位だから、別に論語の事を考へる余裕もない、唯だ父が常に論語を引合ひに出して「人間の行ひは忠実を旨としなければならぬ、人に偽りを云つては可けない、人の恩恵は決して忘るゝな」と云つて聴かして居たことは常に念頭にあつた。けれども予が真味に論語を行状の規範にしやうとの考へを起したのは、明治六年の辞官の時である。
その頃予は有名な法律家玉乃世履氏と、極く懇意な仲で、始終互に忠告し合ふ間柄であつた。辞官の決心をした時に、今の井上侯は「時機さへ来らば、野に下つて意の如く行うも可いだらう」との意見であつたが、この玉乃氏は特に忠告された、「君は現在官界でも可なりの位置であり、将来を考へても極めて有望であるのに、今辞職するは実に惜い、縦令、野に下つて商人となつても、君には迚ても金儲けは出来まい、而かも世間からは軽蔑を受けて、生涯官吏の頣使の下に働く身分に堕つるのは、君の為めに甚だ遺憾に思ふ。それも金儲けの為めと云ふならば仕方もないが、さもなければ他に方法もありさうなものではないか」と摯実な忠告をされた。予はその時に確乎として答へた、「元より金を溜める為めに辞官はしない、一体実業家が今日の如く卑劣で、全く社会の尊敬を受けぬと云ふのが、抑々間違つて居る、欧米では決して官商の懸隔が斯くの如きではない、日本を早く官商同等の地位に進めなくては、到底実業の進歩する見込がない、日本の商人が今日の如く社会の軽蔑を受けるのは、一つは封建の余弊でもあらうが一つは又た商人の仕打ちが、甚だ宜しくないからでもある。予不肖な
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がら此弊風矯正の為めに一身を献げたい、宋の趙普は論語の半部を以て天子を輔け半部を以て身を修めたと云つて居るが、予は論語の半部を以て身を修め半部を以て実業界を救ひ度い覚悟で居る、何うか先き永く見てゐて呉れ」と云つた。その時論語と云ふことを固く云つたのを今も能く記憶して居る、予が行住坐臥、事業を経営するも、事を処するも、是非論語に拠らうと堅く決心を起したのは此時の事である。
      △予は斯くの如くに薫陶せられたり
論語に依つて如何なる慰藉を得たと云ふのか、一体孔子の訓へ方と云ふものは、西洋などの哲人のやうに『これは可けない斯様にせよ』とか『活溌に遣れ』とかきめ付けたやうに云ふことが嫌ひで、常に自ら謙遜して『人は此くの如きもの』『斯様な場合は斯くすべきもの』と安んじて世を送ることの出来るやうに教へる流儀である。故に論語を読んで特に慰藉するとか、激励すると云ふ如きことはないが、少しも窮屈な思ひをせず、緩つたりと世を渡ることが出来る。聖書や仏典の如くに、罪悪の事は思つても可けないとか、小学内篇にあるやうに、『鶏鳴先起』と云ふやうな窮屈な事や、激しいことは決して云つてない。唯だ宰予が昼寝して居る所を見て『朽木不可雕也。糞土之牆。不可杇也』と責めて居られる、何うして此時に限つて之れ程激しい言葉を用ゐられたかと怪む位であるが、抑々宰予と云ふ人は口ばり[口ばかり]が達者で一向役に立たぬ男だから、特に激しく言はれたものと思はれる。その外には、人の行動を評するに之れ程きめつけられた言葉はない、斯くの如く論語には特に激励慰藉の教訓はないが、併し論語を充分に読んで居れば、初めより其んな必要を感じないのだ。故に予は何時論語に依つて斯様な慰藉を得たとか、論語のこの言葉に依つて斯くの如き発憤の心を起したと云ふことはないが、唯だ何時も平時の心を以て緩つたりと楽しく快濶に日々を送ることの出来るのは、全く論語のお蔭であると信じて居る。
      △論語と宗教的分子
論語の教訓に対して、何か不充分に感ずる所はないかと云ふ尋ねであるが、予は今日まで未だそう云ふ感じを抱いたことはない。宗教上の安心を求めんとするものは、論語に依つては何等の得る所もないではないかと云ふ疑問に就いても、予は論語に説く所を以て少しも不足を認めない。孔子は『未能事人。焉能事鬼』と云つて、宗教的の観念は極めて薄く、飽くまでも現世の正理を行ふことに努めて居られたけれども、孔子も人間以上の偉大なる力の存在を否定せられては居ない、『君子有三畏』と云つて、その第一は『畏天命』とあり、『獲罪於天。無所祷也』とも説いて居られる、此信仰の上に立つて正理を行つて行かれたのであるから、孔子の心中は常に安泰である。あれ程に温恭な人でも『迅雷疾風必変』じて天意を畏れ修養を怠られなかつたのだ、故に予もこの訓へに基づいて道理正しくさへ行けば『祈らずとも神や守らん』の精神で居るから此外に別に宗教の必要を感じない、若し行くに正道を踏み外づさば『非其鬼而祭之。謟也』で、如何なる宗教があるも何の役にも立つものではないと信じて居る。予は強ち在来の宗教を無視するではないが、予に取つては論語に対して宗教的要求上不
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足を感ずるの念が更らにないのだ。
論語には『悔い改め』とか『懺悔』とか云ふことに就いては外の宗教の如くに殊更ら重く云つてない、随て一度び罪悪に陥つたものに向つて、新生命新光明を与へる点には、幾分か力の薄いと云ふ嫌ひはないかとの疑問があるが、併し論語にも『過則勿憚改』と云ふ様に全く之を説かないのではない、畢竟懺悔とか悔い改めと云ふことは悪事を働いた後に起ることであつて、孔子の精神を云へば、最初より罪悪に陥らざらしめんことが肝要であるのだ、故に『聴訟吾猶人也。必也。使無訟乎』と云つて居られる。一体仏教などで懺悔を一つの徳の如くに云つてあるのは、全く一種の方便に過ぎないと思ふ『一念弥陀仏即滅無量罪』などゝあるけれども、之れは全く自暴自棄するを防ぐ為めであつて、懺悔するや否や直に前悪が消えて仕舞ふことなぞのあるべき筈がない、悔い改めて段々と善行を積んだ後にこそ、初めて前の罪悪も消えて行くべきである、本より悔いることは必要である、故に孔子も『過而不改是謂過矣』と云つて居られるが、予は之れが最も穏当な教へ方かと思ふ。次に見る可きは実業訓としての論語の価値である。
      △論語にある実業訓
会社を拵へるとか、技術上の発明をすると云ふ事柄に対して適切の教訓はないにしても、経済上一般の心得に就いては幾らも説いて居られる。『韮飲食而致孝乎鬼神。悪衣服而致美乎黻冕。卑宮室而尽力乎溝洫。禹吾無間然矣』即ち簡単に云へば、私事には出来るだけ節約して公事には金を惜まずと云ふが、孔子の経済上の根本的精神であつた。或は『節用而愛人』と云ひ、或は『先難後獲』と云ひ、或は『生財有大道』の一節の如き、皆経済利殖の教訓である。更らに論語中執つて以て守る所の精神を云へば『富与貴。是人之所欲也。不以其道。得之不処也』『不義而富且貴。於我如浮雲』『富而可求也。雖執鞭之士。吾亦為之。如不可求。従吾所好』等で全く武士道の教訓である。今日の実業家に果して此精神を以て事に当つて居るものが幾人あらうか、総べてが利慾づくで、法律の制裁をくゞらるゝ限りはくゞつて金儲けが為度い一方のものばかりであるから、商業道徳も一向に進まぬのだ。実に残念に思ふ。自分さへ儲ければ世間は何うならうと構はぬと云ふ腹で、事業を遣つて居る。若し世間や法律の制裁さへなければ、強奪も為かねぬ者ばかりである。唯だ世間や法律の制裁がある為めに、損得づくから悪いことも為ないので、若し損得を計る智慧がなくして、我利々々の念慮のみを増長させたならば、丁度犬が打たれながらも肴を喰はへて逃ぐると同じやうな、浅間敷い状態に陥つて仕舞うであらうと思ふ、斯んな量見で商売を遣つてゐては、決して商売の繁昌する道理がない、実業は何時まで経つても発達する見込みはない、何うしても早く此悪風を矯正為なければならぬと思ふが、予は社会の教育家ではないから、論語の教へを説き廻ることは出来ぬ。唯だ自ら之れを守り自ら之れを実行して、出来るだけ一人にも多く、之が実行を勧め度いと思ふばかりである。


竜門雑誌 第三一〇号・第一一―一四頁 大正三年三月 ○論語と予(其一) 青淵先生(DK410091k-0002)
第41巻 p.375-378 ページ画像

竜門雑誌  第三一〇号・第一一―一四頁 大正三年三月
 - 第41巻 p.376 -ページ画像 
    ○論語と予(其一)
                      青淵先生
 取り立ててお話し申す程のことも有りませぬ。学問上論語に趣味を有つてをるといふのではない。私は漢学者でも洋学者でも無いから哲学上の問題を研究す可き資格が無い。然し私は近来特に論語に深い趣味を有つて居るが、其れには理由が有る。仮令私が浅薄な学問でも論語を喜ぶ様になつた縁故は一応話す理由が有る。
 私の故郷は東京から二十里許り隔つてをる埼玉で親は半商半農の稼をして居た。家庭は至つて方正厳格で聊か親は百姓中に在つては学問を好む方で、文章を作つたり書を書いたり俳句なども作つてゐた。深くは無いけれども好きな方であつた。其れで漢籍の経典を好み充分では無いけれども、四書五経を後藤点の朱註で読み、本文丈では不充分故、経典余師を用ひて読んで居た。私は親から最初素読を習つたので七歳位から始めた、初め大学を読み、次に論語を読みかけたが、八歳許りになつて、親も忙しく、且内々では勉強の甲斐が薄いといふので五・六町の所に藍香通称新五郎といふのが居た、此は私の従兄で私よりは十歳年上で十年許り前に故人になつたが、此の藍香は当時十八歳位であつたけれども、天稟記憶がよく、深く学んだといふのでは無いけれども、四書五経を百姓読み(扁とか作りとかで読む流義)でなく立派に読んで居た。字義も明かで、其上道徳家で、若くより身持が好く、私の親とは叔父従兄の間柄であつて互に敬愛してゐた。其れで新五郎が代つて本を教へよとのことで、之からは四書五経を藍香に従つて農業に従事しつゝ読んだのである。然し何の趣味も有たず、充分に道理は判らなんだ。所が菊池菊城といふ人があつて、此の人は経学者で、朝川善庵や太田錦城に従ひ、古学派や朱子学派や折衷学派の様子を知つてゐた。朝川は朱子学派、太田は折衷学派であつて、菊城は此等を攻究して居て論語を講義した。其こで菊城が藍香の宅へ時々来るのを幸に、論語郷党篇位まで一周間余りも泊つて居て、毎晩菊城から講義を聴いた。此の時は学而・為政・八佾・里仁などは所々に感じを有ち、文章理義も大分考へて見た。そして唯論語が読めるとか、文章理義を知つてをるといふことで誇つてはならぬ。論語には言に訥にして行ひに敏ならんことを欲すとも、弟子入つては即ち孝、出でゝは即ち弟、慎んで信、汎く衆を愛して仁に親しむ。行うて余力有れば即ち以て文を学べともあつて、道理を知つてをることを誇るのは好くない実行が大切である。学を誇るは過ちで、実行を勉めなければならぬ。王陽明などは知行合一とか致良知とか説いてをる、実行といふことになると、朱子の説は薄い様だ、理義は整つてゐても、実行に乏しい様だ、王陽明の方が実行の点になると好いと云ふ説もあつたので、私も然うかと感じたことも有つた。
 私の十四歳の時が嘉永六年ペリーが浦賀に来た年で、其の翌年が安政元年で外交問題が段々八釜敷なつて来た。固より十四、五歳の子供故、国家の事務に関して行届いた思案を有つ程のことは無かつたけれども、モウ大学でも読むと治国平天下を夢みる。唯だ修身斉家といふこと丈では物足らぬ思ひがして、国体とか政治とかいふことを考へ出
 - 第41巻 p.377 -ページ画像 
す。然うなると自然に進んで我が国体の歴史とか封建制度の起源とか朝廷はドウなければならぬとか、色々の事を考へる様になる。世の中が年一年に騒々敷くなる故、従つて自分の考も騒々敷なり、家業の暇には子供でありながら国家の事を考へる。然して尊王攘夷が国民の勤めで、徳川の遣り方は間違つてをる。本来の国体に背いてゐる。王朝尊ぶ可し、夷蛮討つ可しといふ考にかぶれる。城公が斯く主張したものだから自分もかぶらされた。城公の高弟を以て自ら任じてをる私は先に立つて騒ぎ出し、モー此の時分は論語どころで無くなつた。尤も孔子に真似て、少正卯を誅す位の考は有つたが、静に論語を研究するといふ様なことは無くなつた。然して十年許りの間は論語と絶交して居たといふ有様であつた。
 二十四歳になつて故郷を出でて、一ツ橋に奉公をした。其れから色色変化をして、恰度二十八歳になつて仏蘭西へ参ることになつた。明治元年は二十九年、翌三十の歳に政府に召し出され役に就き、明治六年まで勤めてゐた。此の三十五歳までは論語に就いて深い考を有たなかつた。深い趣味を有つて読む場合が無かつた。が六年官を辞して、元来の希望の実業には入る事になつてから、論語に対して私は特別の関係が出来た。其れは始めて商売人になるといふ時、不図心に感じたのは、此からは愈銖錙の利もて世渡りをしなければならぬが、志を如何に有つ可きであらうかに就て考へた。その時前に習つた論語のことを思ひ出したのである。論語には己を修め人に交はる日常の教が説いてある。論語は最も欠点の少い教訓であるが、此の論語で商売は能まいかと考へた。そして私は論語の教訓に従つて商売し、利殖を図ることが能ると考へたのである。
 そこへ恰度玉乃といつて岩国の人で後に大審院長になつた。書も達者で文も上手、至つて真面目の人で、役人中では玉乃と私とはマー純吏と言はれて居た。二人は官で非常に懇親にし、官も相並んで進み、勅任官になつた。二人は共に将来は国務大臣にならうといふ希望を懐いて進んで居たのだから、私が突然官を辞して、商人になるといふのを聞き痛く惜まれ、是非にといつて引止めて呉れた。私は其の時井上さんの次官をして居たので、井上さんは官制の事に就いて内閣と意見を異にし、殆んど喧嘩腰で退いた。そして私も井上さんと共に辞したから、私も内閣と喧嘩して辞した様に見えたのである。勿論私も井上さんと同じく、内閣と意見は違つてゐたけれども、私の辞したのは喧嘩ではない、主旨が違ふ。私の辞職の原因といふのは、当時の我が国は政治でも教育でも著々改善すべき必要がある。然し我が日本では商売が最も振はぬ。商業が振はねば日本の国富を増進することは出来ぬこれは如何にもして他の方面と同時に商売を振興せねばならぬと考へた。其の時までは商売に学問は不要である。学問を覚ゆれば反つて害がある。貸家札唐様で書く三代目といつて三代目は危険であるといふ時代であつた。そこで不肖ながら学問を以て利殖を図らねばならぬといふ決心で商売人に変つたのであるけれども、然しそこまではイクラ友人でも解らなかつたのだから私の辞職を喧嘩だと合点し酷く私を誤つてをるとして責めた。君も遠からず長官になれる大臣になれる。お
 - 第41巻 p.378 -ページ画像 
互に官に在つて国家の為に尽す可き身だ。然るに賤しむ可き金銭に眼が眩み、官を去つて商人になるとは実に呆れる。今まで君を然ういふ人間だとは思はなかつた、と言うて忠告して呉れた。其の時私は大に玉乃を弁駁し説得したが、私は論語を引き合に出したのである。趙普が論語の半ばで宰相を助け、半ばで吾が身を修めるといつた事などを引き、私は論語で一生を貫いて見せる。金銭を取扱ふが何故賤いか。君の様に金銭を賤しむ様では国家は立たぬ。官が高いとか、人爵が高いとかいふことは、然う尊いもので無い、人間の勤む可き尊い仕事は到る所に在る。官丈が尊いので無いと、色々論語などを引いて弁駁し説きつけたのである。そして私は論語を最も疵の無いものと思うたから、論語の教訓を標準として一生商業を遣つて見やうと決心した。其れは明治六年の五月の事であつた。
 其れからといふものは勢論語を読まなければならぬ事になり、中村敬宇先生や信夫恕軒先生に講義を聴いた。いづれも多忙なものだから終りまでは成し遂げなんだが、昨年の夏から大学の宇野さんにお願して復始めた。主として子供の為に遣つてをるが、私も必らず出席して聴く。そして色々と質問が出たり、解釈について意見が出たりして仲仲面白く有益である。只今郷党まで進んでをる。一章一章講義し、皆で考へて本当に分つて後進むのだから、なかなか進まないが、其の代り意味は善く判つて、子供なども大変に面白がつてをる。
 私は今までに五人の手で論語を講究してをるが、学問的でないから面白くないと思ふ所は、何とも思はず過すから、時には深い意味を知らずに居ることがある。例へば泰伯第八の邦有道。貧且賤焉。恥也。邦無道。富且貴焉。恥也。の語の如きも、今となつて、深い意味を含んでゐることを知つた。此度は論語を委しく講義してをるので、色々な点に気が付いて悟る所が多い。然し論語は決して六ケ敷学理ではない。六ケ敷ものを読む学者でなければ判らぬといふ様なものでない。論語の教は広く俗用に功能があるので、元来解り易いものであるのを学者が六ケ敷して了ひ、農工商などの与り知る可きもので無いといふ様にして了つた。商人や農人は論語など手にすべきものでないといふ様にして了つた。之は大なる間違である。       (未完)


竜門雑誌 第三一一号・第一八頁 大正三年四月 ○論語と予(其二) 青淵先生(DK410091k-0003)
第41巻 p.378-379 ページ画像

竜門雑誌  第三一一号・第一八頁 大正三年四月
    ○論語と予(其二)
                      青淵先生
 本稿は青淵先生が大日本漢文学会の請ひにより説話せられたるものにして、同会発行の漢文講義録第六号に未完の儘掲載せられたるを以て、編者は長篇のものと信じて之を転載したり、然るに同講義録第七号に掲ぐる所のものは左の数行に過ぎずして全く完結を告げ居るなり(編者識)
 斯の如き学者は、譬へば八ケましき玄関番のやうなもので、孔夫子には邪魔物である。こんな玄関番に頼んでは、孔夫子に面会することは出来ぬ。孔夫子は決して六カシ屋でなく案外サバケた方で、商人でも農人でも、誰にでも会つて教へて呉れる方で、孔夫子の教へは実用
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的の卑近の教へである。
 右の如き次第で、明治六年より今日に至るまで、四十余年の間、論語の教訓に依つて商業、興業等を務めて来たので、自分の是れまでしたことは、地下に於て孔夫子に叱られぬ積りである。孔夫子から見たらばまだ不充分の所も多からう。然し自分は己れを欺いたことは少しも無い。孔夫子の教の為めに自分の富を積むことは不充分であつたとしても、国家の富に向つて聊か微力を尽した考である。孔夫子の教と富とは一致す可きもので、仁を為せば富まないといふことは誤であつて、仁義を実行してこそ真の富が得られるのである、と堅く信じてをる。其れで私は常に論語を離さないのである。(完)


竜門雑誌 第三一六号・第五四―五五頁 大正三年九月 ○英訳論語序 【青淵老人識】(DK410091k-0004)
第41巻 p.379-380 ページ画像

竜門雑誌  第三一六号・第五四―五五頁 大正三年九月
    ○英訳論語序
 論語二十篇、皆道徳を講じ仁義を説くものにあらざるなし。然りといへども或は人の問に答へ或は自ら懐を述ぶるに当り、文学を論じ、礼法を述べ、政治を説き、比喩を設け、評論を為し、各篇筆法一ならざるを以て、初めて之を読む者に於ては、恰も田舎人大都に遊びて市街の縦横に迷ひ、百貨の錯雑なるに対して其選択を得ざるが如し、而して数読玩味するに於て漸く其趣旨を弁じ、要領を理会するに至るべし。
 宋儒程伊川曰く、論語を読み、読了て全然無事なるものあり、読了て後其中の一両句を得て喜ぶものあり、読了て後之を好むを知るものあり、読了て後手の舞ひ足の踏むを知らざるものありと。又曰く、頣十七・八より論語を読む、当時已に文義を暁る、之を読む愈よ久しく但だ意味深を覚ゆと、凡そ論語を読む者、須らく此の境に至らざるべからず、人能く読で此境に達すれば、則寝て周公と夢を通じ、覚めて孔子と懐を同うするに至るべし。
 余少より好みて論語を読み、宋の趙普が文祖を佐け天下を定むるに僅に半部の論語を用ひたるの言に私淑し、以為く、論語を読む者宜しく斯心を以てすべしと、且思ふに、宋儒の孔子教を崇敬するや至れり尽せりといふべくして、其研究も緻密を極むといへども、其弊動もすれば空理に趨せ虚無に陥り、道徳を空説して実行と相容れず、天下の経綸を高談して一家の経営を始めざるは、未だ以て能く孔子教を実行するものといふべからず、夫れ道徳と経済とは双翼両輪の如くにして其一を闕く能はざるなり、換言すれば、論語と算盤とは反対物にあらず、宜しく右手に論語を持ちて之を講じ、左手に算盤を把りてこれを計り、退ては家国の富実を勉め、進では天下の経済を理すべきなり、趙普の半部を以て文祖を佐けたるも蓋し此意に外ならざるべし、是を以て余は固く此主旨を抱持して自ら之を実行し、又以て後進を誘導するに勤むるもの玆に年あり、其の効未だ多からずといへども終身勉怠して倦まざるを期せり、而して近来世間論語を読む者漸く多きを加へ其の書の発行頻繁なるを見るは、邦家の為めに喜ぶべき現象とす、頃日友人頭本元貞氏英訳論語を刊行するに当りて、序を余に需む、之を閲するに簡約なる註解を施して其要旨を知らしむるにありて、実に初
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読者の福音といふべし、今や泰西の学天下を風靡し、遐陬僻邑といへど洋書を読まざるもの無きに至り、而して道徳を講じ仁義を説くの孔子教に至りては、其精修者年に乏しく実に晨星寥々の観あるは余の深く憂慮する処なり、想ふに満天下の青年にして現今無統一なる思想界に立つ者は、猶田舎人の大都に入るが如く、其目眩み気奪はれざるもの殆ど稀なるべし、此時に当り英訳論語の成る、真に時弊に投じたるの良剤にして、彼の乱倫破道の毒素を制するに足るものといふべし、是に於て余は更に冀ふ、此書唯其毒素を制するの良剤たるに止めずして、広く欧米哲学者の研鑽に供し、他日世界の哲学をして其見解を同ふし、五大洲人類の天理公道を観るもの一に帰すること猶太陽を仰ぐが如くならしめむと、果して斯の如きに至らば、則論語二十篇は独り趙宋古宰の美談に止まらず、五大洲の為政者をして其揆を一にせしむる好材料たるを得べく、本書発行者の功徳も亦五大洲に弥りて無量なるに幾からむ乎。
  大正甲寅秋日函根小涌谷客舎に於て
                     青淵老人識
  ○右ハ頭本元貞著「英訳論語」ノ序ノ原文ナリ。同書ニハ著者ノ英訳文ヲ掲載ス。


至誠と努力 渋沢栄一述 修養団本部編 第一〇五―一〇八頁 大正四年七月刊(DK410091k-0005)
第41巻 p.380-381 ページ画像

至誠と努力 渋沢栄一述 修養団本部編  第一〇五―一〇八頁 大正四年七月刊
    学問と社会
      余が初めて論語を読みし時
幕府時代の教育 私の少年の頃には、当時徳川幕府の膝元たる江戸に於ける教育の主たるものは漢学であつて、多くの武士……大名・旗本御家人の学ぶべきものは漢学である、そしてその論理的学問は、主として四書によるのであつたが、四書は難しいので、少年に対しては、三字経或は蒙求・小学などを読ませ、又孝経も読ませた、是等は皆少年まで、十歳以上になれば四書・五経を漸次教つて、歴史物に進むが順である、私は田舎者であつたが、田舎でも身柄のよい百姓は、聊かながらも漢学を学ばせたものである、田舎では普通の人は四角な文字を読むものでない、四角な文字は農業の妨げであるとて、之を禁じてゐた、禁じたと云ふよりは、寧ろ読む力がなく又暇もないのである、私も百姓の生れだから、充分と云ふ訳には行かなかつたが、普通の少年よりは記憶がよいと云ふので、六七歳頃から三字経を父より学んだ私の姉は私よりは五歳上で、私と一しよに学んだが、姉は往々忘れた個所があるに拘はらず、私はよく記憶してゐたから、其の為め父は私を賞めて姉は何時も叱られた、それ故本を習ふ時だけは、姉と仲が悪くなると云ふ有様であつた、論語を読み初めたのは其の翌年であつたと思ふが、巻の二の泰伯篇の辺りに来て、父は最早や自分の手にはをへぬし、又忙しくもある処から、親類の私には十歳上の従兄に当る、藍香と号する尾高新五郎と云ふ人に依頼してくれたので、私は夫よりは五六町を距てた従兄の所へ通ふた、此の尾高は又埼玉県の東部の菖蒲村といふ村の菊地菊城といふ人に就て学んで、相当に出来る人であつた、菊地と云ふ人は、私の十四五歳頃は月に何回か尾高の家へ来た
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のであつたが、私も都合三四回は其の講議を聞いた事があつた、始めは文字の真義なぞは一向判らず、只師の口によりて発音される通り、解せぬながらも繰り返して行くうちに、字体が解り、漸く読むだけは出来て、後には面白味が生じ読みも達者になつた、さうなると講義を聞いても、頻りに質問を起すやうになつて来る、それで何日であつたか、何でも第二巻公冶長篇の、
 『子謂子貢曰。女与回也孰愈。対曰。賜也何敢望回。回也聞一以知十。賜也聞一以知二。子曰。弗如也。吾与女弗如也』
といふ処を、私がよく解釈したと云ふので、此の菊地といふ人に賞められた事が今でも覚えてゐる、其の後も一度か二度能く解釈して賞められた、併し私は学問の間に農耕に従事しなければならぬので、親から少し止められた、父は何でも「行つて余力あれば、以て文を学ぶ」とあるではないかなどゝ叱つたものである。
 私はそれに稗史野乗が好きで、三国史中の玄徳が、立身の間に艱難が多い処など面白く読んだ、馬琴の作も殆んど読み尽した、其の他眼に触るゝ限りの此の種の本を、二里程離れた本庄といふ処の貸本屋から借りて読み、先方で月二回ほど取替へに来るのが待遠しくて、よく自から出掛けて行つた、そして往き復りに読み歩くと云ふ程で、或年の正月には、其の為めに溝へ落ち、衣服を汚して叱られた事もある。
 処世の舵 其の後明治の初年に於て、世の中が騒がしくなり、我々も彼地此地を東奔西走してゐた為めに、書物どころの話ではなく、論語なぞも暫く見なんだが、明治六年銀行業に携はる事になると同時に何か一身の舵をとつて行くに必要なるものをと考へた上が、此の論語の事を想ひ起した、爾来四十余年、私は常に此の論語を愛読して来たものであるが、私の論語を愛読すると云ふ事は、元来商人は銖錙の利を争ふものである、賢者も一歩を誤れば、利の為には道を失ふ事がある、況んや商人に於てをや、これはどうでも俗世間に在つても、尚ほ身を誤らざる様拠るべき規矩準縄を有せねば危険であると感じたが為である。
  ○右書ハ大正七年一月「至誠努力修養講話」ト改題刊行ス。


実験論語処世談 渋沢栄一著 第一―一三頁 大正一一年一二月四版刊(DK410091k-0006)
第41巻 p.381-387 ページ画像

実験論語処世談 渋沢栄一著  第一―一三頁 大正一一年一二月四版刊
    論語主義を奉ずる所以
      ○論語に親むに至れる因縁
 何故私が孔夫子の論語に親み、之を服膺して今日の如く日常生活の規矩準縄と為すまでに相成つたかは、或は世間の方々の不思議に思はるゝ所であらう。それに就ては、先づ幼年時代に私が受けた教育の順序から申し述べねばならぬ。
 維新前に於ける教育は、何地とも主として漢籍に依つたものであるが、江戸表などでは、初めに蒙求とか乃至は又文章物を教へたりしたやうにも聞き及ぶ。然し、私の郷里(今の埼玉県)では、先づ初めに千字文・三字経の如きものを読ましめ、それが済んだ処で四書・五経に移り、文章物はその後になつてから漸く教へたもので、文章軌範とか唐宋八大家文の如きものを読み、歴史物の国史略・十八史略又は史
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記列伝の如きものをも此間に於て学び、文選でも読めるまでになればそれで一通りの教育を受けた事にせられたものである。
 私は七歳の時に先づ実父より三字経を教へられ、明けて八歳となるに及んで、私より十歳ばかり年長であつた従兄の尾高惇忠といふ人から、大学・中庸・論語・孟子などの四書を教へてもらふ事になつたが私に四書を教へて呉れた這の従兄の妹を、私は後年に至り娶つて荊妻としたのである、私の論語に親むに至つた抑々の発端とでも申すべきものは、まづ以て斯くの如くである。
      ○何故論語を選める耶
 同じく孔夫子の教を遵奉するにしても、強ひて単り論語に拠る必要は無からう、大学は如何、中庸は如何、との念を懐かるゝ方々も無いでなからうが、大学は其冒頭にも
 古之欲明明徳於天下者。先治其国。(古の明徳を天下に明にせんと欲する者は、先づ其の国を治む)
とあるほどで、治国平天下の道を説くのを主眼とし、それから逐次斉家修身に及び、何れかと申せば、政治向に関する教訓が主である。中庸の説く所には又一段高い立脚地に立つて観察した意見が多く
 致中和。天地位焉。万物育焉。(中和を致せば天地位し万物育す)
とか
 鳶飛戻天。魚躍于淵。(鳶飛んで天に到り、魚淵に躍る)
などの句があるほどで、何れかと申せは哲学的である。修身斉家の道には稍々遠い恨みがある。然し論語になると、悉く是れ日常処世の実際に応用し得る教とでも申すべきもので、朝に之を聞けば夕べに直ぐ実行し得らるゝ道を説いてある。殊に郷党篇の如きに於ては、寝るから起るまで、飲食衣服の事より坐作進退に亘つて、殆ど漏らす所が無いくらゐである。是れ私が孔夫子の教を遵奉せんとするに当り、大学中庸に拠らず、特に論語を服膺し、之に悖らざらん事を孜々として是れ努むる所以である。私は論語の教訓を守つて暮らしさへすれば、人は能く身を修め家を斉へ、大過無きに庶幾き生涯を送り得られるものと信ずる。
      ○論語を実践躬行す
 世間には、大徳の禅師を屈請して禅門の提唱を聴く篤志の方々もあらせられるが、私は昨今宇野哲人先生に御依頼申して、家族の者と打ち揃い、毎月一回づゝ論語の講義を拝聴する。然し私は、単に講義を聴いて之を楽みにするといふ丈けではない。勿論及ばぬ勝ちな不肖の身故、如何に努めても及ばぬ所も多いには相違ないが、論語にある孔夫子の教は、一々之を身に体し、及ばぬながらも之が実践躬行を心懸け、又之を実践躬行して来た意気である。此の意味に於て、私が論語に対するのは、世間の方々と多少その趣を異にして、論語の章句をそのまゝ今日まで処世の実際に施すに力め来つたものと、過言ながら言ひ得やうと思ふ。
 私は明治六年に官を罷めて、実業に身を委ねる事になつたのであるが、畢竟するに、国を強くするには国を富まさねばならぬ、国を富ますには商工業を隆盛にせねばならぬものと信じたからである。当時は
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まだ『実業』なる言葉がなく、之を『商工業』と称したものであるが私は商工業を隆盛にするには、小資本を合して大資本とする合本組織即ち会社法に拠らねばならぬものと考へ、この方面に力を注ぐことにしたのである。
 さて愈よ会社を経営する事になれば、まづ第一に必要なるものは人である。明治の初年頃、政府が親しく肝煎をして創始めた会社に為替会社とか開拓会社とか云ふ如きものもあつたが、それが皆な良好く続かず失敗に終つたのは、当事者に其人を得なかつたからである。会社の当事者に其人を得、事業を失敗させずに成功しやうとすれば、其人をして拠らしむるに足る或る規矩準縄が無ければならぬ、又私とても拠るべき規矩準縄が無ければならぬのに気が付いたのである。
      ○論語主義は明治六年より
 当時まだ耶蘇教は普及するまでに至らなかつたので、私は素より耶蘇教の如何なるものであるかを知るべき由も無かつたのであるが、仏教に関しても、知る所が甚だ狭かつたから、私は実業界に身を委ぬるに就て則とすべき規矩準縄を、耶蘇教や仏教より学ぶわけに参らなかつたのである。然し儒教即ち孔夫子の教ならば、無学ながら私も幼少の頃より親んで来た所である。殊に論語には、日常生活に処する道を一々詳細に説かれてあるので、之に拠りさへすれば万事に間違ひなく何事か判断に苦むやうな場合が起つても、論語といふ尊い尺度を標準にして決しさへすれば、必ず過ちをする憂の無いものと信じ、明治六年実業に従事するやうになつて以来は、斯る貴い尺度があるのに、之を棄てゝ何に拠らうかと迷ふ必要は無いと思ひつき、拳々論語を服膺して之が実践躬行に努めることにしたのである。
 論語には実業家の取つて以て金科玉条となすべき教訓が実に沢山にある。仮令へば里仁篇の
 富与貴。是人之所欲也。不以其道。得之不処也。貧与賤。是人之所悪也。不以其道。得之不去也。(富と貴きは是れ人の欲する所なれども、其道を以てせざれば之を得るも居らず、貧と賤きとは是れ人の悪む所なれども、其道を以てせざれば之を得るも去らず)
の如き即ち其一例で、実業家の如何にして世に立ち身を処すべきものたるかを明確に説き教へられたものである。又同じく里仁篇の中に
 放於利而行。多怨。(利によつて行へば怨み多し)
などの句がある。其他一々枚挙に遑なきほどで、実業家の日常生活に於て遵守すべき教訓が、実に論語には多いのである。
      ○維新前の商工業者
 かくまで実業家の拠つて以て則とするに足るべき教訓が論語などに充ち満ちて居るに拘らず、維新前は農工商等の実業に従事する者に毫も文字の素養なく、越後屋だとか大丸だとかの大きな老舗にでもなると文字の知識ある者を、角い文字を知つてるからと称し、何となく之を危険視して店員に採用せず、文字の素養が無い者ばかりを使用してたのである。随つて角い文字で書かれた論語、其他修身斉家に必要なる典籍の如きも、士大夫の間にのみ多く読まれて、実業家の間には読まれなかつたものである。
 - 第41巻 p.384 -ページ画像 
 その結果は更に悲しむべき現象になり、素と実践躬行の為に説き遺された孔夫子折角の教訓と、実際の社会に必須の要素たる実業との間に、殆ど何の関渉聯絡をも存せざるまでに至り、論語の如きも士大夫にばかり読まれて、実業家が日常その稼業に処する上の指南車となり得ぬものとなり、知と行とが別々になつてしまつたのである。
 維新後外国との交通も開けて参つたに就ては、商工業者の品位を高めねばならぬ事になつたのであるが、それには知行を一致さして、商工業等の実業に従事する者にも、その拠るべき道を知らしめ、斯の道によつて、実際の商工業を営むやうになさしめねばならぬものと私は感じたのであるが、この目的を達するには、維新前まで士大夫の間にのみ読まれ、その極、実行を離れて徒に章句の末を研究する弊に陥つてしまつたから、私は孔夫子の経典を実際の実業に結びつけて読ましむるやうにし、之を実践躬行するのが何よりであると考へ、最も実際に適切な道を説かれてある論語を、私も読み、又他の実業家にも読んでもらひ、知行合一によつて実業の発達を計り、国を富まし国を強くし、天下を平かにするに努むべきものだと信じたのである、私が論語を服膺し、その教訓を実地に行ふ事に心懸くるやうになつた一つの因縁は、実に玆にある。実業を何時も政府の肝煎にばかり任せて置いては決して発達せぬ、民間に品位の高い知行合一の実業家が現はれ、卒先之に当るやうにせねばならぬものであると感じた事が、私をして論語の鼓吹者たるに至らしめたものだとも又云ひ得ると思ふ。
      ○孔子教は宗教なりや
 論語の如何なるものであるかを説く前に、一つ考へて置かねばならぬ事は、孔子の教即ち儒教なるものは、宗教なりや否やの点である。目下のところ我が邦に於て之に対する意見が二派に別れて居る、文学博士井上哲次郎氏は、孔子教は半ば宗教で、少くとも宗教らしい所のものであると主張せられるが、之に反対して法学博士阪谷芳郎氏は、否な全然宗教でない、孔夫子は単に実践道徳を説かれたものに過ぎぬと論駁し、今なほ論戦酣で、何れとも決定せられたわけでない。
 論語子罕篇に
 天之将喪斯文也。後死者不得与於斯文也。天之未喪斯文也。匡人其如予何(天の将に斯の文を滅ぼさんとするや遅れて死する者は斯の文に与ること得ず、天の未だ斯の文を亡さゞるや、匡人夫れ予を如何せむ)
とあるが、この章句にある『斯文』とは、孔夫子が之を其当時の世に伝へ、又後世に遺さんとせられた『先王の道』を指したもので、この一章の意は、聖人の道を滅ぼさんとするのが若し天意ならば、予(孔夫子)或は匡の人々の手によつて殺さるゝかも知れぬ。然し予が未だ其事業を卒らぬ中に殺されてしまへば、後世の者は聖人の道たる『斯文』を知り得られない事になるから、聖人の道を滅ぼしたく無いとの天意のある中は、『斯文』を伝ふるを以て天職とする予は、決して匡の人々の手によつて殺さるべき筈のものでないといふにある。この処に孔夫子が天に対する信仰のあつた事が、ほの見えて居る。
      ○論語に九ケ所の天
 - 第41巻 p.385 -ページ画像 
 子罕篇の外にも、なほ孔夫子の天に就て説かれた所が論語の処々にある。為政篇の「五十而知天命。」(五十にして天命を知る)八佾篇の「獲罪於天。無所祷也。」(罪を天に獲れば祈る所無し)公冶長篇の「夫子之言性与天道。不可得而聞也。」(夫子の性と天道とを言ふは得て聞くべからず)雍也篇の「予所否者。天厭之。天厭之。」(我の否む処のものは天之を棄てむ、天之を棄てむ)述而篇の「天生徳於予。桓魋其如予何。」(天徳を我に生ず桓魋―孔子を殺さんとせる人―夫れ我を如何にせん)泰伯篇の「尭之為君也。巍々乎。唯天為大。」(尭の君たるや、巍々乎たり唯天を大なりとす)憲問篇の「不怨天。不尤人。下学而上達。知我者其天乎。」(天を怨みず人を咎めず、下学して上達す、我を知る者は夫れ天か)陽貨篇の「天何言哉。四時行焉。百物生焉。天何言哉。」(天何をか言はんや、四時行はれ百物生ず、天何をか言はんや)など、論語全篇を通じ、天に言及せられた所が九ケ所ばかりある。殊に、八佾篇にある「罪を天に獲れば祷る所無し」の語に徴して観ると、孔夫子が天を信じ、又これが孔夫子の信仰であつた事は明かで、孔子教は方に一の宗教を以て観るべきものだとは、井上博士の主張せらるゝ処である。
 之に対し阪谷博士は、総じて宗教には礼拝祈祷の形式を具備せねばならぬのを法とするに拘らず、孔子教には此の形式か無い、故に孔子教は目して以て宗教なりと云ひ得られぬものだと反駁するのであるが私は今俄に其の何れが是であるか非であるかを申述べ得ざるにしても孔子教を以て宗教であるとは思つて居らぬ。実際世に処するに当つての規矩準縄を説き示されたものとして孔子教を遵奉し、論語によつて之が実践躬行を努めつゝあるのである。
      ○孔子は如何なる人か
 孔夫子は史記世家にもある如く、今を去る約二千四百六十五年前、魯の襄公二十二年に、魯の昌平郷と名づけらるゝ里に生れられたものである。初めは倉庫掛乃至は又畜産等の役人になられたが、成績何れも見るべきものがあらせられた。三十五歳の頃、生国の魯が乱になつたので、昭公が斉に奔られた後を追うて、同じく斉に赴かれたところを、斉の景公が抜擢して大に用ひやうとしたが、反対者があつて用ひらるゝことが能きなかつたので、再び生国の魯に帰られたものである然るに四十三歳に及ばれた時、魯は季氏の天下となつた。この時に孔夫子は季氏に仕へやうとせられたのであるが、偶々陽虎と称する者が反して又国が乱れたので、遂に仕へずに退かれたのである。ところが五十一歳に成られた時に、季氏に反いて起つた公山弗擾が孔夫子を召すことになつた。この時も亦孔夫子は往かうとせられたのだが、遂に行かれなかつたとある。その後も孔夫子は諸国を遍歴し、諸公に仕へて見られたが、何れも我が志を行はしむるに足る所が無かつたので、又生国の魯に戻られたのが哀公の十一年、齢方に六十八歳の時にあらせられる。それから七十三歳で逝かれるまでは全く仕官の念を断つて門弟を教育し道を伝へることにのみ気を注がれたのであるが、六十八歳になられるまでは、志が主として政治方面にあつて、周の時代を復興し、王道を天下に布きたいといふのに熱心であらせられたものゝ如
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く察し得らるゝのである。
○中略
      ○渋沢にも孔子の志あり
 老いて六十八歳になるまでも政治上の事に恋々せず、早く見切りをつけて、門弟子の教育に意を注ぎ、道を伝へるのに力を尽してた方が孔夫子の為に利益であつたらうにと思はるゝ方々があるやうに、私なぞにも余り世間の事に関渉せず、既に老人のことでもあるから、静に引き籠つて修身斉家の道を説くだけぐらゐに止めてたら可からうと思はるゝ方々もあらう、然し私は敢て僭して自ら孔夫子を以て任ずるわけでは素よりないが、孔夫子が若しや自分が出たら、其国の政治が良くなるかも知れぬと思うて、召されさへすれば何処にでも出て仕へたやうに、老人の私でも出て奔走すれば、若しや少しでも世間の御役に立つ事が能きやうかと思ふ心があるものだから、電灯問題が起れば之に顔を出したり、米国の問題があると云へば夫れにも関係をしたり、対支交渉の事件が起つたとなれば、之にも亦顔を出したりするやうになるのである。要は孔夫子が其志に忠なりし所を学んで、多少なりとも国利民福の為に貢献したいとの精神に外ならぬのである。
      ○円満なる孔夫子
 兎角古来英雄とか豪傑とか称せらるゝ人々には、他に擢んでた非凡の長所特色がある代り、又大きな欠点の見出され得るものである。然るに孔夫子には是れが非凡の長所であると特に指し得るものゝ無いと同時に、又一つの欠点さへ無いのである。総てが皆な円満に発達し、総てが非凡であると共に、総てが平凡である、全く欠点が無いのである、之を称して偉大なる平凡とでも云ふべきものであらうかと思ふ。孔夫子も自ら卑事に通じて居ると申されたほどで、何一つ世の中の事で知らぬといふものは無かつたのである。史記世家にもある如く、六芸に通じて、馬を御したり弓を射る事さへ心得られて、何事にも行き亘つて居られた。論語の郷党篇にもある如く、孔夫子が大廟に入らるるや、事毎に問うて教を受け、後に始めて進退せられたものだから、傍にあつた者が、若しや大廟の礼を孔夫子が心得て居られぬのかと尋ねて見ると、爾うでは無い、斯く事毎に問うて後に進退するのが、即ち大廟に於ける礼であると答へられたほどで、礼楽は素より申すまでもなく、後年には春秋を著されて、歴史に対する造詣も頗る深くあらせられたのを示して居られる。
 要するに、孔夫子は欠点なく何事にも精通した頗る円満な人物で常識の非常に発達せられた方である。依て私は孔夫子に学んで論語にある教訓を遵奉してさへゆけば世間に出でゝ非難の無い常識の発達した人物になり得られるものと信ずる。又孔夫子の教訓は大なる常識に外ならぬものであるから誰でも学んで実践躬行し得られるものである。
 斯の孔夫子の教は、孔子より孟子に伝へられ、其後韓退之なども之を伝へたやうであるが、一時余り世に行はれず、宋の時代になつてから其の復興を見るに及び、朱子の如き学者が現れて、四書の朱氏集註の如きものを見るに至つたのである。然し之より先に古註といふものもある。日本には古註本も朱子集註本も共に渡来したが、徳川時代に
 - 第41巻 p.387 -ページ画像 
は朱子集註が最も博く行はれたものである。


実験論語処世談 渋沢栄一著 第八四五―八五〇頁 大正一一年一二月四版刊(DK410091k-0007)
第41巻 p.387-389 ページ画像

実験論語処世談 渋沢栄一著  第八四五―八五〇頁 大正一一年一二月四版刊
    偉大なる孔子の遺訓
      ○論語は世界各国語に翻訳さる
 我が国に始めて論語の渡来したのは、応神天皇の時代であつて、朝鮮の王仁が論語を携へ来つて、時の朝廷に献じたのが抑もの濫觴である。此の時に渡来したのはどんな書物であつたか知らぬが、歴史を見ると、応神天皇の十六年に、百済の王仁来り、論語十巻を献ず、皇太子稚郎子就て之を学ぶ、皇国の論語学あるは此れに始まるとあつて、丁度晋の太康六年に当つて居る。爾来千数百年、論語に関する図書の刊行は幾百千人によつて世に公にされた。故人となられた林泰輔博士は先年論語年譜を著はし論語の世に出でしより以来の事実を年表的に編纂されたが、之れを見れば明かである如く、孔夫子の論語を遺されてより二千数百年、其の本元である所の支那に於て、漢・唐・宋・元・明・清等の各時代に亘りて、多くの学者によつて論語が世に普及せられ、人によつて前人の説く所を更に増補敷衍して解釈を試むるもあり(又た或る章句によつては異りたる説を主張するもあり)解釈は必ずしも一定しては居らぬが、論語の章句を或は右から、或は左から、或は縦から、或は横からといふ風に、有ゆる方面から論じて世に伝へて居る。
 之を伝へられた日本に於ても、皇太子稚郎子の学ばれたのを嚆矢として、文武天皇大宝元年の学令に鄭玄何晏注を用ゐよとあり、其後幾多の学者が各方面より論語を釈義し、之れに関する所説を公にし、今に伝へられて居るものが頗る多い。更に論語は啻に東洋のみならず、欧米に於ても之れを翻訳せられて、一般に孔子の遺訓が読まれて居る現に英人ジエームス・レツグが上海及びロンドンにて発行せし英訳論語を始めとして、ウイルヘルムの論語独訳、ワジリーフ及びポーポフの露訳論語、クーヴリユーの四書羅甸訳、マーシマンの孔子聖典、シルレル及びシユツツの孔夫子聖訓、ダヴイツト・コーリーの四書英訳など、私の記憶にあるものゝみでも尠くない。斯くの如く論語は世界の各国語に翻訳されて伝へられて居るのである。
      ○カーネギー論語を引用す
 アメリカの鋼鉄王カーネギー氏が、其の晩年に自叙伝を書いて世に公にされたが、私の編纂所で之れを翻訳して近々出版する積りであるが、(カーネギー自叙伝は渋沢家編纂所に於て翻訳し、七月上旬に上梓の運びになつて居るが、菊判約四百頁、定価三円八十銭、富山房発売である。)其の自叙伝を読んで見ると、書中数ケ所に論語の教訓を引用してあるのを発見した。アメリカに於ては、誰が論語を翻訳したのであるか分らぬが、兎に角訳本のある事は確かであつて、カーネギー氏は其の英訳論語を読まれて居つたものと見える。尤も氏は基督教信者であるから、書中には聖書の語が多く引用されてあるが、此の聖書の教訓と孔子の遺訓とを比較して、誠に具合よく適当に述べられてある今之れを一々記憶して居らないが、例へば、「勤民之義。敬鬼神而遠
 - 第41巻 p.388 -ページ画像 
之。可謂知矣。」(民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざく、知と謂ふ可し。)といふ章句を引用して知者の道を説いて居るが、之れは論語雍也篇中の樊遅の知を問へるに対して孔夫子の答へられたものである
 また孔夫子の言として伝へらるゝ、「上帝の声なる音楽よ、我は汝の呼ぶが儘に此処へ来れり」といふのもあり、此外に文句は記憶にないが、母親の事につき、友人との間柄抔について、孔子の教訓を引用してあつた。
      ○論語の蒐集約一千種類
 之れはホンの一例に過ぎないが、論語の遺訓は、其の本元である支那に於ては素よりのこと、直伝された日本に於ては諸君の知らるゝ如く広く伝へられ、更に欧米に至るまで広汎に行き渡つて居る。
 穂積陳重男は私の為めに、古来刊行された各種類の論語を蒐集されて居るが、前にも述べた如く論語の世に公にされたものは頗る多く、支那版・朝鮮版のみにても数百種に上り、日本に於けるものゝみでも枚挙に遑ない程である、同じ支那版でも・古論語・斉論語・魯論語の三種類があり、今日行はれて居るのは、多く魯論語であるが、時代によつて宋版とか元版とかいふ風になつて居り、古注とか集註とか、義説・義証・義註・集解・演義・衍言・衍説・音義・訓釈・啓義・諺解・釈義など種類が頗る多い。日本に於ける古本にも論語解釈とか、論語古義とか、論語分類とか、或は論語要義・集成・集説・時習・鈔説・精義・通解など多種類あり、近時一般に行はるゝダイヤモンド論語とか、ポケツト論語・ノート論語、或は英漢和対照ポケツト論語・リツトル通俗論語などといふものもある。此の外に世界の各国語に翻訳され、基督教信者さへ之れを読んで居る処を見ると、孔子の遺訓が如何に全世界に広く伝はつてゐるか殆んど図り知れない。之れ孔子の教へが尊重すべき価値あるものである事を知るに足る一の証拠である。穂積男の話によると、今日まで既に蒐集したものが殆んど一千種類に近いといふ事であるが、全く驚く可き多種類と言はなければならぬ。
 又孔夫子に対しては、支那の歴代の国君が非常に尊敬を払つて居り到る処に孔子廟を見ざるなく確か唐の時代と記憶するが、孔子に大成至聖文宣王といふ追称を贈つて之を崇め、一層孔子に対する尊敬の念を高めた国君も居る。かう考へると、孔子は何が故に斯くまで尊崇されるのであるか、寧ろ不審に思ふ位である。
      ○孔子の遺訓は偉大なる真理
 孔夫子はどういふ御方であるかといふに、史記世家にもある如く、今を去る二千四百数十年前、魯の襄公二十二年に、魯の昌平郷といふ所に生れられた。父叔梁乾、母は顔氏の女徴在、初めは倉庫係又は畜産の役人などになられたが、其後、一時大夫の職につかれた。然し家老の地位にある人達が孔子の説を用ひなかつたので、職にあること僅かにして退かれた。斯く孔子は其の家柄と言ひ、政治権力と言ひ、頗る微々たるものであつたにも拘らず、二千四百数十年後の今日に至るまで尊重されて居るのは何の為であるか、それは孔夫子の説かれた事が、少しも偏せず曲らず、中正の地位に立つて、広く所謂天・地・人の三方の立場より真理を説かれたからに外ならぬのである。
 - 第41巻 p.389 -ページ画像 
 今日の世界の実状は、孔子の説かれたる道徳が大に頽廃した様な時代でありながら、尚ほ論語の書物が前に述べた如く広く世界に伝へられて居るのは、論語の価値を証するに足るものである。然して孔子の異常なる人格、卓越せる才能の之を致したものであるには相違ないが孔子はどつちかと言へば、凡人の典型であつた。言ひ換へれば偉大なる平凡の人とでも言ふべき御方であつた。古来政治権力のあつた人であるとか、他の技術方面に卓越せる知能を有して居つた偉大な人物であつたならば、後来に其名が遺るであらうが、孔子の如き円満なる凡人の典型にして、其の学説が今日に伝へられ、尊重され居るのは、其の所説が偉大なる真理である為である。種々なる宗教から論じても、学理から論じても、究極する所、真理は真理に着くものである。されば論語の今日に至つても尊重されて居るのは、全く真理に適ふて居るのが唯一の原因であると信ずる。
 かう考へると、私は明治初年以来論語を守本尊として、其の遺訓を遵奉し、勗めて間違はぬ様に心掛けて今日に至つた訳であるが、研究すれば研究する程、孔子の偉大なる人格・才能及び論語の真理の正しく逞ましいものであつた事が感ぜられ、今日に至つて、私が孔子の教訓を撰んだ事が誤りでなかつた事を喜ぶものである。


論語講義 第一 茗香会編 茗香会文庫第一輯・第六四―六七頁 大正一四年二月刊 【第一銀行に於ける論語の開講に就て 子爵渋沢栄一】(DK410091k-0008)
第41巻 p.389-391 ページ画像

論語講義 第一 茗香会編  茗香会文庫第一輯・第六四―六七頁 大正一四年二月刊
    第一銀行に於ける論語の開講に就て
                   子爵渋沢栄一
 今回第一銀行で帝国大学の先生を請うて論語の講義を聴聞されることになつて、今夕其発会で私も御招を受け、先約があつたので遅刻しましたが、兎に角其御様子を拝見しようと思うて出席したのでございます。
 私は平素斯る事あれかしと思うて居つたのでありましたが、玆に事実として現はれた事を深く喜ぶのでございます。殊に宇野先生とは別して御懇親であるから、其御講義を中途からでも拝聴しますのは喜悦に堪へぬのであります。
 近来一般社会の思想若くは風潮は或点からは進歩とも言ひ得るのでありませうが、併し進歩必ずしも皆善事とばかりは言へぬ、況んや経済の地位も進展し規模も拡大したる世の中が唯物質的の一方に偏して精神上の人道とか徳義とかゞ追々に迂くなり、遂には先刻の御講義の如くダーウヰンの進化論が人類に其儘用ひられて、単に強い者が勝つのだと云ふやうな誤解を生じはせぬかと懸念に堪へぬのであります。此等の論理は詳細には申しませぬが、元来私が此銀行の創立の際に一般の経済を進むると共に其経済は何を以て規準を立てゝ行くかと云ふ事を深く考慮しました。蓋し人の世に立つにはどうしても相当な資力がなければならぬ。而して其資力は生産殖利に頼らねば、我が一身一家が相当なる面目を維持する事は出来ない故に、人が世に立つて利益を謀ると云ふ事は甚だ必要である。自己の為めにも社会の為めにも、之を拡めては国家の為めにも実に喫緊の要務である。併し其利益を得るにのみ努むれば先刻の御講義の適者生存の理に偏して、自己さへ満
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足に進展すれば宜いと云ふ事になる。恰も一つの鉢に植えられた草木が他の営養を一本で吸収して独り繁茂せんとするが如くなります。果してそれが人類の世に云ふ道でありませうか。鉢植の草木でも其生存は覚束ない、況んや人類は己れ一人で生存は出来ぬ、縦し生存が出来るとしてもそれが決して幸福でないと云ふ事は論ずるまでもないのである。多数の人があつて種々なる方面に努むるから国家も社会も繁昌するのである、若し社会の富が己れ一人に帰する場合は、己れも生存して居られぬのは学者でなくても分つて居る、さればどうしても人類の世に立つには己れが利益を得ると同時に世間も共に之を得て相伴つて発展せねば長く其栄を維持すると云ふ事は出来ないのであります。玆に於て私は仁義道徳と生産殖利とを合一しなければならぬものと深く期念したのであります。それと同時に人の世に立つに当つては是非とも一の守るべき主義と取るべき方法とがなければならぬ。而して之を約すれば論語と算盤であると申して居りました。換言すれば道徳経済の合一であります。併し私の力の微なると、学問の浅き為に、此主義が完全に拡張し得られぬのは頗る残念に思ひます。けれども所謂一人の手を以て狂瀾を回すと云ふことは出来ぬ。縦令出来ぬとしても既に必要であるからは飽迄も微力を致さねばならぬので、幸ひに当銀行は、私が此主義を以て明治六年から大正五年迄勤続しました事は満場の諸君は熟知して居る。而して前に述べたる主義が或場合には適者となつて生存し且発展したのである、故に此点から言ふ時はダーウヰンの進化主義に適したとも言ひ得らるゝ。殊に此銀行に於て其主義が維持されて、否益々之れが拡張されて其事業の進歩と共に今日此楼上で大学の先生を聘して論語の講義を開かれると云ふ事は、私が当初に蒔いた種子が追々に生長して斯くまでに繁茂し各方面に美しい花が咲いたと思ひ得られるのであります。殊に現今世の中の有様が兎角に真面目を欠きて淫靡浮薄に流れ、架空の見込を以て不道理に事業を進め、俄かに富を得ようとする軽佻者流が多いのは銀行者たるものゝ余程注意を要する所であると思ふ。然るに其銀行者が此種の不謹慎なる事業家に誤られて、之れを附け益す事共が毎日見えるのであるは実に浩嘆の至であります。是れ畢竟道徳と経済とが背馳するから起つた誤謬である。論語を忘れて唯だ算盤に偏したる過失であります。是を以て私は此際論語を講ずるのは或は時勢に懸隔の観はあるが、更に考一考すると現在破産に瀕する銀行なども若しも論語に依つて其業務を経営したならば縦令盛大に至らずとも穏健に持続し得るであらう。故に私は第一銀行の諸君に対して飽迄も論語算盤主義を主張して能く世間を指導せられ、弊風の矯正に努力あらむ事を希望して已まぬので、而して今日の此開会は洵に病に対する良薬と深く敬服するのであります。
 当初に申上げし通り私は今日は他に約束があつた為めに暫時でも出席して御様子を拝見したいと思つて罷り出たのでありますから、別に講演は致しませぬが只道徳経済合一論を論語講義の初席に於て遺憾なく開陳して、私の宿望が達したのを喜ぶと共に諸君の尚ほ一層の御注意御尽力を希望するのであります。(拍手)
  ○右ノ講演ハ大正十一年十二月十五日第一銀行本店ニ於テ、茗香会ノ主催ニ
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ヨリ、孔子歿後二千四百年記念ノタメ、論語講義開設セラレタル時ニ栄一ノ臨席シテ講述セルモノナリ。
  ○茗香会ハ第一銀行頭取佐々木勇之助ノ還暦祝賀会ノ醵金ニヨリテ、大正四年ニ設立サレタルモノナリ。


二松 第一号・第一五―二二頁 昭和三年一二月 論語と算盤 渋沢栄一(DK410091k-0009)
第41巻 p.391-394 ページ画像

二松 第一号・第一五―二二頁 昭和三年一二月
    論語と算盤
                      渋沢栄一
      聖人の道は実用に迂ならず
 商人諸君が商売をするに就いては、飽くまで正直を以て進まねばならぬといふことは、私が屡々各所に於て已に述べた所でありますが、一体正直といふことは、人の守るべき本分でありますから、之を守つて行かなければ、凡ての事実が決して成立つべきものではないのであります。所が世間には往々誤解を抱く者がありまして、余り正直一方では損をするといふやうな事を云ひます。併しそれは飛んだ間違ひでありまして、道徳と経済は決して矛盾するものでなく、何処までも一致して行く筈のものであります。
 扨て其の正直を守る標準としては、私は少年時代から論語を読んでそれを守つて居るのでありますが、論語に述べてあるやうな聖人君子の践むべき道を説いたものは、商人には不向であるやうに見做す人が多数の人の中にはないとも限りませんが、私はさういふ考は取除かねばならないと思つて居ります。今申しました通り、経済と道徳とは一致するものでありますから、論語の趣旨を実行して商売をしても、それが矛盾をして商売上不利を来すべき筈のものでなく、此の二者はよく一致して居るものである、といふことを深く信じて戴きたいのであります。論語と算盤といふやうなことは、一寸聞くと異様に感ずるかも知れませんが、併しよく考へて見ますと、何等の不思議はなく、寧ろ当然のことであると思つて居ります。是れに就いて一寸面白い話があります。今より十七・八年前のこと、私が七十歳になつた時に祝意を表して呉れるといつて、久しく宝田石油会社に居た福島甲子三君が私に画帖を寄贈して呉れましたが、それには論語と算盤と朱鞘の短刀とシルクハツトの四つの絵が描いてありました。同君が之を贈つて呉れたのは、私が平生論語を読んで居ることを知つて居り、又事業に関係して居る所から、算盤を描いて呉れたのでありますが、ツマリ其れが経済道徳と一致するといふ趣旨を現はしたものであります。それから朱塗の鞘の刀が描いてありましたのは、私が武士であつたことを考へて、人間はイザといふ時には、武勇の精神がなければならぬといふことを含めたのであります。又シルクハツトの加はつた意味は以上の外に人間は礼儀を重んじなければならぬといふことを示したものであります。私は同君の精神のある所を察して、有難く之を御受けして今でも保存して居る次第であります。
      中洲翁も予の意見と同様
 先年一ツ橋の高等商業学校で、孔子を記念する講演会がありました時に、私も其の席に臨んで一場の講演を致し、経済と道徳の一致すべきものであるといふ次第を論語を引用して述べ、孔子の教は決して経
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済に無頓着のものではなく、どこ迄も一致すべきものであるといふ議論を致したのでありますが、其の席に今は物故した三島中洲翁も居られまして、大変私の説に賛成して「至極同感である、それでなければならぬ」といつて呉れました。そんな関係で中洲翁とは意気相投ずるやうになりまして、翁は其の後私の所へ一度遊びに来られたことがありましたから、其の時に右の述べた論語と算盤の画帖を示しました所其れは非常に面白いといつて、是れ又大に感服されて「実業家の口から、斯かる意見を聴くのは面白い。それでは一つ私もそれに因んだ文章を書いて上げませう」といつて一文を寄せられました。是れは少しく余談に亘つた次第でありますが、兎に角経済と道徳を一致させて、商人が正直に営業をしたからとて、決して損の行くべきやうなことのあるべきものでないといふことは、十分に御解りになつたらうと思ひます。
      此の言の中に充分の経済観あり
 何故に孔子の教が経済と一致してゐるかと申しますと、論語に次のやうなことが出て居ります。雍也篇の終りに、
「子貢曰。如有博施於民。而能済衆。何如。可謂仁乎。子曰。何事於仁。必也聖乎。尭舜其猶病諸。」と。今是れを解釈しますと、孔子の門人の子貢と申す人が孔子に向ひまして「若し世の中に広く恩恵を人民に施して、多数の人の難儀を救ふ人がありましたならば、如何なる者と御認めになりますか、仁の仕事といふべきものでありませうか」と尋ねました所孔子の申さるるには「左様な大事業は何ぞ啻に仁の仕事に止るべき、是れは必ず聖人の仕事であらうか、さりながら尭舜の如き聖人ですら、矢張り広く恩恵を人民に施して、多数の人の難儀を救ふことの六ケしきを悩み給ひし位でありますから、斯かる大事業は容易なものではない」といはれましたのであります。玆に申上げました如く「博施於民。而能済衆」といふ文字は、経済といふ観念がなくてはどうしていはれませうか、そこには立派な経済といふ思想が含まれて居るのであります。
 又論語の述而篇には
「不義而富且貴。於我如浮雲」
とあります。富貴が悪いのではありませんで、不義の富は浮雲の如く軽んずべきものであるとありますから、其の反面から見ますと、正当の富ならば少しも差支ないといふことになるのであります。又大学の終りには
「言悖而出者、亦悖而入、貨悖而入者、亦悖而出」
と、即ち人を欺むけば矢張人に欺むかれ、不正の利益を得れば、結局得た金は矢張りツマラなく出て仕舞ふもので、所謂悪銭身に附かずといふ訳となると書いてあります。故に孔子の教を善く玩味して見ますと、道徳と経済の両立すべきことが説いてあります。けれども未だ嘗て矛盾するやうなことを書いてはないのでありますから、私はそれは真当であると深く信じて居ります。
      孔子教の誤解されし理由
 一体孔子の教は、実地活用を主とする精神でありまして其の祖述す
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る所は尭舜禹湯文武周公の道に外ならぬものであります。所が斯かる人々、即ち孔子の先生といはれた方々は、何れも古の聖人でありまして、同時に治者の位置に立つ人でありましたから、自らその云つた所が天下の模範であると同時に、又自ら之を行つたのであります。所謂実践道徳でありました。所が孔子は御承知の通り、周室の衰へた時分に生れた人でありまして、然かも官職に就いたのはホンの僅かの間でありますから治者の地位に立たなかつたのであります。それでありますから孔子は自分のいつたことを実行することが出来ずして、所謂道徳の理論と道徳の実行を区別して見なければならぬ事情に立つたのであります。所が後世に至りまして、段々学者が孔子の教を研究した結果、種々の臆説を逞うして註釈を加へ、之がため孔子の説が種々多様に解釈されるやうになりました。孔子から後に多くの歳月を経まして終に宋の時代になりますと、宋学といふやうなものが勃興するやうになりました。是れは矢張り孔子の教の解釈の仕方に因つてかゝる学問が起つたのであります。其の中で有名なのは「愛蓮説」で知られた周茂叔、それに続いて御承知の如く程伊川、程明道といふ兄弟の学者が揃ひも揃つて立派な学者で大変熱心に研究されました。それから張南軒や、呂東莱も現れ、最後に朱熹即ち朱文公に依つて宋学が大成されました。此の朱文公は非常な学者でありまして、見識も非常に高うございました。併しながら自分の見識で孔子の教を解釈致しましたから孔子の本来の趣旨と違つたことを述べるやうになつた所も多くあります。朱子と時を同うして陸象山といふ人も現はれました。此の人は白鹿洞で朱子と議論を上下した人であります。明の時代に入りまして王陽明と申して、陽明学の主唱者が出でて、矢張り孔教の註釈を致しましたが、此の人は御承知の通り「伝習録」を著はした人で、良知といふことを頻りに唱へました。扨て此の如く孔子の教が註釈者の手を経て種々変遷を重ねました結果、我が国に入りましたのは如何なる時分かと申しますと、丁度徳川家康が戦乱の後を承けて天下泰平を保つためには、朱子学こそ我が国体に最も適するものと悟りまして、時の学者藤原惺窩を招聘して種々意見を質されました。惺窩は自分の門人である林羅山といふ非常に立派な学者を推薦されました。是よりして我が国には、朱子学が段々に盛んになつた訳でありますが、是れがために或は孔子の真当の趣旨が誤解された所も頗る多いと思つて居るのであります。従つて其の点から見ますと、朱子は非常な学者ではあつたけれども、孔子の趣旨と違つたことを世間に伝へたものではなからうかと思つて居るのであります。兎に角孔子の教は決して道徳と実行を別にしたものではなく、躬行実践的のものでありましたけれども、段段時代の変遷に伴つて、且つ又註釈者の意見から孔子の説も往々実行に縁なき迂潤なものであるかの如くに誤解さるゝに至つたのは、誠に遺憾の次第であると思ひます。扨て右に述べました学派の変遷の如きは、直接実際家諸君には関係のないやうなことでありますが、如何にして孔孟の教が、殊に朱子の解釈を通じて、我が国に伝へられたかといふことは、孔教の理論と実際が二つに区別されて考へられるやうになつた次第を、明かにする点から必要であると思つて述べたのであり
 - 第41巻 p.394 -ページ画像 
ます。
      吾々人間の本分
 斯く述べた所に依つて見ましても、論語と算盤は矛盾するものではなく、経済と道徳は十分に調和して行くことの出来るものであるといふことが御解りになつた以上は、充分これを実行して戴きたいのであります。商人として正直な行ひをなし、立派な道を践んで行くといふことは人の本分であつて、之を立派に行へば営業の栄えるといふことは、万世不朽の真理であると思うて疑はないのであります。徳川時代にも二宮尊徳翁の如きは、矢張り経済と道徳と一致せることを実際に示し、相馬藩や小田原藩の財政を整理したのであります。併し此の根本の思想を履き違へて、嘘をついては損になる。損してはつまらないから、已むを得ず正直な行をするといふやうな遣り方は、私は何といつても賛成することは出来ぬのであります。損をするから已むを得ず正直を守るといふ様なことになりますと、それでは儲かる場合には嘘をついても構はぬことになりまして、利益を得る時は随分不正なこともやり兼ねぬ訳になります、結局商人が破滅の道を来すべきものであります。それで論語には大学にも中庸にも、道とか仁とかいふことを各所に説いてありますが、是れは帰する所正しい事をするといふ意味でありまして、経済と道徳の一致を述べたものに外ならぬのであります。論語と算盤といふやうな題は異様に考へられますが、実業家たる私は、商人はかくあるべきことゝ信じて意見を述べたのであります。


村荘小言 渋沢栄一著 第一―八頁 大正五年一〇月刊(DK410091k-0010)
第41巻 p.394-396 ページ画像

村荘小言 渋沢栄一著  第一―八頁 大正五年一〇月刊
  修養篇
    論語と五十盤
      △予が秘蔵の画帖
 予の処に、論語と五十盤とを一緒に描いた画帖が一軸《(帖)》ある。論語と五十盤、これは如何にも不調和なものゝやうに思はれて居る。古い漢学者の思想をもつてすれば、二者到底相容れないものである。然し予は以前から、論語と五十盤とは、相一致しなければならぬものといふ考へであつたので、度々これに関する意見を人に語つた事がある。三島中洲氏などにも、此画帖を示して意見を告げた事がある。で三島氏も予の説を賛して、此頃「論語五十盤論」などを作つて見せられた。兎も角も予の持論を述べて見よう。
      △由来本音を吹かぬ孔子
 孔子は一体容易に本音を吹かぬ人である。常に物の半面を語りて、自から全体を悟得せしめる事を力めて居られたやうに思はれる。殊に門下の諸子に説かれた教訓の数々は、大抵は此の側面観に依つて、鋭く反省を促して居られた。是は今更に例を挙げるまでもなく、同じく「仁」といふ事を説くにも、甲に説いた処と乙に訓へた処と、更に丙に語り、丁に示された処とは、各々相異つて居る。人を見て法を説けといふことは、孔子に於て実にその妙境奥儀を竭されて居る。
 此処までは後世夫子を慕ふものが、皆同じく認て居り覚つて居るのだが、孔子の斯ういふ言動が、知らず識らずの間に孔子其人の本領を
 - 第41巻 p.395 -ページ画像 
後世に誤解されるに至つたのは、無理ならぬ事といはふか、怪しむべき事と謂はふか。論語読みの論語知らずなどいつて、自から論語を体得して居る事を誇り、論語を曲解して居る腐儒を罵つた連中すら、巧妙なる夫子の側面観に惑はされて、同じく「論語読みの論語知らず」に陥て居るのは、蓋し笑ふべきことだ。
      △仁義王道と貨殖富貴
 後世孔子の半面観に惑されて居るものゝ中で、其最なるものといへば、恐らく富貴の観念、貨殖の思想であらう。論語から得た学者の思想では、「仁義王道」と「貨殖富貴」といふ二者は氷炭相容れざるものとなつて居る。夫子は果して富貴にして仁なるもの莫し、仁ならんと欲せば富貴の念を断てよと説かれたものか、といふとそんな事は少しもない。孔子は寧ろ貨殖の道を説かれて居る。然かもその説くや、例の半面観的であつた処から、遂に後世学者の誤を買つたものであると考へられる。「富と貴とは、是れ人の欲する所。其道を以て得ざれば処らざる也。貧と賤とは、是れ人の悪む処。其道を以て得ざれば去らざる也。」と説いた処は、如何にも言裏に富貴を軽んじたやうに思はれるけれども、而かも是れ例の側面から謂はれたのだ。富貴に淫するものを誡められたのだ。是を以て直ちに孔子は富と貴とを厭ひ悪むとするのは、誤謬の甚しいものである。その道を以て得ざればこそ、孔子は富貴を採らぬ。其道を以て得ざればこそ、孔子は貧賤を去らんとはしない。けれども其道を得れば、富貴素より可なりどころか、孔子が富貴を軽じた処などは少しもない。
      △執鞭の賤も厭はず
 「富にして求め得べくんば、執鞭の士と雖も、我亦之を為さん。如し求むべからざれば、吾が好む処に従はん」といふのは誰れも知つて居る句だが、是れも普通には富貴を賤んだ言葉のやうに解されて居るけれども正当の見解をもつてすれば、決して富貴を卑んで居るのではない、執鞭の賤も、正当に富を得べくんば、決して厭はないといふのは、富は正々堂々と求むべきものであると説いたのだ。正当の道を求めて求め得られない場合には、是に恋々として奸悪を敢てすることは悪い。そういふ場合になれば、最早や富を顧みずして、吾が好愛する処に就かう、といふのである。孔子は富を得んが為めには、執鞭の賤しきをも厭はぬ主義であつた、といふたならば、世間の道学先生は、大いに怪むかも知らぬが、実際そうだつたのだから仕方がない。只富といふものは、絶対に正当の富である。不正の富、不当の功名は所謂「我に在つて浮雲の如し」だつたのだ。
      △これ朱子学の弊なり
 後世孔子の経解学者の中で、朱子は最も偉い見識を持て居たといふべきであらうが、孔子の富貴に関する見解丈は、大いに誤つて居る。一体に宋時代の学者は、孔子を無闇に「貨殖富貴」を卑んだものゝやうに解釈してしまつた。苛くも富を欲するものは、到底聖賢の道を行ふことが出来ぬものとして居る。
 此学風が我国に於て、最も勢力を得て居た処から、上述の誤解は、我国の一般の思想となつて仕舞つた。殊に、我一般の致富に関する道
 - 第41巻 p.396 -ページ画像 
義の念が低かつたために、富貴を欲するものは、如何にももつともな思想のやうになつたものである。朱子学は我国の国民性を作る上に、非常な貢献があつたことは、認めなければならぬが、それと同時に、致富と道徳とは、相容れないものといふ謬つた思想を、蔓延させた弊も掩ふべからざることである。
      △孔子は経世家なり
 「貨殖富貴」に関する孔子の思想を謬る根本の理由は、孔子を以て一個の道学先生と見るから起ることである。孔子は決して古い漢学者の考へて居るやうな、道徳の講釈を以つて能事とする教師ではない。彼は堂々たる経世家である。これは孔子が諸方に遊説した口吻を調べて見れば直ぐに解る事である。故福地源一郎が、嘗て孔子に関する講演を纏めて出版した事があつた。その書物に、孔子は若い中から常に政治家たる野心を持つて居て、晩年に至るまで、自己の経綸を施すべき機会を求めて東西に奔走して居た。然かも彼が一生を通じて持つて居た志望を果す機会は、不幸にしてその晩年まで得られなかつたので六十一歳にして竟に政治的野心を全然抛棄してしまつた。これより以後五年間の生活は全く子弟教育に身を委ねたのである。といふ事をいつて居るが、予もこの説には賛成である。苟くも孔子の生涯を知るものは、誰れも彼が天下の政治に志を持つて居た事を拒むものはあるまい。孔子の言説は確かに堂々たる経世家の言説である。孔子が貨殖の道をゆるがせにしなかつたのは当然の事であるが、孔子の此の本領を誤解したる後世の学者が、孔子の貨殖富貴に関する思想を正解し得なかつたのも亦当然の結果である。
      △孔子の根本思想
 是は予の一家言であるが、孔子の所謂古の聖人達は、其徳を以て其位に居た人であつた。尭・舜の如きは即ちそれである。然し孔子はその徳はあつたけれども、不運にしてその位は得なかつた。故に彼は満腔の経綸を施し得なかつたのであるが、若し孔子にして、尭・舜の如く、為政者の地に在つたならば、その経済的思想を、実際に現はしたものであらう。「大学」に於て見らるゝやうに、孔子の根本の主義は「格物致知」といふことにある。格物致知とは、事物の真相を究理して、正当の知解を得ることである。孔子が、経世の根本主義たる、貨殖の道を等閑にして政治に志をもつて居たとは、どうしても解すべからざる事である。
 近頃論語は大流行であるが、たゞ無意味に論語を読んで、旧来の如く、矢張り致富を卑しむべきものゝやうに考へられて居ては、論語の流行は実に無意味である。何んの役にも立つまい。骨董いぢりも同じ事である。論語に依つて、正義を以て富を致し、経国の道を立つる資料としてこそ、始めて論語の流行も、時勢の真要求だと謂はれることと思ふ、徒らに、論語を旧道徳の典型として、殆んど之を顧みないものに至つては、全く度す可らざるものである。古来より、偉人の言行が往々曲解されるものも沢山あるが、孔子の論語の如きは最も極端に其思想を誤り伝へられた一つである。(明治四五・一・一五)
  ○右ハ明治四十五年一月発行ノ雑誌「実業之世界」ニ掲載サレタルモノ。

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渋沢栄一 日記 大正一二年(DK410091k-0011)
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渋沢栄一 日記 大正一二年       (渋沢子爵家所蔵)
一月二十三日 晴寒
○上略
朝来三島中洲翁著ノ論語算盤説ヲ揮毫ス、朝鮮ニ居住ス《(ル脱)》宇都宮氏ヨリ論語ノ古本ヲ送リ越サレタルニ答礼スル為メナリ○下略


介眉帖 【書画帖】(DK410091k-0012)
第41巻 p.397 ページ画像

介眉帖                   (財団法人竜門社所蔵)



題論語算盤図賀渋沢男古稀 三島毅草(DK410091k-0013)
第41巻 p.397-398 ページ画像

題論語算盤図賀渋沢男古稀 三島毅草  (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
(表紙)

    題論語算盤図賀渋沢男古稀
              中洲三島毅草

      
    題論語算盤図賀
      渋沢男古稀
青淵渋沢男今玆齢届古稀。一画師作男左論語右算盤図賀之。余観之曰有此哉。請題一言以為寿。男少受論語於尾高翁。稍長与志士交。唱尊王攘夷。既而従水府公子遊西洋。脩経済学。因悟攘夷之非。帰則王政維新。擢為大蔵大丞。掌財務。一旦慨我邦商業不振。辞官而創銀行。拠論語把算盤。四方商社陸続競興。皆以男為摸範姦商黠賈蹙然屏迹。商業大振。遂応米国招。率紳商而往。巡察諸商社。大得款待而還。是皆算盤拠論語之効也。画師能知男矣。然此知一。未知其二何者。孔子為委吏。料量平。与粟周急不継富。為政足食。既庶富之。礼与其奢也寧倹。待賈沽玉。是論語中有算盤也。易起数六十四卦莫不曰利。是算盤之書。而其利皆出於義之和。与論語見利思義之説合。是算盤中有論語也。算盤与論語一而不二。男嘗語余曰。世人分論語算盤為二。是経済之所以不振。今画師二之。非深知男者也。且夫人之殀寿有定数是天
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之算盤也。然不慎疾衛生。則不能尽定数。故子所慎斉戦疾。男既奉論語。必能慎疾衛生。尽天数之寿。不止古稀。是為寿言
  明治四十二年嘉平月
               陪鶴老僲三島毅拝草時齢八十
                   


創立二十周年記念誌 斯文会長岡支部編 第二五九―二六一頁 昭和一三年一〇月刊(DK410091k-0014)
第41巻 p.398-399 ページ画像

創立二十周年記念誌 斯文会長岡支部編  第二五九―二六一頁 昭和一三年一〇月刊
 ○三六 松平楽翁公伝の頒布
    (附二)渋沢子爵と論語算盤説
 明治四十二年、青淵渋沢子爵が古稀の賀会を催された時、福島翁は子爵年来の知遇の恩に酬いる為、広く当代名士の揮毫を乞ひ、二巻の書画帖を作り、「仰止帖」と名づけて贈呈せられた。その中に、小山正太郎画伯に願はれた一枚が、深く子爵の感興を惹き、故子爵から中洲三島毅先生にも特に紹介せられ、その為に、三島先生は「論語算盤説」といふ一文を起草して子爵に贈られ、於是乎、「論語算盤」といふ商業道徳の根本精神を象徴する新熟語が生れるに至つた。小山画伯の画は、朱鞘の刀とシルクハツト、及び論語と算盤との四つを巧みに配合して描いたもので、商業の基礎を仁義の上に置いて、片手に論語片手に算盤を揮ひ、六十有余年間、わが実業界を指導せられた渋沢子爵の信念を、端的に形の上に現したのであり、小山画伯の讚には、
 論語を基礎として商事を営み、算盤を執つて士道を説く、非常の人、非常の事、非常の功。
       明治四十二年一月下浣 画於先楽山荘温薬熟処正
とあり、この画は小山画伯の心を籠めたる力作なるは勿論なるも、その創意は全く、福島翁の意匠に出でたものであり、渋沢子爵の論語講義巻二里仁第四、「子曰。富与貴。是人之所欲也。不以其道。得之不処也。貧与賤。是人之所悪也。不以其道。得之不去也」の講義の口述中には、
 算盤を把て富を図るは決して悪しき事ではないけれども、算盤の基礎を仁義の上に置かざるべからず。余は明治六年官を辞して民間に下り、実業に従事してより五十年、毫も斯信念を離れず。恰も「マホメツト」が片手に剣、片手に経文《コーラン》を振つて世界に臨んだ如くに、片手に論語、片手に算盤を振つて今日に及んだのである。余の知人に福島甲子三と云ふ人あり、越後の人であるが、敏腕なる実業家であり、同時に、論語趣味の人である。実業の根柢には仁義道徳がなければならぬ事を、深く信じて居られる。明治四十二年余が古稀七十の賀を致した際に、福島氏は二巻の書画帖を贈つて下された。当代に名ある方々が色紙に御書き下された書画を纏めた帖であり、徳川慶喜公が題辞を御書き下されてある。此画帖の中に洋画家の小山正太郎氏が銀泥の色紙に書かれた絵が一枚入つて居る。其図取が実に面白いもので、朱鞘の刀と「シルクハツト」と算盤と論語との四つをうまく配合してかいてあるのである。朱鞘の刀は余が少年の時撃剣を稽古して、武士道の心得あるを表し、「シルクハツト」は余が紳士の体面を重んじて、世に立つ心あるを表したものらしく思は
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れ、論語と算盤は、余が商売上の基礎を論語の上に置く信念を表し下されたものである。余は此図を拝見し、非常に面白く感じたので其の後、当時の東宮侍講であらせられた三島中洲先生が拙宅を御訪ね下された時に、之を御覧に入れると、先生も曾て義利合一論を起草になつたことがあるといふので、小山氏の画を見られてから、特に余の為に論語算盤説の一文を御起草になり、御自身で拙宅まで御持ちになつて、余に御贈り下された。余は中洲先生の御好意を、非常に有難く感じて御寄贈の一文は装潢して珍蔵してゐるが、先生の御説は余が平生胸中に懐く経済道徳説を、経書に依て確乎たる根拠のあるものにして下されたもので、余は論語算盤は、これによつて一層光彩を添へたやうな気がするのである。云々。
とある。蓋し、故子爵のこの口述にもあるが如くに、所謂、論語算盤説は、義利合一、または経済道徳などと、堅苦しく言ひ現されてゐた道義観念を、極めて平易率直に、且つ具体的に表現したものであり、その図取の巧妙なるは小山画伯の画才の優れたるに依ると雖も、画伯をしてこの意匠をなさしめるに至つたのは、全く翁の創意によるのであることは、既に述べた通りであつた。
 因みに、三島中洲博士の論語算盤説とは実に次の文章である。そして文中に男とあるは、渋沢子爵は当時なほ男爵たりしを以てである。
○下略


渋沢栄一翁 白石喜太郎著 第五九六―五九九頁 昭和八年一二月刊(DK410091k-0015)
第41巻 p.399-400 ページ画像

渋沢栄一翁 白石喜太郎著  第五九六―五九九頁 昭和八年一二月刊
 ○第四編 八、漢学
    その三 二松学舎
○上略
 道徳経済合一論は子爵年来の主張であり、前に記した竜門社の指導精神であつて、繰返す必要はないと思ふから、玆には再び之に触れず論語算盤のことを記して見たい。明治四十二年子爵の古稀を祝賀する為め、知人門下生等から各種各様の贈物をしたが、其中に当時東京瓦斯会社の重役であつた福島甲子三氏が贈つた介眉帖と題する書画帖があつた、中にシルクハツトと朱鞘の刀と論語と算盤とを描き、其上に「礎論語、営商事、執算盤、説士道、非常事、非常功。」と賛したのは、明治時代の洋画の大家小山正太郎であつた。絵としての価値は暫く措き、子爵の経歴と主張とを通して見て、深き興味を感じたのが三島中洲であつた。そして論語算盤説が作られたのである。その全文を掲げよう。
  ○前掲ニ付キ略ス。
 子爵がこの論語算盤説を重んじたことは更めて云ふまでもないが、後に明確に此事を自ら記したことがあるからそれを掲げて置く。
 『朶雲拝誦仕候。其後多忙に紛れ御起居も御伺不申上候処、老閣益御清適之段欣慰之至に候。小生客月末より九州中国及大阪地方巡回引続き本月廿三日之春陽丸に乗組、米国へ罷越候予定に御座候。発途前是非寸時たりとも拝眉仕度と相考居候も、種々之雑事蝟集いたし困却仕候。御心に掛けさせられ高作二首御贐被成下、真に知已の
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高賚と難有拝受仕候。名利奔競は商賈間のみに無之、挙世皆然りとも可申姿に有之、実に長大息の至に御座候。小弟決而明月之皎然たる事は難期候も、せめては自ら欺かずして人をも誤らしめざる事に心掛居申候。右に付而は、日常論語算盤説は必要にして須臾も離るべからざるものと存候。尚御奨励に従ひ一層努之覚悟に御座候。いづれ両三日中に拝趨、万可申候。匆々拝復。』
 これは三度目の渡米の途についた数日前、大正四年十月十七日付で子爵七十六歳、中洲八十六歳のときである。子爵は『桑港に於ける巴奈馬運河開通記念博覧会視察を兼ね朝野人士と会見して両国の親善を謀り且つは日曜学校や実業家と信念などの問題』を携へて渡米した。
 名利奔競の風を大息し論語算盤に及び『御奨励に従ひ一層努力之覚悟』と明記して其期念を明かにしたのであつた。かくて四年後大正八年子爵が八十歳に達したとき、中洲は左の七律を贈つて之を賀した。
 夙謝朝官伍市民。欲将財務済人群。創開垂範新銀行。大著酬恩旧将軍。遠継先賢哀此煢。常尊古論重斯文。聖言仁寿不欺我。八十康寧為世勤。
 此年五月中洲は九十の高齢を以て逝き、之が為め二松学舎の寄附行為を改正し、二松義会を廃して財団法人二松学舎を設け、理事の互選を以て、子爵を舎長に、尾立維孝を常任理事に推した。学長に中洲の息三島復、督学に土屋弘を得たが、大正十三年学長歿し、文学博士児島献吉郎を迎へ、土屋を名誉督学に、安井小太郎を督学に推した。然るに十五年五月児島が学長の任を辞し、六月土屋弘が逝いた。かくて第七高等学校教授山田準氏を迎へて学長とした。山田氏は現に教授を兼ねて同舎の為に献身的努力をして居る。昭和二年六月尾立維孝の歿後、国分三亥氏が常務理事として事務を担当して居る。



〔参考〕東京朝日新聞 第一九九〇〇号 昭和一二年三月一七日 訪支使節団歓迎 『己の欲せざる所人に施す事勿れ』 蒋介石氏・論語で挨拶(DK410091k-0016)
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東京朝日新聞  第一九九〇〇号 昭和一二年三月一七日
  訪支使節団歓迎
    『己の欲せざる所人に施す事勿れ』
      蒋介石氏・論語で挨拶
(南京特電十六日発) わが経済使節団は十六日正午王外交部長の招宴に臨み、午後四時より励志社において開かれた蒋介石氏主催の茶話会に出席した、同茶話会には我方から児玉団長以下十二名全部出席し、支那側からは王外交部長・孔財政部長・呉実業部長・張鉄道部長・愈交通部長及び貿易協会理事周作民氏外四氏等が出席和気靄々裡に懇談を重ねた、開宴に先立つて蒋介石氏は旧知の間柄である児玉団長及び父雷太氏を良く知つて居る関係から藤山氏を別室に招いて特に挨拶を交した後設けの席に現れ、非常に元気で高亜洲司長の通訳で先づ日本経済視察団一行の遠来の労を犒つてから
 今日は日本経済視察団の歓迎ではあるが、自分に取つてそんな形式的なものでなく日本における自分の大先輩、昔からの知己なる皆さんにお目にかゝつたので心から嬉しく思つて居る、丁度十年前自分は日本を訪問し、張群とともに渋沢老子爵にお目にかゝつた、その時渋沢さんは自分に論語を渡されこの本を勉強するやうにといはれ
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論語の中の「己の欲せざるところを人に施すこと勿れ」の一節を開いて、これは友人の間のみでなく広く国際関係にも適切なる金言であるから、日支両国関係もこの金言を基礎として結合して行かねばならぬ、我々も常にこの金言を服膺して居るが、この論語の言葉によつて、両国の調和を図るやうにして欲しいといはれた、自分は今までもその時渋沢さんから頂戴した論語の本を書斎に置いて、その言葉に背かないことを願つて居るが、この日支両国に取つて大事な存在だつた老子爵も今はない
とその当時を追懐しながら急にキツとなつて、高司長に渋沢さんのために三分間黙祷するやうにと命じたので、主客諸共黙祷を捧げた、黙祷が済んだ後蒋介石氏はさらに言葉を継いで
 その席上今日団長となつて来支された児玉さんもこの時居られた方であり、団員中の油谷さん又藤山さんの父君の雷太さんも居合はされた事故、この渋沢さんの言葉は今もお忘れないと思ふ、日支間には今後も尚色々問題が起るだらうが、児玉さんもこの論語の言葉に基いて両国間の調和を考へて頂きたい、自分もその通りにやつて行くつもりである、又話は違ふが、日本には昔から先輩を尊敬するといふ美風がある、これは東洋道徳の真髄であるが、この美風は吾々の大いに学ぶべき点である、まだ革命半ばでわが国の凡ゆる方面における建設をやつて行かねばならぬのであるが、此日本にのみ残つて居る東洋道徳の美風によつて使節団の御一行も我々を指導して下さる事を切望する
と述べ、一行の健康を祝した、これに対し児玉氏は御礼の言葉と共に
 私は論語読みの論語知らずで至らぬことばかりではあるが、当時渋沢さんと共に日華実業協会を創設して、渋沢さんのお考に基いて及ばずながら日支両国の提携調和といふことに努めて来たので、蒋氏の御挨拶はしみしみ我々の胸を打つものがある、渋沢さんのいはれた論語の言葉は我々も決して忘れてはゐない、我々も勿論努めるが蒋院長におかれても、この上共に、日支両国調和のために努められたい
と挨拶し、感慨深い挨拶を終つた



〔参考〕東京日日新聞 昭和一二年三月一七日 経済視察団歓迎会 蒋介石氏の重要演説 日支提携の第一歩に 我自省の要を暗示 〝維新支那〝への助力懇請(DK410091k-0017)
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東京日日新聞  昭和一二年三月一七日
  経済視察団歓迎会 蒋介石氏の重要演説
    日支提携の第一歩に
    我自省の要を暗示
      〝維新支那〝への助力懇請
(南京本社特電)(十六日発)蒋介石氏は日支経済提携問題に対し如何なる意向を持つてゐるか、又日本経済視察団にどんな期待をかけてゐるか注目されてゐたが、蒋氏は十六日午後四時南京励志社において一行歓迎の茶会を催し、その席上政治経済に関する当面の重要問題に対する八方からの質問には、巧に具体的意見の発表を避けながらも、ユーモアを交へた極めて意義ある意見を仄めかした、右茶会には児玉団長以下団員全部が出席したほか、支那側からは財政部長孔祥熙氏をは
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じめ、外交部長王寵恵氏・鉄道部長張公権氏・実業部長呉鼎昌氏・交通部長愈飛鵬氏・中日貿易協会長周作民氏・中国銀行南京支店長呉震修氏等の来会、及び駐日大使許世英氏も顔を見せるといふ最近にない盛大なものであつた、この日蒋氏は軍服を身につけ、終始にこにこ微笑しながら一行と握手を交し非常になごやかであつたが、席上の演説は極めて熱を帯び一行に力強く呼びかけた
 私は視察団の方々としてよりも古いお友達として御話したい、この席に居られる皆様には、例へば児玉団長、藤山さん等のやうにこれまでおめにかゝつた方々がゐるので非常に懐しい友達に会つたやうな気がします、日本の方にお逢ひする度毎に思ひ出すのは渋沢栄一先生のことです、私は曾つて日本留学当時先生には一方ならぬお世話を受けまして、その時先生から論語の書を貰つたが、これは今でも家にしまつておいて私の処世上の教訓としてゐます、この論語に「己の欲せざるところを人に施すことなかれ」といふ言葉があるがこの教へは非常に尊いと思つてゐます、先生は実に立派な方で、日支両国共通の繁栄のためには右の教へに従ひ両国は何等道義に恥ぢないやうに提携をなさねばならぬといふのは先生の主張であつたと信じます、そこで皆様に対しては先づ第一にこの点に思ひを致され先生と同様に支那に当られむことを希望する次第であります、古来日本は礼儀を尚び道義を重んじ、また先輩に対しては深く尊敬の念を払ふと言ふ国柄であるから、今更申上げることもないが、この機会に特に皆様に御願するわけである、また日本が明治維新を経て、今日の如く隆盛な国となつて来たが、現在の支那は恰も日本の明治維新当時の光景をたどり、皆様は日本の建国の事情にもよく通ぜられ、豊富な経験の持主であるから、この経験を惜しみなく頒ち与へられ、指導して下さるやう御願ひする、最後に本日渋沢先生を思出して実に感慨に堪へず、先生に対し皆様とゝもに一分間の御祈祷を捧げたい
と結び、出席者全部起立し心からの黙祷をした
 最後に貴視察団に贈りたきは〝仁親もつて宝となす〝といふ一句である、蓋し仁と親とは人類の感情を結び、文明の進歩を促す原動力である、われわれ同胞民族にあつてはこれが最も重要であり、願くは日支両国の実業界及び全国々民が皆この仁親善隣の点から共同努力することを希望する次第である
これに対し、児玉団長から支那側の歓迎を感謝する意味の簡単な挨拶を述べ、午後五時茶会を終つたが、十六日の演説から察するに、支那側は国交調整や、経済提携について日本がまづ反省を必要とするところがあつて、これに対して両国が初めて提携の具体的第一歩に入るべきもの、との建前を堅持する方針を明かにしたものとして注目される


〔参考〕新聞総覧 昭和一二年版 刊 ニユース鏡に映る巨人の像 渋沢栄一子に対する最近の感想 台湾日々新報主筆 大沢貞吉(DK410091k-0018)
第41巻 p.402-403 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。