デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
2節 神社
2款 諏訪神社(埼玉県)
■綱文

第41巻 p.472-488(DK410098k) ページ画像

大正5年10月1日(1916年)

是日、当神社境内ニ於テ栄一ノ喜寿碑除幕式行ハル。栄一列席シテ謝辞ヲ述ブ。


■資料

集会日時通知表 大正五年(DK410098k-0001)
第41巻 p.472 ページ画像

集会日時通知表  大正五年        (渋沢子爵家所蔵)
十月一日 日 午前六時五十分 血洗島除幕式ヘ御出向(自動車ニテ)


村社諏訪神社中興史 第二一―二二丁(DK410098k-0002)
第41巻 p.472-473 ページ画像

村社諏訪神社中興史  第二一―二二丁   (諏訪神社所蔵)
抑抑大字血洗島は武蔵国西北隅に在る一寒村なるが、大川大樹之存する所必ず何れの時代に於てか英傑を出すと古人之例令に漏れず、帝国は勿論世界之偉人として一世に名高き渋沢男爵閣下を出し、為めに閣下郷慕之念厚く指導援助之賜に依り、村民之志想改善、敬神崇祖、
 - 第41巻 p.473 -ページ画像 
公益事業、風俗習慣之改良等皆所謂理想的に着々其之歩を進め、将来益発展すべき域に達しつゝあり、是に於て村民一同閣下之恩恵深きに感激し閣下を慕ふ、さながら子之親を偲ぶが如し、何かな以て閣下に厚恩の万分之一をだに報すべき期を待ちつゝあり、時恰も閣下には齢喜寿に達するを以て、喜寿之祝を挙げ、且つ閣下之徳を後世に伝へんとし、寿碑を大字血洗島諏訪神社境内に樹てゝ後世之□□《(二字欠)》ともし、宝ともなさんと、村民一同大正四年六月十九日渋沢市郎氏宅に協議会を開き、閣下喜寿碑建設之件を議す、一同異議なく賛成可決す、其議決方法左之如し
一、血洗島一同を以て発起人とし区長を以て惣代人とす
二、男爵閣下御親族其他関係縁故者之寄附募集すること
三、血洗島に於て金五百円醵金すること
四、東京方面寄附募集 碑石撰定 撰文
 揮毫等は東京なる工学博士渋沢元治氏に依頼し直接斡旋を願ふこと


村社諏訪神社中興史 第三〇―三五丁(DK410098k-0003)
第41巻 p.473-474 ページ画像

村社諏訪神社中興史  第三〇―三五丁    (諏訪神社所蔵)
    碑表建設許可申請
      大里郡八基村大字血洗島
 一、建設之場所
  大里郡八基村大字血洗島 村社諏訪神社境内
 今般当地出身なる男爵渋沢栄一閣下喜寿に達せられたるを以て、当字一同協議之上頭書之地に建設致し、永久に閣下之徳を頌し度候間建設之儀御許可被成下度、別紙碑文建設地略図相添ひ此段申請候也
          右申請人
              八基村大字血洗島
  大正五年四月十日       区長 吉岡五郎
  深谷警察署長《(分脱)》
    埼玉県警部 朝倉音弥殿
深第九〇八号ノ一
              大里郡八基村大字血洗島
                    吉岡五郎
右大正五年四月十四《(衍)》日附大里郡八基村大字血洗島村長《(社)》諏訪神社境内碑表建設願出之件許可す
  大正五年四月十四日
        深谷警察分署長警部 朝倉音弥印
追而神社境内使用に付ては別に県庁に願出し許可を受くべし

四月十五日
 渋沢男爵閣下碑表建設願書提出之処、同月十四日附所轄深谷警察分署長朝倉音弥許可書到着、同十五日右地方長官之許可を受く可べく許可願書提出す
    神社境内地碑表建設許可願
一、碑表名称  男爵渋沢青淵翁喜寿碑
 - 第41巻 p.474 -ページ画像 
一、同上物質  小松自然石高サ九尺巾五尺厚一尺
     工費額 金弐千円也 別紙之通り
 右は当所諏訪神社境内地へ建設致度候に就ては、同形状位置図・碑石建設理由書・建碑費収支予算書等別紙之通りに有之、建設竣工之上は無条件を以て同社之所有に移すことに協定致候間御許可被成下度、所轄警察署之許可書相添此段奉願候也
  大正五年四月十七日
             大里郡八基村大字血洗島五番地
                    建設総代
                      吉岡五郎
                    神社々掌
                      根岸要三
                    氏子惣代
                      渋沢市郎
                      笠原源太郎
                      福島治三郎
    埼玉県知事 昌谷彰殿
 前書之通り相違無之候也
  大正五年四月十七日
           埼玉県大里郡八基村長 橋本八郎次
    碑表建設理由書
 男爵渋沢栄一翁は本村出身にして、愛郷心に富み、屡々巨費を投して本村之教育に村治之発展に尽瘁せらるゝこと玆に年あり、而も敬神之念深く、毎歳展墓等に帰省せらるゝや、父老故旧を忘れず、神社に詣するを常とす、為に村民及青年児童等翁之人格に接して善美なる感化を受くること多大なりと云ふべし、今年翁七十七歳の高齢に達せられたるを以て、我等有志胥謀りて、喜寿之碑を村社諏訪神社境内に建て、永く翁之徳を謳歌せんとするにあり
建碑の予算左の如し
  応募金額概算金壱千九百円也
○中略
其後数回に亘つて幹部会を開きたり
諸有志の配慮及び敬神の念にみちたる氏子一同の奉仕によりて拝殿建碑ともに日を追うて工事着々進捗し、九月二日には碑石の到着を見、越えて五日備付を終れり、拝殿の工事も十三日を以て全部終了せり、かくて来る二十七日を以て拝殿落成奉告祭を、十月一日を以て建碑除幕式を挙行することに定め、諸般の準備を整へ、区長・氏子惣代其他数名にて上京し、渋沢男爵邸其他へ御礼旁々神社拝殿新築奉告祭及び建碑除幕式に御招待申上げ、諸方へも之が案内状を発送す
○下略


渋沢男爵喜寿碑除幕式順序(DK410098k-0004)
第41巻 p.474-475 ページ画像

渋沢男爵喜寿碑除幕式順序         (吉岡来作氏所蔵)
 - 第41巻 p.475 -ページ画像 
    渋沢男爵喜寿碑除幕式順序
         (大正五年十月一日午前十時半号砲始式)
一、一同着席
一、発起人惣代挨拶
一、会計報告
一、式辞
一、学校生徒唱歌
一、除幕                  (一同起立)
一、来賓祝辞
一、渋沢男爵答辞
一、発起人惣代挨拶


渋沢青淵翁喜寿碑文(DK410098k-0005)
第41巻 p.475 ページ画像

渋沢青淵翁喜寿碑文            (渋沢子爵家所蔵)
    渋沢青淵翁喜寿碑         公爵徳川慶久題額
男爵渋沢青淵翁、今年七十七の高齢に達せられたるを以て、郷里なる八基村字血洗島の人々、碑を立てゝ、翁の徳を頌せんとして、余に文を求めらる、余訝り問ひて、翁の功績は甚大なり、村人の私すべき所ならんやといふに、人々首打掉りて否々、吾村は武蔵平野の小村ながら、翁の如き大人物を出したるを誇とすべし、翁や青年の頃村を去りて国家の為に奔走し、今は世界の偉人として内外に瞻仰せらるれども我等は尚翁を吾村の父老として親しみ慕ひ、翁も亦喜びて何くれと村の事に尽すを楽となせり、翁は嚮に八基小学校の新築と、其維持法とに就きて、多くの援助を与へ、一村の子弟をして就学の便を得しめたり、村社諏訪神社は、翁が幼少の時境内にて遊戯し、祭日には村の若者と共に、さゝらなど舞ひたる事あれば、村に帰れば先づ社に詣づるを例とし、社殿の修理にも巨資を捐てゝ父老を奨励したり、今年は翁の喜寿に当りたれば、翁を迎へて彼のさゝらを催しゝに翁は記念として拝殿を造りて寄進したり、村人は此後春秋の告賽にも、子女の婚礼にも其便を得て、敬神の念嚮学の風と相待ちて風俗の益敦厚ならんことを喜び合へり、翁が尊貴を忘れて郷閭に尽せる功徳と情愛とは、村人の深く感謝する所なりと、余此言を聞きて感じて曰く、微賤より起りて富貴を一身に聚めたる人の草深き故郷を疎かにするは世の常なり翁や世界の偉人として其故旧を忘れず父老を敬ひ青年を導く、大人にして赤子の心を失はずとは翁の謂なり、翁の行は社会の模範となすべく、翁の徳は伝へて天下の風気を振起せしむべし、余は翁の知遇を蒙る者、いかでか人々の請を辞すべけんやと、因りて其言を録すること此の如し、翁の寿の九十に躋り百歳に至るは言はんも愚なり、後世翁の徳を聞きて感奮し、翁に継ぎて与る者あらば、翁は千歳にわたりて長へに生くべきなり
  大正五年九月       文学博士 萩野由之撰
                    阪正臣書


村社諏訪神社中興史 第六六―七一丁(DK410098k-0006)
第41巻 p.475-477 ページ画像

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竜門雑誌 第三五三号・第二六―三五頁 大正六年一〇月 ○喜寿碑除幕式に於て 青淵先生(DK410098k-0007)
第41巻 p.477-484 ページ画像

竜門雑誌  第三五三号・第二六―三五頁 大正六年一〇月
    ○喜寿碑除幕式に於て
                      青淵先生
 本篇は、青淵先生の大正五年喜寿に躋られたるを祝し且高徳を頌せんが為め、先生の郷里埼玉県大里郡八基村大字血洗島の村人中心となり、同村の出身者及先生と最も深き縁故を有せる少数の人々申合せ、同地村社諏訪神社境内に喜寿碑を建立し、同年十月一日の吉日を以て、之が除幕式を執行したる際述べられたる青淵先生の演説なりとす(編者識)
 閣下・淑女・紳士諸君、老人は声が低うございますから、迚も此多数のお方々に行渡つて御挨拶は出来ませぬ、併し斯の如き喜ばしい而も身に光栄ある吉辰に当りて平生抱持する心事を申上げぬのは、如何
 - 第41巻 p.478 -ページ画像 
にも残念でございますから、所謂斃れて已むの覚悟を以て声の続く限り愚見を述べやうと思ひます。
 唯今埼玉県知事公を始めとして各位から様々の祝辞を下さいまして又当大字血洗島の区長たる吉岡五郎君から私の身上に就て丁寧なる式辞の朗読がございました、実に今日の式典は私の一身の経歴を概括したものにて、所謂有終の美を遂げしむるといふて差支ないことゝ思ふのでございます、私が此血洗島を去りましたのは、算し来ると丁度五十四年目になります、式辞若くは祝辞の中にございます如く、私は天保十一年に此村に呱々の声を揚げて、どうぞ村民として恥しからぬ人になりたいと云ふのが物心附いてからの覚悟であつた、唯幼少の時から聊か漢籍を学び、続いて世の中の形勢を知り得るからして、即古人の詩句にある如く識字従来憂患初、にて文字を知らぬと世間のことが分らぬ、世間のことが分らねば苦心もない、少々でも文字を知ると同時に当時の政事に対して心配が起る、心配が起るからこれを矯正したいといふ念が生じて、遂に我身に災害も降つて来て其極故郷を離れたのであつて、決して私が一身の栄達を求めるとか、又は大なる富を造らうと云ふやうな心を以て家を出たのではございませぬ、今日の聖代は都鄙共に誰も喜んで家業に安じて居られるけれども、嘉永・安政―続いて文久・慶応から明治になるまでの時代と云ふものは、外にしては日本の国が外国に侵略せられはしないか、内にしては階級制度の圧迫から農工商の人々は殆ど人間に伍せられぬと云ふやうな有様であつた、徳川家初代の政事に任じた人々は悪い考のみではなかつたらうけれども、三百年の泰平を致した末路と云ふものは、志ある者、国家を大切と思ふ人は到底其政事に安ずることは出来なかつた、故に私が故郷を離れて、百姓から浪人になり更に一橋公に奉公したのは、先づ政治を以て世に立たうとしたのだから、取も直さず政治家になつたのである、併し是は多数の投票に依つて代議士になるといふ様な悠長のことでなく、国家が滅亡するであらうから、微力ながらも其支柱にならうと云ふ熱情が、私をして故郷に安ずることを得せしめなかつたのであります、文久三年の十一月家を出まして、京都に上り浪人をして居ります中に、故郷に事変が生じて生死を共にしやうと誓つた友人が、過つて獄に下り、為めに自己の一身も安処を得られぬやうになつて、過刻吉岡君式辞の如く、故渋沢喜作君と共に、余儀なく節を屈して一橋公に奉公することになつた、之が私の身の一転化でございます、但し被治者即ち農民から政治家となつたのではありますが、其初念は、唯幕府を倒さうと云ふ意思であつたのが、却て幕府の連枝に仕へねばならぬといふ、事窮つて贄を取つた次第であります、其時の私の期念は同じ幕府の支族ではあるけれども、一橋公は水戸出身のお方で尊王の精神も強く且つ明君の聞えもあり、殊に宗家とは其関係も違ふから将来国家に大変乱が生ずるとも、此君なれば日本をして謂れなく滅亡に委する様な事はあるまい、所謂神州を陸沈せしむる様なお人ではなからうと云ふ依頼心をして奉公しました、処が其慶喜公が宗家を相続して将軍職に就かねばならぬと云ふことになつた、此時の私の心事は今日回想しても、実に悲惨極るもので中夜種々に憂慮して一死を期せ
 - 第41巻 p.479 -ページ画像 
しこともあつた、然るに事情再転して私は徳川民部公子に随つて欧羅巴行と云ふことに成りまして、玆に窮して変ずると云ふ有様が我身の上に来たのであります、元来私は攘夷論者でありましたけれども、西洋の物質的進歩は等閑に付するものでないと云ふだけの知識は持つて居つた、西洋の哲理は東洋の道徳に及ばぬと云ふ自負心は容易に脱却はせぬけれども、彼の物質文明は大に学ばねばならぬと云ふことは、攘夷論者たる私と雖も思はざるを得ぬ、殊に此欧羅巴行に付て益々其観念を強うした、慶応三年の冬までに各国の巡廻を終つて是より仏蘭西に於て留学をすると云ふ時期に至つて、徳川将軍は政権を返上して日本は王政復古となつたと云ふ御国の大政変を報じ来つたが、到底此儘の治平は覚束ない、終には元亀天正の時の如く、群雄割拠の乱世になりはせぬかと云ふ様子も見えたのである、而して私の三世の君主と仰ぎたる慶喜公は、朝廷に対し徳川家十五代まで継続した政権を返上して恭順を尽しても、却て逆賊になつて、王師の追討を受けると云ふことを聞及んだときは、真に自己の不幸を歎ぜざるを得なかつたのであります、仮に今日諸君が一身の事として考慮して下されても、必ず御同情なさるに相違ない、当初私の家を出ると云ふのは物好きである物好きではあるけれども国家を思ふの一念である、階級制度を破らねばならぬ、幕府の悪政を直さなければいかぬと思ふのたが廻り巡つて却て其臣僕となり、主家が倒れて、身は其家を喪つた犬の如き有様に陥つたと云ふことは、是れ程の不幸の者はなかろうと歎息したのは誰が聴いても無理とは言はぬであらうと思ふ、此に於て私は仏蘭西で様様自問自答して後に覚悟をして実に自分ほど不幸の人間はあるまい、故郷には相当なる家もあつて自身の奮励努力から、己れの一家及び村内、更に進んでは一郷一郡に於て、幾分の功績を現はし得べき身でありながら、国家が大事と思ふから親に背き家に離れ一転して国に尽す積りなりしを、前に述べますやうなる有様となつたのである、退くとせば故郷に帰つて農業をする外はないが、真逆に田圃に鋤鍬も取れぬさりとて進むに其道を得られぬ、そこで千々に思案をして、先づ政治界には世捨人とあきらめ其以外の方面に於て国に尽す手段を案じ、即ち前に申した物質文明を進めると云ふことが、将来我国に於て大に努めねばならぬ事業であると思ひ定め、此方面に微力を尽すと決心したのである、仏蘭西に滞在して居る中も言語は通ぜず学問も少なく、商工業の細かい手続を知り得る機会は得られねども、唯僅かに合本の方法、国家として公債証書発行の必要、又有価証券の流通が商業を円滑にして富を造るの原因になると云ふこと、更に他の一面には実業界と政治若くは軍事界の人々の関係が、日本の当時の有様とは全然相違して居る、日本では在官の人なれば治者の位地に居るを以て愚昧でも自尊するに之に反して実業界の人々は如何に学問才智があらうとも、官吏若くは軍人に対へば膝行頓首の有様であつた、此風習は何れが善いかと云ふことは問はずとも誰でも解る、既に物質文明を進めやうと云ふには日本の如き風習ではいかぬ、欧羅巴の如くせねばならぬと云ふことに私は深く期念したのである、明治元年の十二月仏国より帰朝すると直に駿河に赴き、合本会社を組立てゝ、物質の進歩を図ると云ふ
 - 第41巻 p.480 -ページ画像 
ことが、今後一身の処世に於て最も有益なことである、微力ながら此点に於て多少の効果を見らるゝであらうと思ふて専心之に従事する積りであつた、然るに幸か不幸か、其翌年朝廷から召されたから、是非辞退したいと思ふたが、当時の静岡藩では朝廷からの召命には病気を言立てゝ辞すると云ふことは、禍心を包蔵する如く思ひ誤られて、藩の迷惑になると云ふことから、自分で辞職するなら格別、藩からの謝絶は出来ぬと云ふので、已むを得ず、私は其年、即ち明治二年十一月大蔵省の職に就きました、但し私の覚悟が前に述べた如くであつたからして、在官中も自己の目的に拠つて、財政を整理し経済を発達せしむると云ふことには、多少努めた積りでございます、第一に貨幣制度を整理せねばならぬ、又合本制度を作らねばいかぬ、会社弁・立会略則と云ふ書物をば大蔵省に居りつヽ著作した、今日より見ると粗雑且つ浅薄のものでありますけれども、当時に在りては或は之を金科玉条と見ても宜かつたらうと思ふのであります、居ること数年にして私は専心其業に従事すべき機会が生じたのであります、それは明治六年の夏先輩故井上侯爵が、時の政府と意見を異にして、遂に官を辞すると云ふことになりましたから、数年前侯の勧告に従つて在官して居つた私であるから、共に辞職と決心して、玆に始めて籠から放たれた鳥のやうな感が致して、当初の目的に着手するやうに相成つたのであります、総じて書物は想像の通りにはいかぬもの、世の中の事は自分の企図した如くには運ばぬものである、併し仮令如何なる困難があらうとも、如何に努力を要するとも当初の目的は是非貫徹致したいと思ひましたから、其間には山もあり谷もあり、或は船の覆らんとしたこともありましたけれども、幸に自己の信ずる所を遂げたと申しても差支なからうと思ふのでございます、日本の財政を整理し経済を発達するには第一に貨幣制度が完全でなければならぬ、又金融機関が完備しなければいかぬ、運輸の方法が充分でなければならぬ、続いて工業が盛にならなければならぬ、更に企望すれば農業も完全に改良されねばならぬ、約めて申すと農工商の改良が充分に行はれて其事実が進むと同時に学理が応用されて、学問と実際は相俟つて進むと云ふことでなければ、真正の物質文明を成すことは出来ない、而してそれを完成しやうと云ふには、従事する人に充分の知識と人格とがなければいけない、従来の如く、生産殖利に従事する人、錙銖の利を扱ふ人は極めて見識の卑い、人格の賤しい人であると云ふ有様にては、真の物質文明を進める事は出来ぬ、が此人格を進めると云ふことゝ風習を改良すると云ふことゝは却々容易の業ではない、今日は之を四十年前と比較すると稍々改良されたと言ひ得るでありませう、さりながら今や全く其弊がないかと問ふたならば、否大にあると答へざるを得ぬのであります、斯く申すと自己が実業家であるから、苦情がましく聞えますけれども中夜静かに考へて見たならば、今日一般の商工業に対する待遇と、政治若くは軍事に対する待遇とは、其功労を比較して、何人が見ても公平なりとは言はぬだらう、即ち官尊民卑の旧習が未だ遺つて居ると云ふことは、此一事に就ても証拠立てられる、随て実業家の人格も向上せぬ原因となるのである、併し是は今日唯序でながらに申す愚痴であ
 - 第41巻 p.481 -ページ画像 
つて、之を四十年以前に比すると、実に別天地を為したやうに思はれますのも甚だ嗚滸がましうございますが、身自ら其位地に居つて苦心経営した効能が多少与つて力あるやうに思はれます、更に語を換へて申さうならば爾来力ある人々が相次ぎて実業界に出現した為めに、今日あるを致したものと喜悦するのであります、私は是等の後進の人々に向つて厚く感謝の意を表します、後進の人は又私に対して足下の尽力から此処に至つたと云ふでありませうが、私は反対に諸君が続々輩出して今日があるのである、私の最初の精神が一部分を達し得たのも諸君の後援であるとお礼を言はねばならぬのでございます。
 上来申述べました事柄は、私が二十四歳の時に故郷を離れてから七十七の老齢となる其間五十余年の経歴談に過ぎませぬが、長い年月の間忘却の出来ぬ故郷を自然疎々しく致したと云ふことは、真に心苦しう感じて居つたのであります、殊に私の故郷に対する観念は、我家の父母及親戚に対しても、常に心を傷めましたが、より以上に痛心したのは、此諏訪神社に対して、青年の頃に本社の改造を図つて、其頃の若い者仲間、即ち今日の青年団が此小なる血洗島にもありまして、私は其青年団の後進者として有為の少年と見られて、何事に拘らず村内の世話役を托されて居つたのである、故に神社の本殿再建に就ても、諸方を奔走して木石を買入たり又は構造の設計をしたり、種々なる世話を致しました、当時大工の棟梁に彦蔵と云ふ人がありました、今日も其家は存して居るだらうと思ひます、其頃は彦大工と通称した、此彦大工が専ら工事を担任致して、本殿の稍々出来上つて、未だ完全に至らぬ間に、一身の変化を惹起したから、神社に対しては相済まぬと思ふたけれども、工事の終局を待つては居られぬので、余儀なく国家の為めには、神社も第二第三として家を去りましたが、夫だけは深く心に懸つて居つたのであります、文久三年の冬家を離れ、明治元年の冬一時の帰省を得て其後の様子を聴きますと天下の政変は此村方に波及せざるも、或は打壊の騒動とか、凶作の継続とか云ふやうなことで村社は昔日の儘で手が着いて居らぬ、其後私は東京住居となりて度々村内の実況をも聞知し好い体裁に致したいと云ふことは、私の深く希望した所であつて、爾来或は玉垣を改修し本社に装飾を加へてこれを塗り替へる等の事を氏子総代の諸君と相談しましたが、素より微力にして大なる金員を醵出することも出来ぬけれども、同時に亦私は考へたのである、若し之を一人で処理すると、仮令村内の人々は喜んでも我氏神でないやうな感を持たれる虞がある、私が故郷を念ふ至情の為めに却て故郷の諸君が崇敬すべき神社を余所にするやうなことがあつてはならぬ、さらばと云ふて此儘に置くことは甚だ心苦しい、故に長い歳月間何かの機会に一歩々々と進め行きて本社の修理は届きましたが、さてどうも拝殿のないのが遺憾であつた、是非之に拝殿を具へたいと云ふ考から、恰も好し私が本年七十七歳になりまして、最早余年も少いから、此度大字血洗島で企図せらるゝ喜寿碑の建立と同し時に私も神社に拝殿を造営して神社の体裁を完備したならば、相俟つて神もお喜び下さるであらう、私も亦喜んで喜寿の碑を受くることゝしませうと云ふ相談をしました、氏子総代諸君も至極好い考案だと承諾せ
 - 第41巻 p.482 -ページ画像 
られ、直に其工事に着手し予期の如く竣成して、即ち頃日奉告祭も相済んだのであります、私の宿昔の望が、玆に始めて達しましたので、従来の宿望たる物質的文明を進め官尊民卑の弊を矯正すると云ふことが、五十年を経過して其効果を見たると同じ程なる喜びを以て、神社に参拝したのであります、加ふるに此拝殿を造ると共に、玆に私の喜寿を祝する為めに、斯様に沈着整頓したる寿碑を建てられた、蓋し此石碑と云ふものは、唯壮大なるも宜くない、さればとて余りに小なるも如何である、所謂其恰好を得たるものを善良とします、殊に此題額は私の三世の主君たる故興山公の令嗣即ち私に取りて是以上のお方は無いと申して宜いのでございまする、現公爵のお筆に成りましたし、又其遣文は平素お親みを厚うして居る萩野君に依つて作成せられ、全体の趣旨も適当して諸君の御注意の行届いたことを深く感謝します。私が家を出て以来五十四年目の大喜悦は今日にある、所謂喜び極つて涙を以てすると云ふ場合でございます、私も頽齢とはなりましたけれども、尚勤勉已むことなくんば今日の物質的文明を進歩せしむる事が出来得ぬでもなからうが、人は死ぬまで同じ事をするものではない、理想に依つて生くるのが趣味ある人の行動と思ひます、当初内にしては階級制度を破りたい、外にしては欧米諸国より汚辱を受けてはならぬと思ふて身を捨てゝ国難に殉ぜむとしたのも理想である、それから又翻つて物質的文明を進めて国家の富を増さねばならぬ、夫れには合本会社を起し、官尊民卑の弊を矯めねばならぬと勉めたのも理想である、斯く理想に依つて転化した私でありますが、死に至るまで同じ有様と云ふのは、理想に局限のないのである、最早余生も少ないから、物質的文明を進むると云ふ方面は直接これに当るを避け七年以前多数の関係は謝絶しましたけれども、第一銀行は尚継続するが宜からうと後進の人々から請求されて、今年までは勤務しましたが、前に述べた理由から、玆に全く引退を致したのでございます、然らば足下の将来は理想なく残年を送るかと云ふお問があつたら、私は否とお答するのであります、向後私の一の理想は精神界の改善である、蓋し物質的文明を進めるについて五十余年の勤労は多少の効果あるやうに思ひますけれども、実業家の人格が如何なる向上進歩をしたかと云ふに就ては私は未だ満足に思はぬのである、元来人は自己の知識を磨き、業務を勉強して進歩発展を心懸けねばならぬが、唯貨財を多く貯へると云ふばかりを目的としてはならぬ、総じて人たるの本能が具足して、何事も第一位に居るまでにならねば、全人とは云はれぬ、もしも国富から比較すれば現に我国は英吉利にも亜米利加にも、独逸にも及ばぬのである、吾々の目からは大分事物が進歩したと思ふけれども、未だ世界の三四位である一等国などゝ云ふのは他人の煽動で、真実左様と思ふては居られぬ、併し是は唯物質上の論である、一歩進んだ精神上、即ち日本人の人格がどうであるかと云ふに至つては、或は物質界より尚ほ下級に居ると云はれはせぬかと恐れるのである、殊に五十余年間の物質文明の進歩に其人の精神が並び進む訳にいかぬから、人は唯富其ものを愛して、自己の人格修養を忘れたと言はねばならぬ、果して然らば、物質文明を進めたのは、却て人心を腐敗壊乱せしめたと、後代
 - 第41巻 p.483 -ページ画像 
の識者に評されぬとも限らぬと思ふのであります、世間普通の有様は初代が勤倹にして貨殖し其子が平凡であつて、其孫が放蕩で浪費する蓋し祖父の貨殖が其孫の放蕩を資けて為めに其家が倒産した、近隣の人はこれを評して祖父の貨殖が斯様な孫を養成したといふことは随分度々ある例であります、此八基村にもあることなれば、国家にも又ないとは言はれぬと思ふ、故に私は玆に一の理想を掲げて、人間と云ふものは単に物質文明を進めると同時に人格を修養して精神が崇高ならねばならぬと云ふことを、老人の声が立たなくとも又如何に高声疾呼しても、世間に届かぬかは知らぬが、それこそ斃而已矣の決心を以て実現したいと思ふのでございます、私は平素好んで論語を愛読して居りますが、孔夫子の如き大聖人を目標とすべきではございませぬけれども、仮に孔夫子の経歴を思ひ起すと、其初め委吏となり、又委職吏となりて、普通の役人から身を立てた人で、続いて魯国の大夫になつたのである、「吾大夫の後に従ふを以て敢て告ずんばあらざるなり」と論語にあります、或は魯公と斉公との会合に参加し、又は少正卯といふ人の罪を糾して之を罰したこと抔は全く普通政治家の行為である、詰り孔夫子は仁義道徳に依つて物質文明を進め、周室の衰へたるを再興しやうと云ふのが終世の期念であつた、併し種々苦心勤労の後に六十八歳で魯国に還り、玆に始めて仕官を断念して、単に詩書礼楽を修め道理を説いて人間の本務を教へ以て残生を送られたやうである、此間六十八歳から御逝去の七十三歳まで、僅かに五年でありまして、余り長寿をなされた人ではない、私は既に七十七歳であります、向後物質文明のことは他人に譲りて、精神界のことに力を尽し斃而已の覚悟でございます、是に於てや第一に己れの産れた血洗島、更に進むで八基村、此八基村の少壮の諸君が今日は多くお集りになつてござるが今日八基村の物質文明が満足に進展したとは申上げませぬから、向後大に力を入れられたいと思ひます、過刻私は村役場に於て、関係ある諸君に対して詳細に愚見を申述べて置きましたから、自然来会の諸君にも伝はるであらうと思ひます、此地方の産業を進め、其富を増すことに努めると同時に、私の本領とする人格の修養にも深くお心をお用いなさるやう希望致します、果して此微衷が貫徹しますれば、私が故郷に対する報恩は、単に氏神の社殿を造営したと云ふのみに止まらぬで諸君の口碑に伝はるであらうから、先刻の式辞中に此一つの建碑は渋沢の為めではないと言はれたのは、真に私の希望を言尽されたやうに思ひます、吉岡君は亜米利加のジヤツヂ・ゲーリー氏の言を引いて述べられたが、夫だけのことは諸君の心に無くてはならぬ、否心の中にあつたばかりではいけない、総ての事は思ふと同時に行はねばならぬさりながらこれを思はんとすれば、先づ学ばなければならぬ、所謂知行合一は王学の骨子であります、知る行ふ、行ふ知る、「学んで思はざれば即ち罔し、思ふて而して学ばざれば則ち殆し」孔夫子は吾々を欺きませぬ、どうぞ此心を以て血洗島は勿論、八基村の諸君充分御精励下されたならば、物質の文明と人格の向上とが共に進み行けるであらうと思ふ。されば私が亡い後にも、此建碑は、諸君に向つて笑顔を以てお迎へ申すであらうと思ひます、玆に衷情を披瀝して答辞と致し
 - 第41巻 p.484 -ページ画像 
ます。


竜門雑誌 第三四一号・第七三―七四頁 大正五年一〇月 ○青淵先生喜寿碑除幕式(DK410098k-0008)
第41巻 p.484 ページ画像

竜門雑誌  第三四一号・第七三―七四頁 大正五年一〇月
○青淵先生喜寿碑除幕式 青淵先生の出生地たる埼玉県大里郡八基村大字血洗島の村人中心となり、同村の出身者及先生と最も深き縁故を有せらるゝ少数の人々申合せ先生の本年喜寿に躋られたるを機とし其徳を頌せんとて、同村鎮守諏訪神社境内に喜寿碑を建立し、十月一日の吉日を卜して除幕式を挙行せられたり。当日の参列者は昌谷埼玉県知事、島崎大里郡長、八基村及隣村各村長及名誉職員、又東京よりは青淵先生、同令息武之助、同正雄、同秀雄、令孫敬三、同信雄、同智雄、穂積男爵、同令夫人、同令息重遠、阪谷男爵令息希一、渋沢元治明石照男諸氏及佐々木勇之助、尾高幸五郎、尾高次郎、八十島親徳、石井健吾、渋沢義一、諸井恒平、吉岡新五郎、桃井可雄、渋沢虎雄、増田明六諸氏並に萩野博士等にして式は午前十一時に始まり、発起人総代として渋沢治太郎氏の挨拶、増田明六氏の会計報告に次いで吉岡五郎氏の式辞、八基小学生徒の「仰げば高し」の唱歌あり、斯くて喜寿碑は嫡孫敬三氏の手に依て除幕せられ、来賓昌谷知事、島崎郡長、八基村長、中瀬村長、八基村小学校長諸氏の祝辞あり次いで青淵先生の答辞、発起人総代渋沢治太郎氏の挨拶ありて式を終へたり。碑の高さは一丈幅五尺、題額は公爵徳川慶久氏、撰文は文学博士萩野由之氏書は阪正臣氏(題紙参照)の執筆に係るものにて当日村人は先生の高徳を慕うて一同稼業を休み老若男女共に先生の建碑を喜ばざるはなく又其の温容に接せんとて十重廿重に式場を取囲み瑞気境内に溢れていとゞ床かりしとなり。
碑文は左の如し
  ○前掲ニ付略ス。


中外商業新報 第一〇九四八号 大正五年一〇月二日 ○喜寿碑除幕式 渋沢男の出生地埼玉県血洗島で(DK410098k-0009)
第41巻 p.484-485 ページ画像

中外商業新報  第一〇九四八号 大正五年一〇月二日
    ○喜寿碑除幕式
      渋沢男の出生地
      埼玉県血洗島で
渋沢男爵の出生地たる埼玉県大里郡八基村字血洗島で、男爵の喜寿を祝福すべく同男の喜寿碑と云ふが鎮守諏訪社の境内に建てられた、喜寿碑は諏訪社の
△壮麗なる新築 拝殿に向つて左手に建られ、十月一日の吉日を卜して除幕式を挙げられたのである、当日は昌谷埼玉県知事、島崎大里郡長、八基村同隣村の当路者を始め東京から穂積男爵・令夫人・同令息阪谷男爵の令息希一氏・佐々木第一銀行頭取・石井同総支配人・八十島親徳・尾高定四郎・同幸五郎・諸井恒平・渋沢義一・増田明六・桃井可雄氏・萩野由之博士等で
△午前十一時 に式が始まり、渋沢治太郎氏の挨拶、増田明六氏の会計報告に次で、昌谷知事・島崎郡長、其他八基村長・中瀬村長・八基村小学校長・血洗島区長等の式辞と祝辞があつて渋沢男の答辞となつた、五十四年前男が廿四才の文久三年に故郷を出で国事に奔走された
 - 第41巻 p.485 -ページ画像 
事から、一度大蔵省に大輔となり転じて実業界に入り仏国留学中の見聞を実行すべく物質的文明に一身を委ねた事から
△官尊民卑の 弊を矯正するに貢献された古事を述べられ、一同に非常なる感動を与えた、是れに先だち八基小学生徒の仰げば高しの唱歌があつて、男の喜寿碑は男の令孫敬三氏の手によつて除幕せられた、碑の高さは一丈で幅四尺、徒らに壮観でなく徒らに貧弱に陥らず中庸を得たもので、男は此建碑に対し思ひ出多き涙を以て感謝せられ、村人は又限りなき男の徳望を慕ふて此日は態々稼業を休み
△老若男女共 に男の建碑を祝し、又男の温容に接せんとて十重二十重と式場に集まつた、斯くて儀式は午後二時に至つて済んだ、因に渋沢男は一日の夜を故郷の旧家に過ごし二日熊谷の高城神社の昇格祭に列し其日の午後帰京されるとの事である


村社諏訪神社中興史 第六二―六六丁(DK410098k-0010)
第41巻 p.485-487 ページ画像

村社諏訪神社中興史  第六二―六六丁    (諏訪神社所蔵)
    男爵渋沢青淵翁喜寿碑建設寄附者
一金五百円也 大字血洗島 内訳左ノ如し
 一金参拾円也            福島治三郎
 一金弐拾円也            渋沢保太郎
 一金弐拾円也            吉岡平三郎
 一金拾五円也            吉岡五郎
 一金拾円也             笠原宗九郎
 一金五円也             吉岡政五郎
 一金五円也             笠原栄太郎
 一金拾弐円也            渋沢栄三郎
 一金参円也             吉岡由五郎
 一金弐円也             吉岡和三郎
 一金弐円也             吉岡吉太郎
 一金壱円五拾銭也          吉岡作太郎
 一金壱円五拾銭也          神藤庄右ヱ門
 一金壱円也             梶野辰五郎
 一金壱円也             菊地忠作
 一金参円也             福島政次郎
 一金八円也             設楽彦太郎
 一金弐円也             渋沢市五郎
 一金壱円五拾銭也          木村律三
 一金弐円也             渋沢音五郎
 一金五拾銭也            設楽金四郎
 一金五拾銭也            原田甚作
 一金弐円也             川田仲次郎
 一金五円也             林文一
 一金五円也             吉岡惣四郎
 一金六円也             吉岡平次
 一金参円也             渋沢徳次郎
 一金壱円也             白石半次郎
 - 第41巻 p.486 -ページ画像 
 一金参円也             渋沢喜代五郎
 一金五円也             渋沢新一郎
 一金七円也             渋沢政吉
 一金弐円五拾銭也          渋沢久吉
 一金七円也             渋沢惣吉
 一金七円也             渋沢周三郎
 一金六円也             吉岡幾太郎
 一金参円也             関口久蔵
 一金参円也             福島常五郎
 一金拾円也             福島作太郎
 一金参円也             吉岡清三郎
 一金弐円也             福島長五郎
 一金拾円也             福島平四郎
 一金四円也             安沢与作
 一金壱円五拾銭也          白井茂平次
 一金参円也             吉岡滝次郎
 一金四円也             吉岡亀五郎
 一金弐円也             渋沢今吉
 一金壱円五拾銭也          富田音五郎
 一金弐円也             大林重太郎
 一金弐円也             吉岡滝太郎
 一金弐円也             吉岡卯三郎
 一金壱円五拾銭也          福島牧次郎
 一金五円也             林駒吉
 一金拾円也             渋沢文平
 一金五円也             渋沢雄四郎
 一金参円也             吉岡弥市
 一金参円也             渋沢道太郎
 一金参円也             安沢藤七
 一金壱円五拾銭也          水野胸之助
 一金壱円也             設楽惣十郎
 一金壱円五拾銭也          真下五三郎
 一金拾五円也            笠原源太郎
 一金八円也             笠原三九郎
 一金拾五円也            吉岡幸作
 一金壱円也             新井伊三郎
 一金壱円也             五十嵐録之助
 一金拾円也             渋沢とく
 一金弐円也             飯田智恵吉
        以上
 一金壱百円也            八基村
 一金壱百円也            渋沢市郎
 一金壱百円也            渋沢元治
 一金壱百円也            渋沢義一
 - 第41巻 p.487 -ページ画像 
 一金壱百円也            尾高幸五郎
 一金壱百円也            尾高次郎
 一金壱百円也            吉岡新五郎
 一金壱百円也            大川平三郎
 一金壱百円也            田中栄八郎
 一金壱百円也            諸井恒平
 一金壱百円也            佐々木勇之助
 一金壱百円也            石井健吾
 一金壱百円也            八十島親徳
 一金壱百円也            穂積歌子
 一金五拾円也            桃井可雄
 一金参拾円也            須永登三郎
 一金五拾円也            渋沢治太郎
 一金拾円也             福島三郎四郎
 一金参拾円也            増田明六
 一金拾円也             渋沢長康
 一金拾円也             渋沢虎雄
 一金参拾円也            高橋波太郎
 一金参拾円也            芝崎確次郎
 一金拾五円也            尾高定四郎
 一金参円也             尾高治三郎
 一金弐円也             瀬川太平治
 一金参円也             大亦熊枝
 一金五円也             町田勘十郎
 一金五円也             森田喜四郎
 一金五円也             高田イシ
 一金弐円也             土橋みさ
 一金拾円也             須永一郎
 一金弐円也             久保田三七吉
 一金拾円也             田村文太郎



〔参考〕集会日時通知表 大正六年(DK410098k-0011)
第41巻 p.487 ページ画像

集会日時通知表  大正六年       (渋沢子爵家所蔵)
九月廿七日 木 午前八時五一分血洗島へ御出向(王子駅)
        御一泊
  廿八日 金 午前十一時五〇分血洗島ヨリ御帰邸(王子駅)



〔参考〕集会日時通知表 大正七年(DK410098k-0012)
第41巻 p.487 ページ画像

集会日時通知表  大正七年       (渋沢子爵家所蔵)
九月廿七日 金 午前八時血洗島へ御出向(自動車ニテ御出発ノ予定)
  廿八日 土 血洗島ヨリ御帰京



〔参考〕集会日時通知表 大正八年(DK410098k-0013)
第41巻 p.487-488 ページ画像

集会日時通知表  大正八年       (渋沢子爵家所蔵)
九月廿七日 土 午前七時五十三分血洗島へ御出向(王子駅発)
       御一泊
 - 第41巻 p.488 -ページ画像 
  廿八日 日 午後三時三十五分血洗島ヨリ御帰京(王子駅)



〔参考〕集会日時通知表 大正九年(DK410098k-0014)
第41巻 p.488 ページ画像

集会日時通知表  大正九年       (渋沢子爵家所蔵)
九月廿六日 日 午前十時頃御郷里へ御出向
        故福島翁建碑除幕式
        血洗島ニ御一泊
  廿七日 月 血洗島ヘ御一泊
  廿八日 火 血洗島ヨリ御帰京
  ○右ノ月日ハ毎年当神社ノ祭礼日ニ当ル。